【短編小説】静謐の白百合、邂逅の黒薔薇(約7,000字)

藍埜佑(あいのたすく)

【短編小説】静謐の白百合、邂逅の黒薔薇(約7,000字)

●第1章 匂いの喪失


 その朝は、いつもと変わらない朝だった。

 窓から差し込む春の柔らかな光が、白いレースのカーテンを透かして室内を優しく照らしていた。椎名月子は目覚めると同時に、何かが違うと感じた。それが何なのか、すぐには分からなかった。


 ベッドから起き上がり、いつものように台所へ向かう。コーヒーを淹れようとドリップバッグを開けた瞬間、月子は違和感の正体に気づいた。


「香りが……ない」


 言葉が、乾いた空気の中でかすかに震えた。


 挽きたてのコーヒーの香り。それは夫の篤史(あつし)との朝の日課だった。


 五年前、月子は初めて篤史とこの家で朝を迎えた時、彼が淹れてくれたコーヒーの香りに魅了された。それ以来、二人で過ごす朝には必ずコーヒーを淹れることが習慣となっていた。


 しかし今、その香りを感じることができない。


 月子は慌ててキッチンの引き出しを開け、ヴァニラのエッセンスを取り出した。蓋を開けて鼻先に近づける。何も感じない。シナモン、ナツメグ、それから柑橘系のフレーバーオイル。次々と試すが、すべて無駄だった。


 愛猫のコマが甘えるような声を上げながら台所に入ってきた。


「おはよう、コマ」


 月子は猫の頭を優しく撫でながら、餌皿に猫用フードを注ぎ入れた。普段なら少し鼻について気になる猫フードの匂いも、今は何も感じない。


 窓際に置かれた花瓶に目をやる。白百合と黒薔薇が、静かに凛として佇んでいた。これらの花は篤史が大切にしていたもので、彼はよく「白百合は純粋な愛を、黒薔薇は永遠の愛を表すんだ」と語っていた。


 月子は花瓶に近づき、白百合の花に顔を寄せた。かすかな甘い香りを期待して深く息を吸い込んだが、何も感じることはできなかった。


「ねえ、篤史……あなたはこんな風に香りを失うことはなかったわね」


 篤史は新型ウイルスに感染してから、わずか二週間で逝ってしまった。発症から重症化までが急激で、月子が心の準備をする暇もなかった。


 それから一年。月子は何とか日常を取り戻そうとしていた。しかし、この匂いの喪失は、まるで篤史との思い出までも奪い去ろうとしているかのようだった。


 朝食を作る気力も失せ、月子は白いソファに身を沈めた。コマが膝の上に飛び乗ってきて、心配そうに月子の顔を見上げる。


「大丈夫よ、コマ。ただ少し、具合が悪いだけ」


 その言葉が、自分自身を慰めるためのものなのか、コマに向けられたものなのか、月子にも分からなかった。


 医師に相談すべきだろうか。しかし、それは何を意味するのだろう。ウイルスの後遺症? それとも、精神的な何か? 考えれば考えるほど、答えが見つからない。


 月子は立ち上がり、窓を開けた。春の風が部屋に流れ込んでくる。桜の花びらが舞い、窓辺に備えられた白百合と黒薔薇が、かすかに揺れた。


 かつてなら、春の訪れを香りで感じることができただろう。しかし今は、ただ視覚的な美しさだけが、季節の移ろいを伝えている。


「これも、あなたに近づくための一歩なのかしら」


 月子は花に水をやりながら、ふとそう思った。五感の一つを失うということは、この世界との繋がりが一つ消えていくということ。そして、もしかしたら、あの世との距離が少しだけ縮まるということなのかもしれない。


 その考えは、不思議と月子を慰めた。


●第2章 触覚の消失


 それは、コマを撫でている時に気づいた変化だった。


 いつものように柔らかな毛並みのはずなのに、指先に何の感触も伝わってこない。月子は慌ててコマの背中に手のひら全体を当ててみた。それでも、温もりも、毛並みの感触も感じることができない。


「どうして……」


 月子は自分の腕をつねってみた。痛みも、皮膚の感触も何も感じない。シャワーを浴びても、湯の温かさを感じることができない。タオルで体を拭く時の布の感触も、髪を梳かすブラシの感覚も、すべて消え失せていた。


 白百合の花びらに触れても、その絹のような感触はもう存在しない。黒薔薇の茎に指を刺されても、痛みを感じることはない。


 月子は、自分の体が少しずつ世界から切り離されていく感覚に襲われた。


「私、このまま消えていってしまうのかしら」


 その言葉は、誰に向けられたものでもなかった。ただ、静かな空気の中に溶けていった。


 窓の外では、春の陽光が煌めいていた。桜の花びらが風に舞い、白百合と黒薔薇の上にも、そっと舞い降りる。その光景は美しく、まるで絵画のようだった。しかし、月子にはもう、花びらの感触を確かめることができない。


 コマが心配そうに鳴きながら、月子の足元に擦り寄ってきた。


「ごめんね、コマ。今日はあまり構ってあげられないわ」


 触覚を失った今、コマの存在を確認できるのは、視覚と聴覚だけ。それでも、愛猫の優しい眼差しは、月子の心を温かく包み込んだ。


 夜、月子はベッドに横たわりながら、篤史との思い出を振り返っていた。


 結婚して間もない頃、休日の朝は必ず二人で寄り添いながら目覚めた。篤史の温もりと、彼の腕の中で感じる安心感。それらはもう、二度と味わうことのできない感覚となってしまった。


 月子は枕に顔を埋めた。涙が頬を伝うのを感じることもできない。


「あなたが最期に私の手を握ってくれた時の感触も、もう思い出せないわ」


 言葉にした瞬間、胸が締め付けられるような痛みを覚えた。しかし、それは物理的な痛みではなく、心の痛みだった。触覚は失われても、感情はまだ鮮明に残っている。


 翌朝、月子は白百合と黒薔薇に水をやりながら、ふと気づいた。触覚を失ったことで、むしろ視覚は鋭くなったような気がする。花びらの一枚一枚の形、茎の曲線、葉脈のパターン。これまで気づかなかった細部が、より鮮明に見えるようになっていた。


「失うことは、新しい発見をもたらすのかもしれないわね」


 月子は、そう考えることで自分を慰めようとした。しかし、その言葉の裏には、まだ見ぬ喪失への不安が潜んでいた。


●第3章 音の静寂


 世界が音を失ったのは、春の終わりが近づいた頃だった。


 月子が目を覚ました時、部屋は異様な静けさに包まれていた。時計の秒針の音も、外から聞こえるはずの鳥の声も、すべて消えていた。


 慌てて起き上がり、テレビのスイッチを入れる。画面は映るが、音は聞こえない。スマートフォンで音楽を再生しても、まったく音が届かない。


 そして、自分の声さえも聞こえなくなっていた。


「コマ?」


 月子は声を出してみたが、それは無音の空間に吸い込まれていくだけだった。


 愛猫のコマが、いつものように甘えるような様子で近づいてきた。口を開けて鳴いているのが見えるのに、その声は月子の耳には届かない。


 静寂。

 完全な静寂。


 それは月子にとって、新しい世界との出会いだった。匂いを失い、触覚を失い、そして今、音までも失った。しかし、不思議なことに、恐怖は感じなかった。


 むしろ、この静けさには心地よさがあった。


 外の世界との繋がりが一つ減るたびに、月子は内なる世界へとより深く沈んでいくような感覚を覚えた。そこには、篤史との思い出が、より鮮やかに存在していた。


 白百合と黒薔薇は、いつもと変わらず窓辺で静かに咲いている。風に揺れる様子は見えるのに、その音は聞こえない。しかし、その無音の動きには、これまでにない優雅さがあった。


「まるでスローモーションの映像のよう」


 月子はつぶやいた。自分の声が聞こえなくても、言葉を発することで、まだ自分がここに存在していることを確認できた。


 一日が過ぎていく。

 テレビも、電話も、人々の声も、すべてが無音の世界。

 しかし、その静寂は月子を包み込み、守ってくれるようだった。


 夜になり、月子はベッドに横たわった。周りの音が消えることで、むしろ記憶の中の音は鮮明になった。篤史の声、笑い声、二人で聴いた音楽、雨の音、風の音。


「こんなにはっきりとあなたの声を思い出せるなんて」


 月子は目を閉じた。暗闇と静寂の中で、篤史との思い出がより生き生きと蘇ってくる。それは、まるで記憶の映画館で、無音の映像を見ているかのようだった。


 コマが月子の隣に寄り添って眠りについた。その温もりは感じられないが、存在そのものが心強かった。


 朝がきた。

 光が窓から差し込み、新しい一日の始まりを告げる。

 音のない世界で、月子は白百合と黒薔薇に水をやった。花たちは、静かにその水を受け入れる。


「このまま世界が静かでいてくれたら、それも悪くないわ」


 月子はそう思った。しかし、その心の奥底では、まだ失われていない感覚が、次はいつ消えてしまうのかという不安が、静かに潜んでいた。


 それでも、月子は日々の営みを続けた。コマの世話をし、花に水をやり、時には本を読む。音のない世界は、彼女に新しい気づきをもたらしていた。


 人は、失うことで何かを得る。

 それは残酷な真実かもしれないが、同時に希望でもあった。


●第4章 光の消滅


 その日の朝は、いつもより暗く感じた。

 月子は最初、まだ夜明け前なのだと思った。しかし、時計を見ると、すでに午前十時を回っていた。


 カーテンを開け、窓の外を見る。そこには光があるはずなのに、月子の目には闇しか映らなかった。


「ああ、ついに来たのね」


 月子の声は、聞こえない静寂の中に溶けていった。


 視覚の喪失は、これまでの感覚の喪失とは違った衝撃をもたらした。世界との最後の繋がりが断ち切られたような感覚。それは、恐怖であると同時に、ある種の解放感でもあった。


「コマ、どこにいるの?」


 手探りで部屋の中を歩く。家具にぶつからないよう、慎重に一歩一歩進む。触覚がないため、物に触れても感触は分からない。ただ、抵抗があることだけが分かる。


 白百合と黒薔薇は見えないが、窓辺にあることは分かっていた。しかし、水をやるのは難しい。


「どうすれば、あなたたちに水をあげられるかしら」


 月子は思案した。そして、ペットボトルに水を入れ、ゆっくりと注ぐことにした。溢れても感じることはできないが、それでも、花たちは確かにそこにいる。


 時間の感覚が曖昧になっていく。昼と夜の区別も、もはや意味をなさない。ただ、肌に感じる陽の暖かさだけが、かすかに時を告げていた。


 そして、その暗闇の中で、月子は気づいた。

 視覚を失ったことで、むしろ記憶の中の映像が鮮明になっていることに。


 篤史の笑顔。

 初めて出会った日の表情。

 プロポーズの時の緊張した横顔。

 病室で最期に見せた穏やかな寝顔。


 それらは、まるでスクリーンに映し出されるように、闇の中で鮮やかに蘇った。


●第5章 再生の花


 どれくらいの時が過ぎただろう。

 月子の意識は、ゆっくりと変容していった。


 匂いも、触覚も、音も、光も失った世界。しかし、そこには新しい感覚が生まれていた。


 それは、存在そのものを感じる感覚。


 ある朝、月子は気づいた。自分の体が、まるで植物のように光を感じていることに。視覚では捉えられない光を、皮膚全体で感じ取っている。


「私、花になったのかもしれない」


 その思考は、もはや言葉としては発せられず、意識の中でそっと開花した。


 そして、その瞬間。

 月子は感じた。


 優しい水の感触。

 それは、誰かが注いでくれる水。

 懐かしい気配。


(篤史……?)


 意識は、茎となって地中深く伸び、花となって空へと伸びていく。

 白百合でもなく、黒薔薇でもない。

 けれど確かに、花となった。


 そこには篤史がいた。

 いつものように優しく微笑みながら、水を注いでくれる。


 これは夢なのか、現実なのか、それとも死後の世界なのか。

 もはやそれは重要ではなかった。


 月子は、花となって咲き続ける。

 永遠に、この瞬間の中で。


●エピローグ


 窓辺には、三輪の花が静かに佇んでいた。

 白百合と黒薔薇。

 そして、その間に咲く一輪の、名前のない花。


 コマは、その花に寄り添うように眠っている。

 陽の光が差し込み、花びらを透かして美しい影を作る。


 時は静かに流れ、

 花は永遠に咲き続ける。

 そこには、永遠の愛が宿っている。


(終わり)

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