珈琲と煙草と君と

由佐さつき

第1話

 どこか明度を落とした景色に、ふわりふわりと二酸化炭素が伸びていく。この土地を離れてまだ三年しか経っていないはずなのに、吐息の滲む風景はなんだか知らないもののように思えてしまった。

 はぁ、と男はもう一度溜息を吐き出して、忍び寄ってくる寒さに肩を竦める。今日は暖房の効いた室内にばかりいるものだと油断してマフラーを置いてきたが、こんなにも早くあの煌びやかな空間から逃げ出してしまうなんて。とんだ誤算だったな、と呟きながらも、あの白と金色と僅かばかりの緑が溶ける場所は疲労しか運んでこなかった。

 男は重くなる足取りをなんとか動かし、ようやく見えた外観にほっと息をつく。記憶にあるよりも外壁を這う蔦は長さと量を増してはいたが、大学生の頃に通い詰めたまま、色褪せることもなく営業を続けていた。

 欅を使っているらしい重厚な扉を押すと、隙間から広がってくるのは深く渋いコーヒーの香り。大きな窓からはたくさんの太陽光が入ってくるからか、ぶら下がる照明はごく僅かな光量に絞られていた。

 男が週に何度も通っていた喫茶店は、変わらない姿で迎え入れてくれる。扉に付けられた鐘が軽やかな音色を奏で、カウンターに立つ初老の男性に客の来店を告げた。

「いらっしゃいませ」

 にこりと微笑む初老の男性に、男は目を見開いた。数年前は焦げ茶まじりの黒い髪の毛をしていたのに、今ではもう見事なまでのロマンスグレーだ。それでもその優し気な顔立ちと、落ち着いた声音は変わっていない。

 男はぺこりと小さく頭を下げ、カウンターの真ん中へと腰を据える。五席あるカウンターのちょうど真ん中は男の定位置であり、喫茶店に寄るには中途半端な時間であるからか他に客の姿はない。遠慮なく常連時代の定位置へと座らせてもらい、着込んでいたコートを隣に置いた。

「お久し振りですね」

「憶えていてくれたんですね」

 何よりも先に灰皿を出してくれた初老の男性、もといオーナーの言葉に男はもう一度目を見開いた。学生の頃は好きに髪の毛を伸ばしたり染めたり、服装ももっと若者らしい洒落たものを着ていたから、分かってくれるとは思っていなかったのだ。

 記憶の中にいるよりも皺が濃くなったオーナーは特に何も返してはこなかったが、その言葉少なに立つ姿が何よりも映える。一人で来ても誰かと来ても向こうから話しかけてくることは少なく、付かず離れずに言葉を交わしてくれる存在の心地良さに若い頃は随分と救われた。

「ブレンドをお願いします」

「かしこまりました」

 何百杯と飲んだであろういつものコーヒーを注文し、男は内ポケットに入れていた煙草を取り出す。毎年のように値上がりをするおかげで一日に吸う本数は学生時代と比べて半分に落ちはしたが、禁煙するまでには至っていない。二十歳になったその日に緊張しながらコンビニで買った銘柄は六百円台に突入してしまったが、最近出てきた安い銘柄や電子タバコに変える気にはならなかった。

 十ミリのボックス。深い紺色のパッケージを気になって選んだものだが、吸い慣れないときでも甘さの滲む風味や香りが好きで、他の銘柄に浮気したことは一度もない。この煙草のおかげか、自分で選ぶスーツの色はどうしてもネイビーばかりになってしまうのが難点だが。

 今日着ているちょっと値の張るスーツも、鮮やかなネイビーに同系色の細いストライプが入ったデザインだ。気合いの入る商談や酒の席にと購入したものだが、結婚式でも使えていい買い物をしたな、と自画自賛してしまう。

 煙草のケースに押されて内ポケットの下にねじ込まれてしまったライターを取り出そうとして、ふと視界に入り込んできたネクタイにぐっと喉の奥が締まった。

 晴れの席だから、と合わせたネクタイは光沢のある薄いピンク色。色味だけで選んでしまったものだが、会場に着いてからやってしまった、と頭を抱えた。

 このネクタイは、元カノが就職祝いにとプレゼントしてくれたものだ。派手過ぎやしないかと眉根を寄せた男に、彼女はこれくらい華がないとね、と楽しそうに笑っていたのをはっきりと憶えている。

 だけれど、このネクタイを贈ってくれたのは今日の結婚式で華やかなウェディングドレスに身を包んでいた花嫁なのだ。ふわりと広がる真っ白なドレスに、何種類使っているのだろうかと不思議になるくらいに大きなブーケ。化粧が崩れないようにと、口元を隠すように小さく、でも最初から最後までずっと幸せそうに笑っていた、かつて自分と未来を語った女性。

 男は取り出した煙草の横にジッポライターを放り出して、深い溜息を吐き出した。就職してすぐに別れてしまった彼女に未練はないが、それでも苦い感情が胸の内にぐるぐると渦巻いていく。

 結婚式の案内が届いて、迷いなく出席に丸をつけるくらいの関係性は保っている。会場に着くまではおめでとうと相手の幸せを願う気持ちは確かにあったし、彼女の横で照れくさそうに笑う見知らぬ男性を憎く思う感情もない。だけれど、やっぱりどこか居心地の悪さは感じてしまった。

 だから、二次会には参加せず逃げるようにこの場所へとやって来た。こじんまりとした馴染みの喫茶店で、いつものコーヒーを飲みながらゆっくりと煙草が吸いたい。それだけを思って結婚式場から三十分の距離を歩いてきた。

 それなのに、たかがネクタイ一つで思考が三年前に戻ってしまう。自分の隣で可笑しそうに大きく口を開いて笑っていた彼女の姿に、男は奥歯を噛み締めた。

 少しずつ沈んでいく思考に、煙草を吸おうと深呼吸をする。伏せていた瞼を上げ、身体の左右に垂らしていた腕を持ち上げる。ふ、と感じた視線に瞳を向ければ、右の手のひらにマッチの箱を乗せたオーナーが映った。

「オイルライターに変えられたんですね」

 何も言わずに灰皿を出してくれたくらいだ。男が喫煙者であることも、お金がないからと喫茶店の名前が入っているマッチを来るたびにもらっていたことも憶えてくれていたのだろう。

 無造作に転がったジッポライターに視線を落とし、男は眉尻を下げて鼻の頭を掻いた。少なくとも週に一度は必ず訪れていた客に毎度マッチを強請られて、それでも毎度快く箱のまま与えてくれていたことに、当時はおざなりな感謝しか伝えていなかったように思う。

「初任給で買いました。似合わないでしょうけど、背伸びしたかったんです」

 社会人になって、自分の稼いだお金で生活するようになって、これで自分はもう大人なのだと格好付けていた自覚はある。それでもアルバイトの給料では見ることのなかった額が口座に入り、それはもうめちゃくちゃに嬉しかったのだ。

 吸い始めたときからずっとマッチを燃やしていたおかげで、いまだにオイルライターで点ける煙草には慣れてくれない。それでも意地のようにこれを使い続けているのは、自分は大人であるのだと他ならぬ自分自身に言い聞かせているのだ。

「大人になるのは、難しいですよ。私は今年で六十を越しましたが、まだまだ真似事をしている途中だと日々感じます」

 オーナーは手にしていたマッチの箱をカウンターに置き、沸騰するやかんの火を止める。さっと筆で刷いたように柔らかなひかりが真っ白に染まる髪の毛を照らし、きらきらとまるでオーナーが光っているように輝きが散る。

 茶色っぽい色味で統一された店内で、オーナーだけが色を持っているみたいだ。それはさっきまでいた目に痛いばかりの白い空間とは違い、よく晴れた木陰のような温かさがあった。

「それでも、いいじゃないかと私は思うんですよ。そうなりたいと思って努力して、見栄張って、真似事に勤しんで。そうしていつか自分の思う大人になれたら、それでいいと思いますよ」

 ペーパーフィルターで淹れるコーヒーはこの店の特徴で、サイフォンなんかの機材はない。田舎のおばあちゃん家にありそうな昔ながらのやかんで円を描きながら、一杯のコーヒーを淹れていく。静かに掛かるBGMにゆっくりとのぼっていくコーヒーの香りが混ざり、そこにオーナーの言葉がじっくりと沁みた。

 どんな大人になりたいか、と聞かれてもきっと何も答えられない。名の知れた企業に就職して、自分の稼ぎで生活をして、結婚して子どもが出来て。漠然とした未来を語る相手がいなくなった途端に不安を覚えた自分が恥ずかしくなって、焦るように背伸びの象徴としてジッポライターを買った。

 転がったままのライターを持ち上げ、オレンジがかったひかりを反射するデザインを見つめる。つるりとした表面のシンプルなものも勿論あったが、一目見てこれだ、と迷うことなく手にしていた。

 撫でると指の腹にでこぼこと当たるのは、彫刻で表現された蔦や葉だ。シルバー一色で色味はないはずなのに、浮き出た植物はオレンジにも茶色にも見える。デザインのことなんて何も分からないのに迷わなかったのは、きっと無意識の内にこの喫茶店を重ねていたのだろう。

「素敵なデザインですね」

 淹れ終わった一杯のブレンドコーヒーが、そっと目の前に出される。何十種類もあるマグカップは客の好みだったり、常連の持ち込みだったりと様々だが、通っていた大学生の頃から変わらず、男には白地にコーヒー豆の描かれたものが選ばれた。

 高校生の頃からずっとアルバイトはしていたが、やはり正社員として働くのは大変で、ずっと仕事に追われているような毎日を過ごしていた。休みの日も仕事に関する勉強をしたり、上司に付き合ってゴルフに行ったり、こんなにも落ち着いてコーヒーを飲むなんてずっと出来ていない。

 不安が先に立ったおかげで、思い返す事柄もなんだか辛いことばかりだったように思う。就活が大変だった、卒論で忙しかった、大好きだった彼女と別れてしまった。そんなことだけを思い返していたが、楽しかったことも嬉しかったこともその倍以上に残っているはずだ。

 男は湯気と共に香りを燻らせているコーヒーと、手に持ったジッポライターを見渡し、それから音を立てないようゆっくりとシルバーのひかりを机に置いた。

「すみません、マッチ一本もらってもいいですか?」

「ええ、もちろん」

 真っ直ぐに見上げた先で、オーナーは目尻の皺を濃くして笑った。穏やかに微笑む人ではあるけれど、年月と共に刻まれた皺が男性の人柄を優しく物語る。

 すっと差し出された箱からマッチを一本取り出し、側面を削るように火を点ける。しゅっ、と軽やかな音と一緒に鮮やかな赤が灯り、煙草へと温度を移した。肺いっぱいに広がるよう吸い込んだ煙は、暫くのあいだ忘れてしまっていた独特の甘みを舌に残す。

 やっぱりマッチで点ける煙草が好きだな、と思いながらも、浮いた片手は転がしたジッポライターへと伸びていく。表面のでこぼこを撫ぜると今まで感じていなかった温かさがして、男は仕方がないなというように笑った。

 いつの日か、オイルで点けた煙草が美味しいと思うようになるだろう。それまでにはもう少し、大人の真似事と呼ばれた行為が上手くなっているといい。そう思いながら、男はもう一口煙を含み、細く長い息を吐き出した。

 少しずつ白髪を鮮やかにしていくオーナーと、いつまでも変わらないコーヒーの渋い香り。それに混じっていく煙草は青臭い甘さを残していたが、何度も通ううちにどんどんと違和感なく馴染んでいくだろう。

 男はコーヒー豆の浮かぶマグカップを持ち上げ、身体の隅々に行き渡らせるように深く吸い込んだ。オーナーの淹れてくれるコーヒーはいつもほんの少し苦くて、同じくらいに力強い美味さがある。

「今日も美味しいです」

「それは、ありがとうございます」

 コーヒーの湯気と、煙草の煙が混じる。この場所で燻られる香りが好きだと、いつかきっと伝えよう。男は心の内だけでそう決めて、二口目のコーヒーを飲み込んだ。

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珈琲と煙草と君と 由佐さつき @Ys-satsuki

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