わたしとかみさま

 どうして、と言う間もなかった。

 息を切らして、土手際の道を走る。まっすぐな道を走って、途中で階段を降りて車道に戻った。路地裏に入り、公園を抜けて、団地の中へ入るあいだも走る足を止めなかった。住まいである団地内の三号棟、3階の角部屋まで一気に駆け上がる。鞄から探す間もじれったく鍵を開け、彼女は勢いよく重たい鉄扉を開け放った。

 三和土たたきにローファーを脱ぎ捨て、どすどすと足音も高く廊下を過ぎる。公営住宅の間取りにおける短い廊下はすぐに終わって、彼女はキッチンダイニングに到着した。古いタイプの台所と、同じフロアに四角い食卓が置かれている。シンクの前に、すらりとした影が立っていた。真っ白な被毛を備えた長い首から背にかけてを、淡水色のたてがみが連なっている。ほそながくとがった鼻先はどこか犬めいているが、その鼻まわりを覆っているのは銀色のうろこである。頭には薄紅色の珊瑚さんごのようなかたちの角と、これもまたどこか犬を思わせるとがった耳。

 世間一般では、俗に『龍』とか『ドラゴン』とか呼ばわれるいきものが、可愛らしい紫の小花をちらしたエプロンをつけて、こちらを見てのんきにもこんなことを言った。

「あ、おかえり。おつかれさま~学校どうだった?」

 渋く深い声であったが、発したのはほのぼのとした言葉である。しかしながら彼女はそれには返事をせず、手にしていた通学鞄を叩きつけるように置くと、ばしんと食卓の天板を両手で叩いた。

「フラれたんだけど!!」

 彼女の悲痛な叫びが、そう広くはないキッチンダイニングにこだました。



 藤屋敷ふじやしき塔子とうこは、わけあって龍と暮らしている。

 出会いはちょうど今頃の時期で、彼女は小学4年生だった。春休みの開放感とともに帰宅した彼女を迎えたのは、ダイニングテーブルでお茶を飲んでいる『龍』の姿であった。

「おかえり、塔子ちゃん。おやつあるよ、食べる?」

 その龍はなんでもないような調子でそう言った。塔子はそれを見てもどうしてかさほど動じず、素直にうなずいた。

 その龍が、母方の生家の守り神であることを知っていたからである。その前日、遅くに帰ってきた母が「明日から清雨きよさめさんが来るからね。寝るまで一緒にいてくれるから、ちゃんと言うことをきくのよ」と言い含めていた。因みにこのとき、塔子の母は清雨の見た目については一切触れなかったので、彼を見ても驚かなかったのは塔子のやけに肝が据わった性質によるところが大きい。



 「信じられない」「そんなことある?」「もういい、今日で世界は終わりです。おしまいにしてください」など、支離滅裂なことを言い募る塔子を一度ダイニングテーブルに着かせると、お茶をいれた。爪の大きな前足で器用にグラスを置くと、塔子の向かい側に座って言った。

「フラれたって、前に言ってた子? 今年同じクラスになった」

 目の前に置かれた、冷たいお茶のグラスを見下ろして、塔子はうなずいた。

「そう」

「学期末に告白するんだって、躍起になってたあの?」

「そう」

「もう仲良いし付き合ってるようなもんだけど、こういう関係はちゃんとしておきたいからねって言っていたあの?」

「そう」

「付き合ったあとのデートプランをぼくと一緒に徹夜で考えてたあの?」

「そうだよ!! でもフラれたの!!」

 塔子は大きな声でそう言い、グラスのお茶をぐいとあおった。冷たい緑茶は喉に心地よく滑り落ちていく。清雨はおかわりを注ぎながら息を吐いた。

「あんなに仲良くしてくれてたのにねえ」

「まじで信じられない、まじで、この期に及んで付き合ってる人がいるって。あんなに! 思わせぶりに仲良くしてたくせに! 言っとけよそういうことは!」

「すでにお相手がいたかあ。そういうとこ疎いのかもねえ、その子は」

「あー! ままならない!」

 さらにもう一杯のお茶を飲むと、塔子は今度こそテーブルの上に突っ伏した。

「もうやだ~やだやだやだ、最悪だよ。最悪すぎる。清雨ちょっと行って世界滅ぼしてきてよ~」

「それはさすがのぼくでもちょっと無理かなあ。ぼくは水龍の係累けいるいだからさ、雨降らせるくらいが限界だよ~」

「じゃあ今からさくらばモールまわり土砂降りにして。付き合ってる子とこれから遊びに行くって言ってたから」

「さくらばモール? 5駅くらい向こうじゃん。ちょっと遠いなあ」

「あー! ままならない! 最悪!」

 塔子は拳で幾度か天板を叩いたあと、ぐったりと脱力した。「こんなはずじゃなかったのに」と呟く声が、今度はか細い。清雨はそれを見てひっそりと息を吐くと、こう続けた。

「とりあえずお昼ごはんにしようか。まずおなかをいっぱいにしよう」

 清雨の言葉を聞いても、塔子はまだ黙ったままだった。

「今日は塔子ちゃんの高校2年最後の日だから、いつものやつつくったんだよ。塔子ちゃんが好きなやつ」

 そこまで言うと、ようやく塔子が顔をずらしてぼそぼそと言った。

「……あのちらし寿司のやつ?」

「そのちらし寿司のやつだよ。焼き穴子と錦糸卵の。あと、甘酢れんこん入りのいなり寿司」

 それを聞くやいなや、塔子は勢いよく起き上がって「すぐ食べる!」と言い放ち、キッチンダイニングから出ていった。その声にすこしだけ元気が戻っていることに安心しつつ、清雨は冷ましていた料理を取り出すために冷蔵庫を開けた。



 結局のところ、清雨がどういういきものなのか、塔子はよくわかっていない。

 母が言によると、「あたしも子供の頃、よく面倒見てもらってたのよ。神様は神様だけど、なんというか、面倒見の良いご近所さんていう感じかしらね」ということらしい。まったくもってよくわからないが、少なくとも清雨がこちらに悪意を持って悪さをしてきたことは一度もなかった。だから、それだけでじゅうぶんなのだろう。



 ダイニングテーブルの上に、木桶に入った焼き穴子のちらし寿司といなり寿司、それからほうれん草と卵のすまし汁が並ぶ。木桶に敷き詰めた酢飯の上に、ふんわりと焼き上げた錦糸卵と、つけダレに沈めてからじっくり焼いた穴子、薄切りのきゅうりなどが散らされている。れんこんの薄切りをのせたいなり寿司の中身は、白ごまと刻んだ甘酢れんこんを混ぜ込んだ酢飯である。

 ふたたび向かい合わせにテーブルに着き、塔子と清雨は両手を(清雨は前足を)ぱちんと合わせた。

「いただきます」

 清雨はしゃもじでちらし寿司をざっくりと混ぜ合わせ、皿に盛り付けていなり寿司も添える。塔子はそれを受け取ると、さっそくちらし寿司に箸をつけた。

 まず、穴子のタレの香りが鼻を抜けた。濃いつけダレの端が焦げて香ばしく、それで中の身はふんわりとしている。濃いめの味を、錦糸卵がよりやわらかい味わいにしていて、さらに酢飯があっさりとまとめている。ここにも甘酢れんこんの刻みが入っているようで、きゅうりと合わせて食感も楽しかった。

 思わず口もとがほころぶ。つい今しがたまで世界の終わりのような気分になっていたのが嘘のように、塔子はしみじみと言った。

「美味しい~~~……最高」

「それは良かった」

「うん。ほんとに美味しい。清雨、外食のバイトとかしたら? 厨房に入れるやつ」

「調理師免許持ってないと相手にされないんじゃない? そういうところって」

「そういうもん? 修行させてもらえば大丈夫なんじゃん?」

 なにくれとなく話しながら、塔子はいなり寿司のほうへも箸を伸ばした。甘めの味付けの油揚げはあっさりと歯切れよく、酢飯に混ぜ込まれた白ごまと刻みれんこんの香ばしさと甘酸っぱさが口の中で混然一体となる。こちらももちろん美味しかった。

 清雨が今度はあたたかいお茶をいれて、それぞれの湯呑みに注ぐ。キッチンダイニングの掃き出し窓からは、やわらかい初春の陽射しが差し込んでいた。

「なんか、清雨のお寿司食べると、もう春だなーって感じがする」

 塔子が言うと、清雨はやわらかく笑った。

「そうだねえ、ぼくもお寿司の準備してると、春だなって思うよ」

 二人は目を見交わして笑い、塔子はさらに箸を進める。先程まで、想い人にフラレて嘆き悲しんでいたのが嘘のように晴れた気分になっていて、春休みはせっかくだから、清雨を誘ってどこかに遊びに行こうかとふと思った。

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短編さまざま 駒鳥なごみ @tsugumi16

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