『月夜』

 昼顔ひるがおの丘まではあと1時間ほどかかるらしい。

 古いカーナビに表示された到着予定時間を見てから、ガソリンスタンドからゆっくりと車を出した。ここが最後の休憩地点で、あとはひたすら、野山と広大な麦畑と花の咲く丘が連なる一本道を走っていかなくてはならない。

 ガソリンスタンドで買ったハンバーガーの包みを開き、かじりつきながらラジオをつける。大いにノイズが混じった周波数をどうにか拾って、ずいぶん古いカントリーミュージックを流し始めた。今の気分にはぴったりだった。

 ハンバーガーをかじりながら、ひたすら車を走らせる。どこまでもつづく畑や、小高い丘につづく野山など、ビル群に慣れた目には新鮮で、なんだか洗われるようだった。排気ガスやらスモッグやら、星が見えないほどまばゆいビルの光とは無縁の、どこまでも平易な田舎道。

 もう帰ってくることもないだろうと思っていたのに、人生とはわからないものである。

 大学を出てすぐに勤めていた会社を辞めたのは、ほんの些細なきっかけだった。大げさなことは一つもない。懸命に関係を構築して仕事を得つつあった取引先を、上司が当たり前のように横からさらっていくのがとうとう10社目になったこととか、ずっと社内で付き合っていた同僚がつい最近採用された新入社員と浮気して付き合い始めたこととか、そういうことは関係ない。だって仕事だし、そういうこともあるんだろうで済まされることだ。

 ただ、昼休みに会社の路地裏でこっそり餌をやっていた野良猫がぱったりと姿を現さなくなった。もはやこの会社に勤めている意義は、そこで霧消してしまったのだ。これもまた仕方がないことだ。決して人間関係のいざこざに心をやられたわけではない。

 前言撤回。そうでも思わないとやっていられないほど、わたしの心は疲弊していたのだ。

 手続きはあっさりしたものだった。そもそも少なかったデスク周りの荷物を段ボール箱に片付けてしまうと、忙しく立ち働く元同僚たちを尻目にオフィスを出た。あれだけせわしく働いていたのが嘘のような、あっけない幕切れだった。

 『昼顔の丘の屋敷』を管理して欲しいという話が来たのは、仕事を辞めて間もなくのことだ。実家がある田舎町よりもさらに北、畑と丘を越えたところに祖父が残した屋敷がある。祖父は数年前に亡くなっていて、それからずっと空き家になっていたのだ。話を持ってきたのはわたしの叔母で、どうやら家族づてに仕事を辞めたことが伝わっていたらしい。何でも、今までは屋敷で雇っていたお手伝いさんたちの一家が、ほとんどボランティアのように掃除などをしていてくれたのが、人々が引っ越すことになり、世話をする人間がいなくなるらしい。

 ちょうど次の仕事を始めたばかりで収入が心もとなく、そろそろ住まいを変えようかと考えていたところだった。遠方ではあるがネット回線は引けるし、少し車を走らせれば街にも出られる。あれだけ嫌った田舎に戻らねばならぬというのに、どうしてかわたしの心は待ち受ける新生活に躍っていた。

 ハンバーガーを2つとフレンチフライを食べ終えて、ぬるくなったコーラもすっかり飲み干してしまう頃、祖父が遺した屋敷が見えてきた。小高い丘の上に立つそれは、お屋敷というよりも古城めいている。黒い石垣が巡らされた敷地の向こうに、同じような色合いの、石組みの屋敷が鎮座していた。まるで絵本に出てくるお城のようだと、幼い頃はずいぶんはしゃぎまわったものだ。年を経るにつれていろいろ忙しくなって、最近ではすっかり足が遠のいていた。

 最後にここに来たのは祖父の葬儀のときだった。鉄門扉を開けて車をポーチにつけると車を降りてうんと伸びをした。久しぶりのドライブですっかり身体が凝り固まってしまった。

 屋敷の中は思ったほど荒れてはいなかった。管理する人々がいなくなって数ヶ月ほど経つらしいが、さすがに柱や天井が朽ちていたり残された家具がボロボロに壊れているということもなかった。

 まずは荷物を置く部屋を探すか、と車に戻りかけたところで、

 誰もいないはずの屋敷の中から、物音が聞こえた。

 振り返る。目に見える範囲には誰もいなかった。……やれやれ、こういうのが嫌でわざわざ昼間に来たというのに。とはいえ、怪奇現象ならまだマシで、小さい動物が入り込んでいたりするのは困る。業者を呼ばなくてはならないだろうか、さっそくトラブルの種になりそうなものが見つかってため息を吐きながら、わたしは音がしたほうに足を向けた。

 果たして、音の主はすぐに見つかった。

 玄関ロビーから向かって右側、広々としたキッチンすぐ隣に、裏庭に通じるサンルームがある。小さい頃、ここでよくいとこたちと遊んでいたことを覚えている。

 サンルームの真ん中、白い石畳の上に、大きなキャンバスが置かれていた。

 同じくらい大きなイーゼルに立てられた、見上げるようなキャンバスである。そして、その前に立っている小柄な人影があった。ふわふわした金髪の、華奢きゃしゃな後ろ姿。麻色のシャツに紺のサスペンダー付きのスラックスを合わせ、エプロンをかけていた。その手には絵筆と、古式ゆかし木製のパレットが握られている。

 誰もいないはずの屋敷の中に、見知らぬ人がいる。わたしはそのことの異常性よりも、まず気になってしまったことを口に出していた。

「『月夜』?」

 その瞬間、キャンバスの前にいた人が誇張無しで十数センチ飛び上がった。かろうじて絵筆とパレットを取り落とさずに持ち直し、勢いよくこちらを振り返った。

 真っ青な瞳がまんまるに見開かれて、思ったよりも低い声が動揺して震えているのが聞こえた。

「だ、だれですかぁ!?」

「いや、それこっちの台詞」

 


 キャンバスの前にいた青年は、エリオット・クラークと名乗った。わたしの実家がある街の出身で、家もそこにあるらしい。

「レイフさんとは学校の美術の課外授業で知り合ったんです。そのときにぼくの絵を褒めてくれて、自由に絵を描く場所がないならここを使っていいって言ってくれたんです」

 レイフとはわたしの祖父の名である。祖父はむかしから絵が好きだったらしく、街でときどき絵の講師のような仕事をしていたのだと聞いたことがあった。

「レイフさんが亡くなったあとも、親戚の方に言伝を遺してくれていたみたいで。ぼくがいなくなってもここはきみのアトリエだよ、って言ってくれて……お手伝いのラインズさんたちが引っ越しちゃってからはぼくだけになってたんですけど、お孫さんが引っ越してくるとは知らなくて。すみませんでした」

「んん、いいのよ。こっちこそ驚かせてごめんね、祖父がそんな約束してたなんて知らなかったから」

 わたしが言うと、エリオットはどうしてか悲しげに眉を下げた。

「ぼく、ここを出ていかなくちゃなりませんよね」

 エリオットの声がまた震えている。今度は驚きとは異なる揺れだった。

「だって、あなたが今日から住むんですよね? だったら」

 出ていきます、と付け加えて、彼はそれきりうつむいてしまう。わたしはその様子を見たあと、すぐには返答せずにもう一度あの大きなキャンバスに視線を移した。

「あれ、『月夜』の絵だよね?」

 わたしが言うと、エリオットが顔を上げた。

「……そうです。レイフさんが最後に描いていた絵です」

 立ち上がって、巨大なキャンバスに近づく。キャンバスの夜空は真っ暗で、月はなく白い星が浮かんでいるばかりである。

「これ、まだ完成じゃなかったんだ」

 わたしはこの絵を、かつて一度だけ見たことがある。学生時代の帰省で祖父のこの家に立ち寄ったとき、今日と同じようにサンルームにこのキャンバスがあった。絵の名前を聞いたのもこのときだ。月がないのに月夜なの? と尋ねて、どうしてか笑ってはぐらかされたことを覚えている。

 わたしの隣にエリオットが来て、同じようにキャンバスを見上げた。

「レイフさんが、病院に行く前にこの絵を持って来てくれたんです。この絵はじつはまだ完成してないんだ、よければきみにつづきを描いて欲しいって」

 でも、とエリオットがさびしげにつづける。

「どうやってつづきを描いたらいいのかわからないんです。当たり前なんですけど、レイフさんが何を描こうとしていたのかもわからないし、だったらどうしてこの絵は未完成なんだろうって」

 そう言い募る彼があまりにもさびしそうに見えたので、わたしは思わずこう言っていた。

「ねえ、つづきがわかるまでここで絵を描いていたら」

 エリオットがふたたび驚いたように飛び上がって、わたしを見た。

「えっ!? でも、もうここは……」

「最初から出てけなんて言うつもりなかったわよ。この家やたら広いし、おじいちゃんの弟子なら心配ないわ。むしろ置いとかないと、天国からどういうつもりだって電話がかかってきちゃうわよ」

 弟子、とエリオットが繰り返して、どうしてか妙に照れくさそうに笑った。わたしも笑って「それに」と付け足す。

「わたしも、この絵が完成したところ、見たいしね」

 そう言って、エリオットを見る。彼は三度驚いた顔をして、素直にも責任を感じたような表情になって重々しくうなずいた。その生真面目な様子がおかしくて、わたしは今度こそ声を立てて笑った。

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