そこからさらう

蔦田

攫う

 昔から、夢の中で人を殺すことがあった。

 それはいつも決まって生温い風が吹く薄曇りの晩で、幽かで朧げな月明かりが私の視線の先を照らしている。そこには十三、四歳程の少年がいる。現実と同じように夢の中の私が年を重ねて、その少年より年下だったころ、同じだったころ、それから年上になっても、彼の見た目は変わらなかった。彼は無個性で統一的な詰襟の学生服に身を包んでいながらも、どこか異質さを感じさせる少年だった。血の気の失せた色白な肌、瞳は深く、ひそめられた眉はそれでもなお流麗な線を描き、少し開いた唇は薄く、それでいて不吉なほど赤い色をしている。いまにもこわれそうな薄氷のように張り詰めた美貌である。この世のものとは思えぬほどの。

 今、私がこの手で、この世のものでなくしたのだ。

 首を絞める手に力を込める。滑らかな肌に私の指が沈み込んでいく。控えめな喉仏の膨らみが震えるのが分かる。しかし少年はろくに抵抗もせず、私をその夜の瞳でジッと見つめたまま、あっさりと息絶える。呼吸を求めた唇は、薄ら笑いをたたえているようにも見えた。私のことを嗤っている。私はそれを見て、ただ――隠さなくては、と思う。

 そうして私は薄氷の死体を水の中に沈める。あるときは小さな深い池の中。あるときはプール。あるときは川の淵。あるときは風呂場の浴槽。それはいつも、私の身の回りにある水場であった。祖父母の家の近くの山の中にある池。小学校のプール。近所に流れる川。一人暮らしのアパートの小さな浴室。……

 夢から醒めて、滲んだ汗で手の指の先までがじっとりと湿っているのが、まるであの少年をこの手で沈めたときに触れた水が滲み出してきたかのようで、厭だった。

 初めてこの夢を見たのは、隣県にある祖父母の家に泊まりに行ったとき、六歳の頃だ。と思う。というのも、山の池が出てくる恐ろしい夢を見たと言って泣いていた記憶はあるが、果たしてその夢の内容は覚えていないのである。しかしおそらくは、始まりはこのときなのだろう。ただ、それよりも。山は危ないから入るなと言ったやろう、と、普段は穏やかな祖父にきつく叱られたことだけを、あの恐ろしい形相を、それだけをはっきりと覚えているのだった。

 この悪夢はときおり続いて私の夢幻の罪を忘れさせなかったが、なぜか就職を機にぱたりと止んだ。身体的な疲労や精神的負荷で泥のように眠ってばかりで、普通の夢を見ることすらなくなったためだろうか。ともかく、あの厭な光景を、感触を、忘れられるならそれで良いと思った。


 それから六、七年が経ったある日、私は恋人の家族に結婚の挨拶へ行くことになった。

 彼女の家は偶然にも、私の祖父母の住んでいた町であった。向かう車窓から、山々が、田畑が、ひらけた道の丁字路にある手書きの『こども飛び出し注意』の標識が、懐かしさを感じさせる色褪せた民家が、窓の外を流れるのを見ていた。「緊張してるの?」と問いかける彼女に、少し、と答えて窓を開ける。まだ若い稲穂を揺らす青々とした風が生温く吹き込んでくる。郭公カッコウの鳴く声がどこからか響いていた。タイヤが砂利を踏みつけて進んで行く。

 そういえば、この町に来たのはあの六歳の頃が最後だった、と、今更になって思い出す。祖父の葬式にも、祖母の葬式にも行かなかった。何故だったろう。両親は数年前に二人とも病気で亡くなったものだから、聞こうにも聞けやしない。

 彼女の家に着くと、ひとりの少年が玄関から出てきた。一回り以上年の離れた弟がいると聞いていたが、おそらく彼がそうなのだろう。そういえば、彼女の母親は彼を産んですぐに亡くなったのだったか。

 少年は陶器のように色白で、瞳は深く、眉は流麗な線を描き、どこか酷薄な印象をあたえる薄く赤い唇がゆるく笑みの形をとっていた。彼女には、あまり似ていない。人懐こそうな雰囲気が、余計に少年を異質なものに思わせた。いまにもこわれそうな薄氷の美貌である。こわれやすそうなものであればあるほど、刃物のように研ぎ澄まされた、冷酷なおそろしさがある。私は人知れずゾッとした。しかしそれは少年の美貌に慄いたからだけではない。なぜなら私はこの少年を知っていた。

 それは夢で、何度も何度も私が殺し、水の底へと沈めてきた少年、そのままだったのだ。



「先生」と私を呼ぶ声に顔をあげる。そこにいた詰襟の学生服の少年――私の義弟となったさとるは、今春から赴任した中学校の生徒、二年生であった。

 初めて出遭ったときには彼が私の悪夢から抜け出てきたかのように思われて驚いたが、よくよく考えてみれば、そんなことがあろうはずもない。夢の中の死体が現実に這い出てくるなど、あるはずがない。私の記憶の底で、浚われることなく、沈み続けているのだから。そもそも所詮人間の記憶など曖昧なものだ。何度も夢に見たとはいえ、記憶は思い出すたびに常に編集され保管されなおすものであるし、間違いをいとも簡単に植え付けられる。私の中にある、美しい少年、という心象が彼に出遭ったことでその姿に上書きされたのだろう。そう思っている。

 彼に出遭った日から今日まで、あの夢は見ていない。もう二度と見ることはないかもしれない。

「数学のノート、持ってきました」

「ああ、ありがとう」

 私はノートの山を受け取ろうと手を伸ばしたが、少し触れた覚の指先が冷水に浸していたかのように冷たくて、思わず手を離してしまった。

 あ、と思ったころにはバサバサと喧しい音を立てて既に床に散らばってしまっていたそれを拾おうと椅子から慌てて降りてしゃがみこむが、すでに覚が拾い集めたあとであった。

「ごめん、冷たかったやろ。ぼく昔から冷え性なんよ」

 私に今度こそノートを渡し悪戯っぽく目を細めた覚は、まだ少年らしさの残る細く白い指をひらひらと振って見せた。私も口角を持ち上げた。

「いや、こっちこそごめんな。ありがとう」

「ン。じゃあぼくはこれで」

 失礼しました、と言って職員室の扉を閉めるまで見送る。と、隣席から声がかかる。

「吉桐くん――ああ、覚くん。やっぱり綺麗な顔してますよね」

「ええ、やっとで見慣れてきたところです」

「吉桐先生は家に帰っても顔合わせますからねえ」

「そうですね」

「あれだけ整った顔しとったら、まあ、周りから浮くのも分からんではないですよ」

「……よくないでしょう、そういうのは」

 いやあ、そうやね、申し訳ない。と頭を掻きながら作業に戻る同僚を横目に、私は小さく溜息をつく。

 実際、覚は同級生たちから遠巻きにされていた。あの少年のこの世ならざる美しさ――あるいは異質さと言ってもいい、それを目の前にして、少しでも畏れを抱かないものなどいないだろう。多感な時期の子供たちなら尚更だ。年頃の少年たちが粗雑さや悪ぶった態度に憧れるのとは反対に、年齢特有の繊細さや脆さをむしろ守ろうとしているのが、学校という子供たちの小さな社会の中では異端として捉えられるのだろう。あの理知的な瞳が、作り物めいた美貌がもたらす魔性が、得体の知れなさとして子供たちに恐れのような感情を抱かせる。けれども十三、四歳の若く尊大な魂には同級生に向けるそれを恐怖だとは認められず、集団を脅かす異端者を本能的に追放することで平穏を保つのだ。そうでなくて、なんだというのだ。

 私は無意識に指先を擦っていた。覚の冷たさが移ったようだった。

 窓の外で、赤々と色づいた木々が風に揺れていた。流れることのない水の底のように澱んだ灰色の空には異様な、不吉なほどに鮮やかな赤であった。なぜだか気味が悪かった。虫の知らせというやつであったのかもしれない。



 雨が降っている。

 生温い風が吹いている。

 灰色の雲が薄く重なって空一面を覆いつくしていた。それはずっと遠くにあるようにも、今にも地上へ手を伸ばしすべてを呑み込むようにも見えた。

 その中でぽつんとひとつ黒い染みのように、男が立ちすくんでいた。

 冷え冷えとした雨が頬を打ちつける。

 しとどになり、色濃くなった喪服。

 水の底から這い出たかのように、頭の天辺から足のつま先まで、余すところなく、ずぶ濡れだった。雫が一筋頬を這うように滑り落ちる。



 二つの遺影の前で線香の煙が白く細く揺れている。

 妻と義父が亡くなった。

 不幸な事故であった。

 三日間降り続いた激しい雨で濡れた路面にタイヤを取られたらしい。山からの一本道にある丁字路のあたりで、横転していたという。私の祖父母の家の近くにあった山だ。なぜ二人でそんなところに行ったのだろう。これが、これこそが私の悪夢であったなら、どれだけ。

 障子戸の隙間から、先生、と小さく声がかかった。

 私はああ、と溜息のようにこぼして、ふらふらと立ち上がる。壁時計を見れば、十八時を回っていた。ゆうに三十分は色の無いこの部屋でぼんやりしていたらしい。

 私が仏間を出たあと、覚はチラと無人の部屋の中を見て、少し俯きながらぱたんと隙間なく障子戸を閉めていた。

 二人で居間へと向かう。

 廊下の硝子窓から幽かで朧げな月明かりが差し込む。

 すると、俯いたままだった覚が不意にフフフと息を漏らして。

「ああ、そういえば、こんな晩やったね」

 と言った。

「なんの、話だ?」

 と私は答えた。

「あなたがぼくを殺した晩だよ」

 全ての音を搔き消すように、ザアッと音を立てて雨が降り出した。


 気づけば私は小さな池の前に立っていた。

 生温い風が身体に纏わりつく。

 灰色の雲が薄く重なって空一面を覆いつくしていた。それはずっと遠くにあるようにも、今にも地上へ手を伸ばしすべてを呑み込むようにも見えた。

 しとどになり、色濃くなった服。

 水の底から這い出たかのように、頭の天辺から足のつま先まで、余すところなく、ずぶ濡れだった。雫が一筋頬を這うように滑り落ちる。

 私は、恐る恐る池の中を、覗き込む。

 そこには。

 底には。

「なにもないよ」



 吉桐さんのところの、お婿さん。行方不明やって。

 ああ、先生でしょう。中学校の。

 そうそう。娘さんも可哀そうにねえ。お父さんと二人で長いこと苦労しとるでしょう、せっかくいいひと捕まえたのに。まだ結婚して一年くらいじゃなかった?

 あれ、弟さんおらんかった? 中学生の。

 いないよ。

 ……誰かと間違えとるんじゃない?

 ……うん、そうみたいやね。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

そこからさらう 蔦田 @2ta_da

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ