第5話 遅刻
佐藤は無断欠勤した。電話をかけてみたが出なかった。
昨夜のメッセージに返事をしていないことに気付き、
『大丈夫だったよ』
遅すぎる返信をした。いつまでも、既読にならなかった。私は落ち着かないまま昼休みを迎える。
さささ。
微かなそれは、オフィスで聞きなれない何かであり、だから妙に耳に残った。振り返ると、佐藤が立っていた。気配なく突然現れた彼女は無表情だ。視線の定まらない虚ろな目をしている。
「どうしたの?」驚いた私はつい話しかけていた。
「すみません。寝坊しました。今来ました」
その会話を聞いて、あはは、と同期が笑う。
「やっぱり佐藤さん大物だよね」私の耳元でそう言い去っていく。
佐藤が、緩慢な足取りでデスクの方へ向かっていく。窓のない青白い廊下を、私も歩いた。
ささ。さ。
軽いものが床を擦るような。
さっきから耳に障るその音の出どころを知りたかった。
席についても、それは続いた。
さ。
どうやら隣席の佐藤から音がする。自然と彼女を見つめていた。
佐藤の手首は薄い模様をまとっていた。タトゥーなんか入れていただろうか。網目状に広がるそれはまるで蜘蛛の巣のようだった。あるいは、地図。
「それ、タトゥー?」
佐藤に訊く。
「え、何がですか?」
「手首のそれ」
私が指差した佐藤の腕。網目模様は消えていた。
佐藤が首を傾げている。いつものキョトン顔が輪をかけて間抜けに見える。何も考えていません、ってな。
「なんでもない」
私は知らないふりを決め込む。佐藤もすぐにパソコンへ向き直った。
他部署の同期から聞く、新人の明るく楽しいエピソード。それらからは程遠い私たち。席は隣だけど業務外のことは喋らない。佐藤は私に萎縮している。そりゃあそうだろう。私は彼女の人格を嫌っている。仕方がない。人間なのだから。どうしても、相性というものがある。
さかさか。
やはり佐藤から音がする。少し、目を細める。
「その音は何?」
「すみません」
私の低い声に対して即刻の謝罪だった。自覚はあるらしい。一体何の音だろう。服の下にお菓子でも隠しているみたいだ。
かさ。
「すみません」
佐藤が繰り返す。
かさかさ。
怯えたような顔をしている。何か小さなミスを指摘したときに、佐藤はよくこういう顔をする。何度も同じ間違いをする方が悪い。そうだろう?
こうして話していても、佐藤と視線がしっかりと合わない。「死んだ魚のような目」にも程度ってものがある。違和感を覚えた私は、誘われるようにして佐藤の瞳を覗き込んだ。
――何かが、蠢いている。細い、線状の虫のようなものが。いる。水溜まりに漂う糸ミミズのよう。
その白っぽい虫を一度だけ見たことがある。中学生の頃、真夏だった。異様な臭気を辿り、前の晩に洗い忘れたらしい魚焼きグリルを開けた。うじゃうじゃと、それがのたうち回っていた。悲鳴を上げてパニックを起こした私を尻目に、母がさっさとシンクで洗い流した――。
グリルの皿に溜まった腐った油の中で蠢く虫ども。その時に感じたのは、そいつらがいつ、どこから湧いたのかがわからない恐怖だった。今の私の気持ちとよく似ていた。
佐藤はいつから死んでいたのだろう?
思い至ってしまった未知に茫然とする。
佐藤の暗い瞳は位置が高くなっていく。ばさばさという音を立て、目の前で佐藤が広がった。佐藤は大きな地図だった。バランスを崩すようにして勢いよく私に覆い被さってくる。壁のようになった地図に倒される。椅子から落ちて、べしゃりと床に叩きつけられた。顎を強打し口の中に血の味が広がる。全身に強烈な圧が掛かり悲鳴を上げた。ドタドタと、周囲が騒がしくなるのと共に、意識を失った。
むしゃくしゃ 夏原 秋 @na2hara
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