第4話 足音

 一時間余り残業した後、佐藤の自宅へ向かった。そこは閑静な住宅街というやつだ。風に舞う枯れ葉が、闇夜にかさかさと転がっている。


 佐藤が住むマンションの前まで来た。明かりがついている部屋をざっと見渡したが、窓に貼り付いているという、「地図」は見当たらなかった。当たり前じゃないか。そう自分に言い聞かせる一方で、私はどこかホッとしていた。静まり返った住宅街の物寂しさも手伝い、夜道で後ろを振り返ることすら躊躇われるのだ。


「なんか、すみません」

 申し訳なさそうに頭を下げる佐藤と、座卓を挟んで向かい合った。

 目の前にいながらわざわざスマホで文字を打つ。

『地図いないじゃん』早速指摘した。

『そうですね。先輩の気配で逃げたのかもしれません』

『なら、来た甲斐があった。明日は出て来られるよね?』

『朝になってみないとわかりません。このままアレが戻って来なければ』

 ひととおりメッセージを往復させた。雑談などする仲でも無いから、素っ気なく。

「じゃあ、行くね」

「ありがとうございました」

 私たちはすっと立ち上がる。佐藤の体調は良さそうだった。しかし発言内容がやはりおかしい。「地図」に怯えている。必要であれば総務課を通してご家族に連絡しよう。玄関ドアの細長い隙間から見送られる。曖昧な会釈をして立ち去った。


 マンションの回廊を靴音を響かせて歩く。奥まで進んで左に曲がればエレベーターだ。五軒ほどのドアの前を通り過ぎた。突き当たりで方向転換する瞬間、目の端に何かを捉えたような気がした。ハッとして、顔を横に向ける。目が吸い寄せられる回廊の奥、それは佐藤の部屋がある方向だった。


 かさかさ。かさ。かさ。乾いた季節を思わせる音だった。このマンションに来る途中で、アスファルトを擦る枯れ葉が奏でるものと、よく似ていた。しかし風の強さに関係なく、それは絶えず聞こえてくる。


 見かけたものの正体は、街路樹から飛んで来た大きな葉の影である。はず。

 納得させるようにそう言い聞かせて私は、エレベーターの方に向き直り、下向きの三角マークのボタンを押した。モーター音を聞いているうちに箱が到着する。扉が開くと規則的な唸りがいっそう大きくなった。乗り込み、扉の方を向く。


 機械音に混ざって、その音が大きくなったような気がした。

 かさかさかさかさかさかさかさかさ

 まるで木枯らしが追いかけてくるよう。しかし風は、止んでいた。

 エレベーターの扉がすうっと閉まる瞬間に

 バン!

 手のひらを叩きつけるような音と共に箱ががくんと揺れ、照明がちらついた。壁に背をつけて固まったまま、地上階に到着した。


 エレベーターを降りるとスマホが鳴った。佐藤からのメッセージだった。

『外で、アレの足音が聞こえました。先輩、大丈夫ですか?』

 私は返事をせず、足早に歩いた。

 逃げるようにして駅に着いた途端、喧騒に包まれる。電車に乗り込み、自宅の最寄駅で降りて、商店街を歩いた。帰宅するまで私は一度も後ろを振り返らなかった。


「アレ」がついて来てしまったらどうしよう。

 そういう考えで頭がいっぱいだった。腕には粟が立っている。風呂にも入らず、布団をかぶる。断熱性の高い建物は、屋外の物音もある程度遮断される。静かだった。窓を開ければ確実に耳に入るのは、枯れ葉の音だろう。聞きたくなかった。今は、絶対に。あれは本当に、落ち葉が転がる音だったのだろうか。もしも枯れ葉ではなくて――紙だったら?


 その発想にどきりとした。地図の足音。佐藤はそう表現していた。そんな、突拍子もない事。信じたくなかった。風が窓を小さくノックする度に肩が震える。やがていつの間にか眠りに落ちて、そのまま朝を迎えた。

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