【短編小説】記憶の測量士 -消えた座標の真実-(約8,500字)

藍埜佑(あいのたすく)

【短編小説】記憶の測量士 -消えた座標の真実-(約8,500字)

●第1章:「消えない記憶の測量士」


 測量機器を片付けながら、椎名朔は空を見上げた。十月の午後、雲一つない青空が広がっている。視界の端には、母校である旧浦山高校の校舎が影を落としていた。


「椎名さん、これで今日の作業は終わりですか?」


 アルバイトの大学生・西村が声をかけてきた。


「ああ、今日はここまでだ。ご苦労様」


 朔は三脚に載せた測量機器にカバーをかけながら答えた。


「先輩って、ここの卒業生なんですよね?」


「ああ。十五年前になるな」


 朔は懐かしむように廃校となる校舎を見つめた。来年の春には取り壊され、跡地には市の複合施設が建設される予定だった。その前の最後の測量を、朔が任されていた。


 瓦屋根の古びた校舎。苔むした石垣。そこかしこに伸びた雑草。すべてが記憶の中と少しずつ違っている。しかし、朔の頭の中では十五年前の光景が完璧な精度で蘇っていた。


 朔には特殊な能力があった。


 一度見た風景や数値を決して忘れることがない。

 完璧な記憶力。


 それは測量士として大きな武器となっていたが、同時に普通の生活を送る人間としては重荷でもあった。


「先輩、これ面白いですよ」


 西村が古ぼけた紙を手に差し出してきた。


「なんだ?」


「校舎の裏で見つけました。古い測量図みたいです」


 朔は紙を受け取った。確かに測量図だ。しかし年季の入った紙は所々破れており、インクも薄れかけている。日付を確認すると、昭和四十年代のものらしい。


「図面の右下、何か書いてありますね」


 西村が指差す場所には、かすれた文字が残っていた。


「……『約束の場所』か」


 朔は眉をひそめた。測量図にそのような書き込みがあるのは異例だ。しかも、この文字は後から書き加えられたもののようだった。


「なんですかね、それ」


「さあな……」


 朔は測量図を注意深く折りたたみ、ポケットにしまった。夕暮れが迫っている。明日からは校舎内部の測量が始まる。


 その夜、朔は自宅で古い新聞記事を読み返していた。十五年前、浦山高校で起きた失踪事件の記事だ。当時の新聞には、二年生の女子生徒が下校時に姿を消したと報じられている。


 捜査は行き詰まり、事件は迷宮入りとなった。しかし、朔の記憶の中では、あの日の情景が鮮明に残っている。事件のあった日の放課後。なぜか職員室の明かりだけが消えていなかったこと。誰かの足音が廊下に響いていたこと。そして……。


 朔は頭を振った。

 これ以上思い出すまい。

 完璧な記憶力は、時として「呪い」となる。

 忘れたくても忘れられない記憶もあるのだ。


 携帯電話が鳴った。


「もしもし、椎名です」


「椎名君、私だ」


 低い声が響いた。浦山高校の元教頭・村井の声だった。


「村井先生……」


「明日から校舎内部の測量が始まるそうだね」


「はい」


「気をつけたほうがいい。あの校舎には、誰にも知られたくない秘密が眠っている」


 朔は息を呑んだ。


「どういうことですか?」


「これ以上は言えない。ただ……測量図に気をつけるんだ。古い図面には、時として危険な真実が隠されている」


 通話が切れた。朔はしばらく携帯を見つめていた。ポケットの中の古い測量図が、不意に重みを増したように感じられた。


●第2章:「偽りの三角点が示す真実」


 翌朝、朔は早めに現場に到着した。西村はまだ来ていない。


 朔は校舎に入った。廊下に足を踏み入れると、懐かしい木の床が軋んだ。壁には、卒業生たちの寄せ書きが残されている。日差しは、埃っぽい空気の中で光の帯となって差し込んでいた。


 職員室の前を通り過ぎる。十五年前、この場所で朔は不可解な光景を目撃していた。しかし、その記憶は今は意識の奥底に押し込めておくことにした。


 朔は昨日見つけた古い測量図を広げた。校舎の構造は、現在とほとんど変わっていない。しかし、裏庭の一角に描かれた三角点の位置が、現在の図面と明らかに食い違っている。


「おはようございます、先輩」


 西村が到着した。


「ああ、おはよう」


「どうしました? 何か気になることでも?」


「ああ、この測量図の三角点の位置がおかしい。実際の位置と、かなりずれているんだ」


 西村も図面を覗き込んだ。


「確かに……でも、古い図面だし、多少の誤差はあるんじゃないですか?」


「いや、これは誤差の範囲を超えている。意図的にずらされた可能性が高い」


 朔は図面を折りたたみ、校舎の裏庭へと向かった。雑草が生い茂る中、古い三角点を探す。


「先輩、これじゃないですか?」


 西村が指差した先に、苔むした石製の三角点が見えた。しかし、その位置は図面と一致しない。


「図面上の位置を確認してみよう」


 朔たちは測量機器を設置し、図面に記された座標に従って測定を始めた。その場所には何もない。しかし……。


「西村、スコップを持ってきてくれ」


 朔は地面を掘り始めた。二十センチほど掘り進むと、何かが当たった。土を払うと、金属製の箱が姿を現した。


「なんですか、これ」


 西村が身を乗り出してきた。朔は慎重に箱を引き上げた。古い錆びが浮いているが、まだ開けることはできそうだ。


 カチッという音とともに蓋が開いた。中には、古びた手帳が入っていた。


「生徒手帳……?」


 朔は手帳を開いた。十五年前の日付が記されている。所有者の名前は、あの失踪事件の被害者・水野千夏だった。


「先輩、この手帳……まさか」


「ああ、十五年前に失踪した生徒のものだ」


 手帳の最後のページには、走り書きのメモが残されていた。


『測量室の座標を確認。約束の場所で待ち合わせ。先生との最後の……』


 そこで文章は途切れていた。


「測量室?」


 西村が首をかしげる。


「この学校の特色のひとつだった。測量や地理を重視していてね。専用の実習室があったんだ」


 朔は手帳を注意深くポケットにしまった。


「その測量室は、確か……」


 朔は校舎を見上げた。記憶の中で、建物の構造図が鮮明に浮かび上がる。


「三階の西側、一番奥の教室だ」


 二人は校舎に戻り、階段を上っていった。三階の廊下は特に静寂が濃かった。足音が不気味に響く。


 測量室の前で立ち止まると、朔はドアノブに手をかけた。しかし、開かない。


「鍵がかかっているみたいです」


「おかしいな。他の教室は全部開いていたはずだが……」


 朔はポケットから古い測量図を取り出した。図面には、測量室の詳細な寸法も記されている。


「この教室、妙だな」


「どういうことですか?」


「図面上の寸法と、実際の寸法が合わない。外から見た大きさと、内部の寸法が食い違っている」


 朔は壁を軽くノックした。


「この壁の向こう……もう一つ空間があるはずだ」


 その時、一階から物音が聞こえた。


「誰かいるのか?」


 西村が身を乗り出して階段を覗き込む。


「いや、気のせいかもしれない」


 しかし、また物音が聞こえた。今度ははっきりと、足音だった。


「先輩……」


「ああ。誰かいるな」


 朔と西村は一階へと降りていった。職員室の前を通り過ぎようとした時、中から物音が聞こえた。


 朔はゆっくりとドアを開けた。


 室内は薄暗い。しかし、奥の机の前に人影があった。


「誰だ!」


 朔が声を上げると、人影が素早く窓から飛び出していった。


「待て!」


 追いかけようとした時、机の上に何かが落ちているのが目に入った。それは一枚の写真だった。


 十五年前の職員室。教師たちが写っている。そして、その中に見覚えのある顔があった。


「先輩、どうしました?」


「……村井先生だ」


 写真に写る若かりし日の村井は、失踪した水野千夏の隣に立っていた。二人は何かを見つめている。


 その表情は、どこか悲しげだった。


●第3章:「壁の向こうの15年」


 その日の午後、朔は作業を早めに切り上げた。西村を帰宅させた後、彼は再び校舎の中に戻った。


 三階の測量室の前。朔は壁に耳を当てた。コンコンとノックすると、どうやら中空になっているらしい音がする。


「やはり……」


 朔は廊下の窓から外を見た。夕暮れが迫っている。校舎に差し込む夕日が、長い影を作っていた。


 ポケットから水野千夏の手帳を取り出す。最後のページをもう一度確認した。


『測量室の座標を確認。約束の場所で待ち合わせ。先生との最後の……』


 朔は目を閉じた。


 記憶の中で、十五年前の光景が蘇る。


 あの日、朔は放課後に補習を受けていた。帰り際、職員室の前を通りかかった時、中から話し声が聞こえた。


「もうやめましょう、村井先生」


 水野千夏の声だった。


「千夏、君には分かってもらえないかもしれないが……」


「私、もう誰にも言いませんから。だから、これ以上は……」


 その時、職員室のドアが開き、朔は慌てて階段の陰に隠れた。水野千夏が泣きながら廊下を走っていく。その後を、村井が追いかけていった。


 それが、水野千夏を見た最後だった。


 記憶から現実に戻る。


 朔は測量室のドアを見つめた。


「鍵を開ける必要があるな……」


 朔は一階の用務員室に向かった。備品庫には、校舎中の合鍵が保管されているはずだ。


 用務員室に入ると、埃っぽい空気が鼻をつく。棚には古い工具や掃除道具が並んでいる。朔は奥の金庫を見つけた。


「開いている……?」


 金庫の扉が少し開いていた。誰かが先に来ていたようだ。中を確認すると、合鍵の束が見つかった。


 三階に戻り、測量室の鍵を開ける。錆びついたドアが、軋むような音を立てて開いた。


 室内は薄暗い。黒板には十五年前の板書が、かすかに残っている。実習用の古い測量機器が、埃をかぶったまま並んでいた。


 朔は壁に向かって歩いた。古い測量図によれば、この壁の向こうには空間があるはずだ。壁を軽くたたくと、確かに空洞の音がする。朔は壁を丹念に調べ始めた。


 そのとき、背後で物音がした。


「誰だ?」


 振り返ると、村井が立っていた。


「やはり来ると思っていたよ、椎名君」


 村井は疲れたような表情を浮かべていた。十五年の歳月が、深い刻印を残している。


「村井先生……先生は知っているんですね。この壁の向こうに何があるのか」


「ああ。そして、君も薄々気づいているはずだ。そう、君の記憶力なら」


 朔は黙って村井を見つめた。


「水野さんは、本当はどうなったんですか?」


 村井は窓際に歩み寄り、夕暮れの空を見上げた。


「あの子は……この学校の闇を知ってしまった」


「闇、ですか?」


「この測量室には、学校が長年隠してきた秘密の記録が保管されていた。不正や不祥事の証拠となる文書をね。歴代の教職員が関わった様々な出来事の記録だ」


 村井は苦い表情を浮かべた。


「水野さんは、それを見つけてしまった」


「そして、先生は彼女を……?」


「違う!」


 村井の声が突然強まった。


「私は彼女を守ろうとしたんだ。記録を処分して、すべてを忘れようと……。しかし……」


 村井の言葉が途切れた。


「村井先生、もう逃げるのはやめましょう。今ここで話していただけませんか」


 朔は村井の目をまっすぐに見つめた。


「椎名君……」


 村井は窓際に佇み、夜の闇に沈みゆく校庭を見つめた。風が強まり、廊下の窓ガラスが軋むような音を立てる。


「私にも、準備が必要なんだ。明日まで、明日まで待ってくれないか」


 村井の声には、どこか切迫したものが混ざっていた。


「しかし――」


「約束しよう。明日、すべてを話す。水野千夏のこと、この学校の秘密、そして……君の特殊な記憶力の真実についても」


 朔は息を呑んだ。村井の最後の言葉が、彼の心を揺さぶった。


「分かりました。明日まで待ちます」


 夜の校舎に、不吉な風の唸りが響いた。朔が職員室を出ると、廊下の蛍光灯が不規則に明滅している。どこか遠くで、重い扉が閉まるような音が聞こえた。


 まるで校舎全体が、明日明かされる真実を今か今かと待ちわびているかのようだった。

●第4章:「記憶と記録の交差点」


 翌日、朔は西村を休ませ、一人で作業を続けることにした。


「本当に一人で大丈夫ですか、先輩?」


 電話越しの西村の声には心配が滲んでいた。


「ああ、今日は簡単な確認作業だけだ」


 朔は嘘をついた。本当の目的は、測量室の壁の向こうを調べることだった。


 校舎に到着すると、朔は直接三階に向かった。しかし、測量室の前で足を止めた。ドアが少し開いている。


「誰かいるのか?」


 慎重に中を覗くと、女性が窓際に立っていた。


「水野……さん?」


 朔の声に、女性がゆっくりと振り返る。しかし、それは水野千夏ではなかった。


「初めまして。私は水野の妹、美咲です」


 彼女は水野千夏によく似ていた。しかし、表情はより硬く、どこか諦めたような影を帯びていた。


「姉の失踪から十五年。ようやくここに来る勇気が出ました」


 美咲は窓の外を見つめた。


「姉は、本当は生きているんです。私にはそう思えてなりません」


 朔は黙って聞いていた。


「あの日のことを、覚えていませんか? あなたは確か同級生でしたよね」


「ああ。でも、私は……」


 その時、廊下から物音が聞こえた。


「誰か来たみたいですね」


 美咲は身構えた。足音が近づいてくる。


 ドアが開き、そこには……。


 そこには再び村井が立っていた。今度は表情が険しい。


「水野美咲さん。やはり来ましたか」


「村井先生……」


 美咲の声が震えた。


「姉が最後に会ったの先生です。真実を話してください」


 村井は深いため息をついた。


「私から話すべきときが来たようだ。この部屋の隠し扉を開けよう」


 村井は黒板の横の壁に歩み寄り、古い掛け図の裏側を手で探った。カチリという小さな音がして、壁の一部がゆっくりと動き出した。


 朔と美咲は息を呑んだ。壁の向こうには、狭い部屋が広がっていた。


「ここが、約束の場所……」


 美咲が囁くように言った。


 部屋の中には古い棚が並び、大量の書類や地図が保管されていた。そして部屋の中央には、一台の測量機器が置かれている。


「これは……」


 朔は機器に近づいた。


「学校創立時から使われていた特別な経緯儀だ。通常の測量機器とは違い、この機器には特殊な機能が付いていた」


 村井が説明を始めた。


「あの日、千夏さんはこの部屋で何を見たんですか?」


 朔が問いかけた。


「彼女は……この学校に伝わる秘密を知ってしまった。この測量機器は単なる測量だけでなく、ある "記録" を読み取る機能を持っていたんだ」


「記録、ですか?」


「この学校の土地には、かつて特殊な研究施設があった。その痕跡は、通常の方法では見つけられない。しかし、この機器を使えば……」


 村井の説明は、突然の物音で中断された。廊下から複数の足音が近づいてくる。


「まずい、もう来てしまったか……」


 村井が表情を曇らせた。


●第5章:「座標が導く再会の刻」


 足音は確実に近づいていた。


「隠れるんだ、早く!」


 村井が二人を隠し部屋の奥へと押しやる。壁が元の位置に戻る直前、朔は廊下に現れた人影をかろうじて捉えた。警察の制服。そして見覚えのある顔。


「捜査一課の篠原さんでは?」


 朔が小声で言う。村井が無言でうなずいた。


「十五年前の捜査を担当していた刑事だ」


 壁の向こうで、ドアが開く音がした。


「やはりここですか、村井先生」


 篠原刑事の声が響く。


「ご苦労様です」


 村井の声には緊張が滲んでいた。


「十五年前の証拠を、まだ持っているんですよね?」


「なぜ今になって……」


「時効が近いんです。水野千夏さん失踪事件の。このまま迷宮入りにはできない」


 朔は息を殺して聞いていた。美咲の体が小刻みに震えている。


「彼女は生きています」


 村井の言葉に、室内が静まり返った。


「どういうことです?」


「あの日、千夏さんが見つけたのは、この学校の地下に眠る巨大な施設の存在でした。かつて軍が極秘に建設した研究施設です」


 村井は続けた。


「この測量機器は、その施設の位置を特定するために作られた特殊な装置でした。千夏さんは……その施設に関する重大な秘密を知ってしまった。そして……」


 突然、壁の向こうで物音が聞こえた。誰かが測量室に入ってきたようだ。


「村井先生!」


 聞き覚えのある声。朔の背筋が凍る。


その声の主は、水野千夏だった。


「千夏さん!?」


 美咲が思わず声を上げそうになるのを、朔が手で制した。


「もういいでしょう」


 千夏の声は、十五年の時を経てもあまり変わっていなかった。しかしその姿は……。


「みんな、出てきてください」


 朔と美咲は村井を見た。村井は小さくうなずき、隠し扉を開けた。


 そこには確かに、水野千夏が立っていた。

 制服姿の彼女を最後に見た日から、十五年。

 目の前の彼女は朔と同じ歳の筈だが、十歳以上は上に見えた。

 しかし目の奥に秘めた強い意志は、当時のままだった。


「姉さん……!」


 美咲が駆け寄ろうとした瞬間、千夏が手を上げて制した。


「美咲、ごめんね。こんなに長い間、不安にさせて」


 千夏は篠原刑事の方を向いた。


「私から全て説明します。十五年前の真実を」


 千夏は古い測量機器に近づき、その側面にあるパネルを開けた。中から一冊のノートを取り出す。


「これが、全ての記録です」


●第6章:「測れない記憶の重さ」


 測量室内は静寂に包まれていた。千夏が取り出したノートには、戦時中の記録が克明に記されていた。


「この学校の地下には、確かに軍の研究施設がありました。しかし、それは表向きの目的で、本当は……」


 千夏はノートのページをめくった。


「この土地には、ある特殊な電磁場が存在していたんです。その場所で特殊な測量を行うと、過去の記憶が "測定" できる。そう考えた研究者たちが、この施設を作ったんです」


 朔は息を呑んだ。自分の完璧な記憶力が、この土地と何か関係があるのだろうか。


「私は偶然、この事実を知ってしまった。そして村井先生と相談して、この事実を隠すことにしたんです。この技術が悪用されれば、人々の記憶が……」


 千夏はそこで言葉を呑み込んだ。


「しかし、もうその必要はありません。施設は老朽化し、電磁場も消失しています。この学校が取り壊されれば、全ては終わるんです」


 篠原刑事が千夏を見つめた。


「では、あなたはこの十五年間……」


「研究を続けていました。この現象の正体を科学的に解明するために」


 千夏は何かを思い出したのか、少し考えるような顔をした。


「私があの日見つけた記録には、この土地の電磁場が人体に及ぼす影響も書かれていました。そして……その影響は私自身にも現れていたんです」


 千夏は自分の左手の手首を見せた。かすかに青みがかった血管が浮き出ている。


「研究施設での作業した研究員たちは、特殊な症状を示していました。記憶力の異常な増強、そして……急速な細胞の劣化」


 篠原刑事が身を乗り出した。


「まさか、あなたも?」


「ええ。私の体は、通常の10倍のスピードで老化が進んでいました。このまま普通の生活を送っていれば、数年で命を落としていたでしょう」


 美咲は息を呑んだ。


「でも、研究所には治療法の手がかりがありました。この現象を研究し続ければ、私のような症状を治療できる可能性が……。だから私は、姿を消すことを選んだんです」


 千夏は懐から一枚の写真を取り出した。そこには研究所のベッドで眠る彼女の姿が写っていた。点滴を受け、モニターに囲まれている。


「村井先生と特殊医療チームの助けを借りて、なんとか一命を取り留めました。そして、この15年間、治療を続けながら研究を進めてきた。それが、私にできる唯一の選択だったの」

 千夏は美咲の方を向いた。


「本当にごめんなさい。でも、私にはこれしか……」


 美咲は涙を流しながら、姉に抱きついた。


 朔は窓の外を見た。日が傾きはじめている。すべての真実が明らかになった今、この校舎は静かに、その最期を迎えようとしていた。


●第7章:「新しい座標の零点」


 それから一ヶ月後、浦山高校の取り壊し工事が始まった。朔は最後の測量データを市役所に提出し、この仕事に区切りをつけた。


「これで終わりですか」


 西村が寂しそうに校舎を見上げている。


「ああ。お疲れ様」


 朔は測量野帳を締めながら答えた。


「先輩、この学校のことは、全部覚えているんですか?」


「ああ。僕の記憶からは、何一つ消えない」


 しかし、それはもう重荷ではなかった。記憶は、時として人を苦しめる。だが、それは同時に、大切な真実を守るものでもある。


 工事の音が響く中、朔は千夏から受け取った手紙を思い出していた。


『私たちは、それぞれの方法で真実を測っていたのかもしれません。あなたは完璧な記憶力で、私は科学の力で。そして今、その座標は交差したのです』


 朔は最後に校舎を見上げた。夕陽に照らされた校舎が、穏やかな影を落としている。


「では、行きましょうか」


 朔は西村に声をかけた。測量機器を片付け始める二人の背後で、古い校舎は静かに、新しい時代への移行を見守っていた。


(了)


---


◆測量用語解説


1. **経緯儀(けいいぎ)**:

水平角と垂直角を測定する測量機器。正確な位置関係を把握するために使用される。


2. **三角点**:

測量の基準として用いられる固定点。通常、石製や金属製の標識で、正確な位置情報が記録されている。


3. **測量野帳**:

現場での測定データを記録するノート。測量作業の重要な記録として保管される。


4. **座標**:

物体の位置を数値で表すための基準。測量では通常、緯度・経度や平面直角座標系が使用される。


5. **偏差**:

測定値と真の値との差。測量における誤差の一種。


6. **基準点**:

測量の基準となる位置。位置や高さの計測の起点として使用される。


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