消えたいわたしと透明な君

くれは

校舎裏にて

 中学校の教室は、いつだって息苦しい。

 授業中だろうと休み時間だろうと、わたしは教室の片隅で息を潜め、クラスメイトの目に怯え、体を縮こまらせながら周囲をうかがっている。クラスメイトの誰もが、わたしを無視すると同時に、面白い見世物のように一挙手一投足を観察してはあざけり笑う。

 頭がおかしくなりそうだった。

 授業終わりのチャイムが鳴って先生が教室を出るとさっそく、わたしに聞こえる声でそれは始まる。

「さっき先生に当てられたのにさ、なかなか答えないのやばかったよね」

「ねー、さっさと言えば良いのに。授業進まないし、困るよね、ああいうの」

 ああ、さっきは先生に当てられて、緊張でなかなか声が出なかったのだ。それで答えるのに時間がかかった。クラスメイトは「誰が」とは言わない。でもそれは確かにわたしのことだった。今こうしている間だって、ちらちらとわたしの反応は見られている。

「正直邪魔だよね」

「本当、なんでいるんだろう」

 こういうときいつも、消えてしまいたいと思う。わたしはバッグを手にして教室を出た。大きな笑い声が追いかけてくるのが怖くて、早足で廊下を進む。

 校舎裏までくると人の気配が遠のく。それでほっとする。昼休みはいつも、ここの木の陰に逃げ込んでいた。

 今日も木の幹をぐるっとまわると、思いがけず先客がいた。知らない男子生徒だった。足を止める。息も止めてしまった。

 いつもは誰もいないのに、と思いながら立ちすくんでいると、男子生徒が顔をあげてわたしを見た。そして目が合うと驚いたように目を丸くした。向こうも誰か来ると思ってなかったのかもしれない。

 わたしはきっと邪魔だろう、そう思った。だから逃げるつもりで後ずさりした。けれど意外なことに、彼は微笑んだ。

「君、いつもここにいるよね。邪魔しちゃってごめん」

 穏やかに話しかけられて、わたしは咄嗟に声が出なかった。

 校舎裏にいるとき、わたしはいつもひとりだった。だというのに、見られていたのだろうか。いつから? どこから?

 わたしは黙ったまま彼の姿を見る。自然な様子で壁際に座っている。さらりとした真っ黒い髪は少し長めで目元にかかっている。色白の肌。不安そうに揺れる瞳も暗い色をしていた。

 彼は眉を寄せて、ちょっと困ったような顔をして、自分の隣を示した。

「俺のこと、邪魔かもしれないけど……どうぞ」

「えっと……あの……」

 わたしは戸惑ったけれど、結局ほかに行き場所はない。そっと彼に近づいて、隣に座った。バッグを膝に乗せて抱える。

 隣の男子生徒はまた微笑んで、うつむき気味のわたしの横顔を覗き込んだ。

「君がひとりでここにいるの、いつも見てて。それで、一度話してみたいって思ってたんだ」

 なんて応えたら良いかわからずに、わたしはバッグをぎゅっと抱きしめて、ますますうつむいた。この男子生徒は、わたしのことをどこまで知っているのだろうか。クラスで面白おかしく無視されているのを知ってて、こんなことを言ってるのだろうか。こんなわたしと話してみたいだなんて、何を考えているのだろうか。

 もしかしたら、ここでのわたしの言動もあとで笑い物にされるのかもしれない。そんな恐怖があった。それを思うとわたしは、教室にいるときと同じように今すぐに消えてしまいたくなった。

 でも、と少しだけ顔をあげて隣の男子生徒を見る。

 穏やかに微笑んでいる彼の様子は、なんだかクラスメイトたちとは違う気もした。どうしてそう思ったのかはわからない。ただ彼も、もしかしたらわたしの側に近い人なのかもしれない。そんな気がしたのだ。

 それでわたしは、そのまま彼の隣に座っていた。


 その男子生徒は霧島きりしまれい、と名乗った。聞き覚えのない名前だった。クラスメイトではないし、同じ学年にいたかもわからない。

 名乗られてしまったので、わたしも名乗る。

「あの、結城ゆうきのぞみ

「結城さん」

 男子生徒──霧島くんは、ゆっくりとわたしの名前を繰り返した。そんなふうに誰かに名前を呼ばれるのは久し振りなことだった。胸の奥がざわめく。恥ずかしさと、怖さ。

「よろしくね」

 穏やかに微笑んで言われたその言葉に、わたしは何も返せない。視線を合わせるのも怖くて、うつむき気味に、小さく頷いただけだった。そんなわたしを咎めるようなこともなく、霧島くんは言葉を続けた。その視線はわたしを離れて、空を見上げる。校舎に切り取られたぼんやりと薄青い空が、そこにはあった。

「この場所ってひとりになれるから、僕は好きだったんだ。それで、結城さんがここにいるのを見て、もしかしたら同じなのかもって思って……それで気になってたんだ」

 ああ、やっぱり、と思った。霧島くんはきっと、わたしと同じ側。学校が、教室が、居心地悪くて、ひとりになれるこの場所に安心を求めている。それでもしかしたら、わたしと同じで消えてしまいたいのかもしれない。

 こっそりと霧島くんの横顔を盗み見る。穏やかに微笑む表情に、わたしは少し安堵した。霧島くんなら信頼できるかも。霧島くんにならわかってもらえるかも。

「わたし、わたしも……この場所でひとりになるのが好きで……ひとりだと安心できて。その、教室だといつも苦しくて、消えてしまいたくなるから」

「消えて……」

 霧島くんは、一瞬鋭い目つきをしてわたしを見た。喋りすぎたのかもしれない、とわたしは慌てて口をつぐむ。霧島くんの顔にはかげりが見えた。それでわたしは怖くなってうつむいた。誰かとこんなふうに話すのは滅多にないことだから、どうして良いかわからなかった。きっとわたしは余計なことを言ってしまったのだ。

「あ、あの、ごめんなさい。喋りすぎた……」

 わたしが謝ると、霧島くんは微笑んでゆっくりと首を振った。

「そんなことないよ。ただ……」

 ふ、と言い淀んだ霧島くんは、わたしから視線をそらして、雑草が生えている地面を見た。雑草の名前は知らない。ただ、地面に張り付くようなその姿は、よく見かけるものだった。

「なんていうか、僕と似てるなって思っただけ」

 わたしは瞬きをして霧島くんを見る。わたしが感じていたものを、霧島くんも感じていた。それが嬉しかった。そして同時に、胸が傷んだ。霧島くんも、きっと何かに傷ついてここにいる。きっと居場所を探してここに辿り着いた。そして、それに対してわたしは何もできない。

 霧島くんは視線をあげて、わたしを見た。わたしたちの視線が一瞬重なって、わたしはわずかに体をこわばらせた。けれどすぐに視線をそらしてしまった。言葉が何も出てこない。

 視線を合わせなくても、わたしの隣に霧島くんがいることを、意識してしまっていた。わたしたちはきっと、お互いをわかりあえた。わかりあえてしまったのだった。


 それ以来、わたしが昼休みに校舎裏の木の裏に行くと、霧島くんはいつもそこにいた。わたしを見ると、やっぱり最初はびっくりしたような顔をして、それからそっと微笑んでくれる。それでわたしは、学校へ行くつらさが、少しだけ和らぐのを感じていた。

 教室では相変わらずだ。クラスメイトたちからの見世物でも見るような意地悪な視線にさらされている。あざけりの声が、馬鹿にするような笑い声が、わたしを取り囲んでいた。そしてわたしは今すぐに消えてしまいたくなる。

 それでも昼休みに校舎裏に行けば、霧島くんがいる。彼の微笑みで、わたしの強張っている体は少し力が抜ける。彼がいなければ、わたしはとっくに登校を諦めていただろう。

 霧島くんとの会話はいつも穏やかだった。慎重に言葉を選びはするけれど、それでも相手を傷つけたくないと考えていることがお互いにわかる会話だった。彼との会話で、わたしは息の仕方を思い出す。傷つけられるための言葉を浴びせられてきたわたしにとって、霧島くんとの会話は、本当に安心できるものだった。

 気づけば衣替えの時期が過ぎて、わたしは冬服になっていた。秋とはいえ陽射しはまだ暑く、少し汗ばむような気候だった。霧島くんは夏服の半袖の白いシャツのままだった。彼は夏服のままなのだろうか。もしかしたら暑くて、ブレザーをどこかで脱いだのかもしれない。

「今日は、空が青いね。透き通って見える」

 そう言って空を見上げる霧島くんは、空のどこか遠くを見ていた。その横顔は少し寂しそうですらあった。わたしも空を見上げる。言葉通りに青くて高い、透き通った空だと思った。どうやっても届かない、どこまでも高く見える空。

 ぽつりと雲が浮いていて、わたしは手を伸ばした。当たり前のように届きはしない。風に吹かれて、形を変えて、流されている。

「あの雲は、なんだか今にも消えちゃいそうだね」

 手をおろしてそう言えば、霧島くんは悲しそうに頷いた。

「上空は風が強いんだろうね」

 言葉とともに、風が吹き抜ける。ふと、霧島くんまで吹き飛ばされて消えてしまいそうな不安があった。霧島くんはいつもここにいる。でも、その関係に名前はない。その心細さに、時折どうしようもなく胸が締めつけられた。

 霧島くんは、どうしてこの場所にいるのだろう。やっぱり何かから逃げてきたのだろうか。そうは思っても、それを聞くのはためらわれた。わたしだって、自分がどうしてここに来ているのかは話していない。そのことが余計に、わたしたちの関係を不安定に思わせた。

 風になぶられる髪を押さえて、隣を見る。風で揺れる木漏れ日が、霧島くんをまだらに見せていた。頼りない木漏れ日の光はきらきらと霧島くんを照らして、でもそれは陽の光に照らされる灰色の雲のようで、彼が急にいなくなってしまいそうな心配は消えてくれなかった。

 風にあおられた木の葉が、はらりと二人の間に落ちてきた。

 わたしは不安そうな顔をしていたのかもしれない。霧島くんは不思議そうに首を傾けてわたしを見た。柔らかな、優しい視線だった。それでわたしは少し安心して、笑った。こうして笑うのも久しぶりのことだって気がした。


 長く続いた残暑も落ち着いて、その日は秋らしい涼しい風が吹いていた。わたしはいつものように教室で、周囲からの視線に怯えながら授業を受けていた。

 短い休み時間に、ふと、教室のどこかでお喋りが始まる。

「昨日昼休みにゴミ捨て行ったじゃない? それで校舎裏を通りかかったんだけどさ」

 びくり、と体が震えてしまった。それはきっとわたしの話だと思ったから。見られてたんだ、と怖くなった。そしてもしかしたら、霧島くんのこともクラスメイトにばれてしまったのかもしれない。何を言われるだろうかと、わたしはうつむいたまま、体をこわばらせた。胸の奥に恐怖がわだかまり、息が詰まる。

「あいつ、ひとりで喋ってんの」

「何それヤバいね」

「だよね。頭おかしいんじゃないかな」

「こわっ! さっさといなくなれば良いのに」

 悪口の後半は耳に入らなかった。わたしがひとりで喋っていた、と聞いたから。昼休みなら、わたしの隣にはずっと霧島くんがいた。わたしはずっと霧島くんと並んで喋っていたのだ。

 なのにどうして、霧島くんのことは話題にあがらないのだろうか。わたしはひどく混乱していた。その後に続く笑い声すら、耳に届かなかった。いつもなら、手が震えるくらいの感情がわきおこるというのに。霧島くんのことに比べたら、そんなものは些細なことだった。

 衣替えがあっても夏服のままの霧島くん。今までは暑いからだと思っていた。でも、思い返せば違和感があるようにも感じられる。それに、霧島くんは何年生なのだろうか。どこのクラスなのだろうか。同じ学年じゃないのかも、とは思っていたけれど、わたしは霧島くんのことを何も知らない。彼が何かから逃げて校舎裏に来ているのだ、ということしか、知らない。

 でも、彼は確かにいる。

 わたしは確かに彼と出会い、毎日喋っていた。木漏れ日に照らされた霧島くんの優しい微笑みを思い出す。空気を震わせる柔らかな声を思い出す。彼とふたりで過ごす、静かで落ち着いた時間を思い出す。全部全部、本当のことだ。間違いなんかないはずだ。わたしはひとりじゃなかったはずだ。

 それとも、わたしが見ていた彼の姿は、わたしひとりの幻だったのだろうか。

 本当は今すぐにでも、校舎裏に行きたかった。行って確かめたかった。けれど、次の授業を知らせるチャイムが鳴る。サボってしまいたかったけど、クラスメイトたちの視線が怖くて、わたしは動けなかった。

 不安を落ち着かせたくて窓の外に目をやれば、秋風に色が変わり始めた葉っぱがもてあそばれていた。葉っぱはくるくると、まるで自分がどこに行くのかわからないように、飛ばされてゆく。ふと、風を追いかける霧島くんの視線を思い出す。彼の静かで少し暗い色の瞳は、いつだってふと消えてしまうような心細さがあった。

 校舎裏、いつもの場所に霧島くんはいるだろうか。ううん、きっといる。自分の不安を押さえ込もうとしたけれど、あまりうまくはいかない。何より、そうやって霧島くんの存在に不安を感じている自分が、嫌だった。

 あんなにいつも、隣にいたのに。一緒に話していたのに。

 先生の話は淡々と続いている。すぐにでも校舎裏に行きたいけれど、今は動けない。もどかしい気持ちで、わたしはじっと座っていた。


 昼休みになって、わたしは待ちきれない気持ちで校舎裏へ急ぐ。背後でまた何か言われていたけれど、構っている余裕なんかもうなかった。

 校舎裏のいつもの木。その陰に、霧島くんはいた。いつもみたいに。けれど、その姿を見てもわたしの不安はなくならなかった。冷たい秋風の中、霧島くんは白い半袖シャツの夏服姿だった。

 冷たい風に落ち葉が飛んでくる。そんな秋の景色の中、霧島くんの姿はひどく寒そうに見えた。だというのに彼は寒そうな顔色も見せずに、いつもとまったく同じように、わたしを見て静かに微笑んだ。

「こんにちは、結城さん」

 名前を呼ばれて、胸がぎゅっと苦しくなった。さらりとした少し長めの真っ黒い髪だって、少し暗い色の瞳だって、色の白い肌だって、確かにそこにあるのにひどく距離を感じてしまっていた。

「どうしたの?」

 わたしが立ちすくんだまま動かないせいで、霧島くんは首を傾けた。わたしを見る視線の中に、不安が見えた。わたしは覚悟して、霧島くんの前に立つ。震えそうになる膝に力を入れて、拳を握って、わたしは座っている霧島くんを見下ろした。

「霧島くん、どこのクラス? 何年何組なの?」

 わたしの質問に、霧島くんははっとした顔をした。それでも、わたしの言葉はそこまで意外なものではなかったらしい。少しだけ困ったように眉を寄せて微笑むと、自分の隣を示した。

「とりあえず、座ってよ。落ち着いて話した方が良いだろうから」

 言われた通りにおとなしく隣に座る。こうして隣にいても、やっぱり霧島くんはここにいるとしか思えなかった。季節外れの夏服だって、何か理由があるのかもしれない。クラスだって、さらっと答えてもらえるかもしれない。そんな期待は、すぐに裏切られる。

 座ったわたしをちらりと見てから、霧島くんは何か考えるように視線を揺らして、風に飛ばされる枯葉を目で追った。

「僕は……どこのクラスでもないんだ」

 霧島くんの言葉の意味はわからなかった。確かに学校の制服を着て、学校にいるのに。でもなんとなく、納得している自分もいた。きっと、彼は普通ではないのだ。

「……どういうこと?」

 わたしが聞けば、霧島くんはわたしの方を見た。そして、いつもみたいに微笑む。

「前はね、あったよ、クラス。何年何組だったかな。でももう、忘れちゃった。僕はとっくに透明になっちゃったから」

「透明……?」

 霧島くんの言葉がよくわからない。わたしは困って小さく首を振った。霧島くんは少し困ったような顔をして、それから空を見上げた。

「僕はね、これを透明の呪いだと思ってる。呪いなんだよ。透明になって、誰にも見えなくなって、誰の記憶からもなくなって、存在がなかったことになるんだ。だから僕は、ここにはいない人間なんだ」

 透明の呪い。つまり、この世界から消えてしまうってことだろうか。わたしが何も言えずにいると、霧島くんは言葉を続けた。

「だから僕にクラスはないし、誰からも見えないし、そうしてずっとここにいて、後はただ消えていくだけなんだ」

「でも……でも、わたしには見えてる」

 霧島くんはまた、わたしの方を見た。そうして、少し悲しそうに微笑んだ。

「それは……多分だけど、君も透明の呪いにかかりはじめてるってことじゃないかな。だから、君にだけは僕が見える」

「わたしが……?」

 瞬きをして霧島くんの表情を見る。透明の呪いというのは、つまり消えてしまいたいって思うことじゃないだろうか。わたしはいつも教室で、消えてしまいたいと思っていた。霧島くんにもきっと、消えてしまいたい何かがあったんじゃないだろうか。

 霧島くんはわたしを見ていた。悲しそうに、不安そうに……違う、これはきっと、わたしを心配しているんだ。わたしも透明な呪いにかかって、透明になってしまうから。

 わたしは透明な呪いなんか怖くなかった。透明になって、ずっと霧島くんといられるならその方が良い。それにわたしは、どのみち消えてしまいたかったのだから。

「わたしも、透明になりたい」

 その言葉に、霧島くんは目を見開いた。それから、急に鋭い目つきになってわたしの顔を覗き込む。

「そんなふうに言っちゃ駄目だ」

「でも……わたし、消えてしまいたい」

 わたしだって本気だった。居心地の悪い教室。いつだって感じてた息苦しさ。家でも本当のことは言えない。安心できる場所なんかない。わたしの居場所はどこにもない。だから。

 霧島くんがわたしの肩をつかむ。体温は感じられなかった。まるで空気が動いただけのよう。頼りない感触に、わたしは胸が苦しくなる。

「君はまだ戻れる。だから、戻ってほしい」

「そんな……じゃあ、霧島くんも」

 わたしの言葉に、霧島くんは悲しそうに首を振った。

「僕はもう、無理なんだ。だから、せめて君だけでも」

 わたしも首を振る。

「一緒が良い」

「駄目なんだ、ごめん」

 我慢できずに、わたしは泣き出した。重い沈黙のあと、霧島くんはまた「ごめん」と謝った。それでもわたしの涙は止まらない。

 秋風はひどく冷たかった。


 それからも、わたしは昼休みになると校舎裏に行った。教室には居場所がない。それに何より、霧島くんの近くにいたかったから。

 霧島くんはわたしの姿を見ると、ちょっと困ったように眉を寄せるようになった。それでも、その後にいつものように微笑んで、いつものように穏やかなお喋りをした。わたしが消えたいと言わなければ、霧島くんはいつもの通りだった。

 そして、校舎裏に行くのにマフラーが必要になる頃になっても、霧島くんは相変わらずの夏服姿で寒空の下にいた。季節が変わるとともに、少しずつ、少しずつ、変化は訪れていた。

 冬の弱々しい陽射しを受けて霧島くんの指先が溶けるように見えなくなることがあった。長めの真っ黒な髪が淡い色合いになって向こうの景色が透けて見えることもあった。彼の表情だって、時折ぼやけるように見えにくくなる。

 まるで冷たい風が体温を奪うように、霧島くんの体がうっすらと透き通るようになってきた。わたしのマフラーを霧島くんに巻いたら、それが止められるだろうかと、馬鹿なことすら考えた。

 霧島くんは消えかかった自分の指先を見て、仕方ないとでも言うように笑った。

「もうじき、まるっきり透明になっちゃうみたいだ」

 それがあまりにも、当たり前のように受け入れてみえたものだから、わたしは我慢していた言葉を言ってしまった。

「わたしも透明になりたい」

 言ってから、自分の言葉に違和感を覚えた。わたしはずっと消えたかった。今だって、教室では息苦しくて消えてしまいたいと思う。でも、わたしの本当の願いは、少し変わってしまったのかもしれない。

 それはきっと、霧島くんのせい。わたしは霧島くんと一緒にいたい。だから透明になりたい。透明になって消えてしまっても、霧島くんと一緒にいられるならそれが良い。

 霧島くんは困ったように眉を寄せた。何かを思うように空を見上げて、それからまたわたしを見た。

「僕は消えてしまいたかった。つらくてつらくて毎日消えたいって思っていた。だから、君にもきっと同じように、何かつらいことがあるんだって、わかってる。それでも……僕は君には消えてほしくないって、思ってしまうんだ。だって、透明になって消えてしまったら、何も残らないから」

 何も残らない、その言葉にうろたえる。そんなのは嫌だ、と気持ちが反発した。透明になっても一緒にいられるなら、と思っていた。でも完全に透明になって消えてしまったら、どうなるのだろうか。一緒にもいられないのだろうか。でもわたしは、一緒にいたいのに。

 黙っているわたしを見て、霧島くんはへにゃりと笑った。透き通った姿で、まるで今にも消えてしまいそうに。

「こんなの自分勝手だよね、きっと」

 そんなふうに言われて、わたしは何を返したら良いんだろう。霧島くんの半袖の肩の向こうに、淡く校舎裏の景色が見えていて、胸が苦しくなる。

 何も言えずに、わたしはうつむいた。だんだんと透き通ってゆく霧島くん。きっともう、あまり長くこうしてはいられないんだということだけは、わかっていた。


 その日は思ったよりも早くきた。冬のよく晴れた日で、空気は痛いほどに冷たい。昼休みに校舎裏に行けば、夏服の霧島くんはなんだかほとんど透けてみえていた。淡い姿はぼんやりと、蜃気楼のように揺らめいていた。

「もう、終わりみたいだ」

 静かに、霧島くんはそう言った。消えてしまうことは、悲しくはないのだろうか。表情を見ても、彼がどう思っているのかはわからなかった。

 ほとんど透き通ってしまった霧島くんの前で立ちすくんでいると、彼も立ち上がった。そして、わたしをそっと抱きしめた。彼の腕には温かさはなく、ただゆるりと空気が動いただけのような感触だった。

「君と出会って話ができて、嬉しかったんだ。ありがとう」

 わたしも霧島くんの背中に腕をまわす。でも、どれだけ手を握っても、夏服のシャツをつかむ感覚は頼りない。まるで空気を握りしめているようで、わたしは懸命にその体の厚みにすがる。それすらも心許ない。

「わたし、もっと一緒にいたい」

 霧島くんはわたしの体を少し離して、わたしの顔を覗き込んだ。そして、困ったように笑う。

「ごめんね、僕はもう、戻れないから」

「やっぱりわたしも消えたい」

 暗い色の瞳が、悲しそうにわたしを見る。そうして霧島くんは静かに首を振った。

「僕はやっぱり、君に消えてほしくないんだ。だって、僕を知っている人はもう、君だけだから。君の中にしか、僕はいないんだ、だから……」

 霧島くんは残酷だ。自分だけ消えてしまって、わたしには消えるなと言う。そんなふうに言われたらわたしは、霧島くんを覚えたまま生きていかなければならないじゃないか。

「わたしは……一緒にいたい。霧島くんと一緒にいたい」

 涙があふれ出した。わたしの涙に霧島くんはまた「ごめん」と言った。そして、ゆっくりと顔を近づけてきて、唇が触れ合った。なんの感触もなかった。まるで静かな風が通り過ぎたようだった。それで余計に涙がこぼれる。

「さようなら、結城さん。結城希さん、君は名前の通り、僕の希望だよ」

 そう言い残して、霧島くんが消えてゆく。わたしは霧島くんの体を掴もうとするけれど、何も掴めない。まるで風に花が散るように、霧島くんの体がどこかへいってしまう。わたしの手は宙をさまよう。けれどその感触はもう戻ってこない。

 そうして、霧島くんは本当に消えてしまった。


 今日もわたしは透明にならず、消えもせずに生きている。霧島くんのことも覚えている。霧島怜くん、透明になってしまった男の子。彼はまだ、わたしの中にいる。

 教室での息詰まるような日々は相変わらず。やっぱり消えてしまいたくなることもある。でもそのたびに、霧島くんの静かな声を思い出す。あの柔らかな表情を思い出す。そうすると、胸に火が灯ったように、消えたいという気持ちが揺らぐのだ。

 昼休みには変わらずに校舎裏に逃げ込む。そこにはもう霧島くんはいないけど、それでもやっぱり、わたしにとっては特別な場所。彼のことを思い出しながら、ひとりで静かに過ごす。

 他の誰がなんと言っても構わない。霧島くんだけはわたしのことをわかってくれた。わたしには、それだけでじゅうぶんだった。




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