第5話
マリアンヌは急いであの場所に向かっていた。
久しぶりの温室はきらきらと輝いていた。紫のグラジオラスがガラス越しに差し込む日の光を受けて暖かく光っている。育ちすぎのポインセチアがまるでお城の門のように感じられる。いつもよりすべてがまぶしく感じるのは気持ちの問題だろうか。
以前は誰にも温室に入るのを見られないように気を付けていたが、今日はそれも気にならない。授業が終わり、淑女に許されるギリギリの小走りで急いできたのに、ガーデンテーブルにはもう先客がいた。
「やっと来てくれたか! 隣国の王子でなくて残念だったな!」
ヒューイが晴れやかな顔でマリアンヌを迎えた。
「ヒューイ!! 言いたいことは山ほどあるわ! 一つ目よ!自分で来るとはどういうこと!??」
「あははは!! 家でのご令嬢を見てみたかったんでね」
「二つ目よ、何なの、あのお芝居の王子様みたいな恰好は! 噴き出すのをこらえるのが大変だったのよ!」
晴れやかな顔で大笑いしているヒューイは、貴族の御令息とは到底思えない。
「侯爵が、あのくらいインパクトが必要だって、ご自分の昔の服を貸してくださったんだ。俺もさすがにあれは恥ずかしかったよ」
「三つ目! 一番重要なことを確認するわよ、あなたの本名はなに!? フルネームで!」
「“ハーバート・アーヴィング”だ。親しい人は皆ヒューイって呼ぶ。マリアンヌもかわらずヒューイって呼んでくれ。ちょっと前まで商人だったが、今はアーヴィング男爵家の跡取り息子だよ。あと、グランヴェル侯爵の使用人というのも嘘ではない。グランヴェル侯爵家は後見についてくれているからね。当主の側仕えみたいなもので勉強させてもらっているんだ」
それを聞いてマリアンヌは呆れた顔で天井を見上げる
「成金男爵家のボンボン? 没落伯爵令嬢としては絶対結婚したい対象じゃない」
「……そうだろう? そう思うだろ?? あとついでに、伝統ある伯爵家の美しき御令嬢は、成り上がりの新興貴族の跡継ぎとしては絶対結婚したい対象だと思わないか? ……そう思われたらどうしようかって、言い出せなかったんだよ」
ヒューイはマリアンヌに、自分の状況を説明する。
アーヴィング家は二年前に世襲貴族となり、ヒューイは跡継ぎとなった。ヒューイの父はそれまでも侯爵家に目を掛けられていたので、ヒューイも子供のころから侯爵家に出入りしていた。しかし、貴族特有の空気が苦手で、将来は大商人になろうと考えていた。
男爵位も次ぐことになり、貴族の教養を詰め込まれた。学園も教養と勉強の一環、そして今後のためのコネづくり、そしてできれば、将来の伴侶を探してこいということで入学した。
ところが、今最も波に乗っているアーヴィング家の嫡男は、微妙な立場の貴族にまとわりつかれたり、財産目当てにすり寄ってこられたりと大人気で、辟易していた。
勉強で成績を上げたところで、「さすがアーヴィング男爵のご子息だ」などと言われる。家の力が自分の努力や才能を上回っていくのは、むなしかった。2年前までは単純に、「すごいな、ヒューイ!」と、言われていたのに。しかも貴族的な科目が原因で成績が振るわないので、それも自信を失う一因になっていた。
そんな時、成績優秀者の中にマリアンヌの名前を見た。何を言われても動じないマリアンヌを見て、気になっていた。
「温室で出会ったのは本当に偶然なんだ。俺も、一人になれそうな場所を探したから。どこかでただのヒューイに戻りたかった。……そんなきっかけだったけど、ただのヒューイとして、マリアンヌと話せるのは本当に楽しかった。でも、伯爵令嬢と男爵令息じゃ、お互い結婚の対象になってしまうだろ。……だからつい、もう少しこのままでいたいなって……」
「まあ、それは私とは結婚はしたくないという事かしら」
むくれるマリアンヌにヒューイは慌てる。
「いや、そうじゃなくて…… 俺も今まで、こ……恋とかそういうのなかったし、あと、君は高貴で美しく、高嶺の花、という感じだろ。俺なんかが手を出していいものかと」
「だからと言って、いくら何でも隠居された方にあてがうのはひどいと思うわ」
「それは誤解だ! 本当は、侯爵が出会いの場を用意してくれようとしたんだよ!」
ヒューイは丁寧に、何があったのかマリアンヌに語った。少しでも自分の気持ちを信じてほしいと、包み隠さず教えてくれた。
アドリアンにマリアンヌとの事を相談したこと、アドリアンが出会いの場を用意してくれようとしたこと、そこから手違いがあって、コンスタンティンとの婚約の話が進んでしまったこと。何とかいろいろ手を尽くし婚約解消させたこと。できることはすべてやろうと、自分で自分を紹介する手紙を書いて持参したこと。
「わかったわ。……それでも、本当に悲しかったし怖かったのよ」
「……すまなかった。本当に、後悔している。最初から名乗っていれば、こんなことにはならなかっただろうし、男爵になる覚悟が決まっていればもっと早く求婚できたと思う。……次期男爵の肩書に勝てる自信がなかったんだ。ただのヒューイはもう次期男爵なのに」
一生懸命説明してくれる姿に、ほっとしたのか、涙がこみあげてくる。
「ちゃんと言わせてくれ。……マリアンヌ・フローレンティア嬢に、ハーバート・アーヴィングは婚約を申し込む」
そしてヒューイは、スマートに跪き、自然な態度で手を差し伸べた。
胡散臭い仕草が見違えるように美しくなっている。まじめな瞳に努力の跡が見られた。
「ダンスパーティーでの運命の再会ができなくて、残念だったわ……」
「それは、また、そのうちにな。」
マリアンヌは差し伸べられた大きな手に、華奢な美しい手を添える。
「ハーバート・アーヴィング様、マリアンヌ・フローレンティアはそのお申し出を承諾いたしますわ」
ヒューイは少し笑って、恭しく手の甲に口付けしたのだった。
隣国の王子ではないけれど ru @megujo
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