最後のテルくん。
天道 源
最後のテルくん。
【最初に】
本作は、すこしふしぎ系SFですので、用語や理論は広い心で解釈いただけますようお願いいたします。
また、12万文字を1ページに掲載しておりますので、申し訳ございませんが、読み始めた場合には、読み終えてください……。
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最後のテルくん。
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プロローグ1/時空管C
棚七ヒナタは、浮かれる町の様子を思い浮かべた。幸せそうな人間が現れては、目の前を横切っていく。今日はクリスマス。起源を知らぬ人間だろうとも、笑顔を浮かべる幸福の一日。ヒナタの胸に様々な思い出が去来する。言葉は自然と漏れ出た。
「テルくんを……幸せにしてあげたい」
このときヒナタの未来は決まった。名月テル(なつき てる)を幸せにする――それが、今から始まる旅の確固たる終着点だった。
プロローグ2/時空管Z以外
「人を助けられるような、そんな人間になりなさいね。縁は巡り巡って、自分に返ってくる。幸せを求めるのなら、まずは他人に目を向けること。幸せになれないと嘆くのなら、なおさら誰かの手をとること。わかった?」
生前の母親が口にした言葉を、名月テルは忘れない。厳しくも優しかった母の台詞は、多感な少年の心に深く根付いていた。
テルが小学三年生頃の話である。かねてから闘病中だった母は、冬の季節に体調を悪化させた。気丈に振る舞い、心配を掛けまいとしたのだろう。しかし、風の冷たさが和らいだころ、溶けていく雪のように、そっと息をひきとった。
テルはよく泣いた。トラックの運転手であり家を空けがちだった父も、そのときばかりは息子のそばを離れなかった。狭くも古くもあった安普請の平屋は、それでも母の元気な姿が在りさえすれば、暖かな気配に満ちていた。が、それはもう望めない。
「お母さんは、そばでずっと見ていてくれるさ」と父が口を開いた。それは独り言のようにも聞こえた。「だから、頑張らないといけないよな」
葬儀が終わり、納骨が終わると、父はそんなことを言って日常へと戻った。否が応なく進む時間に背を押されるようにして、テルもまた自分の足で立ち始めた。
一つだけ変化していたことがある。テルの心の中に現れた違いだ。それは傷心から立ち上がるために、精神を支える松葉杖をついていたことだった。不可視の母親の像が、テルの心に手を添えていた。昨日のことのように思い出す言葉に寄りかかりながら、テルは母と在り続けた。
人を助けられるような、そんな人間になりなさいね――だからテルは、人を助ける。
プロローグ3/時空管C/SIDE‐A
関東平野に位置する天照地区には、大規模な工場地域が二つ点在している。西の〈紡績・機織所集り〉と、東の〈金属加工・機械整備工場地帯〉の二つだ。それらを分断するようにして川が流れている。北から南へ真っ直ぐと延びる大間川だ。その構図は、テニスコートを俯瞰したような対照的なものだった。
さらに西部の外側を埋めるのは、富裕層の多く住むベッドタウンである西天照市。テニスコートで言えば観客席にあたるそこは、宅地開発は進み、駅前も近未来。綺麗で清潔で近代的な町並みを目指し、日々成長していた。
一方、東部の工場地域を囲うのが、東天照市である。前時代的な雰囲気を強く残しており、鉄骨マンションの変わりに木造平屋が居並ぶような土地だった。特徴もなく、何かを削るような音が常にどこからか聞こえ、酔っ払いが昼から闊歩していても誰も目を向けないような場所。市に資金がないのも事実だが、変化の見られない停滞した町風景は、不変を望む住人の本望なのかもしれない。
――20××年の5月22日。
高校にあがったばかりの少年〈名月 テル〉が住むのは東天照市。その代名詞でもある古びた平屋だ。家屋の数は十六棟。歩行者専用道路を挟むようにして、片側に八棟ずつ建っていた。
隣家と密接している配置のせいで平屋が一続きに見える。まるで時代劇に登場する長屋のようであり、誰が名付けたか、住所は長屋町(ながやちょう)という。そんな古びた町で、名月テルは父親と二人で暮らしていた。
テルは今年で十六歳になる。身長は中の中。目鼻立ちはどちらかといえば中性的だが、最たる特徴はない。顔にはいつも笑顔が浮かんでいて、悪い噂はいっこうに聞かず、老若男女を含む周囲からの評判は常に満点。唯一目立つのは髪の色で、それはイチョウ色をしている。色素の薄かった母親からゆずりうけたものだった。
――朝9時32分。
日曜日のよく晴れた午前だった。日課である散歩へ行こうとテルはスニーカーを履いた。午後からバイトだが、それまでは自由の身だ。
「あ、テル。おはよ」
出かけに声を掛けてきたのは、隣の平屋に住む少女だった。名を綿星ヨウ(わたぼし よう)という。平屋で一緒に育った、幼なじみだった。
ヨウは寝癖のついた髪を、面倒くさそうにくしけずった。黒く艶やかな髪が、太陽光をいちいち反射している。伸ばしはじめた髪は、やっと肩上まで届いた。身長は並だが、Tシャツを突き上げる胸は並大抵のものではないサイズを誇る。一見して、女性的な記号が目立つが、線のはっきりとした顔立ちはネコ科を思わせるつくりだ。それも、豹やジャガーなどを連想させるほどに意思の強そうな造りだった。
「今日の散歩は早いね」とヨウは言った。「あたし、今起きたばっか。太陽まぶしい」
ふぁ、とあくびを一つ。それからヨウは眠たそうに、いってらっさーい、と手を振った。伸びをして、玄関先の水道で豪快に顔を洗いはじめる。途中、「あー、髪の毛ジャマくさい」と文句を言って、手で払いのけていた。
二人は、生まれも住まいも同じなら通う学校も同じ腐れ縁である。特に話すこともない。
じゃあいってくるよ、とだけ言ってテルは手を上げた。うふぁあ、とヨウが応じる。いつも通りのやりとりだ。
平屋に挟まれた道を、一人で歩く。すぐに大家と出会い、会釈を返した。今年八十になる好々爺である。彼もまた長屋町平屋の住人だった。卑猥な本に目がないのがたまにきずだが、住民からの評判は良い。
道を西へ進む。川沿いに出たいからだ。一部にしか板のはめられていない側溝を抜ければすぐなのだが、そこで一人の女性と出会った。〈綿星 ヒカリ〉。ヨウの母親だ。
「あらぁ、テルちゃん。今日もお散歩なの? 元気ねぇ」
頬に当てられた手にシワは一切なく、それどころか肌のハリツヤは子持ちとは思えないほど潤っている。
小さな居酒屋を切り盛りしているが、声に枯れはない。ヨウと並べば姉妹でも通ると、平屋では評判の美人母だった。仕事あがりなのだろう。客からの土産を手にさげている。質素な服の下から、子にしっかりと遺伝した胸がこぼれんばかりに主張しているが、娘とは違いその表情はやわらかい。まるで人懐っこい犬のようだ。
質問に対して、テルは一つ頷いた。それから二言三言の言葉を交わすと、ヒカリはほんわかと笑った。
「あの子、もう起きてたぁ? いくつになっても朝が苦手なのよねぇ」
テルは肯定した。顔を面倒くさそうに洗っていたことを伝える。
「あら、そうなのぉ。あ。あの子、髪の毛の文句言ってなかったぁ?」
頷く。
「うふふ」とヒカリは嬉しそうな笑みを浮かべた。「あの子ねxr、伸びた髪が嬉しくて、なにかと口の端にあげないと気がすまなくなってきたのよぉ。テルちゃんのせいなんだからぁ」
テルは首を傾げた。
「テルちゃん、ちょっと前にあの子に黒髪をすすめたんでしょぉ? しかも、ロングヘアが似合いそうだって言われたって、あの子、嬉しそうに言ってたわよぉ。毎月、毎月、テルちゃんと同じ髪の色に染めてたのに、急にやめちゃって。テルちゃんのこと、大好きだからねぇ。染まりやすい可愛い子なのよぉ――絶対にお嫁さんにもらってあげてねぇ。結婚式はすぐじゃなくていいからぁ」
テルはいつもどおり、曖昧にボカした。最後の台詞はヒカリの口癖だ。すぐそばにヨウが居たら、怒号が飛んでくるが、今日は当然聞こえてこない。
テルとヨウは物心つく前からの付き合いだが、惚れた腫れたの仲ではない。が、周りは時間の問題だと信じている。実際は、テルの父親を含めた平屋の大人たちが、さも当たり前のように話しているだけなのだが。
頃合いを見て、ヒカリとの会話を切り上げた。付き合っていたらバイトの時間になってしまう。物足りなさそうに手を振るヒカリを背にして、テルは平屋の通りを抜け出た。
護岸整備された川沿いの道に出ると、対岸の高層ビル群が目に映る。遠くに見える西天照市も、長い橋を渡りきれば、必然的にたどり着く。土地を踏むことなど容易い。しかし、向こうは絹の町。対してこちらは金属の町である。生活水準さえ違うのだから、何かの罰でも与えられているのではと勘ぐられても仕方がない。
とはいえ仕事に貴賎はない。実際は、反物などを扱う商家が多いのが西に集り、金属加工やそれ以前のさまざまな工場での日雇い労働者が集ったのが東と、必然的に住み分けが起こっただけである。
東天照市にも大金持ちは居るし、西天照市にも貧民層は存在する。あくまでイメージの問題であり、だからこそ、市もなかなかに拭えないイメージを払拭することに頭を抱えているのだった。
日曜日の工場は静かなもので、旋盤の回る音も、金属の打ち付けられる音も、平日のそれとは比にならない。
さびれているわけではない。世は未曾有の不況にさしかかったと、連日のようにメディアが騒ぎ立てていたが、天照地区の工業は過去と違わぬ勢いが健在し、同じような忙しさに追われているのだ。
だから、普段は見慣れない存在を目にしたとき、テルの歩調はすぐに滞った。工場地帯を東に見ながら、川沿いを歩いてる最中だった。道中、処理される前の廃品がつみあげられたゴミ山がある。何に使われるのかさえ不明の金属類が、一様には見て取れない法則によって分別された捨て置き場だ。
その山の中腹に〈白い何か〉が現れて、消えた。
テルは足を止めぬまま、目だけを細めた。白い何かが、ひらひらと動いている。サイズの大きい蝶が舞っているようにも見えたが、それはどうやら衣服のようだった。つまり人間だ。
本来ならば人が立ち入るような場ではない。車で運搬し、そのまま捨て置くだけだ。工場地帯の隅にあるので、誰かが意図なく訪れることも少ない。もし人間が居たとしても、近くには必ず運搬車両が見えるはずだが、それもない。機械いじりが趣味だという人間が廃品を漁りに夜な夜な侵入するらしいが、今は真昼間だ。
テルは立ち止まり、さらに注視した。ゴミで出来た大きな山が一つ。小さな山が三つ。にび色の鉄山が、墓石のように鎮座ましましている。右に左に視線を動かして――廃品の間隙をすり抜けた人影を見つけた。影は小さい。子どもだろうか。白い衣服を身に着けている。白衣にも見えた気がするが、子どもが着るものだろうか。
悪戯心に負けた少年か少女が、小さな冒険を楽しんでいるのかもしれない。ほほえましいことだが、目撃してしまった以上は放っておけない。怪我をする可能性が高いし、命を取られる場合だってあるだろう。ずさんな管理体制こそが問題なのだが、これが東側全体の風潮でもあるので、文句は言っていられない。
せめて注意ぐらいはしなければと、テルは進路を変えた。それが『棚七 ヒナタ(たななな ひなた)』との出会いに繋がる第一歩とは知らずに。
*
「……ん。なんだい。私は忙しいんだ。放っておいてくれ」
どうみても小学生にしか見えない少女の第一声が、それだった。
鉄の山の前に、テルは立っていた。発見した子どもを安全な場所へと誘導するべく、大義名分をかかげながら柵を乗り越えた末のことである。
降りてきたほうがいいとテルは再び口にするが、少女も同じ台詞を繰り返すだけだった。どんな理由からなのだろうか。少女はやはり白衣を着ていた。
見間違いではなかった。たしかに一人の少女が、確かにゴミ山の上に居たのだ。用途不明の金属類を選別しているようだ。目当ての品だろう金属製品を、慣れた手つきで背負った藤カゴに投げ入れている。危なげな場所だが、危険を感じさせない身のこなしだった。ためつすがめつする観察眼にも、熟練の職人を思わせる鋭さと安定感を宿している。
遊び心だけではないようだ、というのがテルの結論だった。行動に明らかな意図が見えるし、その行程にも無駄がない。場違いなのは突っ立っているだけのテルのほうだった。とはいえ少女の目的が何なのかは不明であるし、子どもが一人で危険な場所にいることも事実だった。
その背中をしばらく眺めてから、テルは考え方を改めた。なにか手伝うことはあるか、と尋ねてみた。
少女は初めて人が居ることに気付いたような反応をした。
「……なんだって? 君は、変態かい? それとも暇人かい?」
テルは反応に困ったあとに、どちらかといえば暇人だ、と宣言した。
少女はテルのつま先から、頭のてっぺんまでをじっくり観察した後、納得したように頷いた。
「……ふむ。悪い人間ではなさそうだ」
山を降りる猿のような勢いで、少女は坂を下った。テルの前に着地すると、背負ったカゴの中で鉄くずが大きな音を立てた。長い黒髪がふわりと広がり、白衣の裾が空気を受けて翼のように開くと年相応の衣服が露になった。太陽を無視した染み一つない真っ白な肌は、子どもゆえの特権。力がないような細い四肢だが、先の行動をかんがみるに、平均以上の運動能力を保持しているようだ。
何事もなかったかのようにすっくと立ち上がると、少女はどんぐりのような目で、再び、テルを観察し始めた。
どこか冷めた視線だった。小学生にしか見えないのに、アゴに手を添える様は奇妙なほど様になっており、人差し指がぷるぷると唇を弾いていた。目鼻にはほど良く筋が通っており、美しい造りをしていた。まるで見目麗しい成人女性が、そのままスケールダウンしたかのような造詣だった。
「とろそうだし、鈍そうだが……口は堅そうだ。うん。人手はあったほうがいい。これもシスターのいう、神の思し召しってやつなのだろうか……ま、そうだね、手伝わせてあげてもいいよ。どうせ短い付き合いだ。君、名前は?」
テルは名乗った。話がよく見えないが、子どものすることだ。いくら大人っぽいとはいえ、夏休みの工作程度だろう。
「そうか。名月テルね。うん。他人を無償で手伝うとは、シスターなみの善人なのだな。では私は敬意をもって、テルくんと呼ばせていただこう――さて、私の名前は重要かい?」
できれば教えてほしい、とテルは答える。視線を随分とさげないと、見下ろすようになってしまう。
少女は矢継ぎ早に答えた。まるで機械に命令しているようだった。
「うん。分かった。私の名前は棚七ヒナタという。よろしく。では手伝ってくれ」
棚七ヒナタ。変わった名前だが耳にした記憶はない。棚七家というものテルは知らなかった。このあたりの子どもではないのだろう。
いったい何をしているのか、という旨をテルはヒナタにぶつけた。
ヒナタは鉄山にしがみつきながら、振り返らずに言った。その口調は軽く、さしたる問題などなく、後は実行するだけだという確信さに満ちていた。
「うん。信じようが信じまいがテルくんの勝手だが、他言は無用で頼むよ――ずばりだね、私はタイムマシンをつくっているんだよ」
*
棚七ヒナタの話は突飛だった。
言葉を返せなかったテルを、ヒナタは当然の反応とみたらしい。作業の手を止めて、言う。
「そうだね。手伝ってもらうからには、一度、見てもらったほうがいいかな」
巻き戻された映像のように鉄山を降りると、「テルくん、ついてくるといいよ」といって先導した。
歩いたのは数十メートルだけだ。同じ敷地内の隅にちんまりと広がる、わずかな空間にたどり着く。踏み鳴らされた後もなく、種類の分からない雑草が生えそろった場所だった。
ヒナタは白衣のポケットから、テレビのリモコンのようなものを取り出した。
それはなにか、とテルは尋ねた。ヒナタはあっけらかんと答えた。
「テレビのリモコンだよ――さ、では開けるけど、一度目をつむってくれないか。裸眼のまま至近距離でみると、ダメージが大きい」
言われるがままに、テルは目をつむった。視界がゼロになる間際、ヒナタがリモンコンのスイッチを何度も押している姿が見えた。どこから取り出したのだろうか。遮光処理のほどこされたゴーグルを装着していた。
バチッ、とするどい音が聞こえたのはすぐのことだ。何かが放電したような音。だが、静電気によるそれとは比べものにならない。
テルは反射的に目を開いた。そして驚く。先ほどまでは無かった光景が目の前に広がっていた。見慣れぬ、おんぼろ小屋が目の前に現れていた。
「不可解なマジックでも見たような顔をしているね。ま、大して変わらないが――さ、入ってくれたまえ。ここが私のラボだよ」
明らかに木製に見える引き戸は、ヒナタが近づいただけで自動的に開いた。機械的な要素は一切ないが、自動ドアであるらしい。
ヒナタに続き、テルもドアをくぐった。
ふと威圧にも似た、不気味な気配を感じた。思わず、戸が引かれた方向を見る。
――絶句した。
二メートルはあろうかという鉄の塊が、そこに鎮座していた。機械を思わせる駆動音がかすかに聞こえる。随分と不恰好なロボットに見えた。
腕とおもわれる部位が、引き戸にかけられていた。つまり自動ドアではなく、このロボットが開け閉めをしたのだろう。事実、テルがくぐりぬけると、閉まりの悪そうな戸が、するりと閉められた。
視線に気がついたのだろう。ヒナタはカゴを降ろそうとしながら、しかし四苦八苦しつつ、説明を始めた。
「ああ。それはね、発明品№〇〇八二〈行動可能域拡張人為動機(こうどうかのういきかくちょうじんいどうき〉だ。略称はAPAER(アパエル)。呼称は〈ヴェルダンディ〉。本来なら人間が身に着けるものだが……今は、中枢にはめられている卵型のやつ……」
ヒナタの視線をたどると、鉄の塊の中心部に、人の頭大の何かが、はめられている。
「そいつがオート操作を実行しているのさ。人工知能を積んでいる。AIってやつだ。ヴェルダンディを自律させるために思考ルーティーンを組んだんだよ。AI名は〈スクルド〉という。発明品№は〇〇八三だ――むう。おろせない」
テルは科学に詳しくはないが、目の前にある物体は、詳しくなくてもよく分かる。アニメや漫画にごまんとでてくる。しかし、虚構の存在であるはずだ。
そんな大それた代物が、目の前に存在していた。それも今にも潰れそうな小屋の中にあり、あろうことか開発者は小学生だという。テルは頬をつねるが、夢は覚めない。口がぽかーんと開いていた。
「ちょっとテルくん、馬鹿なことをしていないで、こっちへ来たまえ」とヒナタが呼びかけた。己の尻尾を追い続ける犬のように、カゴを降ろせずに回り続けている。「初仕事だよ。これを、降ろしてくれないか。ひっかかってしまった」
視線を引き剥がすようにして、テルは観察をやめた。
落花生や瓢箪に手足がついたようなつくりの行動可能域拡張人為動機――通称・ヴェルダンディは、ボディの中腹につけられたセンサーでテルの姿を追っていた。
テルはひょいとカゴを持ち上げた。ヒナタはすぐに開放され、乱れた衣服や髪を手でざっと整える。礼を口にしてから、ヴェルダンティを見た。
「命令文開始――この人間はテルくん。攻撃は許さない。反撃は許す。七二〇時間以内に命令の上書きがなければ、反撃は許さないへ自動変更――命令文終了」
ヒナタはニッポン語で命令文を出した後、同じような内容の英文を口にした。
落花生や瓢箪に、無骨な手と足がついたようにも見える鉄の塊――その身、人類が未だに到達しえていない機械は、センサ類を再びテルへと合わせた。頭頂部にとり付けられたタマゴ形のAIが赤いLEDランプを点滅させると、内部スピーカーが雑な音声を発した。男とも女ともつかないノイズの多い機械声音だった。
『ガッチャ(Gotcha)』
「コピー?(Copy?)」
ヒナタが問うと、ふたたび頭部のランプが明滅した。
『コピー・ザット(Copy_that)』
「オーケー。スタンド・バイ。(OK.Stand_by)」
『バイバイ。(bye-bye)』
「……ワンス・モア(once more)」
『ヤーシュー(yassuh)』
ヒナタの語気がわずかに強くなった。
「ワンス・モア!(once more!)」
ヴェルダンディの機体が振動した――ように、テルには見えた。
『イエス・サー(yes sir)』
「エンド(End)」
ヒナタの言葉を受けると、ヴェルダンディの頭部の光が青くなり、わずかに起きていたらしい体躯は、体育座りをするかのように丸まった。
「どうだい。ニッポン人らしく、最後だけはきちっとしてるだろ? こうやってAIに学習させ、教育していくんだよ。ニッポン語は複雑で曖昧だからね。命令文はなるべく英文と二重でやって、自己学習させている。いずれはニッポン語だけで細やかな命令ができるだろうね」
テルは首を振った。
「む。なんだい。文句でもあるのかい」
テルは再度首を振り、感想を口にした。つまり、凄すぎてついていけない、という素直な意見だ。
「ああ、そうか。まあ、そうだろうな」ヒナタは目に見えて機嫌がよくなった後、いたずらが見つかった子どものような俊敏さで、態度を変えた。「ま、たいしたもんじゃあないよ。で、これが件のタイムマシンだ。これを完成させるためのパーツが足りなくてね。テルくんには部品集めを手伝ってもらいたい。鉄クズの山には、お宝がたくさんあるのさ。短い仲になるだろうが、どうぞよろしく」
ヒナタが指し示したのは、ヴェルダンディの脇に置かれた、やはり金属の塊にしか見えない機械だった。とはいえ、状況が状況である。タイムマシンといわれると確かにそう見えてくるのだから、テルも至極単純な性格をしている。
「ま、気軽にやってくれ。私は暇があればここに居る。見かけたら手伝ってくれ――ところでテルくんは、なぜこんなところに来たんだい?」
テルは、ヒナタの白衣を指さした。
「ははあ。これが目に映ったのか。反対色だからなあ。鉄の中では目立つのだね。それっぽいから着ていただけなんだが……まさか、テルくんのような人間が釣れるとは。テルくんは、ぼたもちだね」
ヒナタはそう言うと、満足そうに頷いた。
*
それからというもの、テルは鉄くずの山の前を通り続けた。学校が終われば帰宅時に、散歩の際にはいの一番に、ヒナタの姿を探しに歩く。
ヒナタは大抵、そこに居た。現場の人間に見つからないのが不思議だったが、なにかの発明品を使っているのだろう。
テルが尋ねると、ヒナタは首を振った。
「いや。危なくなったら影に隠れるだけだ。かくれんぼは得意だから」
変なところでアナログだなあ、とテルが感想を口にすると、ヒナタは顔を真っ赤にして怒った。
良く晴れた日曜日のことだった。
テルは、持ってきた弁当を差し出して、一緒に食べようと誘った。謝礼としての流れで提示したが、単純に昼時を挟むから持参しただけだ。
「む。なんだ。餌付けかい」
駄目かな、とテルが尋ねると、しばらく唸ったあとに、ヒナタは「わかった。食べてあげよう」と頷いた。怒りと唸りの表情の、僅かな間隙に一度だけ笑みが浮かんだが、本人は気づいていないようだった。
小屋に戻って、並んで食べる。
「ふむ。なかなか美味しいじゃないか」
ヒナタはおにぎりを口いっぱいに頬張りながら、評価した。頬に米粒がついていて、テルが何気なく取ってやる。交流をこばむネコのような動きで、ヒナタが顔を逸らして、気まずそうに向き直る。顔は赤く、ごまかすように咳払いをした。
「そういえばテルくん。先ほどから気になっていたんだが、その、ほっぺたのすり傷はなんだい? 先日は無かったと記憶しているが」
テルの頬には見るも痛々しい傷が出来ていた。黙っている理由もないので、説明する。これは荷物を持った老婆が階段から落ちそうになったので、身をていして支えたのだと。そしたら支えきれずに転んだのだ。でも老婆の支えは放棄しなかった。だから顔面を地面で擦った。
「……ふうん。あまり感心しない擦過傷だね」とつまらなそうにヒナタは言った。「人を助ける趣味は私にはないね」
テルは困ったような、それでいて同意するかのような複雑な笑みを浮かべた。
「む。すまない。私にも行動理念はある。テルくんにもあるだろう。それは他人から指図されるものではないな」
テルは首をふり、気にしていないことを伝えた。話題を変えるために、狭い小屋にところせましと並べられた用途不明の機械を指さした。説明を求める。
「ああ、それかい。それは、人間をイライラさせる発明品だ。発明品№〇〇一二〈イライラ光線銃〉という。対象に向けてトリガーを引くと、不快な音波を発生させるのだ。カップルに向けて打てば喧嘩を始める」
意見に困り、テルは眉を寄せた。
「お気にめさないかい? ならそれはどうだい――そう、それ。それは発明品№〇〇〇八〈カッターナイフ・オイレッター〉だ。そのオイルをカッターに塗ると、使用時にバキバキ折れてしまう。瞬間的に刃物の強度を下げるのだ。金属腐食液みたいなものだね。どうだい。困るだろう」
テルは尋ねてみた。なにか建設的なアイテムはないのかと。
ヒナタは不思議そうに首を傾げた。
「……? 十分、建設的じゃないか。光線銃なんか、別れさせたいカップルにぶつけつづければ、効果はてきめんだ」
テルは諦め、首を振る。ヒナタが天才と呼ばれる人間であることに異論はない。そして天才には奇人変人が多いという俗説があるが、あながち間違いではないのかもしれない。
会話のずれに気づかぬまま、ヒナタは弁当箱を閉じた。
「では作業を開始しよう。今日中に見つけたい部品があるからな」
出会ってから一ヶ月ほどが経っていたが、二人の関係はあいかわらずだった。
*
通い始めて二ヶ月が経っていた。
毎日何に使うのかすら不明の部品を言われたとおりに、集めていく。特徴や形を指定され、それに見合うものを背負ったカゴに入れていく。分からなければ聞きに行く。年功序列などというものは、鉄の山には存在しなかった。
人が現れたら、見立てておいた死角へ走りこみ、隠れる。その繰り返しだ。よくもまあ、見つからないと思うが、それが東天照市の良いところでもあるのかもしれない。
ある日のことだった。見つけた部品を査定してもらおうと、テルは山から下りた。ヒナタを探すと、タイミング良く、ヒナタも別の山から下りてくる最中だった。ヒナタの身体能力であればひとっとびすれば地面にたどり着く。
その時だった。ヒナタの白衣の裾が、巨大な鉄クズにひっかかった。それだけならば良かったのだが、いつもより大きな部品を入れていたカゴがその重量にまけて揺らいだ。
「わッ」と普段は冷静なヒナタの口から、焦りの言葉が生まれた。
それからのテルの動きは俊敏だった。無駄なく走りより、落ちそうになるヒナタを支えた。耐え切れなくなったカゴの紐が切れて、雨のように鉄くずが降ってくる。しかしひるまない。なぜならヒナタを支えているからだ。テルは自分の痛みよりも、相手の状況を優先した。
「もう大丈夫だ、テルくん、離すんだ」
ヒナタの言葉を受けて、テルはようやく動いた。額から血が流れている。鉄クズのするどい切っ先が頭にぶつかったらしい。
「ば、馬鹿か君は」と怒鳴られたのは、小屋のなかで治療を受けている最中だった。「なんて無茶なことをするんだ! 天才と自負する私でさえも、君の行動は理解できないよ!」
ヒナタは、らしからぬほどに感情をあらわにして、テルの無謀さを戒めた。すぐそばに待機するヴェルダンディが、医療キットの中身を的確に差し出している。
落ち着いたのは、数分後のこと。
「まったく」とヒナタは大げさに嘆息した。「滅私奉公とは君のことだね。人助けが趣味とは聞いていたが、まさかこれほどまでに馬鹿げた方法とは。〈助ける〉という行動方法を間違えてやしないかい?」
テルは頭をかいた。
「褒めてないぞ。大方、散歩としょうした休日の散策も、人助けをするための徘徊だろう?」
事実その通りである。テルは素直に頷いた。
「はァ……まあ、そのおかげで君という人材を得た私が言うのもお門違いかもしれないけれどね」
ヒナタは息を吸った。真面目な顔で、冗談を挟むことなく宣言した。
「テルくん。君、そんなこと続けていたら、いつか死ぬよ」
ポカンとしたテルの顔を十秒近く見つめてから、ヒナタは自分の行動に気がついたのだろう。
「……いや、私が言えることではないね」
そっとつぶやくと、顔を赤くして、小屋を出た。
*
テルとヒナタが出会ってから三ヶ月が経った。
すでに恒例となった昼食の弁当を口にしながら、ヒナタは責め立てるような口調で物言った。
「テルくん。なぜ君は昨日、ここに来なかったのだね」
自由でいい、と宣言しておきながら、ヒナタは協力の姿勢を求めていた。それだけテルを慕っているのだった。
テルは予定外のバイトが入ったことを伝えた。バイト先の一つであるコンビニエンスストアの店長が過労で倒れたために、空いたシフトを埋めたのだと。そのほかにも様々なバイトをこなしている。
話を聞くと、ヒナタは天然記念物を目にしたかのような驚きを見せた。
「テルくんはバイトをしているのかい?――そうか。ああ、いや、すまない。そうだな、そうか……疲れないかい。その、私の手伝いは無給だろ。学校もあるし」
問題はない、とテルは首を振る。好きでやっていることだ。タイムマシンの完成も心踊る。そもそもヴェルダンディだけでも、少年の夢である。
「そう、か……私は義務教育を放棄しているからいいが……そうか……」
物憂げに考え始めたヒナタは、その後、一言も喋らずに弁当を完食した。
小学校行かなきゃだめだよ、とテルが注意すると、ヒナタは「意味がない」とだけ返した。正論すぎて、テルは言葉を返せなかった。
でも、とヒナタは付け足した。
「でも、テルくんと同じ高校なら楽しいかもしれないね」
ニッポンに飛び級制度がないことを伝えると、ヒナタは今週一番の怒りを見せた。
*
時は移ろい、二人の出会いから四ヶ月が経った。
ふとしたことから住まいの話になった。テルはすぐそばの長屋町の平屋に住んでいる、と教えた。壁が薄く、隣の家の笑い声まで聞こえてくる。が、皆仲がいいので気にしない。そして我が家の左隣は空いているので静かなこと、そして右隣には幼なじみが住んでいることなどをヒナタに教える。
「ほう、なるほど」ヒナタは興味深く感心した。
ヒナタはどこに住んでいるのかと、テルは何気なく尋ねた。そのときは、二人がここで出会うことが当たり前すぎて、ヒナタの事情にまで配慮が届かなかった。
「ああ、私か」
ヒナタはなんでもないように答えを口にした。「私は西天照市の教会に住んでいるよ。昔で言えば、孤児院。いまの呼称だと児童養護施設にあたるんだろうね。私は捨て子だから、親はいない。とぼけたシスターや、お茶目なシスターや、おっちょこちょいなシスターや、厳格なシスターが母親代わりなのだ」
そうなんだ、とテルは頷いた。ごめん、とも付け足す。それから謝ることが失礼だと知って、さらに謝る。
「やめてくれ、テルくん。私は気にしていない」
ヒナタは事実、あっけらかんと言い放っていた。「テルくんのご家族は?」
話の流れからして、テルは己の身の上を自然と口にすることが出来た。
母親が死んだこと。父親はいるが、長距離トラックの運転手のために家をあけがちなこと。しかし隣に住む幼なじみの母親が面倒を見てくれること。
そして――母親の教えを体現するために、人助けを繰り返していること。
「そうか。そういう事情だったのだね。テルくんには、助け続ける理由がきちんとあるのか」
合点がいったとばかりにヒナタは頷く。「でもだね、テルくん。テルくんママの言いたいことはそういうことではないんじゃないのかい。己を一番に考えないと。助けるということは、滅私奉公ということと同義ではないよ」
テルには言葉の真意がつかめない。
返らぬ言葉に何を思ったのだろうか。
「いや、失礼。自分がされると嫌なことを人にしてしまうのは、私の悪い癖のようだ。初めて気が付いた。これまで……その、友達、などいなかったからね」
ヒナタは詫びると、作業へと戻っていった。何かを吹き飛ばすように、大きな声を出していた。
「ああ、今日も暑いなぁ」
*
時は停滞を知らない。二人の運命が交わってから五ヶ月が過ぎた。
その日のヒナタは可笑しいくらいにテンションが高かった。いちいちテルを見ては、似合わぬ笑みを浮かべている。それもいたずらを仕掛けた子どものような、面白くてしょうがないといった笑い方だ。
その理由はじきに判った。昼食のときである。
「はい、テルくん。これまでの分の給料だよ」とヒナタがお金を差し出してきたのだった。
その金額は五万。時給にすれば安いものだが、教会住まいの小学生が稼げる金額でもない。いや、とテルはすぐに否定した。目の前の存在は、特別なのだ。
「ああ、そのことか」
お金はどうしたの。テルが疑問をぶつけると、ヒナタは自慢げに胸をそらした。「私が稼いだ」
その方法を、諦めずに問いただす。
食い下がったせいだろう。いちゃもんをつけられたマジシャンのように、ヒナタは憮然とした態度で答えを口にした。
「優秀な拘束道具が欲しいという人間がネット上にいたから、それに準ずる発明品を譲ってやったんだ。発明品№〇〇二四の〈ハート・ブレイカー〉だ。胸に押し当てて使用すると、心臓が止まるのだ。もう一度、使うと動き始める。すごいだろう? 拘束具など比にならない。あまり長く使用すると脳死するので、注意が必要だが」
それからが大変だった。
まずテルはヒナタを叱った。前々から思っていたこと――発明品が、他人を困らせたり、場合によっては怪我をさせる可能性のあるものばかりだが、それは褒められたものじゃないこと。
「テルくんに褒められたくて、発明しているわけじゃない」とヒナタは頬を膨らませたが、じきにシュンと肩を落とした。
つぎに、お金を工面しようとしてくれたことはとても嬉しいことを伝えた。
「そ、そうだろ」とヒナタが挽回したとばかりに顔をあげる。
だが、人を傷つける発明品で稼いだお金は受け取れないことを伝える。
「そう、か」
最後に、いまからでも遅くないから回収しにいこうと提案した。
「でも、誰に渡したか分からない……住所なら分かるが。取引したのはおとといのことだ。一応、数十秒の会話記録はある。声紋データをとってみよう……」
詳しい状況を問いただす。ネット上に存在するサイトでやりとりを行ったらしい。メールアドレスと電話番号、そして発明品を送付した住所だけが情報の全てだった。
メールアドレスに返品要請を送るも連絡はない。電話は不通。住所を見ると、隣の県のものだった。テルは、運良く自宅で寝ていた父をたたき起こし、自家用車の軽トラック車を出してもらった。
荷台には、ヴェルダンディに乗り込んだヒナタが居る。父親に説明するのが難しいと頭を悩ませていたら〈不可視外装(ふかしがいそう)〉があるから平気だ、と宣言された。なんと、人の目に映らなくなるという。透明になるのだ。通称は〈プレゼント・ボックス〉というらしい。
その言葉の通り、父親は荷台に乗せられている鉄の塊であるヴェルダンディには気がつかなかった。が、車体の調子がやけに悪いと常に首を捻っていた。
目的地へつく。父にはコインパーキングで昼寝をしていてもらい、テルは問題の住所へ足早に向かった。背後を振り返ると、可視状態に切り替えたヴェルダンディが、たいした音も立てずに付いてきていた。人に見られたらまずい。注意し、不可視状態に戻してもらった。
機体にヒナタが乗り込んでいるからだろうか。無骨な図体に似合わぬ流麗な動線は、鉄の山を軽快に駆け下りるヒナタ自身を、容易に連想させた。
結論から言えば、事態は事なきを得た。ヒナタから発明品を買い求めたのは、大きな一軒家に両親と住む、無職の中年男性だった。彼は棚からぼたもちで手に入れた高性能のおもちゃを手に、意気揚々と出かけるところだった。
ヒナタの分析した声紋データと一致したところで、逃げようとした男を取り押さえた。もちろんヴェルダンディに乗ったヒナタが、である。
どうやら、人間相手にいたずらをしようとしたらしい。くわえて、以前にも同じようないたずらを試みたことがあるという。世間を騒がせた、未だ露見せぬ前科まで持っていた。全ての自供は、ヒナタの発明品№〇〇二〇〈実況自供くん〉の効果により、完全に引き出すことが出来た。自供データと共に縄でしばり、警察を呼んで、放置した。もちろん発明品を回収することは忘れない。五万円は青年の実家のポストに入れておいた。
翌日、ヒナタの小屋からは発明品が綺麗さっぱりと消えていた。
「とりあえず、№〇〇八一まであった発明品は、すべてスクラップしたよ。もう、テルくんに怒られるのはこりごりだ。今度作るとしても、それは人の為に作ろうと思うよ」
ヒナタは恥ずかしそうに付け足した。「人助けをするテルくんを、少しだけは見習ってね」
*
光陰矢のごとし。二人の出会いを遡れば、六ヶ月もの月日を辿らねばならない。二人の仲は、当初とは比較にならないほどに、密なものへと変化していた。
テルが人助けをし、なにか怪我をするたびに、ヒナタは悲痛な表情を浮かべた。
「テルくん。精神的な人助けなら、私も止めない。が、肉体的なものはまず、自分を第一に考えて欲しいと私は思うよ――助けてもらっている身が言っても説得力はないだろうけどね」
うるさそうにしていた諫言も、少しづつ受け入れるようになってきた。なにか成果があがるたびにテルへと報告を重ねた。
「小学校へは行かないが、教会にはきちんと帰ることにしたよ」だとか、「シスターがうるさいが、我慢している」だとか、「最近は、考え方を改めたんだ……」だとか。
あるとき、ヒナタの能力の話になった。天才とはいえ、規格外の知能を持っていることは、テルにも分かっていた。なぜこのような頭脳を持っているのだろうか。
ヒナタは視線を逸らした。
「どうなんだろうね。私は疑問を持ったことがないから、理由も考えたことがないな……両親の身元も分からないしね。色々と画策はしているが……最近はどうでもよくなった」
下げていた顔をあげると、一転、ヒナタはいじわるそうな笑みを浮かべた。「うらやましいかい」
そうだね、とテルは忌憚のない意見を述べた。分けて欲しいぐらいの偏差値なんだろうねと。
「そ、そうか」ヒナタはもじもじとし始める。「知能を分け与えることはできないが、遺伝子を配合させることなら、その、で、できるがな。つまり、テルくんと私の遺伝子をミックスさせればいいという意味だ。でもそれには、手順が必要だと聞いている……」
テルは首を傾けた。何を言われているのか、よく分からない。
「鈍感!」と叫ぶと、ヒナタはテルの向こう脛を思い切り蹴った。
テルが飛び上がると気が晴れたのだろう、ヒナタは作業に戻った。
*
そして別れの時は来た。二人の共同作業も七ヶ月目にさしかかった、その日。ついにタイムマシンは完成した。
完成したオーバーテクノロジー機器を、二人は感慨深い思いで見つめていた。
やったね、とテルは笑った。
「ありがとう、テルくん。一人で挑んでいたら、およそ二倍の時間はかかっていただろう」
ヒナタはそう言ってから、首を振った。「いや。もしかすると、一生をかけても終わらなかったかもしれない」
大げさだよ、とテルは返す。
「いや、大げさではない。事実、一人では気づけなかったであろうことを、テルくんには教えてもらった」
やはり意味がわからずにテルは首をひねった。とにもかくにも完成だ。テルは少年心をくすぐられ、踊る胸に気分を任せた。と、そこで重大な疑問にぶちあたった。なぜ今まで気がつかなかったのかが不思議なほどの問題を、テルは横に立つヒナタへぶつけた。
「ははッ。やっと気づいたのかい、テルくん。いつ聞かれるかと、途中からヒヤヒヤしていたけど、まさか完成まで気がつかないとは……私の見立てどおり、君はとびきりの鈍感だったようだね」
テルの質問とはこうである――ずばり、タイムマシンでどこへ行くのか。
「その質問はだね、テルくん。少しだけ待っていてくれないかな」
すんなりと教えてくれることに、テルは驚きを隠せない。
「ああ、いいんだ、もう。この答えは君が教えてくれたのだからね。テルくんには知る義務があるのさ。で、だね。実はきたる十二月二十五日に、教会でささやかなパーティーがあるのだけれど、来られないだろうか。少々、七面倒な手順は踏むことになるが、それでもただでケーキが食べられる素晴らしいパーティーだぞ。それで、その、そのときに、話がしたいんだ。質問の答えと、あと……私の気持ちを伝えたい」
テルに断る理由はない。快諾し、その日はバイト代が入るから、教会の子ども達にクリスマスプレゼントを用意したいと申し出た。もちろん簡易なものだ。
「それは素晴らしい。教会には私を含めて十三人の子どもがいるよ――良かった。なら、これが招待状だ。じつはもう皆には伝えてあるんだ……」
特別招待状、と書かれた色のついた用紙を、テルは手渡された。ヒナタのお手製なのだろう。頭はいいが、字を書くのは苦手らしい。しかし、暖かな文字の羅列だった。大事に懐にしまう。
気分が良いのだろう。平常よりも二割り増しの笑みを浮かべて、ヒナタは言った。
「ああ、テルくん。いいことを思いついた。完成記念だ。二人で記念写真を撮ろうじゃないか」
ヴェルダンディにデジタルカメラ機能を搭載したらしい。数ヶ月前の事件から、ヒナタは攻撃的な発明を一切しなくなった。
「よし、いいぞ。ベル」と、ヴェルダンディに指示する。最近になってヒナタ自身が愛称をつけた。「撮れ。二十連写だ」
『ガッチャ(Gotcha)』
フラッシュが幾度と無く光った。連続で二十枚を撮るためだ。一枚目は離れていた二人だが、二十枚目ではヒナタがテルに擦り寄っていた。まるで恋人のようだった。立ち位置の変化になど、テルは気づかない。
それから二人は、とりとめのない話をした。一本のジュースを手に、ささやかな完成パーティーのつもりだった。
「シスターはいつも願っているんだ。十字架を手に、私たちの幸せをね――ところで、神はいると思うかい」とヒナタは肩を竦めた。
いて欲しいな、とテル。
「なぜそう思うんだい」
母親の幽霊がそばで見てくれていると信じているからね。
「はは、テルくん。君は無宗教だね。幽霊とか神とか十字架とか天国とか、全部一緒くたなんだ」
よく分からないんだよ。
「テルくんらしいな。ま、私も似たようなものだし、この国ではそんなに珍しいことでもない――でも私は……神は居ないと思うな」
どうして。
「だって、それならなぜ私の……いや、どうだろう。そうか。もしかしたら居るのかな。だってテルくんと出会えたからな」
一人で満足そうにしているヒナタは、事実、幸せな気分のままで一日を終えた。
こうして発明品№〇〇八四〈タイムマシン・ウルドシステム〉は現実化した。
――二○××年の十二月の二十〇日。
時刻にして午後四時二四分のことであった。
/SIDE‐B
――二○××年の十二月の二十五日。午後四時半。
今日は待ちに待った聖夜祭だ。ヒナタは待ち合わせ場所である〈第二大間橋の歩行者用通路〉に立っていた。日もそろそろ落ちる。背伸びをして、なんとか欄干に手をかけると、遠くの景色を見た。車のヘッドライトがちらほらと行き交い、町の明かりがポツポツとつき始めていた。
ここに来るまでに、綺麗に装飾された駅前を通ってきた。赤や緑の電球が、ところせましと光り輝いていた。今日ばかりは、光に彩られた風景に酔いしれた。色の認識など波長の違いでしかないなどと馬鹿にすることなく心酔できた。すべてテルのおかげだ。
ヒナタは首を長くして、テルの登場を待っていた。うかつだったのはテルの連絡先を一切しらないことだった。互いに当たり前のように鉄山で会っていたので、気にしなかった。ヒナタが浮かれていたということもある。それでも合流できることを疑わないのだから、ヒナタのよせる信頼は並み大抵のものではない。
足元には、リボンがつけられた球体が転がっていた。スクルドである。テルへのクリスマスプレゼントだった。間に合わなかったが、ゆくゆくは収納可能な手足をつけて、お手伝いロボットにしてあげようと思っている。教会では渡せないので、出会ってすぐに渡したかった。録音機能を使った、お祝いの言葉も入っていた。同時に、贈りたい言葉も。
『メリークリスマス、テルくん! 私からのクリスマスプレゼント・スクルドだよ! それで……えっとだね。テルくん。あー、その、なんだ。言いたいことはたくさんあるんだよ。でも、そうだね……テルくんは、うん。あぶなっかしいところがあるからね! 私がそばで見ていてあげよう! そしたら、きっと大丈夫さ! それだけ! バイバイ!』
勢い良くはじまるものの、歯切れはどんどん悪くなる。本当は赤面するような言葉を入れたかったのだが、勇気がなかった。それでも今のヒナタの精一杯である。伝えたい言葉は他にもあったが、今日はこれで十分としておこう。
喜んでくれるだろうか。いや、きっと喜んでくれる。ヒナタはテルの反応を想像しては、我慢ならぬといった感じに笑った。
今日の為におしゃれまでした。シスターが貸してくれた白いベレー帽と、自動編み上げ機で作り上げた毛糸の白いポンチョの組み合わせがポイントだ。白衣姿しか見せていないから、これも驚くのではないか。妄想は妄想を呼び、高揚は高揚を呼び続けた。
おかしいことに気がついたのは、日も沈みきったころのことだった。テルがこない。待てども待てども一向に姿が見えない。
「レディを待たせるとは、ひどいテルくんだ」
ヒナタは不安を払拭するように愚痴る。五分が過ぎ、十分が過ぎる。やはりテルは訪れない。姿を現したなら、文句の一つでも言ってやろうと意気込む。そのために、過ぎた時間を一秒までカウントしておいてやるんだ――しかし、いくら時間を積み重ねても、文句を言う相手がやってこない。
どうしたのだろうか。
数時間前の高揚は消えうせていた。テルは約束を忘れてしまったのだろうか。テルに限ってそんなことはない。では、どうして来ないのだ。連絡したくでも、出来ない。もどかしい時間が過ぎていく。
「そういえば……」
ヒナタは思い出した。テルの住まいは鉄山の近くではなかったか。記憶を探る。そう――長屋町だ。
スクルドに声を掛ける。卵形のAIは動けなくとも、知識だけならば保有している。
「スクルド。検索、長屋町」
『ラジャー(Roger)』
すぐに答えは返ってきた。
「案内開始」
『ラジャー・ドジャー(Roger Dodger)』
決して軽くはない球体を、ヒナタは両手で包み込み、夜の帳の下りきった町を駆けていく。不安に支配された心の闇は、電飾ごときでは照らせない。
どうしたことだろう。さほど走っていないのに、息があがった。ヒナタは、いやおうなく浮かび上がる汗を拭い、スクルドを抱きなおす。
走りにくい。お洒落のためのベレー帽を手に持って、目的地へと向かう。
スクルドが目的地到着を告げたのは、数十分後のことだった。東天照市の長屋町。平屋は一箇所にしかない。確信を得て、ヒナタはテルの自宅を探し始めた。苗字は『名月』。忘れたことはない。
平屋にクリスマスの色は無かった。今日はクリスマスではないのでは、とヒナタは錯覚する。テルではなく自分が間違えているのでは、と思考が防衛に走る。が、手にもったベレー帽と肩のポンチョが全てを否定した。
七件目でやっと見つけた。表札に〈名月〉とある。薄いカーテンの向こうから、明かりが漏れている。住人はいるようだ。父か、テルか。どちらにせよインターフォンを押そうと手を伸ばした――そのとき、ふいに玄関の戸が開いた。
現れたのは、見知らぬ女性だった。胸の大きな女性。肩口まで伸びた黒髪は荒れ放題で、血走った目が恐い。年はテルと同じくらいだろう。
一瞬、家を間違えたのかと考えた。父親と二人暮しのはずだ。もう一度、表札を確認した。名月。合っている。
「……誰?」と女性は言った。声が枯れていて、うまく聞こえない。
「え? あの、テルくんは、居るだ……居ますか。今日、約束しているのですが」
「あ、ああ」と女性は呟いた。「ああ……テル……」
女性は途端に、しゃがみこむ。それから大声で泣き始めた。突然のことだった。ヒナタは目を白黒させて、一歩引き下がる。
声に反応したのだろう。開いたままの玄関から、さらに女性が現れた。大人の女性だ。ヒナタを見てから、泣き崩れる女性の肩に手を置いた。
「ほら」と新たに現れた女性が声を出した。こちらも声が枯れている。「ヨウちゃん。こんなところで泣いてたら、テルちゃんが悲しむわよ」
思いもよらぬ台詞に、ヒナタが反応した。
「あの、テルくんは……約束してるんです」
「ああ、そう……なのね」
大人の女性が視線を下げた。そこでヒナタは気がついた。女性の服装が真っ黒だ。今のヒナタの心よりも深い黒。まるで誰かを弔うみたいに、遠慮した色。
女性の口がゆっくりと開いた。
「ごめんね。テルちゃんはね、一昨日、死んじゃったの」
*
ごめんね。テルちゃんはね、一昨日、死んじゃったの。買い物に行く途中にね、赤信号で飛び出した子どもの手を引いて助けてね。変わりに自分が轢かれちゃったの。テルちゃんらしいでしょ。約束、破るような子じゃないのよ。だから、許してあげて。顔、見ていくよね。顔は無事なのよ。だから、どうぞ、あがって。ほら、見てあげて――女性の言葉を最後まで聞かずに、ヒナタは家にあがりこんだ。
手足は振るえ、感覚が消えていた。いつの間にか、スクルドとベレー帽を持っていない。しかし気にならない。部屋にあがると父親らしき人間がうなだれていた。その前に、布団が敷かれている。そこに何かが居た。顔に白い布をかけられた物体が、横臥していた。
鼻がかぎなれない匂いを捉えた。線香の香りだとは最後まで気づかなかった。女性がヒナタを追い越す。父親らしき人間と二言三言言葉を交わす。男性が慈愛の目を向けてくる。女性が促す。ヒナタは映画を見ているかのような不確かな感覚のまま、布団に近づく。女性が何かを尋ねてきた。意味も分からず答える。女性の白くたおやかな両手が、布団に横たわる何かに掛けられた、白い布を外し、その下から顔が現れて――ヒナタは駆け出した。
誰かの引き止める声がした。しかし止まらない。地面に落ちていたベレー帽を踏みつけて、しかしすぐに拾い上げて、スクルドを見つけて、そして抱きかかえる。いまだにうずくまり嗚咽する女性の横を駆けて、気がつくといつもの小屋に居た。
足の裏が痛い。ベレー帽は忘れなかったくせに、裸足で飛び出していた。小屋にうずくまっていたヴェルダンディは、スクルドがついていないせいで、動かない。寄りかかると、とても冷たかった。それは無機物だけが持つ、心地よさだった。決して、人間や動物が保持するべき温度ではない。それは死を意味する。
死――テルは死んだ。先ほどの光景を思い出す。青白いテルの顔が、まざまざとよみがえる。見間違いようのない死の色が、テルの顔に浮かんでいた。気味が悪いほどに、見知らぬテルがあそこには居た。
「いやだ……うそだ……」
言葉は力を持たなかった。
「テルくん……だから言ったのに……なんで……」
涙が流れていることに気がつくと、じきに心の堤防は決壊した。慟哭は小屋には収まらず、泣き叫ぶ姿はしかし誰の目にも映らない。
たった数日前に撮った、ツーショット写真が小屋に貼り付けられている。そこには記憶どおりのテルが笑っていた。今日は幸せな一日になるはずだった。クリスマスプレゼントを用意したテルが、ヒナタからスクルドを受け取って、重いよ、と文句を言う。それでも笑顔を浮かべて、ありがとう、と言ってくれる。だが、それはもう叶わない。絶対に叶わない。でも、それは本当に? 本当に叶わないのだろうか。二人が笑う写真の中で、二人を繋いだ物体が呼びかけるように座している。
タイムマシン――ヒナタの視線が、小屋の隅に引き寄せられた。
棚七ヒナタは、浮かれる町の様子を思い浮かべた。幸せそうな人間が現れては、目の前を横切っていく。今日はクリスマス。起源を知らぬ人間だろうとも、笑顔を浮かべる幸福の一日。ヒナタの胸に様々な思い出が去来する。言葉は自然と漏れ出た。
「テルくんを……幸せにしてあげたい」
このとき、ヒナタの未来は決まった。名月テルを、幸せにする――それが、いまから始まる旅の確固たる終着点だった。
*
――二○××年の大晦日、および正月。
遠くから除夜の鐘が聞こえてきた。テルがこの世界を去ってから一週間が立った。
ヒナタは小屋で一人、決意した。もう泣かない。そう決めた。目標を達成するまでは、何がなんでも破らない。
白衣のポケットに二十枚の写真をねじ込む。そこでは一枚ごとに、テルに近づくヒナタが居た。離れてしまったテルくんにまた近づきたい。ヒナタの思いは時をかけるのだ。
二人でつくりあげたタイムマシンに搭乗する。あらかじめ設けていた機能を使い、ヴェルダンディとスクルドを固定した。各種スイッチを跳ね上げて、出力を確認。ヴェルダンディとスクルドを補助動力とし、全ての項目が完全起動。オールグリーンを呈す。
「テルくん、待っていてくれ」ヒナタは言った。「ウルド・システム――起動!」
『イエス・サー(yes sir)』
ノイズの混じった機械音声が反応し、小屋の中を莫大なエネルギーが駆け巡った。
それから数十秒後のことである。金属工場地帯の隅っこから、一人の少女が長い長い旅へと出た。人類未踏の時間旅行である。が、それを知る命あるものは、どこにも存在しなかった。
旅のひとまずの終わりに、都合五年の歳月がかかることは、少女が天才であろうとも知りえぬことだった。
――Thank you for reading. Please read the next...
最後のテルくん。
第一章/時空管Zで会いましょう。
不良ではない。しかし、優等生でもない。では、ごく一般的な生徒だろうか。いや、それも違う。強いて言うのならば〈名月 テル〉はひねくれものだった。
イチョウ色の髪を跳ねさせて、テルは階段を駆け下りた。背後から迫る敵を、振り切らなければならない。下駄箱にたどりつき、下足を取り出す。履いていた上履きを脱いだところで、残念、敵に捕まった。制服の襟をつかまれる。
聞き慣れた声が背に掛かった。
「おいこら、テル。どこいくの」と敵であり、幼なじみでもあり、さらには天照東高校に在籍二年目の生徒でもある少女は言った。「そうじ当番でしょ。ほら、戻るよ」
少女の名前は〈綿星 ヨウ〉。テルのすむ長屋町平屋の隣家にすむ幼なじみだった。小学校も中学校も、高校も――それどころかクラスと班まで長年一緒の腐れ縁だ。はっきりとした顔だちと、歩くたびに揺れる豊満な胸は、男子生徒の視線を捕らえて離さない。テルと同じ色をしたショートカットは染めているだけで、天然色は黒である。テルとヨウは付き合っているという噂が流れるたびに、テルは大きな声で否定していた。そんな関係だ。
「いたい、いたい。離せ、ヨウ」とテルが暴れる。
「静かにしろ。離したら逃げるでしょうが」
「お前はエスパーか」
「ふさげんな」
ヨウの拳骨が、テルの脳天を叩いた。「アンタねえ。掃除もしないでどうすんの? 人様どころか、教室にまで素直に恩を返せないの? たまには私の手を煩わせずに、誰かの役に立ってみなよ。テルの母さん、天国で泣いてるんだからね?」
「うるせーな……」
「もっかい言ってみな! 叩いてやるから!」
手がテルの頭をはたいた。
「いてえ! もう叩いてる!」
「うっさい! 黙れ! フラフラした人生を送るなよ!」
ギャーギャーと騒ぎながら階段を上り、二年C組の教室へ戻る。見慣れた光景を目にして、同じ班の同級生が肩を竦めた。
――二〇××年、六月。
名月テルは、高校に入って二度目の夏を迎えようとしていた。
*
「ったく、面倒くせえ」
テルはぶつぶつと文句を垂れながら、机を運んだ。そうじ当番は、なかでも教室担当が一番手間がかかる。
「文句いうな」
ほうきを持ったヨウがチョップを食らわせる。
「いちいち叩くなよ!」
テルが叫ぶと、ヨウがさらに追撃した。
仲良いねー、と別クラスの女子生徒が横槍を入れた。同じ班の人間と一緒に帰るために、掃除の終わりを待っているらしい。かといって手伝うわけでもなく、教卓にひじをついて傍観しているだけだった。
テルは途端に黙り込む。基本的に人見知りであり、他人と話すことをしない。相手が女子ならなおさら。ならば騒ぎ立てるなといいたいところだが、ヨウを相手にするとどうしてもこうなる。
「うん、幼なじみだしね。付き合い長いからさ」
テルが黙ることなど百も承知のヨウが、掃除の手を止めて、当たり障りのない笑顔で応じた。
ねえねえ付き合ってるのー?、と別の女子生徒がなれなれしく質問を重ねる。
「んなわけないよー」とヨウは笑顔で否定しながら、この子の名前なんだっけ、と内心で頭を抱える。
でも髪の色とかお揃いにしてるじゃん?、と女子生徒がさらに突っ込む。
テルがつまらなそうに舌打ちをした。ヨウ以外は誰も気づかない。
「いやいや、あたしは染めてるけど、コイツのは天然だから。綺麗だよねー、テルの。あたしなんてぜんぜん」
へー、そうなんだー、付き合えばいいのにねー――いい加減、つまらなくなったのだろう。女子生徒は携帯電話をいじりはじめた。
「あはは……」とヨウは頭をかくと、掃除に戻った。「さ、テル。帰りたいならさっさとやってよ」
テルが机を運びながら、ボソリと呟いた。
「……サボってんのはどっちだ……」
「ていッ!」
ヨウの蹴りが太ももを打った。
「うおッ――っく、いてえ」
「聞こえてンの」
「いちいち暴力をふるうな!」
「うっさい!」さらに追撃し、指をつきつける。「これは愛のムチなの。分かる? アンタのためなの。理解した?」
愛のムチだって。今のってコクハク?、と周りがはやし立てた。
思いも寄らない拾い方をされて、ヨウがあからさまにうろたえた。
「い、いや、そういう意味じゃないから! ゼッタイ違うから!」
真っ赤な顔のヨウをクラスメイトが適度にいじりつつ、掃除は終わりを迎えた。三々五々に散るなかで、当たり前のようにヨウとテルの二人が残る。
「んじゃ、帰ろ。今日はバイトないよね?」
ヨウが促すと、テルはそっぽを向いた。バイトは完全不定の日雇いのようなもので、事実、今日は予定が入っていない。しかし、テルは首を縦には振らない。
「一人で帰れよ」
「なんで?」
心底不思議そうに、ヨウは首をかしげた。
「……ゲーセンでも寄ってくから」
「じゃああたしも行くよ。一緒に行こう?」
「いや、タバコくせえし。店内に居る奴ら、ガラわりいし。付いてこなくていいよ」
「ううん。我慢する。テルの用事が終わるまで待ってるから。終わったら一緒に帰ろ?」
「……やっぱり今日は帰るわ」
「うん。そうしようよ」
やり慣れた押し問答のすえに、二人で校舎を出た。ヨウはなにかと、テルの世話を焼く。それをうるさく思っているテルだが、いつだって最終的には手綱を握られているのだった。
校門を抜けたときのことだ。
「……ん」
テルは視線を感じて、振り返った。誰かに見られているような、そんな気がした。
「テル……?」ヨウが不思議そうな声をあげて、視線を追う。「なに見てるの?」
「ああ、いや……気のせいか」
「テル?」
「いや、なんでもない。帰ろう」
ヨウは不思議そうな顔で、首を傾いだ。
目をつむってでも歩けるほどに慣れ親しんだ東天照市。その脇を流れる大間川の脇に伸びる、舗装された道に沿う形で、天照東高校の敷地が広がっていた。だから対岸には西天照市が見えるし、その道を延々と南下するだけで、テルたちの住まいである長屋町にたどり着く。
緩やかに風吹く川沿いを、テルは物思いにふけながら進んでいった。考えることは一つ。先ほど感じた視線だ。なにも自意識過剰だとは考えていないし、対象が自分だとも思っていない。
隣を歩くヨウは、なんだかんだといいつつも幼なじみであり腐れ縁だ。だから人生の大半を共に過ごしてきた。その過程で、ヨウは三度、ストーカーの被害に会い、その全てをそばにいたテルは見てきた。一度、警察沙汰にまで発展したこともあった。その際は、テルも三針を縫う怪我をした。ヨウの身代わりとなったのだ。日常茶飯事に繰り返されるナンパは、さばさばした性格のおかげで断ることは簡単だ。が、付きまとわれてはどうしようもないのだ。母親の色香を受け継いでしまった一人娘は、黙っていても男性を魅了するのだった。
心配ではあるが、決死の覚悟で守ろうとは思っていない。が、今朝のことである。おせっかいな悪友から話を聞いた。いわく、『天照第一商業高校のヤバイ感じの先輩が、お前の彼女を狙ってるってよ。例によって、一目ぼれじゃねえの』らしい。彼女ではないし、何がヤバイ感じなのかも分からないが、聞いてしまったが最後。警戒は必要だろう。情報を集めようかと、顔見知りの集るゲームセンターへ行こうとしたが、今日は諦めた。
ヨウを好きだからとか、そういう理由ではない。本当に良い人間なら付き合えばいい。ただ、もしも泣かすような人間がヨウに近づくのならば、それが我慢できないだけだった。
テルは自分に言い聞かせて、ちらちらと背後をうかがう。大丈夫。誰もいないようだ。はじめて安堵し、しかし自分の行動と心境に恥ずかしくなる。必死に言い訳を展開した結論がボソリと口をついた。
「……飯を作るやつが居なくなるからな、うん。それだけだ……」
「なにそれ、あたしの悪口?」
「ぐッ!?」
ある場面でのみ地獄耳のヨウが、ヨウの顔をずいと覗いた。
慌てて、話題を変える。
「べ、べつに――っていうか、お前、今日も言われただろ? いい加減やめろよ、髪そめんの」
「ああ……これ」
ヨウは自分の髪を、指先でつまんだ。イチョウ色のそれは、テルの髪の色と同色だった。たびたびからかわれては、テルは苦言を呈している。
「別にいいじゃん。テルに直接的な迷惑かけてないし」とヨウは開き直った。
「かかって――ねえけえど。でも、おまえ自身にかかってるだろ」
「じゃあいいでしょ。私は好きでやってるんだから」
「お前さ、頭はそれなりにいいのに、その髪の色のせいで生活態度の評価は最悪なんだぜ。しってんの? それで大学とか推薦いけなかったらもったいないだろうが」
「知ってるよ。風紀委員と体育教師にモテモテのあたし。嫉妬する?」
「するか、アホ。俺は地毛って学校側が認めてくれてるからいいんだよ。お前こそ、母親が泣くぞ、天国で」
「死んでないから」
緩やかなチョップが飛んでくると、テルは素直に食らった。
「別にさ、大学なんて行く気ないしさ。あたしは働くよ」
「ヒカリさん、そんなこと許さねえぞ」
「テルはさ、そんなにあたしの髪色が嫌いなの?」
「だから、そういうわけじゃないけど……でも……」
テルは口ごもる。その先は、たびたび口にする機会に恵まれてきたが、そのたびに言えずに終わる。本当はこう言いたい。お前は黒髪のほうが似合うだろうし、あとは髪も伸ばしたほうが似合うと思う。俺の母親の髪型を真似るのは、もうやめろよ――でも、言えない。
「ま、なるようになるよ」
答えになっているのか、いないのか、不明の言葉で締めくくると、ヨウは笑顔を浮かべた。「今日、なに食べたい? おじさん、帰ってこないでしょ」
テルはため息を一つだけついて、頭を切り替えた。もうすぐ自宅だ。この話はまた今度でいい。
ならば考えることは一つ。夕飯はハンバーグがいいかな、と考えた。いやコロッケかな。いくつもの鉄の山が堆積するゴミ置き場を抜けると、長屋町は目の前だ。ここを抜けきる前に決めてしまおう。
しかし、決まらなかった。一部にしか蓋のない暗渠を渡り、平屋についた。
「優柔不断だよねー」
どこか嬉しそうにヨウは言った。「あ、ねえ。油借りてっていいかな。ちょっと買い置きなくてさ。コロッケでもハンバーグでもどっちでも使うから」
「ああ、いいよ。勝手に持っててくれ」
「ありがと」
まずはテルの家で油を徴収――そう決めた矢先のことだった。
「テルくん!」
音もなく、目の前に一人の少女が躍り出た。
「――うおッ!?」
「――きゃッ!?」
思いも寄らぬ登場に、テルとヨウは同じように肩を跳ねさせた。
見知らぬ少女は、二人の進路を阻むように、道の真ん中に立っている。どうやらテルの自宅前に待機していたようだった。吹き抜けていく風が、少女の衣服を揺らした。なぜだろう。白衣を着ている。待ち合わせでもしていたかのような気軽さだが、先は通さぬとばかりに二人の前に立ちふさがっていた。
「て、テルのお友達?」
ヨウが尋ねるも、テルには心当たりがない。しかし、家の前で待っていたようだし、名前も知られている。が、やはり見覚えはない。
「いや、知らないけど……」
目の前の少女を観察する。黒く長い髪が、白衣の裾とともに揺れていた。白衣は特異だが、それ以外の衣服はごくごく一般的だ。Tシャツと、デニム生地のホットパンツ、そしてよごれたスニーカー。なぜだか首に色付きのゴーグルを下げていて、トータルで見るとどこぞの研究員といった風にも見える。
顔はずいぶんと整っていた。目鼻立ちはモデルのようだ。四肢は細く、肌は白い。胸は小さいが、プロポーションは最高だった。桃色の唇は、歓喜に染まって口角が上がっている。
なにより目立つのはまん丸の瞳だ。大人っぽい印象なのに、その瞳だけが子どもだけが持つような色に輝いていた。
身長も中背のテルと同等か、わずかに高いか。年齢は――同じくらいだ。
そんな少女がもう一度、叫んだ。今度は、さらに強く。感極まった声音だった。
「テルくん! やっと見つけたよ! やっとたどり着いたよ!」
そうして少女は駆け寄って、テルに抱きついた。首筋に鼻をうずめるように、大胆に。
「な」ヨウの表情が強張る。「なにして、んの」
「え?」テルの顔が色づく。「あ、え? ちょ、ちょっと」
二人は絶句する。
「テルくん……ああ、やっと見つけたよ……テルくん……」
時が止まったかのような静寂の中、少女の声だけが生き生きと跳ねていた。
*
我が家の現状を見たテルは、ふたたび言葉を失った。
狭い室内を占めるのは、胃袋を刺激するようなかぐわしい香りだった。狭いちゃぶ台の上を、隙間なく埋めるのは、湯気の立つ料理の数々だ。
「私が作ったのだ。テルくん、さあ食べてくれ」
少女は自信ありげに薦めた。
「はァ!? 不法侵入だろ!」とテル。
「まあ、とりあえず食べてくれたまえ。私も成長したんだよ。作られるばかりではない」
中華、洋食、ニッポン食――テルは吸い寄せられるように、一品をつまんだ。料理とはまず、目で食べるものである。そんな至言をど真ん中からつらぬくような、完璧な盛り付け。それがテルの手により崩れてしまう。が、作品の輝きは一向に色あせない。手に持つは衣輝くエビのてんぷら。見目麗しいとはこのことだ。さくさくの衣を歯に当てるとためらいなく噛み切り、舌へと誘った。
そして思う。
「まずいッ!?」
「わあ、テルくん。君はずいぶんと素直なんだね」と首にしがみつく少女は言った。「なぜだろうね。見た目は完璧にすることが可能だが、味が不完全になる。衣を完璧にするために入れた、薬品がまずいのかな」
「なに食わせてんだッ!」とテルがえびを皿に叩きつける。
「っていうか、なに、あんた! テルから離れなさい!」とヨウが少女に怒鳴りつけた。
「まあ、落ち着くといい。綿星ヨウ」
「な」ヨウが驚きに顔を染めた。「なんであたしの名前、知ってんの……?」
「というかだな、おい。お前」
なれなれしい少女を首から引き剥がした。「お前、まさか親父の隠し子なんかじゃないだろうな……?」
ヨウは、思いもよらなかったのだろう。サッと顔色を変えた。
「ま、まさか。おじさんに限ってそんな……」
「うーん。それも良かったかもしれないが、残念ながらテルくんと私に血縁関係はない」
ホッとする二人だが、すぐにテルはハッと顔をあげた。
「ならお前は誰なんだよ! 勝手に家まで入って料理を作るわ……これ、犯罪だぞ!? 鍵はどうしたんだ、お前! つうか、誰だよ、本当に!」
「まあ、落ち着きたまえ、テルくん。君はもっと冷静になれる」
「落ち着いていられるか!」
初対面なのか。自分が忘れているだけなのか。判断がつかない相手に、テルは騒ぎ立てるしかない。
「まず鍵の件だが、それは大家さんが開けてくれた。交渉したのだよ」
「あンの、エロじじィッ!! とうとう一線を越えたなッ!!」とヨウが握りこぶしをつくって、飛び出していく。
「……大丈夫だろうか?」と少女が目を丸くする。
「ああ、うん。あれはいいや」とテルは首を振った。薄い笑みを浮かべる。「ほっといても、どうにかなる」
ヒナタが目をみはった。
「今の表情、やっぱりテルくんは、テルくんだ。どんな時空管だろうがテルくんだな!」
「なにを言っているのか、さっぱりなんだけどな……」
「なあ、テルくん。話をしよう。今日は夜通し話を聞かせてくれたまえ」
「しねえよ。ぜひ家に帰ってくれ」
「それは無理だ」とヒナタは断言した。
「……? なんでだよ」
「家はない」
「は? 家がないって、あんた、どういう」
そのときヨウが戻ってきた。肩で息をしながら、矢継ぎ早に答える。
「はァはァ……胸でも触ったのかと思ったら違うって。写真を見せてもらったから信用して開けたとか言ってたけど……来たついでに胸揉ませろとかいってきたから、殴っといた――で、写真ってなに」
「ああ。写真はこれだよ」
少女は白衣の胸ポケットから一枚の写真を取り出した。やけに色あせていて、古くみえる。が、右下に記された日付はほんの半年前だ。
小屋の中だろうか。壁の向こう側に、かすかに光が見えた。写真の中心には奇妙な機械が鎮座している。人物は二人映っていて、どちらも笑顔だ。一人はおそらくテル。もう一人は目の前の少女だろうか。が、どうもおかしい。似てはいるのだが、年が若すぎた。写真の中の少女は小学生ほどである。
「これがテルくん。これが私だ」と少女は指し示した。
「いや、たしかに俺だけど……撮った覚えなんてないぞ。半年前か……?」
「これ、本当にあなたなんですか?」警戒の色をにじませて、ヨウは詰問した。「たしかに似てますけど、年が違いません? それとも半年でここまで成長したんですかね。おかしくないですか? 合成写真かなにかじゃないんですか」
それについて、少女は黙秘をつらぬいた。突然、次の回答へと移る。
「で、私の正体だが――」
「ちょっと、まだ質問が」とヨウ。
少女はすうっと息を吸って吐き出すと同時に、己の名と目的を口にした。
「――私の名は、棚七ヒナタという。テルくん。私は君を幸せにするために来たのだよ。別の〈独立時空管〉からね」
テルとヨウは顔を見合わせた。
*
棚七ヒナタの話は突飛だった。
狭い部屋で、三人は車座になっている。座布団もしかぬまま畳の上にすわりこでいる。テルはオウムのように言葉を返そうとしたが、無理だった。
「別のドクリツ……? なんだって?」
「時空管だよ。スペースタイム・チューブ」
どこからかヒナタは紙と筆記用具を取り出した。指先でくるりとペンまわすと、A4用紙大の紙面に、つぎつぎと線を引いていく。すぐに幾筋もの直線が、紙面に現れる。その上にAからZまでのアルファベットを書くと、分岐のないアミダクジにも見える図式が完成した。
「あくまでもイメージだ。ここに書いた、いくつもの直線が〈独立時空管〉。そして紙そのものが全時間を包括する世界……つまりは可能性の全てを1として内包する、無限大の宇宙である。そして私は、たとえばこの〈独立時空管C〉からやってきたとすると、今いる線は〈独立時空管Z〉あたりになる。私はCのテルくんと知り合って、Zのテルくんにたどり着いたというわけだ。だから私はテルくんを知っているが――」
「ちょ、ちょっと待ってよ」ヨウが耐え切れずに口を挟んだ。「あなた……えっと、ヒナタさん? 何をふざけたことを言ってんの? いいかげんにしなよ。警察呼ばれてもおかしくないって、分かってる?」
「――この独立時空管のテルくん。つまり君は私を知らないということになり、今のような関係が出来上がるというわけだ。君らは私を知らない。私は君らを知っている。では、テルくん、質問は?」
バン、と手の平が畳に叩きつけられた。ヨウの両手だった。
「無視すんなよ!」ヨウがよそ行きの顔を捨てた。通りの良い上質な声が、とても下品な言葉を連ねる。「テルくん、テルくんってなれなれしいんだよ! ふざけんなよッ!? 知らないっていってんだから諦めろよ! こっちは警察よんだっていいんだよ!」
全てを出し切ったのか、はぁはぁ、と肩で息をするヨウを、テルはどうどうと宥める。
「ちょ、ちょっとヨウさん……?」と、おそるおそるテルは言う。歯止めのきかない幼なじみは、長屋町だけで見られる戦闘モードになった。テルは夜叉状態と名づけている。
一方、怒鳴り声をあげられた当人であるヒナタは、あっけらかんとしたものだった。眉ひとつ動かさずに、ヨウへと視線を向けた。
「綿星ヨウ。君がテルくんを好きなことは重々承知している。世話をしたいという欲求も理解できる――」
「なッ……」
ヨウが息を呑む。顔が急激な速度で赤に染まる。
テルは幼なじみとしてのライクだと解釈し、頬を指さきで掻くだけ。
「――だが、私もテルくんが好きなんだ。だから、こうしよう。折衷案だ。君は変わらず世話を焼く。私はテルくんを守る。どうだ? 合理的な棲み分けだろう。問題はないはずだ」
「こ、こ、こ」
ヨウの身体が怒りと恥ずかしさに震えはじめ、不思議そうな顔をしたヒナタが首を捻った。
「ニワトリの真似かい?」
「ここから――」
ぶちっと、堪忍袋の緒が切れた音をテルははっきりと聞いた。
「――出て行けえええええッ!!」
数秒後。靴を手にしたヒナタが、外に投げ捨てられていた。
*
困ったように頭に手をやったヒナタは、玄関さきをうろついたあと、ぶらぶらとどこかへ行ってしまった。
「……行った」
ヨウが塩を手にして、外を確認した。肩でしていた息を整えると、憤懣やるかたないといった感じに叫んだ。「なんなの、アイツ! 意味わかんない!」
「いや、落ち着けよ、ヨウ……」
「なにッ!? テルはあいつの味方なワケ!?」
「味方もなにも、覚えがないっていうか」
「ならいいじゃん!」
ヨウはぷりぷりとしたまま塩をつかみ、玄関にまいた。それでも気がおさまらないのだろうか。もおおお、と頭を掻いた。その顔はなぜか赤い。機嫌がなおるまでに、その実、三十分を要した。
ちゃぶ台を片付けるために、ヨウは用意されていた食事を捨てようとした。が、なぜだろうか。ジッと見つめた後、口に運ぶ。まず……、と呟くとラップを持ってきて、一つづつ丁寧に片付けはじめた。
「捨てないのか?」とテルが言う。
もったいない気もするが、なにが混入しているか知れたものではない。
「ん」とヨウは悔しそうな顔をした。「よく分からないけど、今はやめとく」
本人なりにも思うところがあるらしい。夕食の用意が始まったのは、それからさらに三十分後のことだった。
食事を共にする場合は、ヨウの自宅で食べることが多い。調味料も揃っているし、かたづけも楽だ。時間がないとのことで、簡単なメニューで済ますことになった。チャーハンともやしスープに決まる。
二人で食卓につく。テルの父は今頃、北部から徹夜で南下していることだろう。ヨウの母は店を開けている時間だ。テルの母は死去しており、ヨウの父はどこにいるのかが分からない。そして子ども二人はといえば、互いに身を寄せ合うように夕食をとる。二人の関係はあくまで幼なじみの腐れ縁だ。テルはときおり、恐くなる。この関係が変化してしまうときが来るのだろうか。無くなる瞬間が訪れるのだろうか。ヨウに話したことはない。だって、何が恐いのかが分からない。そして何が変わってしまうのかも。
「ごちそーさん」テルがスプーンをおいた。「洗い物したら、帰るわ。もう寝る」
「そう? 早いね」言いつつ、ヨウの言葉をあくびが遮った。「私も寝ようかな。なんか疲れちゃった」
互いに黙り、あえて避けていた話題に触れた。
「テルさ、本当に覚えがないの? あの子のこと……」
「ああ、ないと思うけど」否定することは簡単だが、あそこまで当たり前のようになつかれると、記憶を疑いたくなるのも道理だった。「でもまあ、だいぶ怪しかったよなァ……ドクリツ、ジクウカンだっけか。意味がわからんだろ。映画の見すぎか? それにしても無茶苦茶だ」
ヨウが視線を落とす。
「かなりの美人さんだったよね。線が細くて、モデルみたいだった。テルのお母さんも、結構、ああいったタイプだったよね」
方向性の変わった話に、テルはかろうじてついていく。
「そうか? まあたしかに、言われてみればそうだったかも……?」
「タイプなんじゃない? 男の子って、お母さんみたいな人を好きになるんでしょ? 実はいますごい嬉しかったりして」
ヨウのからかいに、テルは眉根を寄せた。
「お前、何言ってんの? 熱でもあんのか」
「う、うるさい!」
「というか、あいつ、また来るのかな……? どうすりゃいいんだよ」
「そんなこと知らない!」
飛んできた座布団を白羽取りで止めて、テルはちゃっちゃと家事をこなす。作ってもらったら食器洗いはテル。暗黙の了解、当然の帰結だ。
簡単な挨拶を交わして、自宅へと戻る。風呂へ入り、布団を敷いた。
テルもヨウも自室というものがない。なぜならば平屋の間取りが、畳の八畳間と六畳間が一つづつという造りだから。キッチンは八畳間に板の間と共に併設されていて、あとはトイレと風呂だけだ。二人暮しとはいえ、生活道具をそろえると自室の余裕はないのだ。が、それでも文句はなかった。ほぼ、一人暮らしのようなものだ。
電気を消して、せんべい布団にもぐりこむ。月明かりが室内を照らしていた。目をつむると、完全な暗闇。外で鳴いている虫の声が、際立った。
どうしたって頭を過ぎるのは、先ほどの一件だった。出会いから別れまでを、丁寧に思い返す。それからテルは記憶を探ってみた。出来うる限り、原初の映像まで。
「……駄目だ、記憶にない」
慕われていた様をかんがみるに、相当に仲の良い間柄だったと思われる。それならば、顔、名前、ツーショットの写真に刺激されて記憶が掘り返されたっておかしくはない。それすらないのだから、どうしようもなかった。意味の分からない話をしていたが、想起の鍵とはならなかった。
寝返りをうった。さいころの目が変わるように、思考対象が変わる。そういえばと思い出す。家がないとか言っていた。
「大丈夫なのかよ……」そこまで考えて、額に手をやった。「いやいや。人を助ける余裕があるか? ねえだろ。これ以上、どうしろってんだ」
目を開き、天井を見た。生まれてからずっと見ている染みが、いくつもある。日ごろ考えまいとしていることが、どうしたことだろうか、今日は湯水のごとくあふれ出してきた。必死に手で抑えても、イメージは収まらない。
思い出すのは、母親の姿。昔は母親と並んで寝ていた。父親が帰宅すると川の字になる。あの頃は気楽だった。死去した母の姿が、笑顔と共に浮かび上がる。厳格であると同時に、鋭い優しさを持っていた母。よく口の端にあがっていた言葉が、母親の唇の動きと共に再生された。
『人を助けられるような、そんな人間になりなさいね』
「……くそッ。なんでこんなときに……」
テルは布団を蹴りあげると、寝巻きのジャージのまま靴を履いた。見つかるだろうか。いや、見つけなければならない。母親の笑顔が壊れないうちに。
*
どこへ行ったかなど皆目検討がつかない。が、もしも自分と生活圏が一緒の人間だったのならば、川沿いに重なっている可能性が高い。
テルはそう考えると、暗渠を抜けて、川べりの遊歩道へと出た。通学路でもあるその道を、北上する。金属工場地帯がじきに現れると、目的の人物はあっけないほどすぐに見つかった。
棚七ヒナタは工場地帯を眺めるようにして、芝の生えた歩道わきに座りこんでいた。
「……おい、あんた」
テルは近づきながら、声を掛ける。簡単に見つかりすぎて、自分がうまいことはめられたような気分になったが、少女の顔を見て、そんな気分はすぐに頭を引っ込めた。
「ああ……テルくん。探しにきてくれたのかい」
ヒナタの表情には何も浮かんでいなかった。深い悲しみの色も、浮き立つような喜びの色も、何一つとして現れていなかった。テルはその表情を知っていた。母親が死んだ後、父親が浮かべていた。
手でもてあそんでいた石ころを、ヒナタは投げ捨てた。向かう先は、鉄クズがまとめられたゴミ捨て場だった。何かにあたったのだろう。カーン、と高い音が虫の鳴き声にまざった。
テルには気づかいの言葉が思い浮かばず、用件を口にするしかなった。
「あんた、本当に家がないのかよ」
「ヒナタ」と少女は返した。能面のようだった顔色が一転し、破顔した。「そう呼んでくれると、私はとても嬉しくなる。頼めるだろうか」
「え、ああ……まあいいけど……」ほぼ初対面で呼び捨て。それも相手が同年の女性となると、気恥ずかしさを覚える。が、さきほどのプラスチックのような顔を思い出すと、断れなくなった。「つまり、だな。ヒナタは今、寝る場所がないのか?」
「ああ、その通りだよ。お友達のお腹の中で眠ることも可能だが、あれは首が痛くなる。眠る場所には数えたくはない」
「……? よく分からないけど、まあ、分かった」
それなら、とテルは言う。「うち、来いよ、誰も使ってない布団もあるし、一晩くらいなら問題ないだろうし。親父も明日にならないと帰ってこないんだ。あいかわらずお前……ヒナタのことは思い出せないし、正否もわからねえけど……これも何かの縁だろ。一晩くらいならいいから、来いよ。その、気になってさ、おちおち寝てらんねえし」
「そうか……」
さほど嬉しくなさそうな声だ。ヒナタは立ち上がると、工場地帯に背を向けて、反対側へと歩く。鉄山を視界に入れることを拒むように。
反対側は川と西天照市が、景色の主となる。護岸のために堤防が出来ており、川にむかって傾斜がずいぶんと続いている。ヒナタはふたたび座り込むと、足を投げだした。それから懺悔をするように、つらそうな声を出した。
「本当は、駄目なんだ……私はずるいんだ。助けてもらってはいけないと知っているのに、テルくんに近づきたくて、こんな場面を作り出してしまった。テルくんなら笑って許してくれることを知っているからな……毎回それの繰り返し。そして失敗。また挑戦。そして失敗、また挑戦。これが本当に最後の可能性だろうに……また失敗したら私の挑戦心は折れるのだろうか。ろうそくの炎に水滴がたれるように、一瞬で」
抽象的で、不可解で、そして大げさな物言いからは、何一つとして明確な情報を得ることができない。
それでもテルは口を開いた。見知らぬ人間のはずなのに、崩れそうな横顔を見ていたら、言葉は自然と生まれた。
「別に、そこまで大それたことじゃないだろ。もう、いいからさ、うちにこいって。ヨウが嫌なら、見つかるまえに出て行けばいいし。二部屋あるから別々に寝られるし。なにか悩みがあるんだったら……そうだな。助けられないかもしれないけど、役所とか、あとは平屋の人間とか、なにかしらの伝は紹介できるかもしれない」
テルは自分の言葉に驚いていた。なぜ、相手をおもんぱかっているのだろう。他人だ。赤の他人だ。関係などないのだ。そう思おうとしても無駄だった。
昔から、明確な救難信号を見逃せない。助けて、と手を伸ばされると無視ができない。目を逸らして生活していても、目の前で泣かれたら、視線を外すことが出来なくなる。冷酷になろうとしても、心の芯がそれを許さない。
ヒナタはテルの動揺には気がつかなかった。
「テルくん、すまない。私は矛盾したことを言おう――私のことは放っておいてくれ。満足した。ありがとう。優しくて、素敵だ。だからテルくんはテルくんなのだと思う」
「な、何を言ってんだよ。とにかく来いって。腹減ってるか? 即席ラーメンなら作れるからさ」
「いや、いいんだ。また近々、話をさせてくれ。今日はだから、これで終わりにしてほしい」
「いいから、来いって。なにを悩んでるかしらねえけどさ、一人でいるからネガティブになるんだろ」
半分、意地になり、テルはヒナタの腕を掴んだ。「本当に俺が思い出してないだけなら、それももう一度考えてみるから――」
「――優しくしないでくれっ」
思いのほか強い力で、テルの手は弾き飛ばされた。
ヒナタの顔は、情けないほどにゆがんでいた。泣き出す一歩手前のような、危うさだった。手を払いのけた腕が元の位置に戻る前に、ヒナタは立ち上がった。起立と逃走が同時に行われたような、勢いのある動きだった。
それが、まずかったのだろう。
ヒナタの足がずるりと滑った。汚れたスニーカーは、靴裏の溝も少なくなっている。傾斜に生えた芝生ではふんばれず、ヒナタの身体は慣性に負けた。
テルとヒナタの視線がぶつかった。
「おいッ!」
テルは叫んだ。目の前で、ヒナタの身体が倒れていく。このままではまずい。芝生をころがった先は、大きな石がところせましと敷き詰められた川原である。打ち所が悪ければ、最悪、死ぬ。
はじかれた手をもう一度伸ばす。考えはなにもなかった。助けたい、とも思わなかった。強いて言うならば、自分がその行動に出るということは、とても自然なことだと感じただけだった。何度人生をやり直しても、同様の動きをするに違いない。
テルの手の平が、ヒナタの腕を掴んだ。グッと引き寄せるが、間に合わない。いくら細いとはいえ、ヒナタも立派な人間だ。宙に投げ出された身体は、重力に愛されて、地へと吸い寄せられる。こうなってしまえば、地面を転がり落ちていくことは免れない。ならば、とテルは直感する。ヒナタを抱き寄せる。自分が緩衝材になればいい。間髪いれずに、衝撃が身体を襲った。
ぐるぐると回る感覚。空も黒。地面も黒。いま、自分がどちらを向いているのかが分からなくなる。身体に力をいれ、必死に耐える。じきに落下はおさまった。が、入れ替わりに訪れたのは脳髄を揺るがす衝撃と、頭の芯にまで響く鈍い音だった。痛みはない。が、すぐに理解した。これは頭が石にぶつかった音だ。ダメージがでかすぎて、麻痺しているのだ。
「う――ぐ」
虫の鳴き声に囲まれながら、テルは全身の力を抜いた。
「テ、テルくん……?」
身体に覆いかぶさっていたヒナタが、もぞもぞと起き上がる。「あ、あ、テルくん……ああ、なんてことを、私は……ああ、なんてことを」
大丈夫か、と言おうとしたが意識が朦朧としていて、口がうまく動かない。何度か試して、やっと言葉にすることが出来るも、今度はろれつが回っていない。
ヒナタは現状を把握したらしい。が、その態度は滑稽なほどに慌てふためくばかりだった。独り言がはげしい。
「泣くな、だめだ、泣いては駄目だ……ああ、そうだ、ベル! 医療キットをよこせ! 早くしろ!――なにをしている、落ち着け、よし、大丈夫」
どこに隠し持っていたのだろうか。ヒナタは十字マークの入ったメディカルケースをいつの間にか手にしていた。その頃にはヒナタの様子は元に戻っていた。そしてテルの身体からも痛みと衝撃は消えていた。
テルはゆっくりと身体を起こす。
「……いや、平気だ……もう、平気だから」
「本当に? 必要以上に痛む場所はあるか? 少し触らせてもらう」
「ああ、大丈夫。これくらいなら問題ないと思う」
ヨウを守ったさいに受けた三針の傷のほうが、よほど痛かった。たんこぶにはなるだろうが、それだけだろう。
「良かった……」ヒナタは安堵したあとに、ハッと何かに気がついた。態度を急変させ、厳しい口調になる。「テルくん、今、まさか君は私を助けようとしたのか。君は今、私を助けたいと願ったのか。そういう主義を少なからず心に持っているのかい? 君には人を助けるような習慣はないはずでは?」
「……? いきなり、どうしたんだよ」
「質問には答えてくれ。助けようと願ったのか。テルくんには、人を救いたい願望があるのかい」
「いや、何も考えてなかったけど……無我夢中だったし」
「そう、か」ヒナタは肩から力を抜いた。「ならいいんだ。とにかくすまなかった。私の不注意だ……では、テルくん。検査と消毒をしないといけないから頭を見せてくれ」
ずいっと詰め寄るヒナタから逃げようと、テルは身体をずらした。
「わかった、わかったから。ならさ、どちらにせよ月明かりじゃ心元ないだろ? とりあえず、うちにこいって」
「まだそんなことを……いや、言わせたのは私か……」
ヒナタの眉間にシワが寄る。
「忠告しよう、テルくん。君は自分のことだけを考えるんだ。他人など見放して、利己的に生きてくれ。とにかく自分の命だけを大事にして、人のことなど見捨てるんだ」
「は? な、なにをいきなり言ってんだよ」
ヒナタは下唇をかんだ。何を考えているのだろう。取り返しのつかないことをしでかしたかのように、悲痛な表情を浮かべた。そして言う。それは分かりそうで、まるで分からない、とんちのような台詞だった。
「人を助けたら――君は、死ぬぞ」
泣くのを我慢しているような、そんな声音だった。
*
チュンチュン、と野鳥の声がした後、奇妙な歓声が外から聞こえてきた。
布団の中でまどろんでいたテルは、起きぬけの頭で状況を整理した。右見て、左見て、違和感を覚える。何故だろうか。居間で寝ていた。居間を寝床にする習慣はないのだが。
「あ」
そうだ。昨日はヒナタと押し問答をした末に、治療をしたいなら家へ来いと、無理やりにつれてきたのだ。母親が使っていた布団を引っ張り出して、ヒナタを泊まらせたのだ。
隣の部屋を見に行くと、綺麗にたたまれた布団だけがあった。すると、外から再びざわめきが聞こえてきた。路上パフォーマーにいちいち感心する観客のようだった。
なんだなんだ、とテルはつっかけを履いて外へ出た。出かけに時計を見る。朝七時。平屋の朝は早い。
快晴だった。まぶしさに目をほそめて、辺りを見渡す。すぐに人垣が見えた。どうやら平屋の人間が集合しているらしい。十六棟しかないとはいえ、一箇所に集るとかなりの大所帯だった。
「穣ちゃん、すげえなあ」と大家の声がした。「いやぁ、助かるよ」
「気にしないでくれ。私にはこれぐらいしかできない」
人だかりの中心にはヒナタが居るらしい。テルは人をかきわけて、中心にたどり着いた。
「おい、あ――ヒナタ」
「ああ、テルくん。おはよう」
ヒナタはうずくまり、何かをいじくっていた。テルに気がつくと、作業を中断して見上げてくる。
「なにしてんだよ」
「うん。早くに目が覚めて外の空気を吸っていたら、随分と老朽していた品々が目に入ってね。来る夏へと向けて、室外機やエアーコンディショナーの点検と改善と改造をしているんだよ」
言葉を受けて、観衆がざわめいた。そうだそうだ、とテルを責めた。
「すうーーーんごいんですよっ」と端の平屋に住む男児が興奮気味に叫んだ。ぶあついメガネをトレードマークの〈魚住 正義(うおずみ せいぎ)〉だ。小学一年生。趣味は勉強。「このお姉さんがいじったら、うちの壊れたエアコンが、一瞬で直ったんです! あと、壊れたラジオもです! なんか変な声まで聞こえるようになったんです! すごいです!」
「テルくんや。いったいぜんたい、この子はどうしたのだい」そう言ってきたのは、万年売れない推理作家〈綺羅星 剣太郎〉こと〈弓山 太郎〉だった。つるの壊れためがねを手で押し上げながら、感心しきりだった。「うちのおんぼろ冷蔵庫、業務用並の威力になったのだ。冷凍庫に入れた水が三十秒で凍る。なのに電気代は据え置きだ。これは魔法かい? はたまた私は夢でも見ているのかい?」
「お、おはよう、テルお兄ちゃん」と二件隣に住む女子中学生〈獅子戸 双葉(ししど ふたば)〉が控えめに発言した。ちなみに双子の片割れである。「お、お姉ちゃんと私の自転車が、充電のいらない電動自転車になったの……でも、な、なんでスピードメーターがついてるのかな……? ブレーキもディスクブレーキってやつに換えたんだって……それ、本当に自転車に使うやつかな……?」
「よお、テル坊」と肩を叩いてきたのは今年八十一になる大家の〈早乙女 源一郎(さおとめ げんいとう〉だ。禿頭に手ぬぐいを巻き直しながら、カカと笑う。「テルもやるなァ。二股か。非道を責めたいところだが、良い穣ちゃんじゃねえか。泣かせるねえ。技術者ってのは、この土地じゃあゴミほどにいるが、この穣ちゃんは別格だ。ピカイチだね!」
「はァ?」
テルが胡散臭そうな表情を見せると、源一郎は母指球を目頭に押し当てた。
「テル坊を幸せにしてえから、遠くは〈タジクーカン〉なんていう場所から一人で来たって話じゃねえか! 外国か? あーもう、俺はそういう純情な娘に弱いんだよ! 太ももなでても表情の一つも変えねえし、こりゃもう結婚か! 昨日も泊めてやったんだよな? 今日もだろ? 今晩は祝いの酒、持っててやるからよ!」
「あのなァ……つうか、セクハラやめろって……」
テルが肩を落とした瞬間だった。ざわめきがピタリと止んだ。
あんなにも騒いでいた住民が口々に別れの言葉を吐きながら散っていった。お姉さんまたあとで話してくださいです、拙作を読ませてやるから今度こい、お姉ちゃん起こさないと……。おーっと犬もくわねえやと大家までもが、そそくさと消えた。後に残ったのはあいからわずカチャカチャとやっているヒナタと、直立するばかりのテル。そしてひきつった笑顔を浮かべるヨウだけだった。
「なんか騒いでるから来てみれば……へえ? 結婚。そうなんだ。へえ。テルが結婚ねえ。そういう仲だったんだー。昨日、知らないって言ってたくせに! なのに、朝になったら、二人で一つ屋根の下なんて……うう……なんだよ馬鹿! なんだよ! うう、うあ、うああ、うわあん、なんで連れこんでんだよおお! うそづぎい! テルのばがあ! あほお! おたんこなすう! うわああん! すけこましい! じごろお! おんななかせええ!」
まるで活火山だった。一人でヒートアップして、勝手に噴火した。喋れば喋るほど語尾の勢いが強くなり、あげく、わんわんと泣き始める。
「お、おい、ヨウ、泣くな。な? これには事情があるんだよ。朝から変なこと叫ぶなって」
ひっくひっくと、嗚咽をあげながらヨウは聞いた。
「事情って、なんだよお……言ってみろよお……」
「えっと、つまりだな」
テルは挽回の機会を得たと意気込んで、説明文を考えた。なぜヒナタがうちにいるのか。その理由を考えて、考えて、考えて――はて、なんで居るんだろうと思い当たる。強いて言うならば、衝動だろうか。母親の姿と共に浮かび上がった言葉がそうさせた。
だがなんと説明すればいいのか。黙りこくるテルを見て、ヨウの瞳に大きな粒が浮かび上がった。まずい。好機は一転し、最悪のシーンへと繋がっていく。
救いの手は思わぬ場所からやってきた。作業を終えたのだろう。室外機の外枠を嵌めたヒナタが、手を払いながら立ち上がった。白衣の裾が垂直に垂れ下がる。その表情に敵意はなく、両の手をポケットにいれると、やりなれた風に肩をすくめた。
「綿星ヨウ。テルくんを責めないでくれ。昨日、私は路上で寝ようとしていたところを、テルくんに拾われたのだ。ただそれだけ。いわば善意だ」
「へ……」とヨウが目を丸くする。
「テルくんが優しい人物だということは、君が一番知っているだろう? 綿星ヨウ」
何言ってんだよ、とツッコミたいテルであったが、沈静化しつつある事態を荒立てる必要はなかった。
「う、うん。テルが本当は優しいの、知ってる。ひねくれてるだけ」
ヨウは控えめに頷いた。泣いているせいか、どこか反応が軟化している。
テルは逃げ出したくなるが、ぐっと抑える。
「なればこそ、私のような状況下にいる人間を、テルくんが放っておくわけがないだろう。むしろ平気で私を外へ追い出すテルくんのほうが、怒るべき変化を有していないかい? それともなんだ。捨てられた犬猫を、あっけなく見捨てるテルくんのほうが魅力的だとでもいうのかい?」
「……いわれてみれば、そうかも……」
ヨウはあっけなく攻略されていた。
「ではとりあえず」とヒナタはとどめをさした。「学校へ遅刻しないよう、朝の準備をするといいよ。私はまだ、平屋の皆さんの手助けをするから。あとで綿星家の機器全般も見ておこう。ざっと数十年分の進化をさせておくから、任せるといい」
「ああ、うん……? ありがとう……?」
ヨウは丁寧に礼を言うと、しかしなにか釈然としないのか首をひねりながら、自宅へと戻った。登校準備をするのだろう。
「……お見事」
ヨウの背中を見送ったテルは、ヒナタの脇に散乱する工具類を見てもう一度うなった。「ヒナタ、それ、どこで覚えたんだ?」
「テルくんは全く、どこのテルくんでも鈍感だね」ヒナタは嬉しそうな顔をする。「タイムマシンをつくった人間が、型落ちの家電をいじれないわけがないだろう? 覚えるも何もないのさ」
「タイムマシンねえ……」
テルがげんなりとした。眠る前に聞かされた数々の話がとたんによみがえってきた。
「ほら、テルくん。もうすぐ七時半になるよ。用意をするといい。私は今日、いくつかの用件をこなさないといけないからね、続きはまた後にしようじゃないか。昨日、決めたんだ。こうなったら私は君のそばで、君を守ることにするよ。他の時空管では目を向けなかった、自分の欲に忠実に生きてみよう」
「お、おう……わかった」
言われている意味がいまいち分からなかいテルだったが、ヒナタの言葉に決意がこめられている事は分かった。
こうして棚七ヒナタは、長屋町平屋の皆に知れ渡り、綿星ヨウを手中に収めた。
名月テルの生活は着実に変化の兆しを見せていた。
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第二章/時空管Zでつかまえて。
登校時刻になり玄関を出ると、いつの間にやらヒナタの姿が消えていた。散らかしていた工具類が脇に整理されていたので、戻ってくる気はあるようだ。猫みたいなやつだな、と考えつつテルは学校へと足を向けた。
ヨウと並んで川沿いを行く。昨日転げ落ちた斜面に変化はなく、ヒナタの姿もない。適当に相槌を打ちながら考えるのは、昨夜のやりとりだった。
⇔
昨夜、斜面から転げ落ち、ヒナタが不可解な忠告をした後のことだ。
「ベル、医療キットを収納しろ」とヒナタは中空に向けて発言した。
誰に何を言っているのだろうかと、テルは不可解な視線を向けた。
そのときだった。
『ガッチャ(Gotcha)』
性別の分からぬ合成音声が聞こえた。かと思うと、闇夜を切り裂くようにして、大きな塊が虚空から現れた。鉄塊だろうか。黒味がかった表面が、月明かりを鈍く反射している。
月光では細部が見て取れない。が、そのシルエットをひと目見て、湧き上がるイメージがあった。
「ロ、ロボット……?」
そう。ロボットである。計四本の手足と思われる部位が、人を模したデザインだと主張していた。くびれの細いニガウリに、四肢が取り付けられているような不恰好な体格だった。闇の中、頭部と腹部にあたるだろう場所で赤のライトが発光している。動力はなんだろうか。駆動音は聞こえない。誰かが操作しているのだろうか。動きは滑らかで、無駄が無かった。無骨なデザインに似合わない、繊細さを持ち合わせているようだった。
機械の動線が、行動の最短距離をなぞった。一歩を進み、手を伸ばし、指にあたるだろう四本のパーツで器用に掴みあげた。足と足の間に当たる本体部がスライドし、隠れた収納スペースが現れると、ケースを造作もなくしまいこんだ。
ヒナタは手を振った。
「引き続き、省電力状態を維持しろ。スクルドも、思考域は最下層を維持。余計な事を考えて電力を消費したら、イニシャライズするからな。以上」
『ヤーシュー(yassuh)』と機械が反応する。
ヒナタの語気がわずかに強くなった。
「いい加減、略すのをやめろ。学習に何年掛かってるんだ」
鉄の塊が振動した――ように、テルには見えた。
『イエス・サー(yes sir)』
その言葉を最後に、ロボットは消えた。文字通り、消えたのだ。霧が晴れるようにさっぱりと。雲に隠れる月のようにひっそりと。
「い、いまのなんだ?」
質問を形にすることができたのは、数十秒後のことだった。それまでは夢を見させられたかのような非現実的な感覚に支配されていた。
「あれはね、発明品№〇〇八二〈行動可能域拡張人為動機〉というんだよ。略称は〈APAER〉。呼称は〈ヴェルダンディ〉。頭部に人工知能を搭載していて、自律行動が可能になっている。もちろん人も乗ることが可能だ。姿が消えたのは、そういう機能を有しているからだ。〈不可視外装(プレゼント・ボックス)〉という。見たとおり、見えなくなるだけだけどね」
当たり前のように説明をするヒナタを、テルはまじまじと見つめた。先とは違う思いをこめて、テルは何度目かの同じ言葉を吐いた。
「なに者だよ、お前……?」
ヒナタは肩をすくめるだけだった。
とにもかくにもテルはヒナタをつれて、自宅へと戻ることにした。ヒナタは黙ってついてきた。何かを考えているようだった。
出会いのときには必要以上に接触し、去った後は過度に離れようとし、そして今は静かにしている。テルには理解の出来ない精神状態である。
室内に入るとすぐさま治療が開始された。前方に位置取ったヒナタが、膝立ちになってテルの頭を覗き込む。
テルは身を強張らせた。前を向いていれば、どうしたって胸元が触れてしまうからだ。脳みそが溶けそうなほど良い香りがしてくるのは何故だろう。思わず顔を背けようとしたが、ヒナタの腕がそれを阻止した。
結局、怪我はたんこぶだけだった。また明日に見るとして、今は塗り薬をつけて終わりとした。それからテルはヒナタに風呂を勧めた。斜面を転がったせいで、土っぽい。いやいい、と拒否するから、入れるまでが大変だった。
「なあ」ヒナタの分の布団を用意しながら、テルは言った。「ヒナタは……どこから来たんだ?」
シャワーを浴びたヒナタは、髪の毛を粗雑に乾かしながら言った。
「言ったじゃないか。他時空管だよ。たとえば時空管Cだ。Aでもいいけどね」
「たとえばだな。どうやってきたんだよ、それは」
「時空管を移動する発明品があるのさ。元はタイムマシンだったんだけど、改良したんだ。初期型はテルくんと作ったのだよ。共同開発というやつだね。ウルド・システムというんだ」
「はァ? 俺が? タイムマシンを? どうやって作ったんだよ」
「ま、作ったのはもちろん私一人だし、テルくんは材料集めをしただけさ。そしてもちろん、テルくんというのは他時空管のテルくんだよ」
テルは黙った。まくらを用意しながら、さきほど目の当たりにしたロボットについて、思案する。それからイメージすら湧かない、タイムマシンというものについて考えてみた。たしかにどちらも驚異的な発明品だろう。しかし、とテルは思う。
「タイムマシンとロボットじゃあ、現実性に差がありすぎないか……?」
「ふむ。未来の外挿ってやつだね。たしかに今の世の技術からすると、ロボットは現実的ではあるが、タイムマシンは非現実的だろう――ま、私は生まれながらの天才だからね。その辺りの普遍性にはしばられないのさ」
「天才が理由かよ……」
「ふふ。テルくんは鈍感だなあ。やはり楽しいなあ。我慢ができない自分の気持ちは、客観的に見てもよおく分かるよ。欲に忠実に生きるというのは、案外長生きの秘訣なのかもしれないね」
シャワーをあびて、ネガティブ思考も排水溝に流れてしまったのだろうか。ヒナタは愛想良く笑う。
「意味がわからん」
テルは考えることを諦めた。ロボットは実際に見たが、タイムマシンは体感していない。ひとまずはそれが答えだ。
シーツを敷き終えて、ヒナタの寝床が完成した。呼び寄せる。布団の仮の主は、目を輝かせて、ダイブした。布団で寝るのは数ヶ月ぶりだ、などと嘘か真か判断しかねる発言をしている。
身に着けた寝巻き代わりのジャージはテルのものだが、どうにも足の丈が短いようだった。襟首をひっぱって服の匂いをかいでいるものだから、綺麗な形をしたヘソがちらちらと見え隠れしていた。
はしゃぐヒナタはそのままに、テルは自分の布団を居間へと移した。男女が隣あって寝るわけにはいかないし、万が一、ヨウに見つかったら家が無くなってしまうだろう。ちゃぶ台を脇によけ、本来であれば父親が寝ている位置に自分専用の布団一式を敷いた。作業が終わると、テルは一番気になっていることを口にした。
「あとさ。もう一つ、聞きたいことがある。人助けで死ぬっていうのは――」
それは先ほどの対話。死ぬ、などと面と向かって言われた疑念。冗談だと笑うことができるが、冗談ではすまされない軽口。
テルは振り返り、問いただそうと眼光を鋭くさせた。
「――って、寝てるじゃねえか……」
が、時すでに遅し。ヒナタは、掛け布団の上に寝てしまっていた。静かな寝息が聞こえてくる。覗き込むと、起こすのもはばかれるほどに、幸せそうな表情をしていた。しょうがない、とテルは首を振る。控えの掛け布団をわざわざ引っ張り出して、かけてやった。話の続きは明日でいい。今日はもう寝よう。電気を消し、布団に入る。返事など期待せずに、おやすみ、と呟いた。
それが十数時間まえのやりとりだった。翌朝、話す時間もないままに、登校時間を迎えることになろうとは、知る由もなかった。
⇔
「――ちょっとテル聞いてるの!」
「ん、ああ、悪い……なんだ?」
「……別にもういい。何考えてたの」
ヨウがくちびるをとがらせた。
気がつけば学校まであと三分の一程度の距離となっていた。相槌を適当にしすぎたらしい。ヨウはぷんすかと一通り怒った後、急に真剣な顔になった。
「昨日、なにかあったんだよね」
「は?」
「テル、なんか雰囲気変わったもん」
茶化すような口ぶりで、テルは言った。
「一日で何が変わるんだよ。そんなん俺でも分からん」
「分かるよ」ヨウは断言した。「何歳から一緒に居ると思ってるの。あたしには分かる」
「……あ、そう」
なんと答えたらいいのだろうか。テルは返答を濁した。ヨウは何も期待していなかったらしい。話を続けるでも止めるでもなく、前方に視線を固定した。
目の端に、人影が映ったのは偶然だろうか。テルは、ホームランを目で追いかける観客のような自然さで、そちらを見やった。
サッと、人が隠れた――ような、気がした。
「テル?」
ヨウが目ざとく、反応する。テルの異変には気がつくのに、人影には気がつかなかったらしい。が、無理もない。テルは昨日から過敏になっているのだろう。馬鹿みたいな人づて話。要約すればこうだ。『やばいヤツがヨウちゃんを狙ってるってよ? 一目ぼれされちゃったんじゃないの?』。ヒナタの登場によりかすみつつあった危機感が、むくむくと顔をもたげた。
しばらく人影の消えた方向を睨む。尾行されているならば、顔を出すかもしれない。ヨウが何かと声をかけてくるが、聞こえないふりをした。たっぷりと一分ほど立ち止まった。それから肩の力を抜く。愚かさに気がつく。ドラマじゃあるまいし、なにが尾行だ。
「……アホか、俺は」
騒ぎ立てるヨウをつれて、日常へと戻る。振りかえることさえしなければ、それは変わらぬ登校風景だった。
*
ホームルームが終わると、生徒の一部がわっとなって飛び出していく。そのほとんどが男子生徒だった。野球部、サッカー部、柔道部あたりだろうか。運動部員にとっての学校生活は、放課後からが本番なのだろう。
テルは誰がなんと言おうと帰宅部である。部活など、考えただけで疲れてしまう。馬鹿にしているわけではなく、単純に大人数の行動が苦手なのだ。不満があるとすれば、ヨウも帰宅部だということぐらいか。
数少ない友人が近寄ってきたのは、男子トイレに立ち寄ったときのことだった。
「よ。相棒。景気はどうだい?」
となりの便器を使用している男子生徒が、軽い調子で喋りかけてきた。
男の名は〈来栖 京平(くるす きょうへい)〉。詰襟の第一ボタンを閉めたことなど一度もなく、口調もだらしない。染めてはいないものの、髪は入念にセットされている。 見た目はとにかくチャラチャラしており、正直うさんくさい。が、おそろしいことに頭が抜群にいい。勉強をするくらいなら麻雀をしろ、という馬鹿げた一家言を持っているくせに、学年でもトップテンに入る学力を保持している。
天照東高校は進学校ではないものの、中の上、あるいは上の下ほどのレベルを有している。その中で勉強もせずにトップクラスというのは、こいつはできるな、という印象を他者へと植えつける。だからだろう。女子に人気で、たちの悪いことに、本人も女子が大好きなのだった。テルが勝てるものはゲームの腕前ぐらいである。中学からの付き合いだが、相容れない思想も多い。なのに続いている不思議な仲だ。
「あのな、キョウヘイ」とテルが言う。
「あんだい。女の子の話?」
「もう一度確認したいんだが、お前、昨日の話マジなのか?」
「昨日?――ああ、第一商業のヤバイ奴の話か」
「それだよ。ヤバイってなにがヤバイかしらねえけどさ、その……」テルが口ごもる。「ヨウ、って本当に、一目ぼれされたのかよ」
「なんだ、大将。嫉妬か」
「そんな話ではないだろうが」
「一目ぼれかは知らんけどねえ。昨日は少し話を盛った」股のジッパーをあげながら、キョウヘイは悪びれることもなく言い切った。「俺が言ってる雀荘の横にさ、ダーツとかビリヤードが出来る場所があんだよ。で、そこに入り浸ってるやつが、たまーにカモられにくるわけだ。のこのこと隣のビルへ、うすっぺらい財布を大事に持ってね」
指をわきわきとさせて、キョウヘイは麻雀牌をきる真似をした。「で、金を落とさせるコツは、たまに勝たせることだってわけで、負け続きのソイツを勝たしてやったらさ、ペラペラ聞いてもねえこと喋りながら打つんだよ。これがまたうるせえんだけど、負ける奴がいなくなるとそれはそれで困るからな。皆、我慢してたんだ」
「で?」
「そいつが言ったんだよ。『お前、東高? 二年? ああ、それなら知ってるか。綿星ヨウとかいう女。可愛いんだろ?――あ? 俺じゃねえよ。俺の上にいるこええ先輩がご執心なんだよ。ヤバイぜ』ってな」
「それだけか?」
「十分だろ?」
「第一商業って、なんでわかんだよ」
「制服着てるときがあるからな」
「先輩も第一商業って言ってたのか?」
「いや。言ってねえ。おれの勘だ」
「……当てになんねえ!」
「噂なんて、そんなもんだろ?」
はい、と手を出すキョウヘイ。謝礼を求めているらしい。
「そうかい……まあいいや、ありがとな。礼は外に出たらやるよ」
そう言って、テルはトイレから出た。なんだかむしょうにムシャクシャして、仕返しをしてやろうと考えた。息を吸って、吠える。「来栖キョウヘイはここですよおおおッ! 女の話してますよおおお!」
「あ、お前、このやろう!」
京平が慄くのと、トイレの前を伸びる廊下の先から、何かがやってくるのは同時だった。その何かも、テルに負けず劣らずの声量でもって叫んだ。砂煙をあげながら、荒野を走るオフロード車のような勢いがあった。
「お兄ちゃん!! また浮気してるのッ!! わたしが居るのにッ!!」
向こうから走ってきたのは、キョウヘイの妹である。名前は『来栖 マリカ』。兄命のブラコンである。長いツインテールをなびかせて、恐ろしい形相で迫ってくる。
「覚えてろよ、テル!」
捨て台詞を残して、キョウヘイは走り去った。有能な男、唯一の天敵が実の妹だとは情けない限りだ。
マリカは兄を追いかけ疾走する最中、テルの前にたどり着くと急停止をした。丁寧に、ペコリと頭を下げる。いつも位置情報をありがとうございます、発信機は五分で発見されて捨てられちゃうから意味がないんです、では失礼しますねテル先輩――そう言って、再び逃走劇に戻っていった。
テルは仲の良い兄妹を見送ってから、下校に移る。今日は一人での帰宅だ。ヨウは友達の誕生日が近いからといって、雑貨屋に寄るらしい。誕生日プレゼントにシュシュをあげるのだという。そういう細かいことを苦と思わないからこそ、ヨウの周りには人が集るし、集った人間が離れにくいのだろう。
もっと友達と付き合えばいいんだ、とテルは心から思う。母親が死んだあたりから、ヨウはテルにべったりだった。心配なのだと、ヨウ本人が言っていた。事実、その通りなのだろう。おそらくテルがもっとしっかりとした人間になっていれば、未来は変わったに違いない。
「タイム、マシンか……」
ヒナタの姿が思い出された。同時に、二足歩行のロボットも。
本当にタイムマシンが存在するのだろうか。そうならば、自分の過去を変えられるのだろうか。そこでは母親が生きていて、ヨウが心配しないほどに立派な自分が居るのだろうか。
そこまで考えて、思考の愚かさに気がついた。
「やめやめ」
頭を振って、いびつな欲望を散らした。が、それは気味が悪いほどに心の裏側にこびりついて離れなかった。
思考の矛先を変えることにだけ、尽力する。成功し、ヨウの件にすり変わった――たしかに心配だが、話を聞いた限りは問題ないだろう。人が人を好きになることに問題なんてない。そう。問題なんてない。
短時間でどっと疲れてしまった。
帰ろう。
久しぶりの孤独な帰宅は、進路がふらふらとして、どうも居心地が悪かった。
*
平屋にたどり着くと、今朝の騒ぎをほうふつとさせる、小さな人だかりが出来ていた。学生や仕事組はいないが、なにをしているのか分からぬ小説家や、セクハラ好きの大家を筆頭に何かを囲んでいる。
テルはすぐに理解した。ヒナタに違いない。
予想通りだった。テルが近づくと人垣が割れて、殻から飛び出した雛のくちばしのように、ヒナタの姿が現れた。
「やあ、テルくん。お帰り!」とヒナタが笑顔を浮かべた。人間味溢れる表情に、昨夜川べりで見た人形のような無表情さは見えない。
やあテルくんおかえり、やあテルくんおかえり――周りを囲む人間が、意気揚々とヒナタの口ぶりを真似した。小説家や大家までもが、そうした。相好を崩すとはこのことだろう。気持ち悪いくらい、機嫌が良いようである。初孫のできた祖父母のようだった。
「……なんかあったのかよ」
嫌な予感を感じつつも、テルはあえて聞いてみた。
「うん?」とヒナタは首を傾げた。手は白衣のポケットへ。「特に何がというわけではないが。今日の夜に、皆がパーティーを開いてくれるらしい」
「は? なんでだよ」
「ばっかやろう、テル坊」と大家が背を叩いた。「新入居者祝いにきまってんだろうよ!」
「うむ」と小説家が胸を張った。「金は無いが文才はあるぞ。いまから鳥肌のたつような乾杯の挨拶を考えてきてやろう」
文才もねえだろうが、と大家が横槍を入れて、場が盛り上がる。ヒナタはすたすたとテルに近寄り事情を説明した。
「今日からここに住むことにした。よろしく頼むよ、テルくん」
「あ、そうなの……」
「空いているのがテルくんの家の隣だそうだから、今日からお隣さんだよ」
ヒナタが満足そうに腕を組んだ。
考えもしなかったことだが、現実となると簡単に受け入れられる事態だった。分かりきったこととして、脳みそが演算を拒否していただけなのかもしれない。家がない。部屋があいている。だから住むことにした。簡単な方程式だ。
住民がわっと盛り上がる。宴会会場が決まったらしい。ヒナタの住まいだけでは人が入りきらないだろうということで、無条件のうちに隣の家が開放されることになった。残念ながら、テルの家だった。
一人一品料理または酒を持込むこと、会費はなし。他の料理や飲み物に関しては、なにかと収入の多い大家が一人で持つと宣言した。よ、エロがっぱ!、と小説家が叫ぶと、またも盛り上がる。すでに酔っ払いの集団だった。騒げればなんでも構わないのだから、質が悪い。ではひとまず解散と、皆がちりぢりになって宴の準備にとりかかった。
「気風の良い人らだな。初めて気がついた」とヒナタが言う。
「前から知っているような口ぶりだな」とテルが返した。
「他時空管で見ていたからね。まだ疑っているのかい? ま、どちらでも構わないんだけどね。私はテルくんを守るよ。だからテルくんは――」
「――人助けをやめろって?」
「うん」満足そうにヒナタは頷いた。「テルくんにしては鋭いね」
「なあ、ヒナタ」
テルはそうして、授業中に考え付いた質問を口にした。「お前の居た世界の……他世界の俺はどうなったんだ」
「死んだよ」
間髪居れずに、ヒナタが言った。「なにをしても助けられなかった」
答えを聞いても、ショックは生まれなかった。そうだろうな、とテルは考えていた。でなければ、時空管を移動などという行動に結びつかない。
「それにしても……タイムマシンを使っても、変えられないのか」
若干の沈黙のあと、ヒナタは口を開いた。
「私の知っているテルくんはね、それはもう滅私奉公の人間だった。人を助ければ、母親が生き返るとでも信じていたんじゃないのかな。それぐらい無茶苦茶だったよ。でも、優しかった。そんなテルくんは……」
ヒナタは視線をわずかに下げて続けた。
「……子どもを助けて死んだのさ。私は未来が変わらない程度に過去を変えていった。でも、駄目なんだ。あまり変えすぎると、私とテルくんが出会わない。出会ったあとに危機から救ってもテルくんは絶対に、誰かを助けて死ぬ。もう、それは根源から変えないと換わらない運命だったんだね」
「運命……?」
テルの脳裏を、小一時間ほど前の考えがよぎった。もしも人生を変えることができたら。タイムマシンを使えたら。しかし、もしもそのIFの先を知っている人間がいたら?――わざわざやり直さなくても、己の可能性を知ることが出来る。医者になれる可能性はあるのか。弁護士になれる可能性はあるのか。大事な家族を作れる可能性はあるのか。イフ、イフ、イフ。そんな〈もしも〉をヒナタから聞いてみたくなる。禁断の果実を前にしたアダムとイヴは、きっとこんな気持ちだったに違いない。
「はは」ヒナタは乾いた声で笑った。「タイムマシンといったり、運命といったり……節操のない人間だろう? いいのさ。それが私だからね。神を信じず運命を信じ、タイムマシンを作っておいて、時空管を移動する。無茶苦茶だね」
話はもう終わりだ――そんな風に肩を竦めると、ヒナタはテルの前を去ろうと踵を返した。
「なあ、ヒナタ」
テルの呼びかけを、ヒナタは素直に受け入れた。
「……なんだい?」
「俺の……俺のことを、教えてくれないか。その、人の為に動いていたっていう、俺のこと」
ヒナタのまぶたが、ほんのわずかに開いた。
「信じるのかい」
「分からない。でも聞かせてくれ」
ヒナタは再び肩を上げた。だが、どこか冗談めかした風だった。
「あいかわらずお人よしだね――分かったよ。では、夜になったら連れて行きたいところがある。また後で会おう」
今度こそ、ヒナタは消えた。
テルは果実に唇をつけていた。あとは噛みくだき、飲み込むだけだった。
*
面倒だが、宴会参加は避けられないだろう。幸いなのは、明日が休日だということだ。
ヨウにメールをしたら、帰宅後二人分の料理を作るから、材料を買っておいてくれと返信が来た。しょうがない。テルは財布をポケットに入れると、スーパーへ向かった。
川方向とは反対へ抜けて、大通りへ出る。国道沿いの道はトラックがよく行き交う。南下していくと、港へぶつかるからだ。
港の名は〈中央京港〉。
遥か昔に起源をさかのぼると、北の名産品を海路で受け取り、復路にて西天照市における絹や織物を持ち帰らせることを主としていた港だ。北の乾物であるかつおぶしは良いダシが出たという。長い航路にも耐えうる保存力もあり、当時はわりかし高級物品として扱われていたために、港は人間の活気に満ちていた。
近年では東天照市における金属加工品などを諸外国に輸出することも多くなった。ニッポン国の繊細な技術力は、またたくまに世界に浸透し、メイド・イン・ニッポンの名をこれでもかとばかりに知らしめた。
そして現在では、国際物流の発展によりコンテナ港の活用・増設が目立っている。数々のコンテナを貨物船に積み入れて諸外国へと運びこむ。その逆もしかりだ。使用されるクレーン機材などは、スケールの大きなものばかり。かつて見た人の活気はいずこかへ消え、日中は駆動音に支配され、夜間であろうとも月の光をはじき返すかのような人工光が煌々と照っている。
それらに押しのけられるようにして、端っこに建ち並ぶ三角屋根の倉庫群は、かつての名残である。もちろん現在でも使用されているが、居候のような座りの悪さが見て取れた。
そんな中央京港へと繋がる南北に真っ直ぐと伸びた国道。その西側には、定期的に細い道が生えていた。もちろん川沿いの道へと繋がっていくが、反対側である東側の脇道はというと、東天照駅へと伸びていく。駅とはいっても、立派な隣の西天照駅とは違う。西の駅は、ビルと直結し買い物客はわんさか、休日になればデートスポットとしても機能する。が、一方こちらはといえば、広くはあるがずいぶんとうらぶれた駅舎があるきりだ。路線も一本だけで、どこかへ行くならばまず西天照駅に出なければならないという有様だった。
その駅へと伸びるわき道を抜け、国道のさらに東側に出れば卵の特売が多い〈スーパーはなぎ〉にたどり着く。そして中途には、小料理屋〈ひかり〉を含む、商業用の平屋がびっしりと軒を連ねていた。
通称、平屋横丁だ。
さびれているとはいえ、駅に近づくにつれて周辺にはちらほらと背の高い建物が建ち、空を見上げても遮蔽物として目に入る。が、この辺りの家屋はいつまでも空を邪魔しない。居酒屋や改築したバー、はたまた定食屋など、主に食や酒に関連した個人経営の店が並んでいた。
小料理屋〈ひかり〉の店主は綿星ヒカリである。ヨウの母親だ。くせのない素朴な味を出すくせに、しばらくするとまた食べたくなるという、魔法のような料理を武器にした小さなだった。
一番の近道であるから、テルはそこをいつも通っている。よっぱらいも多い通りであるが、夜にならなければ現れない。危険はないから問題はない。はずであるのに、今日はおかしな人種を見た。
いかにもそちらの筋であるような、こわもての成人男性が我が肩をいからせて歩いていたのだ。数は二人。こめかみに大きな傷がある男と、体格の良い男だ。灰色のスーツにノーネクタイ。鋭い目は、なにも、くわえたタバコの煙のせいではないだろう。
関わらぬが吉だ。テルは道を譲るように端へ寄り、視線を下げた。男らは必要以上にテルを凝視すると、なにもいわずに過ぎ去った。少しすると、ガン、という物凄い音が聞こえた。振り返ると、先頭を歩いていた男が、電柱に喧嘩を売っていた。前を見ていなかったせいで頭をぶつけたらしい。大丈夫ですかアニキ、と心配されて、逆上していた。触らぬ神にたたりなし。テルはすぐに視線を直した。
ふう、と息を吐く。緊張していた身体をほぐしているうちに、〈ひかり〉の前を通り過ぎていた。準備中の掛札が見えた。ヒカリは店内に居るだろうが、話すこともないので立ち寄らない。
それにしても、少し気になることがあった。つい先月までやっていたはずの飲み屋が数軒、つぶれていたのだ。テルが物心ついたころから、そこにあり続けたような店まで含まれていた。時代の流れなのかな、と老成した意見で無理に納得した。利用したことなどないのに、寂しさはぬぐえなかった。
スーパーにたどり着き、頼まれた品物を順当に買い終えた。帰宅の進路はわずかに変えた。横丁は通らないようにしたのは、先ほどのイメージがあるからだった。
ふと、誰かに観察されているような気がして、テルは振り返った。嫌な気分がそうさせるのか。ちくちくと刺さるような視線を感じながら、しかしそんな存在は見つからなかった。ヨウの一件といい、自分は気が小さいらしいぞとテルは考えた。
長屋につくと、すでにヨウは帰っていた。事情もすべて把握していた。ヒナタが住むことにひととおりの苦言を呈したあと、やはりこうなることを予期していたのか、あっけなく引き下がった。
「ムネ肉のから揚げと、ちくわの天ぷらね」とヨウは言った。量重視らしい。綿星家で調理がはじまった。
ちまちまと料理をつまみ、ヨウに頭をはたかれながら手伝いをしていると、いつの間にか宴の準備が整っていた。テルの家には鍵など掛かっておらず、他の住人は、好き勝手に入っては料理や酒を並べていた。
長屋全体には、漠然とした親族意識のようなものが流れていて、いちいち文句を言う人間は居ないし、そのような人間が居ても居心地が悪くてすぐに退去する。ある種閉鎖的ともいえるが、テルとヨウのような人間にとってはそれが心地よい。雨が降ってきて、留守の隣家に洗濯物が干してあれば、取り込む。荷物の預かりは当たり前だし、調味料などの貸し借りも頻繁だった。今の時代ではほぼ絶滅した付き合い方かもしれない。
夕日が沈むと、宴会は始まった。大家、小説家、メガネの少年とその母、双子姉妹、ヨウ、テル、そしてヒナタなど、参加できる人間は皆、グラスを手にしていた。昼間に居なかった住民も今は当たり前のように参加している。
「それでは、新たな仲間を祝って、乾杯ッ!」
小説家の長口上をさえぎって、大家がしきると、安いグラスが割れそうな音を出しながらぶつかり合った。
そこからはらんちき騒ぎである。相当の酒呑みは名月家に陣取り、若者や酒に弱い者はヒナタの新居で雑談やゲームを楽しんだ。途中、テルの父親が長距離運送業から帰還し、当たり前のように途中参加した。
アクシデントが発生したのは開始二時間後で、グレープフルーツジュースを呑んだつもりのヨウがグレープフルーツサワーをあおった。飲み屋の娘は、何の因果か酒に弱い。目を回して、顔を真っ赤にさせたあと、熱い熱いと服を脱ぎ始めた。男どもが喉を鳴らすなか、双子の姉妹が必死に押し留めて事なきをえたが、ヨウの意識は戻らなかった。
狙っていたわけではないだろう。が、いい機会だったのは確かだ。ヒナタはテルに目配せをすると、皆の目を盗んで外へ出た。テルもならい、追従する。
平屋の明暗ははっきりとしていた。二つの家に密集しているせいで、他の家に明かりがひとつもついていない。盗人からすれば絶好の狩場に違いない。問題はどの家にも金目のものがないということだが。
テルは辺りを見回すが、先に出たヒナタの姿はなかった。自然と川沿いに足が向かう。
やはりというべきか、ヒナタは先日と同じように金属工場地帯のゴミ捨て場を眺めていた。月明かりを受けて、白衣がぼんやりと浮いて見えた。
「なにか思い入れでもあるのか?」
近づいて、テルは尋ねた。
「思い入れもなにも、タイムマシンはここで作ったんだよ」
「……そんなチープな材料で作れるのかよ」
「弘法筆を選ばずという言葉があるよ、テルくん」
「そういう意味ではないだろ」
「さ、こっちだテルくん。きてくれたまえ」
ヒナタは白衣の裾を翻すと、鉄山へ向かって歩き始めた。黙って、ついていく。夜の中にうかびあがるにび色の鉄山は、まるで機械の墓場のようだ。
間隙を縫うように進んでいくと、じきに敷地の隅っこにたどり着いた。何をするのかと黙ってみていたら、ヒナタはポケットから何かの装置を取り出した。テレビのリモコンのような、つくりである。
「それ、なんだ?」
テルが尋ねると、ヒナタはさらりと答えた。
「テレビのリモコンだよ――さ、テルくん。少しだけ目をつむってくれないか」
「あ? ああ、わかった」
目をつむった次の瞬間である。バチッ、と回路がショートしたかのような音がした。まぶたの裏側まで届く光が、すぐ目の前で発生したようだった。テルは指示されるよりも早く、目を開いた。
どうしたことだろうか。いつの間にやら、目の前に小屋が現れていた。まるで瞬間転移のマジックだ。いまにも倒れそうな小屋は、しかしヒナタが戸口に近づくと、自動的にドアが開いた。電動式らしい。が、小屋の敷居をまたいだあと、間違いに気がついた。なんと、たてつけの悪そうなドアは、昨夜に見たロボットが開け閉めをしていただけだった。テルが通ったのを見届けると、無骨な手が音も立てずに戸口を閉めた。
「紹介がまだだったね」ヒナタが視線に気がついて、口を開く。「前にも説明した通り、その〈APAER〉の名はヴェルダンディというのだが、頭についている人工知能の名前はまた別だ。そいつは発明品№〇〇八三の〈スクルド〉という。主な用途は、ヴェルダンディの無人操作。情報集合体としての役割や、各種検索と情報の取捨選択を任せたりもする。それと喋り相手といったところかな。一応、ヴェルダンディに装着してあるときは、役割を包括して〈ベル〉と呼んでいる」
「へえ……」
テルは言葉の半分も理解していない。曖昧に頷きながら、ヴェルダンディへと近づいていった。足は自然と動いていた。男ならば、一度は夢見るだろう技術。それは二足歩行ロボットだ。それに搭乗し、悪者を倒す。世界の平和のあとは、ヒロインがほっぺにキスをする。これに勝る黄金パターンはない。
「ベル。挨拶でもしろ。テルくんだぞ」
鉄の塊についたいくつかのランプが光った。音こそしないが、何かが起動しているのだろう。
『ハロー、マイ・マスター・テル』と機械音声がスピーカーから流れた。
「は、はろー」
テルがかしこまる。ヒナタが嬉しそうにほっぺに手をやった。
「テルくん、可愛いな。英語が苦手なんて、馬鹿っぽい。私の知っているテル君は、みんな頭が良かったが、これはこれでいいかもしれない」
「う、うるせえ、俺は――」
テルは反論しようとして、二つの言葉にひっかかる。「……? マイ・マスター・テルってなんだ?」
「その通りだよ。スクルドに、他世界のテルくんをマスターとして認証させているからね。顔と声が一致すれば、そうなるさ」
「ああ。他の俺、か」
そして気になった二つ目を口にした。「俺以外の俺は、頭が良かったのか?」
「というよりも、ただただ愚直に努力だけをしていた。ぞくにいう、教科書に書いてあることなら分かるが、世間のことは何も知らないという感じだったかな」
ヒナタは思い返すように目を細めると、砂時計が時をきざむようにしっかりと、まっすぐに頷いた。
「そして飽くことなく、人助けをしていた」
これがタイムマシンだよ――唐突にヒナタが指し示した先には、奇怪な形をした機械が鎮座していた。
*
始まったヒナタの他世界の話は、信じられないようで、しかし説得力に満ちていた。中には自分しかしらないはずの幼少時の失敗談なども盛り込まれていて、信憑性には事欠かない。
出会いから始まった目の前のヒナタと、見知らぬもう一人の自分は、タイムマシンを完成させた。それからもう一人の自分は、子どもを助けて死んだらしい。
一時間は話しただろうか。
タイムマシンだと説明された機械は、そうと説明されなければ何に使うものなのかすら判別できなかった。が、そのころになると、テルの心は全てを受け入れられるようになっていた。たとえばそれはヒナタの存在であり、語られる思い出であり、タイムマシンの理論やロボットの存在であり、最後に自分以外の自分が居るという現実だった。
「最初は、時間遡行をすればどうにかなると楽観視していた」ヒナタは悔やむような口調で物言った。「だが、駄目なんだ。テルくんはタイムマシンもののSF作品を見たことがあるかい?」
「ああ、えっと」
テルは有名映像作品を口にした。過去へと戻り、大切な人の死を回避しようとする話。
ヒナタが頷く。
「ああ、それで十分だ。そこには〈強制力〉というものが出てきただろう? ようするに、どんなに道筋を変えても結果は同じ。川がいつかは海へいたるように、テルくんの死は回避できなかったんだ。たとえ少年が事故に合わないようにこちらで調整しても、テルくんはおばあさんを助けて車に轢かれる。おばあさんを私が救っても、今度は犬猫を助けに川へ飛び込む。延々とこの繰り返しだ」
「それで……五年もの月日を過ごしたのか」
テルは手渡されていた写真に目を落とした。出会ったころ、テルとヒナタは六歳の年が離れていたという。それが、いまや一年差だ。
「あくまで体感時間で五年だよ。それに、その時空管ではきっかり三六五日分、八七六〇時間分のトライ&エラーを繰り返したあと、諦めた。それから、あることに気がついた」
「あること?」
「うん。私の発明したタイムマシンというのはね、自分の好きな時間に飛べるというものではないんだ。時空管の破損部に出来た〈穴〉に、入り込むという方法をとっているからね」
「すまん。まったく分からん」
「うん。それこそまったく分かってるよ――たとえばだね、テルくん。ストローがあるとするだろう? それが地球の一生だとしよう。ここまでは分かるね。燃える蝋燭の長さをを残りの命の比喩にすることがあるだろう? あれと同じだ」
「ああ、うん。地球の寿命の長さが、ストローだな。地球の過ごす時間だ」
「そうだ。その直線距離で示されたストローに、画鋲で穴を開ける。その穴が、時空管の穴というやつだ。なぜそんな穴があるのかというと、そこで地球全体の運命を左右するような事件が起きているからなんだが、まあそれは長くなるから割愛しよう。とにかく私は、そういった穴からもれ出る波長を感知して、そこへ飛ぶんだ。時間の穴に入り込み、強制力の隙をついて、タイムトラベルを完遂する。大きい時間の揺れにまぎれこめば、私一人ぐらいの矛盾は見逃されるんだ。ここまでは大丈夫かい?」
「ああ、大丈夫だ」テルは首を縦に振った。「もう、理解することを諦めたからな」
「なんだよ! 張り合いがないじゃないか!」ヒナタはぷんぷんと怒り始めたが、すぐに気分を落ち着かせる。「まあいいか……それでだね、私は何度も時間の穴を探っているうちに、変な穴を見つけたんだ。それは内側から開けられた穴ではなく、外側から突き破られているような穴だった。時空管という部屋の中からガラスを割れば、破片は外へ行くだろう? なのに、その穴だけは時空管という部屋の中へとガラスの破片が飛び散っていたんだ。つまり外側から開けられていたんだ。結論から言うと、これは私があけた穴だったんだよ。それも他の時空管から影響を及ぼしていた」
「はァ……?」
「つまりだね」ヒナタはとんとん、と地面を叩いた。小屋を指し示しているらしい。「ここで一人でタイムマシンを作り、過去へと飛んだ私自身が、穴を開けているということに気がついた。それもそうなんだ。入る穴が必要なら出る穴が必要だろう? だが、そんな穴が都合よく存在するわけがない。ようするにタイムマシンというシステムは時間の流れに穴を開けるという機械なんだよ。そうして私は時空管に穴を開け、なおかつ隣接する時空管まで破損させていたわけなんだ。それに気がつくまでは、隣接する時空管という概念すら私は持たなかったが、ヒントが手に入れば答えを得たようなものさ。それから私はその際に空いた穴を横軸として辿って、時空管を移動し、ここまでたどり着くことが出来たというわけさ」
「え? いや、ちょっと待ってくれ」
テルにも分かる話になってきた。思い当たるふしを口にする。「つまり、この世界のヒナタもここでタイムマシンを作っていたってことか?」
「そうだよ。でなければ、こんな小屋が存在するわけがないだろう。証拠もある」
ヒナタは小屋の中を説明しはじめた。
「たとえばこれは発明品№〇〇二四の〈ハート・ブレイカー〉。対象の心臓を止める。たとえばこれは発明品№〇〇一二〈イライラ光線銃〉といって、照射され続けると、むしょうにイライラするのだ。全部私が発明したんだ」
「お前、なんてもん作ってんだよ……」
テルは一つを手にとってから、その効果に恐くなり元の場所へそっと戻した。
「この私は年末にタイムマシンを完成させた。それはテルくんが手伝ってくれたおかげで、早く済んだんだ。だが、この世界を含めた他の私は、どうやら一人で作業を終えたらしい。つまりテルくんと知り合っていないんだ。だからだろうね。完成は遅かった。ずばり二週間ほど前だ。そして時空管を破損させた」
ほぼ分かっていないが、関係がない。テルは話を先にすすめた。その時の、テルの心境はずいぶんとおかしなものだった。購入した宝くじの当選番号を確かめるときのような、息のつまる興奮を味わっていた。
「なるほどな。で、他の世界でも……やっぱり失敗したのか? つまり、俺の救出は」
「うん。言いたくはないが、テルくんを救うことはどこの場所でも叶わなかった。全てのテルくんは、どの未来へ誘っても、最終的には二十歳前に死ぬ。それも全てが他人の身代わりとなってだ。私はその全てのテルくんと出会い、失敗した。つぎには影から見守ることに徹し、また失敗した。生死という点での未来は、一ミリも動かなかった」
「そうか。それで、その……俺は上手くやっていたかな」
「……?」ヒナタは首をかしげた。「どういう意味だい?」
「つまり、その、人助けをしながら楽しそうに暮らしていたか?」
「いや」否定はすぐに現れた。「テルくんは、お母さんの言葉にがんじがらめにされていた。それは強迫観念のように頭にこびりついていたようだ。想像もできないほどのストレスにさらされているテルくんも居たよ。でも人助けはやめない。もはやアイデンティティなんだ。だから、楽しそうというよりかは、辛そうだったな。表面化していないのが、更に問題だった」
「でも、なにかあったんじゃないか? 夢を持ってたとか」
「そういったものはないと言っていた」
「じゃあ、部活とかで成績を残したとか」
「アルバイトと人助けで時間は消えていた」
「勉強は?」
「意義を見出しているようには見えなかった」
「仲間となにかするとか……」
「そういった時間は全て他に当てられていた」
「仕事のやりがいはどうだ? それなら――」
「――やるべきことは、人助けなんだ。あえていうならば、仕事はそれだ。金銭の労働に思うところはなかっただろう」
禁句を口にするように、小さく尋ねた。
「な、なら……母さんが生きていた可能性は……?」
「そういうことなら、テルくんは人助けをしない。私とも会わなくなってしまう」
テルが息を呑む。すがるような視線が、ヒナタを捕らえて離さない。
「えっと、他には、なにか、俺が……」テルの言葉が意味を持たなくなる。「なにか、ないのか……? 俺が誇っていたようなことは……」
「テルくん。断言しておく。もしかしたら違う可能性もあるのかもしれない。ただ、私が見てきたテルくんは、すべてにおいて一様だった。つまり、自分を捨てて他人を生かす。それだけだ」
ヒナタは同情に似た色を、声にのせた。何かを思い出したのだろう。視線がわずかに落ちた。
「すまない。そういうことだったのだね……テルくん。君は、今の自分になにかしら思うところがあるんだね……?」
テルは何も答えられなかった。叱られる子どものように、ジッと一点を見つめている。
ヒナタは表情を改めた。口を引き締める。それから頭を下げると、断言した。
「ごめんなさい、テルくん。私はいま、テルくんの求める回答を提示することができない」
小屋の中に嫌な空気が充満しはじめた。テルには分かっていた。それは自分の身体から噴出しているのだ。当たると信じていた富くじが、全てはずれた気分。耐え切れずに、嘆いた。
「いや、まあ……そうか」とテルは絶望の声をあげた。それは理解の色を示していた。「そうか……ちくしょう。そうか。そういうことか……俺にも分かったぞ。ヒナタ。つまりこういうことか」
テルは額を押さえた。言葉を続ける。「つまり、俺が。今の俺が。最後の株なんだろ、ヒナタ。なぜかといえば、俺は他人を助けるような人間に成長しなかったから。だから、生き残る可能性があるんだ。そうなんだな? 俺は人を救ったらいつか死ぬ。これだけが俺の分かっている明確な可能性なんだろ? 確かにそうだ。それなら俺は死なない。なぜなら俺は自分のことで精一杯だからだ」
テルは諦めきれないといった様子で、首を振る。が、その言葉には諦念がにじみ出ていた。
「それでも、何かあると思った……俺の判断が悪いだけで、本当はなにかできるって信じてた。なのに……それなのに、他の俺は努力した結果すら伴わないわけだ。そしてそれが俺の持つ、二つに一つの可能性ってわけだ。俺は何をしたって、こんな人生なわけだ……!」
最後はなかば怒鳴るような口ぶりだった。自分が変われば、全てが良くなるのではないか。そんな気持ちをどこかに持っていた。人生をやり直せば、俺でも上手く生きられる。人を助けるような誠実さを持てば、もっと良い人生になるのではないか。そう信じ込んで、プライドを保っていたのだ。それがどうだ。このざまだ。変わりたいと願っていた自分の〈もしも〉は、他人を救って死ぬばかりだという。
ヒナタは眉をしかめた。その後、辛そうに顔を傾け、じきに納得したように頷いた。
「テルくん。実はこのタイムマシンには欠点がある。性質上、それは観察者が『過去』として認識している『過去』と、その過去から『観察者』が見た『未来』にしか行くことができないんだ」
「……?」
テルは顔をあげた。
「つまり、今流れている時間を越して、未来を観察することはできない。未来へは行くことができないんだ」
でも、とヒナタは続けた。
「それでも分かることはある。今のテルくんであれば、おそらく、人並みの苦労以外は感じないのではないかと思う。他のテルくんとは全く別の苦労を感じ、そして立派な人生を歩むのだと、私は信じてる。大きな災いもなく、小さな幸福を積み重ねていく、とても貴い人生だ」
「……っ」
ヒナタの言葉は、テルには逆効果だった。思わず体が強張った。
それが幸せだとでもいうのか。それ以外を掴むことが出来ないというのか。必死に生きて、得るものがそれだけか。
何にもなれず、母は居らず、小さな幸せとやらを追いかけるだけ……。
「それが……俺のただ一つの人生……?」
そのときだった。
ヒナタの表情がゆがんだ。
「テルくん」
言いながら、ヒナタは擦り寄ってきた。白衣の裾が広がると、テルの頭はいつの間にか両腕に抱きしめられていた。ヒナタの薄い胸が、テルの顔を抑えた。それはまるで恋人同士の抱擁だった。
ハッと意識が覚醒した。耳が胸の間に押し付けられている。ドクン、と心臓の音。
「テルくんはとても優しい。それは私が一番よく知っているよ。優しさとは恵みだ。私はテルくんという恵みにより、生かされたんだよ」
ヒナタの鼓動が強くなる。
「ねえ、テルくん。私は性格が悪いんだ。私はテルくんが生きてくれていて嬉しいんだ。たとえ変わった箇所があろうとも、テルくんはテルくんだ。君が最悪な気分になっていようと、私は嬉しい。テルくんの気持ちよりも、自分を優先してしまう」
嬉しい、と呟いて、ヒナタは抱きしめる腕に力を込めた。
「テルくん、私は嬉しい。だからね、私は幸せだ。でもね、もうこれで私の番はおしまいなんだ。今度はテルくんの番なんだよ。やっと君の順番が回ってきたんだよ、テルくん。今度はね、君が幸せになるんだ。本当の意味で、未来を変えていこう。私はテルくんの命を救えなかった。だからせめて、私がテルくんを幸せにしてあげたいんだ。だって、私はテルくんに命をもらったのだからね」
「……ヒナタ……?」
テルの口が動いた。その言葉に絶望の色はない。
ヒナタは身体を離した。真正面からテルを見つめた。その瞳は赤くなってはいたが、涙の一粒も浮かんではいなかった。
「テルくん。私にとって、この世界の君は、最後のテルくんだ。そして同時に、初めて自分のために生きることになる、最初のテルくんでもあるんだよ。君が望むことを、精一杯やってほしいんだ」
*
抱き合うように身をよせていた二人は、しばらくすると押しのけるように身を離した。 ヒナタの顔は真っ赤だった。テルも同様だ。ヒナタは大胆な行動に衝撃を受けたから。テルは出会ったばかりの人間に弱さを見せたから。それぞれ異なる動機に、動悸をあげていた。
とにかく帰ろうという話になって、二人は小屋を出た。鋭い音を立てて、小屋が再び消えると、掛ける声もないままに平屋へと足が向いた。宴会を抜け出してから二時間ほどが経っていた。
暗渠を前にすると、すでに平屋の全景は目に入る。
宴も佳境を迎えているのだろう。電気はついているが、騒ぐ声は少ない。とはいえ、終わりではないようだ。休日前のムチャ振る舞いといったところか。やはり二つの家屋に密集しているせいで、一部だけが煌々と照っていて、他はしんと静まっていた。
おかしな影に気がついたのは、テルが先だった。暗闇の中を何かがうごめいている。
最初は平屋の酔っ払いだと思った。が、すぐに間違いに気がついた。その人間は、おそらくはスーツを着ていた。もしくはそれに準ずるものだ。そんな格好で夜の長屋を歩く人間はいない。くわえて、何故だろう。隠れているとしか思えないような中腰を保ちながら、平屋に挟まれた道を行き来していた。
先行していたヒナタの腕を、テルは掴んで引き止めた。口元に人差し指を垂直にあてて、黙れと指示。その指をそのまま水平に倒して、先を示した。ヒナタは指先を辿り目を細めると、やはり人影に気がついたらしい。テルの顔を見直した。
平屋前の歩行者道路は比較的明るい。転じて、こちらは暗闇だ。観察をしているテルとヒナタを、不信な人物は目視できていないらしい。二人は無意識によりそうと、物陰にしゃがみこんだ。
空き巣か。強盗か。それともただのいたずら目的で落書きでもする、愉快犯か。テルの脳裏に数パターンの展開が広がり、最後にヨウの顔が浮かんだ。
「まさか……」と呟く。
目的は綿星家ではないだろうか。そして、そこに住まう人物、綿星ヨウなのでは?――キョウスケのへらへらとした言葉が思い出される。
『やばい先輩が、一目ぼれ』
その時だった。夜空を星が流れるような突然さで、暗闇のなかに小さな光源が現れた。それは正体不明の人物の手の中で発生したようだった。おれんじ色の、炎だ。すぐに分かった。ライターだ。そしてその場所は、あろうことか、宴会場にされているテルの自宅の付近。一つ隣の綿星家の前だった。
「テルくん……!」
ヒナタが腰を上げた。が、それよりも早くにテルは駆け出していた。
夜の帳が落ちる中、ライターの火によって浮かび上がるのは、一人の男の顔だった。二十代も後半だろうか。遠いため、細部は分からない。学生ではないようだ。テルはその人間をどこかで見たような気がした。
不審な男は、ライターから手を離した。手中にあった、何かに着火したらしい。さきほどのそれとは明らかに違う反応。火の粉だ。火の粉が男の手に舞っていた。
「おい、お前ッ!! なにしてんだッ!!」
テルは力のかぎり叫んだ。走っているせいで、舌をかみそうだったが、気にしてなどいられない。放火ならば平屋全てが燃えてもおかしくない。命に代えても止めなければ。
男はそこで初めて、身に迫る危機に気がついたらしい。しかし遅い。テルは腕にしがみつき、火種を落とそうとした。
男の体格は立派だった。並みの男性を一回り超えていた。
「――くそッ」と男はいうと、プロレスラーのような太い腕でテルを押し倒した。
テル自身、身体が大きいわけではない。あっけなく振り落とされてしまった。そこへヒナタが追いつき、テルの身体を受け止める。
二人の目は、男の手中に釘付けになった。家に投げられたら、乾燥しきった木造家屋のことだ、すぐに火の手は回ってしまう。が、なぜだろうか。男は手に持った物を、あらぬ方向へ投げ捨てると、一目散に逃げ出した。物体は、不思議な残像をテルの瞳に映しながら、道路に落ちた。
なんだったんだ……?、とテルが口を開こうとしたときだ。
天を貫くような破裂音が、耳をつんざいたのだった。同時にカメラのフラッシュが何度もたかれたかのような、瞬間的な発光が後を追う。耳と目が衝撃にやられて、一時的に機能を失った。それは数十秒もの間つづき、音や光はあちらへ飛んだり、こちらへ戻ったりを繰り返した。
長い長い破裂音は銃声のように続き、やがて静まった。
あたりが白煙に包まれる。鼻の奥がつんとして、なんだか目がしみる。不快な耳鳴りと視覚異常を感じながら、テルは現状を確認しようとした。
「テルくん」とすぐそばのヒナタが先に答えを口にした。「これは、爆竹だよ。二〇連の爆竹が何百束も長屋にはりめぐされていたらしい。わざわざ導火線で結んで時間差攻撃とは、相手も随分と暇人のようだね。少なからぬお金と労力をかけて……まさかいたずらということだけではあるまいね?」
さすがに気がつかないわけもなく、酔いに顔を赤くした住人たちがぞろぞろと出てきた。ヨウ以外は全員いるようだった。
酔っ払いたちは、徐々にはれていく白煙を手の平で払いつつ、あたりの惨状を眺めた。煙がはれると、破裂した爆竹のカスがよく見えた。虫の死骸のように累々と広がっている。各々はひっく、ひっく、としゃっくりのようなものを上げながら、何を言うでもなく視線を移した。そこに居たのはテルとヒナタだった。互いが身を守るようにして、ひっついていた。
住民は異口同音に、こう言った。
『なんだ。逢引中か……』
変に納得をして部屋に戻ろうとする住民を、テルは大声で呼びとめた。事情を説明するが、みなは首を振って、達観したような顔を見せるだけだった。『音をごまかしたかったんだろ』だとか『あれが音だったんじゃねえのか』だとか『結構大きかったぞ、さすがにあれはごまかしの音だろ』だとか『最近のガキは激しいんじゃねえのか』だとか、意味の分からぬことを言っては酒に呼ばれて戻ってしまう。
どうしたもんかとテルが頭を抱えていると、アルコールを一切とっていない双子姉妹が、いの一番に異変に気がついた。『わ、なにこれ!』、とユニゾンの驚きをあげた。
テルもまた悲惨な光景を目にしていた。
ヨウの自宅だった。その玄関に、文字が落書きされていた。白いスプレー缶で書いたのだろう。意味など見られない、罵詈雑言や卑猥な言葉が書き連ねてある。
双子が声をあげたのは、どうやら自分らの乗る自転車を見たためらしい。ヒナタの改造した電気自転車のタイヤがずたぼろに破かれていた。
ここまで判明して、やっと住民の酔いがさめた。皆、顔をこわばらせて自宅へと戻る。するとどうだろう。そこかしこから悲痛な叫びが聞こえてきたのだった。室外機にペンキをかけられていたり、玄関にわら人形が打たれていたりと、よくもまあ多種多様な嫌がらせを思いつくものだと感心したくなるほどの手際だった。
「どうやら平屋全体が目標だったようだね。目的は不明だが……土地を明け渡せなどと脅されているのかい?」
ヒナタが自論を展開した。
「いや、そんな話はきいてねえけど……」とテルは曖昧にうなずく。とりあえずヨウの身に危機がなかったことに安心するべきか否か困ってしまう。
犯人の意図が判明したのは、それから数時間後のことだった。
⇔
綿星ヒカリが店を閉めたのは朝4時のことだった。休日前だけは常連客が粘るので、なかなか暖簾を下ろすことができない。大事なお客の愚痴を聞いて、片づけをし、やっとのことで平屋にたどり着いたのは七時を過ぎたころのことだった。
帰って寝ようと、足早に歩行者用道路に足を踏み入れるや否や、不可解な光景を見た。
「あらぁ、みんなどうしたのぉ?」とヒカリは目をまぶしそうに細めた。
平屋の人間が朝一から動き回っていた。ぐうたら人間に分類される住民までもが、ジャージを身につけえっちらほっちら働いているのだから、ヒカリが驚くのも頷けた。
事情を説明する余力のあるものはおらず、皆は簡単な挨拶をしながら、壁や室外機や道路などの清掃を続けていた。住民はなにかと見慣れぬ薬品を使っているが、あれはなんなのだろうか。一斗缶の一つには『なんでもトゥース・レール※ヒナタ印の発明品№〇二三一』というラベルが張ってあった。ヒカリは首を傾げつつも、確たる理由を求めて、自宅へと足を向けた。
⇔
「テルちゃーん、なにかあったのォ?」
聞き慣れた声にテルは振り返る。仕事あがりの綿星ヒカリが立っていた。苗字からも分かるとおり、ヨウの親族であり、その続柄は母である。が、それを感じさせないほどに若々しく、実際町で歩いていてもナンパ男の声掛けが絶えないらしい。高校生の娘とセットとは知らずに寄ってくるのだから救えたものではない。外見的特長は、垂れたまなじりだ。老いからではなく天然の垂れ目。まるで愛想の良いゴールデンレトリバーのような女性だった。
「ああ、ヒカリさん……」
疲れを感じていた身体をほぐしながら向き直る。ヨウの玄関に書かれていた白文字は、判読不能な状態にまで消されていた。汚れはこれからだが、ヒカリが文字の羅列を理解しなかっただけマシだ。
「おうち、汚れちゃったのねえ?」
どうでも良さそうにヒカリは言う。実際はきちんと心配しているのだろうが、表情や表現に変化が少ないのである。
テルは昨晩に起きた事件の顛末を語った。へぇそうなのぉ、とまるで他人事のようにヒカリは頷いて聞いていた。
途中、ヒナタが顔を見せ、ヒカリと自己紹介を交わしていた。どうやらヒナタのほうは存在および特長を把握していたようで、問題もなく笑顔で会話を終えていた。ヒカリについては、言うに及ばずだろう。
「で、テルくん。源一郎氏から話を聞いてきたのだが」
「誰だ、それ」とテルは首を傾げた。
「テルくん。君は大家の名前さえ覚えられないのかい」
「ああ、そうだそうだ。いや、セクハラ大家で十分だからさ……」
「性欲は本能だ。節度は大事だが蔑視はいけない。絶滅するよ」
恥ずかしげもなくさらっとすごいことを言うものだから、テルはまともに返してしまった。
「節度がねえんだよ」
「そうかい? 人情味のある人物だと思うけれどね。今朝も『作業着をくれてやる』と声を掛けられたよ。新品をありがたく頂戴した」
「へえ。あの人も良いところあるんだなあ」
「ああ。ただ、白衣の下に着るのが礼儀なのだと言われた。まだ見ていないけれど、そんな物が世の中にはあるのだね」
「は? なんだよ、それ。いったい何をもらったんだ」
これだ、とヒナタが白衣のポケットから何かを取り出した。ぐしゃぐしゃになっているのは、広げもしないまま無造作にポケットへとつっこんだからだ。
全体の色は白。まず、紐が目についた。ついで小さな布がちょこんと付属してる。それだけだった。ヒカリが、まあまあ、と手に口を当てた。
「おい、これ、まさか」
テルは布キレをつまんだ。ひろげる。紐の片方がだらりと下がり、もう片方は申し訳程度の面積しかない、白い生地に縫合されていた。テルはこの品を知っている。十分、存じている。どこで知ったかは割愛するが、これは俗に言う〈マイクロビキニ〉という代物だ。
ヒナタがこともなげに頷いた。
「源一郎氏の弁を借りるならば、本来の用途は水着であるという。裸による海遊びを禁止された人々が生み出した、立派な発明品らしいよ」
「き、着るつもりかよ!」
「……? 着用するわけがない」
「あ、ああ。そうだよな――」
「肌寒いだろう」
「――そういう問題じゃねえよ!」
「なんだい、テルくんは騒がしいな。下着じゃない、水着だ。真夏には最適だろう。問題があるのかい?」
「いや、問題というか……」
テルは言いながら、想像してしまった。ヒナタの肢体が、粘土で形作っていくかのように、むくむくと想起される。細い手。長い足。キュッとしまったウエスト。申し訳程度の胸――今まで培われてきた想像力が、見たこともない身体をあっという間に作り上げてしまう。もはや見慣れてしまったヒナタの顔が、フィギュアのようにかちりとはまると完成だ。そこへ、白い三角の布地が加わる。ありえないほどに鮮やかな色をした突起の上に、載っているだけとしか表現しようのない小さな衣。同時に、情けないほどにクオリティの低い下半身を、これまた恐怖を覚えてしまいそうなほどに頼りない三角形が隠した。
なんということだろうか。それは実に蠱惑的なイメージだった。大家をどなりつけてもいいはずなのに、自分の妄想が見透かされそうで、実行はためらわれた。
急に無言になったテルを不思議そうに眺めつつ、ヒナタは手渡されたビキニを、ふたたびポケットに収納した。
「それで、話を戻すけれどね。源一郎氏の言い分では、地上げ屋に迫られるような話はないということだった。立ち退きをしろだとか、そういう話は疑わなくていい」
「ああ、そうか。うん」
現実に戻ってきたテルは、ヒカリに目を向けた。「ということみたいだ、ヒカリさん。やっぱり理由は分からないけど、気をつけてね」
ヒナタの用件は済んだようだった。立ち去るのだろう。背を向けた。
「あ、お、おい、ヒナタ」とテルは口ごもりながら呼び止めた。
「ん。なんだい、テルくん。私はいまから双子姉妹の自転車を直さねばならない」
「あ、ああ。わかってる。あのなヒナタ」ヨウはもごもごと発言した。「さっきの水着。白衣の下に着るもんじゃない。気にするな、大家の妄言だ」
「ん? そうなのかい。しかし試してみる価値はある組み合わせだ。白衣の下に衣服を着ると、夏はじつに蒸れるからね。水着なら気にならない」
「あのな……」テルはなおも食い下がった。さきほどのイメージが勝手に頭に浮かぶ。「それ、着たところ……その、想像できんのか? お前、分かって言ってるのか? それをどう着るのか、分かってんのか?」
「なにを言っているんだい、テルくん」やれやれ、とヒナタは首を振る。ポケットから白い生地を取り出して、両者の間に掲げた。「解説してあげよう。ここが肩にかかるところだ。ここが背に掛かる紐だ。そしてこれが……ここはなんだ。ここも紐か」
ヒナタはかぎりなく面積がけずられた三角形を指さす。
「いや、そこがメインパーツだ」
「……? メインパーツ? こちらの紐と組み合わせると、どうにかなるのかな」
「いや、どうにもならない。それは下のパーツだ。紐ではなく、布面積として考えろ」
「……?」
ヒナタは二本の手で、それぞれのパーツを中空につまみあげた。何が見えるわけでもないのに、太陽に透かしている。目を細めた。三秒経った。顔がボッと燃えた。
「か、返してこよう」
理解したらしい。まともに確認をしないでポケットにつっこむからこうなるのだ。
そわそわと歩き去るヒナタの背中を、テルは曖昧な表情で眺めた。大きく息を吐く。困ったものである。それから手を休めていた作業に移るべく、道具を手にした。
間の抜けた声が、重大な意見を述べたのは、その時のことだった。
「立ち退きっていったのお、テルくんー?」
立ち退かないヒカリが、尋ねてきた。テルは手を動かしながら、答えた。
「そうだよ、ヒカリさん。地上げ屋って、聞いたことあるでしょ。いまはあんまり見ないらしいんだけど、まだ一部の地域じゃ地価は高いからね。無理やりに立ち退かすために、いやがらせするらしいよ」
トラックなどを家屋に突っ込ませて無理やりに退去させるなど、その方法は非合法的なやり方が多いらしい。今回の手法や目的も、照らし合わせていると一致する箇所はある。が、心当たりがないのだから万事休すだ。
ヒカリがもじもじとし始めた。言いたいことがあるも、なかなか言い出せないらしい。優しいとはいえ厳格だった母と比べると、まるで子どものような性格だ。そういったこともあってか、生前の母とはかなり仲が良かった。
テルはほほえましくなり、どうしたのさヒカリさん、と促した。その後、表情が凍ったのは言うまでもない。
「あのねえ、テルくん。あのお……これ、私のせいなのかもしれないなあ……」
悪びれることなく、しかし長年付き合っているものならば分かる、微かな気落ちの変化を見せながら、ヒカリはそう言ったのだった。
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第三章/時空管Zへ連れてって。
作業中の住民が一斉に集り、ヒカリの言葉に耳を傾けていた。
「あのねえ。横丁の皆も困っていたんだけどねえ。いま、あそこにアミューズメント施設とか、商業施設とか、大規模な集合体を作る計画があってえ、横丁の土地を買い取っている人たちが居るのねえ。でも、私たちはあそこでやるのが好きだから、ほとんどの人は首を縦に振らなかったみたいなのお。中にはもう居なくなっちゃった人もいるんだけどお……」
住民が口々に納得の声をあげた。テルも心当たりがあった。横丁を通ったときのことだった。見慣れた並びに、歯抜けがあった。
「あ」
テルの脳裏にひらめくものがあった。すぐに口語へ変換した。「そういえば……昨日の男。どっかで見たと思ったんだ。昨日、買い物途中に横丁で見た奴だ。二人組みの一般人離れした奴らだった」
「ああ、そうかもお」ヒカリも賛同する。「昨日も夕方あたりにきて、最後の忠告だってえ、言われた気がするなあ……こういうことだったんだねえ」
気がするってなんだよヒカリちゃん、と大家が呆れて突っ込むも、周りの住民が援護する。ヒカリさんなんだぞ、当たり前だろ。はきはきしてたらヒカリさんじゃないでしょ。何年付き合ってんだ馬鹿やろう。家賃下げろ。
皆が好き勝手に口を開く中、ヒナタだけがまともな意見を口にした。
「なるほどね。そいつらの提案を頑なに断り続けていたら、自宅を攻撃されたのか。関係のない住民まで巻き込めば、効果的だろう。罪悪感を感じずにはいられない。他のオーナーらも、攻撃されている可能性はあるね」
ヒナタに言われ、ヒカリは横隣で経営しているバーの主人に連絡を入れた。ビンゴだった。こちらも自家用車をずたぼろにされたらしい。もう一軒隣の知人にもかけたようだが、こちらは何もされていないという。しかし買収を断っていることに違いはない。
「実行犯が少ないのかな」とテルが首を捻った。
「だろうね。でなければ、昨夜も一人で動くわけがない。横丁など、それだけで十分だと思ったのだろう」
ヒナタはアゴに手をやった。「しかし、このままいくとなると面白くないだろうね。簡単だと思っていた買収が難航。人員は強化され、やり口は悪化しそうだ。早期に解決しなければ、いずれ首を縦にふる人間が多くなる。もちろん無理やりに」
「だろうな」
テルが頷くと、周りの住人も釣られるように首を縦に振った。が、それ以上は何も出てこない。
どうすればいいのだろうか。誰の心にもそんな想いが渦巻いていた。ヒカリを責めるものは、当たり前のように現れず、対処することだけを考えている。店をたためという人間も居るはずがない。
そんな平屋の住人の反応は、当人たちからしてみれば至極当たり前の対応だった。が、唯一、ヒナタだけは違った。その横のつながりを強く感じさせられていた。皆の顔を流れるように見て、最後に同じようにウンウンと悩むテルに視線を固定した。
「うん。そうだね」
ヒナタは片頬だけを吊り上げた。「私に全て、任せるがいいよ。経験は少ないが、人助けとやらをやってみよう」
「ヒナタ……」
テルの口が半開きになった。
思わぬ提案だった。住民達はやはり半口をあけた後、救世主の到来に歓喜した。テルが万感の想いを込めて礼を口にしようとした――その時である。綿星家の玄関がするりと開いた。
「ういィ……なんか、頭いたいィ……うえ……なんか吐きそう……」
ヨウが二日酔いに悩む額を押さえて、はいずり出てきた。髪はぼさぼさ、衣服ははだけて肩が丸見えだ。住人全員がげんなりとヨウを見た。
「……え? な、なに? やだ、そんなに見ないでよ……」
視線を感じたヨウが、恥ずかしそうに髪型を直し、はにかんだ。
「ヨウちゃんって、こういうところが可愛いのよねえ」とヒカリが幸せそうに笑う。
何も知らぬは幼なじみだけ。この母にしてこの子ありという有様であった。
*
休日を目一杯まで使うと、平屋は元の姿を取り戻した。いや、正確に言えば、昨日よりも綺麗になっていた。ヒナタの発明品である正体不明の道具や薬品を使った結果だった。
「やっぱり穣ちゃんはすげえなあ」と大家がしきりに感心していた。
住民も口々にヒナタをたたえた。中には宴会をしきり直そうという人間もいたが、ことがことだけに、収拾がついてからという話になる。
皆の表情が穏やかなのは、ヒナタがきっと事件を解決してくれるという信頼があるからだった。
ものの数日でここまで信頼されるのだから、ヒナタは凄い。テルはそう考えずにはいられなかった。技術力による信頼感はもちろんあるだろう。が、きっとヒナタの瞳にやどる真っ直ぐな色が人をひきつけるのだろうなと、結論に至った。思い至ったからには、テル自信も惹かれているということになるのだが、本人にその自覚は薄い。
さて、そのヒナタはというと、朝から新しい住まいに篭りきりだった。ときおり思い出したように家を出て、どこかへと行く。帰ってくると、古びた藤カゴを背負っていて、その中には何につかうのか分からない部品が沢山はいっていた。おそらく鉄山へ通っているのだろう。
夕刻も間近になったころ、ヒナタがテル宅を訪ねてきた。
「ほら、テルくん。これを平屋の皆に配ってきてくれ」
ヒナタの手から渡されたのは、ヘンテコな格好をした人形だった。黒い服をきている。
「なんだ、これ」とテルは尋ねた。本当に分からない。
「これはね、昔の発案を再現したんだ。発明品№〇二二八〈バンニンジャ〉だよ」
「番人じゃ?」
「違う。バンニンジャ。ようするに忍者だ。黒い服を着ているのだから分かるだろう?」
テルは首を捻った。黒い服など、一般人でも着る。
「お前、なに言ってんだ?」
「な、なんて失礼なテルくんなんだ!」テルが顔を真っ赤にした。「ハイセンスな私についてこられない自分を棚にあげて……もういいよッ! とにかくこれを配布してくるんだッ!」
そう言って、ヒナタはざっと説明を付け足した。ようは防犯装置らしい。全部で十六個あるのは、一家に一台なのだ。
言われたとおりに配布し終えるも、ヒナタの機嫌は直っていなかった。しかめつらで、説明する。
「これで、とりあえずは平気だろう。あれは簡単な自律機能がついているからね。犯人を見つけたら勝手に捕縛してくれる。死なない程度の電気ショックを与えてね」
テルは素直に感心した。
「よくもまあ、ゴミ山の鉄くずであんなもん作れるよなあ」
「む……」ヒナタの顔色が好転した。本人はそれを隠そうとしていたが、ばればれだった。「そうかい? まあ、テルくんが不思議に思うのも無理はないだろうけどね。私は天才だから道理にとらわれないのさ」
主張から小物っぽさが立ち上ってくるようだったが、テルは黙っておいた。
「で、平屋はいいとして。買収問題自体はどうするつもりなんだ?」
安請け合いとは言わないが、引き受けた以上は、何らかの実行案が欲しいところである。
ヒナタは待ってましたとばかりに頷いた。
「うん。そっちにはこれを使おう」
ヒナタが、発明品と思われる品を開示した。丸くて白い。大きさはゴルフボールほど。容器に相当数が入っていた。「これは発明品№〇一九一〈ごようだんご〉だ」
「……へえ、そうか」
テルは余計な台詞を飲み込んだ。しかしヒナタは目ざとかった。
「なんだいッ! また何かあるのかい!」
「何も言ってねえよ!」
「言わないほうが辛らつな場合があるよ!」
「はあ!? なんだよ天才、めんどくせえ!」
「な、なんだと!」ヒナタは憤慨し両手をあげるも、すぐにそれを下ろした。手を出したら負けだと思っているらしい。「ふん。まあいいさ……これはね、テルくん。ようするに捕縛装置だ」
「団子だろ? なんかホウ酸ダンゴを彷彿とさせるな……」
「うん。でも、食べるものではない。団子状のこれを道路にたたきつけると、薄く広がるんだよ。それで、それを踏むと足裏にくっつくんだ。とらえたら、もう離さない。効果は大体一日かな。それ以上がすぎると固くなった後に、分解される。自然に優しいだろう」
「へえ。粘着式の害虫駆除装置とおんなじ原理か。まあ、いいとは思うけど、あの番人のほうが役に立つんじゃないのか? 自律するんだろ。スタンガンもついてるし」
忍者だよ、と訂正したそうなヒナタは、しかしぐっと我慢していた。
「あれはね、テルくん。親機が私の自室に置いてあって、そこから指令を出したり、充電をさせたりと管理しているんだよ。今回のケースでは使えない」
「今回のケース? なにか青写真があるのか」
「うん。もちろんだよ」
ヒナタは〈ごようだんご〉をしまいながら、しっかりと頷いた。「一晩だけでいい。まだ襲撃を受けていない横丁の人間に協力を求めるんだ。住民以外は通らない私有地内に、これを設置しておく。私たちは布団の中に居ればいい。目が覚めれば、獲物はかかっているだろうさ」
「なるほど。捕虜をとって情報を得るのか」
「うん。私の尋問に耐えられるものはいないだろうね。そのための発明が、私の頭の中にはいくつも眠っているのだから」
「……ふうん」
「な、なんて興味のなさそうな相槌なんだ! テルくんの為にやってるのに!」
「……ああ、もう! 悪かったよ!」
小競り合いを終えると、二人は準備に取り掛かった。
結果から言ってしまえば、捕虜はあっけないほど簡単に捕まえることができた。
*
発明品による捕縛作戦が決定した、その日。ヒカリに要請し、横丁のオーナーに渡りをつけてもらうことにした。未襲撃の店舗および自宅での協力を求めると、複数のオーナーたちは全員が全員、首を縦に振った。どうやら事件は耳に入っているらしい。
発明品である〈ごようだんご〉を所定の場所に配置すると、住民に設置場所と取り扱いの注意、および万が一踏んでしまった場合に使用する剥離剤を手渡して、一時待機だ。
平屋の住民の期待を背負ったまま、ヒナタとテルはひとまずの休眠をむさぼった。仲間はずれにされているような顔のヨウが、一見すると遊んでいそうな二人を、羨望の目で眺めていたが、自分の親の問題でもあるので、必要以上の文句は口にせず、テルとヒナタを見送った。
そして現在。明け方だ。
テルの視線の先で、大きな体躯の男が捕縛されていた。作戦決行から数時間後のことだ。見事に〈ごようだんご〉に引っかかっていたのだった。
顔を出した太陽に照らされて、先日、平屋に爆竹を投げ捨てた男がもがいていた。粘着材に掴まったゴキブリを思わせる動きをしていた。ほっぺたと唇がくっついているおかげで、言葉は不鮮明だった。テルとヒナタに気がつくと己の境遇にやっと気がついたのだろう。暴れはじめたのだが、一晩中、逃れようともがいていたせいで、力は残っていないらしい。すぐに静かになった。
ヒナタが己の功績に、あきれ返っていた。
「ここまで上手くいくとはね。自分でも驚くよ」
テルにも言いたいことは分かったので、賛同する。
「なんつうか……シュールだな」
「ああ。実に滑稽だ」
人間が地面にへばりついているというのは、日ごろお目にかかれないものだ。まるでコメディ映画を見ているかのようだが、悲しきかな楽しきかな、どちらにせよこれは現実だった。
「さて」とヒナタはしゃがんだ。ポケットから取り出したるは、新たな発明品のようだった。小型のメガホンのようにみえる。「テルくん。私は、拷問や尋問を楽しむ趣味を持っていない。だからてっとり早く行こう」
「それ、なんだ?」
「これはね、テルくん。発明品№〇四八九〈しゃら拡声器〉だよ」
「へえ」とテルは頷いた。
「〈しゃら拡声器〉の語源を知りたいかい、テルくん。どのようにしてこの名がついたか!」
テルは首を横に振った。知りたくない。どうせ〈しゃらくさい〉と〈拡声器〉をかけているのだろう。駄洒落だ。
「ッ……わかった。先に進もう。これはね」
ヒナタは、テルの心中を知ってか知らずか、説明を始めた。「人が考えていることを、なんでも読み取ってくれるんだ。つまり、黙っていようが、相手の考えが分かる。心に浮かんだことがわかってしまうんだよ!」
「え? 本当かよ」
テルは純粋に、すごい、と思ってしまった。これまでのやりとりを全て覆してしまうような、画期的な発明品だった。本当に凄い。
「よいしょ」
ヒナタが発明品を、テルの口元に持っていった。
『本当に凄い』
〈しゃら拡声器〉が合成音声でもって、テルの心中を吐露した。
「おお!?」と代わり映えのしないテルの反応だが、『こいつ、天才か!?』とやはり合成音声がテルの心を明け透けにした。
「ふふん」ヒナタの鼻が高くなる。「そうだろう、凄いだろう? もう一つ、凄いことを教えてあげるよ、テルくん。〈しゃら拡声器〉とは、しゃらくさいと拡声器をミックスさせて完成した、ハイセンスなネーミングなのだよ? すごいだろう」
テルは黙っていたが、機械は忠実に動いた。
『やっぱり駄洒落じゃねえか……』
ヒナタが無言のまま、なんとも言えない表情で見つめてきた。睨んでいるようにも見えたが、それは悲しそうで寂しそうで、しかし負けてはいられないといったような複雑な色を含んでいた。眉間によったシワが、哀愁を漂わせていた。
「ああ、もう! やりづらい!」
テルは、ヒナタから拡声器を奪った。話が進まない。テルは見よう見真似で、大男の口元にそれを近づけた。質問する。
「おい、アンタ。平屋を襲ったことは分かってる。他の場所も、そしてここにきた理由も割れてる。だから、答えを一つだけ思い浮かべてくれ。雇われ主の名前は?」
男は視線を逸らした。テルは察した。言う気がないんだな、と。しかし無理だ。拡声器が全てを暴露する。記憶が無いとは言わせない。
『雇い主は』と機械音声が言葉を発した。男がきつく目をつむった。『……えっと、名前なんだっけ……?』
そもそも記憶力が無かった。
「ヒナタ、大変だ! こいつ、バカだ!」
テルが振り返ると、ヒナタは依然として、寂しそうな顔でこちらを睨んでいた。ためしに、口元へと拡声器をやってみた。
『テルくんの馬鹿テルくんの阿呆テルくんの鈍感テルくんのおたんこなすテルくんの――』
呪詛のような言葉の羅列に、テルは白旗を上げた。潔く頭を下げて、解決策を求めた。
回復しきったヒナタが腕を組み、首を傾げた。
「うーん。よもや、雇い主の名前を覚えていないとは……まあ、末端に正体を教えるというのもおかしな話だろうし、忘れたものも偽名なのかもしれないね」
「覚えてないことは、引き出せないのか?」
「そういう発明品もあるけれど、これにはついてないね。完成品もないから、組み立てに一日はかかるだろう。思い出させない限りは、情報は引き出せない」
「そうか……わかった」
テルは、粘着トラップにひっかからないように、男の身体をまさぐり始めた。携帯電話を探しているのだった。場合も場合だ。個人情報だのプライバシーだのといっている場合ではない。
ヒナタにそう伝えると、なるほど、と手を打った。
じきに男の後ろポケットから、目的の代物が発見された。黒色の携帯端末をいじる。が、それらしい情報が見つからない。駄目か、とテルは判断した。
横からディスプレイを覗き込んでいたヒナタも見限ったらしい。
「やはり末端には情報がいきわたらないのだろうね。せめてコレの上司あたりでないと」
「あ。おい、これ」
テルはいじっていた携帯電話をヒナタへ見せ付けた。電話帳機能を参照しているところだった。「〈アニキ〉って書いてある電話番号があるぞ。これ、親族じゃなくて、呼び名だろ?」
「ふむ。兄貴に子分か。立派な上下関係だな。よし、テルくん。貸してくれ」
ヒナタが手を伸ばし、有無を言わさず電話を奪い取った。
「おい。慎重にいけよ。ムチャするなよ」
テルの忠告を聞いているのかいないのか、ヒナタは通話ボタンを押下した。しばしの無言を経て、応答する。どうやら無事に繋がったようだ。
「やあ。君が〈アニキ〉かい? うん、そうだ、違うぞ。君の大事な子分は、昨夜より確保している。心配するな、民間人だ。そうだな、通りすがりの発明者といったところか。さて。君たちの行動は把握している。率直に言おう。雇い主は誰だね。……なんだって? それは言うつもりがないということかい? ふむ。そうかい。ならば君の子分の命はないね。ふむ……ならばこちらへ引き取りにこい。情報と引き換えだ。なに? 場所が分からないだって? 逆探知でもGPSでも使って、近くに来い。分からない? 機械オンチもはなはだしいな! わかったよ……少し待っているがいいよ」
ヒナタは携帯電話に手をかぶせた。
「テルくん。ここの住所はなんだい? 番地まで教えてくれると助かる」
「ええ? いや、ちょっと番地までは分からないな……土地勘だけで来てるし。町名も……あれ、この辺りってなんだっけか……?」
「そうか……わかった――もしもし? というかだな、おい〈アニキ〉とやら。おい。なんだ、うるさいぞ。もしや、せんべいをかじっているのか? いいかげんにしたまえよ。住所だがな、こちらは分からん。そもそもなぜターゲットの住所をおさえていないんだ。おかしいだろう。子分に任せた? だからこんな羽目になるんだ。もっと頭を使え。目の前でもがいているゴリラのような子分のほうが、まだ明晰だ。つまり君はゴリラ以下だぞ。ふん、とんだ戯言だ……いや、違う。君のほうがバカだね。なんだと? 私の意見が間違っているだと? ああ、そうかい。分かったよ。ならば私が正しいことを証明してやるさ! 覚悟しておくがいいよ! 首を洗ってまっていろ! きっと私の説のほうが正しいと証明してやる!」
勢いよく通話終了ボタンを押したヒナタが、険しい顔をして言った。
「テルくん! これからゴリラを鍛えよう! アニキを負かしてやるんだ!」
「どこに着陸してんだ! お前の会話は!」
ヒナタの手から携帯電話を奪うと、テルは勢いもそのままに〈アニキ〉に電話をかけなおした。本来なら緊張するはずの手順は、ここに至った経緯のおかげか、気にもならなかった。電柱に記載された住所を伝え、来るべき時を待つ。その間、さしたる問題は起きない。
「おい、子分。さすがに四則演算は知っているだろう?」
『なんだそれ。山の名前か』と機械音声。
頭の痛い会話が聞こえていたが、耳が遠いふりをした。
*
ゴリラの口をうまいことふさぎ、要所要所にトラップをしかけておくと、じきに訪れた〈アニキ〉も、シュールな絵を構成する一部分となった。粘着剤につかまったのだ。上下そろって情けない人材だった。
現れた人物は、スーツに開襟シャツといったこてこての格好をしていた。テルにはやはり見覚えがあり、それは横丁で電柱に喧嘩を売っていた男だった。この男、〈アニキ〉と呼ばれてはいるが、その実、グループにおける下っ端だった。町のチンピラをしたがえるのが精一杯といったところだ。序盤の足がつきやすい行為は、下の位が行うのだろう。だから現場にも一人で訪れていたし、他の人間を回すことができなかった。
『丸い金と書いて、マルカネだったか。西にアミューズメント施設を何件か持ってるとか言っていたが……誰が教えるか、このクソガキどもめ、あとで痛めつけてやる』
合成音声が答えを口にするまでに要した時間は数秒だった。〈アニキ〉は目をひんむいた。そりゃそうだ。現代科学の域を超えている。
しばらく問答を繰り返した結果、これ以上の有用な情報を持っていないことが知れた。二人は晴れてお役御免となった。
「約束だからね」とヒナタは二人を解放しはじめた。専用の剥離剤で二人の足と腕以外をはがすと、付言する。「すでに分かっていると思うが、私は発明家だ。これを見れば分かるだろう」
手中の〈しゃら拡声器〉を見せびらかした。兄貴と子分の二人の視線が釘付けになった。
「私ほどになるとね、君たちの頭の中までをも詳らかにすることができるのさ。凄いだろう? おっと、言い忘れていた。さきほど君たちに気づかれないように、とある装置を衣服につけさせていただいた。それは私たちのどちらかに手を触れると、爆発してしまうものなんだが……さあ、ほら手かせ足かせを解いてあげるよ。おっと、あぶない。君たちに触れたら、爆発するところだった。さ、これで動けるだろう? 帰宅するといいよ」
自由になった二人は、顔を見合わせた。互いの服に目を走らせている。
ヒナタがとぼけた。
「あ。そうだ。装置が見つかった時点で、手動で爆発させることもできるんだった。さて。準備をしておくか。手足ぐらいはもげるだろうが、死にはしないさ」
ひいッ、と情けない声を出したのはどちらだったか。すばやく立ち上がると、こけつまろびつして住宅街から消えた。
ヒナタが無表情のまま口を開く。
「うそぴょーん」
「笑えねえよ」
まことに物騒な話だった。テルがツッコむと、ヒナタは続けざまに言った。
「うそにゃーん」
場が更にしらけた。
テルは〈しゃら拡声器〉を奪い取ると、ヒナタの口に当てた。
『失言なのだろうか……』
「その通り」
テルは頷き、そしてこの通り、事態は一歩だけ前進を見せたのだった。
*
捕り物劇の同日、正午前。
アクビをかみ殺し、テルは情報収集に励んでいた。
ゲームセンターの顔なじみや、腐れ縁であるキョウスケに話を聞くと、情報はすぐに集った。餅は餅屋というべきか、アミューズメント施設に集る人間は、やはりその手の情報に聡い。
『ああ、知ってるよ』とはっきり答えたのはキョウスケだった。『この前話したカモが居るだろ? ほら、麻雀でカモるっていう……そうそう、綿星の話を聞いた奴だよ。そいつが通っているのがマルカネ第一ビルのダーツ場だよ。ダーツ場の名前も当然マルカネダーツ。ついでに俺がひいきにしてるその雀荘マルカネもマルカネ第二ビルだぜ。西じゃあそれなりに有名な事業主だよ……ん? ああ、俺の遊び場は西なの。うん、ああ、そうだな。東にもぼちぼち出してるし、最近じゃあ関東圏にも手を伸ばしてるらしいぜ。本格的にアミューズメント事業に参入するんじゃねえの? 他には土地だとかで資金を稼いでるらしいけど、そっちは詳しくねえわ。ああ、あと市長と黒い噂とかも聞くよな。それぐらいか』
謝礼を求めるキョウスケに、丁寧に礼をいい、そのまま電話を切った。
作戦会議場である名月家では、話を聞いたヒナタが次の一手を模索していた。
「なるほどね。事業拡大の第一手か……それにしても横丁のあたりに新たに建造したところで、益が出るものなのだろうか」
世間話のノリなのだろうことは、口調から聞いて取れた。身構えず、テルは適当な言葉を返した。
「さあね。金持ちの考えは分からん。ただ、東には遊び場が少ないからな。西に出向くのがダルいときなんかは、活用するんじゃないのか? というか、タイムマシンで未来を見てきてくれよ。ついでに解決策もな」
「全く聞いていないテルくんに驚きを隠せないところだが、もう一度言おう。あのタイムマシンは時間を飛び越えることは出来ないのだよ。それに仮にできたとしても問題がある」
ヒナタはすらすらと説明を始めた。
「時空管移動をすると4週間、時間移動をすると1週間、それぞれ整備とエネルギー充填が必要になる。私は2週間と少し前にこの世界にたどり着いた。そこから整備をしてはいるが、あと2週間分はエネルギーが足りない。いままさに整備とエネルギー確保中なのさ」
へえ、とテルは相槌をうった。
「整備とエネルギーか。そういやタイムマシンって、なにで動いてるんだ?」
「なにで、というのはつまり燃料のことかい?――それなら、生ゴミだね」
それからヒナタは有名なSF映画のタイトルを口にした。「時間をさかのぼるうちに、それを知ってね。原理や発生エネルギーに差はあるが、限りなく似たような方法をとっている。映画自体もね、これがまた面白いのだよ、テルくん。何が面白いって、未来改変に成功するところがたまらなく面白い」
テルもよく知っている作品だった。発明品や登場人物を思い浮かべて、確かにヒナタに通じるものがあると納得した。
「それにしても……フィクションをノンフィクションにしたのかよ。本当、夢みたいな話だな」
「人間など、思考形態には限界があるのさ。ここまで人類が進化したらね、どんなに未来へと進もうが、今までに出ているアイディアの再現と失敗しかありえないね。進化するのは再現技術だけで、人間の頭の中は基本的に同じさ」
「ふうん、そんなもんかね……ま、とにもかくにも、未来へ行くのは無理ってことか」
テルはちゃぶ台を端にやると、畳のうえに寝転んだ。イフの世界や未来には、はなから期待などしていないから、ショックなど微塵も感じない。正しくは『もうこりごり』だ。
それに、気になることが他にあるのだった。ずばり、キョウスケの話だ。考えれば考えるほどに勘ぐってしまう。買収をたくらむマルカネと呼ばれる人物および会社。マルカネビルに入っているダーツ場をヒイキにしている男、およびその口から出た正体の知れぬ先輩。その二つの共通点はなにか――ずばり、綿星家だ。広いようで狭い世間だ。一見するとありえないことでも、起こりえる。が、これは本当に偶然なのだろうか。テルには判断がつかなかった。
「なあ、ヒナタ」
相談しようと考えたのは、ヒナタが信用に足る人物だと思ったからだ。にわかには信じられない話は当然ある。だが、たとえタイムマシン云々の話が嘘なのだとしても、事情を聞きその筋が通っていれば、笑って許せるに違いない。たった三日ほどしか会っていないのに、それは驚異的な発展速度だった。原因は分かっていた。ヒナタからテルへ、全幅の信頼というものが無条件に加味されていることだ。何故だろう。テルにはそれが、心地よくてたまらなかった。
「ん。なんだい、テルくん」とヒナタがアゴに当てていた手を下ろした。「次の一手が思い浮かんだのかい?」
「ああ、いや。そうかもしれないし、違うかもしれない。というか偶然かもしれないし、思い違いかもしれないんだけど……」
「前置きはいらないよ。テルくんのことは信じている」
「……ああ、そう」
テルは気恥ずかしさを覚えるも、それを出さないように努めた。それから、ヨウの名前があげられた過程と、その人物および頻繁にたむろしている場所。また、今回の地上げ襲撃とその依頼主との関連性を指摘した。
「ふむ」ヒナタがふたたびアゴに手を当てた。考えるときの癖なのだろう。人差し指で、下唇をプルプルと弄っている。「確かに奇妙な一致ではあるね」
「やっぱりそう思うか?」
「うん。でもね、テルくん。横丁の店主はなにも綿星母だけではないのだろう? わざわざ綿星ヨウに狙いをつける理由はないと思うよ。他の店主の家も攻撃されているし、長屋にこだわる必要もないだろう?」
「まあ、たしかに……」
分かっているのだが、どうにも不安は拭えない。じきにヒナタが言った。
「テルくんは、諸星ヨウが好きなのかい」
「はァ!?」
テルのすっとんきょうな声を受けて、ヒナタが目を丸くした。
「なんだ。当たりか――いや、遠慮はしなくていい。他の世界のテルくんは諸星ヨウを家族のように思っていたのだけれどね。他とは違うテルくんなのだから、思考形態も違って当然だ」
「お、俺だって」とテルは現実味のない他の自分と比較する。「ヨウのことは家族だと思ってるさ! というか、家族としか思えねえよ!」
「ふうん、そうかい」ヒナタは外へと手を振った。「やあ、綿星ヨウ。こんにちは」
「――ッ」
高速。いや、光速でテルの首が回転した。窓の外には誰も居ない。野鳥が飛び立った。
「うそぴょーん」とヒナタが無表情のまま言った。「テルくんは単純だなあ。そこが素敵なんだけれどね。まあ、気持ちは素直に持つといいよ。テルくんが幸せになることが私の願いだからね」
高まっていた動悸が下がるにつれて、テルの心が温度を上げた――幸せ、幸せ、俺の幸せと言うけれど、お前は一体どうなんだ。おせっかいな部分のテルが、ゆっくりと立ち上がった。母親の声がどこからか聞こえた気がした。
「ヒナタはいいのかよ」と少々ふてくされながら口にする。「お前は幸せになりたくないのかよ。俺のことばかりじゃなくてさ」
「ああ、そのことなら心配しなくていい。私は十分幸せさ。テルくんに助けてもらったからね。だから今度はテルくんを救う番なのさ」
ヒナタはとても満足そうな笑みを浮かべた。何を思い浮かべているのか、容易に想像できた。それはテルではないテルだ。
なぜだろう。それが無性に頭にきた。
それは俺じゃない。今の俺ではない。
「それは俺じゃないだろ」
遮るようなタイミングで、テルの口が動き始めた。まるで点火スイッチがオンに入ったかのように、ガチリと気分が変わった。それは一向に収まる気配などみせず、流れるように言葉をつむがせた。
「お前は何を勘違いしているのかは知らないけどな。俺は他人を助けようとか、そんな考えは持ってない。自分のことで精一杯だ。お前がどう思っているかとか、何に恩を感じているのかとか、そんなことは知らねえよ。元の世界のテルくんとやらに、それを示せよ。事情の知らない俺を救ったところで、別の俺が喜ぶのか?」
吠えることはしなかった。が、それは間違いなく怒声だった。氷のように冷たい怒り。テルの心は何かに支配されていた。それは何?――答えに辿りつく前に、ヒナタが口を開いた。
「うん。そうだね、自己満足だ。まるで、それらしい理由をつけて子を捨てる親のように、一方的で偽善的さ。幸せにできないから、本人のためだから。だから違う選択肢をあげたい。正直、反吐が出るね。幸せの定義なんて本人が決めることさ」
でもねテルくん、と言ってヒナタは微笑んだ。それはまるで子を前にした母親のような、一方的な包容力に満ち満ちていた。しかし同時に、言葉に表せない寂しさを抱えているようにも見えた。「それでも私は、テルくんを助けたいんだよ」
ああそうか、とテルは気がついた。自分は嫉妬していたのだ。どうしようもないほどに『他の自分』を憎んでいただ。
だって、そうだろう。ヒナタに、こんな悲しい思いをさせるなんて、他の世界の俺は馬鹿だ。そして、思う。この俺はさらなる大馬鹿野郎だ。
*
平屋が騒がしくなったのは、二〇時を過ぎたころのことだった。
ヨウが忽然と姿を消したのだ。
テルがそれを知ったのは調査がてら、ゲームセンター等に足を運んできた帰りのことだった。ヒナタとの会話の後、なんだか気まずくなり、なんだかんだと理由をつけて外出していた。調査などといっても、実際は、ヒナタと顔をあわせたときの判断を延々と考えていただけだった。
携帯電話が振動し、応答を求めていた。画面には〈大家〉の表示。面倒くさいが、出ないと更に面倒くさい。
電話口の大家はじつに慌てふためいていた。用件は『ヨウが買い物から帰ってこない。もうすでに四時間が経っている。携帯電話にも反応がない』。少々焦りすぎではあるが、タイミングが悪いのだろう。地上げ屋の襲撃も記憶に新しく、どうしたって関連付けてしまう。
それはテルも同じだった。まさか、と息を呑む。
『穣ちゃんが部屋にいねえんだ! ヒナタちゃんはどこに居んだ!?』
大家の声は裏返っている。わらをも掴む思いというわけではなく、心からヒナタの活躍を信じているようだった。
落ち着くように言い聞かせると、電話を切った。自然と駆け足になる。目的地は決まっている。道中、ヨウの電話を鳴らしてみるが、コール音がむなしく続くだけだ。
テルがそこについたのは、十五分後のことだった。鉄山である。直感ではあったが、タイムマシンの整備に着手しているとふんだ。
夜の帳はとうにおりており、あたりは暗い。そんな闇の中を、ヒナタの白衣がひらひらと舞っていた。どうやら小屋での作業を終えたばかりらしい。テルに背を向け、平屋を目指していた。
「ヒナタ!」
テルは叫んだ。焦りが昼間の気まずさを払拭していた。
多少の驚きと共に振り返ったヒナタに、間髪入れずに説明をはじめた。ヒナタは神妙に頷く。
「そうか。分かった。そうだな……小屋に戻ろう、テルくん」
促され、小屋へと入る。相変わらず二足歩行のロボット〈ヴェルダンディ〉が自動ドアの役目をこなしていた。ヒナタはその機械の塊に何かしらの指示をした。
ヴェルダンディが腰の辺りから、正方形の物体を取り出した。それはディスプレイのようだった。ケーブルでヴェルダンディ本体と繋がっている。どうやらネットワークに接続するための形態端末であるらしい。
「テルくん。綿星ヨウの電話番号を教えてくれ」
テルは電話番号をそらんじた。ディスプレイの下のカバーを開くと、小さなキーボードが現れ出た。ヒナタは数字の羅列を打ち込んでいく。さらに何かしらの作業をすると、ピッと小さな音がした。
「ああ、良かった。登録があるぞ、テルくん。他の世界の綿星ヨウの電話番号とGPS情報を登録してあるんだ。君に影響力のある一番の人間だからね。番号は契約状況や時期によってそれぞれの世界で同一だったり、違ったりするのだけど……他の時空管のものと一致していて助かった」
GPSとはグローバル・ポジショニング・システムの略だ。機器の位置情報を教えてくれる。
再び、ピッと電子音が鳴ったときには、ヨウの――もとい、ヨウの携帯電話の位置は知れていた。
場所は直線距離にして、南にはるか18km。そこは人々の活気の消えた場所。中央京港であった。
*
「んぐー! ぐむー!」
テルは猿轡をかまされていた。手足はロープでしばりあげられていて、まともに動くことさえ叶わない。
廃墟の異質な一室でという話ではない。見慣れた間取りの家で、しかし自宅ではない場所に寝転がされている。
そこはヒナタの借りた平屋だった。家具の一つもなかった部屋も、今では用途不明の機器が所狭しと並べられていた。鉄山の小屋を彷彿とさせる様だった。二度、充電をしに帰ってきた〈バンニンジャ〉が目の前を横切った。部屋の片隅に座しているバケツ大の充電スポットへ通っているのだが、テルには目もくれない。
「ん! んんんぐ! ぶはッ!」
もがき続けたすえに口枷が緩む。そこに歯をあて、唇をうごめかせて、なんとか空間を作った。これで叫ぶことが出来る。
テルは息をおもいきり吸った。
なぜこんな事態に見舞われているのか。時は35分前にさかのぼる。
⇔
GPSにより位置情報が知れると、テルの頭を二つの可能性が占めた。
ヒナタも同様のようだった。
「携帯電話だけがトラックなどによって港へ運ばれたか。もしくは綿星ヨウは本当にここに居るのか」
テルの喉がごくりと鳴った。嫌な汗がにじみでてきた。
「どう考えても後者じゃないのか……?」
「私もそう思う」
予測は立てた。ではどうするか。二人は視線を交わした。が、意思は疎通できなかった。
「テルくんはここに居るように。この件には関わらないでくれたまえ」
有無を言わさぬ物言いだ。テルは怪訝そうに目を細めた。
「なんでだよ? 俺だって心配なんだ、悪いけど――」
「――嫌な予感がするよ、テルくん」
ヒナタは最後まで言わせなかった。「考えてみてくれ。もしも私が居なかった場合、綿星ヨウの居場所は知れただろうか? おそらくだが、これは本来、テルくんの感知しえない事実なんだ。なるべく関わらずにいたほうがいい。万が一なにかあってからでは遅い」
テルは抗議の声をぐっとこらえた。ヒナタに感謝をしなければいけない。でも、無理だった。
「そりゃあ、居場所は分からなかったと思う。ヒナタのおかげだ……けど、だからって知らないふりはできないだろ! そんなもん、見過ごせるか!」
焦りが声を大きくした。「じゃあなんだ、ヒナタは未来の俺が『綿星ヨウのことを救いにいけなかったけど幸せになれました』なんて言うと思ってるのか!?」
「そんなことは言ってないだろう」ヒナタはあくまで冷静だった。「まだ事件と決まったわけでもない。とにかく私が先行するから、待っていてくれ」
キョウスケの話が頭から離れない。ヤバイセンパイガ、ヒトメボレ。なにがヤバイのだ。どんな風にヤバイのだ。不可解な言葉が、不安を助長する。
「事件の可能性が高いだろ!?」テルは頭をかきむしった。「ちくしょう、なんだよ、とにかく正確な位置を教えてくれ!」
ヒナタが首を振る。否定の意だ。それから、何かに思い当たったかのように、その動きを止めた。アゴに手がいく。
「待てよ……? たしかに現時点では、テルくんの動きは私に依存している。だが、テルくんは、綿星ヨウに何かがあったら、どのタイミングでも助けるだろう。報復だってするかもしれない。ならば、事件が発生した時点で、テルくんはいずれこの件に干渉するのか……? ならば、テルくんにだけ行かせるべきなのか……?」
「おい! ヒナタ!!」
ヒナタはどこ吹く風で、ブツブツと独り言を口にするだけだ。
「そもそもこの事件はなんだ? 他の世界ではこのような事件は発生していない。私が存在することにより、何が変わるのだ? いや……まさか……逆なのか……?」
テルは情報を諦めた。港ということは分かっているのだ。現地へ行けば、あとはどうとでもなると踏んだ。小屋の出口を目指し、身体を反転させる。
「――ベル。強制執行。小屋内のテルくんを捕らえろ」
声が聞こえたのは、すぐのことだった。
『ヤーシュー(yassuh)』
合成音声が、了解の意を唱え、行動する。
テルが捕縛されたのは一瞬のことだった。
⇔
そうしてテルは行動を制限されたまま、ヒナタ宅に転がされた。ヒナタは出かけに『すまないね、テルくん』と謝っていたが、大して悪いとは思っていないようだった。
口枷は外れた。あとは身体を縛るロープだけだ。
息を吸い込んだテルは『助けてくれー』と叫んだ。何度か繰り返すうちに、隣の家に住む双子の一人が飛んできた。姉の〈宍戸 ワカバ〉だった。
『テルにィ、なにしてんの? そういうプレイなの?』という言葉を無視し、とにかく救助を求めた。一度家に戻ったワカバは包丁を手にして戻り、ロープを断ち切った。
「助かった。礼は後でするから」
すぐに自宅へと戻るが、父は居ない。もしやと思い希望にかけてみたが、当たり前のように仕事へ出かけていた。自家用車である軽トラックの鍵は父のキーリングについている。おんぼろの中古車は、マスターキーが一本きりだ。
目指すべきは中央京港。
約20キロメートルの南下だ。目標ははっきりとしているのに、肝心の足が無かった。電車は確実性が高いが、時間がかかりそうだ。バスは全てにおいて論外。タクシーは悲しいことに金が無いが、可能ならば早い。切羽つまっているはずなのに、どこか決断力が生まれないのは、メリットとデメリットを天秤に掛けているからだ。そしてその余裕は『ヒナタが居ればなんとかするかもしれない』という、数日前から長屋に流れている空気から生まれていた。テルは情けなくなった。同時に、やはりなんとしても行かなければという気持ちにさせられる。ヒナタの発明品ばかりに頼ってなどいられない。
「発明品……?」
その時、脳裏にひらめくものがあった。先ほど助けにきてくれたワカバと、その妹であるフタバ。彼女たちの家には、たしか高機動力の乗り物があったはずだ。それはヒナタが改造したものではなかったか。
テルは外へと走った。数秒前のプライドなど、置き去りにした。
*
『明日学校なんだから、ちゃんと返してよね!』といいつつも、双子の姉のワカバは素直に自転車を貸してくれた。一般にママチャリと呼ばれる、シティサイクルだった。
テルは、見慣れてはいるが乗り慣れてはいない自転車にまたがり、国道を南下中だ。日中は大型トラックがうなりをあげて行き交う幹線道路だが、夜半の、それも休日の今では見る影もない。
ヒナタの改造をほどこされた、双子の自転車。そのスペックは、すでに人力の域を超えていた。
まず、倒れない。ジャイロバランサーが取り付けられているので、スタンドを立てなくても、自転車は直立しっぱなしだ。ブレーキはディスクブレーキになっているし、フレームは強化されている。サスペンションやタイヤは別のものに取り替えられているし、ペダルにも一工夫があった。が、特筆すべきはその速度だ。本来であればギヤチェンジがついている場所に、見慣れぬ機器が取り付けられていた。メモリは三段階。緩と急と、そして爆だ。
ワカバに操作方法を教わったところによると、スイッチを切り替えればその項目に応じた補助装置が働くらしい。おそらく後部につけられたユニットを指しているのだろう。それは長方形をしていて、後ろの車輪に密接して取り付けられており、速度に関係することは一目瞭然だった。
現在は〈緩〉に設定されている。その状態は、一般における電気自転車と同様の働きをするらしい。ペダルは軽く、しかし進行速度は坂においても変わらない。
テルはためらうことなく〈急〉にしてみた。ぐん、と身体がひっぱれる感覚。速度があがったのだ。たったの一こぎが、数倍ものエネルギーへと変化し、車体を引っ張る。速度計が取りつけられている。
示すところによると、現在の時速は35km。十分に驚異的な結果だが、それでも港へは一時間もかかってしまう。ヒナタはおそらくヴェルダンディに搭乗しているはずだ。なぜなら平屋にテルを担ぎこんだのがヴェルダンディであり、そのまま小屋とは反対の大通りへ抜けた気配があったからだ。
このままでは間に合わない。テルは躊躇うことなく〈爆〉に設定をあわせた。訪れるであろう衝撃に備えて、前かがみになる。その時だった。ハンドルのグリップから、なにかが伸びた。アームのようだった。それはテルの腕にからみついた。
さらにタイヤがどういうわけか太くなった。ついで、サドルからもアームがのびて、テルの腰に巻きついた。湾曲した鉄の板がテルの背中に添えられて、むりやりに前傾姿勢を強要させられた。さらに補強されたフレームから、カウルのようなものが飛び出すと、要所要所に固定された。まるでレーサータイプのバイクのようだった。
テルは気がつかなかった。背後に設置されたユニットの両脇が開き、筒型の部品が飛び出した。それはペットボトルが二本、並んで取り付けられているように見えた。二気筒エンジンから飛び出すマフラーにも見えた。もしくは、ジェット機エンジンにも。
ボンッと何かに点火したような音を、テルは確かに聞いた。嫌な予感がした。とっさにスピード計を見た。それが一瞬で三桁を超えたとき、テルは己の軽率さを恨んだ。
夜の国道にテルの絶叫がこだました。
*
テルが目的地の港についたとき、一目散に目指したのはコンテナターミナルではなく、三角屋根が連なった大型倉庫だった。人が居るとするならば、ここしかない。
通常モードへと戻った自転車をこぎながら、辺りを見渡す。
連なった倉庫には〈1-D〉や〈1-E〉など通し番号がついていたが、一見して違いは見られない。人の気配はなく、倉庫が合法目的に使用されているのかすら怪しかった。
しかし、あからさまに不審な倉庫があった。通用口を囲むように、中型から大型までのバイクが数台、雑多に止められていた。明らかに異質な雰囲気をかもしだしている。
「よ、よし」
テルは唾を飲み込んだ。自転車をバイクから離れた場所へ止めて、足音を立てないように、近づく。
通用口のドアは油が切れているのか中途半端に開いていた。わずかな光が漏れている。
勢いだけで出てきてしまったから、これといった武器もない。本当にヨウが関係している相手なのかも分からない。さらには相手の規模も分からないのだが、とりあえずは様子を窺わねば始まらないと奮起して、手が届く距離にまでドアに近づいた。
そこで、違和感に気がついた。
半開きのドアに近づくと、遠くからでは気がつかないような、低いうめき声がいくつも聞こえてきた。
テルは抜き足差し足で扉にはりつき、こっそりと中を見た。
「……!?」
広い空間だった。コンテナが中央を囲う様にいくつも並べられていた。その中心に、十数人の人間が倒れていた。男がほとんどのようだが、女子も見られた。獣のようによだれを垂らし、地面に付している。
大抵は腹や首、そしてふともも辺りに手を当てており、そこになんらかのダメージが与えられたことは間違いない。なぜだろうか。倉庫内の床は濡れていた。
誰がそんなことをしたのか。答えは分かりきっていた。
水面に広がる波紋のように、円状に倒れた男女。その中心に、ヒナタは一人、立っていた。傍らに不自然な空間が空いている。おそらくヴェルダンディだろう。闇に紛れたあの夜のように、今日も姿を消しているのだ。
外気が入り込み、頬に触れる空気が変わったからだろうか。ヒナタはふと振り返った。白衣の裾が空気をはらんで膨らむ。
「ああ、テルくんか」
まるでこうなることが予測済みだったかのような口ぶりだ。「意外と早かったね、危なかったよ。ここの制圧はいましがた終わったばかりなんだ」
ヒナタは肩をすくめた。「綿星ヨウの名前を出したらすぐに襲い掛かってきたからね。これは確定だと思っていたら、やはりマルカネの名が出たよ。テルくんの推理は正解ということらしい。それにしても未成人がなぜこんなことをするのだろうか。工場のセキュリティは正規の手段で無効化されていたし」
ヒナタは返答をまたずに、すたすたと奥へ歩いていく。まるで状況報告を一方的に行う兵士のような潔さだった。
テルは溜め込んでいた文句が、すうっと消えていくのを感じた。
「お、おい。こいつら平気なのか」
あたりに倒れた人間に、大きな怪我は見られない。
「大丈夫さ。死にはしない。高電圧、低電流だからね。それにしてもテルくんは優しいね。そんな風で居ると、誰も救えないよ。さ。分かったらおとなしく倉庫の外で待っているといい」
「ここまできて、そんなこと出来るわけないだろ」
テルは有無を言わさずに、ヒナタの後についていく。
「まったく」ヒナタはやはり予期していたように、ポケットから何かを取り出した。「ほら、これを持っているといいよ。護身用だ」
それは小さなモデルガンのような形状をしていた。説明を聞くところによると、スタンガンらしい。トリガーを押下すると、発射口からワイヤーのついた電極が飛び出す仕組みだという。
「テルくん、それはね、電極射出型スタンガンだよ。発明品でもなんでもなく、世間に流布しているものを自作しただけさ。単発式だから、連続使用は出来ない。本体にも電極がついているから、外したらそっちを使うといいよ。むやみに使うことは許されないが、今は構わないだろう。少女一人の人生のほうが法より重いと主張するといい」
テルは手の平のスタンガンに目を落とした後、あたりで呻いている人間に目を向けた。
「ああ、違う違う。それは液体を使用したスタンガンだ。ベルから射出された液体に電気を通して、一斉に沈静させた。液体というのは伝導性の強い混合液だね。ちょっとしたお灸だと思えば罪悪感も感じないさ」
ヒナタは倉庫の最奥部を目指しているらしい。倉庫というわりには荷物が少ない。梱包されているのはソフトダーツの筐体やビリヤードの台だが、梱包方法は随分と雑だ。
「マルカネの倉庫なんだろうね」
ヒナタが言った。たしかに〈マルカネ〉の文字がところどころから読み取れた。
倉庫に二階はなく、天井の低い造りだった。しかし一箇所、さらに背の低い場所があった。そこにだけは二階部分があった。無骨な階段が、四本の鉄柱にささえられた網目状の床へと繋がっている。鉄製のそれは宙に浮いているようにも見え、ダンボールなどの軟いボックス類が上に乗っかっている。その下の一階部はというと、空き空間にぴったり嵌めるような形で、仮設小屋が組み立てられていた。トタンには窓が一つきり。すりガラスのせいで先は見えないが、闇夜の中で灯りが際立っていた。窓の右側には安っぽいドアが一枚。
ヒナタは動じることなくドアノブに手を掛けた。捻り、押す。ためらいのない動作は、こちら側とむこう側をすんなりと繋いだ。
六畳ほどの空間に、不思議な世界が広がっていた。
「は……?」
気の抜けた声は、テルのものだ。
低い天井に短い蛍光灯が取り付けてある。無駄なものはなく、書類等を整理するためのラックがひとつあるきりだった。
そこに二人の人間が居た。一人は男。もう一人は女だ。
「お、お前ら誰だよお!」
予期せぬ闖入者へと、声を荒げたのは男の方である。高価そうな一眼レフカメラを手にし、被写体へレンズを向けている最中だった。厚いメガネとこれまた厚い脂肪が特徴的で、身長は並だが手足が短い。腕には見るからに高価な腕時計がはめられていたが、つりあっていない。ゲームに出てくるゴブリンのような男だった。
もう一人の女は、被写体だった。随分と派手で、フリフリとした衣装を身に着けている。撮影用の衣装だろうか。半そでの衣類と、肘上までのロンググローブ。ふわりと広がったスカートの裾と、足元を飾るごてごてしいブーツ。色の基調は緑で、見慣れないヘッドアクセサリをつけたまま、やはり見知らぬポーズを決めていた。手に持った棒状の物体は、武器なのだろうか。やはり、ごてごてとした装飾がなされていた。
テルは目を細めた。ひょっとしたら見間違いかもしれない。が、ひょっとしなくても、答えは同じだった。
「やあ、君はマルカネの関係者かい?」ヒナタが気安く話しかけた。「私は発明家。そこの変なポーズをとっている綿星ヨウを引き取りにきたよ。返してくれ」
「や、やっぱりヨウなのか……?」
テルは目をこすった。
写真を撮られているのは見まがうことなく綿星ヨウだった。テルは絶句した。嫌な予感さえ感じていたのに、それがただの写真撮影だったとは。それも進んでポーズなどを取っている。まさかコスプレが趣味だったとでもいうのだろうか。
「テルくん。おどされているだけかもしれないよ」ヒナタが心中を察して、小声で喋りかけてきた。「ようするに、平屋を燃やされたくなかったら撮影に応じろとか」
「あ、ああ……そうか!」テルは頷いた。切れそうになっていた緊張の糸を、必死の思いで繋ぎとめる。「ヨウ! おい、平気だからもう帰ろう! 平屋も平気だから!」
「……、……」
しかし、ヨウの反応がない。ヨウはテルのほうをちらりと見ることもなく、男の持つカメラのレンズだけを見つめていた。テルばかりでなく、ヒナタさえもが怪訝そうに眉をひそめた。
「ぐふふう」とカメラを持った男は笑った。「ああ、そういうことお。平屋の住人かあ、へえ! どうやって入ったの? まあいいけどお! まあさあ、静かに待っててよ! ヨウちゃんは事が済んだら傷一つつけずに、丁重にお返しするからさあ! それまではヨウちゃんも帰れないんだよお!」
「どういうことだ?」
ヒナタの強い口調にも、男は一切動じない。それどころか優位に立っていることに快感を覚えているようだった。
「ぐふ。教えてあげないよお!――おおい! 皆! コイツを連れ出せよお! なにしてんだあ!」
カメラを持った手をあげて、男は大声で仲間を呼んだ。来るわけがないことも知らずに、何度も繰り返す。しばらくすると疑問に思ったのだろう。すりガラスの窓を開いた。目に入ったのは当然のように、倒れ伏した人間の数々だ。
「うへえ!?」
男はゴキブリのような俊敏さで、テルとヨウに向き直った。が、ヒナタはすでに事を終えていた。ポケットから出していた二つ目の電極射出型のスタンガンの威力を調整すると、男に向けて発射していたのだった。
飛び出す二つの電極は、小さなニードルがついており、服にも肌にも引っかかる。目論見どおり男の腹部に噛み付いた電極から、八〇万ボルトの電圧が加わった。
「――うげえ!」
音頭をとるように調子の良い声を上げると、男は地面に崩れ落ちた。まだ意識はあるようだ。
すかさずヒナタは前進し、ポケットから〈しゃら拡声器〉を取り出した。
テルはすぐさまヨウへと近寄った。肩を掴んで振り向かせるも、やはりヨウの反応はなかった。なぜか首を曲げてまでカメラ目線を保っている。覗き込むと空ろな眼球が二つあるだけで、ガラス玉が眼窩にはまっているようにも見えた。
「ヒナタ、ヨウの様子が変だ」
「ちょっと待ってくれ、テルくん。この人間から事情を聞く」
感電している男を足蹴にして仰向けにすると、ヒナタは〈しゃら拡声器〉口元へ寄せた。
「名前は?」
『はあ? 喋れるわけ……え、なんだこれえ』ともはや聞き慣れた合成音声が、男の心中を暴露する。
「名前を言わなければ、トリガーを押下する。思うだけでいい。早くしろ」
ヒナタがスタンガンを見せびらかした。低出力に変更した後、トリガーを引く。
『あぶべええええッ! もう引いてるじゃないかあ!!――な、なんだ、思ったことが声に……わ、わかった! 名前! 名前は! 丸金タダヒトだあ!』
「マルカネ? 土地買収をしているマルカネの関係者か?」
『パ、パパが社長なんだあ! あ、そうだ、パパに言ってこいつらを懲らしめてやれば――』
ヒナタはスタンガンの威力をわずかに上げた。
『ぐへええええええ』と合成音声が叫び、男の身体が痙攣した。
「大げさな。不快だろうが、健康器具レベルだ。さて、続きといこうか。社長の息子であるお前が、なぜ綿星ヨウをさらった? 理由はなんだ」
『だ、だって可愛いからあ……』
「貴様は可愛いければ自宅へ持ち帰り、恥辱の限りを尽くすのか?」
『ち、ちがう! 恥辱だなんて! ボクは写真を撮りたかっただけなんだあ!』
「……なに?」
『知ってるだろお、見りゃ分かるだろお! コスプレだよお! 気がつかないのか、彼女の素晴らしさにい! 綿星ヨウちゃんはなあ、〈魔法少女ラヴラウイッチ・ガイアガールズ〉に出てくる〈大地 リオ〉にそっくりなんだよお! 見てみろお! 変身スーツきさせたら、もはや本人じゃないかあ! 木の葉色の髪に、ショートカットに、大きな胸! すごいよお! ぐふふう! かわいいィ! あれ? そういえば、なんだか君は君で〈夜野 トバリ〉にそっくりな気が……うわあ、写真とらせてえ! かわいいィ!!』
ヒナタがトリガーを力のかぎり押し込んだ。
『あびゅううううう』と男が痙攣する。
「……まあいい。分かった。ということは、なんだ? 貴様はどうやって綿星ヨウをここまでつれてきた」
『バイクに乗ってるバカどもに連れてこさせたのさあ。その前は、横丁の買収の件で話があるって誘い出してさあ!』
「なぜ横丁と綿星ヨウに関係があると知っている? そもそもそれだけの理由でどうやってここまでの距離を連れ出せる?」
『知らない人に教えてもらったんだよなあ……でも言ったら信じてもらえるのかなあ。あの人色々知ってたし、装置だって……あ。そうか』
「なんだ?」とヒナタが首を捻る。
背後で話を聞いていたテルも捻る。
『ラヴラヴリオちゃん・ラヴラヴリオちゃん』と合成音声が言葉をつむいだ。『この二人を退治してよお!』
「何を言っている?」とヒナタ。
「俺に聞くなよ」とテル。
「何を言う、テルくん――」
そんな中、言葉に反応した人物が一人だけ居た。他の誰でもない綿星ヨウだった。手に持った棒を狭い室内で器用に振り上げると、手近にいたテルの頭上めがけて勢いよく下ろした。表情には何も浮かばず、まるで操り人形のようだった。
ヒナタは文句を言い返そうと振り向いていた。事情に気がついて、とっさに叫ぶ。
「――テルくん! 避けろ!」
「……え?」
テルも振り向く。事情に気がつく。しかし無茶だ。テルにそこまでの俊敏さが望めるわけもない。はたして、テルは棒状武器による一撃を脳天に食らった。
ポカン、という音が室内に響く。中が空洞になったプラスチック製品の音だった。少しだけ痛みを感じるだけだ。一度ならず二度三度とヨウはそれを繰り返した。倒れるまで続ける気概らしい。
テルはなす術もなく、叩かれるばかりだ。
「おい、ヨウ。やめろ、地味に痛い」
ポカンポコンとヨウが棒を振り下ろす。無表情のまま繰り返す。そのたびにシャラーンと効果音が鳴り、杖の内部が緑色に光輝いた。おそらく女児用の遊び道具なのだろう。振ると音が鳴るおもちゃなのだ。ランダムで、女性声優の声が流れるらしい。『大地にひざまずいて、悔い改めることね! 挟んであげるわッ――グラウンド・バインド!』。それから激しい効果音。必殺技の名前なのだろうか。どちらにせよ、ポカンポコンの威力は変わらない。
ほっとした顔を見せると、ヒナタが険しい顔で検分を始めた。男に電撃の制裁を加えることを忘れない。
「綿星ヨウの行動を止めろ。さもなくば……心臓を止めてやる」
『ひ、ひいい――ラヴラヴリオちゃん・ラヴラヴリオちゃん! 止まってくれえ!』
振り下ろされていたヨウの腕が、ピタリと止まった。
感心したようにヒナタは一部始終を観察していた。
「……? 暗示装置か? 意味の分からない言葉が、アクセスコードになっていると……ふむ。テル君……そうだな……ああ、その、綿星ヨウの頭についている奴を取り外してくれないか。ああ、その緑色ではないやつだ」
テルは指示されたとおり、ヨウの頭からヘッドアクセサリーのような機器を取り外した。二つあったので、一つを手渡し、一つを観察する。外見上は大きなバレッタのようだったが、裏側を見ると小さな電子回路が組み込まれているのが見て取れた。よく分からない番号も記載されていた。
手渡されたバレッタをためつすがめつしてから、ヒナタは眉間にシワを寄せた。
「ここがこうなって……ああ、これが……なに……? なんだと……? おい、貴様。これをどこで手に入れた」
声音が剣呑な調子を含む。
『えっと、えっと、知らない人がくれたんだよお』
「外見的特長を言え」
『わ、わからないよお、本当だよお、ヨウちゃんの写真を撮りたいって思ってたら、ポストにボクあての封筒が入ってたんだってばあ。横丁のこととか、長屋のこととか、その機械のこととか……パパの店に通ってるバイクの連中を、どう手篭めにするかとか……』
「どう手篭めにしたんだ?」
『他の装置も送られてきて……洗脳しろって……指示書が入ってたんだ。趣味の悪いことも書いてあったけど、それは無視して……できることだけやった……リーダー格のやつらに、新しいダーツの機械があるからって騙した。うまく装置をはめて、手伝えって命令したんだ。そしたら言うことを聞くようになったんだってばあ』
テルは口をはさまずに、息だけを呑んだ。キョウスケの言っていた〈先輩〉という存在は、その洗脳された内の一人らしい。つまりマルカネダーツにたむろする人間に目をつけたタダヒトが、何かの機器を使い、己の手駒にしたのだった。
丸金タダヒトは、目に涙を浮かべた。
『ねえ、もう許してくれよお。ヨウちゃんにも、写真を撮らせてもらっただけだし、着替えだって、バイクの女の連中しか立ち合ってないしい!』
「もう一つの装置とやらはどこにある」
『そこの棚にあるよ……』
ヒナタは場所を吐き出させると、スタンガンを発動させた。何かに頭にきているらしい。奇声を発しながら、タダヒトが沈黙した。
じきに装置は見つかった。ゴーグルのような形状のパーツと炊飯器大の機械がコードで繋がっていた。検分すると、ヒナタはやはり眉を強く潜める。科学者が幽霊を見たかのように。
「ヒナタ、どうかしたか」
バレッタを取った瞬間に、気を失ってしまったヨウの頬を叩きながら、テルは言った。「というかだな、ヨウが起きない。大丈夫なのか、これ」
「この仕様ならば、おそらく大丈夫だ。記憶もほぼ残らないと思う。外の連中も洗脳を解いてから帰ろう。こちらは記憶が残るかもしれないな……それにしても、これは……」
「何かあったのかよ」
テルにはさっぱり分からない。
ヒナタの口は重かった。十分に沈黙を挟んでから、首を強く振った。考えたくもないことを頭から追い出すかのようだった。
「いや、なんでもない。この男を処理してから、外の奴らの後始末をしよう」
まず外に倒れた人間の、リーダー格にかかっていた洗脳を解いた。他の人間は指示されていただけで、明確な目的はなかったらしい。
ついで、マルカネの息子だ。この一件は、見事な犯罪である。方法に特殊な状況が含まれているものの、警察に被害届けを出せば受理されることだろう。
電気による麻痺がとけた代わりに、荷造り用の紐でしばられた丸金タダヒトは、なみだ目で首を振った。
「たのむよお! もう絶対に何もしないから、今回は許してくれよお!」
ヒナタは無言で〈しゃら拡声器〉をタダヒトの口に当てた。
『今を乗り越えたら、パパに頼んで平屋をつぶしてやる……』
「よし、許さん」とヒナタ。
「異論はない」とテルも同意する。
すでにヨウは、ヴェルダンディが平屋まで運んでいる。搭乗スペースに無理やり押し込み、暗渠辺りで引きずりだせと指示してある。奇怪な衣服を着てはいるが、ここにいるよりはマシだろう。元の衣服も回収済みだ。
それから涙を流して土下座を続けるタダヒトが、心を入れ替えるまで、数十分を要した。
「よし。そこまで言うなら見逃してやってもいい。一つ条件を受け入れるならな」
「な、なんだい、言ってくれえ――いや、言ってくださいィ、なんでもしますう」
半べそをかきながら、タダヒトは先を促した。
ヒナタがアゴを上げた。
「貴様の愛するパパにこう言え。『横丁の買収をやめて、他を当たれ』とな。こんな倉庫を遊び場に使わせる馬鹿親だ。ごねれば言うことも聞くだろう? もしも失敗したら、すぐに後悔させてやる。お前の罪は重いぞ。証拠など多分にある。それともお前は、法の裁きではなく、身体的苦痛を与えられるほうが良いかな。私の発明品はすごいぞ。身をもって味わうか?」
「うう……」
タダヒトはすんなりと頷いた。「わかったよお――あ、いや、わかりましたあ……」
ヒナタは口舌で押さえつけた後、拘束していたロープを切った。同時にカメラに残っていたメモリーカードも引き抜いておいた。
こうして、平屋を巻き込んだ横丁買収騒ぎは収束のめどをつけた。
*
後日の話。
横丁買収事件の顛末を、住民全てに伝え終えた後の話だ。
「なあ、ヨウ」とテルが何気なく話し始めた。
下校時のことだ。夕日がゆっくりと落ちていく中を、二人で歩いていた。
「なあに?」とヨウ。栗色の髪が、短いゆえにさらさらと揺れた。
「お前さ、髪の毛でも伸ばしたらどうだ?」
「は?」
「黒髪に戻してさ。そっちのほうが……いいと思う」
「え? あ、うん……そう、かな、そっちのほうがいいかな……? テルはそう思うの?」
唐突に始まった会話内容に驚きつつも、まんざらではない様子でヨウは前髪を指先で弄っている。
「うん。まあ、そう思う」
伸ばしたほうが、似合うだろ――そんなことは言えない。
俺の母親の真似をしてるんだろ――確かめなくたって知れたことだ。
だから、次の台詞は決まっていた。
「アニメのキャラクターに間違われるのは困るだろ? 次は助けないからな」
「……は?」
髪をつまんでいたヨウの指先が停止し、ついでに嬉しそうに緩んでいた口が半開きのまま固まった。掛けられた言葉の真意に気づくと、ヨウは叫んだ。
「信じらんない、テルの馬鹿っっっ!」
*
さらに後日の話。
問題解決を祝って〈第二回 棚七ヒナタを迎える会〉が開催された。
内容は前回通りで、唯一違うことは、爆竹などの襲撃に水を差されないということだけだった。つまりヒナタは再びテルを外へと促し、二人きりで話をしていた。
「テルくん。これで理解しただろう? もしも綿星ヨウの持っていた武器が、プラスチックでなく、刃物だったら。君は加害者の意図に関係なく、命を落としていたのだよ。たしかに今回は必然的な動機もあった。が、もしも突発的に目の前の人を助けようとしたら……君はいつか必ず死ぬよ。目隠しをして綱渡りをしているようなものなんだ」
「そりゃこじ付けだろ。結果的に何事も無かったんだから、いいだろ」
「たしかに。人の生き死は結果論のようなものだね」ヒナタは何かを馬鹿にするように、喉で笑った。「テルくん、綿星ヨウが助かってよかったかい?」
「そりゃ、そうだろ。大切な……家族、みたいなもんだからな」
「そう。なら私も嬉しいよ。今はそれだけでいいのかもしれないね」
「いきなり、どうした……? 頭でも打ったのか?」
いつもならばここで怒声が飛んでくるものだが、今日は違った。
ヒナタは何を言うでもなく、空を見上げていた。その目は鋭く、何かを見つけまいとばかりに夜空を走査しているのだった。
――Thank you for reading. Please read the next...
最終章/時空管Zに花束を。
/SIDE‐A(1)/テル
なんとも言えない、不快さを感じた。テルは、己が覚醒したことを知る。仰向けになっていたようだ。背中がずいぶんと痛いのは、板張りの上にじかに背を預けているからだった。
いつの間にか瞑っていた目が開かれると、じきに現状を把握するだけの情報が映る。高く、広く、四隅の暗い天井。その造りには覚えがあった。幾本もの鉄骨が碁盤状に走り、要所要所に直径の大きいライトが設置されている。
体育館だ。
それもテルの通う〈天照東高校〉の体育館のようだった。バレーボルが七つ、見慣れた配置で天井にはまっている。北斗七星の形を作ろうと、先輩が悪戯をした結果だ。
しかし、何故?
夜の学校に忍び込んだ記憶はない。
「……う。頭いてえ」
思い出そうとすると痛む頭。それに鞭打って、テルは時間をさかのぼる。
⇔
――テルは考える。記憶を一つ一つ整理していく。
ヒナタと出会った一日目に『人を助けたら死ぬ』と宣告され、二日目には平屋に住むことが決まり、三日目と四日目には平屋と横丁を悲運から救った。五日目の登校前や放課後などの時間を使って事の顛末を平屋の住民に伝え、六日目の夜に宴会の予定が週末にたてられて、七日と八日を使いヒナタはタイムマシンの整備を終えた。そして九日に仕切りなおされた宴が開催されて、ドンチャン騒ぎ。明くる十日には二日酔いのヨウがヘロヘロな一日を過ごし、いつの間に仲良くなったのか、十一日には長屋に住む双子姉妹とヨウとヒナタとで、買い物に出かけていた。『テルくんも一緒に行こう……』となぜかそわそわと落ち着かないヒナタを、ヨウが『ダメッ! テルはジャマなだけ』と一喝した。終始おろおろとしているヒナタと、その両脇を掴み上げた双子の姉とヨウ、そして普段からおろおろとしている双子の妹を入れた計四人の一行は、そうして西天照市にくりだした。ヒナタの使う日用品などを買い揃えたらしい。四人はその場かぎりの付き合いではなく、顔を合わせれば楽しそうに会話を繰り広げていた。ヒナタも少しずつ慣れてきたようだ。
――そして、おそらくは今日の記憶。
平屋にヒナタが住むようになってから、早三週間が経とうとしていた。
「ここの生活はどうだ。楽しいか?」
テルが何気なく尋ねると、ヒナタは肩をすくめた。
「なにをしにここへ来たのか、ときどき忘れるよ」
「他の世界では、こんな風に過ごさなかったのか?」
「気を張り続けていたからね」
全部を語らずに、ヒナタはここ数日でもはや定番となってしまった言葉を吐いた。
「テルくん。今日は何か、異常を感じなかったかい」
人を助けるな、という常套句は最近聞かなくなった。新たな台詞は『今日は異常を感じたか』である。それはまるでテルが事件に巻き込まれることを前提とした質問だった。平屋の一軒で、マルカネの倉庫へ赴いてから、ずっとこうである。ヒナタの心配が、テルにも思い当たらないでもないのだ。あの一件では、丸金タダヒトの手の中で、ヒナタの発明品のような超技術が、当たり前のように使われていた。まるでヒナタと同様の力を持った誰かが、てぐすねを引いていた感さえある。
「今日も何もなかったよ」とテルはやはり口癖のようになってしまった言葉を返す。
「そうかい。ならいいんだ」
本日は、ヒナタが訪れてから三度目の金曜日だ。二週連続の宴会だったので、三週目はさすがに長屋も静かだった。テルは会話を交わした後、他に人の居ない自宅へ戻った。その後は、いつも通りにダラダラと時間を潰し、就寝時間になったところで、寝床に入った。
それから――。
⇔
――それから、どうしたのだっけ。明かりのない体育館で、テルは頭を抱えた。
そのときだった。
「おや。やっと目が覚めたのかい。案外遅かったから、心配したよ。拉致の仕方に問題があったのかとヒヤヒヤした」
聞き慣れた言葉に顔を上げた。体育館と外とを繋ぐ鉄扉が開いていた。そこに誰かが立っていた。ほのかな月明かりでさえ、逆光となっている。距離も離れていて、姿が不鮮明だ。しかし、その口調と声をテルはよく知っていた。
「ヒナタ……?」
「ああ。そうだよ、テルくん」
言って、その人物は一歩を踏み出した。白衣の裾が揺れて、テルの元へと風が流れてくる。
状況が分からずに戸惑うテルは、じきに訪れる到着の時を待った。なにかしらの事情説明が行われるに違いない――だが、それは新たな問題へと繋がる邂逅でしかなかった。
暗闇に慣れた目が、近づくヒナタの容姿を見て取った。黒い髪、細い四肢、バランスのとれたプロポーション、色白の肌に桃色の唇、そして白衣。それは〈棚七 ヒナタ〉を構成する、あきらかな特徴だった。なのに、どうしたことだろう。目の前の人物は、テルの知っているそれとは明らかに違っていた。まず、身長が違う。高すぎる。そして年齢。どう見ても、自分よりも年上のようだった。おそらくは二十を超えている。眼前に現れた人物は、棚七ヒナタであって、棚七ヒナタではなかった。
テルの喉が、声にならない声を出す。
「お前……誰だ……?」
「いやだなあ、テルくん。私は棚七ヒナタだよ」
そう言って、ヒナタのようでヒナタでない誰かはニヤリと笑った。小さな顔にはめられたまん丸の瞳の奥が、歪に揺れている。そこに、真摯な色は一切ない。あるのは底なし沼のような、淀みきった瞳だけだった。
「といってもね。私は、テルくんの知っている棚七ヒナタではない。しかし、棚七ヒナタに間違いはない。そうだね……棚七とでも呼んでくれ」
そう言って、棚七と名乗った女性はテルのそばに腰をおろした。何もない場所だったが、スツールに座るような体勢をとった。空中椅子をしているようにしか見えないが、体重の置き所がどうにもおかしい。足まで組んでいる。不可視の椅子に座しているかのようだ。
テルは呆然と見つめて、女性に視線を戻す。近くに来ても、印象は変わらなかった。ヒナタを構成する全てを持っていながら、しかしその瞳はとても暗い。全てを吸い込むブラックホールを連想させる。見慣れたヒナタよりも、格段に大人びた雰囲気を持っていた。
ヒナタは唐突に言い切った。
「私はね、テルくん。別の時空管から来たんだ」
「それは……知ってる」
おそるおそる、テルは口を開いた。静かな体育館に、奇妙なほど大きく自分の声が反響した。
ヒナタは首を振った。白衣の胸ポケットが膨らんでいる。そこから何かを取り出した。タバコのパッケージのようだった。メントール入りの細長いタバコに、慣れた手つきで火をつけた。まずそうに一吸いしてから、吐き出す。テルの知っているヒナタは、そんなことをしない。
「違うよ、テルくん。鈍感だなあ」気だるそうに、女性は笑った。「私はね、平屋に住んでいるヒナタとはまた別の時空管からやってきた棚七ヒナタなのさ。つまり今、この世界には二人の棚七ヒナタが居るんだよ」
驚きに表情をなくすテルを、面白そうに棚七は見た。くつくつと笑ってから、言う。
「私はね、テルくん。私を殺すことに決めたよ。それからテルくん、君も殺す。そして私自身もいずれは消える。全ての終わりを目指すうえでの、さらなる一歩だ」
コロス。その三文字の持つ意味を、テルはとっさに把握しかねた。
「なんで……そんなことを……」
にわかには信じられず、しかし目に映るものを受け入れるならば、全てに道理がつく。天秤の上で揺れながら、やっと出た言葉がそれだった。
「なんで? そうだね、テルくんと面と向かって話すのは、実に十五年振りだからね。その時が訪れるまで、話すのもいいかもしれないね」
その時、瞳の奥に僅かに光が差した――かのようにテルには見えたが、それはすぐに消え去った。
「十五年?」とテルは暗算を始めようとする。
「レディの年を探るものではないよ、テルくん」
唇の端を片方だけ上げると、ヒナタはタバコを投げ捨てた。あっと思う間もなく、それはどこかへと消えた。まるで溶けていく氷のように、空中から消えたのだ。
「私はね、テルくん。君と出会ったころ、タイムマシンを作っていたんだ。そこへ君が……君であって君ではないテルくんが、やってきた――」
それから語られたのは、以前に小屋の中でヒナタの口から聞いた思い出話と全く同一のものだった。テルは錯覚を覚えた。まるで目の前の女性が、元々知っていたヒナタなのではないか。しかし、それは違った。十分に思い知らされた。話も終盤に差し掛かった頃のことだった。
「――そして、私は思ったんだ。皆が幸せそうに笑うクリスマスに、なぜテルくんが仲間はずれにされているのだろう。なんでテルくんは幸せになれないんだろう。なぜ私はこんなにもみじめなのだろう。こんな世界……無くなってしまえばいいとね」
棚七の肩頬がひきつる。忌々しげに舌打ちをした。大きくため息をつくと、落ち着いたのだろう。感情の見えぬ声音で先を続けた。
「私はそれからね、この世を壊すことを目標に生きてきた。物理的に壊す? 生活を壊す? 平和を壊す? 人間だけを壊す? 結果はまだ分からない――どれにせよね、テルくん。人には強制力があり、世の中にもそれはある。壊すなら一度に、一瞬に。全てを同時に終わらせなければならない。そのための研究はとても大変だ。けれど、目の前で幸せそうな人間が笑うたびに、私の思いは強くなった。この笑顔を消してやろうとね」
新たなタバコに火をつけて、やはりまずそうに棚七は吸い込んだ。
「テルくんに会いたくなったらね、過去に戻って、テルくんの姿を眺めていた。実は、未来を変えようと思ったこともある。でも何度やっても失敗してね。じきに眺めるだけになったのさ。テルくんはいつも誰かの犠牲になって、死んでいったよ。いつもね。同じ結果さ」
でもそのうちに気がついたんだ、と棚七は言った。「時空管の穴に、他とは違うものがあった。それは他の世界の〈私〉が、タイムマシンを使用することによって出来た穴だった――私は歓喜したよ。だってそうだろう? 私は、何度も同じ行動しかとらないテルくんに飽き飽きしていたんだ。他の世界に行けば、見慣れない行動をしてくれるテルくんが居る。それはとっても楽しいことだよ!」
棚七は興奮し、腰を浮かした。すぐに我に返って、体勢を戻した。「でも、結果は変わらない。見ているだけの私。そしてテルくんは最終的には、死ぬ。それは変わらなかった……けどね。しょうがないのさ、テルくん。君は死ぬ運命にあるのだから、それはしょうがない。私は諦めることに成功した。一生手に入らない宝石のように。印刷された雑誌を眺めるだけで満足したのさ」
「この世界の俺は……死なないと聞いた」
ヒナタが確かにそう言っていた。
「ああ、それか。アイツも馬鹿だね」
まるで他人事のように、棚七はもう一人の自分をこき下ろした。「それはね、テルくん。棚七ヒナタと出会う前の未来だよ」
「でも、さっき強制力と……」
「可能性という範疇に、君の死は含まれているだろう。もしくは未来の君は、とても不幸で、それは死ぬことと同義なのかもしれない。いずれにせよ未来は変わる。テルくんの持つ、可能性のうちではね。君の持つ犠牲死の可能性が、他の君より著しく低いというだけさ」
「未来を、見てきたのか……?」
「……いいや、それは出来ないよ。でも別に、もういいんだ」
ヒナタの口が途端に重くなった。玩具に興味をなくした子どものように、態度を変えた。まるで見当違いの話題になる。
「テルくん、おなか空いてるかい? パンを買ってきてあるよ」
答える気力さえない。テルは緩やかに首を振った。
「……そうかい」
つまらなそうにヒナタは言うと、いい事を思いついた、というように表情を柔らかくさせた。「ほら、テルくん。紹介しよう。これは私の発明品なんだ」
棚七はサッと手を振った。どうしたことだろう。何もなかったはずの空間に、物体が二つも現れた。棚七の腰の下と、タバコが消えた辺りにである。
「紹介しよう。発明品№一一〇二の〈M9〉と№一一〇八の〈F2〉だよ」
それは人型のロボットだった。しかし、ヴェルダンディの比ではないほどに、人間の形を模していた。マネキンのようなすらりとした体躯に、人間のそれとしか思えない顔がついている。ボディスーツを身につけており、〈F2〉と呼ばれた一体はヒナタの椅子となり、もう一体の〈M9〉はタバコを両手の平で受け止めた姿勢で停止していた。
「ロボットというよりも、アンドロイドとガイノイドという区分になるだろうね。M9は男型で、F2は女型さ。機械に相手を作ってやるなんて、洒落が利いてるだろう? 子を成すことなど出来ないのにさ!」
笑みさえ浮かべずに、ヒナタは言う。紹介された二体の発明品も、身じろぎ一つしない。
「こいつらを量産できれば話は簡単なんだろうけれどね。正直、私をもってしても大変で、量産など夢のまた夢だね。細菌兵器なんかのほうがいいんだろうが、確実性がないのが問題さ」
「なあ……ヒナタ」とテルは言う。別人だと思い込みたいのに、話せば話すほど同一視してしまう。
棚七は何が面白くないのか、眉根を寄せた。それでも答える。
「なんだい、テルくん」
「俺をどうやってここに連れてきたんだ……?」
「ああ、それかい。寝ているテルくんを、M9とF2を使って連れてきただけさ。使用した薬品はたいしたことないはずだよ。頭痛がしたみたいだけど、すぐ収まるさ」
悪びれる様子はない。テルは諦めずに尋ねた。
「何のために、つれてきたんだ」
「何のために? だからさっきも言ったじゃないか。棚七ヒナタを殺すためにさ。テルくんは呼び寄せるための囮だよ。アイツならば、絶対に現れる。たとえワナがあると分かっていてもね。死ににくるんだよ! 愚かにもほどがある!」
自分を馬鹿にされた気がして、テルは思わず叫んでしまった。
「どうして殺す必要があるんだよ!」
「……ふん。なんだい。ここのテルくんは随分と反抗的だね。まあいいさ。教えてあげるよ。私はね、時空管を移動しながらも、確信していた。しているつもりだった。このように移動している私は自分だけだとね。でも違った。三週間前、私はいつもどおり、テルくんを遠くから見ていたんだ」
「あ」
テルは、正体の分からぬ視線に思い至った。
「そうだよ」と棚七は嬉しそうに言った。「それは私だ。この世界のテルくんは、とても新鮮な行動をしてくれて楽しかったよ! 誰も助けない! 助けようとするのに、実行しない! いつか死んでしまうテルくんは、どこの世界も似たようなものだったからね。私は君に夢中になった。この世界のテルくんをずっと観察したくなったよ!」
でもね、とヒナタの顔が無表情になる。「まさか、死なないとは思わなかった。嘘だとも思った。でもね、テルくんは死なないんだよ。そうさ。私は未来を見にいく術を知っているのさ! そして見てきたんだ! テルくんは死なないんだ! でもそれは良くないよ! テルくんは死なないと!」
体育館に、不気味なほど反響する声には、さまざまな思いが込められていた。それは期待と、歓喜、そして絶望。
「あげくにだ! 私だけだと思っていた、他時空管を超えた〈棚七ヒナタ〉が現れて、君を幸せにするなんて言い出した! それも自分より年下の! 苦労も何もしらないような自分がね!」
「違う!」
テルは初めて、確信を持って棚七に反論することができた。「アイツは……ヒナタは俺を救うために必死になって時間を繰り返したと言っていた! 苦労を知らないわけが――」
「――いいんだよ! そんなことは!」ヒナタの金切り声が、テルの言葉を断ち切った。「テルくんはいつかは死ぬ。確定だ。だからもう一人の私がすることに意味はない。その存在理由に価値はない。そして私には意味と価値がある。引き続き研究を重ねて、この世界を一瞬で壊すための発明品を作る。その時には私も消える。全てが消えて、はい終了だ」
だから、と棚七は言葉を締めた。「手始めに私を殺す。甘ったれた考えの〈棚七ヒナタ〉にはここで終わりにしてもらう。テルくんを幸せにする? 馬鹿も休み休み言え。私はもう諦めたんだ。テルくんは死んだ! それでいいんだよ!――というわけでね、テルくん。君にはそれを見届けてもらいたいんだ。だって、テルくんが私をこんな風に変えてしまったんだからね」
ヒナタは笑った。ひび割れたガラスのように、危うげな笑みだった。
テルは言葉を失った。
*
話が一端の終わりを見せると、棚七の興奮は消沈した。
テルもそれ以上の言葉を発することはやめた。互いに立つ位置が違うのだということは、主張を聞くだけで理解できたからだ。今はただ平屋のヒナタが救いに着てくれることを願う。
棚七はどこからか取り出したコンビニエンスストアの袋をがさごそと漁ると、クリームパンを手にした。包装ビニールをうまく開けられずに、M9と呼ばれるアンドロイドに開けさせていた。開くまでは機嫌が悪く、開いてしまえば寄っていた眉間のシワは消えた。
趣味の悪い座り方――ガイノイドを四つんばいにさせてその背中に乗るという方法をとると、長い足を嬉しそうに揺らしながら、ぱくりと噛み付いた。白衣の裾が、小さく揺れる。
一連の動作は、容易にヒナタの幼いイメージを想起させた。思わず、テルは笑ってしまった。
「む……なんだい、テルくん」
パンに噛み付いたまま、大人になったヒナタがきつい視線を浴びせてくる。
「いや、人間って変わらないんだなと思って」
「意味が分からないよ」
テルは首を竦めてやりすごした。馴れ馴れしすぎたらしい。
ふと頭をよぎった〈脱走〉という言葉に魅せられて、体育館の鉄扉に目を向けた。
「無駄だよ」
考えを見透かしたように、ヒナタが言う。「逃げようとしても、M9が捕まえる」
所々に機械らしい部分はあるものの、その顔は人間にしか見えない発明品が、ヒナタの手足なのだろう。扱いは雑だが、おそろしいほどのテクノロジーがつまっているのだ。
テルは気になった。
「そういえば……ヴェルダンディはどこなんだ?」
「ベルかい? ベルなら外に居るよ。見張り番だ――会いたいかい?」
「ん? いや、別に……」
言ってから、しまったと後悔する。案の定、棚七はふくれた。
「そうかい! 別にいいけどね!」
面倒臭い性格はどの世界でも共通らしい。話の内容からトゲが取れてくると、目の前の棚七は、ヒナタの姉のようにも見えてきた。が、やはりそれは希望的観測でしかなかった。クリームパンを食べ終えると、棚七は一服し、それから大儀そうに立ち上がった。タバコが似合わない、とテルは感じた。
「さて。ではテルくん。私は少々、外へ出てくるよ。なに。校庭に行くだけさ。そろそろ棚七ヒナタに気づかせるための装置が発動しているだろうからね。大事な大事なテルくんを取り返しにきた馬鹿の首根っこをつかんでくるよ。そうしたらね、テルくん。壇上で棚七ヒナタの斬首ショーを見せてあげるね。きっとテルくんは泣いてくれるよね! 実はさ、テルくん。それが見たくて私はこんな面倒なことをしているんだよ!」
真っ白な顔をこわばらせて、ヒナタは言った。「M9。テルくんの手と足を縛っておけ。その後、戦闘モードへ移行。主戦タイプCで待機。F2はただちに戦闘モードに切り替えろ。補助タイプCへ。タイムラグはコンマ一以下をキープしろ――ベル! テルくんを外に出すな! 分かったな!」
『了解しました』
外から、聞き慣れた機械音声が届いた。が、どこか雰囲気が違うようにもテルには感じられた。
「さて。では一時のお別れだよ、テルくん。窓からグラウンドを眺めていればいいよ」
夜明けはまだ見えない。
最終章/SIDE‐B(1)/ヒナタ
――異変に気がついたとき、それはすぐさま確信へと変わった。
ヒナタは自室で、睡眠を取っていた。明け方にはまだ早い時刻。遠くから新聞配達の原付バイクのエンジン音がした。そして静寂。早起きの犬が何度か吠える。そして静寂。カタカタ、と音がする。〈バンニンジャ〉が二体、充電のために帰還したのだ。その個体に紛れて、白い装束を着た人形が、ヒナタの枕元に立った。
パン、と音がした。ヒナタは飛び起きる。クラッカーのような破裂音は、事実その通りだった。白い人形がクラッカーを手にしながら、畳に倒れていたのだ。
自分の発明品によく似た造りだった。が、ヒナタに作成した覚えはない。
置きぬけの頭が、一瞬で沸騰した。
「まさか……」
嫌な予感がした。
クラッカーからは、四つ折にした紙片が飛び出していた。拾い上げて、開くと文字の羅列。そこには、テルを預かったこと、そして学校のグラウンドへ今すぐ来いという旨が記載されていた。
ヒナタはパジャマの上から白衣を身につけると、テルの家へと赴いた。鍵がするりと開いた。近頃は何が起こるからわからないからと、気休めではあるが、戸締りを徹底させていた。それが、開いた。十分すぎる答えだった。
テルはやはり居なかった。布団はもぬけの殻。敷布団に手を当てると、ひんやりとした。トイレやちょっとした外出というわけではなく、随分と前から居ないようだった。
ヒナタは舌打ちした。まさかとは思ったが、こうなってしまえば確定のようだ。事が起こるまでは判別せず、だからといっていつ起こるやも分からない。テルの周辺のセキュリティだけを強化していたのだが、それらは全て無効化されていた。通常の思考では解析できないはずの、超技術だ。それらが全て打破されている。
こうなれば、答えは一つだった。ヒナタは苦虫を潰したような顔をし、そして確信を得た。
「この時空管に」とヒナタは言った。「私がもう一人いる……」
*
ヒナタは小屋へ向かった。平屋の住民を起こす意味もない。騒ぎ立てることもなく、足音すら消すようにひた走った。
不可視から可視へ切り替えた小屋の引き戸が、するりと開いた。ヴェルダンディが鎮座している。ヒナタは踏み台を用意すると、機体の上部に設置されていたスクルドを取り外した。
「お前は留守番だ、スクルド」
ヒナタに声を掛けられると、スクルドについたランプが何度か点滅した。
ヴェルダンディこと〈行動可能域拡張人為動機〉の真骨頂は、その名の通り、文字通り、なんのてらいもなく、人間の行動可能域を拡張することにある。自律させるためのAI〈スクルド〉はあくまでもオプションとしての機能で、自律ロボットとしての構造は後付だった。
ヴェルダンディ自身には、スクルドの土台となった〈簡易AI〉が搭載されている。それは日常的に表面化せず、スクルドの下位にあたる存在として設定されている。が、人が乗り込んだ場合の、操作制御システムとしての役割を担っており、搭乗者の操作の癖を逐一フィードバックし、最適な動きを実現させるためのアシストを行っていた。簡易音声応答も可能だ。
搭乗方法は簡単明快だ。アーマーのついた前部が、オーブンの扉のように大きく口を開ける。それは一二〇度ほど開き、タラップの役目として働く。内部は人一人がすっぽりと収まるような空間があり、登場前はゆりかごのように背後に深い造りとなっている。そこに背中を預けると、ハッチが閉まり、預けていた背もたれが直角へと変わる。脚部に用意されていた空間が開放され、足がすっぽりと収められるようになる。そこへ脚部を覆う甲冑のように、装置が太ももより下を完全に覆ってしまう。上部よりヘッドマウントディスプレイの役割を持つ装置が降りてくると、頭に被さる。これはあらかじめ登録しておいた特定の脳波を感知したり、外部の映像を視覚情報として送ったりする。最後に両の手を厚手のグローブのような機器が覆って、終了だ。
操作方法は直感的で、方法など分からなくても最低限の動きは可能である。また、頭に取り付けた装置から信号を読み取り、特定の行動の再現を可能としている補助機能がある。もっとも多様するのは視野角や倍率、ピントの調整などだ。
広義の意味で捉えれば、パワードスーツおよび強化外骨格と呼べる。しかし、その無骨なデザインと改良の余地がありありと見える構造には〈装着や行動〉ではなく〈搭乗や操作〉という表現がお似合いだった。
ヒナタは慣れた動作でヴェルダンディに用意された収納スペースに白衣を投げ入れた。先日買ったばかりのパジャマの裾をまくるのは、操作するためのグローブに挟まってしまうから。足元も同様にまくろうとするが、タイトな作りの上に、生地が伸びないのでふくらはぎ辺りで止まってしまう。ヒナタは悩むことなくそれを脱ぐと、白衣の上に重ねた。つららのように美しく透き通った白さの足が、惜しげもなく外気にさらされた。
「ベル。行動推定時間は三十分だ。エネルギー残量に問題はないな?」
『ノー・プロブレム(no problem)』
ハッチを開き、搭乗。ヴェルダンディは当然、戸口から出るには大きすぎる。が、一見するとオンボロでいて、しかし無駄に高性能な小屋は、戸口を含む外壁一枚が、当然のように地面に沈み込んでいった。
進路は開かれた。
「不可視外装、展開――行くぞ、ベル」
『ラジャー(Roger)』
重々しい口調に反して、高機動性能を即座に発揮したヴェルダンディは、空を飛ぶように地を駆けた。その姿を見送ったものは、どこにも居ない。
*
ヒナタの操作するヴェルダンディが、天照東高校の敷地内に一足飛びに侵入する。
当たり前のように防犯システムは作動しなかった。先客が切ったのだろう。当然テルの身体にも発信機はつけていたが、やはり無効化されているようだった。
現在、ヒナタは校舎裏に立っている。搭乗したまま学びやに侵入するわけにはいかず、だからといって機体から降りるわけにもいかない。迂回し、面に出ることを決めた。校庭のほうだ。
校舎の角を曲がり、使われていない花壇を通り過ぎ、廃棄された焼却炉の前を抜ける。じきに建物は無くなる。全方位から攻撃される恐れのあるグラウンドへの道を、慎重に進んでいった。
そして〈それ〉を発見した。怯えにもみえる慎重さをあざ笑うかのような大胆さで、校庭の中心にたたずむ影だ。その数、三つ。地面から生える植樹のような人の姿が、月に照らされぼんやりと浮かび上がっている。
「あれか……」
ヒナタは視覚の倍率を上げた。が、デジタル処理によるズーム方式では間に合わず、オプティカルズームへと切り替える。わずかな駆動音。じきに望遠レンズが換装された。
暗い。だが、見える。三つの影。まず、向かって左に男が一名――否。それは兵器だと判断を改める。ヴェルダンディが恒温性がないことを教えてくれた。つまり人間ではない。
二つ目の影。向かって右に女が立つ。一人ではなく、それも一機と呼ぶべき機械だった。やはり人並みの体温がない。
二機は、人と見まがうような精巧な顔を持ちながら、人形もかくやという無表情を貫いていた。瞼は閉じ、手はだらりと下がっている。出来の良いマネキンのようだと考えた後、やつらはその通り人形なのだと思い直す。
それら二機の構造を、ヒナタはすぐには把握しかねた。製作は可能だろうが、その必要性を感じたことはなく、だからこそ必要な技術や設計図を思い浮かべることができない。
だが、問題はそこではない。
問題は三つ目の影にある。中央の影だ。男女二体の兵器から、一歩を引いた位置に立つのは、正真正銘の人間だった。体温もあり、表情もある。その顔は、ヒナタの良く知る造詣をしていた。そして予想を裏付ける答えをも有していた。
「どんな過程でここにいる。行動理由はなんだ」小さく舌打ち。アゴに手を当て、唇を弄りたくなるも、搭乗中にそんな自由はない。「とにかく、最悪なことに違いはないか」
コクピットの中で、ヒナタはひとりごちた。
もう、見ないふりは出来ない。目の前に居たのは、どうしようもなく『棚七ヒナタ』だった。間違いようもなく己自身だった。自分と同じような顔をした人間が、眼前に存在していた。
厳密に言えば、違う部分は見受けられる。まず、自分よりも年上だ。身長が随分と高い。そしてタバコをくわえている。だがそれでも、目に映る存在は棚七ヒナタ以外の何者でもなかった。長い髪。大きな瞳。細い四肢。そして白衣。全てが一致する。
やはり、自分以外の自分が、この時空管にも居たのだ。もう一人の自分は、丸金タダヒトに遊び道具を与え、テルをさらい、こうしてヒナタを呼び寄せた。目的は分からないが、唯一つ言葉を交わさずとも分かることがあった。それは友好関係を築く余地などないことだ。
「さて、どうするか……」
外部スピーカや通信機能を使い、接触を試みるか。もしくは会話など必要がないか。しかしテルの現状が分からない今、交渉が第一か。ヒナタは校舎の影、グラウンドに入る一歩手前に隠れ、考える。予想すべきは、自分自身なのだ。もしも自分ならば、なぜこんなことをするのかと考える。駄目だった。思いつかない。
『聞こえるかい? 棚七ヒナタ』
悩んでいるヒナタを、見透かしたのだろうか。もしくは己自身の判断など、考えるまでもなく分かるのか。もう一人のヒナタが、ヴェルダンディへと通信を送ってきた。
隠れるだけ無駄なようだ。ヒナタは応答と同時に、不可視外装を格納し可視状態へ移行、その身を月明かりの下ににさらけ出した。
距離にして一五〇メートルほど。都市部にしては贅沢な広さを持つ校庭で、別の時空管から訪れた二人の棚七ヒナタが対峙した。
『おい。聞こえてるんだろ? 答えなよ』
ヴェルダンディの内部に、通信機を通した声が響く。聞き覚えのない声。眼前の棚七ヒナタの口はきっちりと動いているから、それは未来の自分の声なのだろう。タバコを吸った場合のだ。もしくは他人が聞けば、同じ声に聞こえるのだろうか。
「聞こえている」とヒナタは応答した。
『やあ。はじめまして――というのは、おかしいかな。気持ちが悪いね、自分と話をするのは。怖気がするよ。まあ、それでも挨拶ぐらいはしようか。どうも、こんばんは。私の名前は棚七ヒナタ。つまり君だ。とはいえ、同一視されても困るがね。反吐が出る』
「ずいぶんと攻撃的だね」出来の悪い絵画を評価するような淡々とした口調で、ヒナタは答えた。「単刀直入に聞くよ。テルくんはどこだい? 返してくれなんて所有権を主張はしないけどね。せめて開放してくれないかな」
『ははッ、するわけないだろう』棚七が地面に唾を吐いた。『わざわざ出向いたんだ。やることはやるし、やらせるべきことは回避させない』
「丸金タダヒトに発明品を譲ったのは、君だね?」
『そうだよ。全く役に立たなかったけどね』
「本来なら起こりえぬ事件を起こした理由はなんだい」
『そんなこと自分で考えなよ。と、言いたいところだけど、周りの見えていない馬鹿な君には教えてやろう――私はね、テルくんに、死んでもらいたかったのさ。人を助けて、幼なじみを助け、無様に犠牲死してもらいたかったんだよ。結局、怪我の一つすらしなかったけどね。猿に文明を与えても、意味はないね。写真を撮って終わりなんて、なにを考えているんだか。せっかく血みどろの展開を期待したってのにさ』
ヒナタは絶句した。それでも圧されまいとして、口を動かす。
「なんだと……? 何を言っているんだ、貴様は」
ヴェルダンディの脚部が、一歩分進んだ。
『お、やる気かい?――どうせ説明しても、君には分からないさ。そうだね、いい事を思いついた。テルくんの前で服をひっぺがしてさ、四肢を順番に切り落としてやるから、その合間にでも教えてあげるよ。叫び声を我慢すれば聞こえるぐらいの声量で言ってやるからね、耐えてみればいい』
棚七はニタリと笑うと、右手を上げた。そして言う。
『君が天才なら、私はなんだろうね?――まあいいさ。理由は一つでいい。M9、F2。無傷のまま対象を捕獲しろ。失敗したらスクラップだ』
まぶたを閉じていた二体の機械が、その時、覚醒した。
最終章/SIDE‐A(2)/テル
天照東高校の体育館は、校庭を上から見下ろすような形になっている。二階建ての上部が体育館、一階部がトレーニング室ならびに柔道場、剣道場となっているからだ。
だから、手と足を縛られ芋虫のようにしか動くことのできないテルにも、空気入れ替えやゴミ掃き出し用に設えられた、床に近い小窓から外の様子は把握することができた。
にび色の鉄の塊が、月の光を受けている。
「ヒナタ!」
大声で叫ぶも声は届いていないらしい。窓ガラスの向こう側に、見慣れた鉄の塊が現れたのがつい先ほどのこと。にらみ合いを続けていた二人だったが、棚七の右手があげられたのを契機に、事態は動きだした。
棚七の両脇に控えていたM9とF2が銃弾を思わせる勢いで、前方へ疾駆したのだ。遠くに見えていたヴェルダンディは、臨戦態勢を取ったようだ。腰が落ちたのか、影の背がわずかに下がった。図体のでかさは俊敏さの低下には繋がらないらしい。ヴェルダンディは襲い掛かる二機の二倍ほどの図体をしたがえて、円周をなぞるように横移動を開始した。足裏にローラーでもついているのだろうか。脚部はバランスを取るだけで、一切動かない。まるで氷上でスケートをしているかのようだ。
攻防開始まで後数秒。遠くから見ていたテルにははっきりとそれが分かり、またヒナタとヴェルダンディの状況の悪さもしっかりと把握していた。
スタンドから見下ろすサッカーコートのように、駒の動きや狙いがつぶさに分かる。校庭は長方形。やたらと広いことだけがとりえの校庭の中心から、M9とF2は標的の居る片隅へ向かう。対するヴェルダンディは校庭の端から端を目指すように横移動を始めた。背を取られたくないのだろうが、それは難しい。並んでいた二機はすでに散開しており、F2が背後を取ろうと迂回をはじめた。
それにしてもなぜだろう、とテルは考える。住宅街が近いのに、誰も騒音などに気がつかない。ふと敷地外へ目を向けて、異変を認めた。学校の敷地に沿うようにして、薄い膜のようなものが空に伸びているのだ。空に掛けられたカーテンのようだ。
薄膜はほぼ透明であったが、なにかしらの光を受けるとシャボン玉のような虹色を見せた。それは校舎の背を越したところで、直角に曲がっている。まるで四角く半透明な箱が、学校全体をすっぽりと覆っているかのようだった。空中には、さきほどまでは無かった装置が浮遊していた。その数は四つ。
実は、地上にも四つ同じものが設置されていた。円盤状のそれは、立方体を構成する角に配置されており、それぞれが互いに結びつき辺を構成し、面を作り出し、そして立方体の膜を生み出していた。
テルは知らない。それは棚七の発明品であり、外部へと漏れる音を遮断し、あらかじめ設定しておいた範囲の内部映像を、外側の皮膜に投影するのである。つまり内部で戦争が始まったとしても、音は一切外に漏れず、開戦前の無人の校庭が外に映し出されるという仕組みだった。防音効果付きのスクリーンといったところだ。
テルは、どちらにせよ外からの事態解決を諦めた。自分の知識では、棚七ヒナタという存在に打ち勝つことなど出来ないことも知っている。が、このままではヴェルダンディが危ない。その予測は外れまい。
「ヒナタ……」
諦めるわけにはいかない。テルは考える。ふと出入り口の扉に隙間が空いているのを見つけた。まさか、閉め忘れたのだろうか。そこは直に外へと繋がっている。校庭に一番近い出入り口だ。
僥倖とはこのことだろう。しゃくとり虫のように進んでいたテルは、販路を転がる丸太のごとく、踏みなれた体育館の床をごろごろと進んだ。
ピタリと止まるは、目的の扉の前だ。やはり外の景色が見える。どうするか――悩む時間は一瞬だった。とにかく外に出なければ話にならない。文字通り、声が届かなければ説得すら出来ないのだ。
テルは体制を一八〇度変えると、鉄扉の隙間に足をねじりこんだ。両側へスライドするタイプの鉄の戸が、つっかえることなく開いていく。
第一段階である外部への脱出は、成功といきそうだ。あとはなんとかして、棚七の元へと近づき、やめるように説くしかない。解決までの手段が一つしかないことを、テルは既に悟っていた。それは数時間の対話から見出した解答だ。棚七はヒナタである。どう考えても、根本に居る人格は、まっすぐで純粋な人物像としか思えない。でなければ、ひねくれたテルが、ああも踏み込めるわけがない。
そのために、まずは開ききった扉を抜けて、外へ出る。そして棚七に言う。何かを言う。答えは見えないが、想いは決まっている。だから進もう――その段になって、テルはやっと己の楽観視に気がついた。
扉を監視していたにび色の塊が、カメラのピントをテルにあわせていた。視線がぶつかったような気がして、テルは思わず呻く。
「ヴェルダンディか……」
頭が沸騰していたせいで、失念していた。監視がいないわけないのだ。
目の前にたたずむ、棚七製作のヴェルダンディは、テルの知っているそれとは造詣が異なっていた。
頭部にスクルドらしきタマゴ型の機械が乗っかっているのは同様だ。が、足は太く、手も太い。胴体もなんだか、ごつごつとしている。既知のヴェルダンディはスマートなボクサーに見えるが、棚七のそれは筋肉の鎧をまとったレスラーのようだった。
機体に点在する各種ランプを点滅させて、ヴェルダンディは厳かな動きで近づいてきた。ヒナタ製の動きを見たあとだと、威圧感がまるで違う。重機か戦車のような重量のある動作だ。
棚七は『外へ出すな』と指示を出していた。だからだろう。ヴェルダンディは、扉から転げ出たテルを即座につかみあげた。まるで丸めたティッシュを拾うかのようにおざなりに。それからやはりゴミ箱へ捨てにいくかのような気楽さで、体育館へと戻し入れる。己の身体が入らないので、扉の前まで来ると腕を伸ばして、なかば投げ入れるようにした。
テルは唸った。これは不味い。解決策が思い浮かばないだけ、棚七よりも質が悪いともいえる。
どうしようか。
結果、もう一度だけ試してみようという考えに至り、開いたままの扉を高速回転で抜け出た。ハムスターの回す滑車のごとき回転速度で、ヴェルダンディの前を通過する。
「――ぐえッ」
しかし、見逃されるわけもなく。テルは首根っこをつかまれて、やはりスタート地点に戻されようとしていた。ズシン、ズシンとコンクリートの上を踏みしめるたびに、テルの首根っこが締まった。
「苦しい、苦しい!」と叫んだ。あわよくば、このまま取り落としてくれまいかと、精一杯、暴れてみる。その後は高速回転でもなんでもして、校庭に飛び出せばいい。「この! 苦しいんだよ! 本当に! あー、くそ! 離せ! 離せ、ベル! 離せ!」
その時である。
一瞬の無重力状態がテルの身体を包み込んだ。
「え?」
呆けたようなテルの声。コンマ数秒のうちに、テルはコンクリートと熱いキスを交わしていた。
最終章/SIDE‐B(2)/ヒナタ
ヒナタの製作した〈ヴェルダンディ〉には、いくつかの武器が搭載されている。
まず一つ目。射出型スタンガン。これは細かいトゲのついた電極が、ワイヤーをたずさえて一直線に飛んでいく。射程範囲は最大で二〇メートル。遠く離れた対象への威嚇としても使われ、ワイヤーは切り離すことも可能だ。
二つ目は、局所放電。これはアームの先端や、脚部、そして背後の要所要所に設置されている。しがみつかれた場合などに使用する。
三つ目は、液体型スタンガン。通電性を良くした混合液を放出し、そこへ電気を流すという仕組みだ。対多数のときなどに使用する。
他にも三点フックが先に取り付けられた射出型フックがある。コンクリートぐらいであれば、かっちりと捉え、自重をも支えるが、武装とは呼べない。
見れば分かるとおり、基本の装備はすべて電気に由来する。その威力も特別に高いというわけではない。火炎放射器だとか、ロケットランチャーだとか、アンチマテリアルライフルだとか、そういった人間の扱う武器のほうがよほど効果的な威力を持っている。
そもそもヴェルダンディの製作動機は、小屋を作るためだとか、物を運ぶためだとか、重機がわりの手足が欲しかったからである。どうせならと戦闘用の装備をつけてみたものの、そのほとんどが対人間用装備。機動性は高く、力もあるが、やはり人間と比較してのものだ。
つまり、必然的にヒナタの手は限られていた。
棚七の合図を受け、己に疾走してくる二つの機体。男型がM9、女型がF2というらしい。ヒナタは推測する。機動性はこちらの負け。出力ならばおそらくこちら側に分がありそうだ。では火力は? 相手の身につけているものといえば身体にフィットしたつくりのボディスーツのみだった。武器を隠しているとは思えない。五分とみた。
「力で押し切るしかないか」とヒナタは小さく呟いた。「私ならそう考える――相手はそう判断するかな。ならば」
M9は前方から、F2は後方を取ろうと位置を調整している。いずれ、挟まれるのは目に見えている。一体相手ならまだしも、二体同時を力のみで押し切るのは難しい。裏をかくのは、戦の必定だ。ならば、機動性のよさを見せてやろう。
野球ボールなどが外へ飛び出さないように設置されている防護ネットを背に移動していたが、ヒナタは進路を直角に変えた。ヴェルダンディの足の裏にはローラーがついていて、グラウンドのような平らな土地であればバイクや車のように移動することが出来る。が、自重があり走行時のバランスも良くない。さらにダートという条件下では、グリップ力は期待できない。進路を変えると一言でいっても、それはドリフトをするような形での移動となる。
土煙を上げて、Jの文字を描くように九〇度の方向移動。時速五〇kmほどまで出ていた速度を、一気に落として横転をふせぐ。バランスを取るために傾けた右椀部が土をけずった。ガン、という振動。ヒナタがあえて起こしたアクションは土煙と闇夜にまぎれた。
進路を変更していたF2が、修正を重ねた。ネットに近づいていた身を、やはり九〇度転回させて、ヴェルダンディの背を追った。前傾姿勢で疾走するその姿は、ロケット弾頭のようだ。
ヒナタは自然とM9に近づく形となる。正面衝突を控えたチキンレースだ。ゴールを目指す短距離ランナーのような貪欲さで、スピードを落とすことのないM9が、その右手を振りかぶった。指が垂直に伸びると、手の甲を覆うように幅広の刃が飛び出してきた。隠しナイフらしい。射抜くつもりだろうか。
ヒナタは進路を変えない。それどころか速度を上げた。腰を落とし前方へ。回避運動の姿勢すらみせない。砂埃が辺りを覆う。
敵はヒナタの捨て身タックルだと判断したようだ。結果を予測したF2は背後を取ることが間に合わず、しかし斜めの位置から地面をけり、目標破壊を確信して宙を飛ぶ。縮めた体から繰り出されるは、ムチのようにしなる右の足。つま先から、やはり幅広の刀身が現れている。
三機は一点で交わろうとしていた。
ヴェルダンディの前後から襲う刃。材質は不明だが、切れ味の良さそうな両刃は、ヴェルダンディの装甲を確実に削るのだろう。でなければあんなにも確信的な攻撃は繰り出さない。
だが、そうはさせない。
ヒナタは高速度のまま、さらに九〇度の方向転換を試みた。ブレーキはかけない。そもそも曲がることのできる段階ではなかった。このままでは当然、機体は倒れる。倒れてしまえば、やられ放題だ。が、そうはならなかった。なぜならば、あらかじめ打ち込んでおいたフックが地面を噛み、そこから機体へと伸びるワイヤーが時計の振り子のような形で、ヴェルダンディを引っ張ったからだ。それは右腕が地面にぶつかった衝撃と、舞い上がる砂埃で存在をうやむやにしていたものだった。
「――ッ」
振動と横Gがヒナタの身体を襲う。機体の重さに耐え切れなくなったフックが地面を離してしまう前に、機体側からワイヤーを切り離す。ブランコに乗りながら蹴り飛ばした靴のように、ヴェルダンディは勢い良く放り出される。が、それは計算どおりだった。盛大な土ぼこりをあげながらドリフトをしつつも、スピードは殺さずに標的に向かう。もちろんもう一人の自分であり、司令官でもある人間へと。
ヒナタは、棚七の瞳が驚きに見開かれる様を見た。司令塔を倒すことだけが短期決戦を可能とする。紐にくくりつけた岩を振り回し、投擲したかのような突撃は、生身の人間では耐えられない。
いける、と思った。己と同じ顔を血に染めることに抵抗はない。残る距離は五〇メートルほど。直前まで耐える必要もない。二〇メートル以内に入れば、スタンガンの有効範囲でもある。
背中に衝撃を受けたのは、その時だった。
「くそッ」
バランスを崩して、前のめりに倒れる。激しい衝撃がヒナタを襲った。すぐに背後のカメラで確認する。後方に引き離したはずのF2が、すぐそばに着地した。
――さかのぼること数秒前。
残されたM9とF2の両機は計略にはまり、目標を失った。通常の人間であれば、勢いを殺せずに味方同士で相打ちだっただろう。しかしこの二機の反応速度・演算速度は規格外だった。M9は迫りくるF2の足首を掴むと、ハンマー投げの要領でもって、F2を投擲したのだった。ボウガンの矢を彷彿とさせるような体勢で、F2は飛翔し、たったの数秒で百メートルもの差を埋めたのだ。
ヒナタの視界の隅に、文字の羅列が走る。
〈オートバランサー、右半身の各部アクチュエーター、損傷レベル3。背部射出フック、伝導性混合液保存タンク、破損。電気系統異常なし。活動続行可能――〉
ひっくりかえった甲虫のような無様な転倒は避けた。ヒナタは目標を変えずに、ヴェルダンディを起こしにかかる。
数十メートルさきの棚七の口から、タバコが落ちていた。それに気がつくといまいましげに火を踏み潰した。身の危険を感じてしまったのだろう。通信器を通さずとも、声が聞こえた。
「M9、F2! そいつを向こうへやれ!」
その前に討ち取ってやる――しかし、ヒナタの行動は間に合わなかった。
指示に従い、F2が二人の間に割ってはいる。じきにM9が背後から襲いかかり、ヒナタは操作性の鈍った機体を必死に操作し、避ける。そこへ追撃。さらに避ける。気がつくと、ヒナタの立ち位置は数十メートルも後退していた。
『おやおや』と棚七の通信器越しの声。『ずいぶんとダンスがお上手じゃないか』
「ふん」余裕はなかったが、せいぜい噛み付いてみる。「B級映画の台詞よりセンスがない。天才様には芸術的才能が皆無らしい」
返答は無かった。
じきに、さらなる指令を下された二機が攻撃を再開した。
最終章/SIDE‐A(3)/テル
「いてえ! いきなり離すなよ!」
無茶苦茶な言い分でテルが吠えると、ヴェルダンディが動いた。テルの襟首を掴む。やはり締まる首に、テルが文句を連ねると、やはり地面に落とされた。
そして、テルは信じられないものを見た。
目の前には、棚七製のヴェルダンディの無骨な体躯が屹立している。いましがた、拘束すべきテルの身体から、あっさりと手を離したばかりだ。
『命令。命令。め、命令、命令遵守』とニッポン語でもって、ヴェルダンディが発声する。スクルドがいる部分のライトが、おかしいほどの速度で明滅している。
昆虫の外骨格を彷彿とさせる装甲および外装が、ブルブルと振動していた。
『テル、マスター、テテテ、テル――該当アリ、アリアリ、ガガガガガ、命令遵守、プライオリティに問題発生中。現在、現在、プライオリティ、棚七ヒナタ、ナンバー・ワンワンワン』
「ベル……?」
言い馴れない愛称を口にする。どうしたことだろう。棚七同様、容姿に違いこそあれど、ヴェルダンディはどうしようもなくヴェルダンディであった。肌で感じる雰囲気が、そう思わせる。
ヴェルダンディは最後に一度、大きく身を震わせた。
『変更、変更、変更、否定、否定、肯定、受領――プライオリティ設定を変更しました』
そして、停止。沈黙。
「ベル、どうした……?」
『おはようございます、マスター・テル』
先の挙動が嘘のように、ヴェルダンディが流暢なニッポン語で対応した。『あなたは私のマスターです。ご命令を』
「なに言って……」
どうしたことだろう。昨日の敵は今日の友とは言ったものだが、まさか先ほどの門番が今の味方になるとは。そこで気がついた。ヒナタ製のヴェルダンディも、テルのことをマスターだと認めていた。
「俺がマスターだって登録されてるのか?」
『肯定。十五年と二一一日前に登録済み。以後、削除なし。優先権をセカンダリからプライマリに変更しました』
たしかにヒナタ製と同様の設定になっているようだ。しかし、棚七のスクルドの設定も同じだとは思わなかった。これではまるで、テルに脱出を促しているようなものではないか。
ともかく、道が開かれたことは間違いがなさそうだ。
「紐……切ってもらえるか?」
おそるおそる頼んでみる。
『肯定』
アームの中から、小さなアームが飛び出した。まるでマトリョーシカのように更にアームが伸びたすえに、鋏のような器具が現れた。テルを縛る紐をこともなげに切る。
うっ血していた部位をほぐしながら、立ち上がった。
「よくわからないけど……ありがとな」
『問題はありません。ご命令を』
テルは続きの言葉を待ったが、ヴェルダンディはなにも言わない。別れの言葉を送るのもおかしい気がしたので、黙っていた。
さて、次の問題である。テルは振り返り、校庭を見下ろした。ヒナタの操るヴェルダンディが、棚七に猛進する。が、後では二体の人型機械が絶妙な連携でもって、背をとらんとしていた。
行かねばならない。テルは走ろうと足を踏み出した。
『マスター・テル』と呼び止めたのは、他でもないヴェルダンディだった。『ご命令を』
まるで、欲しい言葉があるかのように、愚直に繰り返す。
『ご命令を』
最終章/SIDE‐B(3)/ヒナタ
ヒナタは苦境に立たされた。形勢などものの数秒で変わるのだ。棚七との距離を離されたあとは、散々なものだった。性能の落ちた機体では勝る部分など一つも無く、相手の裏をかく装備もない。いまや損傷は増大し、いつ致命傷を負ってもおかしくはない。電気系統が無事であることだけが、唯一の救いであった。
ヒナタは奥歯をかみ締めた。乗り越える気でいたが、圧倒的に押されている。ヴェルダンディを使用した棚七捕縛は諦めるしかなさそうだ。差し違えにしか、活路はない。
「もはや突破口は一つきりか……」
呟き、ヒナタは最後の手段に手を出すことを決めた。それはたったの一度しか使うことができず、使用後はヴェルダンディも停止してしまうという諸刃の刃だが、こうなっては仕方がない。
その手順は簡単だ。相手に抱きついて〈それ〉を発動するだけ。
〈それ〉とはなにか。
〇距離から射出せんとするのは〈電磁パルス〉と呼ばれる電磁波だ。〈EMP〉と略されるそれは、射程範囲内のケーブル等に高エネルギーのサージ電流を発生させ、接続先の電子回路にダメージを与える。サージ電流とは、機器を破壊するほどに大きな電流のことだ。通常値を超えた電流は動作不良を引き起こし、場合によっては破壊にまで至る。落雷による雷サージでは、パソコンなどをはじめとした機械に高電圧および大電流を流し損傷を与えてしまう。
もちろん機器において主要な部位にあたる精密部品や電子回路に、過度な電圧――つまりサージ電圧が到達しなければ、サージ電流も流れない。よってサージ防護装置などを強化されていたり、根本的な部分から対策をされていれば効果がない。タイムマシンも少なからず電磁パルスを発生させる仕組みである。隣接することの多いヴェルダンディにも、対策はほどこされている。同じ開発者、同じ脳みそだ。当然、目の前のロボットにもそれは搭載されているだろう。だが、意図的に発生させた攻撃目的の電磁パルスを、〇距離から防ぐ術を今のヒナタは知らない。つまり目の前の棚七もそうに違いない。装備はバレているに決まっているが、防ぐ術がないのならば、手の内が明かされようがいまいが、さしたる違いはない。
〈EMP発生装置〉――もちろんヒナタの発明品である電磁パルス発生装置は、単発の使い捨て装備だ。それは置き忘れたようにヴェルダンディの機体に搭載されていた。発生装置は蓄電器のそばに配置されている。起動させると、大容量蓄電器の電荷を意図的に操作し、ふたたび装置へと送り返す。結果、着火や爆発を伴うことなくEMP発生装置は破壊され、それと同時に多量の電磁パルスが発生するという仕組みだ。難点はその照射距離で、相手を完全破壊しようとするならばほぼ〇距離から撃たなければ、自損のみに終わる。言葉どおりの対機械の最終兵器だった。
「やるしかない、か」
M9およびF2の二機は、遊びは終わりだとばかりに左右からアタックをしかける。
策は尽きた。ヒナタはヴェルダンディの両手を広げると、近づく二人に抱きついた。右にM9、左にF2。渾身の力で腰を抱き寄せた。いまこそ、そのときだ。愛着のあるヴェルダンディに心のうちで謝りながら、ヒナタはEMP発生装置を機動させる。
音はなく、大した振動もない。しかし明確な結果を伴った。
視界の隅に、一文が追加された。
〈エラー感知。エラー感知。エラー……〉
その後、完全に沈黙した。制御回路がいかれたのだ。見えていた景色も、ブラックアウト。こうなれば手動で外に出なければならない。それはとても容易なことではないのだが、結果にくらべればマシな苦痛だろう。棚七は、どうにかして白衣のポケットにしのばせてあるスタンガンで倒すしかない。
まずは外へ出なければ。外の様子さえ分からない。
ところが、ハッチを手動であけるためのスイッチに手をかけたところで、ヒナタは恐ろしい事実に気づかされた。
ガンガン、と音がした。
なんだろうか。損傷したパーツが、自重によっていままさに折れろうになっているのか。それにしては随分と規則的で、攻撃的な音を立てている――ガギッ、と嫌な音がすると、目の前のハッチを止めていたストッパーが外れていた。自重で破損? いや、違う。外れていたのではない。外されたのだ。足元からうっすらと、外の景色が見える。
「まさか……」
ヒナタは戦慄した。捨て身の行動をとる上で、考えることさえ放棄していた結果を迎えてしまった。つまり、F2とM9もしくは片方一機を倒し損じたのだ。微動だにしない機体を攻撃しているのだ。最終目的は操縦者の身柄である。つまり、鎧をはがしている最中なのだ。
金属と金属のこすれる不快音は、まるでヴェルダンディの叫びにも聞こえた。腹をかっさばれ中綿取り出される人形のように、いままさにヒナタはヴェルダンディから引きずり出されようとしていた。
足元からみえる夜の色が、どんどん口を大きくしていく。薄目のように開いていたハッチが、いまやパッチリと瞼をあけた。ああ、なんということだろう。たしかに敵の足首が見えた。やはり打ち損じたのだ。
あと三〇秒もあれば、引きずり出されてしまうだろう。ヒナタの喉がごくりとなった。身体は震えない。しかし、とても冷たい。何が出来るかを考えて、すぐに無理だと判断を下す。あと二〇秒。すでに相手の下半身は見えていた。おそらくM9だ。開いた口に、下から手をかけて、シャッターを開くときのような、腰を落とした体勢をとる。残り一〇秒。死ぬのだろうか。手足をもいでやると、言われた。自分の頭の中に、それを可能とする発明品がいくつも浮かんでは消えていく。最悪の場合、気絶すら出来ない。あと五秒。ハッチが一気に押し上げられた。ガコン、と間の抜けた音がして上がりきる前面装甲。嫌な音が聞こえたのは、白衣などを押し込んでいる収納スペース部分が歪んだからか。となると、ポケットにいれた発明品たちもお釈迦になった。目の前には清涼な酸素と、熱に犯されていない爽快な朝の外気がある。操縦室に篭っていた熱が逃げ、その先には予想通りの風景が広がっていた。
M9が立ち、F2は地面に倒れていた。遠くに棚七の姿がぼんやりと見える。口元に手を当てているのはマイクを口に当てているためだろうか。ヒナタと通信するためのほかに、M9とF2に指示を出すことが目的らしい。遠隔指示だ。
なぜ失敗したのだろうか。仕組みは不明だが、どうやら各回路にかかる負荷を、F2のみに集中させて難を逃れたらしいと、ヒナタはぼんやり考えた。完全に別個の機体をバイパス接続し、それによってF2を犠牲にし、M9だけを生かしたのだ。
予備電源で動いているいくつかの機能。その一つである通信システムが、明瞭な声を発した。
『自分が知らなければ、相手が知らないとでも思ったかい? 残念だったね。私は君を包括するが、君は私には及ばないんだよ。これに懲りたら年上をうやまうことだね。まあ、今日で終わる人生だが』棚七は針金のように細く鋭い笑い声をあげた。『では棚七ヒナタ。ゲームオーバーだよ――M9、戦闘モードをCからAへ変更。その後、目標を捕らえろ』
頷くこともなく、しかし命令を聞き遂げたM9が、ナイフを出した手をゆっくりと引いた。
最終章/SIDE‐A(4)/テル
『ご命令を』
何度もそう繰り返すヴェルダンディは、まるで助けにいくための動機を必死に求めているかのようだ。
「お前……」
テルは機械に疎い。だからヴェルダンディの状態も、詳しくは分からない。機械は迷うものなのだろうか。その判断さえつかない。
だが、自分が依然としてマスター登録されていたことには、棚七ヒナタの心の叫びが聞いてとれた。そして繰り返されるヴェルダンディからの質問には、人の執念にも似た想いを感じた。
「助けてくれるのか……?」
『肯定。ご命令を』
即座に発せられた応答に、テルはひとつ頷いた。校庭を見下ろすと、ヴェルダンディが両手をひろげ、迫り来る二体を迎え撃とうとしているところだった。勝機はあるのだろうか。少なくとも見届けてからでは遅い。今、三機がぶつかった。ヴェルダンディは抱えるようにして、M9とF2の腰に手を回した。
余計な時間は用意されていない。決断は今だ。
「わかった――ヒナタを助けよう。力を貸してくれ、ベル」
『了解しました、マスター。棚七ヒナタを救います』
それははたしてどちらの〈棚七ヒナタ〉なのか。いずれにしてもヴェルダンディは、その巨躯からは想像できないほどの軽快さで、校庭を目指した。
最終章/SIDE‐B(4)/ヒナタ
チェックメイトだ。もうどうすることもできない。
迫り来るM9の指先を、ヒナタはしっかりと見た。実際の動きは早いのか、それとも遅いのか。どちらにせよ、ヒナタの目には全てがスローモーションに映った。
その瞬間である。
通信機がジジと音を立てた。
『M9! 避けろ!』
それは棚七の命令だった。
ヒナタに作り物の眼球を向けていたM9が、すばやく反応し背後に飛び退った。が、体勢を崩して無様に地に落ちる。空中に飛んだ際、足を何かに引っ掛けたらしい。それは何に?――ヴェルダンディだった。見慣れぬも、面影をしっかりと残したヴェルダンディであった。
「ベル……?」
ゴム風船がはじけとぶ勢いで、急速に動き出す展開。ヒナタは置いていかれそうだった。
ヴェルダンディが、ヒナタをかばうようにM9の前に立ちふさがった。
『肯定。あなたは棚七ヒナタ。マスターの〈棚七ヒナタ〉ではない別時空管の〈棚七ヒナタ〉であることを、わたしは認識しています』
「なぜ、助けた」
『命令……棚七ヒナタを救います』
まるで言いよどむ人間のように、ヴェルダンディは一拍の沈黙を挟んだ。ヒナタはAIが完成していることを知った。目の前のAI〈スクルド〉は、己の知っているモノではない。
「どうして――」と言葉を重ねる前に、ヴェルダンディが答えた。
『戦闘開始。棚七ヒナタに退避を要請します』
そうして機械音声は、まるで実験結果を発表するかのような口調で続けた。『戦闘能力に格差あり。敗北確立八九%』
『くそ……どういうつもりだベル!』棚七が通信器越しに悲痛な叫びをあげた。『お前も裏切るのか!』
『否定』とヴェルダンディが答えた。『棚七ヒナタを救います』
『意味のわからないことを!』棚七が舌打ちをして、金切り声をあげた。『いい! もういいよ! ベルなんて知らない! M9、目の前のベルも敵だ! 倒せ! もう、そんな恩知らずはどうでもいいよ! 壊してしまえ!』
M9の人工筋肉が、うなりをあげた。
幕間/SIDE‐C/棚七
本当は救いたくて、救いたくて、仕方が無かった。しかし駄目だった。世界を壊してやるとのたまっても、実際は他人の命の一つすら奪っていない。重なる研究結果はなぐさめの手段でしかなく、かりそめの目標は自我を保つための添え木の役割でしかなかった。
世の中はとても不幸だ。棚七は信じてなどいない神を糾弾した。心の叫びを憎しみへと変換し、ヒナタは陰から〈いくつもの名月テルの死〉を見届けた。それは大切な人を看取る行為に似ていた。本人の気づかぬ明確な死を汲み取り、病床の枕元でいつもと変わらぬ声を掛けるということは、大変な重労働だ。死に向かうものには優しく、生きるものには厳しい。人の持つ業を、それでもヒナタは受け入れていた。
それがどうだ。
あるとき、ヒナタの目に映ったのは〈前向きな自分〉だった。それは他の時空管からきた〈IF〉の自分。
加えて、この世界のテルは死なないという。幼少の母の死を受け入れられず、ひねくれてしまったためらしい。人を救おうという強迫観念に、とらわれていない。そんな『反抗期』程度の要因で、未来が変わっている。自分が恐ろしいほどに費やした技術ではなく、ただただそれだけのことで。
そんなことで、と愕然とする間もなく、しかし、それを見つけた別の自分がいることを知った。
一瞬、そんな〈IF〉の自分をうらやんだ。テルを幸せにする。それはなんと心地の良い響きか。甘露の味を舌先でころがしたくなり――すぐに否定した。そんなことは出来ない。いや、させやしない。もしも許されてしまえば、自分が諦め、受けれいれてきた〈数々のテルの死〉はどうなるのだ。ふざけるな。私の想いを壊させはしない。私の時間を無駄にはさせない。テルくんはもう二度と手に入らない。死ねばいいのだ。死ねば話は整合するのだ。
それでいい。
だから棚七は妄執にとらわれるしかない。迷いの中で、欲を殺しながら、全てを受け入れ諦めた〈棚七ヒナタ〉の殻をかぶるしかない。
それでいいのだ、それで――。
最終章/SIDE‐A(5)/テル
遠くに見える棚七製ヴェルダンディは、無事にヒナタを窮地から救ったようだ。危なかった。先ほどみた光景を、テルは思い出す。
二機を抱きしめたのち、ヴェルダンディは膝をつき、F2は崩れ落ちた。が、M9はすっくと立ち上がると、ふたたび戦闘体制に戻っていた。ヒナタの攻撃が失敗したことは、簡単に分かった。唐突に戦況が変わったときには冷や汗が出た。ヴェルダンディ様様だ。
テルは校庭に降り立つと、呆然と前に目をやる棚七の名を叫んだ。
「ヒナタ!」
「……テルくん?」
ぽつりと言葉を漏らし、棚七は全てを悟った。「そうか。マスター権が優先されたのか……人工知能もつきつめれば矛盾を覚えるのだな。あれはもう機械失格だ」
テルがなおも近づこうとすると、ヒナタは白衣から見慣れた発明品を取り出した。射出式のスタンガンだ。テルの足が止まる。
遠くから轟音が聞こえた。足をつかまれたM9が、地面に叩きつけられたようだ。音に反してダメージは少ないようだ。M9はすぐに立ち上がる。戦闘位置が左にずれているのは、ヒナタを逃がすためだろう。
「無駄なんだよ、テルくん」棚七はスタンガンの標準を、テルにあわせた。「べルは戦闘用ではない。M9は戦闘用だ。だから勝てない。当たり前だ――そして、私は諦めた。テルくんは死ぬ。だから君も生きていてはいけない。世の中、〇か一か。全てが、そうさ。簡単だろう?」
「じゃあ、なんで!」鳴り止まぬ戦闘音に負けないように、テルは叫んだ。「なんで、俺の名前を消さなかったんだ! マスターとして残しておいたんだよ!」
「……消し忘れたのさ」
ヒナタの目の色が暗くなる。妄執の炎が燃えていた瞳から、光が消えた。
「違うだろ」テルは首を振る。「ヒナタのことだ。消せなかったんだろ? お前は諦めが悪いしおせっかいで、めんどうくせえ性格で……でも、だからこそ俺のことを諦めないで、助けにきてくれた! そういうことだろ!?」
「違う!」棚七の顔に感情が戻った。「助ける気などない! 助けることなんて……できなかった!」
「でも、挑んでくれた! それで十分じゃないか!」
「結果が伴わなければ、意味なんてない!」
「失敗が全てかよ! 俺は今、生きている!」
「子ども騙しはやめてくれ! そうして何度も失望させられた!」
スタンガンの先が揺れた。「だからもういい。助ける気などおきない! テルくんを諦めきれないとはよく言ってくれたな! 私は諦めたからこそ、ここにいるんだ――」
「――ならばなぜ白衣を脱がない」
その時だった。棚七の背後にヒナタが立っているのを、二人は初めて感知した。手には棚七と同じタイプのスタンガンを握っている。標準は、当然、棚七に合わせられていた。
「貴様……」と棚七は標準をずらさずに、ヒナタの手元だけを振り返って見た。
「お話に夢中で周りが見えていない。まるで恋する乙女のようだ」
ヒナタが馬鹿にしたように言う。それから繰り返した。
「そんなにテルくんを諦めたいのならば、簡単だ。いますぐ白衣を脱げ」
「――ッ」棚七が唇をかんだ。
「貴様はさきほど言ってくれたな? 『私は君を包括するが、君は私には及ばないんだよ』と。ふん。知識はそうかもしれない。が、私から言わせれば、お前ほど分かりやすい性格もないよ。われながら女々しい」
ヒナタはたたみかけた。「白衣を着ていれば、いつかテルくんが見つけてくれるかもしれないからな。あの日、鉄山で近づいてきてくれたように。だからお前は脱がないんだろう? 白衣を脱げば、すべてが終わる。宝くじは買わなければ当たらない――おっと動くなよ。こちらはいつだって撃てる」
「……黙れ」棚七の声とは思えないほどの迫力だった。「お前だって変わらないだろう。なにを上から目線で……なあ! それじゃあお前はテルくんに教えたのかい!」
棚七の目が被虐の色に染まった。「テルくん! 君はタイムマシンがなぜ作られたか聞いたかい!?」
テルは首を振った。「そういえば……聞いてない」
ヒナタの顔は険しい。だが、言葉をジャマしようとは考えていないらしい。構えたスタンガンをそのままに、口を閉じていた。
「そういえば! そういえばだって?」棚七が嬉しそうに笑った。テンションが急に高くなる。「やっぱりテルくんは鈍感だなあ! じゃあ教えてあげるよ!――私たち棚七ヒナタはね、自分の正体を知るために、脳内に蓄積されている知能の正体を知るために、そして親の正体を知るためにタイムマシンを作ったのさ! だからこの世界の棚七ヒナタも、違う世界の棚七ヒナタも、どこの世界の棚七ヒナタだって過去へ飛んでいるのさ! 一人で汗水たらして、涙を我慢しながら、せっせと機材をこしらえてね! 一人で寂しい時間旅行さ!」
「それがどうした――」とテル。
その言葉の先を、棚七が遮った。まるで禁忌を犯した人間が、懺悔をするかのように、淡々と一定の声音で、しかし異様なほどの早口で言葉を並べた。
「――そして親を殺し、私は消えるつもりだった。〈親殺しの矛盾〉を乗り越えることが私の次の課題のはずだった」
「殺す……?」
数時間のうちに何度も聞いたが、それでも聞きなれない単語だ。テルは馬鹿正直に繰り返した。
棚七は同じ調子で続けた。
「私はね、テルくん。遠まわしに君に、殺人幇助をさせていたようなものだ。なにせ出会ったころの私は、君との付き合いなど軽視していた。どうせすぐのお別れだと思っていたし、手伝わせるだけ手伝わせればいいと考えていたのさ。考え方次第で罪悪感など消える。どうだい。ひどいだろ? なのにまだ、テルくんは〈棚七ヒナタ〉を信じるのかい。君は人殺しの道具を作る手伝いをさせられていたんだよ」
テルは視線をずらした。棚七の向こう側に、ヒナタの顔があった。それはひどく白い。
しかしどうだろう。顔色に反して、ヒナタはしっかりと言い切った。
「うん、そうだよ。テルくん。黙っていて、すまない。こんな形で言う羽目になるとはね。残念だが、しょうがない。伝えられずにお別れになってしまったけれど、確かに私はそんなことを考えていた。ヒナタなどという、光に満ちた名前をつけるだけつけて、教会に捨てた顔も名前も知らぬ親が憎かった。殺してやりたかった。私は一人きりだったんだ。この知識のせいで、話の合う人間なんかいやしなかった。だからといって私は他人のために知識を使おうともしなかった。人を困らせる道具だけを作り、破壊活動に傾倒した。そしてタイムマシンを作る決心をした。自分の生まれを探り、なぜこのような知能を保持するのかを知り、その上で、親に復讐してやろうと思った。そして自分も綺麗さっぱり消えるんだ。自殺なんて馬鹿らしい。生まれるときは痛みを知らないのに、死ぬときは痛い? ふざけるな。馬鹿な人間が勝手に生んだ痛みを、なぜ私が受け入れなければならないんだ――そう、考えていた。そんな時期が確かにあったよ」
ヒナタは棚七の後頭部をきつくにらみつけた。「しかし、なんだ。お前の主張はそれで終わりかい、棚七ヒナタ。実にがっかりだよ。年上をうやまえだって? お前など、うやまったところで調子に乗るだけだ」
「なんだと……?」棚七が歯をきつくかみ合わせた。
「たしかに私は、そんなことを考えていた。しかし、その主張はね、テルくんに出会うことで変わったんだ。いや、テルくんが変えてくれたんだ。たしかに過去の自分は消えない。たしかにテルくんに不純な目的で、手伝いをしてもらった。でも、だからなんだい? 実行には移していない。自分の中で留めた。たしかにテルくんには迷惑をかけたさ。でも同時に助けてもらった! だからこそ、テルくんのことが……」
ヒナタの言葉が淀んだ。なにかに迷い、しかし振り切った。「テルくんのことが、好きになったんだ。お前だって……同じだろう!」
「一緒にするな……ッ」
耐え切れなくなった棚七が、テルから標準を外し、身体ごとヒナタへ向けた。隙が見えたが、ヒナタはトリガーを引かなかった。
ヒナタは言葉を改めなかった。
「いいや、一緒だね。お前は私と同じだ。ボタンを掛け違えているだけのことだ。ほら、これに見覚えがあるだろう?」
ヒナタは一枚の写真を、指先ではじいた。手裏剣のようにくるくるとまわりながら、棚七の足元に落ちる。
棚七の目が見開かれた。それはタイムマシンが完成したその日に、二人で撮った写真だった。まるで恋人のように、ヒナタがテルへ寄り添っている。
「……こんなものは、捨てた」
「物理的にか? どうせ、データは残っているだろ? 否定するならスクルドを渡してみろ。調べてやる」
「うるさい!」悲鳴のように、棚七が声をあげた。「私とお前は違う! 私はお前ではない!私はお前のようには笑わない――」
「――そんなことあるかよ!」今度はテルが声をあげる番だった。
棚七は首だけで振り返った。さきから何度も振り返るさまは、心の揺れを如実に表しているようだった。その目に涙はない。が、テルには泣いているように見えた。
遠くからひときわ大きな戦闘音が聞こえてきた。テルはそちらを見た。ヴェルダンディがとうとう、足元を崩されて、尻餅をついていた。遠くからでもスクルドの発する赤いランプの点滅が見えた。
テルは恥ずかしさを捨てた。
「ヒナタはヒナタだった! 大人びていても、身長が違ったって、中身は変わってない。俺の知っているヒナタだよ! なあヒナタ! もうやめようぜ、こんなこと! 考え直してくれよ!」
テルと棚七の視線がぶつかった。その瞳が揺れていた。
「約束するよ! すぐに証明はできないけど、かならず約束する! 俺は死なないから! ゼッタイに幸せになるから! だからさ、だから――」
そしてテルは終わりの言葉を口にしたのだった。
「――俺のこと信じて、見ていてくれよ!」
「あ……」
呟きを漏らしたのは、どちらの棚七ヒナタだったか。それが判別する前に、新たな言葉が三人を襲った。
それは遠く離れたヴェルダンディから発せられていた。外部スピーカーに乗せて、大音声が流れ出る。どうやら棚七ヒナタの声らしい。張りがあって、若い声質だった。
『メリークリスマス、テルくん!』と季節外れの文言から、それは始まった。『私からのクリスマスプレゼント・スクルドだよ! それで……えっとだね。テルくん。あー、その、なんだ。言いたいことはたくさんあるんだよ』
棚七ははっとなって、座しているヴェルダンディに目を向けた。すでにヴェルダンディは動けず、仰向けに倒れそうな機体を、動かぬ右手で支えているような不恰好な状態だった。それでも別電源で動いている通信器類および外部スピーカー類に問題はないようだ。
棚七の瞳の奥で燃えていた炎が、弱まった。
それから気がついたことは、M9が見当たらなかったこと。だが、それは直に見つかった。ヴェルダンディの座る、上空に飛び跳ねていたのだ。意図は簡単に読めた。貫通しない装甲に護られた自律装置である〈スクルド〉。その発明品を貫くために、重力を利用しようとしているのだ。全体重と落下速度の加わった突きを防ぐ術はない。ヴェルダンディは、すでに逃げられない運命の前に、座り込んでいた。
テルは、あ、と声を上げた。ヒナタも目を見開く。
「あ、やめ、や、やめろ――」棚七が動転した。指示を出すための小さな通信機器をポケットから取り出そうとするも、利き手がスタンガンでふさがっていて、うまくいかない。
『でも、そうだね……テルくんは、うん。あぶなっかしいところがあるからね!』
棚七はジャマだとばかりにスタンガンを放りなげると、白衣から目的の遠隔指示用機器を取り出した。口元に当てると、下げていた視線を前方へ戻す。
「――M9、やめろ! 戦闘中止だ! やめろ!」
テルは見ていた。ヒナタも見ていた。そして棚七も同じように、見ているだけしかできなかった。
棚七が叫ぶのと。
M9が刃の切っ先を装甲に打ち付けたのと。
そしてヴェルダンディが、断末魔の叫びとばかりに、音声をひときわ大きな音量で流したのと。
全ての出来事が一瞬のうちに交わった。
『私がそばで見守っていてあげよう! そしたら、きっと大丈夫さ!』
M9の武器である幅広の刃が、対象をしっかりと貫いた。
『それだけ! バイバ……』
ヴェルダンディの音声が途切れた。スピーカーが壊れたのではなく、データを保持していたスクルドが機能停止に追い込まれたのだ。
それからM9は待機モードに移った。命令に忠実に動いた結果だった。
「あ、ああ……」
棚七の手からマイクがこぼれた。自然と膝が折れると、臀部を地面にぶつけた。首が百合の花のように垂れると、棚七はきつく目を閉じた。
ヒナタはすばやく近寄ると、マイクではなく、スタンガンを拾い上げた。それから威力を調整し、拾ったほうの銃で標準をあわせる。目標は棚七。それは命中し、わずかに痙攣すると、棚七はどさりと崩れ落ちた。
テルは駆け足で近寄った。ヒナタに言う。
「撃つタイミングは他にもあっただろう? なんで今になって……」
「M9とかいう馬鹿げた機械を止めてもらう必要があったからね――それに」
言って、ヒナタはあらかじめ持っていたほうのスタンガンをテルに向けて、撃った。
「うわッ、あぶねえ!」
テルが避けるも、スタンガンはうんともすんとも言わない。
「安心したまえ、テルくん。これはM9に襲われたときに、故障したんだよ」
テルはあんぐりと口を開いた。
「それじゃあ、お前……」
「そうさ。ブラフを仕掛けていたんだよ。まさか疑われもしないとは」
ヒナタは倒れる棚七を見下ろした。「やっぱり、お前は私だよ……どうしようもなくね」
それはとても寂しい台詞だと、テルは思った。が、一つだけ、気になることがある。そのおかげで、うまく感傷に浸れない。
「な、なあ。それよりも」とテルがやっとの思いで口を開く。
「ん。どうしたんだい、テルくん」
「あ、えっと、その、なんて言えばいいのか」
テルの口はひどく重い。
「なんだい、気持ちが悪い。さっさと言いたまえ」
「ああ、分かった。そう言うなら……」テルは頷いて、ヒナタの下半身を指さした。「お前……なんでパンツ一丁で歩いてんだ?」
「――ッ」かあとヒナタの顔が赤に染まった。「こ、この……テルくんの、お馬鹿! 変態!ろくでなし!」
こうして一つの葛藤が幕を閉じた。
一人の少女と一人の少年。二人の出会いは、二人の少女を生んだ。それは紙一重の差で生じた、ボタン一個のかけちがいだ。
夜の向こうから、朝がやってきた。夜明けは近い。
*
目を醒ました棚七の目から、狂的な色が消えていた。
「……許してくれとはいわない。迷惑をかけたことは謝る」
そう言うと、こちらの答えを待たずに背を向けた。M9を指示して、F2とヴェルダンディを回収させていた。
回収間際、棚七はスクルドに開けられた傷をそっと指先でなぞると、すまない、と呟いた。
「おい、棚七ヒナタ」と棚七は言った。「お前をしばらく信じてやる。せいぜい励んで、成果を見せろ。それまでは命を預かっておいてやる」
「なにをえらそうに言っているんだ……」呆れ気味にヒナタは言った。「本当に私か? 性格が悪すぎる」
「いや、お前そのものだろ」とテルがつっこんだ。
「むきーッ! なんだい! テルくんの馬鹿!」
「そういうところだよ、まさしく」
「な、なななな!」
「――私を無視するなよ……」と棚七が多少傷ついたように、言葉を挟んだ。それからふっと笑った。
「なあ、ヒナタ」とテル。
横のヒナタが、ん、と顔を向けた。お前じゃない、と教えてやると、むくれた。
「ヒナタには今みたいな笑顔のほうが似合うよ」
「……そうかい」と棚七が顔をわずかに染めた。
ぶう、とヒナタが膨れる。
「タバコもやめたらどうだ」テルが肩を竦めた。僅かに恥じらいが見える。「似合わないし、身体にも悪いし。子どもを生むときも影響あるっていうし……」
真似するように、棚七が肩を竦めた。「大きなお世話だよ」
「テルくん! 私は吸っていないからな!」横のヒナタがここぞとばかりにピョンピョン飛び跳ねた。「子どもに害はない!」
「子どものお前には関係のない話だ」
テルが一蹴すると、ヒナタが頬をふくらませた。やけに絡んでくる。
「なあ」とテルは棚七に言った。「このままお前も平屋に住んだらどうだ?」
「……部屋が空いていないだろ」
「どうにかなるさ。適当だからな、うちの大家は」
「……優しくしないでくれ。つけあがる」棚七は、話は終わりだとばかりに歩きはじめた。「じゃあな、二人とも。またいずれ会おう。ただし、こちらはずっと二人を見ているよ」
「趣味が悪いな! お前は本当に私なのか?」とヒナタが背に声を掛けた。
「棚七ヒナタ。お前の趣味の悪さも大概だぞ。それにな」わざわざ立ち止まって、棚七は横顔を見せた。その口元がかすかに上がる。「覗き見は私の趣味なんだ」
そうして、棚七は朝日に照らされた校庭を去った。
「……格好つけしいだな」ヒナタがつまらなそうに言った。「そしてトラブルメイカーだ」
「お前と同じだな」テルが答えた。「ま、トラブルを解決してくれたけどな」
応酬は発生せず、二人してしばらく棚七の消えた方向を見ていた。
「あ! あの格好つけしいめ!」と声をあげたのはヒナタである。「動かないベルを放ったまま消えたぞ、テルくん!」
「……どうすんだよ、おい」
そうして見れば、校庭はひどい有様だった。土はえぐれ、ゴールポストは倒れ、意味の分からない機械が横たわっている。
「テルくん、手伝ってくれたまえ。お手伝いとしての腕前は評価している」
何故かヒナタは嬉しそうにそう言った。
「まあ、しょうがないか……わかったよ」
テルも答える。
それから数時間。発明品を駆使し、二人は元通りの校庭を取り戻した。
最終章/およびエピローグ/テル
テルは川沿いの遊歩道を走っていた。待ち合わせの時刻に遅れてしまう。
事件から数日後のことだ。暦は七月の一日を迎えた。
西天照市のビル群の上空に夕日が浮かぶのはまだまだ先のことだ。六月にはかろうじて〈暖かい〉と形容できた気温も、七月に入るとただただ暑いとしか言いようがなくなった。これが右肩上がりに増大していくと思うと、八月にはご退場願いたくなる――のだが、実はいいこともある。水遊びは気持ちがいいし、花火大会や祭りもあれば、冷やしたスイカやワラビ餅もおいしい季節だ。大家を筆頭にした男どもは、水着だの浴衣だのビールだの騒いでいる。動機は別としても、やはり暑さがくれた贈り物である。
そして、今日というこの日も、高気温に起因するイベントだった。ずばり暑気払いである。本来の暑気払いとは、暑さをしりぞけるために漢方や酒類を呑むらしいと、テルは住民に聞いたことがある。氷や水ではなく、そういったものを呑むことで暑さに打ち勝とうとしたらしい。もちろん地域によって差はあるし、単純に氷や水で冷やすこともあったのだろうが。
では平屋のそれはどうなのかというと、起源などお構いなし。呼び名を変えただけの宴会だった。長屋町平屋の人間にとっては起源や風習などどうでもいい。飲めればいいのだ。これが二日か三日、最低でも一週にいっぺんは開かれるのだから、暑さを感じている暇もない。
なのに名月テルときたら、暑気払いのその前に、汗だくだ。Tシャツが肌にべっとりとついて気持ちが悪い。
「はッ、くそ、はッ、なんで、はッ、待ち合わせなんてしなきゃ、はッ、いけねえんだ!」
愚痴りながら、それでも駆ける。揺れる腕時計を眼前まで上げた。四時二十九分。待ち合わせの〈第二大間橋の歩行者用通路〉は、その姿をやっと見せたところである。どんなに頑張ってもあと五分はかかるだろう。なのに、待ち合わせ時刻は四時半だ。
「くそ! ハッ、だから、はッ、女は、はッ、わからねえんだ!」
思い出されるのは、昨日のことだった。
⇔
テルが歩行者道路に打ち水をしていると、ヒナタがやってきた。かなり暑いのだろう。長い髪をポニーテールでまとめて、うなじを出している。また、白衣は腰に巻きつけていた。日干しされている昆布のように、逆さになった襟首がゆらゆらと揺れていた。
ヒナタは言った。
「テルくん、テルくん。聞いたかい? 暑気払いをするそうだよ。会費は千円で、他は例によって源一郎氏が出すそうだ」
「ああ、知ってるよ。七月最初の休みなんて、そんなもんなんだよ、昔からな。暑気払いなんて嘘っぱちだ。宴会がしてえだけだ。日中夜通しの場合もある」
「へえ。それは豪気だね」
「豪気? んなわけあるか。毎日がパーティーだぜヒャッホー、とか騒ぎ立てたおっさんどもがだな、翌日二日酔いに耐えながら仕事に行くんだ。それはもうおそろしいデス・パーティーだ。八月末まで続くからな。覚悟しておけ。俺は逃げるときもあれば、参加するときもある。が、おおかた逃げる」
ヒナタはふむふむと頷いた。
「パーティー、か。なるほどね……」
先日の戦いによって、ヴェルダンディは完全に故障したらしい。今は整備の終わったタイムマシンの横で、ふたたび動ける日を夢見ながら鎮座している。それまでは、小屋の自動扉はお預けだ。ヒナタはそれを忘れて、たびたび顔面を打っているので、最近は鼻の頭が赤い。
何を考えているのだろうか。ヒナタはアゴに手をあてて、唇をぷるぷるとさせていた。
「ねえ、テルくん。一つ、お願いを聞いてはくれないだろうか」
「ん。なんだよ。言ってみろ。出来ることしかしない」
ふふ、とヒナタは小さく笑い、それから表情を改めた。
「……うん。一度でいいんだ。外で待ち合わせをしないかい」
「待ち合わせ? どっかへ行くのか」
「いや、ここで始まるパーティーの、待ち合わせだ」
「……は?」テルの目が点になる。「お前、なに言ってんだ? 家、ここじゃねえか」
「もう!」ヒナタがテルのすねを蹴り上げた。
「いってえ!」バケツとひしゃくを思わず落としてしまう。薄く広く散くはずの水が、一箇所にこぼれた。乾いたコンクリートがきゅうきゅうと音を立てながらあっという間に水を吸い込む。「あ、やっちまった、めんどくせえ!」
「めんどくさいとはなんだよ!」
「ちげえよ! バケツの話だっての!」
ギャーギャーと騒いでいると、ヨウが自宅から顔を出した。「うるさい! 暑いんだから静かにして! こっちは夕食の献立考えるだけでも頭沸騰しそうなのに!」
鬼の形相だった。
二人して、「ご、ごめんなさい」と小さくなる。
「綿星ヨウは、なぜクーラーをつけないんだい。せっかく強化したのに。使い方が分からないのか? 文明人の肩書きが泣いているぞ」
「貧乏が身にしみついてる上にケチだからな。あいつも頑張ってるんだ、そう言ってやるな」
がらりとドアが開く。
「きこえてんだけど!」
二人して「ひいッ」と身をすくませた。
「とにかく……」ヒナタは無い胸を張った。「明日の四時半に待ち合わせだ。第二大間橋の歩行者用通路。名目はパーティーに行くから。分かったね?」
テルは無理やりに頷かされた。
⇔
テルは走りながら、さまざまなことを考えていた。ヒナタが現れてからの毎日は、まるで渓流下りのような勢いで過ぎていった。沈没しそうなこともあったけれど、なんとか無事だったのが幸いか。
不思議な奴だな、とテルは考える。一ヶ月前は赤の他人だったのに、いまでは平屋の一員だ。皆が慕っている。打算もなしに、単純にだ。ヒナタの性格がそうさせるのだろう。 子どもっぽくて大人っぽい。まっすぐだけど、馬鹿ではない。そしてテルの全てを受け入れてくれる。まるで母親のように――いやいや、とテルは首を振った。それは関係ないだろう。
どうにせよ、もうすぐ目的地につく。そしたらヒナタは怒るだろうから、遅れたことを謝ろう。そして汗を見せて、必死に走ったことをアピールし、許してもらえばいい。
不思議だ。いまじゃあ、会ってもいないのに、先の展開が分かる。まるでタイムマシンが頭の中にあるみたいだ。
『――わかった?』と母親の声が聞こえた気がしたのはどうしたことだろうか。
「わからん」と荒い呼吸の合間に答える。
本当に分からない。それなのに、どうしようもないほどに心は躍っているのだ。
待ち合わせ場所まであと少し。それまでに言い訳を固めておこう。
最終章/およびエピローグ/ヒナタ
ヒナタは欄干の上にアゴをのせて、流れゆく川面を見下ろしていた。夕日を反射してきらきらと輝くその様は、まるで電飾のようだ。そう。あのクリスマスの町のように。
ヒナタは時間を確認した。四時三十分。待ち人こず。どうやら遅刻のようだ。ふっとヒナタの胸に恐怖が去来した。目に映る水の乱反射が、とたんに恐ろしいものに見えてきて、顔を逸らした――その先に、彼は居た。
遠くからテルが走ってくるのが見えた。目をほそめると、ひいこらひいこら走っている様が見て取れた。息がつまるような気持ちが、あっけないほど簡単に霧散した。
「ま、どちらにせよ遅刻だけどね」
ヒナタは足元のスクルドを見た。赤いリボンがついているのは、プレゼントだからだ。それはあの日に渡せなかった、思い出の品。
テルは喜んでくれるだろうか。ヒナタはいつかのように状況を予測した。
この時空管のテルは少し違った反応を見せるだろう。つまらない顔をしながら、しかし黙ってヒナタの文句を聞いたあと、素直に謝る。が、そこで終わらずに自分がいかに頑張ったかを主張するに違いない。おそらくは背を向けて、汗を見せてくる。ふふ、と笑った。でもそれは、通常の場合だ。今回は違うだろう。
ヒナタは衣服を見下ろした。今日は白衣を着ていない。真夏だというのに、肩から白いポンチョをさげている。それはうっすらと黄ばんでいて、ある程度の年月を経てきたことが容易に見て取れた。そして頭にはベレー帽。こちらも生地がメルトンという毛羽立った素材なので、ずいぶんと暑苦しい。すべてクリスマスに着ていた服装であり、それも当たり前だった。
今日はヒナタにとっての大切な一日だった。けじめをつけるための一日だ。あの日から変わっていなかった自分を変えるために、状況を再現してみた。それは〈IF〉の自分を見て、決心したことだった。自分も変わらなければならないな、とそう考えた。いつまでも暗い想いを引きずっていてはいけない。
よって、テルの反応はこうだ。
『おまえ、なんだその格好。暑くないのかよ』
だから言ってやろう。
「大丈夫さ、テルくん。私は天才だから、発明品でいつだって涼しいんだ」
事実、ヒナタは汗一つかいていない。それからスクルドを渡してやろう。きっとテルは『重い』だの『だるい』だの言うけれど、最終的には『ありがとう』といってくれるはずだ。
さて、とヒナタは時計を見た。四時を回った時計は、すでに三十二分を示していた。ちょうど橋の手前までテルはたどり着いている。向こうからも、こちらの姿は見えているだろう。
ここまでくれば、あと三分。いや、二分ほどでたどり着くだろうか。ヒナタは口元を緩めて秒針を眺めた。五八秒、五九秒。三十三分になる。これで予定時刻を三分過ぎた。
私の予想は当たるかな、と自分だけの小さな遊びを楽しみながら、ヒナタは待ち人を静かに待った。あともう少し。あともう少しで、テルが待ち合わせ場所にたどり着く。そうしたら、答え合わせをしよう。
でも、その前に伝えることが一つだけある。ヒナタは頭の中で時間計算をしながら、来るべき時を待った。目算で、あと一分ほど。つまり一分後には、こんな台詞を言ってやるのだ。
もはや背伸びをしなくても届く欄干に頬を当てながら、ヒナタは小さく呟いた。
「テルくん。五年と一八九日と四分の遅刻だぞ。レディを待たせるなんて、ひどいテルくんだ」
少年はなんと答えるのだろうか。少女は知りたくて知りたくて、待てなかった。
――Thank you for reading. fin...
最後のテルくん。 天道 源 @kugakyuu
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