第4話「四つ目の幸運」

 その夜以降、不比等の機嫌は昼夜問わず殆ど常に最悪だった。彼女は表向きは私と歳の離れた親戚という関係で通していることから、公の場では私に対し常に敬語で接していた。そのはずなのだが、最近ではその言葉使いまでもが随分と荒れてしまい、挙げ句の果てには目線が合っただけでそっぽを向かれてしまう有様である。私にとってはそんな不比等の態度の方が、夢魔などよりもよほど心臓に悪かった。他の所員達といえば呑気なもので、不比等さんに遅めの反抗期がやってきた、などと隠れて面白がっている節があるので手に負えない。

 その一方で、あれから二月以上続いた黒猫の置物との奇妙な関係については、決して悪いことばかりではなかった。夜中に不比等に起こされたあの日以降、例の奇妙な夢を私が見続けていたかと聞かれればイエスと答えられるし、夢魔に取り殺されたのかという質問には、こうして後日譚を語っているわけなので当然ノーと答えるだろう。

 つまり、自分自身に起きたこのちょっとした事件について、私は誰に助けを求めることなく一人で解決することに成功したのである。こうして、私があの黒猫の置物を手に事務所に現れたのは、件の怪異によるトラブルがすっかり片付いた後のことであった。

 私が黒猫の置物のことを自分の夢と結び付けて説明すると、集まってきた所員達は再び不吉だとかでも可愛いだとか、謎めいた置物にめいめいの感想を口にしていた(勿論、ほぼ全てのメンバーが私の話など真に受けてはいないが。)。そして現物を見た瞬間、スマートで洒落た風貌の黒猫には皆どこか心惹かれたらしい。そのまま折角だからこの子を事務所の魔除けにしませんか、と盛り上がり、所員達は黒猫の置き場を決めるため数人で下階へと降りていった。

 そうして部屋に二人だけになるや否や、不比等は不信に満ちた視線をこちらに向け、問い詰める気満々の様子で腕組みをした。

 不比等は一度でも己の知識欲の対象になった事象について、未知の事柄が少しでも残ることを心から嫌う。何事においても白か黒かで決着を付けたいはっきりとした性分であり、それは自分が彼女と決定的に異なる部分の一つだと強く感じていた。一方の私といえば、割合のんびりした性格だと自覚しているし、同時に随分と楽観的な思考回路の持ち主だと自己分析しているのだから。

「諸平、一体どういうつもりだ?」

 厄災の元凶を公の場に持ち込んだことが、よほど気に喰わないのだろう。不比等は呻くように低い声で呟いた。今朝から私の機嫌が凄ぶる良いことも、彼女を更に苛立たせる原因になっていたに違いない。

「長らく心配させてしまい失礼しました。もうあの猫は無害ですよ。私が悪夢にうなされることも、夢魔が他者を苦しめることもないでしょう」

 不比等は珍しく私の主張に合点がいっていないのか、私の高らかなる勝利宣言に腹立たしげに眉を顰めた。

「不比等様に助けていただいたあの夜以降も、私は同じような夢を見続けました」

「そうだろうな。一度夢魔に魅入られた者は逃げられん。例外は、夢魔に呪い殺されないだけの強性欲者の場合か、それとも夢魔自体を祓うか、だ。お前にできるとすれば後者くらいのものだろうが、一体どうやって祓った? あの黒猫が原型を留めたままでいる状況も理解できん」

 前者を否定されたことに若干自尊心が傷ついた気がしたが、彼女にその部分を反論しても仕方がないことだと、喉元まで出かかった科白を何とか呑み込んだ。

「順を追って説明しますよ。まず、貴女に寝床で起こされたあの日、私は夢と現実での身体状況が連動していることを確認しました。夢の中で、夢魔に触れた指先が爆ぜた経験から、夢魔に全身を呑み込まれれば命取りになることは、私も理解したつもりです。ですから、以降は夢魔からの身体への接触を避けながら、けれど可能な限り至近距離で夢魔の性質を見極める必要がありました。そして、私の場合は三つの幸運が重なり合っていたために、それが可能だったのです」

 依然として渋い表情の不比等を前に、意気揚々と右人差し指を一本立ててみせる。

「一つは私が、普通の人間よりも著しく高い運動能力を持っていたということです。貴女であれば、これはよくお分かりかと思いますが。レム睡眠下での夢の中では、物理的な力や俊敏性といった身体能力は、最大で現実の数十分の一にまで落ちると言われています。同時に、正確に四肢の挙動を制御することも非常に難しい。私の場合もその法則は当て嵌まるわけですが、そこは多分に平時の能力に左右されますので。不比等様に授かったこの身体が役に立ったわけです。眠りに入る際に多少のまじないも用意したので、それが上手く効いてくれたのもありますが。夢魔は経験から、夢の中での人間の身体能力がどの程度のものか把握していたのだと思いますが、それが逆に命取りになったというわけです。夢魔よりも逃げ足が速ければ、一生捕まりようがありませんから」

「ふん。随分と不甲斐ない夢魔も居たものだな。自分自身の土俵である夢の中ですら、取り憑いた人間の動きに追いつけないとは。それで?」

 不比等はこれまで如何なる時も、私を『人間』として扱おうとしてくれた。それは彼女にとって術師としての自尊心の主張と言えるものなのかもしれないが、私にとっては心から嬉しく揺るぎのない言葉であり、この先も彼女の傍に居ても良いという、強い確信を思い出させてくれる瞬間でもあった。

 不比等に顎で促され、私は人差し指に続き中指を立てて説明を続ける。

「二つ目は、私が夢魔の餌となるような恐怖を、夢の中で感じることが殆どなかったということです。人の恐怖や怨嗟、そして憤怒といった負の感情を糧に、夢魔はより強大になります。そして、人が生み出す負の感情の量は、その人物の魂の重さに比例すると言われている。貴女が生み出してくれた作り物の私の魂は、他の人間と比べれば非常に軽く柔軟性に富み、そして外界との境界も曖昧です。だから、一般的な人間の負の感情のようなものは抱きにくいのでしょう。加えて、これまで夢魔が取り憑いた者に見せてきたであろう、人間の根源的な恐怖に対しても私は耐性がある。だから、夢魔は私を追い掛け回す夢を見せることはできても、逃げ惑う私に追い付くだけの力を得ることは叶わなかったのです」

「最後は夢魔が根負けし、私を呪い殺すことを諦めました。置物から自ら逃れようとした、その瞬間を狙って夢魔を祓ったというわけです」

 悪魔祓いの手法は古今東西様々であるが、今回は夢魔が実体を現した際に、シキミの葉を呪言と共に打ち付ける手法を取った。その昔、弘法大師空海は自らの修験にシキミを使ったというが、仏前に添えられるシキミは『悪しき実』から名が取られた通り非常に毒性の強い植物であり、魔払い・厄払いにも重用されてきた。私は朝、部屋を出る前に枕元の水差しに清めた水を満たし、その中に丸一日、シキミの古木から手折った枝を差しておいたのである。夜半には強力な聖水と化したその水を弱った所に掛けられれば、夢魔といえど無事ではいられなかったというわけだ。

「待て。まだあるだろう。三つ目の理由とやらはなんだ?」

 不比等はここまで話しても説明に納得がいかないようで、私を殆ど睨みつけたままであった。私はそこで少し思案した後に薬指を立て、最後の理由を口にした。

「あの黒猫は単純に私が夢魔に取り殺されぬように導いてくれていたのです。さながら夢の道案内役ですね。それが三つ目にして最大の幸運です。年経た道具には付喪神が宿るものですが、面白いことにあの置物には、付喪神と夢魔の二つの怪異が同時に入り込んでいた」

「そんな珍妙なことが、偶然起こるとは思えんが……」

 不比等は流石に驚いた表情を見せ、すぐには私の話を信じてはくれないようであった。付喪神は古道具が人の念を吸い意思を形成したものであり、自らが宿った道具の各部を四肢のように自在に動かすことが可能である。だからこそ、古来より人間が付喪神を目撃した際には、道具そのものに仮初の命が宿ったものだと解釈されてきた。とすれば、ある意味完成された呪物である付喪神付きの置物に、今更夢魔が入り込むことなどしないのではないかと、不比等はそう言いたいに違いなかった。それは長らくこうした家業を営んできた私達からすれば、ごく自然で自明の結論であった。

「確かに偶然ではないでしょうね。ですが人為的に、夢魔が後からこの置物の中に閉じ込められたのだとすれば説明がつきます」

 はっとしたように、不比等は私の顔を凝視したまま動きを止めた。一度そういう線で考え始めれば、この少々特殊な家業柄か、不比等も心当たる節はありすぎるほどにあるのであった。

「付喪神も、自分の根城の中に異物が入り込むのは嫌だったのでしょう。私の意識が夢魔に取り殺されないよう、必死に夢の中で私を手助けしてくれていたわけです。夢魔を自分の身体から追い出すためにね」

 我が主人は首を小さくため息を吐くと、壁に寄り掛かった身体を起こし私の前に歩みを進めた。綺麗なショートの銀髪がさらりと揺れ、まだ午前の白い日差しを浴びて眩い残光を放っている。

「言いたいことは分かった。だが、お前はまだ私に話していないことがあるだろう。夢魔はその人物が最も心惹かれる人物に化けてかどわかしてくるのだろう? それは抗い難い強い性衝動を生み、取り憑かれた者の自我を狂わせる。お前の如き貧弱な精神で、それに勝てるとは思わなんだが」

「貧弱な精神とはあんまりです。……それに、この部分についてはあなたに話すのは憚られると思ったので、あえて省いたのですが」

「なぜだ? いいから話せ」

 流石に鋭い。やはり今回も彼女に対して、論点をずらしてやり過ごすのは難しいように思えた。そして、この先の内容を果たして正直に彼女に打ち明けるべきか、という時間にして恐らく数十秒程度の逡巡が訪れた。これは自分の性癖を創造主に曝け出すに等しいことであり、周りに誰も居ないとはいえ気恥ずかしさを覚える。

「私も『男』として作られましたから、女性に心惹かれることは普通にあります」

「だから聞いている。ならばなぜ情欲に負け、夢の中で夢魔と性交をしないで居られたのかと」

 不比等の大きな紅の瞳には、今や未知への好奇心からの輝きが溢れていた。この状態の彼女を引き下がらせる方法を、私は未だに知らなかった。今の不比等は真実を話さない限り、あらゆる手を講じて私の真意を聞き出そうとしてくるだろう。こうなれば、素直に開き直って全てを打ち明けるしかなさそうである。

「……それは、夢で夢魔が化けたのが不比等様。貴女だったからですよ」

「私、だと?」

 流石の不比等もこの発言には面食らったようで、まるで尋問のように続いた厳しい声音に、明らかな困惑の色が混ざるのが分かった。不比等は時に私の思考回路や行動を『気色悪い』と評することがあったが、それらは全て私の彼女に対する、ある種の偏執狂的な愛ゆえの産物であった。私の行動原理の根幹にはいつも彼女の存在があるし、生き地獄などという表現ではまだ生ぬるい、辛く苦難に満ちた彼女の過去を知るからこそ、少しでも不比等を笑わせたい、楽しませたいという道化的な性分があることも否定はしない。私は彼女を、他の誰よりも愛している自信があった。

「一糸纏わぬ姿で、夢の中の貴女は私を優しく手招きしてくださいました。それも、これまで聞いたことのないような官能的な声と共にです。それはそれは婀娜やかで、妖艶なあなたの仕草は魅力的でしたと、一応最初に断っておきます」

「……諸平よ。お前は何故真顔で、真っ昼間からそんな気色の悪い科白を私に吐けるのだ」

 不比等は背を丸めるようにして、身震いでもをするかの仕草を見せた。

「お褒めいただき光栄です。ですが、今回夢魔を撃退できた四つ目の幸運があるとすれば、正にその点かもしれません。あのような端ない姿と声は、私にとって最愛の主人を愚弄されているに等しい。私の不比等様への敬愛の念は大きく、どんな事象にも比類されません。そんな愚行で私を魅了しようなど笑止千万。夢魔も私を見くびらないでもらいたい」

「何を偉そうに。言っていることと、夢の内容が矛盾しているぞ。創造主に欲情するなど、如何にもお前らしいといえばそうだが」

「誰よりも愛しい女性ですから、庇護欲や承認欲求だけでなく、己の好きにしてしまいたいという衝動が湧く時もあるのでしょう。夢魔が私から読み取った情報ですから、私の本心だったのだと思います。ですが、貴女を模した夢魔を目にしているうちに、私は怒りですっかり頭に血が上り欲情する所ではありませんでした。思い通りに人を魅了できなかった時点で、夢魔はマスターピースとしての本質を失う。一度力が弱まってしまえば、奴をあの置物から引き剥がすことなど造作ないことでした」

「なぜ、頭に血が上る。お前は夢の中で夢魔が化けた、私に欲情したのではないのか?」

「勿論しましたとも。まんまと奴の誘惑に負け、貴女の白い肌にうっかり指先を絡めるその寸前までいきました。ただ、私はその瞬間に気付いてしまったのです。不比等様の身体的な特徴を、夢魔が完全には模倣しきれていないことを。脇の下の黒子や内股に残る古傷など、本物の貴女にはある大切な証を夢魔は再現できていなかった。それで一瞬にして我に返ったのです。これは、目の前の女は不比等様ではないと。我が主人を愚弄する、卑しい悪魔が変化したものだと」

「……お前という奴は」

 不比等は眉間に指を伸ばし、次になんと話をしたものか、と頭を抱えている様子であった。やはり、呆れられてしまったか。分かっていたこととはいえ、これ以上蔑まれては私の自尊心も保ちそうにない。ここはさっさと話題を変えてしまった方が良さそうだ。

「そういうわけで、夢魔が出ていってしまった以上、あの置物はもう人畜無害と言っていいでしょう」

「いや待て。付喪神がまだ中に居るのだろう?」

 不比等は予想した通り、黒猫の置物の話題を出した途端に興味の矛先を変えたようだ。めでたしめでたし、と話を纏めようとした瞬間に、話を終わらせまいと口を尖らせる。私の夢魔の撃退劇に対してもまだまだ言いたいことがありそうであったが、それは別の機会に甘んじて受けることにしよう。早くしないと、下階から所員達が戻ってきてしまう。

「あれはあれで、なかなか可愛いものですよ。自らを本物以上に本物の、しかもこの上なく品があり美しい猫と思い込んで久しい。たまに勝手に他の場所に移動し、姿勢も変わっているかもしれませんが、せいぜいその程度のことでしょう。夢魔と比べればなんと愛らしいものではありませんか。付喪神と化す過程は知りませんが、余程当時の持ち主に大切にされた代物なのでしょうね。これまで助けてもらった礼も込めて、今後は我々の事務所で自由気ままに過ごしてもらいましょう」

「他の者が何と言うか……。事務所には、私達の本業を知らん者が殆どなのだが」

 不比等は溜め息と共に、所員が出て行った扉の方を眺めた。

「この件は、貴女に多大な心配を掛けさせてしまった。それについては心から申し訳ないと思っております。ただ、ご安心ください。私は決して貴女を置いて、一人で死んだりはしません。それだけは、貴女にいただいたこの魂に誓います」

 胸に拳を当てがい微笑んでみせれば、不比等はばつが悪そうに顔を背け、視線を窓の外へと逸らした。それが彼女の照れ隠しであることを私はよく知っていた。

 いつの間にか、時分は秋の入り口に差し掛かっていた。爽籟の調べを感じながら、薄手のカーディガンを不比等の肩に掛け、その華奢な身体を後ろから抱き竦める。不比等の身体の奥からはごく小さな、けれど確固たる心臓の音が聞こえてくる。彼女の身体は今この瞬間も、非業の命を淡々と刻み続けている。この少女は余りにも奔流で争い難い輪廻の流れに、今も昔も己一人で抗おうとしている。そんな彼女の手助けを、私でなくて誰がするというのだ。

 どんな状況でも、不比等は私のこの抱擁だけは嫌がったことがなかった。だから、私もこの行為だけは自分だけに許されたものだと信じて久しい。彼女の小さな身体に閉じ込められた、忿懣と痛哭、そして普く愛の全てを、私はこれからも精一杯慈しみながら傍で生きていきたい。彼女の生き様を見届けることは、私にとって他のどんな事柄よりも優先される、彼女の傍に居る理由なのだから。

 どれくらい、そんな姿勢のままでいただろう。この時間であれば紅茶を出そうか。それともいい豆が入ったばかりなので珈琲にしようか。これまでの身勝手も踏まえ、主人を存分に労ってやらねば、とあれこれ思案していると、不比等は肩を抱かれた腕を払い除け私を睨め上げた。ただ、その頬は未だ微かに朱に染まって見え、普段の凄みが半減していることは誰の目にも明白である。

「……諸平。ことの顛末についての些事はもう問わん。ただ、私は依然として気に食わんことがある」

 何を、と聞き返そうとして、突然不比等にタイを掴まれ首を屈ませられられた。次の瞬間、耳元で囁いた不比等の声音に思考が停止する。昨夜夢の中で夢魔が変じた、我が主と瓜二つの声音だと、そんな錯覚を覚えた。普段の彼女からは想像もできないほど艶かしく官能的な音に、急に心臓がどくどくと音を立て始める。夢の中とはいえ、一度は彼女の裸を抱き竦めかけた失態も思い出され、急に不比等の顔を直視するのが躊躇われてくる。

「……問題は、夢魔が模した作り物の私が、お前にとってどの程度魅力的に見えていたかということだ。今、お前の目前に居る私の魅力を、本当に一介の悪魔如きが模倣できるものか。それを確認しておきたい」

 耳に息を吹き掛けられ、堪らず主人の顔を覗き込めば、その頬が夢の中と寸分違わず上気した様子に驚き、背筋にぞくぞくとした震えが走った。

「……不比等様。ご冗談でしょう?」

「冗談だと思うか? お前の好きにしていいぞ。今この場で、私の全てをな」

 首筋をぺろりと舐められ、反射的に上肢が跳ねた。視線を下へと動かせば、彼女の片方の指先は既にブラウスのボタンに掛かっており、一つ一つ悩ましい手付きでそれを外していくのが確認できる。欲情するとかそういう以前の問題で、この状況はあまりに不味い、と必死で彼女の手中から逃れようと足掻く。こんな場面を所員達に目撃された日には、不比等はともかく私の社会的信用は失墜したも同然である。

「い、いけません不比等様。所員達がもう戻ってきます」

 澄んだ緋色の瞳はすっかり蕩けていて、この先の期待から薄らと潤んでいるようにも見える。主人が取った正気の沙汰ではない行動に、私の混乱は頂点に達しようとしていた。これが現実ではなく、それこそ夢魔が見せる夢の中ではないかという心配まで頭をもたげてきて、そんなはずは絶対にない、と一旦可能性を捨ておくも、あまりに強引すぎる不比等の行為に再びその線を持ち出してみるなど、どうにかして平常心を保とうと努める。

 たまらず後退りした際、背後にあった飾り棚にぶつかり姿勢を崩してしまった。無様にも仰向けに尻餅を付くと、私の腰上を跨ぐように不比等もまた膝立ちになっていて、髪を掻き上げながら上半身を屈めてくる。既に上半身は服がはだけ、白くほっそりとした鎖骨と黒い下着が露わになっていた。左の鎖骨の下に見える黒子は本物の彼女である証明で、実は夢を見ているのでは、という現実逃避的な希望すら捨てざるを得なくなる。

「……誰が見ていようと関係などあるまい。私にも、久々にお前を感じさせておくれ」

 左手の指先で撫でるように股間を弄られたことで、私の困惑は頂点に達した。今の私にできることといえば、目を閉じ視覚情報をシャットアウトしながら、ただ時間が過ぎるの待つだけであった。今だけは人並みの理性を与えられたことに感謝すべきか、あるいは嘆くべきか。まるで炎獄の中を彷徨っているかのような、気の遠くなるような長い長い時間だった。

 目を瞑ったまま不比等の行動をやり過ごそうとしていると、額に柔らかいものが触れる感触と共に、これまで感じていた彼女の体の重みが離れていったことで恐る恐る瞼を開いた。

 見上げれば、不比等はしてやったり、とばかりの満面の笑顔で私の様子を眺めていた。

「……この変態め。こんな芝居がかった色目にやられているようでは研鑽が足りんな。今の物音で竜胆達も戻ってくるぞ。ほらほら、腑抜けの所長様は部屋にでも戻って、遅れた分の仕事にでも精を出さんか」

 そう話し終えた次の瞬間、彼女の表情はいつもの詰まらなそうな仏頂面へと戻っていた。乱れた衣服を手際よく整え、不比等は私に興味を失ったのか、ぷらぷらと手を振りながらキッチンの方へと消えていく。私は暫くの間呆けたように、そんな奔放な主人の後ろ姿を眺めるしかできなかった。最後の最後に彼女に弄ばれたという実感が湧いてきて、むず痒い気分になるのも束の間。階段伝いに所員達の足音が近づいてきたことで気を取り直し、よろよろと立ち上がり執務室へと戻ることにする。

 結局、竜胆達の話し合いにより、黒猫の置物の居場所は玄関の陳列棚に決まったらしかった。その後の黒猫といえば、私の事務所をいたく気に入ったようで、今も玄関を主な塒とし嬉々として居座っている。不意に持ち場を離れ、所員の机の上や窓際など、想定外の場所で見つかることがあるのはご愛嬌である。


 もしかしたらあの黒猫は、ウィットに富んだかつて知古が、私達を試そうとして送りつけた挑戦状のようなものだったのかもしれない、と最近になって思うようになった。そういう少し変わった呪物や仕掛けが、この事務所内にはまだ幾つかあるのではあるが、その話はまた別の機会にすることにしよう。



悪戯心にご用心 fin

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