第3話「過保護」

 視線の先には見慣れた鉄骨の梁と、一定の速度で回り続ける無機質なファンがあった。電球色の吊り下げ照明がいやに眩しく、目を細めながら少しずつ周囲の状況を理解しようと全身に神経を行き届かせていく。私が横たわっているのは、紛れもない自室の寝台の上であった。寝汗をかいていたのか、首筋に残る不快な湿気が忌々しい。普段通りに思える光景の中で、小さな異変は二つほど生じていた。一つは寝巻姿の不比等が、不機嫌そうな顔で直ぐ目の前に立っていたこと。もう一つは彼女が、あの黒猫の置物を手に抱いていたことである。

「……不比等様、おはようございます。いや、今はまだ真夜中ですか。夜分遅くにいかがなさいましたか?」

「それは私の科白だ。仮にもお前には、他の人間と同じように弱く脆い命が埋め込まれていて、それが今の今まで脅かされていたのだ。助けてやったことに少しくらい感謝したらどうだ?」

 明らかに寝起きなのだろう。就寝用の帽子を被った小さな主人の第一声はいかにも辛辣だった。私達の事務所は地下部が自宅となっていて、私と不比等は普段そこで就寝をしていた。私達の日中の主従関係は仮初の姿であり、実際の彼女は私の創造主にして、唯一無二の主人でもある。だから二人だけの時、不比等の口調は日中と違いぶっきらぼうなものに戻るし、そもそも本来の彼女が笑うことなど殆どない。顰めっ面が多いのも、殆どいつものことであった。

「ということはやはり、夢の中で私を追ってきた暗闇は夢魔でしたか。この国で出会うのは珍しいですね」

 夢の中で遭遇した謎の暗がり。それに触れた左手の薬指に目を落とすと、ぱっくりと刃物で切り割かれたかの傷があり、滲み出した血は既に寝台のシーツを汚していた。痛み自体は大したことはないが、それなりに傷は深そうだ。

「諸平。お前、この置物を何処で手に入れた?」

 上半身だけ寝台から起こすと、指に付いた血を丁寧に拭き取り応急処置を施す。その傍ら、先日事務所への贈答品の山から拝借したのだと答えると、不比等は訝しげに首を捻った。

「こんな悪意の塊のような物を贈り物に寄越すとは、送り主は随分と意地の悪い奴のようだな」

 吐き捨てるように呟き、彼女は屈み込みながら私に顔を近付けた。見慣れた、けれど決して見飽きない真紅の瞳は濃い銀の睫毛に縁取られており、それに射抜かれたかと思うと、次の瞬間には視線を細かく動かしながら、不比等は私の全身の状態をくまなく確認していく。どこか身体の一部にでも変わった様子はないか。夢魔についての手掛かりはないかと、頭の毛の一本から足の指先まで具に観察されるものだからむず痒い。先程外傷を負った左手の指先は、特に念入りに確認された。

「指先に嫌な気配が残っているが、それは彼奴の足跡のようなものでしかないな。今はこの黒猫の中に戻っているのだろう。このままこの呪物自体を跡形もなく消滅させることもできなくはないが……。諸平、どうしてお前は夢の中で、夢魔に身体を触れさせた? お陰で、今やお前の記憶や人格の一部は奴に取り込まれてしまっている。別の解決策を見出さない限り、お前の中身が取り戻せん。だから諸平、お前はいつも不用意だと……」

 折角の整った顔立ちだというのに、眉間に皺を寄せたままではあまりに勿体ない、というのは普段から私が彼女に対し感じていることである。一応助手として事務所に籍を置いている以上、二十代中盤という年齢で通してはいるが、下手をしなくとも学生と間違われるくらい若く(幼く)見える、不比等の容姿は特別のものだと思う。正直、スーツなどではなく女性らしい衣装に身を包めば、方々から声が掛かるのではないかと今でも真面目に思うのだから。

 説教を続ける主人に対しそんな場違いなことを考えていると、邪な思いを見透かされたらしく、彼女は声を荒げた。

「何を関係ないことを考えている。よく聞け。お前はこの呪物に魅入られた。このまま今の夢を見続ければ、此奴の中に巣食う夢魔にいずれ取り殺されるだろう」

 取り殺されるという不穏な響き自体は、別に私にとって初めて聞くものではなかった。そうですね、と不比等に相槌を打ってから、上掛けから這い出るとサイドボードの水差しからグラスに水を注ぎ、続けて二杯を飲み干す。

「不比等様、起こしてくれてありがとうございます。貴女が居なければ四肢の幾つかはアレに持って行かれていたかもしれません。無意識下で肉体に干渉する力が、ここまで強い悪魔は珍しい。……ですが、実は試したいことがあったのです」

「試す、だと?」

 不比等が可愛らしい、そして素っ頓狂な声を上げた。先程、不比等は私の右頬を抓って痛みを生じさせたらしかった。余程強く捻られたのか、鈍い痛みは未だに続いていて、明日青痣にならなければいいがと心配になる。とはいえ、夢魔が見せる夢から逃れるには外的な刺激を加えるのが良いとされているので、不比等の行為はセオリーに沿った対処療法ではあるのだ。

 あの時、私に触れた夢魔は私自身の人格や記憶を取り込み、すぐに私が求める異性の姿に変化しようとしていた。あの白くほっそりとした指先の動きだけでも、生唾を呑み込まずにはいられないほどの強烈な情欲が内側から芽生えようとしていた。だからこそ最後まで、その姿を見届けたかったという未練も思い起こされる。

 それから、夢の中で夢魔に追いつかれるのを待っていた経緯を話すと、不比等は蹌踉めきながらベッドサイドに腰を下ろし、呆れたと言わんばかりの大きな溜息を零した。

「夢魔に追いつかれるのを、自ら待っていたというのか? 気がれているとしか思えん。私がこうしてたまたま傍に居たからよかったものを。諸平、夢魔のことを甘く見積もりすぎだ。実際は四肢の何本かなどという、生半可な代償では済まないだろう。きっとお前は今頃、何度目かの命を失っているに違いない」

 疲れ切ったように眉間に人差し指を当てがい、不比等は腹立たしそうに首を振る。

「もしそうしていたら、実際には五度目になるのでしょうか。ああ、でも。忙しくて今週間分の貴女のバックアップを取り損ねていましたね。今死んだらきっと不比等様に酷く怒られてしまいますね」

「……茶化すな。私はお前が初めて夢を見たと事務所で言っていた日、既にこの黒猫の存在には気付いていた。これが今後お前自身にトラブルを齎すであろうこともな。そして丁度、資源ゴミの回収日が翌日だったのでな。試しにこの置物をハンマーで粉々に砕いてゴミ置き場に出しておいたわけだ」

 いつの間にそんなことを。人知れず不比等が取っていた行動に驚きを覚えるも、不比等はもう一度溜息をついてから、右手で丁度首根っこを掴まれたような姿勢の黒猫の置物、正確には夢魔を睨みつけた。そのまま空中で彼女がパッと手を離すと、硬い陶器の置物であるはずのそれは、まるで本物の猫のようにしなやかな動きで床に着地し、私の方を何食わぬ表情で見つめてくる。

「これはもう此奴に完全に懐かれ、そして遊ばれているな。いいか。私は一度原型を留めんほどに細かく、此奴を砕いたのだ。それだというのに、此奴はいつの間にか身体を修復させ、何食わぬ顔でお前の部屋に戻って来たというわけだ」

「……なるほど。なかなかに厄介ですね」

 不比等の機嫌をまた損ねてしまうかもしれない。そう知りながらも思わず腹の底から笑みが溢れ出た。身体を傷付けられたにも関わらず、この時の私は未知の存在との攻防が楽しくて楽しくて仕方なかったのである。そんな私の不謹慎な様子を、不比等はますます鋭い表情で睨みつけ苛立ちを露にした。

「何を余裕ぶっている。お前はこの土塊に巣食う夢魔から逃れる事はできん。打つ手がないわけではないが、物体に固執した夢魔を引き剥がすのは骨が折れる。別の手を用意するまで、ニ・三日でもお前が凌げるのなら話は別だが」

「いえ、それなら大丈夫ですよ」

「大丈夫だと? なぜ簡単にそう言い切れる。夢魔は古来より人の夢に順応するという。人の記憶や感情を食し、成長し、力を蓄え、最後はその人物が最も愛する、そして欲情する対象者に姿を変え身体に触れようとしてくる。一度夢魔と交われば、生気を全て抜かれて仕舞いだ。今日と同じであれば、夢の中でだらしなく快楽を貪っている間に、お前の身体はボロ雑巾のように引き裂かれてただ肉塊になっているだろう。大体、お前のようなやわな精神で、この執着心の塊のような悪魔の呪いから逃げられると思うのか?」

 私の顎を指で持ち上げると、不比等は眦を細めながら真剣に私を眼差した。怒りが宿ってはいたが、それ以上の憂いと愛着とを孕んだ声音だった。

 この見た目可愛らしい主人は、苛烈な言動に反してなかなかどうして過保護なのだ。息子と言ってもいい私という存在を、どうしても放っておいてはくれないらしい。彼女が傍に居てくれれば百人力なのは間違いないし、人外が絡むどんな困難な状況でも、解決策を導くだけの叡智を備えていることも知っている。だが、己が蒔いた種くらい自分自身で積み取れないようでは、主人が安心してこうした仕事を任せてくれる日は永遠に来ないだろう。

「この黒猫がかどうかはこれから分かる事です。不比等様、過分なお心遣い痛み入りますが、この一件は私にお任せください」

「任せられんから、こうして眠い眼を擦りながら傍に来てやったのだろう!!!」

 声を荒げながら踵を返すと、不比等はもう知らん、とばかりに乱暴にドアを閉め出て行ってしまった。あれほど危険なものだと自ら説教しておきながら、黒猫の置物もその場に置き去りである。

 不比等の機嫌を損ねたことに小さな罪悪感を覚えつつ、これからどうしたものかと黒猫の置物を見遣る。目を離した隙に姿勢を変えたらしい黒猫は、持ち上げた後ろ足を舌で舐めているのか、どこまでも間の抜けた姿勢を取っていた。

 不比等には話さなかったが、自らが置かれた状況について、私は大分前からある仮説を立てていた。そしてその仮説は、砕かれた黒猫の置物が元通りになり、そして私の部屋に勝手に戻ってきたという、不比等の証言で真実へと変わった。不比等は置物の中に巣食う『夢魔』を全ての元凶だと語っていたが、単なる陶器製の器如きに、それなりの位を持つ悪魔が固執するとは思えなかった。そのため、私は今回の話についてはもう少しだけ、ことの事情が複雑に違いないと踏んでいた。夜な夜な書庫で古書を漁り、類似例を確認したことで大筋の目算も立っている。

 だからあとは、私が身をもってあれの姿を見届けさえすればいい。そうだ。夢魔が変化してみせる姿がである限り、私が夢魔に取り殺されることなど決してあり得はしない。私のことは、私自身が一番よく知っているのだから。


 煌々と瞳を輝かせる不可思議な置物と、毎夜遭遇する悪夢の正体。私は改めて、自分だけでその謎を解き明かそうと心に誓った。



>>第4話に続く

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