第2話「追い掛けっこ」

 その夢を初めて見た翌朝のこと。起き掛けに不安と高揚感が入り混じった、不思議な感覚に満たされていたことは今でも忘れられない。激しい動悸と共に掌にはびっしょりと汗をかいていたが、同時に今夜もこの夢の続きを見ることができるのだろうか、という僅かな期待が意識の縁に張り付き、日中も暫く離れてはくれなかった。

 私はこれまで夢というものを殆ど見たことがなかったが、にも関わらず最近になって急に同じような夢を何度も見るようになっていた。目覚めの瞬間、何かがおかしいという違和感を覚えるようになったのは、あの黒猫を自室に招き入れて一週間程が過ぎた頃からのことである。

 人間は夢を見た事実こそ覚えていても、その詳細な内容まではなかなか覚えていられない。例え寝起きの瞬間に覚えていたとしても、すぐに忘れてしまう。それはレム睡眠中に生じる脳のホルモンが影響を与えており、人間の生理現象に他ならない。そんな話をどこかで聞いたことがある気がするが、私についてはどうやらその例外に当たるらしかった。つまり、私は自分自身が見たその夢を高性能なビデオカメラで記録した映像のように、初めから最後まで鮮明に記憶の中に残すことができたのである。

 ある日の昼食時、私は所員数名と最近よく見る夢の内容について話をしていた。事務所では普段、昼食を外で食べるも他の職員と卓を囲むも自由であったが、月一度の食事会の時だけは、スタッフが集まり同じ卓で食事をすることが不文律となっていた。プロの料理人顔負けで料理の腕が立つ、竜胆遙りんどうはるかが一際目を輝かせながら働くのが月に一度のこの日である。予算こそなんとなく決めてはいるが、食材の買い付けからメニュー、コースの品々が食卓に並ぶまでの間隔まで、この日だけはランチに係る全てが彼女のプロデュースによるものとなるのである。(彼女の料理は単に美味しいだけでなく、ある特殊な事情を抱えた代物ではあるのだが、その話をするのはまた別の機会にしようと思う。)

 そういうわけで、皆が思い思いに事務所お抱えシェフの手料理を心から楽しんだ後のこと。食後は不比等が淹れる紅茶が振る舞われるのが通例であったが、自らの体験談も交えながら所員が面白がって話に乗ってくる中で、彼女だけはアールグレイの茶葉を保存容器から取り出す手を止め、一人不審な目線を私に送っていた。

「所長が見るというその夢、少し気になりますね。ここ最近の体調や、心労のためでなければいいのですが。もう少し具体的に、どんな内容か聞かせてください」

 不自然さを感じさせない理由と言葉遣いで疑問を呈した不比等は、いつものように日中の辣腕助手モードに入っていた。今日もいささかタイトすぎる真白のスーツに身を包み、先程彼女の顔ほどはある巨大なハンバーグを嬉々として平らげたばかりである。(不比等のみ、この日は必ず和風ハンバーグを作るように竜胆に頼んでいるらしい。)不比等は私の夢の内容を不審だと感じたのか、早く詳細を話さないか、といった様子で忙しなく目配せをしてくる。

「なかなか興味深い夢だよ。私は真っ黒な建物が立ち並ぶ深夜の街を一人走っていて、何か恐ろしいものに追いかけられているんだ。私は然程それに恐怖は感じてはいないのだが、なかなか自らの逃げ足が遅くて困ってる。すると、一匹の黒猫が突然私の前に現れるんだ。その猫は私の方を時折振り返りながら、ずんずんと路地に入って先へと進む。私は途中からその猫のことが、後ろから迫る化け物そっちのけで気になってしまい、後を付けるんだ。背後に気を取られそうになると、その度に高い声音で鳴いて黒猫は私の気を引こうとする。素早い黒猫の動きに翻弄されながらも、どうにか見失わないように後に付いていくと、いつの間にか背後に居た化け物を振り切っていることを知って、安堵感と共に目が覚めるんだ。初めの頃に感じていた不安感は不思議と今はあまりない。寧ろ、黒猫との競争を楽しんでいる感じさ。化け物や猫の正体については、未だに分からず仕舞いなんだけれどね」

「オチがない割に長いっすね。それを毎日? もっと面白い夢かと思いましたよ〜」

「可愛い黒猫ね。もしかして所長のことが好きなんじゃないの?」

「それより、所長は一体何に追いかけられてるんだろう。そっちの方が不気味だし、気になるけどな」

 悪夢に関わり、人に影響を及ぼすマスターピースの事例は西洋では早くから伝わっている。キリスト教におけるインキュバスとサキュバスがその最たる例で、これがユダヤ教になればリリスやリリンに転じるなど、同じ類型は枚挙に暇がない。人の意識に干渉し、性行為を迫ることが一般的には知られているが、悪魔の類に分類される存在のため基本的には人間を誑かし、生気を吸って死に至らしめることが共通の存在意義とされる。とはいえ、そんな物騒な悪魔がこのような小さな置物に棲むとは聞いたことがなく、私はその線での推察をこの時点ではまだしていなかった。

 所員は暫く思い思いの感想を口にしていたが、不比等だけは何のコメントもすることもなく、そのまま黙り込んだままであった。茶葉の蒸らし時間には拘りのある彼女の手は止まったままで、余程私の話した夢の内容に気を取られているようである。不比等は日中の業務に関係の無い知識が多すぎるがゆえに、以前からごく些細な事柄についても時間を割いて深読みしてしまう癖があった。加えて彼女の深読みと推理は十回に九回は杞憂で終わることを知っていたため、私は今回の夢のことも些細な出来事として捉えていた。

 だが今にして思えば、夢の中に見覚えのある黒猫が何度も出てくるという時点で、私は自身の異変に気付かねばならなかった。結局このまま昼食会はお開きになったが、追いかけてくる得体の知れない化け物と、前を往く奔放な黒猫。両者に挟まれながら暗闇を駆けるという奇妙な夢を、私はこの日以降も見続けることになった。こちらが一定以上近付くと俊敏な動きで逃げていき、暫くすると後ろを振り向き、早く追いかけてこいとばかりに美しい鳴き声で気を引く。そんな黒猫には私に対して何らかの意思や思惑があるように思えた。私は夢の中で黒猫を見失わないよう躍起になっていて、加えてこの頃になると背後から迫り来る黒いものの速度が、初めの頃よりも若干ではあるが上がっていることに気付くようになっていた。私の方は殆ど全速力で走っているはずだというのに、禍々しい何かの気配が日に日に間近に感じられるようになっていたのである。

 ある時、私は繰り返される同じ夢の中で、自分を追ってくる化け物の正体をいい加減暴いてしまいたくて、このまま相手の姿を確認してやろうと思い立った。この頃、私は一連の夢は『夢魔』が為す所業ではないかと考えるようになっており、その場合、気を払うべきは黒猫ではなく迫り来る追手の方に違いなかった。

 この頃の私は、自分の命を奪われる危険性については少しも考慮することもなく、逆に異変の正体を確かめずして夢から覚めてはならないと、自らが置かれた状況を目一杯楽しんでいたように思う。

 その日の夢の中でも、灯り一つない街中を私は急いでいた。狭い街路の左右には住宅街やオフィス街でよく見かける建物群に混じり、時折私の意識を強く惹きつけるシルエットが立ち現れた。この事務所を設立するよりもさらに前、かつて中野の裏通りにあった、馴染みの喫茶店の青い瓦屋根。図らずも再会を望んだ、芍薬を愛する未亡人が住む洋館。主人と共に決死の結界を構築した、高千穂に残る黒い鳥居と伏魔殿。夢の中でその街並みを形成するのはどれもこれもがよく見知った、そして私の中に深い印象を残した情景達の断片であった。先を往く黒猫が、そんな懐かしい景色が連続する街路を折れ曲がるのを追い、果てのない直線路に出た瞬間に実行を決断する。猫を見失わないように前方に気を払いつつ、背後から追ってくる何者かをじっと待つことにしたのである。

 前方では黒猫が必死に私を呼んでいた。何度もニャアニャアと鳴いて私を振り返らせようとしており、それは黒猫が背後から忍び寄る化け物に、私を引き合わせたくないがためのようにも感じられた。それでも、私は今日だけは逃げねばという本能を押し留め、全力で意識を目線の先の暗闇に向け続けた。

 人が見る『夢』に干渉するマスターピースは数あれど、相手の正体について確信さえ得られれば、その処方箋を私は複数持ち合わせている。だからこそ、例え追手の正体を確かめた後であろうと、私はそれから逃げ果せる自信を漠然とではあるが持っていたのだ。

 やがて、どす黒い塊のような相手が自分のすぐ後ろまで来たことを確認すると、私はおもむろに左手を暗闇の方へと差し出した。すると、黒霧のような闇の一部がゆっくりと隆起し、人間の腕のようににゅうとこちらに伸びてきて、次第にそれは女性の細腕を形成していくではないか。丁度人の右手が握手を求めるように突き出された状態で、それは私の左の薬指の先端に僅かながら、しかし確実に触れたと思う。

 闇が模ろうとしたものの正体を、あと少しで知ることができる。この闇が変化してゆくその先にある者の姿を、私は何故か分からないが心から切望していた。視界目一杯にその姿を収め、抱き締め、そしてその存在を愛撫したい。そんな強い衝動が理性を揺るがしてくる。『夢魔』の本質を理解した上で対峙したつもりであったが、本能に強く訴えかけてくる甘美なる誘惑と欲望が、次第に私の心を隅々まで覆い尽くしていくのが分かった。

 事件。怪異。そして夢魔。それらはもうどうでもよかった。今はただ、目の前に姿を現さんとしている女を、我欲の赴くままに貪りたい。そんなどろりとした情欲にいよいよ支配されそうになった次の瞬間、突然鋭い痛みを右頰の辺りに知覚し我に帰る。ほぼそれと同時に、今度は全身の意識を引き揚げられるような強い浮遊感に襲われ、私はその場に居残れないことに名残り惜しさを感じつつ、静かに瞼を閉じた。



>>第3話に続く。

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