【時代劇恋愛短編小説】清明と織葉の星結び ~風の詩が教えてくれたこと~(9,982字)

藍埜佑(あいのたすく)

【時代劇恋愛小説】清明と織葉の星結び ~風の詩が教えてくれたこと~(9,982字)

●第一章 風の贈り物


 春風が街を吹き抜けていった。石畳の上を、風に乗って桜の花びらが舞い、人々の足元をくすぐっていく。城下町の中心部、商人たちが軒を連ねる大通りでは、いつものように活気に満ちた声が響いていた。


 その喧騒の中、一際目立つ姿があった。


「あっ! 見て! 月影の若様がまた変なことしてる!」


 通りがかった子供が指を差す。見上げれば、豪商の屋敷の二階の窓辺に、一人の若者が腰かけていた。二十歳前後とおぼしき青年は、膝の上に一枚の紙を広げ、時折目を細めては空を見上げている。


「清明様、危のうございます! どうか中にお入りください!」


 屋敷の中から女中頭らしき老婆の声が響く。しかし青年――月影清明は、まるで聞こえないかのように、なおも窓辺に座り続けていた。


「風がね、面白いことを教えてくれるんだ。今日は特別な風が吹いているよ」


 清明は微笑みながら、誰に語りかけるでもなく独り言を呟く。その姿は確かに奇異に映るかもしれない。だが、彼の表情には不思議な清々しさがあった。


 月影家は、この街で三代に渡って呉服と染料を扱う老舗として知られている。現当主の月影篤志は、手腕と人望を兼ね備えた人物として評価が高く、街の重鎮として尊敬を集めていた。その一人息子である清明は、幼い頃から型破りな性格で知られていた。


 物心つく前から、彼は周囲の子供たちとは違う世界を見ているようだった。花に話しかけ、風の音を聴き、時には一日中空を見上げて過ごすこともある。普通の子供たらが興味を示すような遊びにはあまり関心を示さず、代わりに誰も理解できないような絵を描いたり、奇妙な歌を口ずさんだりしていた。


 そんな清明を、街の人々は「気の毒な子」と噂していた。商家の跡取りとしては不向きだと、誰もが頭を横に振った。しかし、両親である篤志と母・千世は、息子のありのままを受け入れ、深い愛情を持って見守り続けた。


「清明はね、私たちの宝物なのよ」


 千世はいつもそう語った。息子が描く不思議な絵を誇らしげに眺めながら、優しく微笑んでいたのだった。


「あの子には、誰にも真似できない特別な才能がある。ただ、まだその時が来ていないだけなんだ」


 篤志もまた、息子を信じて疑わなかった。


 そんな両親の無条件の愛に包まれ、清明は自分のペースで、自分らしく成長していった。


 一方、その同じ街の北側、高台に建つ立派な屋敷では、まったく異なる光景が繰り広げられていた。


「まだだ! もっと腰を落として構えなさい。その程度の構えでは、一流の武家の娘とは言えないぞ」


 稽古場に厳しい声が響く。竹刀を手にした着物姿の少女が、額の汗を拭いながら深く息を吸った。


「はい、父上」


 椿織葉は、再び竹刀を構え直す。向かい合う父・椿宗臣の鋭い眼差しに、思わず背筋が伸びる。


 椿家は、代々この地方の有力な武家として名を馳せてきた。現当主の宗臣は、先代からこの地の守護代を務め、領主の信頼も厚い。その一人娘として生まれた織葉は、幼い頃から並々ならぬ期待を背負わされていた。


「お前は椿家の跡取りだ。男子に負けない強さと気品を身につけねばならない」


 それは織葉が物心ついた時から、耳にタコができるほど聞かされてきた言葉だった。


 武芸、学問、作法、音曲――。あらゆる分野で、織葉は卓越した才能を見せた。十七歳にして既に、多くの大人たちを凌駕する実力を持っている。街の人々からは「椿様のお嬢様」と敬意を込めて呼ばれ、誰もが彼女の才覚を認めていた。


 しかし、両親の期待に応えるには、それでもまだ足りなかった。


「まだまだだ」

「もっと努力しなさい」

「お前ならもっとできるはずだ」


 どれほど努力しても、両親の言葉は変わらない。完璧を求める重圧は、日に日に織葉の肩に重くのしかかっていった。


 この日も、朝から夕方まで稽古に明け暮れた織葉は、夕暮れ時になってようやく外出を許された。着替えを済ませ、付き人の老女・おみねを伴って街に出る。


 買い物という名目だったが、実際は息抜きのための外出だった。おみねは織葉の心中を察して、あえて遠回りをするように促す。


「お嬢様、こちらの通りを参りましょうか。夕暮れ時は風が心地よろしゅうございます」


 織葉は小さく頷いた。確かに、この時間の風には不思議と心を癒す力があった。肩の力が少しずつ抜けていくのを感じる。


 そして――。


「風よ、今日はどこから来たの? 僕に素敵な物語を運んでくれたね」


 突如、上から聞こえてきた声に、織葉は思わず足を止めた。見上げると、二階の窓辺に腰かけた若者の姿があった。風に吹かれながら、何やら紙に向かって熱心に何かを書き付けている。


「まあ! 月影家の若様でございます。あの方、またこんなところで……」


 おみねが心配そうに呟く。織葉は眉をひそめた。街で噂の「変わり者」については、織葉も噂で聞いていた。実家が裕福な商家だというのに、まともな商売の修行もせず、いつも奇妙な行動をとっているという。


(なんて無責任な人なのでしょう)


 織葉は心の中で批判的に思った。自分は毎日厳しい稽古に励んでいるというのに、この男は何をしているというのか。両親からの寛容な愛情を、なんと贅沢に使っていることか。


 そう思った瞬間、若者が織葉の方を見下ろした。


「あ」


 織葉は思わず息を呑んだ。


 月影清明の瞳には、どこか遠くを見つめているような独特の輝きがあった。そして何より――その表情には、織葉が見たことのない種類の自由さが宿っていた。


「今日は、特別な風が吹いているね」


 清明はそう言って、優しく微笑んだ。


 その瞬間、織葉の胸の奥で、何かが小さく震えた。


●第二章 交錯する想い


 その日を境に、織葉の心に奇妙な変化が訪れ始めた。


 これまで当たり前のように繰り返してきた日々の中で、ふとした瞬間に、あの窓辺の青年の姿が脳裏に浮かぶようになった。厳しい稽古の最中、文字の練習をしている時、食事の際――。思いがけない時に、あの不思議な笑顔が記憶の中から姿を現す。


(どうして、あんな人のことを……)


 織葉は自分の中に芽生えた感情を、必死に否定しようとした。あんな責任感のない、周囲の期待に応えようともしない人物に、なぜ心を奪われているのか。それは織葉自身にとっても理解できない変化だった。


 しかし、否定すれば否定するほど、逆にその存在は織葉の心の中で大きくなっていった。


「お嬢様、今日はいかがなさいますか?」


 ある日の夕方、おみねがいつものように声をかけてきた。織葉は少し躊躇った後、小さく頷いた。


「ええ、少し買い物に」


 本当は、あの通りを通りたかっただけなのに。そんな自分の正直な気持ちを、織葉は認めまいとした。


 案の定、月影家の前を通りかかると、今日も窓辺には清明の姿があった。今日は何やら、大きな紙に向かって絵を描いているようだった。


「あ、また会えたね」


 清明は織葉に気付くと、屈託のない笑顔を向けた。


「今日は夕陽が綺麗だから、その色を写し取ろうとしているんだ。でも、なかなか難しいな……」


 織葉は無視して通り過ぎようとした。しかし、


「あ、待って!」


 清明の声に、思わず足を止めてしまう。


「君の着物の色、とても綺麗だね。夕陽に映えるあの藤色……描かせてもらってもいいかな?」


 突然の申し出に、織葉は戸惑った。しかし、清明の真摯な眼差しには、どこか惹きつけられるものがあった。


「……そんな暇はございません」


 精一杯冷たく言い放ったつもりだったが、声は少し震えていた。


 その日以降、織葉は意識的に別の道を通るようになった。しかし、心の中では確実に、あの青年への想いが育っていった。


 一方、清明の方でも、変化が起き始めていた。


「どうしたんだい、清明? 最近、絵の具をたくさん使うようだね」


 父・篤志が、息子の部屋を訪れた時のことだった。机の上には、これまで見たことのないような鮮やかな色彩の絵が何枚も広げられていた。


「ああ、父上。この前、とても綺麗な色を見つけたんです。あの人の着物の藤色が、夕陽に溶け込んでいく様子が……」


 清明は熱心に語り始めた。その瞳は、これまでにない輝きを帯びている。


 篤志は息子の変化を、静かに見守った。清明の絵は、これまでも独特の魅力を持っていた。しかし最近は、そこに確かな技術的な進歩が見られるようになっていた。色彩の使い方が洗練され、構図にも意図的な美しさが感じられる。


「この絵、街の呉服屋の大野さんが気に入ってね。柄として使わせてほしいと言ってくださったんだ」


 清明は少し照れくさそうに言った。


「それは素晴らしいことじゃないか」


 篤志は心から喜んだ。息子の才能が、少しずつ形となって現れ始めているのを感じた。


「ねえ、清明」


 母・千世が部屋に顔を出した。


「その藤色の着物の持ち主って、もしかして椿家のお嬢様かい?」


 清明は少し驚いたような表情を見せた。


「ええ、そうみたいです。街で見かけて……とても印象的な方でした」


 千世と篤志は、意味ありげな視線を交わした。


 その頃、織葉の方でも、周囲が気付かないような小さな変化が起きていた。


「織葉、最近少し剣が柔らかくなったね」


 剣術の師範が、稽古の後でそっと告げた。


「はい?」


「いや、いい意味でだよ。これまでの織葉は完璧を求めすぎて、どこか肩に力が入っていた。でも最近は、技に無駄がなくなってきている。力まず、自然な流れで剣を振れるようになった」


 織葉は我知らず赤面した。確かに最近、以前ほど自分を追い詰めなくなっていた。それは決して怠けているわけではない。むしろ、力を抜くことで、かえって自然な動きができるようになっていた。


「でも、わたくしはまだまだ修行が足りませぬ」


 織葉は慌てて言い繕った。しかし、その言葉は以前のように切迫感を帯びてはいなかった。


 その夜、織葉は久しぶりに涙を流した。両親からの期待と、芽生えつつある新しい感情の間で、心が引き裂かれそうになる。


 窓から覗く月を見上げながら、織葉は静かに問いかけた。


「私は、このままでいいのでしょうか……?」


●第三章 心の行方


 初夏の陽気が街を包み始めた頃、思いがけない出来事が起こった。


 織葉が付き人のおみねと市場に買い物に出かけた時のことである。普段なら決して立ち寄ることのない路地を通りかかった時、不意に耳に飛び込んできた歌声に足を止めた。


「♪風は僕らに 語りかける 遠い空から 届く言葉を……」


 清明だった。路地の片隅で、一人の老婆と向き合いながら、清明は優しく歌を口ずさんでいた。老婆は目を閉じ、静かに涙を流している。


「ありがとう……若様。今はもう亡き孫が、ちょうどこんな歌を……」


 老婆の言葉は途切れがちだった。清明は静かに頷き、老婆の手を優しく握った。


「おばあさんの孫さんは、きっと今も歌っていますよ。風に乗って、私たちのもとへ伝言を送ってくれている」


 その言葉に、老婆は深くうなずいた。


 織葉は、その光景を息を潜めて見つめていた。これまで「変わり者」と思っていた清明の、まったく新しい一面を目の当たりにしたのだ。


(私には、見えていなかった……)


 清明の持つ不思議な感性は、決して世間から浮いた異質なものではなかった。むしろそれは、人々の心の奥深くに触れる、特別な才能だったのだ。


 その日以来、織葉は意識的に清明の行動を観察するようになった。すると、これまで気付かなかった多くの発見があった。


 清明は確かに、普通の商家の跡取り息子とは違っていた。帳簿をつけることも、商売の駆け引きを学ぶこともない。しかし代わりに、彼は街の人々の心に寄り添っていた。


 市場の片隅で泣いている子供を見つけては優しく声をかけ、疲れた表情の商人には心温まる言葉を贈る。そして時には、自分の描いた絵を、何の見返りも求めずに人々に与えていた。


「若様の絵には、不思議な力があるんです」


 ある日、市場の八百屋の主人が織葉に話しかけてきた。


「うちの店に飾らせていただいている絵を見ると、お客様が自然と笑顔になられる。商売も、ずいぶんと上向きになりましたよ」


 そう言って主人が見せてくれた絵は、色とりどりの野菜が生き生きと描かれた作品だった。確かに見ているだけで、心が明るくなるような不思議な魅力がある。


「月影の若様は、確かに普通じゃありません」


 布問屋の女将も話に加わった。


「でも、あの方がいるおかげで、この街は少しずつ優しくなっているんです。私たちにも、気付かなかった大切なものを教えてくれる」


 織葉は、胸が熱くなるのを感じた。


(私は、なんて狭い考えを……)


 これまで自分が抱いていた価値観が、少しずつ揺らぎ始める。両親から教えられた「あるべき姿」だけが、本当に正しいものなのだろうか。


 そんな織葉の変化を、実家では良く思っていなかった。


「織葉、最近外出が多すぎるのではないか」


 母・美咲が、厳しい口調で言った。


「いいえ、必要な用事だけです」


「噂では、商人の街をうろついているそうね」


 美咲の言葉には、明らかな不快感が込められていた。


「椿家の娘が、商人風情と付き合うなどあってはならないこと。それくらい、分かっているでしょう?」


 織葉は黙って俯いた。胸の中で、反発あるいは反論の言葉が渦巻いている。でも、それを口に出すことはできない。


 一方、清明の方でも、大きな変化が起きていた。


「清明、この絵はすばらしいね」


 父・篤志が、息子の部屋に積み上げられた絵を見ながら言った。そこには、これまでにない生命力に満ちた作品の数々があった。風景画、人物画、抽象的な模様――。どれも見る者の心を捉えて離さない魅力を持っている。


「ええ。最近は、描きたいものがたくさん湧いてくるんです」


 清明は嬉しそうに答えた。


「実は、この絵のことで相談があるんだ」


 篤志は、一枚の書状を取り出した。


「隣町の有名な呉服問屋から、お前の絵を商品の模様として使いたいという申し出があった。かなりの注文になりそうだ」


 清明は目を輝かせた。これまで、自分の絵が誰かの役に立つとは考えもしなかった。それが今、思いがけない形で認められようとしている。


「僕にも、できることがあるんですね」


 清明の声には、新しい確信が宿っていた。両親が信じ続けてくれた「才能」が、ようやく芽を出し始めたのだ。


 その夜、清明は月を見上げながら、ある人物のことを考えていた。


(あの方に、この気持ちを伝えたい……)


 藤色の着物の少女。最初は厳しい視線を向けてきた彼女が、最近では時折、柔らかな表情を見せるようになっていた。そして清明は、その変化が自分の心にも影響を与えていることに気付いていた。


 二人の心は、互いに気付かないうちに、確実に近づきつつあった。しかし、その前には大きな壁が立ちはだかっていた。身分の違い、家族の期待、そして何より、二人それぞれの生き方の違い。


 運命は、この二人をどこへ導こうとしているのか――。


 そして運命は、思いがけない形で二人を引き合わせることとなった。


 七月の終わり、街の最大の祭りである「星祭」の準備が始まっていた。街は提灯や飾り物で彩られ、人々の表情も自然と明るくなっていく。


 その祭りの準備委員として、織葉は父・宗臣に命じられて参加することになった。武家の代表として、祭りの統制と進行を監督する役目である。


「椿様のお嬢様が指揮を執ってくださるとは、これは心強い限りです」


 商人たちの代表が、織葉に深々と頭を下げた。


 しかし、その場に思いがけない人物が現れた。


「月影家の清明様にも、ぜひご協力いただきたいのです」


 商人たちの間から、そんな声が上がった。


「若様の絵があれば、きっと祭りはもっと華やかになる。皆、そう言っているんです」


 織葉は息を呑んだ。清明と直接顔を合わせるのは、これが初めてだった。


「私にできることがあれば」


 清明は柔らかな笑顔で答えた。その視線が織葉に向けられ、織葉は思わず目を伏せた。


 こうして、二人は否応なしに一緒に仕事をすることになった。最初こそぎこちない空気が流れていたものの、準備が進むにつれ、少しずつ打ち解けていった。


「織葉様は、本当に几帳面ですね」


 ある日、清明が織葉の作った進行表を見ながら言った。


「当たり前です。これくらい、誰にでもできることです」


 織葉は素っ気なく答えたが、その声には以前のような冷たさはなかった。


「いいえ、誰にでもできることじゃない」


 清明は真剣な表情で言った。


「織葉様の几帳面さは、決して型にはまった堅苦しいものではありません。それは、皆のことを思いやる優しさから来ているんです」


 その言葉に、織葉は思わず顔を上げた。これまで誰にも、そんな風に言われたことはなかった。


●第四章 揺れる心


 星祭りまで、あと一週間となった頃である。


 深夜、月影家の明かりが、突然灯った。


「清明様! お熱が……!」


 召使いたちが慌ただしく走り回る。清明が高熱を出して倒れたのだ。


「大丈夫、心配しないで。少し休めば……」


 清明は力なく微笑んだ。しかし、その額には大粒の汗が浮かんでいた。

 

 実は清明は、ここ数日体調を崩していたのだ。それでも祭りの準備があるからと、無理を重ねていた。その疲れが、一気に出たのだった。


 その知らせは、翌朝には街中に広がっていた。


「月影の若様が倒れた?」

「祭りの飾り付けは、どうなるんだろう」

「あの方の絵がないと、寂しいねえ」


 人々の間に、心配の声が広がった。


 その噂は、織葉の耳にも届いた。


(あの方が……)


 織葉は、胸が痛むような思いに襲われた。今まで気付かなかったが、清明の姿を見ることが、いつの間にか自分の支えになっていた。


「行ってまいります」


 織葉は、珍しく自分から外出を願い出た。表向きは準備の確認という名目だったが、本当の目的は別にあった。


 月影家に到着すると、母・千世が織葉を迎えた。


「お嬢様、わざわざありがとうございます」


 千世の眼には、疲れの色が見えた。一晩中、息子の看病を続けていたのだろう。


「少しだけ、お顔を見せていただけないでしょうか」


 織葉は小声で頼んだ。本来なら、身分違いの男性の部屋を訪れることなど、あってはならないことだ。しかし今は、そんな決まり事も気にならなかった。


 千世は織葉の表情を見つめ、そっと頷いた。


「どうぞ」


 案内された部屋に入ると、そこには普段の清明からは想像もできないほど弱々しい姿があった。


「織葉……様」


 清明は、かすれた声で織葉の名を呼んだ。


「ご無理なさらないで。祭りのことは、私がなんとかいたします」


 織葉は精一杯の優しさを込めて言った。


「ごめんなさい。でも、約束は守りたいんです」


 清明は枕元に置かれた紙を指さした。そこには、祭りの装飾に使うはずだった絵の下書きが描かれていた。


「風が、きれいな物語を運んでくれたんです。それを、皆に届けたくて……」


 清明の言葉に、織葉は思わず涙がこみ上げるのを感じた。


 これまで自分は、なんて傲慢だったのだろう。人それぞれの生き方があり、それぞれの想いがある。清明は決して無責任なのではなく、むしろ自分なりの方法で、精一杯生きていたのだ。


「分かりました。でも、その代わり……」


 織葉は清明の手をそっと握った。


「早く元気になってください。そうでないと、私……私は……」


 言葉が詰まる。これまで決して見せたことのない、素直な感情が溢れ出そうになる。


 その時、廊下に足音が響いた。


「織葉!」


 振り返ると、そこには父・宗臣の姿があった。


「何をしているのだ!」


 宗臣の声が、部屋中に轟いた。


「父上、これは……」


「言い訳は聞かん! すぐに屋敷に戻りなさい」


 宗臣は織葉の腕を掴み、強く引っ張った。


「清明様、申し訳ございません」


 織葉は最後に一礼し、部屋を後にした。清明は何か言おうとしたが、声が出ない。


 その夜、織葉は父から厳しい叱責を受けた。


「お前は椿家の跡取りだ! 身分の違う者と関わることなど、許されないことだ」


「でも、父上! 清明様は……」


「黙りなさい!」


 宗臣の声が、部屋中に響き渡った。


「明日から、お前は屋敷から一歩も出てはならん。祭りの準備は、他の者に任せる」


 織葉は、初めて父に反論しようとした。しかし、


「もしまた会おうとするなら、月影家との取引をすべて停止する」


 その言葉に、織葉は凍りついた。月影家は、織葉の家の庇護の下で商売を営んでいる。その関係を断つということは、清明の家族に多大な損害を与えることを意味する。


 織葉は、深く頭を下げた。


「……分かりました」


 その夜、織葉は再び涙を流した。しかし今度は、自分の弱さを恥じる涙だった。


(私には、何もできない……)


 月が窓から差し込み、織葉の涙を優しく照らしていた。


 同じ月の光が、清明の部屋も照らしていた。


「織葉様が来てくださったんですね」


 熱は少し下がったものの、まだ床に伏せたままの清明に、母・千世が静かに語りかけた。


「ええ。でも、僕のせいで迷惑をかけてしまった」


 清明の声は申し訳なさに満ちていた。


「迷惑なんかじゃないよ」


 千世は優しく微笑んだ。


「あの方は、本当は優しい方なのね。きっと今まで、誰にも見せられなかった優しさを持っているのよ」


 清明は黙ってうなずいた。確かに織葉の中には、周囲の期待という重圧に押しつぶされそうになりながらも、確かな芯を持った優しさがあった。


「僕には、何もできないのでしょうか」


 清明は月に問いかけるように呟いた。


 その時、一陣の風が窓から吹き込んできた。カーテンが揺れ、机の上に置かれた絵が舞い上がる。


「あっ」


 清明は、その光景に目を見開いた。舞い上がった絵が、月明かりに照らされて、まるで生きているかのように見えた。


「そうか……」


 清明の顔に、決意の色が浮かんだ。


 翌日から、清明の様子が変わった。熱も徐々に下がり始め、代わりに別の種類の熱に取り憑かれたように、夜通し絵を描き続けた。


「大丈夫なのかい?」


 父・篤志が心配そうに尋ねた。


「ええ。むしろ、これまでで一番はっきりと、描くべきものが見えています」


 清明の目は輝いていた。そして、祭り当日を目前に控えたある日――。


「織葉様、これを」


 おみねが織葉の元に、一通の手紙を届けた。差出人は月影清明。中には一枚の小さな絵が入っていた。


 それは、月明かりの下で舞う藤色の着物姿の少女の絵だった。少女の表情には、言いようのない優しさと強さが宿っている。まるで織葉の心そのものを描いたかのようだった。


 そして、その下に短い言葉が記されていた。


『風は、私たちに自由を教えてくれます』


 織葉は、思わず手紙を胸に抱きしめた。


●第五章 風の導き


 星祭り当日。

 

 街は早朝から祭りの準備で賑わっていた。提灯が飾られ、屋台が立ち並び、人々は晴れ着に身を包んで街に繰り出す。


 しかし、いつもの星祭りとは、何かが違っていた。


「見て! あれ!」


 街のあちこちから、驚きの声が上がる。建物の壁や、通りに架けられた幕には、これまで見たことのないような絵が描かれていたのだ。


 風に舞う桜、夕陽に染まる街並み、笑顔で語り合う人々、そして月明かりの下で踊る少女――。どの絵にも生命力が溢れ、見る者の心を捉えて離さない。


「月影の若様の絵だ!」

「こんなにたくさん……大勢で描いたのかしら?」

「いいえ、全部お一人で……」


 噂が広がる中、織葉は屋敷の窓から、その光景を見つめていた。


(清明様……)


 心が、強く揺れる。


「織葉」


 背後から、母・美咲の声がした。


「もう、いいのよ」


「え?」


「行きなさい。あなたの行きたいところへ」


 織葉は、目を見開いた。母の表情には、今までに見たことのない優しさがあった。


「でも、父上が……」


「私が説得するわ。あの方だって、分かっているはず。娘の幸せが、何より大切だということを」


 織葉は、思わず母に抱きついた。


「ありがとうございます……」


 急いで着替えを済ませ、織葉は街へと駆け出した。祭りの喧騒の中、必死に清明の姿を探す。


 そして、ついに見つけた。


 大通りの一角で、清明は大きな絵を描いていた。まわりには大勢の人が集まり、その様子を見守っている。


「清明様!」


 織葉の声に、清明は振り返った。


「織葉様……」


 二人の視線が重なる。その瞬間、風が吹き抜けた。二人の間に舞い上がった花びらが、まるで祝福するかのように、きらきらと輝いている。


「私、分かりました」


 織葉は、精一杯の勇気を振り絞って言った。


「両親からの期待に応えることも大切です。でも、それ以上に大切なのは、自分の心に正直になること。清明様は、それを教えてくださいました」


 清明は、優しく微笑んだ。


「僕も、織葉様から多くのことを学びました。人を思いやる優しさ、諦めない強さ。そして、自分の生き方を見つけ出す勇気を」


 二人は、ゆっくりと手を取り合った。


「これからは、二人で見つけていきましょう。私たちの道を」


 織葉の言葉に、清明は深くうなずいた。


 その瞬間、祭りの提灯が一斉に灯された。夕暮れの空に、最初の星が瞬き始める。


 風は、優しく二人を包み込んでいた。


 そして風は今日も街に新しい物語を運んでくる。


(了)


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