六日目(最終日)
目が覚めて最後の朝食を食堂で取った。
パン、スクランブルエッグ、スープ。
もしかしたら、ここの住人たちはもう感覚が麻痺して同じものを食べ続けることに違和感を持たなくなっているのかもしれない。
昼前のバスで戻るつもりだから、部屋に戻ってテキパキと服をまとめてスーツケースに詰めていく。家についたら、また一人暮らしが始まる。ここの計らいでいくつかの行政手続きを代理で進めてくれるらしい。最低限の生活についても、定期的な作業をすることと引き換えに経過観察という名目で保障してくれるらしい。自分にどのような価値があるかはわからないが、価値がある、と思っている人間がどうやらいるらしい、というのは後々役に立つだろう。
ベッドの上で時間を少し潰して、スーツケースを引きずり一階に降りる。
入り口の受付で手続きをする。
腕時計を見た。
事故現場から回収された家族の腕時計だ。
自分が彼らのことを覚えているかぎり、彼らは生き続けているのだろうか。
バス停まで行くにはまだ早すぎる。
スーツケースを玄関前に置いて、通路を歩く、左手に窓があり、庭が見える。ドアを開けて庭へ入る。
ベンチには天使はいなかった。
代わりに小さな白い鳩が眠っていた。
踵を返して庭から建物に戻る。
受付に挨拶をして、スーツケースの取っ手を握る。
受付の女性が玄関のドアを開けてくれた。
「やあ少年」
玄関の先、敷地を出るところの門の前に天使が立っていた。
初めて天使が立っているのを見た。思っていたよりも背が高かった。
受付の女性が驚いた顔で天使を見て、所長、いらしていたんですか、と言った。
「お世話になりました」
天使にお辞儀をする。
「私は何もしていないが」
人間臭い感じで、天使は右手を口元に当てて苦笑した。
「いえ、有意義な時間だったと思います」
「そう、それならいいが」
「はい」
「少年は、また来てくれるかい?」
「ええ、そうなると思います。いつというのはわかりませんが」
「そうか。また会えるといいね」
「はい、それは僕も同じです」
「こんなに話せたのは久しぶりだったんだ。大体ここの人間は辛気くさいからね」
「ええ」
天使が自分から視線を外し、伏し目がちに言う。
「少年、私が言っていたことは、すべてでたらめなんだ。私は『天使』なんてものじゃない。ただの人間だ。マインドアップロードをした存在もいないし、人類の行く末を監視している存在もいない」
静かなトーンだった。
「そうなんですか?」
「怒らないのか? 私は嘘をついたんだ」
「いえ、たとえあなたが偽物だったとしても、僕はあなたと話せて楽しかったし、僕にとってはあなたは天使ですよ、そう思ってここを出て行きます」
「ああ、そうか、そうだな、それが少年の選択だというのなら、それを尊重するし、私としてもそうだと嬉しい」
天使がはにかんだように見えた。
「それじゃあ、行きます」
左手で取っ手を握ったところで、天使が右手を差し伸べた。こちらも右手を出し、握手をする。
温かい。
人間らしい体温だったが、別に天使の手が温かくても問題はない。
「風邪でも引かないよう健康に気をつけて暮らすように。私から言えることはそれくらいしかない」
「はい」
「いったん、さよならだ」
「またいつか」
手を離し、天使の脇を抜けていく。
下り坂でスーツケースが転がってしまわないように慎重にゆっくり歩き出す。
十メートルほど進んだところで一度振り返る。
天使が小さく手を振っていた。
それにこちらも右手を振り返す。
正面に向き直して、スーツケースを引く。
スーツケースのキャスターは地面の凹凸を直接伝えてくる。
手に伝わる振動が、自分が生きていることを証明してくれる。
これでここでの滞在が終わった。
天使との会話が今回の滞在の主目的だったのかもしれない。
天使がカウンセリングのようなことをしていたのだ。
だとしたら、自分に生きる道を示したかったのだろうか。
そう勝手に思ってしまった自分が微笑ましかった。
天使の本心はどうであってもいい、自分がどう思うかだ、天使ならそう言うに違いない
ただその方がどの作業よりも楽しかったし有益だった、それだけだ。
しばらくは天使との短い思い出を抱えて、生きていくことにしよう。
どうせまた来ることになるのだろうし、そのときはあの話の続きをすればいい。
そう、たとえば彼らがアップロードしたとき、自己同一性をどのように立証したかとか。
統合意思は本当に個人であるとみなせるのかとか。
話題はたくさんあるし、これからの生活でも増えていくだろう。
それまでは軽やかに生きていこう。
また明日から一人きりの日常に戻る。
とにかく、つまらない日常を大切に過ごさなくてはならない。
毎日を大事に生き、人生に感謝をしながら。
それが、生きるっていうことだろう?
時間を名乗る天使について 吉野茉莉 @stalemate
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