カレーのある生活
阿部蒼星
第1話
数年前のある春の日。足繁く通っていた書店の、料理本が並ぶコーナーを何気なくぶらぶらと歩いていた時のことです。
やたら黄色くて大きなポップが目に飛び込んできました。「スパイスカレーの世界へようこそ」ーーその一言に惹かれ、思わず立ち止まったその瞬間、頭の中で新たな世界への扉が開く音がしたのです。
そこの書店は書籍だけでなく生活雑貨の売り出しにも積極的でした。手芸の本のコーナーには毛糸やらくるみボタンが、料理本のコーナーにはレトルトパックや調理器具が一緒に並べられていました。件のコーナーには、スパイスの歴史について綴られた本や具体的なスパイス活用レシピの本と共に、なにやらくすんだ色の粉が入った小瓶や植物の種のようなものが商品として陳列されていました。
呪文めいたスパイスや調理器具の名称をみて、料理というより魔法薬の調合みたいだなというのが当初抱いた印象です。鼻の尖った老婆がぐつぐつと煮えたぎる鍋をうすら笑いを浮かべながらかき混ぜている、とそんなイメージでした。正直言って、この粉やら種やらがどうしたらカレーになるのか全く想像がつかず、なによりなんとなく敷居が高い気がしてなりません。それでも、その中で目に留まった一冊を手に取ってパラパラと捲るうち、「へえ、油や小麦粉をほとんど使わないのか」「ベタつかないから洗い物が楽なんだ」等、遠いように思えたものが案外自分が求めていたものに近いことがわかり、ひとまずその本を買ってみることにしたのです。
風邪をひいても、生理痛でしんどくてもカレーを食べれば元気になる。私にとって、カレーは昔から元気の源でした。
ところが数年前から、もう少々詳しく言えば三十歳を迎えたあたりから、カレーを食べると後から時々胃もたれや胸焼けが起きるようになりました。カレーを食べて具合が悪くなるなんて、三十年あまり生きてきて、この変化は予想外でした。元々胃腸が強くないのは自覚していました。ここ数年は特に脂物や刺激のある物は遠慮したり、気を遣っているつもりでしたし、私にとってカレーという存在は、健康かどうかのバロメーターとしての役割でもありました。
どうにかカレーを食べることを諦めたくないなあと悩んでいたところに、その本と出会いました。まさに天啓といえる出来事でした。自分が思い悩んでいたことの解決策が見えた気がして、帰宅後その本を読み終える頃にはすっかり作ってみるのもありかもな、と前向きな気持ちになっていました。
そんなことを思ってから早数年。今ではもはや、我が家ではルーから作るカレーライスよりもスパイスカレーが食卓に上がる確率が多くなりました。あの偶然の出会いから、あらゆるレシピを試すうちに、すっかりスパイスカレーの虜になっていたのです。
せっかくなので、本作でも具体的なスパイスカレーの作り方や具材の役割を紹介してみようと思います。尚、登場するスパイスや具材はあくまで私個人の好みのものとします。
主な材料は、玉ねぎ三つ、トマト四つ、小皿に移した粉状スパイス(カルダモン、コリアンダー、ターメリック、クミン)四種、ニンニク一片、生姜一かけ、ヨーグルトと水をそれぞれ1/2カップ。以上が基本のルーの材料です。あらゆる具材のなかでも私が特におすすめしたいのが茄子です。二、三本用意しておきましょう。
まず、玉ねぎはたっぷり入れたい派です。毎回、三つは用意します。ひたすらみじん切りにしましょう。
擦りおろしたニンニクと生姜と共に、焦げる寸前まで煮詰めた後の、ドロドロに甘いあの味が好きです。煮詰める前に一齧りした時の、口に広がった辛さはどこにもありません。
トマトは四つ用意します。一口大に切り分けて、ざっと鍋の中に放りましょう。美しかった赤色があっという間に飴色の中へと混ざっていくのをちょっと寂しく思いながらも、木べらで潰していきます。トマトから滲み出る水分が無くなるまで潰していき、見る影もなくなるほどになったあと、少し火を弱めます。
次はスパイスです。あらかじめ小皿に移し替えておきましょう。食品売り場のスパイスコーナーへ行くと、タネの形をしたものと粉状のものが売られていますが、個人的には粉状の方が扱いやすいので、今回も粉を使用します。分量はいずれも小さじ二杯程度。小瓶から皿へ移し替える時、ふわっと漂う香りが鼻をくすぐるのが好きです。日常生活にはない香りが、どことなく異国に連れていってくれる、そんな気がするからです。
カルダモンはジンジャーに似た香りのスパイスです。北欧では紅茶やケーキの味付けにも使用されていて、疲れた時にシナモンとカルダモンを紅茶の中に一匙入れると、いつもと違った香りとじんわりとした温かさとが混ざり合い、なんとも癒されるのでおすすめです。ちなみに香水の香料としてもよく使われていて、ラストノートと呼ばれる『最後の香り』に位置するとか。
コリアンダーは、元々は葉の形をしていて、実の部分はご存じの方も多いでしょうが、パクチーと呼ばれています。ちなみに花言葉は『隠れた美点』。わかる人がわかればいい、好きな人が好きであればそれでいいじゃないか、そんなメッセージがあるように思えるこの素材が、どうにも愛しく思えます。
ターメリックは、あらゆるものを黄色く染める、いわゆる色付けには欠かせない素材で、これを一匙でも加えたら一気にカレーらしさが増します。香りもそこまで強くないので、白身魚や焼いた手羽元なんかに絡めてみても良いでしょう。またの名をウコンともいって、肝臓疾患や生活習慣病の予防に強く、二日酔い防止ドリンクにも多く使用されています。
クミンは、香りを嗅ぐと、挽肉を炒めたような香りに甘さが強く残ります。シナモンに近いものを感じます。肉料理にもよく使われていて、カレー屋の前を通るたび香る匂いは、このスパイスの存在があると無しじゃ大きな違いがある、と思っています。
さて、このスパイスたちを鍋に入れて強火で一分ほど炒めたら、あとは水を入れて十分ほど弱火で煮込みます。
この十分の間にメインである食材の茄子を焼いておき、さらに洗い物を済ませておくと後々楽になります。といっても包丁とまな板、小皿に計量スプーンくらいなのであっという間に終了です。あとは付け合わせのサラダを作るなり踊るなりラジオでも聴くなり、なんなら掌編小説の一篇くらいは読めるかもしれません。十分って、意外となんでも出来るのです。
茄子――それは魅惑の素材です。
誰とでも相性良く付き合える、コミュ力抜群の人材がクラスに一人はいませんでしたか?私にとって茄子はそういう存在です。何に合わせても魅力いっぱい。切れ目を入れてこんがり焼けば、とろとろにほぐれた中身が顔を出します。外見はあんなに堂々と、丸々とはち切れんばかりの体つきをしているのに、中身はこんなに柔らかいのです。付き合えば付き合うほどズブズブとその魅力にハマっていく存在――それが茄子なのです。切れ目を下にして焼き、焼き目がついたところで裏返し、待つこと三分。焼き茄子の出来上がりです。
十分後、火を止めて鍋の蓋を開けてみましょう。鍋の中に、よく溶いてダマのなくなったヨーグルトを入れます。こうすると、まろやかさが増します。ここまで辛味成分のあるスパイスを加えていないのですが、もし辛いカレーを食べたければ五つめのスパイス、ガラムマサラを小さじ二杯入れると良い感じにスパイシーさが増します。
カレー皿に炊いておいた白米とルーを半分ずつ盛り、最後に焼き茄子を数切れ乗せると、本日のスパイスカレーの完成です。
暑い夏に食べれば夏バテ防止に、寒い冬に食べれば体の芯から温まって元気百倍、なんなら年中スパイスカレーを食べてもいい。今はそれくらい、大切な存在になりました。
さて、自分で初めてスパイスカレーを作った日から、一度きちんとしたカレーの味を知りたいと思い、暇を見つけてはそこかしこであらゆる店のカレーを食べる、というのが密かな楽しみになりました。私は今東京に住んでいて、しかも毎日通っている勤務地はカレーの激戦区と呼ばれている場所でもありました。スパイスカレーに出会わなければ、そこまで食事に興味のなかった私がその事実に気づくこともなかったでしょう。私の求めていた幸せはすぐ近くにあったのです。職場と保育園と自宅の往復で辟易していた毎日に加わったその楽しみは、まさにひと匙のスパイスの如く、私の生活に彩りを添えてくれました。
ある初夏の休日。家族で、函館に遊びに行く機会がありました。旅行の楽しみといえばご当地文具店で、お店限定の万年筆インクとの出会いを期待していたのですが、あいにくその日は臨時休業。いつもなら肩をガックリと落としているところでしたが、今回はさほどやる気を失ったわけではありません。美食の街と呼ばれる函館でカレーを食べてみたい、という野望があったからです。
函館旅行も佳境に入ったとある日の夜。子守りを交代でしつつ、それぞれ時間を決めて旅先の夜を楽しもう、という取り決めをし、私はお先にと一人、ホテル近くのカレー屋に来ていました。
駅前朝市のイカ釣り、函館ラーメン、ラッキーピエロのハンバーガー、ハセガワストアの焼き鳥弁当、五稜郭タワーのソフトクリーム。それは、筆舌に尽くしがたい素晴らしい食体験の数々でした。しかし、私はこれから心密かに楽しみにしていた時間を過ごすのです。お腹も気も弱い私は、せっかく旅先に来たのに美味しくない店は遠慮したいと、念入りに飲食店の下調べをするのが欠かせませんでした。今回ももちろん事前にグーグルマップで調査済みでしたが、さすが北海道というべきか、ホテル付近には大きな星たちが所狭しと輝いているようでした。
引き戸を引いて入店すると、すぐさま目の前にキリム織の色鮮やかな暖簾が飛び込んできました。嗅ぎ慣れたスパイスの香りがふわりと鼻腔を刺激し、思わず笑みがこぼれます。
通された席は天井まで届く高さの木製の仕切りが設けられていて、座ってみるとお店に一人きりのような気分です。これからこの場所にはカレーと私だけが取り残され、向き合う時間がやってくるのです。膨大な量のメニューから野菜のスープカレーを選び、しばし待つことにします。
店員が横を通るたび、次は私の番かしらと待つこと十数分。ようやく一人の店員によって、注文したカレーが運ばれてきました。
木製のトレーに乗せられてやってきたそれは、スープカレーとターメリックライスがそれぞれ別々の濃い藍色の深い皿に別れて並々と盛られていました。
まず目に入ったのは、一口では収まりきらないほどに大きめにカットされた玉ねぎです。他にもニンジンや茄子、青唐辛子、ゴロリと二つに割れたじゃがいも、うずらの卵、さらにはあまりカレーには入れたことのないアスパラガスや分厚い輪切りのレンコンが、やや焼き目のついた状態でルーの海に静かに沈んでいました。
料理本にはあまり具材を入れすぎても味がぼやけるのでおすすめはしない、とあったので、その光景はなかなかに衝撃的なものでした。自作のものとは当然ながら匂いも見た目も違うので、スパイスカレーを作り慣れてきた自分の勉強になれば、などと考えていたのがなんだか恥ずかしいことのようにも思えました。好きで始めたことなのに、完璧だと感じたものに対して感動よりも敗北感を感じてしまう、いつもの悪い癖が出てきてしまいそうで、鼻息が荒くなります。否、せっかく旅先で出会ったカレーなのだから、ここは純粋に食事を楽しむのだ、と改めて目の前の皿を見つめます。
気を取り直して、添えられたスプーンを手に取り、まずはスープから一口いただきます。
スープが喉を通った瞬間、濃厚なスパイスの香りと共に明らかな熱さと柔らかな辛さが喉を駆け抜けていきました。注文する際、辛さも選べるようになっていたため、今回は一番低いところからニ番目の、お子様やお年寄りでも十分に楽しめるぐらいに味付けされたスープにしました。おかげさまで、スープを口に運ぶペースはどんどんと上がっていきます。
上がっていく、といえば、函館山のロープウェイを思い出し、少し切なくなりました。生憎の雨と曇り空のため、息咳きって上り坂を登ったというのに、一見の価値ありとされていた夜景を拝むことが叶わなかったのです。旅行初日、ちょっぴり辛い思い出が出来てしまいました。そんな切ない気持ちも、スープと一緒に飲み込みます。
さて、ある程度スープを楽しんだあとは野菜たちを味わってみることにします。フォークの先でニンジンをそっと割ってみると、いとも簡単に小さく切り分けることができました。店によっては具材をオーブンでローストしたものを添えたりもするのですが、柔らかく茹でられたニンジンのとろけるような甘さは旅の疲れを癒してくれるような気がして、その素朴さに思わず頬が緩みます。その後も一口頬張ってはほう、と息をつき、皿の中が綺麗になくなる頃には、旅行前夜に緊張して眠れなかったことも、駅のホームでリュックが知らぬ間に全開になって中の荷物や道中捨て損ねたゴミがあちこちに散らばって、躓きながらそれを拾い集めた時の恥ずかしさも、たくさん歩いたのに夜景が拝めなくて落ち込んだことも、全部すっかりカレーの美味しさの前にはなんだかどうでも良くなっていて、カレーが美味しければまあいいか、とそんな気持ちになっていました。
上京してからというもの、結婚して、子供が産まれて、仕事を再開して――目まぐるしく変わる環境に身を置くうちに、いつのまにか食事を用意する時間への優先度は随分と低くなっていきました。地元に比べ、買ってきてすぐに食べられる惣菜が揃っているお店やコンビニがそこかしこにあるのは助かってはいたけれど、ゆとりのない生活に慣れきってしまったなと気づいてからは、なんだかそれがすごく寂しいことのようにも思えてなりませんでした。子供の泣き声を背中に聞きながら、とにかく味なんてそこそこに感じながら自分の食事は立ちっぱなしで済ませることの方が多くなって、ゆっくり食事を楽しむことの大切さなんて随分と自分の中では後ろの方に追いやっていたのかもしれないなあ、とふとそんなことを思った日も少なくありません。しょうがない、時間がない、倒れなきゃいい、淡々と買ったものを口に運ぶ行為は、食事というよりも作業に近い、そんな感覚でした。子供に対し、ちゃんと食べなさいと匙を持たせるたびに、ちゃんと食べるってなんだろうと自問したこともありました。
会計を済ませ、店を出るとすっかり外は暗くなっていました。空にはたくさんの小さな星が瞬いていて、久しぶりに星空というものをみたな、と小さな感動を覚えながらホテルに向かいました。
部屋へ続くドアを開けると、すかさず夫が人差し指を立てて口元に当てていました。子供はちょうど夕飯を食べ終えたところのようで、満足そうにツインベットのちょうど真ん中で寝息を立てています。傍には、地方限定のお弁当の空箱が転がっていました。
「俺の分も兼ねて買ってきたけどさ、ほとんど食べられちゃったよ。よほど美味しかったんだろうね」
苦笑いしながらも、さほど悔しそうに見えない夫の顔を見ながら、うんと頷きます。
「私も、おかげさまで忘れられない時間になりました」
「そんなに?星幾つの行ったの?」
ううん、とちょっと考えてから、こう答えました。
「たくさんキラキラしてたよ」
カレーのある生活 阿部蒼星 @1808209
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