異郷の地

 西の大陸の最北端にあり、入り口としても知られる貿易都市モイラ。商人の桃源郷とも謳われる其処は、東西南北中央大陸の大商人たちが高い賃料を払って店を構えている。その規模はモイラに行けば揃わないものはないと謳われるほどだ。夜になっても商店が閉まらず灯りが絶えないことから、別名眠らない都市としてもその名を広く知られていた。

 その地に一泊二日の船旅を終えて降り立ったルーキたちは、飲料の補充を素早く行うと賑わう都市の観光もそこそこに次の目的地ノルン領へと進路をとった。

 西の大陸は一つの貿易都市と二つの大きな領地から成り立っている。片方はルーキたちが目指すノルン領で、モイラから数キロ離れた砂漠地帯の中心に都市を構えている。もう一方はそれより更に南東にある領地で、オアシスを有するそこも海に面した場所ではなかった。必然、港はモイラにしかない。行き当たりばったりなトワの旅の目的地がノルン領以降どう続くにせよ、他の大陸へ赴くにはモイラを中継地点にするしかなかった。

 初めて降り立った異国の地にルーキやトワはもちろん、シルフィも浮ついた。しかし、もう一度立ち寄るのが確定している以上、観光はその時に済ませるべきだ、と。そう意見の一致を確認して、早々にモイラを後にしたのだ。

 船上で見るもの全て興味深そうにしていたトワは反対するだろうなとルーキは思っていたのだが、予想に反して彼女はあっさりこれを承諾した。

 曰く、はぐれを見つけたならそれらしいところを見せたいもの、と。

 全くもってよくわからない理屈であったが、駄々を捏ねられるよりはマシである。そう判断したルーキは口から飛び出した皮肉や疑問を飲み込むために賢明に口を噤んだ。

 そうして現在。ルーキたちはトワを護衛する形で陣形を取り、ノルン領へ続く道なき道を黙々と歩いていた。

 ルーキやシルフィが生まれ育った北の大陸とは違い、議会制が採用されている西の大陸ではインフラの整い方に大きな差がある。土地に恵まれ資源に富んだ領地は資金が潤沢なため社会インフラも生活インフラも整いやすいが、そうでない領地は明日の生活にも苦しんで社会インフラを捨てているところも多い。ノルン領はどうやら後者らしかった。それでも水源に近いモイラ周辺の道はまだマシだったのだと、砂を踏みしめながら来た道を振り返る。

 モイラ周辺は、獣道も同然だった。木々こそ生えていないものの、左右に背の高い雑草が生い茂っているせいで視界は極めて不明瞭。舗装されていない路面には大小様々な石が転がっている。加えてここ数日雨でも降っていたのか、濡れた際についたであろう車輪の跡が凸凹と不揃いな模様を地に刻んでいた。

 そしてそれらの道はノルン領へ近づくにつれて、今足元に広がっているような流砂へと徐々に変わっていった。

 ルーキもシルフィも、砂の海を歩くのはこれが初めてだ。歩き難いだろうと予想はしていたが、その予想の三十倍はひどい。さらさらと乾燥した砂はきめ細やかで柔らかく、それ故に非常に足を取られやすかった。一歩進むごとに足を飲み込もうとしてきて、姿勢を保つのも難しい。歩き慣れるまで何度もよろけ、都度ルーキとさはシルフィと互いに支え合った。

 この程度で音をあげるほど虚弱ではないものの、不安定な足場を行くのは無駄に疲れる。ルーキが辟易するのも仕方ないと言えた。

 一方で魔物と共存しているというフェーデの説明に違わない光景も目の当たりにした。ルーキたちとは逆にモイラへと急ぐ一団と出会したのだが、その荷馬車を引いているのがバイコーンだったのだ。流石にぎょっとして凝視したルーキたちに構うことなく、優雅に一団は通り過ぎた。漏れ聞こえる和やかな談笑がいっそ不気味ですらあった。

「本当に、共存できているのね」

 ルーキの思考を見透かすように、興奮冷めやらないといった調子でトワが呟く。ヴェールから覗くそのまろやかな頬は僅かに赤く染まり、息も乱れている。今日の日差しは然程強くないとはいえ、モイラを発って既に一時間弱は歩き通しだ。習慣的に体を鍛えてきたルーキたちと如何にもか弱そうな彼女の体力が同じぐらいあるとは到底思えなかったし、次第に疲れが見え始めているのはある意味当然のことだった。

「提案だ。休憩しよう」

 不意に殿を務めていたフェーデが声を上げた。振り返ると、こちらはけろりとした顔で足を止めてルーキたちを見ている。

「目的の都市セフィアードまでは今しばらくかかる。順調な旅路には適度な休息がつきものだよ」

「でも、」

「急いだところで君の目に映るモノの価値は変わらない。あまり焦ると襤褸が出てしまうよ」

「………………っ」

 眉間に少し皺を寄せ、ぐっとトワが黙りこくった。口元に残った貼り付けたような笑みが彼女の何とも言えない心情を表している。

 自分だったらどんな反応を返しただろうかと、戯れにルーキはたらればを考えてみた。自分以外疲弊した様子はなく、尤もらしい理由を挙げて休憩を中断される。あからさまに気遣われたわけではなくとも誰の為の提案かが一目瞭然になっている。それはら酷く屈辱的なことのように思えた。仮にルーキがトワの立場であったなら、お荷物扱いされたと受け取ってもっと強く反発していたかもしれない。

 トワは既に平静を取り戻したらしく、それ以上感情的になることはなかった。ガルダの影が伸びた位置にハンカチを敷いて其処に座り込むと、手渡された水筒を傾けてこくこくと美味しそうに水を嚥下している。先ほど見せたもどかしさは綺麗に払拭されていた。

 そういう姿を見るにつけ、だからこういうところが苦手なのだと、ルーキはその場に腰を下ろしながら内心舌打ちをした。何度目になるかもわからない感情の確認作業は、最早意地の領域に達している。恐らく、彼女と旅をしている間延々と続くだろう。我ながら底意地が悪いとも思うのだが、目に入る位置にその姿があるのだから致し方がない。

 トワが秘め事ばかりしていると言うのも勿論ある。美貌の下に何をしまっているのか得体が知れないからというのも当然ある。寧ろ、ルーキが彼女を嫌う理由の大半がそれだ。

 しかし、そもそも秘密のない人間などいないのだ。誰もが誰かに何かを隠しているし、馬鹿正直に腹の中全てを見せているのは赤子くらいのもの。ルーキとてそれは重々承知している。

 ただ、トワの場合はそれを差し引いても言いたいことの半分も言っていないように思えるのだ。何もルーキに対してだけ、というわけではない。殊更ルーキ相手に打ち明けていないだけで、シルフィもフェーデも、それどころかガルダですら彼女の本音を知らないように見えるのだ。

 それが、彼女をよりいっそう得体の知れないものに感じさせる。

「……ルーキも飲む?」

 視線に気づいたトワが嬉しそうに声をかけてきた。その手に持った水筒を差し出して、美味しいわよ、と無邪気に勧めてくる。

「いい」

「遠慮しないで」

「してない。だいたいオレも持ってる」

 ぶっきらぼうに固辞して、荷物の中から水筒を取り出す。残念そうにトワが小さく声を上げ、またちびちびと水を飲み出した。

 その姿を尻目に、でも、とルーキは己も水を飲みながら考える。

 もし水筒を持っていなかったとしても、トワの水筒は受け取れなかっただろう。彼女が口を付けたそれから水分補給することは気恥ずかしいことのように思われて、結局何だかんだ理由をつけて断っていたはずだ。

「青春をしているね」

 ルーキの隣に腰を下ろしたフェーデがのんびりと呟いた。

 うるさい、と返す声がみっともなく揺れたのは、気のせいだと思いたかった。



   *


 休憩を終え、すっかり砂漠と化した道を歩くこと数十分。人を襲うでもなく眠りこけているスケルトンや毛繕いをしているコカトリスなど呑気な魔物の姿にも慣れ始めた頃、ノルン領の中心地に作られた都市セフィアードが姿を見せた。

 一言で表現するなら、白亜の街。漆喰が塗りたくられた防壁がぐるりと街全体を囲っている様は圧感で、都市の積み重ねてきた歴史を感じさせる。

 フェーデに案内されるまま、ルーキたち一行はやる気のなさそうな門兵が立つ北門を通り抜けた。一歩中に踏み入った瞬間、喧騒が身を包む。想像以上の活気にルーキは圧倒された。

 セフィアード内部は外から見るよりずっと広く、精力的な都市だった。観光客や旅人の懐を目当てに立ち並ぶ商店の数はモイラに遠く及ばないものの、品揃えは豊富で目を楽しませる。西の大陸以外の人間も店を構えているようで、滑らかな象牙の肌をもつ東の大陸の女性が装飾品を売っているかと思えば、健康的で快活な笑顔の似合う飴色の肌――南の大陸の人間の特徴だ――の青年が武具の宣伝をしていた。

 貿易都市に負けず劣らず、色んな大陸の人がいる。西に住まう彼らの虐げられた歴史の知識しか持っていなかったルーキは、まずその点に大いに戸惑った。

 見下していたわけではない。そうではなく、こうも余所者を受け入れられる度量があるのかと、教わらなかった現実を前に狼狽えてしまったのだ。

 次に、飛び交う言葉の荒さ。粗野、とまではいかないが、口にするのも憚られるような表現が横合いから飛んできたりしてぎょっと目を剥いてしまう。有り体に言うと、品がない。自分たちの格を損なわせるような明け透けな物言いと強い語気は未知の世界のものにしか感じられない。

 ルーキでこれなのだからトワは大丈夫だろうかと、一番ふわふわした人物を視界に移す。存外けろりとした顔で人並みを縫って歩いている。ガルダがうまく彼女の通り道を確保しているのもあるだろうが、それにしたって動じてなさ過ぎる。

 門から伸びる大通りを抜けた辺りで、先頭を歩いていたフェーデが足を止めた。

「此処までが観光地――表の顔だ。領民たちの顔、裏を見にいくかい?」

 あまりオススメはしないよ。

 小さく付け足された補足にルーキたちは顔を見合わせる。そして、ばっと来た道を振り返った。

 商人の笑顔が、売り子の楽しげな声が、余所者を出迎える。度量があると思った。未知の世界だと感じた。それでも決して、拒絶は感じなかった。

 喧騒と活気に溢れたそれを、フェーデは表の顔だと言った。表があるからには当然裏がある。言い換えれば、今まで見てきたセフィアードは嘘と欺瞞で塗りたくられた場所ということだ。

 授業で習った西の大陸の歴史が蘇る。恐れがルーキの口を重くした。

「行くわ」

 トワは些かも恐れを見せず、フェーデを見上げた。柔らかな語調を裏切る力強さに、シルフィが感嘆の声をあげる。

「そんな形でよくたじろがないな」

「こう見えても私、図太いんです」

 音符が付きそうな弾んだ調子でトワが返す。初めて目の当たりにしたセフィアードが虚像だと知らされても、翡翠は一点の曇りもなく澄んでいる。

 怯えた自分がちっぽけに思われて、ルーキは視線を逸らした。声なくフェーデが笑った気配がする。

「それじゃあ、こっちだ」

 漆黒の服を翻して、大通りの半分ほどしかない細い路地に入る。その背を追いかけてすぐ、変化に気付いた。

 建物の造りが違う。商店が立ち並ぶ大通りは開放的且つ普遍的な造りのものが多かったが、此方は伝統の感じられる個性的な見た目の建物が多い。壁には独特な紋様が刻まれ、窓には硝子ではなくステンドガラスが採用され、兎に角隙間がなくカラフルで目に煩い。

 すれ違う人々の様子も先ほどまでとは異なる。表面上は普通だが、通り過ぎた瞬間、ちらちらと向けられる視線がある。悪意は感じないが、動向を窺うような、一挙手一投足監視しようとしているような、そういう居心地の悪さを感じずにはいられない。

 ごくりと喉が鳴った。進む足が鈍りかける。

「ここが、セフィアードの裏……何だか、素敵な場所ね」

 異様な雰囲気に気づいていないのか、きょろきょろと辺りを見渡したトワが瞳を輝かせた。そのままフェーデを追い越してふらふらと歩き出す。

「トワ様、私が先に行きます。あまり離れないでください」

 すかさずガルダが彼女の前に出た。視線だけでルーキたちにもトワの後ろを固めるように合図を送ってくる。確かに道中は魔物の脅威に晒される可能性を捨て切れず、武器らしい武器を所持していない彼女を護る立ち位置に甘んじていたが、護衛役を拝命した覚えはさらさら無い。

 思わず顔を顰めてしまったルーキの頭をシルフィが小突いた。

「こーら、あたしらの旅は彼女に同伴する、だろう?」

「…………護衛は引き受けてない」

「気持ちはわからないでもない。けどな、引き受けたも同然だ。ここでトワを護らず怪我をさせて、それが師範の耳に入ったらどうなると思う?余計厄介なことになるよ」

「それはそうだけど」

 こそこそと言葉の応酬を交わす合間にも、ガルダはトワの行先の安全確保に励んでいる。トワはトワで物知りなフェーデを側に呼ぶと楽しげにあれこれ質問を投げつけ出していた。紋様の意味、ステンドガラスの作り方などなど。その一つ一つに嫌な顔をせず丁寧に答えるフェーデの姿は輝いていた。思わず感心してしまう。

「ルーキ、見すぎだ」

 シルフィが咎めるようにもう一度ルーキの頭を小突いた。先ほどよりも鈍い痛みに非難を込めて見上げれば、彼女は視線から逃れるようにルーキの背を押した。

「ほら、ルーキは前。あたしは半歩後ろを行くから」

「俺が行く」

「ダメだ。まだあたしの方が強い」

 ふふんと得意げに言うシルフィに、彼女との間についた白星の差を思い出す。彼女に勝てなくて構わないという想いは変わらないが、こう引き合いに出されると些か気分を害される。

「きゃっ!」

 どすりと鈍い音がした。慌てて出所を見ると、衝撃を受けた様子でトワがよろめいている。危ない、と半ばルーキは反射で手を伸ばしたが、それよりも早く彼女の先を歩いていたはずのガルダが軽々とその体を支えた。行き場を失った手が虚しい。

「大丈夫ですか、トワ様」

「え、ええ。でも」

 不安そうに、トワが視線を下にやる。近づきながら視線の先を追って合点する。彼女の目は、尻餅をついた子どもを捉えていた。恐らく怪我をしていないか心配しているのだろう。秘密主義で散々にルーキを苛立たせる天才ではあるが、その性根が清く優しいことはルーキにだってわかっている。

 だから、トワが心の底から子どもを心配していることは疑っていなかった。それは傍目にも明らかのはずで、子どもが立ち上がりさえすれば何の問題もなかったはずだった。

「――?」

 唐突に、辺りが不穏な空気に支配されていることにルーキは気づいた。呼吸をすることさえ憚られるような、張り詰めた空気。

 動揺したルーキがシルフィの袖を引けば、微かに頭を振られた。どうやら彼女もこの異様な緊迫感の正体を掴めていないらしい。トワを支えているガルダは、と見ると、一見していつも通りであるが、その実その手はしっかりと剣に添えられていた。

「……ああ、これは少し面倒な事態になったかな」

 一連の流れをやけに静かに見ていたフェーデが小さく小さく呟いた。風に溶けるほど小さな呟きはともすれば恐ろしさすら感じられるほど無機質で、思わずルーキは言葉に詰まった。尋ねたい言葉が呆気なく霧散する。

「大丈夫?」

 その異質さを感じていないはずがないのに、ガルダからそっと離れたトワは優しく子どもを気遣った。服が土に汚れるのも構わずに膝をつき、柔らかな微笑みを乗せて手を差し伸ばし、

 ばちん、と。音が鳴った。

「ご、ごめんなさい!ごめんなさい!!」

 一瞬、何が起きたのかわからなかった。

「……え?」

 はじかれた手を不思議そうに見つめた後、トワがきょとんと目を丸くする。怯えた様子で平伏する子どもが理解できなかったのかもしれない。なぜなら彼女に悪意はなく、怒りもなく、ただ子どもに対しての思いやりだけがあったからだ。

 それでも、それが何の意味もなさないことぐらい、ルーキにだってわかった。

 ここは、褐色の民が住まう場所。虐げられた歴史を持つ者たちが暮らす場所。 

 暴力沙汰は覚悟していた。そこまでいかずとも、悪態ぐらいは頻繁に耳にするだろうと思っていた。ルーキ自身には身に覚えのない罪でも、人の感情はままならないものだから仕方がないとすら思っていた。同じ肌を持つ先人がそれほどのことをしでかしたのだと学んでいたから、ある程度は嫌な思いをするだろうと考えていた。だが。

「ごめんなさい!ごめんなさい!」

 謝る子ども。周囲から寄せられる怯えた視線。緊迫した空気。

 これは、予想外だにしていなかった。予想できるはずもなかった。

 きっと恨んでいるだろう。報復してくるだろう。復讐されてもおかしくない。そう加害されることばかり考えていたから、恐怖の眼差しに全身が凍りつく。畏怖の表情に思考が停止する。

 彼らは、怖いのだ。今になっても怖いのだ。トワの肌が自分たちとは違うというそれだけで、彼女の善性は無視される。彼女の思いはゆがめられる。

 善意は悪意に、優しさは冷たさに、心配は怒気に変換される。

 だがそれは、どうしようもないことなのだ。一度でも歴史がそうであると証明してしまったことを、今の一瞬で覆すのは難しい。

 地べたに痩せ細った体を伏せてただ謝り続ける子どもに、泣きそうに翡翠が潤んだ。

「いいの、ねえ、いいのよ」

 トワがはじかれた手を恐る恐るのばして子どもの頬に添える。労わるように、そっと。壊れ物に触れるかのような繊細な手つきだった。だが、それにも子どもはびくりと大きく身を震わせて、恐怖に掠れた声で謝罪だけを繰り返す。

 異様だった。異常だった。だけど、それが当たり前であるかのように周囲で息を潜める人たちは何の助け舟も出さない。来てもいない嵐が通り過ぎるのを、ひたすら待っている。

「そんなに謝らないで。誰も怒っていないわ」

「でも、服が」

「何も汚れていないわ。汚れていたとしてもいいの。アレンジしたら気分転換になるもの。だからそんなに謝らないで」

 ね?と殊更穏やかに言葉を紡ぐトワは相変わらず微笑んでいたが、どこか泣くのを堪えているみたいだった。それでも、その言葉の芯は崩れない。向けられる視線も感情も受け入れて、いつも通りに笑ってみせる。

 それが通じたからか、怯えたように瞳を震わせていた子どもがくしゃりと顔を歪めた。

「だ、って……でも、鬼は、怖いよ。怖いんだって、知ってるよ」

「……おに?」

「うん」

 あまりに無垢に紡がれたその蔑称をトワがぎこちなく繰り返して、少しだけ項垂れた。

 鬼。東の国に住む人々の想像が生み出した、架空の生き物。人を喰らう、化け物の名だ。

 どうしてそれを西の大陸に住む彼らが北の大陸の者を指す名称に選んだのかはわからない。

 だが、きっと彼らは幼い頃から寝物語に聞くのだろう。

 海の彼方からやってきた、鬼の話を。

 長く先祖を苦しめた、悪鬼羅刹の話を。

「愚かだよね」

「――!?」

 唐突に背後から割って入った涼やかな声に、ルーキたちは驚いて身を翻す。

「かつて僕たちの祖先は悪魔の子だと言われ、虐殺された。罪による穢れが外見に表れているのだと、死を以て禊を済ませろと虫けらみたいに殺された」

 そこには、小さな龍の魔物を腕に抱いた少年がいた。年は、ルーキより二つ三つ下に見える。あどけなさを残した面差しは幼くすらあったが、そうは思えないほど達観した雰囲気を纏っている。淡々と感情を滲ませない声は刺すように鋭く、神秘的な黒曜石の双眸には冷ややかな光が宿っていた。

 全体的に酷薄な印象の強い少年だ。時折宥めるように龍を撫でる手つきだけが優しい。

 立ち尽くすルーキたちを一瞥した少年はトワの近くまで歩を進めると、顔面を蒼白にした子どもを見下ろした。

「おかしな話だよね。外見一つで虐殺の限りを尽くした者たちこそ、悪魔の魂を持つ者に相応しいのに。正義も歴史も、常に都合よく改竄されて、都合よく被害者ぶる。そして、都合よく忘れるんだ」

「お前、は」

「ノア。ここの領主だよ。領民が迷惑をかけたみたいだね」

 一眼見て愛想笑いだとわかる笑顔を貼り付けた少年――ノアが両手を広げる。

「悪く思わないでほしい。僕たちの歴史は君たちとは別の視点で紡がれ、継承されてきたんだよ」

 堂々と紡がれた主張にトワが立ち上がる。風に金糸が泳いだ。

「……だから、この子はこんなにも謝るの?」

「そう。紡がれる歴史の全てが正しくはなかったとしても、虐殺されたという一点だけは揺るぎのない事実だからね」

 その言葉は重かった。

 三百年も前に隷属の歴史は終わりを迎え、かつて失った自由を彼らは得た。だが、世代が交代しようとも、恐怖だけは骨身に染みて残っているのだ。その土地に生きる者にとっては、まだ三百年なのだから。

「――とは言え、僕たちは完全な被害者でもない。君たちも原罪を背負って必要以上に加害者になるべきではない」

「領主様!?」

「外で同胞が馬鹿みたいに暴力を振るっているのを、他の民族を貶めて優越感に浸っているのを、見ないフリはできないでしょ。皮一枚剥いだら同じだと身をもって知っているのに、僕たちの愚かな同胞は承認欲求や差別意識で簡単に嫌う者と同じに成り果てたんだ。――あのさ、僕たちが蔑んだ鬼は、例外なく僕たちの中にもいるんだよ」

 悲鳴じみた声を上げた領民をノアはにべもなくあしらった。誰もが言葉を失う中で、彼はただ淡々と続ける。

「肌の色が違うからと攻撃する馬鹿も、君たちみたいに過度に恐れる馬鹿も、全部同じ穴の狢なんだ。根本的に、こと差別問題において僕たちは誰もが被害者で加害者になることを知っていなければならない」

 それもまた、一面の真実だ。されど誰もが持てる視点ではない。

 多くの者は弱く臆病で、小心でありながら傲慢だ。自分が加害されることには敏感でも、他者が傷つくことには鈍感だ。身分、種族、年齢、職業。一つでも隔てる壁が両者の間に立ち塞がれば、相手に同じ心があるということを容易く忘れてしまう。俯瞰して見なければならない物事を主観だけで判断し、他人に寄り添わねばならない物事を主観でのみ語り、勘違いのまますれ違いを起こす。

 幼子が親を、生徒が教師を、或いは人が人をそういう生き物であるとカテゴライズしてしまうように。自分と同じ人間と知りながら、相手の心を無視した言動を繰り出してしまう。

 実際、外で暮らす者たちの中にはノアの語ったような人が一定数存在している。肌の色の違う者を悪し様に言ったり、彼らに加害されたと吹聴したり。そしてそれはルーキたちと同じ肌の色を持つ者たちの中にもいて。

 ノアの言う通りだ。鬼は心に巣食う目には見えない魔物だからこそどこにでもいるのだ。

 その観点でいえば、ノアのような人物は稀有だった。年若くして権力者になっているからには当然優秀なのはわかるが、それにしても公平すぎるし豪胆だ。領民の前で両者を批判する立場を取れるだけの胆力には感服するより他にない。

「そのことを、誰より知っているのは君だよね?」

 皮肉をたっぷり含んだ声音でノアが嗤う。ひたりと据えられた視線の鋭さにトワが硬直したのがわかった。無意識のうちにノアの視界から彼女を隠すように立つ。

 ノアの唇が、音もなく動いた。

 ねえ、ケーニー族の神子姫様、と。

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少年は天命を覆す 言ノ葉紡 @rfj4y7ig

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