賢人は邂逅を憂う
それから、どれくらいの時間が経っただろうか。胸の内に湧き上がった激情も絶えず吹く潮風に洗い流され、最早残っていない。口内にへばりつく鉄の味も唾液に溶けて消えてしまった。
虚脱感とともに心へぽっかりと空いた穴を持て余しながら、ルーキは問答を終えるなり海を眩しそうに見つめ始めたトワの横顔をただ見ていた。
こうして見ると、トワは本当に美しい娘だった。見惚れるほど可憐で、ため息が出るほど完璧で、時間を忘れるほど愛らしい。身近にシルフィという美しい顔の持ち主がいて目の肥えてしまった自覚のあるルーキですら感嘆するほど、その美はある種完成されたものだった。
だからかもしれない。彼女がルーキの問いをはぐらかすたび、無碍に扱われたように感じられて腹が立つのは。
無論、トワにその気はない。彼女は彼女なりの理屈でルーキを気遣い、現状を良しとしている。知った方が不都合になると確信して、ルーキの問いに対する答えを秘匿している。しかし、本人にその気がなくとも問いに答えを返されなければ、不当に扱われたと感じて気分を害するものだ。ルーキの場合、問えば答えの返る家庭で育ったというのも大きな要因ではあるが、自分ごとに巻き込んでおいて黙秘権を行使するなど無責任だと腹を立てるのは世間的に見てそうおかしな反応ではないはずだ。
つらつらと頭の中で自分自身に供述しながら、ルーキは海原をちらりと横目で見た。海面が陽を浴びて宝石のように煌めいている。その様を、トワは見ている。飽きることなくずっと。ルーキとの問答をやめてから一度たりとも視線を外さずに。恋する相手には目もくれず、時間と共に変化する海面を見つめている。
意識しているのが自分だけだとわかって、ルーキは口の端に自嘲を乗せた。シルフィの言う通りだ。彼女は人並み以上に空気が読めていなかった。
横顔を見続けるのも、海原を眺めるのにも飽きて、ルーキは手摺りに凭れ掛かった。トワを置いて部屋に戻ることも少しだけ考えたが、それはそれでガルダに何かしら言われるかもしれないと思うと呆気なく萎んでしまった。
手持ち無沙汰に見上げた空は、燃えるような斜陽によって情熱の色に染まりつつある。たなびく雲も、飛び交う鳥も、爽やかな青空の間を泳ぐより暖かそうで、気持ちよさそうだった。
暇を持て余したルーキの横で、時折波間を見つめるトワが小さな歓声をあげる。口元を手で覆って驚いたり、身を乗り出してみたり、とにかく忙しない。危なっかしい様子は世間知らずのお嬢様そのもので、気にしていないふりをしつつも意識はそちらに引きつけられた。
「ルーキ?……トワもいたのか」
そのうち海面に転がり落ちるのではと内心ハラハラしながらトワを見ていたルーキは、程なくして甲板に上がってきたシルフィに安堵の息を吐き出した。
「遅い」
顔を見るなり吐き出された理不尽極まりない文句にシルフィが苦笑する。
彼女の後ろから現れたガルダも疲れ切った様子のルーキと頬を紅潮させたトワを見比べて、得心したようにぽんとルーキの肩を叩いた。そのままトワの正面に立ち、目礼する。
「お楽しみのところ申し訳ありません。船酔いなどはされていませんか」
「今のところ大丈夫よ。気遣ってくれてありがとう。……それ、持ってきてしまったのね」
トワの目がガルダの手にあるヴェールに留まった。複雑そうな面持ちは明らかに不満を訴えていたが、ガルダは意に介さなかったようで、一言断るなり彼女の頭にヴェールをかけた。騎士の洗練された動きが様になる、絵画的な光景。天使のような少女と相俟って、それは絵になりすぎていた。
「もう、これじゃあ首輪だわ」
唇を尖らせてトワが文句を言う。ヴェールに伸ばされた白魚の手が裾を摘み、くしゃりと握り潰した。然程力は込められていないのか、寄った皺は酷くない。
「首輪ではありません」
「ええ、十分に理解しているわ」
「であれば、強い言葉はあまり使われませんよう。お心を痛めてしまいます」
穏やかにガルダが諭す。基本トワの好きにさせていた彼にしては珍しく食い下がる様子にルーキは奥歯を噛み締めた。
ひどく、距離を感じる。同じ空間にいるはずなのに、会話の意図が読み取れない。お近づきになりたくもない少女とその連れなのに、理解できないことに苛立ちを感じる。
幼子の癇癪に似た衝動的な不快感。飲み下すには苦すぎる味にぎりりと歯が軋んだ音を立てる。
「ルーキ」
その衝動を殺す涼やかな呼びかけに、ルーキはシルフィを見た。ふっと呼吸が楽になる。胸中を犯していた不快な靄が晴れて、冷静さが戻ってくる。
「大丈夫か?」
全てを察した様子で近づいてきたシルフィがルーキの頭に手を伸ばした。剣だこの出来た手のひらが、子猫を可愛がるようにゆっくりと撫でてくる。
「……悔しいな」
独り言めいた呟きが耳を掠めた。返事に窮したのは、幼い自尊心のせいだ。何もかも見透かされた居心地の悪さが、素直になることを許さない。
頼られたかったわけではない。胸の内を全て明かして欲しかったわけでもない。トワに期待したことなど、何もない。
それでも、ルーキとて年頃の少年だ。同年代の少年少女のように見栄を張りたいし、尊重されたい。同じ年頃の見目美しい少女に翻弄されるのが体裁悪く感じられるのも、全ては未成熟な心が彼女の態度を面白くないと感じているからだ。
自己分析して、内省する。
永遠に深入りしないと約束した。仲良くしてやるかと思った。その初心を、大切にするべきだ。
「部屋に戻る」
シルフィの手を振り払って、誰にともなく告げる。ガルダと話していたトワがルーキを見た。恋に綻ぶその瞳に居心地悪さが募る。
「私も戻るわ。ガルダとシルフィも戻りましょう?」
ご飯が楽しみね、と。夕陽で染まった髪を揺らして、トワがするりとルーキの横を小走りに駆け抜ける。無意識に伸ばした手は、彼女に届くことはなかった。
*
ルーキたちは船内サービスの一環として振る舞われた海の幸をふんだんに使用した夕食に舌鼓を打った後、心地よい満腹感に包まれながら部屋で思い思いに過ごしていた。
シルフィとトワは相変わらずルーキを話のネタに盛り上がっているし、ガルダは小難しそうな兵法書を読んでいる。
ルーキはと言うと、寝具に腰掛けてガルダに貸してもらった簡単な戦術指南書に目を通していた。
書かれている内容自体は、道場の息子として、跡取りとして育てられたルーキにとって簡単なものばかりだ。流派の異なる者が出版した書籍だったが、幼少から培ってきた知識とそう相違ない戦術が記されている。軽く数ページ読んでから今更読むべきものではないと返そうとしたのだが、そんなルーキにガルダは復習が大切だと無理矢理本を押し付けてきた。意外に強引である。
王国の近衛騎士であるガルダに言い切られては、港町育ちのルーキに反論する術はない。時間を潰す道具を持ってきているわけでもなかったので、渋々本を読み進めていた。
軽く眠気を誘うような、ゆったりとした時間が流れる。
その空気を破るように、かたん、と物音が扉の向こう側から響いた。ガルダがルーキたちの前に出る。
「誰だ!」
ルーキも反射的にトワを背に庇うようにして立ち、音の出所を睨み付けた。気配はなかった、はずだ。いくら気を抜いていたとはいえ、昔から道場で研鑽を積んできたのだ。見知らぬ誰かが近くにいれば、察せないはずがない。
それはシルフィやガルダも同様だったのだろう。各々武器に触れながら、ルーキと同じ方向を注視する。
一気に張り詰めた雰囲気が部屋を支配した。沈黙が流れる。
三十秒、一分、五分。
聞き間違いか鼠でもいたかと思い始めた頃、ざぁっと吹いた風に音にならない笑声が乗った。
「そう警戒しないでくれると嬉しいな」
軽い音をたてて、扉が開く。両手を上げて出てきた青年に、ルーキたちは絶句した。
「君たちに危害を加える気も、女性陣の話を盗み聞きする気もなかった。悪かったね」
飄々と嘯くテノールがおかしげに笑う。それが青年の声だと理解するまでに数秒を要した。それほどの衝撃を受けたのだ。
年はいくつぐらいだろうか。ルーキと同じぐらいにも見えるし、ずっと年上のようにも見える。ともすればルーキより若いかもしれない。潮風に煽られた燃えるような灼熱の髪は火花が散るが如く美しく、肌の白さを引き立たせる。血の如き鮮烈な双眸は柔らかな光を灯しているが、逸らしたが最後喉元を食いちぎられそうな獰猛さを秘めている。艶麗、と言う言葉がこれほど似合う人はいないだろう。漆黒の衣服の上を滑るようにひらひらとそよぐ絹布も相まって、この世の者とは到底思えない美貌だった。
性別を凌駕するほどの類稀なる妖しさを持った長身痩躯の美青年は、二の句が告げないルーキたちを順繰りに見渡した。落ち着いた輝きが、トワを認めると動揺に塗り変わる。微かに目が瞠られた。
「……君は、当代?」
「!?」
紡がれた言葉に、トワが鋭く息を呑む。ガルダが視線から隠すようにトワと青年の間に体を滑り込ませるが、青年の目はさっと顔色を青ざめさせたトワだけを見ていた。
どれくらい沈黙が続いたのか。やがて憐むように、悲しげに形の良い目尻が下がる。
「そうか。君がそうなのか」
「……何を、知っているの?」
「さて。私は何も知らないよ。知らないけど、わかる。それだけだ」
「…………、もしかして、だけど。あなたは、はぐれ?」
「そうではあるが、君が思っているのとは違うよ。私は干渉型だからね」
慎重に質問を重ねるトワに青年が困ったように微笑んだ。
「私も困っているんだ。困って、自分探しをしている。だから、気に障ったなら済まないね」
「……ううん、こちらこそごめんなさい。あなたがはぐれなら、責められるべきは私だわ」
深く息を吐いたトワがガルダの前に出る。制止しようとしたガルダに首を振って、彼女は背筋を伸ばすと青年に向き合った。
「私はトワ」
「私はフェーデ。一緒に行っても?」
「ええ。はぐれは導くものだもの」
「しかして私は導く者だ。導かれる前に、君の旅を見て残そう」
まるで旧知の仲の者同士が言葉を交わすように、阿吽の呼吸で話が進む。穏やかな雰囲気が二人を包んだ。
ルーキには二人が何を喋っているのか理解することが困難だった。同じ言語を話しているはずなのに、聞き慣れない単語のせいで理解するに苦しむ。それはシルフィも同じようで、双眸に宿る輝きは鋭い。ルーキに唯一分かったことがあるとすれば、それはどういう理屈でか旅の同行者が増えたということだけだった。
ガルダは、と彼女に盾役を止められた彼を窺えば、同行を許可したトワの手前あからさまな警戒は解いていた。しかし、依然としてフェーデと名乗った青年を見る目の厳しさはそのままだ。要するに、彼にも突拍子もない出来事が起こり、それが決して歓迎できるものではないのだということが、付き合いの浅いルーキの目からも一目瞭然であった。
「ガルダ」
その戸惑いと疑心を察したのか、トワがガルダを振り返った。一瞬困ったように眉尻と口端がへにょりと情けなく下がり、すぐに自信を取り戻したように笑みを形作る。
「これはトワではなくトワ様としての務めです。女王陛下もご存知の。故に、いかなる異論も認められないの」
「……、承知しました」
やんわりとした口調で紡がれる確固とした宣言に、今度こそガルダから警戒が解けた。女王陛下の名を出されて折れたことは明白だったが、彼が仕えるべき者の意に従うのは騎士として当然の摂理だ。
ならば、ただ請われるままに同伴しているルーキたちに口を挟む権利はない。
「トワ。そろそろ目的地を教えろよ」
行き先は決まっているんだろうと返事を待てば、きょとんとトワの目が丸くなる。
「西へ行くわ」
「そうじゃなくて、西の大陸の何処だって訊いた」
「何処かしら」
のほほんと返したトワが地図に視線を落とす。
まさかの無計画。絶句したまま言葉もないルーキとシルフィはトワを凝視するしかない。フェーデも虚を疲れた様子で彼女を見ている。
「西へ。それしか決めていなかったわ」
じっと壁にかかった地図を眺めながら、トワが途方に暮れたように頬を押さえた。ガルダに驚いた節がないのを見るに、いつものことなのだろう。彼女の旅は想像以上に行き当たりばったりなところがあるようだ。
何とも言えない沈黙が流れた。道連れ的に連れてこられたルーキたちとてこれが観光ではないのはわかりきっているため、旅の主導であるトワを無視してあれこれと行きたい所を進言することもできない。
数分の後、ふむ、と空気を読んだらしいフェーデが視線を空に投げる。
「西の大陸といえば、少し特殊な領地がある」
「特殊?」
「魔物と人が共存している」
「――――!」
まさか、と誰からともなく呟く。
「魔物と?嘘だろ!?あいつらと意思疎通なんてできないじゃないか!」
魔物。大陸全土に棲息する、人を襲い喰らう化け物。人智を超えた魔の力――魔法を操り、高い攻撃性を備える生き物。人語を解する知性はなく、欲求のまま彼等は生活している。
彼等がどこから来たのか、どうやって生まれたのか知る者はいない。どの歴史書を探しても、研究資料を読み漁っても、その始まりは記されていない。誤って彼等の縄張りに足を踏み入れない限り――要するに人の居住範囲から出ない限り――襲われないことが判明してからは、魔物に関する研究が滞るようになったからである。不思議なことに、彼らは人の生活圏内に足を踏み入れて命を脅かすことはなかった。
遙か昔から同じ星に暮らしている生命体への解像度とは到底思えない知識量だが、それだけ知っていれば人は暮らすに困らなかった。ごく稀に上がる被害報告を聞いて恐怖する、その程度の存在に魔物は成り下がった。
魔物は人を襲う。縄張りに入らなければ襲われない。
その二点だけが重要だった。
しかし、フェーデがもたらした情報はその常識を覆す。縄張りを持つ魔物と捕食対象になり得る人が共存するなどあり得ない話だった。
信じられない、と言うルーキに、そうだろうね、とフェーデが神妙に頷く。
「でも、彼の地のノルン領では実際に縄張りに入られようが魔物は人を襲わない。人も魔物を襲わない。だから、目指すのであればそこの都市がオススメだ」
驚愕など意に介さず地図の一点を指し示したフェーデを見てルーキはただただ息を呑む。
すごい、と思った。求められる知識を瞬時に出せる博識さも、自分自身の考えを淀みなく伝えられる雄弁さも、柔軟に物事を受け止められない者への真摯な対応も。
「そんなにいいものではないよ」
そんなルーキの感嘆を見透かしたようなタイミングでフェーデが苦笑を寄こす。
「これは知識でも勘でもない奇妙なもの。不幸しか呼ばなかった、由来の知れないもの」
「どういう意味だよ」
「……そうだね。君は何も知らないみたいだ。トワ、少し詳らかにしても?」
「どこまでかによるわ」
「そう硬くならずとも、なぜ彼に話していないのか知っているよ。当代である君の意思は尊重されるべきものだ。故に、我らが血についてのみ」
大仰に一礼したフェーデにトワが瞳を揺らす。きゅっと噛み締められた唇が葛藤を表していた。それが、ルーキには新鮮だった。フェーデと出会ってからのこの短い時間の中で、トワの表情はくるくると変わった。殆ど絶やされなかった笑みが消えて、困惑や動揺を長時間見せるようになった。それは秘密という鎧を纏った彼女が抱えた弱さでもあり、苦手意識に苛まれるルーキにとってはトワが等身大の少女らしく思える瞬間でもあった。
「……いいわ」
長考の末、トワがため息混じりに言った。ありがとうと微笑んだフェーデが姿勢を正す。
「この世界には、ケーニー族という一族がいる。彼らは特殊でね、人には扱えない不思議な力を持っている。だから、畏怖されないように、あるいは昔からの規律として、普通の人からは隠れるようにして住んでいるんだ」
たとえば、とフェーデが絹布をルーキに差し出した。反射的にそれを握れば、ふっと口唇が緩められる。
「私は、こうだ」
瞬間、手の中の絹布の手触りが変わる。滑らかな布が刃のように鋭く硬質な手触りに変化したのだ。
……まるで、魔物が使う魔法みたいだ。
驚愕に襲われたルーキが手を離せば、ふわりと柔らかく絹布がはためいた。既に硬質さを失ったそれを、フェーデが見下ろす。
「物質の性質変換、と言えばいいかな。命を与えることはできないけどね」
常識の範疇を超えた事態に二の句が告げない。
「トワも、何かできるのか?」
シルフィの疑問に、フェーデから当代と呼ばれたトワが肯く。
「歌うことで傷を癒せるわ。でもそれだけよ。ケーニー族は特殊だけれど、たった一つ、普通とは違うだけなの」
でも、と。悲しげにその目が瞬く。
「そのたった一つが、他の人には受け入れられなかったの。人は異質なものを嫌うから。防衛本能で恐れ、疎み、迫害するの。畏れに基づいたそれは正常な反応よ。私たちの心を置き去りにするだけで」
「……………………」
「一説によると、私達の一族は神と人との混血児だとされていてね。創世記が意味を成していた頃には崇拝すらされていたそうだ」
創世記、と硬い声で復唱したガルダが視線を落とす。当たり前のように出されたその単語にルーキもフェーデを見る目が胡乱になった。
創世記。それは、遥か昔から伝わるとされるこの世界の成り立ちを語った短いお話だ。神子の犠牲により神と人の世界が守られたという陳腐なあらすじの、誰が編纂したかも残っていない最古の歴史書。神という概念上の存在と人が対等に描かれている時点で創作物語だと言うのが昨今の歴史研究家の見立てである。
疑念の眼差しにフェーデが苦笑した。
「眉唾物と思う者も多いだろうが、信憑性はこの際あまり関係がない。ケーニー族が崇拝された歴史を持つと言うことのみが重要だ」
「今は違うのか?」
「彼女が言っていただろう。人は異質を嫌う。自分たちと異なる者を排そうとする。……ケーニー族は、迫害を経て忘却された。誰にも干渉されない人里離れた地で、今は暮らしている。私みたいなはぐれ――ケーニー族の血を引きながら外で暮らしている者は珍しい」
ただね、と。フェーデが切なげに目を伏せる。
「私の知識は、この力には該当しない」
「……は?」
「先にも述べた通り、私のケーニー族としての証は物質の性質を変えることであって叡智ではない。そしてケーニー族が持つ力は一つのみ。だから当然知らないことは知らないはずなのさ」
「いや、でも……」
今まさに求められるままに説明をしていたフェーデのそれが能力とやらでないのだとすれば、なんだというのか。釈然とせずに口籠ったルーキにフェーデは真摯に答える。
「育ててくれた祖父母は、私の母は人で、父は残忍な神だと語った。その血を継ぐ私が生まれたことで母は狂い、若くして亡くなったと。半神であるお前は、物を知りすぎているのだと。望んだ子ではなかったから許容できなかったんだと、祖父母は繰り返し私に言い聞かせた。母を恨んではいけないよ、恨むなら父にしなさい、と」
だから、と。声音が切実さを帯びて揺れる。
「だから私は旅をしている。目を閉ざして、耳を閉ざして。私はなぜ生まれたのか、この叡智は何なのか、なぜ私は愛されなかったのか。私は、何者なのか。父は、本当に神なのか。その答えをずっと探している。叡智の恩恵で解はもう手にしていても、受け入れるにはそれは重すぎたからね。元凶である父に会い糾弾するまで、知らないふりをしようと思った」
誰も何も言えなかった。慰めることも、問い返すことも、フェーデの固く閉ざされた表情が拒否していた。
恐らく、彼が物心ついた頃から積み重ねてきた母との思い出は、余人の入り込む隙間を残さないぐらいフェーデの柔らかな心を切り裂いたのだろう。そして膿んだ傷は治ることなくまだそこにある。
触れられたら痛い。半端な同情は知ったかぶりに等しい。だから、遠ざける。酷い言葉で突き放す前に、差し伸べられそうな手を拒絶する。
怒涛の如く境遇を暴露して、ここから先には入ってくれるなと一線を引く。
共感は円滑な人間関係を築く上で重要なコミュニケーションツールの一つだが、フェーデにとっては毒でしかないのだ。
今の彼に踏み込める者がいるとすれば、それは。
「フェーデ」
出会ったばかりの彼が当代と呼んだ、トワだけだ。
「ごめんなさい。はぐれてしまって、悲しかったでしょう。寂しかったでしょう。怖かったでしょう。ケーニー族の特徴からも外れて、苦悩したでしょう。でも大丈夫よ。もう大丈夫なの。私がいるわ。私が背負うわ。私があなたの灯火になるわ。旅の終着点で、あなたはきっと安息を得られるわ。そう、女王陛下が誓約をしてくれているの。慈悲の心を、一族にもかけてくださったの」
滔々と、瓏々と。語るトワの瞳も声音も柔らかい。幼なげな雰囲気を漂わせながら、どこか威厳すら感じさせる様子にフェーデが瞠目する。
「君は、完成されすぎている」
それが、どういう意味を持つ言葉なのかはわからない。ただあまり良くない言葉だということは、複雑そうな顔から感じ取れた。
「ありがとう。最高の褒め言葉だわ」
微妙な空気を察してルーキたちが黙り込む中、トワだけが嬉しそうに声を弾ませて軽くフェーデを抱擁する。それから体を離すとガルダを仰ぎ見た。その双眸に凛とした輝きが灯る。
「ノルン領へ行きましょう。魔物が人を襲わない理由を解明して各国へその方法を普及できれば、きっと人々は今よりずっと安心して、快適に暮らせるわ」
「御心のままに」
恭しく頭を垂れたガルダの旋毛をじっと見つめる。彼はなかなか面を上げなかった。まるでルーキやシルフィから飛び出すであろう質問から逃れるように、頑なに頭を下げ続けた。トワもそれを許容した。そんなに畏まらないで、と今にも言いそうな顔をしながら、面を上げるように促さなかった。
それがルーキから語彙力を奪った。腹の底を渦巻く疑問符を固められるだけの言葉を失わせ、問うべき内容を見失わせた。
助けを求めてシルフィを見る。彼女は彼女で眉を顰めながらも、躊躇いがちに口を開いた。
「魔物と争わず人々が安心できる道を探るのは構わない。でも、そううまくいくとも思えない。普通は共存を拒むだろ?」
「……そう、かしら」
「そうだ。人は臆病だからね。生き残るために知恵をつけ、死なないために危機感を強くする。あたしはそういう人を、それなりに見てきたつもりだよ」
特に力を持たない人はそうだ。自らよりも強く獰猛な存在を恐れ、加害される未来に怯える。定期的に街の自警団や傭兵に依頼が下りるのも、討伐隊が編成されるのもそのためだ。
共存できている場所がある。成程、それは驚嘆に値する事実だ。真似できるなら真似をして、共に暮らしていくのも一つの手だろう。
しかし、未来は不確定で、今後襲われる危険性が零だと断言できる者はいない。
「シルフィ、あなたの意見もわかるわ。でも、魔物も世界を構成する一部よ。人も人を襲うけれど、人を滅ぼそうとは考えないでしょう?それと同じなの」
仲良くできるなら魔物とも仲良くしたい。
砂糖菓子を煮詰めてもここまでではないだろうと思えるような理想論で人と魔物を同列に語ったトワが、話はこれで終わりだと言わんばかりにフェーデに話を振った。
「フェーデ。その不可解な叡智を厭う貴方に訊くのは卑怯だと分かった上で、ひとつだけ教えてほしいの」
「なんなりと」
「明日は今日よりも素晴らしいかしら?」
何でもない無邪気なその問いかけに、フェーデが悲しげに笑った。
「雲間は晴れて、雨模様と。それで君には伝わるね?」
「十分だわ。ありがとう」
満足のいく解答だったらしい。トワの顔がぱっと明るくなる。雲一つない青空を見たばかりだというのに、雲間という表現に突っ込むこともない。そればかりか、明日は一日中晴れのはずだけどなと不思議がるシルフィに、そうね、なんて答えながらひどく嬉しそうに花笑みをこぼす。
そのなんでもない天気予報が真実を言い当てていたのだと知るのは、ずっと後のことだった。
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