一方通行の愛



 楽園とはなんだろうね。

 ぽつりと呟いた少年は木漏れ日から差し込む光を忌々しげに睨めあげた。

 大きな大樹が風に葉を揺らす。爽やかな音だ。平穏で、ぬるま湯に浸っているみたいで。その音が少年は嫌いだった。

「千年の、歌」

 それでも少年がそこにいたのは、少女がいるからだった。獣に身を寄せて午睡に浸る彼女のためだけに、少年は足繁くそこに通っていた。

 返った答えに傍らを見た少年は、相好を崩した。

 愛しいものに触れるように優しさだけを乗せた指先で少女の髪を掬い、口付ける。

「それは、いらない」

 そして何度目になるかもわからない否を伝える。

「それは過ちだ」

「……うん」

 でも、と。ゆっくりと身を起こした少女が少年に抱きついた。するりと解けた髪が地に落ちる。

「くるよ。ダメだって知ってる。もう決めてる。でも、来る。海を越えて。恋と一緒に」

「……」

「獣は泣いてる。訴えてる。会えない。会いたい。どうして。なんで。少しだけ、聞こえる。……好きにしなさいって」

「そう」

「これが最後だって」

 言葉を重ねるごとに震える背中を労わるように撫ぜて、訴えかける眼差しを無視して、少年は穏やかに紡ぐ。

「なら彼らは好きに歩むさ。踊らされるまま、馬鹿みたいにね」

 彼方を睨む双眸は、凍り付いていた。





✳︎

 


 

 どうやら旅に出る、という話は既に知れ渡っていたらしい。荷物を纏め終わったルーキとシルフィが軽く挨拶を済ませにと道場に足を向ければ、指導を行っていた父親にトワ様を待たせるなと叱責を受けた。慌てたシルフィが取りなしてくれようとしたが、同行を渋る態度を見せてしまったルーキを見ていればお小言の一つぐらいは言いたくもなるだろうと甘んじて受けることにした。

 門下生たちは口々に土産だとか、達者でなとか、あんな美少女と一緒とはなんて羨ましいだとか、そんなことを口走っていた。

 あまりに喧しくて、あたたかくて、この空間を後にするのかと思うと名残惜しさすら覚えてしまったほどだ。ずっと友のように、家族のように接してきた彼らと会えない日々は、どんなに自由で寂しいのだろうか。

 ほんの少しの期待と不安が胸を締め付けて、その痛みに改めてシルフィが共に行くことを心強く思う。

「ルーキ。シルフィも。トワ様の力になりなさい」

 別れ際、背中に投げられたその言葉に込められた切実な祈りの響きにルーキとシルフィは顔を見合わせた。

 旅の目的も、終着点も、ルーキは知らない。あれほど頑なに隠されると興味も湧いたが積極的に探る気にはならなかったし、シルフィからの重ね重ねの確認にもトワは口を割らなかった。ルーキを見て、私のことが嫌いなんでしょう?と微笑んでみせた。

 だが、父は知っているのだ。トワの旅の目的も、終着点も。何もかもを知っていて、なにかをルーキとシルフィに望んでいる。

 その期待に、応えられたらいい。

 教えてもらえないという不満は腹の内に燻っているが、素直にそう思えるぐらい父の声はルーキに響いた。

「ルーキ」

 無意識のうちに歩調が緩くなっていたらしい。

 ひっそりと名前を呼ばれたルーキは気遣わしげに様子を窺ってくるシルフィに笑った。

「心配性」

「姉としてはどうしてもね。気乗りしない旅だろう?」

「うん。でも、トワは嫌いだけど、シルフィと外つ国を旅できるから」

 素直に思ったことを口にする。それがシルフィに子ども扱いされる遠因になると知っていたが、嘘をつくよりはマシだと思った。

 少なくともルーキは、自分がされて嫌なことを人にしたくはない。誤魔化すことも、口をつぐむことも、何一つ。

「お前の真っ直ぐさが、あたしは時々不安になるよ」

「なんで」

「いつかぽっきり折れてしまいそうで」

 純度の高い物は存外壊れやすいのだとシルフィが微笑みを返す。

「世の中は理不尽だよ。悪辣な者ほど息がしやすいし、狡猾な者ほど甘い汁を啜れる。必ず勧善懲悪の顛末が訪れるとも限らないし、悪者の足元に破滅があるわけでもない。それに人は現金だから、正しさは手を抜きたい奴に疎まれる。ルーキ、優しいやつは損だと覚えておくんだ。正直者や善人は寄生されやすいと肝に銘じておくんだ。それを忘れなければ、お前は傷ついてもその真っ直ぐさを損なわないで済む」

「それぐらい言われなくても」

「わかってる、だろう?」

 さらりと言葉尻を奪われてしまい沈黙する。ならなんで、と目で訴えかけたルーキの頭をシルフィが小突いた。

「実際に身を以て体験するまで、理解は知識でしかない。体験していない事柄は他所ごとに過ぎず、身を守る盾にもならない。だから、繰り返し自分に言い聞かせて、慣らしておくんだ。人に言われて、思い出しておくんだ。お前がお前でいられるために」

「……それは、シルフィの実体験?」

「そう思ってくれていいよ」

 年の近しいシルフィは、ひどく大人びた目をして前を見た。その視線を追っても、道が続いているだけだ。道行く人の談笑が聞こえるだけだ。

 しかし、彼女にはルーキの見えない何かが見えていて、聞こえていた。凛と背筋を伸ばして先を見据える姿勢からそれが窺える。

 同じ視界を共有してみたかった。彼女の目に映る世界を、ルーキも見てみたかった。彼女がルーキを護りたがるように、ルーキも彼女を護りたかった。

 対等で、いたかった。

「ルーキ。もう一つだけ留意してくれ。お前はトワに深入りしてはいけない」

 不意にシルフィがルーキを振り返った。思いの外真剣な目と真っ向からぶつかり、数瞬頭が真っ白になる。

「…………する気もないからいいけどさ、なんで?」

 ようやく口から零れ出た声は、干からびていた。ごくりと生唾を嚥下しても、口内は乾いたままだ。

 じっと凝視するルーキにシルフィが目を伏せた。長いまつ毛が隠した瞳に、憂いが灯る。

「あたしの勘でしかないけど、傷つくよ」

「……傷つけられる、じゃなく?」

「トワに悪意はないからね。あたし達が勝手に期待して、勝手に傷つくだけだ」

 そこが難しいところだと、シルフィが瞼を震わせる。

 少しの時間しか言葉を交わしていなかったが、シルフィはトワを気に入っていた。彼女本人にも好きになるとストレートに伝えていたし、態度も柔らかかった。毛嫌いするルーキの意思を尊重しつつ、決してそれに迎合することなく自分の目で彼女の為人を判断していた。好ましく感じていたのは傍目にも明らかで、それは今の態度からも察せられて、だからこそルーキは解せなかった。

 シルフィは他者に対してこうしろああしろと強要してくるような性格ではない。心配故の小言を言われることはあっても、命令形で物を言うような人ではないのだ。だから、普段のシルフィならどういう関係を築くか自由にさせてくれたはずだった。どれだけ不安を覚えても、ルーキが転んで、間違って、痛がって、泣き叫んだその時に助けとなれるよう傍らに寄り添う程度に留めたはずだ。

 傷つきそうだから、とか。そんな理由でわざわざ口を出してくるなど、らしくないにも程がある。

「シルフィ。断言するけどさ、オレから仲良くなる気は本当にないんだ。それは、あっちもそうだろ」

 なぜ、と問うことはできた。どうしてと突っ込んで尋ねて、望まない答えに嘆いてもよかった。火傷したとしても、構わないと思っていた。シルフィを理解できないことの方が、嫌だった。

 だが、結局ルーキは質問を呑み込んだ。尋ねたとて仕方がない。ルーキはトワと仲良くなりたいとは思っていないのだから。

 ぶっきらぼうに言い募るルーキの顔を見て、シルフィが頷く。

「そうだね。あの子は無垢だ。恐ろしいほどに」

 それは、どういう意味だろう。

 確かにトワの考え方は変わっていた。ルーキに好きだと言いながら、私を知らないでと宣う。あなたが苦しまない方がいいと、だからそのまま嫌いでいいのよと許容する。その感性を無垢というなら、そうなのだろう。子どもみたいに、彼女は単純だ。真っ白で、まっさらで、誰にも踏み躙られていないからこそ汚れのない雪のように、生まれ落ちたばかりの赤子の如くあるがままに抱擁する。

 他者の変容を望まないわけではないだろう。変わりたいと本人が願うのであれば、彼女は諸手をあげて応援する。ただ自分のために誰かがあり方を変えることを望まないだけだ。自分のせいで苦しむ人を見たくないだけだ。

 底なしの優しさにも似たそれは、身も蓋もない言い方をするなら究極の欺瞞だ。赤子が泣き声で周囲を意のままに動かすように。或いは幼子がわがままを押し通そうとするように。

 あの時、トワの言動に溢れていたのは無垢故のエゴだけだった。少なくともルーキはそう思った。

 しかしそれは、果たして恐ろしいことだろうか。

 彼女に限らず、鷹揚な人であれば寛容さを示すし、頓着しない人は拘らない。相手にこうして欲しいと願うこともない。諦めの境地でその域に達する者もいるだろう。多かれ少なかれ人が誰かと関われば、根底こそ違えど取り得る対応だと言えた。

 だが、シルフィの言葉は褒めているというよりも不愉快そうだった。恐ろしい。その五音に込められた響きが耳に残る。

「無垢は、責められるべきことだと思わない」

 フォローするつもりもなかったが、どうにも腑に落ちなくて抗議する。見当違いだとシルフィが首を振った。

「今話していて確信した。教育の怖さを体現しているんだよ、ルーキ」

「……教育?」

「あたしはね、あの子のあれは凡その物事全てに適応されるとみている」

「それ、は」

「簡単な話だ。公共ルールに例えるのがいいかな。共同生活で暮らす以上、隣人が過度な不利益を被らないように、あたしたちは公での規則を先人から学ぶだろう?目上の人への礼儀もそう。学校での学びもそう。最初にそうあれと言った人の顔なんて誰も知らないけど、暗黙の了解としてあたしたちはそれを知っていて、その通りあることが正常だと思っている。そう教わったからだ」

 トワもそうだ、と。そう言ったシルフィが痛ましげに顔を歪めた。

「彼女は向けられる全てを受け入れる。反発を覚えることもない。元からそういう気性だったと思うには、傷つかなさすぎだし、空気が読めていない。あの子だって人間なんだ。欲があって然るべきだし、ルーキ、お前の痛みに心を割いてもいいはずだ。なのにそれをしないってことは、そうあれと教えられているんだろう。言っちゃ悪いが、洗脳だ」

「洗、脳」

「そう。人はね、生まれたときは誰もが可能性に満ちている。多少の個性はあっても、大体の方向性は環境が作り出すし、善悪の基準は周囲が決める。あたしやルーキの考え方に差異はあっても、価値観はだいたい同じだろう?」

 口に出していい言葉、悪い言葉。やっていいこと、悪いこと。家族や他人との距離の取り方に至るまで、確かにルーキはシルフィと同じ道理を主に父から学んでいた。彼女と同じ倫理観や道徳を習得して、それに反しない生き方をしているのも否定はしない。

 とはいえ、シルフィの口から飛び出した洗脳という言葉の強さには気圧され、動揺を隠せなかった。そこまで言わなくてもと、つい庇いたくなってしまう。

「話が逸れたな。ええと、そう。だからルーキ、お前は深入りしてはいけない。あっちもそう、とい言い出す時点で、言い換えれば、トワの態度次第で改めるつもりだろう。でもね」

 シルフィが一瞬、躊躇いを見せた。さっと周囲を見渡して近くの路地裏まで先導すると、完全に歩みを止めてルーキを見下ろす。懇願にも似た輝きが、その双眸に閃いた。

「ルーキ。お前だけが特別に許されているわけじゃない」

 ……なぜだか、その言葉が心に深く突き刺さった。ひゅっと息の詰まる音がする。

「あたしから見たトワは平等な子だ。好意を抱かれても、好きだと告げられていても、お前が特別になることはない」

 どうして、なぜ、そんなことを言うのだろう。特別を求めるなど有り得ない。彼女に好きと言われも嬉しくない。その気持ちは、真だ。

 だというのに、シルフィは大真面目に告げてくる。ルーキの心情を知っているはずの彼女が言い含めてくる。

 それではまるで、ルーキがトワを異性として好きになると言っているようなものではないか。

 有り得ない。トワの一目ぼれも、ルーキの嫌悪も、すべて確かなもので、移ろうものだとしても。

「井の中の蛙、なだけだろ。どうせすぐ、他の奴を好きになるだろうし、告白をまともに受け取るつもりはない。そもそもオレはあいつが嫌いだって」

「ルーキ、そのことわざの続き、どこまで知ってる?」

 勢いよく言いかけた言葉を静かに阻まれ、はっ、と息を零す。

「大海を知らず、だろ」

 何を簡単なことをと一笑にふそうとして、できなかった。

「シル、フィ?」

「されど空の青さを知る、だよ」

 シルフィが伸ばしてきた手を、避けられない。頬に触れた温もりに、ルーキの全身は凍り付いたように動かなくなる。姉と慕う人の本気が伝わってくる。言葉より雄弁に語る目が、顔が、切実な色を帯びている。

「頼むから、ルーキ」

 搾りだされた切願には、常日頃とは異なる弱さがあった。ルーキの脳裏に、ぼろぼろだった幼少時代の彼女が蘇る。

「わかっ、た」

 それ以外、何を言えただろう。

 目の前のシルフィは泣きそうな顔こそしていなかったが、在りし日のように頼りなく見えた。些細な意見の食い違いで、消えてしまいそうな脆さが雰囲気に滲んでいた。

 不承不承、まだ完全には納得していないながらも了承したルーキに、シルフィはほっと肩を落とした。若干気まずそうな色が見えるのは、らしくないことをしたと自覚しているからだろう。

 気にすることはない。流されたとしても、決めたのはルーキだ。ルーキ自身が、トワに深入りしないと決めたのだ。その判断の責を他人に負わせるほど無責任でも他責思考でもない。

 そのような気持ちを込めて頬に添えられた手を取ったルーキは、港へ急ごうと、そう促そうと口を開いた。その時だった。

「あの、ルーキ?シルフィ?」

「「!?」」

 場を切り裂く声。この場にいるはずのない人の音にびくりとルーキたちは肩を震わせた。ばっと鋭く振り返った先、大通りにトワが立っていた。

「えっと、こんなところで、どうしたの?」

 トワは心配そうに、バツが悪そうに立ち竦みながら問いかけてくる。シルフィが笑いかけようとして、失敗する。

「あー、その、聞いてたか?」

「何を?」

「……いや、聞いてないならいいんだ」

 不思議そうに首を傾げるトワに、ほっと胸を撫でおろした様子でシルフィが笑う。今度はいつも通りの笑顔だった。

「?」

「何でもない。それで、呼びに来てくれたのか?」

「ええ。ガルダと一緒に待っていたのだけれど、待ちくたびれてしまったの。知らない街を歩くのって、楽しいのね。冒険気分で二人を探したのよ」

 ほら見て、と言わんばかりにトワがくるりとその場で一回転した。特に変わったところはない。出会った時のままの格好で、振る舞いだ。

 コメントに困って戸惑うルーキを他所に、シルフィが彼女に歩み寄ってその手を取った。ちらりと寄こされた目が、ルーキを非難している。

「フレグランスか?」

「シャボン玉の香りだって言われたの。お花の香りとも迷ったのだけれど」

「どっちもイメージに合うが、船旅ならこっちの方がいい。似合ってるよ」

「ありがとう!」

 慣れた様子で手を引かれながら数歩前に進んだトワが置いてけぼりを食らったルーキを振り返る。

「ねえ、ルーキはどう?好きかしら、この香り」

 好きも何も、シャボン玉――おそらく石鹸――の香りなど漂っていない。しかし二人がこんなくだらない嘘を即興でつくとも考え難いので、単純にルーキの嗅覚が劣っているのだろう。

 返事に窮したルーキをシルフィが呆れた顔で見てくる。女心がわかっていないと言いたげなその表情に、口にこそ出さなかったが、深入りしない方がいいなら鈍感な方が喜ばしいのではと反感が首をもたげた。それを正確に読み取ったらしい。シルフィの唇が音もなく動く。

 それとこれとは話が別、と。

「……どうでもいい」

 たっぷり数十秒。潮の匂いしかしない空気を嗅ぐのにも飽きて吐き捨てる。文句を言うでもなく、むしろそれこそが求めていた反応のように、トワが幸せそうに頬を綻ばせた。

「それもそうね。ありがとうルーキ。大好きよ」

 いっそ不気味なほど、好意だけで構成された笑み。ノルマのように付け足される愛の言葉。嫌悪を打ち砕くどころか増長させるだけの態度はいけ好かないものだ。許されるなら、今この場で彼女を指さして、シルフィに宣言したい。

 あれこれ言われずとも、こんなやつ、好きになれるはずもない。万が一好きになったら、命でもなんでもくれてやると。

 言ったが最後、鬼の形相で命を粗末にするなと叱られそうだから、言わないが。

「行きましょう。ガルダが待っているの。一泊二日の船旅よ。相部屋なのは、我慢してね」

 二人の間で飛び交う無言のやりとりには欠片も気づかず、一人無邪気にトワが言う。

 シルフィの手を引いて軽やかな足取りで歩きだしたその背を負いながら、ルーキは言われた忠告を胸に刻んだ。

 青々と広がる空に浮かぶ日差しが、傾きだしていた。




 *


 


 ガルダと合流して渡されたチケットを手に乗船した船は、豪華客船とまではいかずとも、それなりに裕福な者たちが好んで乗るもだったらしい。割り当てられた部屋はそこそこ広く、壁には世界地図がかけられている。備え付けられた調度品はしっかりとした造りで高価そうだ。名の知れた匠が魂を込めて施したであろうディティールは見事なもので、目にするなりトワがはしゃいでいた。今は興奮も冷めたのか、シルフィに懐いて話し込んでいる。漏れ聞こえる会話にルーキの名前が出てくるため、ろくでもない話にしか思えなかったが。

「風に当たってくる」

 椅子に座して剣の手入れを行っているガルダに一声かける。女性陣の和気あいあいとした会話の邪魔をしないためか、目だけで了承が返された。

 それをいいことに、二人には気づかれないようにそっと部屋を後にして甲板に向かう。すれ違う人たちが、明らかに服装の浮いているルーキを怪訝そうにじろじろと見てくるのが鬱陶しい。早く波間を見て心を落ち着けようと足早に廊下を抜け、甲板に続く階段を登りきると扉に手をかけた。

「……っ」

 眩しい陽光が、目を貫く。慣れるまで瞼を閉じておけばよかった。

 遅すぎる後悔を胸に、白く霞んだ視界の中、手摺りに近寄った。西日が海面を染めあげている。遠く飛ぶ影は、渡り鳥だろうか。集団からはぐれるように追う影もある。ざあざあと水を掻き分ける音の合間に、海洋生物たちの息遣いが聞こえる気がした。

 雄大な海原が、広がっていた。港から幾度となく眺めた景色の上に、今ルーキフェルはいる。

 全身を包む海風が心地いい。はあっと肺が空になるほど息を吐き出して、手摺りを握る手に力を込めた。

 こんなにも広い海を見ていると、抱える思いのすべてがちっぽけに感じられて、考えることすら馬鹿らしくなった。トワに振り回されるばかりで余裕を持てない自分が、とんでもなく狭量な者に思えた。

 水飛沫が眼下で跳ねるのをぼんやりと眺める。束の間の、心落ち着く時間。しかしそれは、すぐに終わりを告げた。

「ルーキ?」

 背後から妙なる声がかけられる。考える前に反射で振り返ると、潮風に靡く髪をおさえたトワがふわりと微笑んでいた。暇潰しに潮風にあたりにきたのか、ルーキの不在に気づいて探しに来たのか。それとも、ガルダが教えたのか。

 部屋に置いてきたらしく、彼女の頭を隠していたヴェールは外されている。陽光を反射する髪があまりに眩しくて、目の奥が痛んだ。

「……何か用かよ」

 振り返った手前無視をすることもできず、ぶっきらぼうに問いかけたルーキにトワはいいえと答えると横に並んだ。宝石の如き瞳が海面を滑り、遥か彼方を一瞥する。

「昔、ね」

 そうして、トワが徐ろにルーキを見上げた。悲しげにも寂しげにも見える笑みを咲かせて、ぽつぽつと語り出す。

「昔、あるお話を読んだわ。かわいそうだって言われるたびに、私はそのお話を読み返していたの。かわいそうって、なにかしらって。私はちっともかわいそうではなくて、それはお話しの女の子も同じで。かわいそうなのは、私の従姉妹だったから」

「……従姉妹?」

「そう。言葉を交わしたのは片手で数えられるぐらいかしら。いつでも会えるわけではなくて、年に一度会えたらいいくらい。それでも、そうね。私はきっと、彼女のことが大好きだったわ」

 唐突に始まった意味のわからない話にうんざりしながらも、かろうじて合いの手を挟んだルーキは続いた言葉に沈黙する。

 明言はされていなかったが、わかってしまった。トワの語る従姉妹は、もう随分前に亡くなってしまったのだろうと。

 曖昧な過去形の感想が、言葉に込められたささやかな祈りの念が、悲しい事実を知らせてくれる。

「何でお前がかわいそうって思われたんだ」

 その寂寥感が気に食わず、見上げてくる双眸をきつく睨みつける。

 かわいそう。その五文字が似合う女には到底見えないと、当てつけのように声を鋭く尖らせる。

 トワは怯まなかった。穏やかさを欠片も損なわず、じっと直向きな目を据えて、心中を少しだけ詳らかにするように口唇を開く。

「それはきっと、私がトワ様だったからだわ。女王陛下が女王陛下であるように、ルーキがルーキであるように、私はトワ様以外にはなれないのに、そうであることを憐れまれたの。おかしなことでしょう?」

 ルーキがシルフィに告げたのと同じようなことを言いながら、おかしげに微笑んだトワが水平線に手を伸ばす。それは憧れの物を手に入れようとする子どもみたいに無邪気な仕草だった。

「従姉妹のクオン姉様も、きっと今の私を見たらお城の方々と同じことを言うわ。さよならも言えなかったのに。……でも、それは勝手だと女王陛下は頭を下げて下さった。おばば様たちとも違って、あの方だけは私を見た上で私が私であることを尊重して下さったの」

「だから、オレにも尊重しろって言うのか?」

「いいえ。ただ、ルーキには私を嫌いでいてもらわないと困るわ」

 一瞬、何を言われたのかがわからず呼吸が止まった。そんなルーキにも気づかずに、トワは伸ばしていた手を下ろす。

「シルフィはルーキの味方でガルダは女王陛下の忠実な騎士。でもルーキは、決まっていないでしょう?だから、釘を刺したくなってしまったの。何があっても揺らいではダメよって、言いたくなってしまったの」

 寂しい言葉だ。人は孤独に耐えられる生き物だが、温もりを恋しがる生き物でもある。温もりに飢えた人は、誰もが絶対的な味方を欲して他者に手を伸ばす。それは時に親であり、恋人であり、友人であり、臣下であり、様々だ。伴侶を得て系譜を繋げる生命体として、誰かを求めることはごく自然の摂理でもある。

 しかし、その摂理から外れた言動をトワはとる。最優先に護ってくれる人はいないしそれでいいのだと、ルーキに恋を囁きながら微笑んで突き放す。

 間違っても手を握り返さないでね、と。

 そう笑う彼女に、ルーキは奥歯を噛み締めた。じわりと口内に溢れる血の味が、苦い。

「揺らぐも何も、オレはお前が嫌いだよ」

「知ってるわ。それでも、私が私であるために。あなたと出会えた私としているために。少しだけ昔話をしたくなったの」

 ざあっと吹き抜けた風に黄金が散る。陽の光を受けて輝くはずの金が空を舞い、それを追った瞳がゆらりと揺れた気がした。

「あなたが好きよ、ルーキ。私のことを嫌いだと思うあなただったから、私はもっとずっと好きになったの。だから、絶対に私を好きになってはダメよ?心を許してはダメよ?嫌いなままで――恋した瞬間のあなたでいてね。私の心はそれだけなの」

 愛の言葉は甘く、柔らかで、寂しい。

 なんでだよ、と悪態をつきたくなった。八つ当たりだとわかっていて、実際そうなったら嫌悪が加速するだけだと知っていて、それでもトワに向かって怒鳴りたかった。

 望めばいい。願えばいい。好きになってほしいと叫べばいい。ルーキにとっては一方的で煩わしくとも、それは当たり前の感情だ。トワがルーキを想う気持ちはトワだけのもので、それを蔑ろにするつもりはない。

 それなのに、少女は花笑みをこぼす。この上なく幸せそうに、どこまでもルーキには理解できない言葉を世界に綴る。

「やっぱ、嫌いだ」

 顔を歪めて吐き捨てたルーキにトワの瞳が慈愛を灯す。

「それでも私は好きよ。あなたがあなたであるだけで、大好きなの」

「……っ」

 真っ直ぐな好意と笑顔に、再び目の奥がずきりと痛む。思わず悲鳴を上げてしまいそうなほどの激痛だったが、幸せそのものの様子で華やぐトワには悟られないように丹田に力を込めてやり過ごす。

 何となく、そう、さして意味はないものの、何故だか彼女には弱った姿を見せたくはなかった。心配されるのが煩わしいとか、そういうことではなくて。ただ、そう。せっかく幸せそうに笑っているのだから、水を差したくないと、その笑顔を曇らせたくはないと思ったのだ。

 たいそう気に食わない相手でも、傷つけたいわけではないという、それだけのことだ。

「拒否権を与えなかった私に言われても腹が立つかもしれないけれど、言わせてね。私の旅についてきてくれて、ありがとう」

 ルーキの体調不良に気付いた様子もなく、また彼方へ視線を投げながらトワがお礼を紡ぐ。その謝意に、返せる言の葉はなかった。

 彼女の言う通り、ルーキに拒否権はなかった。父親の命令だから仕方なく同行するだけで、家族の期待に応えたいだけで、旅に意欲的な感情は微塵も持ち合わせていない。シルフィのように、トワのことを好きになる予感もない。あるのは義務感だけで、だからお礼を言われたところで何とも言えなかった。

 ふと、彼女こそが部外者なのではないかと、突飛な考えが浮かんだ。シルフィの教育とか、洗脳とか、そういう言葉に影響されていたのかもしれない。

 女王陛下から旅の供にと与えられた騎士に仕えられ、ルーキの父からも一目置かれ、行き先を決める権限を持つ彼女こそが、本当は真に独りぼっちな存在なのではないか、と。

 独りぼっち、ただ求められるままの存在として育ち、疑ってこなかったのではないかと。

 そんなわけがないと思うにはいやに頭にこびりつく考えに、こくりと喉が鳴った。波間に消えるほど些細な音は、幸いトワの耳には届かなかったらしい。無心に水平線を見つめる横顔をそっと盗み見る。海面を反射する光に照らされたその顔はあまりにあどけない。

 トワを優先する人がいないことは、先に行われた彼女とシルフィの問答で明らかになっている。ガルダですらその時になればお役目を優先するのだと、そうしなければならないのだと本人から望まれている。

 誰か一人でも彼女のために泣く人がいてくれたらいい。ルーキはなれないが、手を離したがるこの少女を支えられる人がいてほしい。漠然とそう思った。

「お前は、……お前は、お前の街の人からも敬称を付けられるぐらい、偉いんだな」

「いいえ。どちらも違うわ。私が育ったのは街ではないし、当然、偉くもないの。敬称はただの刻印よ。そして、楔でもあるの」

 澱みなく応えたトワの視線が、噛み砕く作業も不要な簡単な言葉を探し求めて宙に投げられる。

「ルーキの言いたいこと、ちゃんとわかっているつもりよ。環境が人を作るのは、無垢な心に常識として適応するための規則が植え付けられるから。でもね、ごめんなさい。ルーキにとって優しい言葉を、そのまま受け取れなくてごめんなさい。あなたと私の基準は、悲しいぐらい隔たりがあるのね」

「……やっぱり、聞いてたのか」

「わざとではないわ。聞こえてしまったのよ」

 ごめんなさい、ともう一度心から申し訳なさそうに謝ったトワの声が、遠く聞こえる。

「私は私よ。そうあれかしと強要された自覚がないの。だから、あなたみたいにはなれないわ」

 それは、つまり、そういうことだ。彼女の味方はいないのではない。作らないのでもない。ルーキが思い描くものとかけ離れているだけで。

 今になって、シルフィの懸念がわかる。深入りするなと忠告した意図を、骨身に沁みて実感する。

 周りがどれだけ怒っても、トワには響かない。同情を寄せても、困らせるだけ。手を伸ばし求める権利があるのだと訴えても、柳に風と受け流される。

 そういうふうに生きてきて、そういうふうに死ぬのだろう。

 悪意にも、敵意にも、善意を。

 怒声にも、罵倒にも、微笑みを。

 どのように思われようが、ただひたすらに愛を返す。博愛精神ここに極まれりだ。

 それでいて手渡される誰かの思いやりには感謝だけして、絶対に受け取ってはくれない。

 これはつらい。悲しい。大嫌いな奴だけれど、そういうふうに彼女を作り上げた環境が、教育が、ひどく恨めしく感じられる。

「お前の旅の目的は、何なんだよ……!」

 血を吐くように叫ぶ。喉が切れて、また鉄の味がする。腹の中から湧き上がる熱が、視界を赤く染める。

 どうして嫌いな相手にここまで怒りを覚えているのだろう。わからない。わからないが、何も言わずにはいられなかった。

「……内緒よ」

 怒声をあびたトワが、ぱっと花開くように笑う。彼女が嫌いなルーキから見ても、その花笑みは美しかった。



 

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