花笑みの娘
昔から、繰り返し見る夢がある。
其処は天井のない空間だった。剥き出しの地にはありとあらゆる花々が咲き乱れ、晴天の空がどこまでも美しく広がっている。頬をくすぐる柔らかな風も、澄んだ鳥の囀りも、降り注ぐ春の如き日差しも。凡そ考えられる全ての癒しが其処にはあった。
この世の楽園。誰もが焦がれる、理想郷。
夢で訪うその空間が好きだった。同時に、とてつもなく唾棄していた。理由は明白だ。
「彼女のために疑うべきだった」
繰り返される夢は必ず叱責から始まって、後味悪く終わるからだ。
男のようにも思えたし、女のようにも思えた。無邪気な子どものようにも聞こえたし、老成した者の声にも聞こえた。
その人の姿形は黒く塗り潰されていて、それが誰なのかを知る術はない。知人のようにも、見知らぬ人のようにも感じられた。
ただ、そう。言い含める言葉に滲む誠実さが、その人の一途で真っ直ぐな人柄を思わせた。
昨日も夢を見た。
今日もまた、夢を見る。
明日もきっと、夢を見る。
目覚めた瞬間、記憶の彼方に去る夢を見る。
そんな夢ばかり、ずっと見ていたから、思うのだ。
いつも、いつも。
自分の人生は、既視感ばかりだった、と。
「いってぇー!」
北の大陸の南西部、港街ツクヨ。潮風が吹く街の片隅にある剣道場に、高らかな少年の悲鳴が響いた。
年の頃は十四歳ぐらいであろうか。手に持っていた木刀を床に放り投げ、痛みに顔を歪めてしゃがみ込む姿に試合を観覧していた少年たちが賑やかに笑う。それに誘発されたのか、まだ瑞々しさの残る若葉に似た瞳が涙で潤んだ。
「ルーキ!道場の跡取り息子が姉貴に負けてどうすんだよ!」
「うるさい!オレにも勝てないくせに!」
周囲から飛ぶからかいを多分に含んだ野次に少年――ルーキフェルは眦を吊り上げて怒鳴り返す。まだあどけなさを残したその声に、少年と相対していた少女が木刀を担いで笑った。
「はいはい、そこまで。これで今日の私の白星は五つだ。どうする?まだやるかい?」
「……シルフィ、お前面白がってるだろ」
「そりゃあね。いつまで経ってもお前の剣は素直すぎるよ」
涙目で見上げられた少女――シルフィが肩を竦める。粗雑ささえ感じられる口調とは裏腹に清廉な空気を纏うさまは、荒野に凛と咲き誇る花を思わせる。整った顔を縁取るようにさらりと揺れる銀糸の髪は細く繊細だ。着飾れば相当に美しいであろう容姿に甘く掠れた声音。周囲で囃し立てていた少年たちが彼女に見惚れてほうっとため息を漏らした。
「お前は強いよ、ルーキ。でもね、優しすぎだ。稽古であろうと殺意を欠く者に私が負けるわけないだろう」
「それはそうかもしれないけどさ」
正論を語るシルフィを見上げるのをやめて、ルーキは己の手を見つめる。
シルフィとルーキの間に歴然とした実力の差はない。寧ろ、単純な腕力や剣撃の速さだけでいえばルーキの方に軍配が上がると言ってもいいだろう。にも関わらず、一度としてシルフィから白星を勝ち取れたことがなかった。勝敗を分けている原因は指摘されるまでもなくわかっている。ルーキに何がなんでも勝とうという気概が欠けているせいだ。
だが、それはどうにも克服できない弱味であるとルーキ自身は思っている。
シルフィとルーキは、血の繋がらない姉弟だ。ルーキがまだ五つにもならない時分に、ルーキの父がどこからか拾ってきた女の子。それがシルフィだった。
……その頃の彼女のことを、よく覚えている。泥だらけの衣服に身を包んでいて、肉付きだって悪かった。くすんだ銀髪も暗く濁った眸もこけた頬も痛々しいのに、近づく者全てを威嚇していた。近寄れば獣のように唸り、手を伸ばせば爪を立てた。力いっぱいに手を噛まれたことだってある。料理すらろくに受け取らず、勇気を出して話しかけてみても一言だって返してくれなかった。
この世の全てを憎んでいた年上の女の子。
汚泥に塗れてもなお生きようとしていた孤独な女の子。
その姿が、ずっとずっと頭から離れない。笑うようになっても、姉として慕うようになっても。呪いのようにこびりついている。
同情や憐憫と言うには愛しさの混ざるそれをルーキは持て余していたし、それが故に稽古の時であろうと彼女に対して殺意を向けることはどうしてもできなかった。
「オレはシルフィに勝てなくていいよ」
ぽつりと誰にも聞こえないように呟いて、ルーキは立ち上がった。放り投げた木刀を拾い、まだ何か言いたりなさそうな顔をしているシルフィに頭を下げる。
「お手合わせ、ありがとうございました」
「……ありがとうございました」
道場は神聖な場所だ。心情がどうであれ礼節は守らねばならない。言いたい言葉を呑み込んだシルフィも不満そうにしつつも一礼を返す。
そこに、場違いな拍手が響いた。
ぎょっとしてその場にいた全員が音の出所――いつの間にか開かれていた道場の入り口を見やる。
果たしてそこには、少女がいた。年の頃は、ルーキとそう変わらないだろう。透き通るような白い肌は陽の光に透けそうなほど透明感がある。それを彩るかの如くゆっくりとはためいた睫毛と零れ落ちそうなほど大きな翡翠の瞳がひどく印象的だ。淡い薔薇の花弁にも似た唇は匂い立つように美しく、ヴェールで覆われた黄金の髪とあいまっていっそう少女を浮世離れしたものに見せている。艶やかさとは無縁の清楚な刺繍が施されたローブから伸びる嫋やかな肢体は折れそうなほど華奢で庇護欲が誘われた。
大凡全ての美が集結したかのような儚げな美貌の少女に誰もが言葉を忘れて見入った。触れたら壊れてしまいそうな、ほろほろと解けて消えてしまいそうな、砂糖菓子のような娘だ。
「凄かったわ」
薔薇の唇が開かれて、竪琴の如き声が感嘆を囁く。
「とても、とても、素晴らしかった」
コツン、と。音が鳴る。美しい少女が土足で道場に足を踏み入れたのだ。
あ、と誰かが漏らしたが、誰もそれ以上を紡げない。咎められる立場にあるルーキやシルフィも少女の存在感に呑まれてしまっていた。
少女が近づく。一歩、二歩と。そうしてルーキの前まで来た少女は顔にふわりと柔らかな微笑を乗せて甘やかに愛を歌った。
「私、貴方が好きよ」
「……は?」
*
美貌の少女の名前は、トワというらしい。あの衝撃の出会いの後、道場に顔を出した父に連れられて客間に足を運んだルーキはそこで改めて少女――トワとその護衛だという青年――ガルダを紹介された。
二人は、旅をしているそうだ。世界を見つめ直す旅。できうる限りこの世界の全てを知る旅を、もう半年も前から。
ツクヨに訪れたのもその一環で、流石に二人旅も飽きたというトワのわがままにより、誰か紹介をしてもらえないかとかねてからガルダと親交のあったルーキの父の元へ訪れたそうだ。
「トワ様とは初対面だが、ガルダ殿は優秀なヴァニル王国の騎士だよ」
穏やかに言う父にルーキは目を瞬く。
ヴァニル王国とは、中央大陸にある世界で一番大きな国であり、流通の中心地だ。そこに行けば世界の物全てが手に入るとも言われている夢の都。国が開設した騎士養成学校があり、数多くの名騎士を排出し続けている煌びやかな国としても名高い。
だが、その華々しい歴史とは裏腹に、近年の栄華は斜陽と言える。ルーキがまだ幼い頃、それこそシルフィが養女として迎え入れられるより少しだけ前に、戦争があったのだ。なぜ起こったのか、どこから始まったのか、そもそも何と戦っているのかすらもわからない戦争があったのだ。その戦争は多くの命を奪い、多くの土地を焦土に変え、多くの悲しみを生み出した。疲弊した民が暴動を起こした所もあったらしく、全く酷い時代だと道端で酒を呷る大人の姿を見たこともある。
なぜ、と。王に問うた者もいた。
なぜこんなことを、と責める者もいた。
理由もわからず戦火に怯える民に、王は答えなかったらしい。
そして理由も知らされずに始まった戦争は、最前線に出ていたヴァニル国国王の死を以て収束した。それから現在に至るまで王妃が統治しているが、国王が治めていた時ほどの活気は取り戻せなかった。
衰退への一途を辿りかけている、されど未だツクヨとは比べものにもならないほどの大きな王国。父の交友関係が広いのは知っていたが、まさか一地方の剣道道場の主人が王都の騎士と親しいとは思わない。いったいどう言う関係だろうか。
見たところ、ガルダは精悍な面差しの好青年である。年の頃は父よりもルーキの方が近いだろうに、挨拶を交わした時の声は力強く、父にも劣らない貫禄が滲んでいた。纏う覇気の強さは剣の腕前を物語っていて、騎士の中でも相当強い部類に入ると馬鹿でも察せられる。先刻まで手合わせをしていたシルフィが霞むほどの強者を前に、不躾に観察をしていたルーキはたじろいだ。
と言うか、そもそもだ。ガルダと父の関係も気にはなるが、その王都の騎士に護衛されているトワは何者なのか。何が目的で世界を見つめ直す旅などしていたのか。
聞いていないはずがないだろうに初対面という言葉のみで済ませた父を睨む。
「で、こいつは?」
知ってるんだろう、と言外に問う。
父が苦笑した。
「トワ様」
「なんでしょう」
「息子には話されますか?」
「嫌よ。だって好きになってしまったもの」
うふふ、と軽やかに笑みを含ませたトワにガルダの目が輝いた。
「それは喜ばしいことです」
「でしょう?でしょう!だから貴方もお願いよ、言わないで」
「我が愚息がトワ様の心の慰めになるのであれば」
真摯に父が頷いて、話はそれで終わったらしい。即ち、ルーキには何も教えないと。
「……は?」
事態について行けずに唖然とする。どうしても知りたいかと言われたらそれほどでもないが、あからさまに隠されても不愉快なだけだ。それも理由は好きだから、ときた。意味がわからない上に、そんな女に好かれたところで嬉しいはずもない。
「お前、うちに何しに来たんだ」
自然と尋ねる声も尖る。明らかに気分を害したルーキにガルダがほんの少し申し訳なさそうな顔になった。どうやらこちらの騎士の感性はまともらしい。なら説明してくれ、と思うが、すぐにその考えは打ち消した。
ガルダは騎士だ。王国に忠義を誓い、貴人への礼儀を弁える存在だ。そのガルダがトワに敬意を示していると言うことは当然トワの方が立場が上であり、トワの意に沿わない言動を慎むのは立場上当たり前である。ここで役目を果たしているだけのガルダを責めるのはお門違いだ。
「あら?先ほどお父上から説明を受けていたと思うのですけど」
「……二人旅に飽きて立ち寄ったとは聞いたけど」
「そう。なので、仲間を探しに来ました」
にっこりと。一点の曇りもない微笑とともに真っ直ぐに言われた言葉にルーキは一瞬で状況を理解した。そもそも父はトワを呼びに道場までやってきたわけではない。最初からルーキを客間に呼ぶ目的で足を運んできたのだ。
それは、つまり、要するに。
「ルーキ、いい機会だ。トワ様の旅に同行しなさい」
「はあ!?」
予想を裏切らない最悪の言葉に顔をしかめて父を仰ぎ見たルーキは、しかしそのまま口を噤んだ。父は笑っていなかった。優しい目もしていなかった。初めて見る険しい顔をして、文句を言おうとしていたルーキを見下ろしていた。
「いいから、行きなさい。行って、その目でしっかりと確かめてきなさい。何が正しくて、何が間違っているのかを」
「いや、でも」
「ルーキ」
静かに名を呼ばれ、唇を噛み締める。
本音を言えば、断りたい。トワという少女が騎士に傅かれるほどの貴人であっても、例え二目と拝めない美少女からの頼みであっても、彼女の強引さは癪に触る。誰もが跪くと、額ずくと信じているかのような振る舞いの全てが嫌悪の対象だ。
それでも、父がただ貴人であるというだけでトワのわがままを快諾したとはどうしても思えなかった。
「わかりました」
苦渋を殺して苦々しく頷けば、ぱっとトワが笑みを咲かす。心の底から喜んでいるのがわかる、純粋な笑顔だ。それがどこまでも可愛らしく、どこまでも可憐で、だからこそ腹が立つ。目の前であれだけ嫌な反応をしたというのに、なぜそんなにも自分本位に喜べるのだと怒鳴りたくなる。
「ねぇ、貴方のお名前を教えて」
キラキラと寄せられる好意が悍ましい。名前以外何一つ知らないトワのことを知る前から嫌いたくなどないのに、彼女の全てがルーキを苛立たせる。
「……ルーキフェル。長いからルーキでいい」
名乗ったのは意地だ。精一杯の平静を装って手を出せば、けぶるようにとろりと甘い色を乗せた翡翠が大きく揺れる。それで初めて、出会ってからずっと浮かんでいた笑顔が崩れたことに気づいた。甘やかな雰囲気が崩れ去り、そこから顔を覗かせた動揺を湛えた面差しが稚い。迷子の子どもにも似た表情にルーキの方こそ動揺する。
「なんだよ」
「……ううん、なんでもないわ。少し驚いただけよ」
だがそれも、訝しんで尋ねた瞬間には元の笑顔に戻っている。
「よろしくね、ルーキ」
そうっと存外丁寧に包み込んできた手は小さく、柔らかい。喜色の滲む嬉しげな顔を見下ろして、ルーキは心中で舌を出す。
誰がよろしくなんてしてやるか。
*
旅に出る、と。
部屋に乗り込んできて早々忿懣やるかたないといった風情で人の寝台に突っ伏したルーキの言葉に、シルフィは読んでいた本から目を上げた。既に不貞寝を決め込んでいる姿はなんともまあ頑是ない。決して怒りっぽい子ではないルーキがここまで怒りも露わにしているのが意外で、どうしたものかと暫しシルフィはかける言葉を探しあぐねた。
「旅って、それはまた急なことで」
考えた末に出たのは無難な問いかけであり、妥当な質問だ。普段は見取稽古や軽い手合わせの時間にしか顔を出さない父親が直々に道場までやってきて、普段は使いもしない貴人専用の客間に呼び出されていた時点である程度面倒ごとの気配は察していたが、流石に予想外である。
読んでいたページに栞を挟んで机に置き、突っ伏したルーキの横に腰をかける。
「あの女の子が関係しているんだろう?可愛い子だったじゃないか。そんなにいやかな」
燦然と煌く陽の光を背負い、至極の美を纏って現れた絶世の美少女。豪奢な色をその身に宿しながら、どこまでも清廉で清楚な美しい女の子。
少なくとも、あの時誰もが彼女に見惚れていた。同性のシルフィですら目を奪われ、天使がいるならあの子みたいな容姿をしているのだろうとわりと本気で思ったほどだ。ルーキが呼吸を止めて見惚れていたのもしっかりと確認している。
満更でもないのでは、と水を向ければ、自覚はあったのか気まずげに一瞬だけ視線が上げられ、また伏せった。
「中身が……なんというか」
「最悪だった?」
「そこまでじゃない。でも、合わないんだ。考え方も価値観も、絶対的に違いすぎるよ」
それはわかりにくいが、あの少女ではなくルーキ自身に向けられた嘆きだ。理解できない相手に出会ったときにルーキが陥る絶望だ。
その匂いを敏感に嗅ぎ取ったシルフィは射干玉の髪をそっと撫でる。
ルーキは平凡な感性をもつ少年だ。特別慈悲深いわけでも冷酷なわけでもない。聖人君子でもなければ博愛主義者でもない。普通に誰かを嫌うこともあれば、己の対応を悔やんで自己嫌悪に苛まれることもある。
深く寝台に突っ伏す様子を見るに、少女に対する苦手意識はかなり強そうだ。寧ろこれはかなり嫌いな部類に入ると断言していいだろう。合わないという濁した表現は、せめてもの優しさであり、臆病さだった。
「二人旅?」
「いや、トワの連れでガルダっていう騎士がいる。すごくいい奴だと思うけど、でも騎士だから」
「ああ、なるほどね」
騎士は主人に忠実だ。トワが本来の主人なのか仮の主人なのかはさておき、彼女の連れというからには全面的にトワの味方であることは間違いない。
いくら二人きりではないとは言え、それは辛い旅路になりそうだ。
「なら、あたしも行こう」
ぴくりとルーキの肩が揺れた。それには気づかないふりをして、優しく髪を梳きながらあやすように提案する。
「名前からしてそのガルダは男だろう?女心のわかる奴がいたら、その子の旅はきっともっと楽しくなるさ」
正直そこまで少女のことを嫌がるのであれば旅自体を辞めさせてやりたい。だが、嫌なものは嫌だと言えるルーキが引き受けているということはこれは父親の命令なのだ。家長に逆らうという発想はシルフィも持ち合わせていなかったし、師範が言うことなら何か意味があるのだとも思っている。となると、必然的に負担を軽くしてやる方向でしか協力を申し出てやれない。
その中でもこれが一番いい提案のはずだ。
「シルフィ」
むくりと上半身を起こしたルーキが不貞腐れた様子でそっぽを向いた。
「何?」
「オレを甘やかしすぎ」
「そりゃあもう、可愛い弟ですから」
世界がおまえを裏切れば、この命に代えてもおまえを守るよ。
軽やかに紡いだ宣誓に、束の間ルーキの息が止まった。動揺も露わに双眸が宙を彷徨う。
「そんな機会、ないよ」
たっぷりの間を置いて、ルーキが茶化すように言う。小刻みに震えた瞼が逃げるように伏せられた。質の悪い冗談だと処理した様子のルーキにシルフィは静かに息を吐く。
嘘だと思うならそれでいい。冗談だと信じたいならそれでいい。その幼い心ごと、シルフィは義弟を、ルーキを慈しんでいる。
「とにかく、あたしも行く。ガルダとかいう騎士も気になるし、構わないだろう?」
「助かるけどさ。シルフィに得があるか?」
「ある。おまえと旅ができるし、それに、もしかしたらあたしの故郷が見つかるかもしれない」
「ーーーー」
「帰る場所はここだけどね、知っておくべきだと思うんだ。あたしが誰で、どこから来たのかをさ」
一番古い記憶は、肉の焼ける匂いと炭になった人の腕、そしてそれに抱かれる恐怖だ。とても怖い思いをして、とても苦しい気持ちになって、それでいてわずかに申し訳なさを抱いていた。焼け焦げた人が誰だったかも曖昧で、頬を伝う涙の温度だけが確かだった。それより以前は、朧に白く霞んでいる。
シルフィに、過去はなかった。
それは幸せでこそあれ不幸なことではないだろう。血が繋がっていなくとも愛してくれる人がいて、慕ってくれる弟がいる。抱きしめてくれる人がいて、抱きしめたいと思える人がいる。
だから、それは半ば義務だ。自分というルーツを失ったシルフィがそれでもシルフィという名を与えられたからこそ、あの日に取り残された幼い女の子を救済するためだけの義務的行為。その年まで育ててくれたであろう誰かへの感謝を示すたった一つの方法。
「シルフィはシルフィだ」
いつの間にか完全に起き上がっていたルーキが姿勢を正し、真剣な顔で口を開く。
「積み重ねた時間を捨てたら恨むからな」
「ああ、わかっているよ」
「それならいいけど。でもさ、もし仮に、本当にシルフィが違う場所に帰りたいって思える人や場所があったなら、祝福したいから言えよ」
誤魔化したら許さないと如実に訴えかけてくるルーキはどこまでも真摯だからこそ、滑稽で的外れな気遣いが妙にくすぐったい。誤解させたのが自分だとわかっていても、思わず笑ってしまいそうになる。
宝石のような記憶の中で一際異彩を放つ、愛くるしい子どもの笑顔。無邪気に差し出された紅葉の手を、その温もりを、きっとシルフィは生涯忘れることはない。
「わかった。その時がきたら言うさ」
そんな機会、それこそ来ないのだろうけれど。約束することが大切なのだと知っているから快く肯く。
コンコン、と。話が途切れるタイミングを見計らったかのように、扉がノックされた。途端、眉間に皺を寄せたルーキにシルフィは肩を揺らす。
「どうぞ」
「快諾に感謝を。失礼する」
くつくつと笑い声を噛み殺しながら向こう側に声をかける。返ってきた声は知らない男のもので、ああこれはと苦笑する。ルーキがシルフィに泣き付くのも、それを甘やかすのも、全部読まれていたとは。
流石と感嘆しながらゆっくりと開かれた扉とそこから顔を覗かせた二人に目をやり、おや、と思う。いかにも騎士然とした青年ガルダに促されて恋する少女トワが入室してきたが、この二人、どうしてか違和感の塊に思えて仕方がない。何がおかしいのか言語化はできないが、そう、例えるならそれは透明な水面に一滴の墨汁が垂らされたような、そんなもやだ。
「あの……?」
じっと見つめたまま黙り込んだシルフィにトワが不思議そうに首を傾げる。はたはたと長い睫毛に覆われた瞳に不安が燻った。
「ああ、いや、気にしないでくれ。少し考え事をしていただけだ」
「そうなの?私、何かしてしまったかと思ったわ」
したと言えばルーキを振り回して間接的にシルフィも巻き込んでいるのだが、良かったと胸を撫で下ろす姿があまりに無垢で言うのが躊躇われた。なんと言うべきか、ルーキの態度や話し振りから感じていた印象とは違う。見た目通り儚く、柔く、可憐だ。他愛ない一言でその儚さを、柔さを、可憐さを損なってしまいそうで、尻込みしてしまう。
「ルーキ。それからその姉君。改めて挨拶をしても構わないだろうか」
微妙な空気を感じ取ったのか、一つ咳払いをしてガルダが一礼する。
「私はヴァニル王国近衛騎士団所属ガルダ・エデ。我らが女王の命により、トワ様の旅の護衛を仰せ使っている」
「近衛騎士!?嘘だろ!?」
さらりととんでもないことを宣われルーキが絶叫した。耳を劈くような驚きにさもありなんとガルダを見やる。当人はそこまで驚かれるのは予想外だったのか目を丸くしているが、ルーキが叫ばなければシルフィが叫んでいただろう。
近衛騎士団。優秀な騎士を多く輩出し、また抱えるヴァニル王国の中でも最高峰の腕を持つ騎士が集められた精鋭部隊。王族直下の指揮に置かれた、騎士たちの憧れ。所属の条件には剣の腕はもちろん、諜報能力や社交性などありとあらゆる分野においてトップクラスのスキルが求められると言う。
普通に生きていたら出会えるはずもない、王族とはまた違った意味で雲の上の人だ。
その近衛騎士が、目の前にいる。
「そんな大層な者ではないが」
驚愕に声をなくしたルーキとシルフィを見て、ガルダがわずかに目元を和ませた。亜麻色の髪の奥で、琥珀が面白そうに瞬く。
「しばらく一緒に旅をする仲だ。慣れてもらえるとありがたい」
「え、あ、うん。それは」
どうしようと目で訴えてくるルーキにシルフィの頬が引きつる。
普通の騎士であれば良かった。王国に忠誠を誓った十把一絡げの騎士であれば良かったのだ。そうであれば、何も考えずに旅をして、世界を見て、いつかいい思い出として振り返れたことだろう。
だが、現実にガルダは近衛騎士で、王族から直接指示を承って動く者だ。その意志は王の意志であり、その目は王の目であり、その言葉は王の言葉である。
ただ単に旅を共にするのとは訳が違う。
「ほら、だから言ったでしょう?」
呆れたように腰に手を当てたトワが唇を尖らせた。
「貴方のその肩書は貴方の頑張りを讃える名誉である以上に、女王陛下の御名を人々に周知させるものであると」
「あの方はそのようなことをお望みではありません」
「だとしてもです。女王陛下はお優しい人ではあるけれど、誰もがあの方に謁見できるわけではなく、前国王陛下の遺した影響もあまりに大きすぎる。私たち一族の者でさえ誤解していたのを忘れているの?」
道場でのことは幻であったかのように、恋を歌うことも愛を囁くこともやめて静かに嗜めるトワは少女めいた印象を打ち消すが如く冷静だ。甘やかに夢見心地だった双眸は理知的ですらあって、シルフィの背をぞくりと悪寒が駆け抜ける。
危険だ。彼女はいつかルーキを傷つける。
何の根拠も確証もなく、そう思う。漠然とした不安が腹の奥から迫り上がってきて堪らずシルフィは呻いた。
「あんた、は」
硬く強張った声に、ルーキが心配げな目をシルフィに向ける。それを気遣う余裕はなかった。トワから目が離せない。離してしまったら、その瞬間に茫洋とした曖昧模糊な何かに押し潰されてしまいそうだ。そのせいで、口の中はからからに干上がっている。
「トワと言います。トワ・ブロート。女王陛下の御慈悲を賜って旅をしているの」
「女王の慈悲?」
「はい」
にこり。完璧な微笑みを浮かべてトワが悪戯っぽく瞳を輝かせた。
「世界を見て回りなさい。それがお前のなすべき役目です、と。女王陛下はそう仰られました」
「それがどうして慈悲になる」
「だって私、そんなことをさせてもらえるとは思ってなかったから」
ほんの少しくだけた調子で呟いたトワがくるりとその場で回る。風を孕んでふくらんだローブがいやに感傷的に映った。
「女王陛下って、不思議な人ね。とても非情に徹しているのにお優しいの」
トワの言葉に、嘘はなかった。どこまでも真っ直ぐに真摯に紡がれる言の葉は誠実で、だからこそ困惑する。
無害な娘だ。立ち居振る舞いは洗練されているが隙だらけで、シルフィの敵ではない。細い首を縊るのなど容易く、その肢体を血で染め上げることも容易だ。敵意も警戒もなくにこにこと笑う姿は見た目のままにただ美しいだけで、棘などありそうにもない。
だと言うのに、どうして危険だと思ってしまったのか。
問う言葉を無くしてしまったシルフィを庇うようにルーキが前に出る。
「……なあ、何で女王陛下がお前にそんなことさせてくれるんだよ」
「知りたい?」
「ああ」
しかりとうなずいたルーキにトワがふっと息を吐き出した。
「興味を持ってくれて嬉しいけれど、知らない方がいいわ。だってルーキ、私のこと嫌いでしょう?」
「――――」
「嫌いな相手を知っても苦しいだけよ。それなら私、ルーキが苦しくない方がいいの」
だからダメ、と。
はっきりと拒絶したトワがガルダを仰いだ。
「そうよね、ガルダ。私、間違ってないでしょう?」
「……自分は、トワ様の意志を尊重します」
「それじゃあ困るわ。だって私、何にも知らないのよ?」
「ですが私は、貴女様ではございません。その御心のために心を砕くことはできても、読み違えることもあるのです」
「それは、うん、そうよね。私もガルダの考えていること、わからないもの」
しょんぼりと肩を落としたトワが視線をくれた。ほんのわずかに潤んだ双眸に、ふと既視感を覚える。
いつ、どこでこれと同じものを見たのだろう。忘れた記憶の中だろうか。それ以降のささやかな日々の中だろうか。
掴めそうで掴もうとした瞬間に霧散するその答えがもどかしくて、シルフィの目は自然と厳しい色に染まり、問いかける声音も硬さを増す。
「なあ、あんたは嫌われたままでいいのか」
人は人を知ることから始める。知らなければ好きも嫌いもないから、相手を見て、聞いて、触れて、知って、判断する。そうやって触れたいくつもの情報を積み重ねて好悪感情の天秤を揺らし、秤の傾いた感情に従うのだ。
現状、ルーキがトワに向けているのは嫌悪だ。この短時間で得た至極断片的な情報をつなぎ合わせて判断しただけの、些細なきっかけでひっくり返してしまえるだろう忌避だ。
だが、ルーキに好きだと宣ったこの美しい少女は、その感情を是としているようだった。嫌われていると知っていて微笑み、知らない方がいいと言う。
最初から、好かれる努力を放棄していた。
「嫌われても悲しくないのか。好かれたいとは思わないのか」
「ええ」
なぜそんなことを聞かれているのか心底分からないと言う無邪気な顔でトワがシルフィの目を覗き込んでくる。その目に恐れはなかった。生まれたばかりの恋情だけが産声をあげていた。
「好きな人が向けてくれる感情って、何だって嬉しいものなのね。初めて知ったわ」
ああ、と。不意に納得する。
一人の世界で完結した恋心に、納得してしまう。
ルーキのように、嫌悪の感情は湧かない。嫌いよりも哀れみが先立って、不覚にも涙が視界を覆う。
この少女は、本当に無欲なのだ。真っ白で、穢れなくて、無知なのだ。どんな環境で育てばそうなれるのか、シルフィには全くもって想像がつかない。だが、現実にトワは何の疑問も抱かずにルーキを慕っている。
嫌悪にも好意を返すように。
理不尽にも微笑めるように。
従順で、幼くて、あまりに危うい。彼女に見聞を広めるように促した女王の気持ちが痛いほど理解できてしまう。
「あたしは、きっとトワを好きになるよ」
「そうなの?」
「おまえはルーキを困らせているけど、優しいやつだろう?」
花のように微笑んで、風のように軽やかで、光のように眩しい。
抱いた不吉な予感さえ無視してしまえば、短いやり取りの中でシルフィが知ったトワはそんな少女だった。
「……嬉しいわ。でも、困ったわ」
頬に手を当てたトワがそっと目を伏せた。柔らかな笑みがほんの少しだけ曇っている。
「お願いよ。どうか、どうか、あなたはあなたのままでいてね。ルーキのための、あなたでいてね」
「それはもちろん」
当たり前だと頷くと、ほっとトワが息をつく。次いで見上げられたガルダがたじろいだのが少しおかしい。
「ガルダもよ。あなたはあなたのお役目を第一に果たすの。私、それ以上は望まないわ」
「……?トワ」
「なぁに?」
胸に手をあてて祈るように呟いたトワの言葉に引っかかりを覚えてシルフィは彼女の名前を呼ぶ。
「子細を話すつもりがないのは構わない。だけど一つ訊かせてほしい。ガルダのお役目は、なんだ?」
「私の護衛、かしら」
「それはわかる。そうじゃなくて、第一に果たすべきお役目の中身だ」
ガルダがトワを護衛する。それは確かに女王陛下直々に課せられた立派なお役目なのだろう。だが、だとしたらわざわざ言葉を濁して念を押す必要があるだろうか。今まさに、自分を優先するなという流れの話になっている中で、お役目を第一にしろなどと言葉にする必要があったのだろうか。
自然厳しくなったシルフィの顔をとっくりと眺めたトワがルーキに視線を移す。それは何かを迷っているようで、それでいて諦めているようでもあった。
「――ガルダは、護衛なの。この旅の終着を見届けるための人」
やがてそれほど間を空けず、ルーキを見つめたままトワがはにかんだ。
「一人旅を嫌がった私のために、女王陛下が付けてくださった優しい騎士。慰めになればと、心を砕いて下さった証。それ以上でも以下でもないわ」
「……あくまで、ただの護衛だって言うのかよ」
「だって本当なのよ。私を護る人、私の旅を記憶する人。それぐらいでしか表現できないわ」
ねぇ?と話をふられたガルダが重々しく首肯する。食い下がろうとしていたルーキもそれで黙り込んだ。ガルダ自身は誠実そうな人ではあるが、流石に近衛騎士に噛み付くだけの度胸はない。それ即ち、女王陛下に噛み付くことと同義であるからだ。
「これで答えになったかしら?」
「ああ。ありがとう」
視線を戻して綺麗に笑ったトワにシルフィも笑い返す。
先ほど漠然と抱いたあの予感は、きっと正しい。トワもガルダも善良で、悪意とは無縁の生き物のようにその性根は澄んでいる。ただの直感ではあるが、シルフィはそう感じた。だが、それ故にあまりこの二人には深入りしない方がいい。二人が悪いやつではないからこそ、いつかシルフィとルーキは傷つくことになる。
……でもそれは、トワやガルダに非があるわけではなくて、ただどうしようもなくシルフィたちがこの二人を理解できないだけなのだ。
「それで、もう出発するのかな?」
呼びに来たんだろう?と水を向ければパッとトワの雰囲気が華やぐ。
「そう、そうなの。これから私たち、船に乗るのよ」
「……船?」
「まだ少しも見ていない、西の大陸に向かうのよ」
嬉しげに声を弾ませるトワとは対照的にルーキの顔が目に見えて曇った。
それはそうだろう。西の大陸に住うのは、遙か昔、悪魔として迫害された者たちだ。ただ肌の色が違うというそれだけの理由で北の大陸の半分以上を占めるファルシオン帝国に一方的に虐殺され、同じ人とわかってもなお劣等民族として奴隷にされた歴史を持っている。三百年ほど前にファルシオン帝国が奴隷制度を廃止したことで西の大陸の民たちは自由の身となったが、虐殺と支配の歴史が長かっただけに白磁の者が足を踏み入れるのは危険だとされてきた。
それだけでなく、西の大陸は砂漠地帯だ。乾燥した空気に灼熱の気温、夜は凍えるように寒く人よりも魔物が根付く地だ。物見遊山で気軽に訪れるような場所ではない。
「危険だろうに。いいのか?」
「トワ様が望むのであれば」
答えの分かりきった問いかけにガルダは一切の迷いなく肯き、帯刀した剣に触れる。
「そのために、私はいる」
それは、誇りか、自信か。それとも義務か。
計りかねたシルフィは曖昧な吐息を溢して立ち上がる。
「まあ、護衛殿がそう言うならあたしから言うことは何もないさ。ルーキもだろう?」
「……うん」
そう、なんだっていい。トワに願われるまでもなくシルフィにとっての最優先事項はルーキで、それは絶対に揺らがない。ガルダが役目においてトワを真っ先に護るように、シルフィだってルーキを護る。
それがどれだけ危険な場所であっても。どれだけトワが貴人であっても。
「それじゃあ先に出ているわ。ガルダ、二人のチケットを買いにいきましょう」
「御意」
「ルーキ、シルフィ、港で会いましょうね」
家族こそが、弟こそが、シルフィが生きる理由なのだから。
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