もし、未来が変えられるなら
飾磨環
もし、未来が変えられるなら
『もう、戻らないと思っていた』
僕は、もう壊れてしまって、元には戻らないと思っていた。もう、いくとこまでいってしまった。もう本当に取り返しがつかない。そう思っていた。
薬がトラウマで、入院中は全く薬を飲まなかった。幻覚が出ていて、一度読んだ文字が、もう一度見ると、違う文字になっていることなんて当たり前のようにあった。でも入院する前、読んだことのある小説が、全く違う内容に見えて恐怖したことがあったから、そんなこと笑っちゃうくらい大したことないことだった。まただ。世界は壊れている。そう思っていた。
夕飯の時間。食べるのがつらすぎた。入院中の食事は、皆で集まってホールで食べる。ホールは食器に箸が当たる音以外は無音で静まり返っている。日本食の匂いが、鼻を掠める。僕はそのホールいっぱいにいる患者の食べたもの全てが、僕の胃の中に入ってくる幻覚に囚われていた。だからお腹がいっぱいになる前に、慌てて食べて、自分の病室に逃げ込んでいた。周りの人も同じ幻覚に囚われているように見えていた。だから僕が慌てて食べると、皆、苦しそうにしているのが目に入るのが嫌だった。
病室で自分の顔を鏡で見る。頬はこけ、すごく痩せていた。何もすることがない。一冊だけ持ってきた小説を読むことくらいしか。でも読むのも重労働だ。少し読んだだけで生気を抜かれたように疲れる。
病院には図書室がある。僕がそこで本を読もうとすると、周りにいる患者が、苦しみ出す。僕が頑張ると、皆、苦しむのだ。とてもじゃないが、我慢して読んでられなかった。
夜、就寝後、看護師が見回りに来る。でも僕は、極度の過敏な状態で、少しでも音が立つと、飛び起きた。看護師もできるだけ音を立てないように、入ってくるようになったのだが、それでも僕は飛び起きた。看護師たちはその僕が怖かったのだろう。やがて僕の部屋には巡回に来なくなった。
僕の主治医とたまに問診をする。主治医も僕を怖がっているように見えた、僕をできるだけ避け、僕が的を得た質問をするのを恐れていた。(恐れているように見えた)僕と一番接する人だからだろう。僕と接するとまるで体力を吸われるかのように主治医はみるみる痩せていくように見えた。
シャワーを浴びるのが、つらかった。洗濯して、乾燥機にかけるのは何とかできた。僕を訪ねてくる人は、両親しかいない。でも父親も僕を怖がっているようだった。怯えながら、焦点が定まらず、僕の顔を見ないで、僕と話した。今ではこれが幻覚なのか、本当にそうだったのかわからない。この頃、僕が見ている世界は、完全に壊れていた。ずっと耐えていても、薬を飲んでいないからなのか、治らなかった。でももう入院しすぎた。両親ももう退院した方が良いと言った。僕はほぼ回復せずに退院した。入院するきっかけは、両親がおかしくなったと思ったからだ。だから、本当は家に帰りたくなかった。家に帰って何日かすぎた。
今日は通院の日だ。僕は支度をして、病院に向かう。主治医は変わっていた。その主治医と話をして、何も変わっていないことに絶望した。問診室を後にして、待合室で、このまま治らなかったらと考えて、つらすぎる自宅での生活を思い、気づいたら号泣していた。看護師さんがそんな僕に声をかけてくれた。すごく優しい人だった。僕はその人の言葉に救われた。何を声かけられたのかは、今となると覚えていない。でも、その人は今でも僕の恩人だ。
その人に声をかけられてから、僕は変わった。ずっと避けていた薬を飲むようになったし、デイケアに行くようになった。そこで、九十九渚(つくもなぎさ)と出会う。渚はすごく大人しくて、素朴な顔の子で、腰まで伸びた髪の毛が綺麗な子だった。デイケアで僕はよく渚の隣の席に座った。渚はよく絵を描いていた。僕も絵を描くのが好きだったから、渚の隣で僕も描いた。渚は漫画のキャラクターを模写していた。僕も漫画が好きだったから、真似をした。僕は渚に一目惚れだった。すごく可愛い子だと思った。でもどこか影のある、そんなところも魅力的に感じた。渚は僕の蘭という名前を呼んでくれない。僕の名前は庵蘭(いおりらん)だ。別に名前を呼んで欲しいわけじゃないけど、どこか遠く感じた。でもそれには理由があることを後で知る。渚はあまり人と話さない。でも仲のいい人にだけ、無邪気に話をしている。僕とは少しずつ話してくれるようになった。ちょっと物足りないけど、それでも良かった。
「渚ちゃん、今日は何描いてるの?」
「え? 内緒」
そんな程度。なぜこんな会話が嬉しいのか、自分でもわからなかった。僕は今年で31歳だ。渚は若く見える。何歳なんだろう? 女の子に年齢を聞くわけにもいかず、わからなかった。渚がなんで僕としか、男性と話していないことに気付かなかったんだろう。渚は僕以外は、女の子としか話していなかった。元々、あまり話さない子だったから、全然気付かなかった。ということは、僕に心を許しているってこと? 僕は思っていたより渚に好かれている? 蘭よ、慌てるな! あまり過信するのは良くない。そう自分に言い聞かせる。でも渚くらい可愛かったら、渚に言い寄ってくる男も少なくはないと思うのに、渚の隣の席は、いつも空いていた。だから僕はいつも渚の隣に座った。本当はデイケアなんてもっと退屈なものだろう。でも、僕は渚のおかげで、デイケアが楽しかった。僕は、渚以外の女の子に好かれてデイケアで告白されることもあった。でも渚が好きだからと断った。その頃の僕は渚しか目に入らなかった。渚が愛おしくて仕方なかった。だからもっと渚と仲良くなりたいと願った。その頃の渚が、僕のことをどう思っていたのか知らない。でも僕はそんなことどうでも良かった。好きだから一緒にいたい。それで良かった。
「何描いているの?」渚が初めて僕にそう聞いてきた。
「渚の顔」
「!? え? 私?」
「そうだよ」
「……」渚は何も答えてくれなかったけど、表情はどこか嬉しそうだった。
そこから急激に距離が縮まった。渚は僕によく話しかけて来るようになった。それまでは僕が話しかけないと話てくれなかったのに。僕はそれが嬉しくて仕方なかった。クリスマスが来て、クリスマス会をデイケアでやった。当たり前のようにクリスマスツリーを飾り、当たり前のようにクリスマスソングがかかっていた。渚はそんなの着る子じゃないと思っていたけど、サンタのコスプレをしていた。着てくれなさそうだからこそ、特別な気がして、すごく可愛く見えたのを覚えている。
僕が入院する前、時系列はもはや分からないから、思いつく順番に話すけど、夢を見て発狂してしまった記憶がある。記憶があるというのは、今となっても、それが現実なのか、夢だったのか判断できないから、そういう書き方をすることにする。それは壮絶な夢だった。自分が今まで生きてきた中で、いろいろな罪なことの積み重ねが、最後死ぬ時になって苦しめながら、胸に刺さる刃物の痛みのように、徐々に刺さっていき、今まで生きてきただけ時間をかけて、苦しめるという夢を見て、胸に刺さっていく刃物の激痛で僕は発狂した。
発狂して目を覚ますと、両親が僕のその叫びを聞いて救急隊員を呼んだらしく、僕は何人かの救急隊員に取り押さえられた。でもその頃ガリガリに痩せていたにも関わらず、僕はあまりにも力が強くて救急隊員では止められなかった。救急隊員は困り果てて、その後、警察官を呼んだらしい。僕はその警察官たちに取り押さえられ、警察署に連行された。連行されるときに、担架のようなものに乗せられた記憶がある。でもその担架は空間が歪んだように上下し、僕は上に持ち上げられたり、下に下げられたり、左に傾いたり右に傾いたり無重力の空間を漂うような感覚がした。その後、乗せられた警察車両も、すごく非現実的で歪んで見えた。赤色灯の明かりが反射する車内で、僕は拳銃が発砲され鼓膜に何度もその音が響くビションを繰り返し見た。
発狂するほど叫んで、抵抗したからだろう。警察署に着いた僕は汗でビショビショだった。警察署は妙に静かだった気がする。まるで僕しかいないような。そのまま僕は、落ち着きを取り戻し、朝になってパトカーで付き添っていた母親と一緒に自宅に帰された。
布団もびしょ濡れだったのだろう。帰ると部屋のど真ん中に布団が干されていた。ビショビショの服のまま、僕は布団の横で、放心状態のまま灰になったように膝を抱えて丸くなっていた。ベランダからヘリコプターの音がうるさく響いていた。夜中の出来事が、現実なのか全くわからなかった。親に昨日あったことを聞く気にもなれなかった。
年が明けて、1月になった。僕は渚を知らぬ間に目で追っていた。渚はいつも陽の光の当たる窓際の席に座っていた。光に照らされて、太陽のように眩しかった。いつも絵を描いている渚の隣に、今日も僕は座る。僕が隣に来ても渚はこちらを振り向かない。ずっと絵に集中している。
「渚……?」
「…………」
「な! ぎ! さ!」
「!? いたの? おはよう」
「う、うん。おはよう」こんな会話で一日が始まる。
気づいてからは渚は結構話しかけてきてくれるようになった。でもつっけんどうだ。渚はお昼ご飯をあまり食べない。すぐに食事を終わらせて、仲のいい女の人と話している。僕はその輪に入った。
「あ、渚の隣にいつも座ってる男の子でしょ?」
「はい。そうです。蘭と言います。庵蘭です」
「蘭くん? いい名前だね。私は瞳。江畑瞳。よろしく」
その人は、僕よりだいぶ年上そうな人だった。ふくよかで上下ゆったりとした服を着ている。優しそうな人だ。渚が好いているのもよくわかる。渚は終始笑顔だ。僕らはそのまま三人でデイケアが終わるまで話した。桜がデイケアの窓から見える季節になった。まるで桜は言葉を話しているかのように外は春の音に包まれていた。渚は相変わらず、窓際の席に座っている。桜の花びらが、机に一枚ハラリと落ちた。渚はそれに気づかず絵を描いている。僕もそれに習って静かに絵を描い始めた。時はゆっくり流れる。僕らは話をしない。外とは違って室内は静寂が続く。でもその空間が気持ちよかった。僕はその日、渚にLINEを聞いた。渚はあまり躊躇わずに教えてくれた。いや、さも当たり前のようにだ。僕は心の中で、拳を突き上げた。
その日、家に帰って、僕は早速、渚にLINEを打ってみた。
『元気? 今日はありがとう』
『何が?』
『何がって、LINEを教えてくれて』
『ああ、そのこと? 何かと思った』 渚は会って話すより、LINEで話す方がそっけない。僕は、その後に打つ言葉に迷った。でも、このまま終わりたくない。布団に寝転がりながら、ああでもない、こうでもない、と頭を抱えた。そうしたら、渚からLINEが来た。『私のこと好きなの?』唐突すぎた。頭が真っ白になりそうだった。『え?』としか返せなかった。『好きなのって聞いてるの』突き刺すような再度の質問。僕は素直に『好きです』としか言えなかった。次の渚の返事を怖くて見たくないと思った。でも間髪入れずに、返信が来た。『じゃあ、付き合おう』目を疑った。布団の上で、スマホを大きく掲げ、その後、大きく自分の顔に近づけ目をぱちくりさせながら、もう一度しっかり画面を見た。『じゃあ、付き合おう』よく見直しても、書いてあることは一緒だった。僕は急に現実に引き戻されたかのように、嬉しくなって『お願いします!』と送っていた。『はい』とだけ返って来たその言葉が、いつもの渚なら冷たく感じていたと思うけど、身体の芯から温かくなるほど嬉しくて仕方なかった。
桜が散り始めたあの日、僕らは付き合うことになった。
入院する前、時系列はまた前後するかと思うけど、僕にはすごく怖い体験をした記憶がある。世界が壊れていることにまだ気づかなかった頃、僕は自宅のリビングルーム隣にある畳の部屋にいた。両親とどこかに出かける話になった。両親は支度を終え、もう家から出ようとしていた。僕も慌てて着替えて、両親を追った。「待って」と、部屋の奥から玄関に続く廊下へ両親が向かって歩いていくのを制した。両親はその声を聞いて戻ってくる。でもここでおかしなことが起こった。戻ってくる両親は、振り返ってこっちを向いて歩いてくるのではなく、ビデオの巻き戻しのように背中を向けたまま戻ってきた。そしてそれと同様に僕の行動も巻き戻される。両親が部屋まで戻ってきたら、巻き戻しはおさまり、また両親は僕を置いて行こうとする。その両親に向けて僕はまた「待って」と声をかける。そしてまた巻き戻る。何回も巻き戻りを繰り返しているうちに、戻ってくる両親は部屋入り口よりさらに奥まで戻ってくるようになっていた。そして脳裏に嫌な想像がよぎる。このままベランダに近づいていったら、そのうち巻き戻りすぎて両親は飛び降りてしまうのではないか? そう思った途端、急に怖くなった。巻き戻しはまだ続いている。両親はさらにベランダに近づいている。このままではダメだと思った僕は、両親を捕まえた。でもベランダに行こうとする力が強く、引き留めているのがやっとだ。僕はどうしていいか、わからなくなった。両親は僕の手から今にも離れてしまいそうだった。どうしていいかわからず、僕は何を思ったのか息を止めた。これが現実ではないなら、気を失って元の世界に戻りたいと思ったのかもしれない。そのうち意識が遠のいて、僕は気を失った。
痺れていた身体に血液が徐々に巡っていくのを感じる。全身に血が通っていなかったのに、今生まれたかのように、血液が右半身から左半身に満ちていく。両親が両隣にいるのを感じる。良かった。無事だった。僕は安堵した。全身に血が満ちると、僕は自分の意思とは関係なく、部屋の中を歩いて回った。抗えずに僕はされるがままになる。そして元いた位置まで戻ってくると、自分の意思で身体を動かせるようになった。
今思うと、僕はこの時、一度死んで生まれ変わったのだと思う。思えば、この時から体質が変わってしまった。僕は自分がまるで人形にでもなってしまったのでは? と思っていた。
渚と付き合うようになって、LINEを頻繁にやりとりするようになった。渚の文章は短文だし、そっけない。でもデイケア以外でも、こうやってやりとりできるのが嬉しかった。そして渚は、頻繁に情緒不安定になって僕に電話をかけてきた。出ると渚は決まって泣いていた。
「ぐすん……ぐすん……」
「どうしたの?」
(ずっと泣いているだけ)
「いいよ。このまま繋いでるから……」
(まだひたすら泣いてる)
「僕は渚の味方だから」
そのまま渚は徐々に泣き止んで、僕はひたすら渚の味方であることを伝えて、やがて渚が電話を切った。
渚は落ち着いている時は元気だ。無邪気によく笑う。笑い声だけ聞くと、すごくちっちゃい子が笑うような笑い方をする。僕はそんな渚が好きだった。渚は僕のことを蘭さんと呼んだ。僕は渚をなぎと呼んだ。だからこれから先は渚のことをなぎって書く。なぎは聞くと高校生だった。僕はびっくりした。でもそう言われると確かに見た目も若い。でも二十歳は越えていると勝手に思っていた。高校生と知っていたら好きにならなかったかもしれない。僕は少し罪悪感を覚えたが、もう好きになってしまっていたから引くに引けなかった。なぎが高校生だって聞くと、どうりで言動が若かったはずだと、ひとり納得した。なぎは僕の年齢を知っていたはずだ。十歳以上離れている僕をなぜ受け入れてくれたのだろう? 考えてもわからなかった。そのままベッドの上で枕を抱えて、なぎのことを考えていた。天井が知らない天井のように感じる。枕の柔らかさだけが僕を安心させる。僕も泣きたい時だってある。なぎがいるから泣かないように頑張ってきた。でも今日は泣こう。
なぎと今度デートする。近くの比較的大きい駅で待ち合わせをした。僕は早めに支度をして家を出た。僕は時間にルーズなのは嫌いだ。待ち合わせの時間よりだいぶ早い。電車に乗り、車窓から見える景色を見ながら、ドキドキして胸が苦しかった。そうこうしているうちに、あっという間に待ち合わせの駅に着いた。当たり前だけど、まだなぎはいない。僕はY字になったデッキのベンチに腰掛けた。ふと見上げて、空が雲ひとつなく青いことに気づいた。夏が確かに近づいているのがわかる、ちょっと蒸し暑い良い天気だった。僕は晴れ男だ。まあ自分で思っているだけだけど。
昼ごはんを食べてきたのにお腹が空いてきた。なぎまだ来ないかなと思いながら、僕はぼーっと空を見上げていた。飛行機が一筋の線を作りながら飛んでいる。『なぎと付き合えたことが信じられないな』と心の中で強く思った。もうすぐ口から言葉が漏れてしまうくらいに。
「わっ!!!!」
「うわあああ!!」背中を両手で押されて僕は思わず悲鳴を上げた。
振り返るとなぎが後ろにいた。完全に不意を突かれた。なぎは嬉しそうに笑っている。
「ご飯食べた?」
そう言うと、なぎはカバンを漁り出した。
「ちゃんとご飯食べなきゃダメだよ」
そう言いながら、手に持っているものを渡す。塩おむすびだった。
「ありがとう。ちょうどお腹が空いてたんだ」
「ほら、やっぱり食べてない」
いや、食べてはきたんだよな……と思いながらその言葉を聞き流す。何気ない優しさだけど、僕はなんか泣きそうなくらいそれが嬉しかった。塩おむすびをもらったこと。その思い出が、今でも僕の胸に、とてつもなく大切な白く輝く宝石のように残っている。
塩おむすびを食べ終わると、僕たちはゲームセンターに向かった。LINEのやり取りで、なぎは行きたくないって言ったのだけど、僕がどうしてもプリクラを撮りたいと食い下がって、やっとなぎが折れて決まった。だから僕はゲームセンターに行くのが、無性に楽しみだった。LINEでは嫌と言っていたけど、実際は全然嫌そうじゃなかった。むしろ撮ったあとの落書きは、進んでしているくらいだった。今日のなぎは髪型をサイドポニーにしていた。普段、見たことがない髪型だったので、すごく可愛く感じた。その髪型で出てきたプリクラは今でも大切に保管している。
プリクラを撮り終わったあとはカラオケに行った。僕は歌うのが好きだ。なぎはどうなのだろう? なぎがちゃんと歌ってくれるなら(なぎの性格なら歌ってくれない可能性がある)僕は初めてなぎの歌声を聴く。LINEのやり取りをしてわかったことだけど、なぎと僕の趣味はかなり似ている。好きなアーティストも一緒だった。だから僕が好きな歌を歌ってくれるに違いなかった。
僕はなぎも好きな曲を入れて歌う。歌いながらなぎの方を見ると、なぎは興味深そうに聴いていた。でも特に何も言ってくれない。普通の子だったら、お世辞でも上手いとか、いい声だねとか言うだろうけど。僕が歌い終わる。なぎは拍手もしてくれなかった。でも、それでもいいと思えるのが、なぎだ。今度はなぎが曲を入れた。僕も知っている曲だった。なぎは上手くもないけど、下手でもない。でも聴いていて心地よい。そんな歌声だった。僕はなぎがしないかわりに大袈裟に拍手をした。なぎは満更でもなさそうだった。なぎが歌っていて気持ちが良ければいい。僕はなぎがそう思えるように努力した。
僕は今度はなぎが知らなそうな歌を入れた。ちょっと変わった感じの歌だ。曲が始まって僕が歌い出すと、なぎは面白そうに笑った。歌っているのに笑われるのは不本意だが、なぎが楽しいならそれでもいいかと思える。
「ははは! 何その歌?」なぎが笑いながら聞く。
「ニジファブリックの宇宙」
「知らない。変な歌」
「そう? まあ確かに変な歌かも」
今度はなぎも僕が知らない歌を入れた。でも知らないけど聴いていてやっぱり心地よかった。そんな感じで、あっという間に時間は過ぎていった。僕はまだなぎと一緒にいたいと思った。でもだめだ。なぎは高校生だ。遅くまで一緒にいるわけにはいかない。
「そろそろ帰ろうか?」
「? まだよくない?」
「いや、ダメだよ。遅くなったらいけない」
「そう? じゃあ帰ろうか……」
「うん。帰ろう。また会えばいいんだし」
そう言って僕たちはカラオケ店を後にして、なぎが乗るバス停まで歩き僕は、なぎを見送って別れた。なぎを乗せたバスが見えなくなるまで、僕はずっとそこに立っていた。夕暮れのなんか切ない匂いがする気がした。
時系列はまた前後する。入院生活で、食事が怖かったように、入院する前も家族との食事が怖かった。夕食前、父親や母親が料理をしている。でも僕はその光景が怖くた見れなかった。聞こえてくる音だけ聞いていても、母親が自らの腕を切って料理をしているような想像が頭をめぐる。
「バリバリ……ガリガリ……ギギギギギ……」
聞こえてくる音はいかにも奇怪だ。僕は思わず耳を塞ぎたくなった。そのうち食卓に料理が並ぶが、そんな想像をした料理を見て食欲はそそられない。
いただきますをする。そうすると食卓に緊張が走る。両親は僕に怯えているようだ。静かに皆、食べ始める。できるだけ音を立てないように。皆、震えながら食べている。まるで音を立てるのがダメかのように。でも違うのだ。恐れているのは音じゃない。皆、同じ動きになってしまうことを恐れている。僕がおかずを食べようとすると、父親も釣られるようにおかずを食べる。それに気づいた父親は、僕と動きが一緒になってしまうことをひどく恐れているかのように、震えてフォークをテーブルに落とした。音を立てないようにしていたからか、その音がやけに大きく響く。それを聞いて母親もビクッとする。これが永遠と繰り返されるような食事の時間が、震え上がるほど恐ろしかった。
なぎと出かけてから、僕はなぎに会えていなかった。ふと寂しくなって、なぎに塩おむすびのお礼のLINEを送った。数時間して、なぎはそのことには一切触れずに
『寝るのが怖い』と送ってきた。
『話を聞くよ』と僕は送った。するとなぎから電話がかかってきた。
なぎは電話をかけても話さない。その代わりにLINEで文を打ってくる。
『まだ寝ないで』
僕はそれに電話で直接答える。
「うん、寝ないよ」
『星を見たいの』
「星が好きなの?」
『うん、星座が好き』
「ベランダに出てみようかな?」
『私はもう出てる』
「わぁ! 綺麗だ! 久しぶりに星を見た」
『私はいつも見てる』
『オリオン座見える?』
「見えるよ」
『好きな星座』
『ベテルギウスとリゲル。わかる?』
「わからない。なぎは詳しいね」
『好きなだけ』
そんな会話をしながら夜空を見上げていた。なぎはそのうち部屋に入ってベッドに寝転んだようだ。それを聞いて僕も部屋に入る。
『電話を切らないで』
「わかった。切らないよ」
そのまま僕は寝てしまった。朝になって、スマホの向こうからアラームが聞こえた。僕のではない。電話越しになぎがかけたアラームが、聞こえているようだ。あのまま電話を繋いだまま、寝てしまったようだ。多分、僕が先に寝ただろう。寝息が聞こえ始めたら切ればいいのに、なぎは本当に切らなかったようだ。でも、なぜか、それが嬉しかった。ずっとアラームが鳴り止まなかったのに、やっと切れた。なぎが起きたようだ。するとなぎは何も言わずに電話を切った。静寂が部屋を包み込む。僕もそのまま静寂に包まれてしまったかのように、ぼーっと静かにいつまでもベッドに寝転んでいた。
入院する前、また時系列はわからない。僕は薬をもらいに近くの精神科に行った。カウンセリングを受け、処方された薬をもらう。その日の夜に薬を飲んだ。でもそこからだ。おかしくなったのは。鼓動が激しくなる。落ち着いていられない。寝ようと思って横になっても、舌が落っこちてきて、気道が塞がれてしまいそうで怖くれ寝れない。ずっと胸がバクバクいっている状況の中、僕の目は怖くて冴え、とうとう朝が来た。このままでは死んでしまう。僕は本気で思っていた。
なぎがニジファブリックを気に入ったみたいだ。僕にアルバムを貸してくれと言ってきた。僕はまた会える口実ができたから嬉しかった。一週間後にまたなぎと会った。なぎは花柄のワンピースを着ていた。長い黒髪と相まって、とても綺麗だった。でもなぎは、CDを受け取ると、そのまま背を向けた。
「どうしたの?」
僕は慌てて呼び止めた。
「帰る」
なぎはそう言ってもう振り返らなかった。僕はなぎの背中を見送ることしかできなかった。
家に帰って、まあなぎならそんなこともあるよなと、自分を納得させた。一目でもなぎを見れたから良かったと思えばいい。最近、なぎはデイケアに来ていなかった。だから久しぶりに会ったのだ。元気か確認できた。それだけで良かった。なぎはもう直ぐ誕生日だ。そうしたらなぎは十九歳だ。もう高校生ではない。でもそんなことは関係ない。高校生でも、高校生じゃなくても、なぎを大切に扱うことは変わりない。なぎとLINEをしていて知ったのだが、男性恐怖症らしい。なんとなくそんな感じがしていた。それなのに、僕を受け入れてくれて、嬉しいとも思った。だから、なぎを守らなくてはいけない。僕はなぎのオアシスでなければならない。そして、なぎが人にキツく当たるのは、愛着障害だからということも知った。なぎが愛着障害だと知って僕は愛着障害について色々調べた。愛着障害の人は、自分を好いてくれているか確かめるために、無意識で大切な人を傷つけるようなことを言ってしまうらしい。だから、僕はどんなになぎに傷つけられてもいいと思った。それでも僕はなぎのそばにずっといるから。その時はそう思っていた。でも現実は違う。僕はなぎと今いない。未来がこんなことになるなんて、思っていなかった。『もし、未来が変えられるなら』僕はそう心の中で思った。
あの時、どんな行動が最適で、どんな言動が正解だったのか、今でもわからない。結果、僕はなぎを傷つけた。なぎは僕から、何も言わずに去っていった。今、なぎと一緒にいられたら、どんな経験ができただろう? なぎを幸せにできただろうか? なぎを守れていただろうか? なぎの病気を克服させてあげられただろうか? 色々なことが、頭の中を巡る。僕が、なぎのことを大好きだったのは事実だ。どうしても守りたかった。いつも元気にしているか心配だった。今、過去を振り返っていることになんの意味があるのだろう? でも僕は振り返らずにはいられなかった。あの時起きた、僕たちのことをーー。
なぎが、すぐに帰ってしまった日から、一週間が経った。LINEでは、なぎは普通に返事を返してくれる。だから、僕と一緒にいたくなかったとかでは、なさそうだ。
「デイケアそろそろいけそう?」
「うーん。そうだね、久しぶりに行こうかな?」
「やった! じゃあ僕も行こう」
なぎがデイケアに来なくなってから、僕もデイケアに行っていなかった。
「その時、あの本貸して」
「あ、前に言ってたやつ?」
「うん」
「わかった。デイケアに持って行くね」
「いつくる?」
「明日行こうかな」
「じゃあ、明日!」
そんなやり取りをしてLINEを閉じた。明日会える。そう思ったら、嬉しくて仕方なかった。なぎはここのところ精神状態が良くなかったが、徐々にやり取りをしていて、回復している感じがしたので、聞いてみて良かったと心から思った。夜、布団に入りなぎのことを考える。天井を見つめながら、明日何を話そうか考えた。話したいことは次から次へと出てくる。外は冷たく唸るようなガゼの音が、窓を揺らしていた。なぎが電話をかけてきてくれれば良いのになと、思いながらいつの間にか眠っていた。夢になぎは出てこなかった。でもすごく笑っている夢を見たと思う。目覚めが、いつぶりか心地よく感じた。
入院前、時系列は、また前後する。ある日、僕はリビングの隣の和室でスマホを見ていた。何気なく見ていると違和感に気づく。でも今となっては、どんな違和感だったか、あまり覚えていない。おそらく時間が表示されていないとか、検索結果がおかしいとか、そういうものだったと思う。気味悪くなりスマホから小説に持ち替えた。手に持った小説は以前に読んだことのある小説だった。何気なくパラパラめくる。特に違和感はない。初めから読んでみようと、最初のページを読み始める。するとおかしい。内容が全く別の話になっていた。その先もパラパラとめくって読んでみたが、全く読んだ覚えのない内容で怖くなった。これが、冒頭に書いた小説の内容が別物になっていた話である。
怖くなって小説も床に置いた。和室からリビングのテレビが見える。父親がニュース番組を観ているようだ。でも報道しているニュースがおかしな内容ばかりだった。そんなことあるわけないだろといった内容や、ふざけてるんだろと思うような内容ばかりで、思わず笑ってしまった。そのうちCMになった。CMは大丈夫そうだと思ったその時だった。急に早送りみたいにCMの言葉が早口になった。と思ったら、今度は巻き戻る。そしてまた早送り。それを観ていて、また怖くなった。そしてもっと怖いことに気づく。もうずいぶん時間が経っていて、暗くなっても良さそうなのに、窓から見える外は明るかった。おかしい。おそるおそる、スマホを見て時間を確認する。今度はちゃんと時間は表示されていたが、やっぱり午前中の時間を示していて、時間がおかしい。さっき父親が観ていたニュースは夕方のニュースだったはずだ。
そこからが地獄だった。それからまた何時間も経ったのに、まだ外は明るい。そしてさらに時間が経った。もう次の日になっていいくらい時間が過ぎた。でも僕は怖くて寝れない。父親はそんなことないと言わんばかりにまだテレビを観ている。スマホを見る。日付は昨日のままだ。同じ日から抜け出せなくなったと思った。怖くて気が動転していて、僕はそばにあったノートに時系列を書いて落ち着こうと思った。でも書いて余計怖くなった。書くことによって時間が進んでいないことが、より明確になってしまう。もう何日も経った気がする。でも日付は一向に同じ日だった。ここから抜け出すにはどうしたらいいだろう? 異世界にでも迷い込んだのだろうか? そうだとしたら、どうやって抜け出せば良いのだろう? 色々考えた。そして思い当たった。ベランダから飛び降りれば抜け出せるかもと。でも僕は、思いとどまった。まだ理性があったみたいだ。そして、自殺する人の気持ちがわかってしまったと思った。誰しもがそうではないだろうが、僕みたいに、異世界に迷い込んだと思って、抜け出すために飛び降りてしまう人も本当にいるだろうと。
今日のデイケアは、運動の時間がある。確か今日はバレーボールだ。そういえば、なぎは知っているのだろうか? まあなぎが知らなかったら、一緒に残れば良いと思ってあまり気にしなかった。
僕がデイケアルームに着くとなぎはもう机に座って、前と同じように絵を描いていた。隣に座ってなぎに声をかける。
「おはよう。ちゃんと来れたんだね。嬉しいよ」
「何が?」(この何がは、嬉しいに対して言っているようだ)
「なぎが居てくれてだよ」
「ふーん」
僕は思わず笑ってしまった。なぎはわけがわからないというような顔をしている。あまりにも今まで通りすぎた。なぎはなぎだ。そんなところが自然体であることがわかって好きだ。
「そういえば本ちゃんと持ってきてくれた?」
「え? あ、うん。もちろん持ってきたよ」笑っていた僕は、思わず不意をつかれたようになってしまう。気を取り直して、僕はカバンから本の束を取り出してなぎに渡す。なぎはさも当たり前のように「ありがとう」と無表情で受け取った。それでも許せてしまうのがなぎである(他の人ならムッとしたかも)。
そのまま僕も隣で絵を描いた。なぎから話しかけてこないけど、僕が話しかけると、なぎは答えれくれる。そうやって午前中を過ごした。
午後、バレーの時間だ。更衣室で着替えて出てくると、遅れてなぎも着替えて出てきた。なぎの方がデイケアに通っている期間が長いし、なぎにとってはバレーがあることも当たり前のことのようだ。みんなでゾロゾロとバスに乗って、近くの市民体育館に行く。外も風が身に染みる季節になってきている。着くと誰もがイメージするような普通の市民体育館だった。バレーボールなんて授業で数回やった記憶しかない。
デイケアの職員は僕となぎが仲がいいのを知っている。だからか僕となぎは同じチームになった。試合が始まる前に練習をする。なぎは思ったよりはしゃいでいた。トスの練習をなぎと一緒にした。なぎはニコニコいつもより楽しそうだった。
「ええーい!」
「ははっ! いつもより元気だね」
「うるさーい!」
そう言いながらトスをしてくる。意外となぎはバレーボールが上手かった。デイケアでもう何回もしているのかもしれない。楽しそうななぎを見ているのが嬉しくて僕も笑っていたと思う。体育館独特の匂いと、外とは違い少し暖かいその空間に僕たちは、はしゃいで流す汗を落とした。
次の日も、僕たちはデイケアにいた。いつものように絵を描いて、昼食を食べ、午後から、なんとなく2人で外に出た。デイケアの前の道を2人で歩く。何もない一本道だ。もう息も白くなる季節だった。気温が刺すように肌に牙を剝く。少し歩くと、右の坂の上に向けて石段があるのがわかった。僕となぎは吸い込まれるように、その石段を登った。上り切ると小さな社みたいなものがあった。それ以外は生い茂った背の高い草しかなかった。その社の前で、なんとはなく2人で座る。他に誰もいない吐いた息遣いも大きく聞こえるような静かな場所だった。誰も来そうにない。虫の鳴き声も聞こえなかった。
それまで僕は、愛着障害のなぎに気を遣って接していた。でもその時はタガが外れてしまっていた。気づいたら僕はなぎにキスをしていた。なぎは嫌がらなかった。そのまま何時間もキスをしていた気がする。時間がだいぶすぎていることに気づいて、その場から立ち上がった。なぎもつられて立ち上がるが、へにゃへにゃと、足に力が入らないみたいで、また座り込んだ。デイケアに帰ると帰りが遅くて職員に怒られた。僕たちは何事もなっかったかのように、笑って誤魔化した。
そこから何日かは、なぎはいつも通りだった。でも、だんだんいつもより、やり取りするLINEの内容がキツくなり、ある日を境に連絡が取れなくなった。
なぎはキスが受け入れられなかったのだろう。他に思い当たることはなかった。僕はあの時の自分が許せなかった。何度も何度も自分がしたことを悔やんだ。でもなぎは戻ってこなかった。
それから二年経っていた。僕のSNSのアカウントに知らない人から、DMが来ていた。
『あの時はごめんなさい。言い過ぎました』
なんのことかわからない。そもそも誰なんだろう。僕は『どちら様でしょう?』と返した。それには触れずに、また謝り続けている。何通かやりとりしたが、心当たりがないので、プロフィールを見てみることにした。それでもわからない。呟いている内容を流し見して、やっとそれがなぎだと気づいた。
気づいて、なんでなぎが謝る必要があるのだろう、謝るのは僕のほうだと思って、謝りのDMを慌てて送った。なぎは『いいよ』とも『許さない』とも言わなかった。その後も何通かやりとりをして、いつの間にか会う約束をしていた。
なんでなぎは今頃になって、連絡して来たのだろうと深く考えた。でもその時は、わからなかった。よりを戻したいのかもとさえ思っていた。でも今ならわかる。なぎがどういう思いだったのかを。
でも全部意味のないことだ。この未来なら、尚更。嫌気がさすくらい自分が情けなくて仕方がなかった。僕は僕が嫌いだ。
なぎとは瞳さんも交えて会った。なぎは二年で見違えるように大人な女性になっていた。長く少しウェーブのかかった髪。シックなワンピースがよく似合う。瞳さんは相変わらずだった。僕たちはお好み焼き屋で、待ち合わせをしていた。そのまま三人で店に入る。甘ったるいソースの匂いが食欲をそそる。
なぎはSNSで謝って来たにも関わらず不機嫌だった。(そもそも謝る必要がないので良いのだが)瞳さんがその気まずい場を会話を振ってくれて繋いでくれる。なぎが何に不機嫌なのかわからなかった。僕たちはその気まずい雰囲気の中、お好み焼きを焼いて食べた。
愛着障害の兆候が強く出ているのでは? とも思った。そうすると、なぎが不機嫌なのも納得がいく。付き合っていた頃、なぎから例え皆、離れたとしても、僕はなぎのそばに居てあげたいと思っていたのを思い出した。僕らはお好み焼きを早々に食べ終わり、店から出る。そこはデパートだったので、その一角は他にも飲食店が並んでいた。食べ物の匂いが漂っている。
なぎと瞳さんはデザートは別腹と言わんばかりに、今度はカフェに入ろうと言う。僕は流されるままついて行った。瞳さんが、化粧室に行ってくると言って、その場を離れ、僕となぎはその日初めて二人きりになった。なぎはカフェのディスプレイを眺めていて、僕の方を向いてくれない。そんななぎに僕は、話しかけた。
「なぎは何にするの?」
なぎは振り向かない。
「僕は抹茶オレかな」そう僕が言うと「なんだっていいでしょ」とディスプレイを見つめたまま言った。
「元気そうで良かったよ。ーーずっと心配してたから」
「なんで」
「なんでって……」僕はその後の言葉を言えなかった。
瞳さんが戻ってきて、カフェに入る。ほのかに甘い匂いが鼻腔を刺激する。そのカフェは、入ってみると女性客ばかりだった。流石にこれでは一人では入れない。なぎ達がいてよかったと思った。席につき僕は決めていた抹茶オレを頼む。なぎはメニューを見てぶつぶつ言いながら悩んでいる。散々悩んで、なぎはパフェにしたようだ。(ぶつぶつ言っていたのは多分、これじゃ太っちゃうとかだと思う)パフェが来るとなぎは少し機嫌が良くなった気がした。甘いものが解決してくれるなら、僕は今度なぎと二人でどこか出かけることがあったとしても、甘いものが売っている店にしようと思った。
二人とバス停で別れて、僕は駅に向かいながら物思いに耽っていた。なぎは不機嫌だったけど、なぎの顔が見れて良かった。このなぎと会えなかった期間、なぎを忘れることはなかった。それどころか、なぎを失った悲しみで僕は自暴自棄になっていた。だから、再会できたことは本当に嬉しかった。でも、この後、またなぎは僕を捨てることを、この時の僕は知らない。
なぎとはその後も何回か会った。LINEのやり取りも再開していた。(前より頻繁ではないけど)僕はなぎに何かプレゼントしてあげたいと考えた。お詫びではないけどそんな気持ちだった。そしてふと、なぎにプレゼントしたことが付き合っていた時なかったことに気づいた。LINEを開いてなぎのアイコンを探す。
『何か欲しいものない?』
『なんで』
『買ってあげたいから』
『なんで急に?』
『そういう気分なの』
『なんか見返りを期待してるの?何もしないよ』
『見返りなんて期待してないよ』
そんな押し問答が続いて、やっと『それなら財布』となぎは送信してきた。僕が『どんなの?』と聞くと画像が送られてきた。少々値が張る。でも買ってあげようと思った。でも今思うと、それがいけなかったのかもしれない。なぎはその後、プレゼントを度々、ねだるようになった。僕は頼まれるのが嬉しくて、それを素直に受け入れてしまっていた。あっという間に貯金がなくなった。なぎが嬉しいなら、それでもいいと思った。
数ヶ月後、僕はなぎに『まだ好きだ。また付き合ってほしい』と告げた。でもなぎは断った。『恋愛対象ではない』と。じゃあなんで、二年も経って僕にわざわざ連絡をしてきたのだろうと悩んだ。プレゼントをねだるために近づいて来たのかとも思った。でもそれは違う。そもそも僕がなんでもないのに高価なプレゼントをしたのが、それについては、いけないのだから。その時は、いくら悩んでもわからなかった。でも今ならわかる。なぎは自分の中でずっと負い目を感じていて、謝りたかっただけなのだ。本人には聞いていない。でもそれが事実だろう。
告白したのが悪かったのか、それともプレゼントをねだるものがなくなったからなのか、なぎとはまた連絡が取れなくなった。僕はまた、なぎと一緒になる未来を掴めなかった。だから思う『もし、未来が変えられるなら』と。
でも、二度失恋した後の僕は強かった。一時は落ち込んだけど、以前のように自暴自棄になることはなかった。そして今は、病気も落ち着き、だいぶ安定した生活を送っている。『もう壊れてしまって、元には戻らない』と思ったのにだ。今、病気で苦しんでいる人たちに言いたい。僕みたいに壊れたと思うところまでいっても、治すことができる。それは相性のいい薬に出会うことだったり、周りの支えてくれる存在だったり、楽しいと思えることのなどの要因が必要かもしれない。でも、逆にそれがあれば、普通の生活は取り戻せる。絶対とは言い切れないけど、でも諦めないで。あなた達が苦しんでいるのは、僕は痛いほどわかります。無理をせず自分のペースでいいのです。何も改善しないと落ち込むこともあるでしょう。でも大丈夫です。自分を信じてどうか希望を持って生きてください。僕はあなた達の味方です。あなたに素敵な未来が訪れることを願います。
もし、未来が変えられるなら 飾磨環 @tamaki_shikama
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
参加中のコンテスト・自主企画
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます