上級国民の娘

いもタルト

第1話

「死のいいところは、それが誰にも平等に訪れることだ。老いも若きも、男も女も、美人であろうとブスであろうと、才能があろうがなかろうが、確実に死は平等に訪れる。そして、それを実現するのに、何の努力もいらない」

 中学三年生の夏休み、昼下がりにエアコンの効いた自室でオレンジジュースを飲みながら宿題を片付けていた私は、ノートの片隅にそんな文章を書いた。


 どんな人間だろうと、どんなにダメ人間だろうと、やることなすことにっちもさっちもどうにもいかなかった人間でも、確実に、死だけは立派に達成できる。

「それが庶民であろうと、上級国民であろうと」

 ついでにそれも、書いておいた。


 まだ人生を14年と数ヶ月しか生きていない中学生の小娘が、悟りすましたようなことを言うのはおこがましいが、私が思うに、この世界の住人は死が好きだ。


 いつも死のことを考えて生きていると言っていい。

 努めて精力的に、死を身近に感じようとしているその努力には、本当に頭が下がる思いだ。


 例えばニュース。テレビをつければ、誰かが亡くなったというニュースを聞かない日はない。


 ○○県の△△さんが、□□に◇◇して死亡しました。

 □□県の◇◇さんが、○○の△△により死亡しました。


 今日もニュースキャスターは、戴冠式に臨む某国王のような厳粛な表情で、死亡の記事を読み上げ続ける。


 こちらは死亡した人の名前を聞いたって、分かりゃしないのに、ごく一部の人しか知らない人物の訃報を、それが自然死ではないという理由だけで、全国ニュースで報道する意味がどれほどあるのか。


 考えられる理由は一つしかない。死を身近なものとして、いつもそばに置いておきたいのだ。だから、どこかで誰かが突発的で不自然な死に方をすると、無名の人物であっても、それは丁寧に一つ一つ報道される。


 そしてその名前はすぐに忘れ去られ、人々はまた新たな死の報道を求める。

 死の拡大再生産ーーー。


 かくいう私の母も死んだ。しかし、それはニュースにはならなかった。不自然な死ではなかったからだ。まだ小学生だった私にとって、それは不自然で不条理なもの、そのものに他ならなかったのだが。


 死というものが大好きな、この世界の住人は、わざわざ架空の世界を創ってまで、死を忘れまいとする。探偵ドラマでは温泉で殺人事件が起こり、大河ドラマでは侍が斬られ、馬に踏んづけられる。全米が泣いた大スペクタルSF映画では、何万人もの人々が、爆弾で吹き飛ばされる。


 メメント・モリ。死を忘れるな。しかしこの世界で生きる限り、死というものは忘れようとしても忘れられない。まさに死ぬことは生きること。死というものは、望んでいなくても、向こうの方からやってくるのだ。


 それはまるで酷く喉が渇いた夏の夜に、台所で黒い小さな塊に遭遇してしまったときのようなやるせなさを持って、この私に現実が根本的に不条理であることを教えるのである。


 そう、それが庶民であろうと上級国民であろうと。

 だから、こんな不条理なことに遭遇するのは、決して私が上級国民の娘であることが原因ではない、と思う。


「ぐ……」

 私は声にならない声を噛み殺した。

 いる。

 それは夏休みの宿題に一区切りをつけて、一般的な夏休みの宿題に一区切りをつけた中学三年生が誰しもやるように、台所に行って冷蔵庫の中を物色しようと席を立ったそのときだった。


 まるで突如として現れて純情な青少年少女を異世界へと誘う魔法陣のように、それは何の前触れもなく出現したのである。


 黒い……。

 それを説明するための特徴は他にもいろいろあるだろうが、瞬時には色としてしか認識できなかった。


 体調にして数センチもない。物差しで測ろうとしてもわざわざ物差しを持ち出すまでもない大きさだが、まるで死のように紛うかたなき強烈なインパクトを伴って人類に衝撃を与えるアイツが、絨毯の上にいた。ミントグリーンの絨毯の上に、ぼてっと落ちたあんこの塊のように、確かな存在感を持って鎮座していた。


 私はチラッと壁掛けの時計を見た。まだこういうのが出てくるような時間ではない。

 が、現実的に出会ってしまった。


 あるいは神がこの日このときこの時間と場所を選んで出現させたのか。邂逅。神の計画は、人の予想など優に超える。


 久しぶりだな、と思う。

 何年振りだろう。

 少し懐かしいような気もする。

 でも、それよりもなんでこんなところで、という疑問の方が大きかった。

 普通、台所だろう。このバカチンが。


 福岡に住んでいた頃には、良く見かけたものだ。でも、父親の転勤で東京に戻ってからというもの、ついぞお目にかかったことはなかった。しかもタワーマンションで。


 こんなところにもいるんだな……。

 私はしばらく彫像のようにじっとして、野生の逞しさに感心していた。こんな非人間的なコンクリートの天国にも、まだじっとりとした生命の営みが残っていたのだ。


 まさにSDGs。三億年前から連綿と続いてきた日陰者人生は、持続可能だ。SDGsのGとは、きゃつらのことだ。


 一方でやっこさんの方も、まるで三億年ぶりに発見された化石のように、微動だにせずにいた。ミクロの世界では、常に忙しなく分子と電子が行ったり来たりしているのだろうが、都会の生活に慣れた私の目には、それは自分が動けるということを忘れてしまったように見えた。


 どうしよう……。

 刹那の麻痺状態から回復した私の脳細胞が、解決策を探して、ぎこちなく回転を始める。だが、やはりまだ麻痺は続いていたのだろう。


 神経細胞の中をプラスとマイナスの電子があっちに行ったりこっちに行ったりした結果、脳みそのスクリーンに像を結んだのは、遠い母の姿であった。


 母は、こういうのが苦手な人だった。


 だから、上級国民の父の転勤についてイヤイヤ福岡の借家に住み始めて以来、しばしば我を忘れて取り乱すことがあった。


 いつもこういうものが出現すると、我が家は狂気と阿鼻叫喚の蝋人形の館へと次元をトリップした。

 およそ人のものとは思えない奇声。吹き荒れる殺虫剤の嵐。まるで神が振り上げた拳を落とすかの如く、雨霰と降り注ぐスリッパの雷。


 あのとき母の口から発せられた咆哮は、本当に彼女の体から出てきたものなのだろうか?

 あるいは進化の過程で人間が森に置いてきたものたちの亡霊が、母の口を借りて出てきたのかもしれない。いつもそんなふうに思っていた。


 まだ小学生だった私は、あっさりと福岡に適応してしまい、同級生の話すとんこつ風味の濃厚な博多弁も、知らず知らずのうちに口にするようになったのだが、母は死ぬまで福岡を憎んでいた。


 じんわりとした太陽光とノスタルジックでエネルギッシュな雑踏感を憎み、半分生気を失ったような灰色の人で満ちた灰色の街に戻ってくることを望んでいた。


 だがその願いも叶わず、彼女は福岡で客死してしまった。私が本格的な思春期を迎える前に、涅槃に入ってしまった。もしかしたら、自然と人情に触れ合い過ぎたせいで、彼女の持つ冷的な回路がオーバーヒートを起こしてしまったのかもしれない。


 あるいはそれは、彼女が上級国民の一員であったことが関係していたのかもしれない。無分別に彼女の繊細な感性に割って入る福岡の濃い人情は、彼女をして庶民の血と涙の上に成り立っている自分の幸せという事実を、否が応でも直視せざるを得ないように仕向けたのかもしれない。


 だから自らを罰するために、ナントカっていう名前もこんがらがってるような国指定の難病にかかり、死んでいったのだ。


 罪悪感ーーー。

 我々を矮小な存在に貶める、原罪ーーー。


 長いこと病院に縛り付けられていたが、何一つ改善はされなかった。

 入院。

 投薬。

 入院。

 投薬ーーー。

 いつも母が飲んでいた大量の薬。あれは一体何だったのだろう?本当に薬だったのかどうかも疑わしい。毒ではなかったのだろうか?もし、あれが本当に薬ならば、どうして彼女はあんなに苦しみ抜いて最期を迎えねばならなかったのだろう?

 冒涜的だがその姿は、私に殺虫剤を浴びせられた黒い虫を想像させた。


 ……なんてこったい。

 殺虫剤、持って来なきゃ。


 なんでこんな風な頭の動き方をするのだろうと、我ながら自己嫌悪に陥る。

 それよりも、今はもっと実践的なことに脳細胞を使わねばならないのだ。


 私は殺虫剤の置き場所を思い出そうと試みた。玄関の靴箱の中だ。よし、頭は正常に動いている。さすがは上級国民の娘。でも、遠い……。


 はたして、こいつを刺激せずにそうっと部屋を抜け出し、また戻って来て逃げられないように的確に正確に殺虫剤を噴霧する余裕がこの私にあるだろうか?


 それにかわいそうだし……。


 まるで猛毒の白い霧のように、迷いのもやが頭の中にかかる。その中に、チラと、母の姿が見えた、ような気がした。


 次の瞬間、私はあるアイデアを思いついていた。それはいいアイデアだと、そのときの私には感じられた。あるいは勉強で疲れた頭がバグを起こしていたのかもしれない。あるいは私が上級国民の娘であるせいか。


 視界の中で急に存在感を増してきたのは、とっくの昔に飲み干したままになっていた、オレンジジュースのコップであった。


 私は机の上のコップをそっと手に取ると、音を立てないようにして卓上のティッシュ箱からティッシュを一枚取り、わずかに内壁に付いていた液体を慎重に拭った。


 さて、捕物。

 忍足で、やっこさんの後ろに回る。息を潜めて、そっと距離を縮める。

 十分射程範囲に入ったところで、さっとコップを逆さまに被せた。


 よし、成功。

 ホッと一息。


 中の生き物は、一瞬ビクッとしたように見えた。突如として現れた新しい空間に戸惑ったように、ガサ、ゴソ、と数回身を動かしたが、その後は様子を伺っているかのようにじっとしていた。

 ただ頭の触覚だけが、鞭のように忙しなく動いている。


 しかし、やれやれ。

 これで私は安心である。薄いガラス一枚隔てた外の世界は、完全な安心が保たれている。どんなに有害な宇宙線が飛び交っていたって、どんなに凶悪な病原体が存在していたって、この中は安全なんだ。

 外だけど。


 でも、これで心置きなく歩くことができる。側を通ったって、これは逃げていかないんだ。

 そう思ったら、余裕が出てきた。急ぐ必要はない。私はいったん、一息入れることにした。


 まずはさっきしようとしていたことをやりに行く。

 私は堂々と部屋を出て、台所に向かった。冷蔵庫を開け、冷えたオレンジジュースを取り出す。新しいコップに、それを注いだ。


 一気に飲み干し、そして三種の思考を精神のピザにトッピング。

 ①あのコップは、もう使えないな。

 ②洗剤できれいに洗えば大丈夫。

 ③このことを知っているのは、家族で私だけ。私さえあれを使わなければ……。


 人の口に入るようなピザじゃないな。

 まあいいさ、と、私はオレンジジュースを冷蔵庫にしまう。


 思考、思考、思考。思考から生まれるものは罪悪感のみ。まだ14年と数ヶ月しか生きていなくても、そんな思考実験はすでに何度だって繰り返しているんだ。


 でも、あれをあのままにしておくわけにもいかない。

 どうしようか、と思ったとき、再び私に素晴らしいアイデアが降ってきた。やはりここでも素晴らしいと思ったのだ。きっと頭がバグっていて。


 私は家の中で一室、物置き(あるいは体のいい思い出置き場)として使われている狭い部屋に行き、汗だくになって、昔使っていたアクリルの虫籠を探し出した。


 さっき飲んだオレンジジュース、全部汗になって流れ出た。青いカーペットに水滴がポタポタ。これがリトマス試験紙だったら、誰が侵入したか一目瞭然だ。


 再び台所に戻ると、冷蔵庫を開けてオレンジジュースをもう一杯。すぐに飲み干す。

 奥を探すと、誰かの土産物でもらったバターサンドが残っていた。そいつを一個ポケットに突っ込む。


 虫籠を下げて部屋に戻る途中、リビングに寄って広告のチラシを一枚拝借する。

 彼はコップの中でじっと私を待っていた。性別は確認していないが、私の中ではその黒く強烈な印象を残す塊は、彼だと思った。


 ちょっと胸がチクッ。

 エアコンの吹き出し口を見る。大丈夫、ちゃんと稼働している。こいつらがどれだけの時間コップに閉じ込められたら熱中症になるのかわからないが、27度以下なら心配ないだろう。


 大丈夫、大丈夫。触覚だってチョロチョロ動いている。

「君、お引越しするよ」

 と声に出して言って、私は大仕事に取り掛かった。


 そっとコップを傾け、微妙な隙間を作る。

 そこにチラシを挟み込み、コップを戻して隙間を消す。


 どうかこの上に乗ってくれ、と祈りながら、ギザギザのついた足と絨毯の間に、チラシを滑り込ませていく。


 ずりずり、ずりずり。

 そうそう。イイコイイコ……。


 成功。さらにチラシを入れ込み、向こう側にもしっかりと出す。

 よし、これで籠の中の鳥。


 チラシでコップを包み込むように、隙間が開かないように持ち上げ、そうっと虫籠の中へ下ろす。

 着地。

 コップを引き上げ、素早く虫籠の蓋をする。チラシはそのままで良い。


「ふう」

 と、思わず声が出る。無事に一仕事やり終えた。

 うまくいった。誰も傷付けないし、誰も汚れない。


 あ、そうそう。忘れずにバターサンドも入れておく。虫籠の蓋の餌やり用のスライドをずらして、チラシの上に落としてやった。


 善行。

 私は上級国民の娘だが、いい上級国民の娘である。

 おじいさんにも、いいおじいさんと悪いおじいさんがいるように、私はいい方なのだ。


 彼はまだ新しい環境に馴染めずにいるのか、バターサンドには目もくれずにいる。チラシの上を警戒するようにガサゴソ動いている。ま、そのうち嫌でも腹が減る。そうすりゃ気付くだろう。三角コーナーではお目にかかれない、大ご馳走があることに。


 さて。

 これからどうすりゃいいんだ?

 捕まえたのなら、家の外に出せばよかったじゃないか。

 でも、ここマンションの11階だし。

 いや、廊下に出せばいいだけでしょ……。


 短期間に私の頭は幾度となく迷宮に迷い込む。が、深淵に分け入る前に、閃光のような煌めきを持って切迫性を語りかけてきたものがあった。


 そうだよ、そうだった。

 私はオレンジジュースのコップを手にすると、急いで台所へ向かったのであった。



 それからしばらく、私は彼のことを忘れていた。しばらく、と言っても、ほんの数日のこと。だから彼からメールでそちらに遊びに行ってもいいか、と入ったとき、そんなに罪悪感は感じなかった。


 いや、バターサンドの彼は、部屋の隅でひっそりしている、はずである。私はそいつを部屋の出来るだけ目に入らないところに押しやり、すっかり忘れていたのだ。


 メールの彼は、この夏休みに入る直前に初めて出来た人間の彼。同級生の男の子の方だ。


 彼は階級的には上級国民の息子ではないが(日本に階級はない。そんな批判はごもっともだが、不要である。私はあくまでイメージを言っているのだ)、有象無象の庶民から一代でのし上がったおじいさんの息子さんの息子さんの息子さんであるから、概念的な上級国民と言えるのかもしれない。


 そもそも、私が通っている、というか所属している(私のアイデンティティ)エスカレーター式の学校には、階級的であろうと非階級的であろうと、そんな奴しかいなくて窒息しそうなのだが。


 そんな中、彼は四代目でしかも次男坊ということもあってか、ギラギラした上昇志向は100リットルのオレンジジュースで割ったビーカー一杯の塩酸ぐらいに薄められているし、元が叩き上げだからか、エリート臭も封を開けて三日経った後のポテトチップスぐらいには薄められている。


 生物部の部長で、鉄道研究会にも在籍しているから、世の中のマチズモに対しても背を向けている。そこがいいのだ。もしこれが野球部のキャプテンでサッカー部にも在籍していて、すでにプロの球団のスカウトが注目しているとかだったら、絶対に彼の告白を受けたりはしなかった。


 そんな彼は、昨日までハワイに家族旅行中であった。上級と言っても一年のうち366日を国家に縛り付けられている私の父親とは、こういうところが違う。余裕がある。と言うより、ウチには余裕がない。私は海外旅行など行ったことはない。上級の意味とは、自己犠牲の上級者ということか。


 羽田に戻ってきて、早速メールが来た。土産物などを持参して拝謁に来るらしい。よかろうもん。陳情なら会ってやる。


 一応、ジュースも用意しておいてやる。いや、好意を惹きたいがためではない。水分不足による熱中症を心配しているがゆえだ。バターサンドは……、あれはもう全部食べたっけ。仕方ない、煎餅ぐらいあるだろう。洋行帰りは、和のものが欲しくなるものだ、ちょうどいい。


 なんだかソワソワしている。まさか、たかが彼が家に来るというだけで、この私の気持ちが昂っているのだろうか。そういえば、彼のバターサンドはどうしたかな。もしすでになくなっているとしたら、新たな食事を与えてやらねばならぬ。


 と、部屋の片隅に追いやったままになっていた、虫籠の中身を確認する。うん、よしよし。まだバターサンドは残っている。この調子だとあと一年分はありそうだ。


 エアコンの設定温度は27度だし、私はワンピースに着替えた。なんだこれ、なんだか好きな人を待つ乙女みたいだ。


 色の付いたリップクリームは……、って、やだやだ。これじゃ期待しているみたいだ。彼はただ、女王陛下に貢物を納めに来るだけなのだ。


 私は上級国民の娘ではあるけど、世間の中三男子が考えていることくらいお見通しなのだ。彼は一歩を進めたがっている。この夏を特別なものにしたがっている。それが世界中の中三男子に見られる普遍的な兆候なのだ。


 初めて出来た彼女と、一つ先のステージに行きたがっている。


 そのために女王陛下がお気に召すような異国の珍品を持ってやって来る。日に焼けた肌を見せつけに、ココナッツの香りを纏って、愛する人の元へと馳せ参じるのだ……。


 どうしよう、アロハシャツにサングラスとかで来たら……。


 そうこうしているうちに、ピンポーン!胸に付いたレバーが急に上まで跳ね上がる。準備は万端だったかしら?何言ってんだ、このマセガキが。


 慌ててブルーライトカット眼鏡をかけて、玄関に出ていく。

 なるべくクールに、

「いらっしゃい」

 ほっ。

 良かった、カメハメハ大王じゃなくて。彼はファストファッションのポロシャツにハーフパンツの出で立ちだった。ジロリと頭の上までチェックしてみたが、サングラスはどこにも見当たらない。足元もビーチサンダルではなく、タウン用。変な匂いもしない。背中に背負っているのは、亀の甲羅ではなく、地味な色のリュックサックだった。


 ただ、見事にマカダミアンに日焼けをしていた。でも安心。私が掛けているブルーライトカット眼鏡は紫外線もカットしてくれるから、そんなことで動揺したりしない。


「眼鏡、掛けてたっけ?」

「タブレット使ってただけ」

「宿題でもやってた?」

「うん、ちょっと」

 なんでもないのよ、なんでもない。完全にいつもと同じ。平常心。さりげなく眼鏡を外す仕草がセクシー。


「ご家族の人は?」

「お父さんは仕事。弟はプールに遊びに行ってる」

 お母さんは、前に説明したよね?

「だから夕方までは誰もいないよ」


 ……って、なんで私こんなこと言っちゃってんだろう?これじゃ私から誘っているみたいじゃん。でも、階段を一気に一番上まで駆け上がるようなマネは許さない。軽く見ないでよね。


 スポンテニアスに、とてもスポンテニアスに、自分の部屋に誘導する。

 ただ玄関で立ち話もなんだし、エアコンの効いていない場所で熱中症が心配。だから健康問題。スポンテニアス。


「ふう、暑い。東京の方が暑いくらいだよ」

「そうなの?」

「うん。爽やかだし、いっても30度くらい」

「東京は人の住むところじゃないね」


 だから健康問題。エアコンの効いた部屋に入って彼は一言。

「ああ、涼しい」

「生き返るでしょ」

「うん」

「オレンジジュースをどうぞ」

「ありがとう」

「お煎餅もあるわ」

「気が効くね」


 絨毯の上に座布団を二つ敷いて、オレンジジュースとお煎餅でしばらく旅の話を聞いてやる。海だの、白い砂浜だの、退屈な話が続いたが、イルカと泳いだってそれ現実か?中学生のくせしてゴルフをやったって、ウチの生徒なら特に珍しくもないか。


 しばし彼がまだハワイから戻ってきていないのではないかと心配になった。まさか肉体は日本にあっても、魂はワイキキの砂浜に埋まったままなのではあるまいな。


 でもハワイに新しく出来た高架鉄道に乗った話になり、ようやく彼が彼らしさを取り戻してホッとした。うん、イイネ、君。そういう話になるとイキイキしてるよ。


 私はといえば、夏休みはずっと東京に縛り付けられていた。ただ背が高いだけで人間性を失ったバベルの塔に閉じ込められて宿題をやっているか、塾の夏期講習に出ているか、暑さでクラクラしているかだけ。


 あっ、そういえば……。

 私の生活にも変化があったんだ。

 あれを彼に見せてあげよう。生物部の部長なら興味を示すかもしれない。

 だって、すごいでしょ。どうやって捕まえたかきっと想像もつかないよ。ハワイの鉄道に乗るより偉業だよ。


「あ、そうそう……」

「あ、そうだ。お土産渡してなかった」

 と、彼は私が言いかけたのを遮って、リュックをゴソゴソ中身を取り出した。


 なになに、なんだろう?

 好きな女子に貢ぐためにわざわざ買った舶来物と来たら、単純に興味津々である。

 普通、この場合どんなものをプレゼントするのか。なにしろ相手はハワイなのだ。ココナッツ味の明太子か、それともヤシの実の豚骨ラーメンか。


「ハワイといえばこれだよね」

 と、出してくれたのは、例のやつ。いつか誰かのお土産で5回ぐらいもらったことのある、ナッツの入ったチョコレート。


「ありがとう……」

 これならカブトムシの砂糖漬けの方が良かったかも。

 なんてことは思ったが、食べてみるとそれなりにうまい。さすがは太平洋の荒波に揉まれて育った定番土産だ。しょっぱい煎餅の後ということもあって、余計に甘く感じる。


「おいしいね」

「そうだね」

 やだ、私、すごく単純な女みたい。

 チョコレートなんかで買われるだなんて、まるで終身雇用というエサに飛びついて人生を売ってしまった役人みたいだ。


 でも、思ったより久しぶりだったし、記憶の中にある味を超えていたし、パッケージを開けたときに解放されたハワイアンな空気だって、微量ではあるがこの部屋の中に混ざっているし、ときどき二人の肩が触れ合うせいではない。


 私、なんでこんなに近くに座布団敷いたんだろ。私の方からは、決してそんなつもりではなかったのだ。本当に、なんの下心もなく、無造作に座布団を敷いたらこんな距離だったのだ。


 あるいはそれは私が上級国民の娘で、分かっているつもりではあっても、真に庶民のことを分かっていなかったせいなのかもしれない。普通はこういうとき、もっと座布団を離して敷くものなのかもしれなかった。


 口の中がチョコレートの味一色になったところで、彼の様子がおかしい。なんか、沈黙。不自然な、間が入る。間は、魔じゃないか。真ではないだろう、たかが中学生の恋愛に。


「ねえ……」

「うん、何……?」


 やだ、真顔。この間はきつい。間が持たない。磁力。不思議な磁力。二人の顔と顔、唇と唇の間にある間は、間は、間は、間は、真、真、真、真、魔……。


「あ、そうだ!」

 わざとらしく言って、座布団から立つ。

「見せたいものがあるの、私の夏休み」


 部屋の片隅に瞬間ワープ。虫籠の様子を覗く。

 ウ……。

 死んでる……。


「ねえ、どうしたの?」

 肩の感触に彼の手が掛かる。

 ということは、振り返れば息が掛かるところに彼の顔があるわけで……。


「ね、ねえ」

「何?」

「目、閉じてくれる?」


 私は咄嗟に虫籠を開けると、カラカラになった彼を素手で捕まえ、潤いのある唇にそっと当てた。彼の……。


「ん……、何これ?」

 眉間に皺を寄せて、彼は自分の唇に手をやった。手のひらに残った黒いものを見て、狂気に魂を売り渡した。

「ひっ……!」


 まるで悪霊に取り憑かれたように、不自然な動きで後ずさる。倒れるコップ、こぼれるオレンジジュース、ひしゃげるチョコレートの箱。


「ひいっ、ひゅ、ひょっ、ひゅしゃーっ!!」

 これ、絶対に人間の声帯から出てきた音じゃない。森に取り残された亡霊たちの咆哮だった。

 慌ててリュックサックを抱え込むと、彼はほうほうの体で部屋から飛び出した。

 ドタドタと遠ざかる足音。乱暴に開けられ、そして閉められる扉の音。


 あーあ。

 私はたった今尊厳のかけらもない扱いをされた、彼の小さな死体を手に取った。

 ごめんね、君。こんな社会で暮らさせて。


 そういえば、奴は部長だったな、生物部の。上昇志向のある奴に、死のなんたるかが分かってたまるか。

 私は彼の死体をティッシュペーパーで丁寧に包むと、埋葬するために外に出たのであった。

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