青いメガネと初恋と【完】

 あれは小学校の低学年だから、もう十年も前だ。


 クラスに、メガネのよく似合う女の子がひとり転校してきた。他にかけている子がいなかったから、彼女のあだ名はそのまま「メガネ」になる。

 そして、何かにつけ疑問が出ると「メガネに聞いてみようぜ!」からの「メガネのくせに知らないんだ?」がお約束になった。


 恥ずかしながら、孤独を愛する前の俺もそのクソガキムーブに参加していた。


 はじめは困ったように笑っているだけだった彼女は、ある日いつもの「お約束」のあと無言で立ち上がり、おもむろにメガネを外して────教室のすみのゴミ箱に、捨てた。


 それでようやくクソガキどもは理解した。彼女を傷付けていたのだと。


 突然のことで、女子たちもどうすればいいかわからなかったのだろう。気まずい沈黙のなか、席に戻り顔を両手で覆った彼女のすすり泣きだけが響いていた。


『──勉強は、できるだけでいいよ。ただ“ありがとう”と“ごめんなさい”だけは、ちゃんと言葉に出して伝えられる人間になってほしいんだ』


 病室のベッドで色んな管に繋がれ横たわる父親に言われたのは、その数日前だったと思う。

 いま教室に響く彼女のすすり泣きと、病室で隣から聞こえていた母親のそれが頭のなかで重なったとき──俺は考える前に立ち上がっていた。


 ゴミ箱に駆け寄ってメガネを拾いあげ、まっすぐ彼女の席の前に向かう。


「ごめんね」


 そしてハンカチで拭いたメガネを差し出した。

 しかし彼女は顔を覆って鼻をすするだけ。


「……このメガネ、かっこいいよね……」


 何か言わねばと思って絞り出した言葉。

 鼻をすする音が、止まる。


「……ありがとう……」


 顔から両手を離すと、彼女はメガネを受け取ってくれた。

 消えそうに儚い声と、涙で潤んだ上目づかいの瞳、はじめて直視するメガネなしの素顔。

 そのとき、いままで感じたことのない強烈な気恥ずかしさに襲われた俺は、何も言わず早足で席に戻っていた。

 入れ替わりに他の女子たちが彼女の席を囲み「ちょっと男子ー!」とかやりはじめる。


 いま思えば、あのとき浮かんだ感情こそ、俺にとっての初恋だったのかも知れない。


 その学期末、彼女は再び転校していった。

 最後にお別れ会的なものが開かれたらしいが、俺は参加できなかった。


 ちょうど、父親の葬儀と重なったから。


 記憶の中で思い出した父の声は、病のせいで弱々しかったけど、例の擬音の低音ボイスと声質が似ていた気がする。

 そういえば母も「顔は好みじゃなかったけど、美声イケボに惚れたのよねえ」とか言ってたな……。


 もし父が健在だったなら、その声は擬音とよく似たダンディボイスになっていたのかも知れない。

 

 ──そうして、俺は思い出す。「さよなら」の一言も伝えられず、それきりになったあの女の子の名前を。


「──さえちゃん?」


 落ちる沈黙。擬音は鳴らない。

 えっ、まさかここまで来て別人? そんなことある? 俺が不安に襲われた、瞬間だった。


『……ボンッ!!!!』


 不意打ちで、爆発音が鳴り響いた。もちろん本物ではなく低音ボイスによる迫真の演技だけど、発生源である片瀬さんは無事ではなさそうだ。


「だめ……ちゃん付けとか……もうムリ……」


『ぷしゅぅぅぅぅ……』


 耳まで真っ赤にした彼女の、うわ言のような呟きに、蒸気的な何かが噴出される擬音が続いていた。片瀬さん=さえちゃんは間違いなかったようだ。


 噴出音が収まるまでしばらく待ってから、うずくまる彼女に俺はメガネを差し出した。


「ごめん。ずっと、気付かなくて」

「わたしは、すぐに、わかったよ……だって、きみはわたしのヒーローで、あれが初恋だったから……」


 微かに震える声で答えながら、彼女は片手で顔を隠したままメガネを受け取る。

 初恋……彼女にとっても、そうだったのか。


「……でも、ちょっとイメージとは違ってた。前よりすごく、ウジウジした感じで……」


 それは本当に、心から申し訳ないと思う。けど、これが今の俺だから。


「話しかけたかったけど、すごい壁っていうか『俺に話しかけるな』オーラ出してるから、どう声かければいいかわからなかったし……」


 えっ、それじゃあ、まさかとは思うけど……


「そのために風紀委員に!?」

「ちっちがうのっ! 風紀は中学の先輩に誘われてたの!」


 下を向いてメガネを掛け直そうとしていた彼女は、俺の言葉に焦って顔を上げ訂正した。

 おかげで、十年ぶりに素顔の彼女の上目遣いと視線が噛み合った。


 震えるまつ毛の下で潤んだ瞳、赤く染まった頬。いつものクール完璧美少女がギャップによって超強化され、どえらいことになっていた。


『キュン!』


 ──お互い、慌てて目を逸らす。


「……でも、きみが遅刻しかけたとき、風紀委員だったおかげで自然に声をかけられて……そしたら『ごめん』って言われて……あのとき・・・・も謝ってくれたの思い出して……」


 あのとき……小学生の俺が小学生の片瀬さんにメガネを渡した、あのとき。


「何度も注意してたら、そのうち思い出してくれるかもしれないなって思って……あとね……注意だとしても、お話できるのが嬉しくて……」


 片瀬さん、不器用すぎるよ。でも、俺にどうこう言う資格はない。


 思えばあのころ、父親と初恋の女の子が同時に自分の前から「いなくなった」ことは、幼かった俺の心に大きな影を落としたのだろう。

 別離わかれの痛みを恐れるあまり、他人との間に最初から壁を作って、内に閉じこもるようになった。それを自覚しながら、ずっと目を逸らしてきた。


 ──俺は孤独を愛しているんじゃなく、孤独に逃げ込んでいるだけだった。



「それに、きみがみんなと話すきっかけにもなるかなって」

「きっかけ……?」

「わたしが注意したあと、みんな慰めてくれるでしょ?」


 たしかに、俺が彼女に責められたあとは決まって、クラスの男子たちがそれとなく声をかけてくれた。


「いやあ、姫は今日もキレキレだねえ」「まあなんだ、あんま気にすんなよ」「しかしなんで小野ばかり……うらやましい……」


 ちなみに最後の発言は級長の増田君だ。彼は優等生なので片瀬さんから責められる機会がなく、いつも俺に羨望の眼差しを向けてくるドMへんたいだ。


「……ありがとう。でも、そういうのはいいよ。俺のことなんて、みんな興味ないだろうし」


 彼女の気づかいは本当に嬉しかった。クラスメイトも、本当にいいやつらだと思う。だからこそ、このままでいい。

 俺のことなんか、放っておいてくれればいい。


「やっぱり、自覚ないよね。授業中にきみが教科書を読んでるとき、女子がみんなきみの声にうっとりしてること」

「……は……?」


 ふと、母親が嬉しそうに言っていたのを思い出す。

 声変わりしてからどんどん、俺の声が父親の美声それに似てきていると。


「……だからダメなんだよ……そんな声でちゃん・・・付けとか、もう校則違反だから……」


 あまりに想定外の情報を聞かされ呆然とする俺の前で、メガネを掛け直し立ち上がった彼女は、スカートのしわを直しながらぶつぶつと呟いている。


「放送部の吉沢さんと演劇部の阿部くん、どっちが先にきみをスカウトするかでモメてるのも知らないでしょ? きみはお昼休みすぐどこか行っちゃうし」

「……そう……なんだ……」


「まあ、行き先はもう突き止めたわけですが」


 俺が情報を整理し切れずおろおろしているうちに、すっかり氷姫の空気を取り戻した片瀬さんは、まっすぐクールな視線を向けてきた。


「いろんな、理由があるのかも知れません。だからちょっとずつ、できるだけでいいから。きみの作ったそのをね、少しだけ低くしてみてほしいな」


 けれどその言葉は、いつもの尖った氷のようなそれとは違って、優しく俺の胸の中にしみ込んで、いちばん深いところを温かく満たしていく。


「……やって、みるよ……」


『ふわり』


 思わず答えてしまった俺の言葉に、擬音が重なった。それは彼女の浮かべた柔らかな微笑みと、初夏の風に乗ってとどいた、仄かな甘い香り。


 ──そうか。あのノートは。


「うん。でもね」


 すぐに微笑みを消してクールに戻った彼女は、いつもの冷たい声で宣言する。


「あんまり他の女子と仲良くしないこと。その際は不純異性交遊の疑いで厳重注意します」

「はい……え……?」

 

 反射的に返答してから、思い切り困惑した。そこまで厳しい校則はないはずだけど……。

 対する片瀬さんはメガネの中央に白い指を添え、『クイッ』の擬音と共に言葉を続ける。


「だって、きみが自分で言ったんだよ? 今後そういう・・・・目で見てもいいのは、わたしのことだけ」


 ──弁論大会優勝を甘く見ちゃいけなかった。彼女を試すために放った決め台詞キラーワードは、まんまと自分の首を絞める鎖にすげ替えられていた。でも、それは不思議と嫌じゃなくて。


「それじゃ、わたしは先に教室に戻ります。もう時間ないから、遅れないでね」

「……ちょっと待って、片瀬さん」


 くるり背を向け、屋上の入り口にすたすた歩き出した彼女を、俺は呼び止める。


「何? 前言撤回とか、受け付けないから……」


『……ドキドキ……ドキドキ……』


 足を止めた背中から聞こえるのは、態度と裏腹の不安げな擬音。俺は覚悟を決めて、孤独から踏み出すための言葉を絞り出した。


「ええと、その。ノート届けてくれたの、片瀬さんだよね? ありがとう。今度、お礼にご飯でもおごらせて」


 彼女は背を向けたまま「うん」と小さくうなずいて、少しの後に付け加えた。


「今日の放課後、駅裏のカフェのケーキセットを所望します」

「……じゃあ、それにしよう」


 俺の返事を聞くと、耳を真っ赤に染めた彼女は逃げるように走り去る。

 スキップ寸前の軽やかな足取りで、一歩ごとに『るん、るん』と擬音を響かせながら、その背は鉄扉の向こうに消えていった。


『キュン!』


 他に誰もいない屋上に低音ボイスがはっきり響く。

 それはもう誤魔化しようもなく、俺の胸の内側から鳴っていた。

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きみの胸からキュンがきこえる クサバノカゲ @kusaba

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