日常
木村文彦
日常
コンビニでおじさんが、煙草を買っている。
銘柄は、セブンスターだ。
確信を持って、予想する。
「70番を一つください」
こちらは、缶コーヒーを店員に差し出す。
「缶コーヒー1つですね、150円になります」
隣でレジを済ませたおじさんはセブンスターを持って、コンビニから出ようとしていた。
当たりだ。
何も嬉しくない、当たりだ。
今日も朝が始まるアラーム音のような、当たりだ。
社会人になって長い年月が経ったなあ、とセブンスターを持つおじさんの背中を見て、感慨に耽っていた。
新入社員の頃、最初は職場に行くことだけですら、緊張していた。ただ時間の経過が、若輩者の緊張を揉みほぐしていく。
仕事に慣れてきたら、生活はより充実したものになるだろう。
確かに、仕事自体は楽しかった。
ただ、あまりにも忙しすぎた。
仕事の熟練度を上げる代償に、肌からは水分が失われていった。
想像していた未来とは全然、違っていた。
緊張の先に待っていたのは充足感ではなく、日々の変化を感じられない退屈だった。
1日が、いつもの1日が、矢のように過ぎていく。
大した変化もない。
何とかして日常に、変化をもたらしたい。
ある日、朝の通勤前にコンビニへと立ち寄っていた。
些細でも、いい。変化を求めていた。
あの日から、今日まで。
コンビニから出て、数歩。
駐車場の車を眺めながら、缶コーヒーを頂いている。
時間にして、ほんの数分。
それでも、とても優雅な時間だった。
朝の時間を気に入ってからは毎日のように缶コーヒーを買って、少しの間、コンビニの前で佇んでいる。
今日も、だ。
何年、これを続けているのだろうか。
缶コーヒーをゆっくりと飲む。味わう。ペースは変えない主義だ。
同じように、隣では至福の一時が、煙になって体現されている。
おじさんの口から、ゆっくりと煙が、喜びが、空気中に吐き出されていた。
「今日もセブンスターですか?」
「そういう君もいつもの缶コーヒーかい?」
おじさんとは、長い付き合いになる。
銘柄を当てられたのは、ただの顔なじみだったから。おじさんの銘柄を心の中で唱え、毎日のように、無機質な当たりをかっさらう。
日常だ。
誰かがコンビニから出てくる。リズムに耳を傾ける。日常だ。
「今日はライター、忘れてないんですね」
「ははは、あの日はたまたま忘れていただけだよ。それにしても寒くなったね」
「そうですね。今日慌てて、上のスーツを用意しましたよ」
おじさんの名前も、職業も、当然、住所も何も知らない。
尋ねようとも、思わない。
ただ、この人とは気が合った。互いに、非日常感を楽しんでいた。
「それじゃ、今日は会議なんでそろそろ行きますね」
「そうかい。私はもう1本吸ってから行こうかな。気をつけて」
手を高くあげて、おじさんの返事に応えた。
些細で平凡だ。
それでも、ちょっとした幸せを噛みしめられるような日々が、ずっと続く。
そう信じていた。
だが、その日以降、あのコンビニには行けなくなっていた。出張や不規則な出勤時間が続いたせいだ。
本業が、多忙を極めていた。
朝、唯一の優雅な時間でさえ、確保することがままならなくなっていた。
今は決算前の繁忙期だ。
ただ、あと1カ月もしたら、また日々の生活に戻れる。
優雅な時間を取り戻すために、懸命に書類と向き合っていた。辛くて、やりがいがあって、やはり辛い日々だった。
「こちらの資料でどうでしょうか?」
「よく頑張ったな」
部長の素っ気ない一言で、ようやく人間に戻れることを許されていた。
あっけない幕切れだった。
が、胸の内から幸せがにじみ出てくる。噛みしめる。
幸せなんてこんなものだ。いつも日常に潜んでいるはずなのに、不幸にならなければ見えてこない幸せがある。
そんなものだ。
今日は、久しぶりにトイレに臨時出張しようと決めた。普段は見ないニュースを休憩中に、呑気に、眺める。
余裕が、ある。
『25日午前6時10分ごろ、○○町のコンビニエンスストアに軽乗用車が突っ込みました。その場にいた方が巻き添えに遭い、病院に搬送されましたが、頭を強く打っており、その後、死亡が確認されました』
いつも行く朝のコンビニだった。頭が真っ白になっていた。
なかなか動かない人差し指にむち打って、必死に画面をスクロールする。
ニュース記事の最後には、事故現場の写真が添えられてあった。
亡くなった方の名前を、知った。
非日常を楽しむ仲間の名前を、初めて知った。
あの朝の時間に、交通事故。
いつも行っているはずのコンビニが、画面越しに非日常的の一幕として切り取られていた。
いつか、名前を聞こうと思っていたのに。
「缶コーヒー1つですね、150円になります」
「すいません、あと……」
言葉が出てこなかった。嗚咽が出そうになる。
久しぶりにやって来た朝のコンビニは、どこか馴染みの店ではなくなっていた。
「はい?」
「セブンスターを下さい」
番号が見えずに、銘柄だけを店員に伝える。
寒空が、骨身に染みていた。
おじさんのために位置を少しずらす必要は、なくなっていた。
缶コーヒーではなく、じっくりとタバコの煙を味わう。
いつものようにコンビニの箱が、テンポよくリズムを奏でている。
また、誰かが日常に送り出されていった証拠だ。
まだ心がぼんやりする。会話が、ない。
非日常だ。
目を閉じて、開く。
煙をくぐらせる。
コンビニのリズムが、鼓膜を震わせている。
「ありがとう」
無意識に、ぼそりと呟いていた。煙草を吸い終えていた。
煙草の箱を、おじさんが立っていたはずの場所に置いていく。
また、あの日のように至福の一時を楽しんでくれ、と切願する。
ゆっくりと非日常から日常に戻る。
そう、覚悟を決めた。
日常 木村文彦 @ayahikokimura
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
参加中のコンテスト・自主企画
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます