5 おそろい(2)
弟が足から血を流して帰ってきた時、その後を熱を出した時、診療所から追い出された時。そして弟が死んで冷たく堅くなっていってる時。
どんな時だって、俺に出来ることが何も無かったのかというと、きっとそうではなかった。リスクを承知であの家に盗みに入っていれば金を得られたし、そもそももっと要領良く生きていれば弟に不自由な思いをさせずにすんだはずだ。
マシな未来に繋がるはずの可能性をことごとく無駄にし、出来たはずのことをやらなかった。だから俺は無力なんだ。
あの化け物はそんな俺の無力さを見透かしたんだろう。俺を首だけの状態にしたのも、なにもできないなら首だけになっても変わらないだろうという嘲笑なのかもしれない。
それで、俺の目の前でまた人が死にかけてる。
身内を殺したという事実がこいつの、ディーライの精神にヒビを入れたのか、それとも化け物の仕業なのか。それは分からない。分かったところで現状は変えられないだろう。
ディーライは震える手でサーベルを抜くと、首元にあてがった。後は刃が肌の上を滑るだけでこいつは死んでしまう。弟と同じように、口も開かず温もりもない、先にあるはずの可能性も潰えた死体になってしまう。
ディーライを止めようと必死に叫んだ。
人助けがしたいわけじゃない。弟を被せて見ているから死なせたくないんじゃない。今日会ったばかりの短い付き合いだが、情が湧くくらいこいつのことを知ってしまったのだ。
こいつの心の痛みまで否定するわけじゃない。ただ、自責の念に駆られるがままに苦しい死に方するということをして欲しくはなかった。
ディーライは化け物に俺のことを頼むと、サーベルの柄を握り直した。このままじゃ本当に駄目だ。
一瞬でもいい。こいつの気を、自分の首を切ることから反らすことができれば正気に戻る可能性は出てくる。
迷いに迷って、叫んで腹を決めると口を開いた。舌を伸ばし顎関節に力を込めるとその間際に、「兄さんは生きてね」という弟の死に際の遺言が聞こえきた気がした。
相変わらず目の前でサーベルを握るディーライの様子は変わらない。再度顎関節に力を込めると、次第に弟の声は化け物の声に変わっていく。
「それが坊やの選択なんだね」
ついで訪れた感覚は、激痛だった。
++
ブチッ、という音の後に聞こえてきたのは、ブロウの嘔吐しているかのような声だった。
サーベルを首元で滑らすことしか考えていなかったが、視界が鮮明に目の前の出来事を捉える。
口を開きながら呻くブロウには、舌が無かった。有ったはずの場所にあるのは肉の断面のみで、舌はすぐ側に落ちている。
「ブロウ……!?」
サーベルを投げ駆け寄ると、ブロウは痛みで険しくなった目つきで俺を見ながら、一瞬だけ安心したように目尻を下げた。
息が詰まるようなガヒュ、という音がして次第にブロウの顔が青白くなっていく。開いた口の内部を見てみると、断絶された舌の根元が奥に引っ込んでいた。指を入れ気道を確保すると、かろうじて呼吸はできるようになったようだ。
「なんでこんなこと……」
呻き声と断続的な呼吸音が聞こえてくる。死に際の兄と同じような有様に胸がざわついた。舌の断面からは血が相変わらず出ているが、これで死んではしまわないだろうか。
「おまえひに、ひんへ……」
ブロウは何か喋ろうとしたが、舌がないのと痛みのせいで上手く喋れないようだった。荒く呼吸を吐き出しながらこっちを睨み付けている。
「生首の坊やはね」
今まで少し離れた所から俺達を観察していた異形は、こちらに近寄ってくるとブロウを指さした。
「体が食べられて、五感を奪われても、それで気が狂ったけど、舌を噛み切ることはなかったんだよ」
開いているブロウの口に指を入れ、俺が引っ張り出している舌の根元を突いた。ブロウがくぐもった声で悲鳴を上げる。
「何を……」
「弟の死に際の言葉を無意識レベルで守ろうとしていたんだろうね。それでも、坊やのことを止めたくて舌を噛み切った。なかなか骨のある選択で気に入ったよ」
「……」
ブロウはさっきは下げた目尻を今度は吊り上げ睨んでくる。俺がしようとしていたことに怒りを向けているんだ。
異形がまるで窘めるかのブロウの舌を掴んだ。ブロウはヒュッ、と息を吸い込んで、頬を引きつらせた。
「やめて下さい……こうなったのは俺のせいですけど、もう苦しい思いをさせたくないんです」
「大丈夫だよ坊や。私はお前達を虐めたいわけじゃないんだ。ただ、試してるだけだよ」
「……なんのために」
「見てて楽しいじゃないか。お前達がどんな選択をするのか」
ブロウの舌を掴んだ異形は、そのまま舌を引っ張り出すように手を引いた。すると、それに付随するかのように舌の断面から肉が伸びていき、形が整うと今度は皮が形成されていく。
「これはサービスだよ。生首の坊やの選択が好ましかったからねえ」
異形は愉快そうに軽く笑いながらそう言うと屈んでいた背を伸ばし、やがて木立の間の闇に溶け込むようにして消えていった。
姿こそさっぱり見当たらなくなったものの、きっと俺達をどこからか見ているんだろう。
後に残された俺達はしばらくの間、深く暗い森の中で息を潜めるようにしていたが、俺の方から口を開いた。
「ブロウ、すみません、俺のことを止めようとして」
「良いんだよ別に。どうにかなったからな……いや、でもクソ痛かった……」
若干喋りにくそうにしている。まだ舌が無くなったときの痛みと感覚が余韻のようにあるんだろう。ブロウは少しだけ口をもごつかせた後、話を続けるためにすぐにそれをやめた。
「大体何を思い出したのかは分かるが……、何があったんだ」
「ホスキンの……要人警護をしていた時に殺した盗人が、俺の兄でした」
「ああ、だから殺したって言ったのか。でも……何でお前の兄貴は盗みに入ったんだ」
「金品を盗もうとしていたわけじゃありません。兄は、軍の人身売買の証拠になる書類を持ち出そうとしていました。……俺がこの森にいるのは、兄を殺した時に狼狽えたのが軍にとっては不正解だったみたいで、ここに送り込まれたんだ思います」
「胸糞悪いな。人間じゃなくて道具として生きるのが正解ってか」
ブロウは眉間に皺を寄せながら吐き捨てる。
「……そんでなディーライ。兄貴はお前のために家に忍び込んだんだと思うぞ。言っとくが、お前のせいで死んだとかそういうことは考えるなよ」
「……ありがとうございます。正直、そうなんじゃないかって思ってたんです。それ以外に危険を侵す理由が思い浮かびませんでしたから。でも、そう考えることによって、兄の真意を自分の都合の良いように解釈しているだけな気がして……後ろめたい感じがするんです」
「そうだ。……そうするしかないんだよ」
寂しさを滲ませるような声でそう言ったブロウの、色素の薄い目がまっすぐこちらを見つめていた。
「死んだ人間の真意なんざ、どう頑張ろうが正しい答えを知る事は出来ねえ。分かるだろ。死んだらもうそいつと話すことなんか出来ねえんだからな。だから俺達は、自分の生き様が汚く感じても、後ろ指指されても、死んだ人間が残したもんを都合良く解釈して生きていくしかねえんだ。どうしても罪悪感があるなら、あの世で殴られでも蹴られでもするから今だけは都合よく考えさせてくれって思えば良い。俺は、そうすることにした」
ブロウの声は優しかった。痛みと罪悪感と、逃げたいと思う気持ちをブロウも知っているのだ。知っているからこそ、自分はそれをどうしたのかを教えてくれている。
ブロウを抱えて、大きさの割に重くのし掛かる首一個分の重さを感じた。
兄の口から真意を聞くことがもう出来ない。でも、死ぬ間際に俺の名前を呼んだことだけは確かだった。
「ブロウ」
「なんだ」
「兄さんに叱られても、斬りかかられても、受け止めようと思います」
「……今の話か?」
「いずれあの世にいったらの話です」
「そうか」
本当のところは俺も、そして多分ブロウもあの世があるかなんて分からない。都合良くそう考えているだけで、死んだ後には何もないのかもしれない。でも、俺達はそうするしかない。間違っているかもしれなくても、自責の念に潰されそうになっても、生きなきゃいけなんだと自分に言い聞かせ、決して幸福に満ちあふれたわけではないこの先の人生を歩まなきゃいけない。
これは諦めなんだろうか。それとも生きる希望なんだろうか。分からない。分からないが、今はそんな事を考える時じゃきっとないんだ。そんな漠然としたことを考えるよりも、朝日を拝むためにはどうするか、今すべきことを考えなけらばならない。きっとこれからもそうしていくんだろう。
「さて、これからどうするんだ」
「ここを出ましょうか。感覚は全部戻ったんですよね?」
「ああ、マジでクソ痛かったぞ」
ブロウが舌を伸ばすと、噛み切った場所の色が若干薄くなっていた。しかしそれ以外は特に変わった様子は無い。
「ここを出て、それからどうすんだ」
「兄さんがやり残したことを、やりたいと思います」
「……それは」
ブロウは何かを言い掛けて、しばらく唸ってから言葉を飲み込んだ。
「お前の意思で決めたことなら何も言わねえよ。ただし、俺も連れて行け」
「危険ですよ。良いんですか?」
「事情を知っちまったからな。だから、見届けたいんだよ」
「……ありがとうございます」
ブロウを落とさないようにしっかりと抱え歩き出す。
耳のすぐ側で、異形の声が聞こえた。
「坊やはこれからどうするの?」
異形の声に答えると、今まで少しも見当たらなかった月光が木々の間をすり抜けて森に差し込み、道を示すように筋状の光を形成していった。
ブロウの行動を気に入って舌を治したように、俺が返した答えを異形は気に入ったんだろうか。分からないが、背後から冷えた森の空気を少しだけ動かしたかのような風が吹いた。
俺もブロウも、背後を見返すことはなかった。
「事前に流れてくる情報がなければ対策することも出来ないんですね」
夜明け前の暗闇に少しずつ朝日が差し始めている。見覚えのある洋館内もそれは同様で、窓が僅かばかりの日の光を取り込んでいた。おかげで、人身売買の書類を抱えた俺を鬼のような形相で見つめるホスキンの顔がよく見える。
兄がこの洋館に忍び込んだとき、他にも仲間がいた。単独で行動しなかったのは情報収集や侵入が1人では困難だったからだろう。人手がいなければできないことは確かに存在するが、同時に情報が漏れる可能性が高くなる。実際、兄はそれで事前に情報がホスキンの手に渡りこの洋館で人生を終えた。
「どうしてお前が生きている……!」
「一度死のうとしましたよ」
「そのまま死ねば良かっただろうが……!」
「舌を目の前で噛み切られたらそれどころじゃなくなるんですよ」
ホスキンの声は怒りで震えているが、側には誰もいなかった。1人では窓枠に近寄った俺をどうすることもできないだろう。
「あの森を抜けたのか……!」
「おい、ディーライ」
言葉を返そうとした時、肩から下げたカバンの中から声が聞こえてきた。ブロウをカバンの中から取り出すと、ホスキンを少しだけ一瞥した後、俺に視線を戻した。
「どうせこいつ時間稼ぎしたいだけだ。警備員がいないわけじゃないだろ、さっさとずらかるぞ」
「お前達が何をしようとしているのか分かっているのか!?愚行だぞ」
「あんた、まさか自分が噛みつかれる覚悟もないまま人間を利用してたのか?だとしたら自分がやったことをよく分かってないのはあんたの方だろ。あんたこそあの森に行った方が良いかもな」
窓枠に手を掛けると、ホスキンはつばを飛ばしながらより一層喚き散らした。
「何も考えずに訓練施設で生を過ごし、そのまま兄を手に掛けたお前がのうのうと生きていくのか!?復讐のつもりか!?兄を殺したのはお前だろうが!」
「復讐でも何でもない。俺は兄がやり残したことをやり遂げにきただけです。兄を殺したのは誰でもない俺ですから」
窓枠に足を掛けた。警備員が駆けつける足跡はまだ遠く、ホスキンが血走った目線を投げつけてくるぐらいだ。
「……これから俺は、優しかったあの人を殺した罪悪感と後悔を背負いながら生きていきます。その上で、自分が望む人生を自分で選択して生きていきます」
書類をカバンにしまい、お守りのようにブロウを抱えたまま窓枠を乗り越える。何事もなく地面に着地し、湿った地面の感触が靴越しに伝わってきた。
敷地内を駆けていき、隠していた馬に跨がる。遠ざかっていく洋館を振り返ることはなく、俺はしばらく馬を走らせてからブロウに声を掛けた。
「ブロウ、これで俺も立派な泥棒ですね。おそろいですよ」
「だなあ。これからどうするんだお前」
「この書類の写しを新聞社に送って、後はこの国から逃げます。流石にここにいたままじゃ危ないですから。それからは……自分がどうやって生きていくのか、探してみます」
「ああ、良いと思うぞ」
「ブロウも一緒ですよ」
「っは、見届けるって俺から言い出したんだぞ、何を今更」
「そうでしたね」
長い長い一夜が明け、昇り始めた太陽の眩しさに目を細める。月の光が見えなかったあの森にも、朝はやってきているんだろう。
「ブロウ、俺が自分の人生に胸を張れるようになったら、もう一度あの森に行きましょう」
「は?何でだよ」
「俺が、ブロウには体を取り戻して欲しいと思ってるからです。あの異形ならできると思いませんか?」
「それは……そうかもだけどよ」
「ブロウは、体を取り戻してやりたい事とかないんですか」
ブロウはしばらく悩みながら、昇りかけの太陽を見つめていた。馬の揺れに合わせて、首から垂れた髪の毛先が揺れている。
「弟の墓参りと、後は、お前の兄貴の墓を探して、お前にも墓参りをさせたい」
「……ありがとうございます。じゃあ、頑張らなきゃですね」
「ああ、俺もだな。弟の墓の前で胸を張っていられるような身にならなきゃいけねえ」
「そうですね」
答えるために吐いた息はまだ弱い朝の陽光を僅かに反射しながら白く漂い、今俺が生きていることを分かりやすく証明しているようだった。
洋館から大分遠ざかり、借りていた馬を宿屋に返してから、俺はブロウを抱えてまた歩き出した。兄さんと自分が生きてきた記憶を思いながら。首一個分の重さと体温を感じながら。
昼行灯と生首 がらなが @garanaga56
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