5 おそろい(1)

「俺の兄なんですけど、施設を脱走していたみたいです」

 しばらくの間は、ブロウを抱え生首の体温を感じていた。

 周囲が一段と暗くなり日が沈みきったんだと分かるようになった頃、ようやく俺はブロウに霧の中で見えたものを伝えることができた。

「なんとなくそうなんじゃないかとは思っていたんです。少し前に思い出した記憶の中の兄の目には、決意みたいなものが有りましたから」

「……お前自体は、施設に残ったままでいいって言ったんだろ?その答えを聞いた兄貴は、1人で脱走したってわけか」

「そうなんです。俺は深く考えないまま、自分の欲を満たすために施設に残ると言いました。でも多分兄は違くて、自分の意思で決めてあそこから出て行った。新しい人生の門出でもあるんでしょうけど、それを心から喜べない自分がいる。それが何より情けないんです」

 ブロウは一瞬、失敗したという表情をした。俺が落ち込む素振りを見せてしまったから、気を使わせてしまっているのだ。

「……ずっと気にしているわけにもいかないですね。残りの記憶はあと1つですし、それさえ取り戻せばブロウも触覚が戻るはずです」

「お前、大丈夫なのか」

「大丈夫なのか分かりませんけど、立ち止まっててもどうにもならないじゃないですか。だからいっそ開き直って、ブロウの感覚を戻す手掛かりを探しましょう」

 重くしてしまった空気を切り替えるように声を張る。ブロウはまだ何か言いたげだったが、俺が歩き出すと口をつぐんだ。

 やるせなさそうなその表情が、ブロウの人柄を表している気がした。


「ブロウの経歴を聞いて思ったんですが」

「……なんだ?」

「改めて、なんなんでしょうねここは。例の異形もいるし死体も時々落ちてる。普通の森には見えません」

「確かにな……。お前がなんでここにいるのかも良く分かんねえ。今の所俺とお前の経歴で共通点がありそうなところもねえし……」

「今度死体を見つけたら詳しく調べてみますか。なんとなくですけど、この場所の謎が解ければ残りの記憶も思い出せる気がするので」

「そうだな……つっても調べるのはお前だよな。すまんな、なにもかも任せちまって」

「首だけなんだからしょうがないですよ」


 気温が一段と下がり辺りには霧が立ちこめていた。記憶の中の映像を見るときに現われる霧では無さそうだ。

 相変わらず森はかなり薄暗いが、長いことここを彷徨い歩いているので暗さには目が慣れている。だが、さすがに真っ暗闇になれば何も見えない。その前に死体を見つけてしまいたかった。

「おい、あれって」

「どれですか」

「右向こうに枝が折れてる木があるだろ。その地面のところだ」

 ブロウの視線の先を追ってみると、確かに低い箇所の枝がばっきりと折れた木があり、その下にはぴくりとも動かない人間が倒れていた。首には折れた木の枝が突き刺さっている。

「こいつの格好……おい、ちょっと死体に近づいてくれ」

 言われたとおりブロウを死体に近づける。虫の湧いている顔は見えないように、できるだけ胴体の部分に生首を近づけるようにした。

「間違いない、囚人服だ。俺が着ていたのと同じだから分かる」

「こんなのを着てたんですか」

「ああ。胴体の方はあの化け物に食われたんだがな」

 さらりと胴体の行方を言われたが、なんとなくそんな気はしていた。ブロウは今まで体を取り戻したいと一度も言わなかったのは、もうそれが叶わないからだと分かっていたからなんだろう。

 五感は取り戻せたとしても、この人は他の失ったものを取り戻せないのだ。

 ブロウに対しては情が湧いている。だからその事実に気が沈みそうになるが、本人はこの状況を割り切っているようだった。


 気持ちを切り替えるために死体の格好を改めて見てみる。衣服は袖や裾の衣服がすり切れていて、かなり粗雑だ。

 衣服を観察するついでに顔の方も見てしまったブロウは顔を顰めたが、すぐに表情を変えた。

「こいつの顔、ほとんど見れたもんじゃなくなってるが多分どっかで見たな……どこだ?」

「囚人服を着ているということは、罪人ですよね?」

「あ、いや違え。こいつ、政治の陰謀論だとか軍が守ってる邪神の話だとかを街中で演説してたやつだ」

「なんでそんな人がここに」

 死体の酷い状況からしてここで死んだのは昨日今日の話ではなさそうだ。ブロウは長いこと唸りながら考え込んでいる。

「あー……確か、演説中に近寄ってきたガキを恫喝したとかで捕まったって聞いたな。ここに連れて来られてたのか」

「恫喝……?それだけでこの有様ですか?」

「俺だって似たようなもんだろ」

 言われてみれば、ブロウだって泥棒をしただけだ。罰せられるような行為であることは確かだが、あんな異形が潜む森に放り出されるような非道な行為ではないはず。

「……ブロウとこの死体の男に関しては、『必要以上の刑罰を受けている』という共通点があるわけですね」

「いや、多分それは結果の話だな。それよりも気になるのは、俺もこいつも恐らく軍や権力者からしてみれば煩わしい存在だったてことだ。俺は金持ちの家でやらかして恨まれてただろうし、こいつも国や軍の怪しい話を叫んでたような奴だ。何かやらかしたのかもな」

「となるとここは……」

「恐らくだが軍や国はあの化け物がここに存在していることを知ってて、その上で処理したい人間をここに送っている。極秘の処刑場みたいなもんか」

「……ブロウ、この森がどこにあるか分かりますか?」

「詳しくは分からねえ、運ばれている間は目隠しされていたからな。ただ、馬車の乗ってた時間から考えるに国の防壁の外だ」

「であれば一般市民はモンスターを恐れて滅多に寄らないでしょうし、国もこの場所を危険地帯だと言えば大分人払いが出来る」

「んでごく稀に人間が来ちまったとしても、あの化け物の餌食になる。……なるほど、この森の存在がバレる可能性はかなり低いだろうな」


 会話の合間に静寂が訪れた。俺達の会話を今もどこかで聞いているかもしれない異形の姿が思い浮かび、鳥肌が立つ。多分あいつは楽しんでいるんだ。やってきた人間に見合った地獄を見せ、錯乱し死んでいく様を。

 それと同時に感じたのは、もう何度目かの感覚だ。頭の隅を何かが引っ掻くような、気味の悪い感覚。

「そうなるとお前は軍の人身売買を知っていたからこの森に送られたのか……?でも兄貴も知ってたんだよな」

 心臓の鼓動が早まる。確かに兄も俺達が売られてあの施設にいたということを知っていた。でも兄は施設を脱走している。多分、捕まって無い限りは

「あ……」


 気付くと周囲には深い霧が立ちこめ、足のつま先までも見えない。嫌な汗が噴き出し、まるであの異形が背筋をなぞってくるようにゆっくりと汗が落ちていく。

 気付かないようにしていた予感が、忘れたかった記憶が徐々に霧の中から現れ始める。ことの始まりであるあの洋館のあの場面が再度現われる。違う。始まりじゃない。終わりだ。人間の末路。あれは盗人だけに言われた言葉じゃなかった。

「坊やはこれからどうするんだろうねえ」

 記憶の中の映像が現われる直前、異形の声が耳元で聞こえた気がした。


「優秀な訓練生だと聞いていたんだ」

 ホスキンが、背後でため息を吐きながらそう言った。

 あの洋館で、盗人にサーベルを投げ刺したあの廊下だ。

「軍は常に人手不足だ。そうなってくるとどうにかしろと言われるのが私の役職でね。まあそんなことはどうでもいい、とにかく、職業斡旋や保護の名目だけでは人は集めきれず、金を動かしてでも人材をかき集める必要があった。そう、だから、貧乏人だったお前達の母親がお前達に付けられた値段に不満を覚え、せめてもの嫌がらせとして子供に人身売買の事実を教え込んでいたとしても、教官や軍を心酔している優秀な人材なら処理する必要はないだろうと判断していた」

 床で呻く男の呼吸がどんどん荒くなっていく。血の気が抜けていく体で、カバンだけは守ろうと抱えていた。目出し帽を被っていて顔は見えない。ただ、その声は知ったものだった。

 なんで、とそう声に出そうとしたが、肺から息が抜けていくだけで微かな声にしかならない。

「……その様子だと、身内がいなくなることには動じなくても、身内殺しには堪えられないか。それとも動じないように気を誤魔化していたのか?」

 ホスキンが歩き出し、床に伏せる男の方に歩いて行く。咄嗟に袖を掴んだ。向けられた視線には、もはや疑念も期待も籠もっていない。使えなくなったガラクタを見る、失望だけが俺に向けられていた。

「今更止めようと言うのか?だがやったのはお前だろ。私は見たぞ、お前がサーベルを投げあのネズミの首元に刃が突き刺さる瞬間を。そのサーベルに付いている血は作り物か?そうじゃないだろ」

 ホスキンは俺の腕を振り払うと歩みを進め、呼吸が止まりかけている男の目出し帽を剥いだ。

「お前の兄の血だろ」

 目出し帽を剥がされた兄はもはやそれに反応する余力は残っておらず、血だまりの中で青白くなっていく頬を赤く汚している。僅かに、掠れた声で呟いた。

「ディーライ……」

「兄さん、なんでここにいるの……」


 もはや俺は第三者目線からこの光景を見ていない。俺の名前を呼んだ死にゆく兄の声を、胃からこみ上げてくる酸の感覚を、冷たい廊下の空気とホスキンの視線をディーライとして体験している。自分で兄を殺した、忌まわしい記憶の体験を。

 兄はもう何も言わなくなった。

 兄は俺の名前を、俺の方を見て呟いたわけじゃなかった。自分を殺した人間が弟だとは知らないまま、俺のことを思いながら死んでいってしまった。


「一石二鳥だとは思わないか。お前に兄を殺させることによって、野放しにできない人間を処分するついでに、優秀な人材が真に軍に役立ってくれるかどうかを判断することができる。この出来損ないが、私の屋敷にある人身売買の証明になりうる極秘資料を狙っているという情報を得たときに思いついた案だ」

 ホスキンは兄が抱えていたカバンを奪い取ると、中身を取りだした。端が血に濡れた紙の束を捲っていっていき、短いため息を吐き出した。

「脱走した身内を平然と切り捨てられるぐらいなら軍で活かそうと思っていたが、その様子では駄目そうだな。だが全く役に立たないわけでもない」

 そう遠くない場所で話しているはずのホスキンの声があまり聞き取れない。それよりも聞こえてくるのは、狂ったように早鐘を打つ心臓の音と、息絶える直前に聞いた兄の呼吸と声の幻聴だった。


「斥候をして貰おう。国外の森にモンスターの目撃例があったからそこに行け。言っておくが、拒否権は無い」

 その言葉を最後に、俺の意識は徐々に現実へと引き戻されていく。廊下の端の方からいくつもの足音が聞こえてきたが、俺はただ、床で冷たくなっていく兄の体を見つめることしかできなかった。


 元いた森に視界が戻り、俺はすぐにブロウを地面に下ろすと数歩ふらついてから吐いた。水と少しの胃の内容物らしきものが出てきて、湿った土の上に落ちていく。ごちゃ混ぜになっていく吐瀉物のように思考も不安定に混ざり合い、自分自身を拒絶し始めている。すぐ近くに、あの異形の気配を感じた。

「あ?お、おい、どうしたんだよ」

「……俺の名前、思い出しました。ディーライ。兄さんが死ぬ間際に言った最後の言葉……」

「……は?死んだって」

「俺が殺したんだった。全部思い出しました。気づけたかもしれないんだ、窓枠から乗りだしていたあの人影が兄さんだったってことに。でも兄さんのことは考えないようにしてたんです。だから気づけなかった……自分であそこに残るって言ったくせに、置いて行かれたとは思いたくなくて、兄さんのことをできるだけ頭から追い出してた。我が儘で、あんまりにも幼稚じゃないか……」

「なあ、おい……?」

「優しい人だった……あんな風に苦しみながら死んでいい人じゃなかった……」

 声がどんどん掠れていく。声帯を握りつぶしているのは、後悔と罪悪感だった。

「脱走したって知った後も、どこかで幸せにしていると思ってたんだ……独りになったのが寂しかろうが、それでも当たり前のように自由に暮らしてるんだろうって思ってたのに……」

「落ち着けよ、しっかりしろって……!」

 一度記憶を失い、そこから再度自分を見つめ直したからこそ、自分の酷さがよく分かる。こんなこと、誰も許してはくれない。

 腰からサーベルを抜くと、ブロウは一気に青ざめた。

「お前何する気だ……!?」

 ブロウの背後には、あの異形がいた。この異常なまでの精神の揺らぎはこいつの仕業なんだろうか。

 でも、そんなことはもうどうでもいい。

 異形の方に視線を向ける。顔に布を巻いているから表情こそ見えないが、緊張も焦りもしていないのが漂う雰囲気で分かる。ただただ、俺がしようとしていることを眺めているだけだった。

「ブロウを……俺が死んだ後、元に戻してあげて下さい」

「何言ってんだよお前……!やめろ!……ああッ、クソったれ……!」

 俺が記憶を全て取り戻したということは、ブロウはもう全部の感覚を取り戻しているはずだ。なら、ここで俺が死んだところで迷惑は掛からないだろう。

 首筋にサーベルの冷たい感触が当たる。

「それが坊やの出した答えなんだね」

 異形の問いかけに答えるように、腕に力を込める。

 ブロウの叫び声が、辺り一帯に響き渡った。

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