4 館
ブロウの髪の毛が乾き始めてきた頃、ようやく俺は思い出したことをブロウに話せるぐらいにまで落ち着いた。
「お前の兄貴が言ってたことが本当なら、その施設どころか軍は相当きなクセえな」
「死んでも構わない使いやすい人間を育て上げてたから、ですか」
「それもそうだがな、一番は親に売られて施設に行ったって所だ。もしや訓練施設はそういう人間が全員か?」
「そうなんじゃないかとは思います。ただ、売られたと認識している人間は俺と兄だけでした。施設に渡される直前に、自分たちが売られていくんだということを母親に言い渡されたので……」
「そうか。覚えてるかどうか分からないから一応教えるが、民間での人身売買は俺達がいた国では違法だ。孤児や親が手放したい子供を、保護や職業斡旋っていう名目で預かり受けることはまかり通ってても、そこで金のやりとりを行なうことは禁止されている」
「あー……、そう、だったんですね。真っ黒じゃないですか」
ブロウの言葉に、乾ききった声が出た。ついさっきまで取り戻していた記憶は、自分が軍の養成施設にいたという記憶だけだった。その数少ない記憶の中でも覚えていたのが、褒め称えられたときの感覚だ。ごく僅かな時間だとしても、自分が信じていた者が正しくなかったと知るのはなかなか堪える。
「お前、大丈夫か……?」
「大丈夫です。……記憶を全部無くしてから改めて思い出すって、こんな感じなんですね。当時の感覚や、何を考えていたのかを理解できると同時に、凄く客観的に見えるんですよ」
「客観的に?他人を傍から見てるのと似たようなもんか」
「ええ、そのおかげで気付いたことがあるんです。訓練施設にいた俺は、教官に讃えられることだけが行動原理になってました。それだけしか見えてなかったんです。だから、兄から軍の怪しい話を聞いてもどうにかしようなんて思わなかった」
ブロウは唸ったり視線を彷徨わせ、なんと言うべきか大分迷っている様子だった。
「……お前はなんも悪くねえよ」
時間を掛け絞り出された言葉は少なかったが、俺を励まそうとしているんだということはなんとなく伝わってきた。
俺はブロウを抱えまた歩き出した。なんとなくではあるが、一カ所にずっといるよりも歩いていた方が気分がいくらかマシだ。
「しかし、お前兄貴がいたんだな。お前から聞いた会話の内容はほんの少しだけどよ、あんまり仲悪い感じでもねえし、今頃心配されてるんじゃねえか?」
「どうでしょうね。今兄がどうしているのかまでは思い出せませんでしたから……もしかすると……」
「なんだよ」
「いえ、なんでもありません」
僅かに、こうしているんじゃないか、という予測はあった。しかし予測はあくまでも予測だ。しかもあまり良い予測でも無かったので、あまり気にしないようにした。
「……どこにいたって、お前のことは気に掛けてくれてると思うぞ」
「そうでしょうか」
「分かんなくともそう思っとけ。勝手に思い込むことで気が楽になることもある」
なにかしらの経験から語っているような声色だった。興味本位で過去を詮索するような事はしたくない。それでも、ブロウの身の回りのことは何となく気になってしまった。
「ブロウは弟がいるんですよね。それこそ心配されてるんじゃないですか?」
しばらくの間沈黙が流れた。生首は俺が抱えている状態だ。聞こえなかったわけでもあるまい、表情を伺おうとしたが、その前にブロウは口を開いた。
「……そういえば弟のこと話してなかったな。俺の弟死んでんだ」
「え?……あ、すみません、余計なこと聞いてしまって」
「いや、別にいいさ。どうでもいいってわけじゃないが、話そうが話すまいが弟が死んだってことは変わんねえからな」
それに、とブロウは付け加えた。
「お前は今まで、俺と話してる最中に記憶を取り戻してた。憶測だけどよ、お前の記憶に引っかかるようなものがあると、それがきっかけになるんじゃねえか?なら、俺の話を聞いてまた何か思い出せるかもしれないだろ」
言われてみればそうだった。会話から多少の時間差こそあれ、記憶の中の映像を見たのはブロウとの会話の後だ。なにもせずにただ歩いているだけの時に思い出すような事はなかった。
唾を飲み込んでから、口を開いた。
「ブロウ、俺最初の頃は自分の記憶を思い出すのが少し怖かったんです。理由はあまり分からないんですけど、自分を見つめ直すことになると思うと焦りにも似た感覚がしました。でも、さっき兄の事を思い出して、そんなことも言ってられなった。俺は、なんでここにいるのか思い出したい。思い出して、また兄さんに会いたいです」
「おう、任せろ。つっても俺にできんのはただの身の上話だけどな」
周りには腰を落ち着けられそうな場所はない。仕方なく、上着を脱いで地面に敷いてからその上にブロウを乗せた。
「つっても長々と話すことなんざねえな……面白い話でも明るい話でもねえからな。不幸自慢がしたいわけでもない。弟が死んだ経緯と、俺が捕まる原因になった話をするだけだ。なんか思い出したら俺の話なんざ遮っていいからな」
ブロウは咳払いをすると、身の上話を始めた。
それに反応するように森の間を吹き抜ける風の音も鳥の声もしなくなり、森が耳を傾けるように静かになる。
姿こそ見えないものの、まるであの異形が話を聞くために森を静めたようだった。
++
俺とお前の環境は少し似てるかもな。俺にも親はいなくて、身内といえば年の離れた弟だけだった。俺は学がないし世の中の渡り方も下手くそだったから、金払いが悪いところでしか働けなくてよ。なんとかその日の飯を食いつなぐような生活をしてたんだ。
弟は大人しいけどどっか油断ならないやつだった。遊びから返ってきたと思えば大怪我してくることがあるようなやつで、蛇は栄養価が高いって噂を聞いて蛇に噛みつかれながら捕まえてきたこともあった。環境が良ければヤンチャですむ話だろうが、診療所に行くことも怪しい環境じゃそうはそうは言えなかった。
ある日、弟は泥だらけになりながら足から血を流して帰ってきたと思えば、その日の夜のうちに熱を出して足が痛いって呻き始めたんだ。診療所には連れて行ったが、先に金が払えないと診ないと言ってきた。俺達の街は小狡い貧乏人が多いところだったから、未払いで逃げられないようにするための対策だったんだろ。俺は診療所が納得出来る程の金は持ってなくて、弟のことを連れて帰ることしか出来なかった。次の日の朝も、弟の体調が良くなることは無かったよ。
そうなってくると金が余計なくらい必要なことは馬鹿の俺でも分かってた。だが、なかなか思い切った行動もできないでいた。金持ちの家に盗みに入れば確実に大金は手に入るが、その分リスクもでかい。もし捕まれば弟の面倒を見る人間はいなくなって、そのままあいつは死んでしまう。だから、働きつつ人混みで財布をバレないように盗るとかそういう小狡いことでしか金を得られなかったんだ。
どうにかして誤魔化し程度の薬は買って凌いでいたが、それも安いもんじゃない。労働と盗みをしても薬しか買えないが、薬を買わないで診療費を貯めようにも弟にはそれだけの余力は残って無さそうだった。
弟は中途半端に命を延ばされただけで、ある日呻きもしなくなっちまった。数十日間無駄に苦しませて、結局何もできないで死なせちまった。
弟を埋めた帰り道、金持ちの家の前を通った。弟が生きてた頃に何度も下見をしたが、結局盗みに入れなかった家だ。最悪な日でも、その家からは微かな笑い声と腹を空かせるような料理の匂いがした。
それだけ、たったそれだけだが、その時の俺にとっては憎悪の対象になった。
運悪く貧乏人の八つ当たりの対象になった家にはその日のうちに泥棒が忍び込み、玄関には犬の糞がばら撒かれた。
犬の糞が投げられるべきだったのはあの家じゃなくて、半端な盗みしかできなかったくせに、何もかも手遅れになった後で行動した泥棒だったのにな。
++
「大層みみっちいことをした泥棒は家主の恨みを買ってすぐに捕まって、不気味な森に連れて行かれた。後はもうご存じの通りだ」
一通りを話し終えたブロウは、深くため息を吐いた。
森の空気がどんどん冷えてきている。今までよりも更に薄暗くなりつつあるので、日が暮れてきているんだろう。ブロウの吐く息が白くなってきたが、本人は温度を感じないためか寒さを気にしてる素振りは見せなかった。その変わり、ため息には哀愁と自嘲するような乾いた笑いが混じっていた。
「俺の話じゃ思い出すようなことは特になかったみたいだな。まあなんてことない、貧乏な人間の末路の話だ」
すみませんと、そう謝ろうとしたが妙な感覚がする。ブロウの言葉が脳内で何度も反芻され頭から離れない。
ブロウに何か声を掛けたかったが、脳内の違和感は無視できないほど強くなっている。
「ブロウ、今なんて言いました?」
「あ?いや、ただの貧乏人の末路だって……」
末路。道の終わりで、そこから先には何もない。
その言葉がどうも引っかかった。
「どうした。……もしやなんか思い出せそうか」
「ええ、多分……」
気付くと周囲にはあの濃い霧が漂っていた。ブロウにはこの霧が見えていないようで、俺の方に視線を向けている。
ブロウは先程の自分の話は、俺が記憶を思い出すのには無駄だったと思っているだろうが、そうは思わなかった。
確かにブロウの過去の話で記憶を取り戻すことはなかったが、彼の苦悩と後悔を知って、尚更ブロウから取り上げられた五感を元に戻してあげたくなった。
動機は恐怖を振り払ってくれる。記憶を取り戻す恐怖が払拭しきれてなくても、ブロウの五感を取り戻すためと思えば霧の向こうを見ることができる。
地面に置かれた生首をお守りのように抱え直す。少しの間だけ目を瞑ってから、霧の方を見直した。
現われたのは大きな洋館だった。華やかな庭園には薔薇をはじめとするいかにも豪華そうな花々が花壇にびっしりと植えられており、装飾にも余念がない。趣味が良いと言えばそうかもしれないが、どことなく過度なようにも見えた。
日が沈みきった暗がりの庭園を軍服を着た俺が灯りを手にし歩いている。訓練施設で着ていたものではなく、今の俺が着ているのと同ものだ。辺りを見回しながら歩を進め、庭を歩き回っていた。
庭をしばらく周回すると、俺が洋館内に入っていく。建物内に入った俺を初老の男が出迎えた。笑いじわのある温和そうな男で、こちらは軍服ではなく寝間着を着ている。
建物内も庭園と同じように装飾に余念がなく、薔薇が無い変わりに絵画や陶器などが並んでいた。
「こんな夜遅くまで余念がないね。20手前の若人というものはもう少し慢心しているような印象があるが、君にはそれがない。ただ淡々と言われた仕事をこなしている。噂通りの人材だ」
男は俺を頭からつま先までじっくり観察すると、目尻を下げ微笑んだ。
「まだ訓練生なんだろう?将来が楽しみだ。もうしばらくすれば軍に入隊と言ったか」
「はい。あと一年ほどで」
会話の最中、男の背後で物音が立った。天井がミシっと音を立てた程度だが、俺は視線をそちらに向けた。よく見ないと分からないが、いつでも体を動かせるように警戒を怠っていない。
「素晴らしい。君がいれば盗人が財産を食い漁りにきても安心だ」
「ありがとうございます、ホスキンさん」
ホスキンと呼ばれた男は更に満足そうに笑みを深めた。
しばらくは状況を理解できないでいたが、ふと思い出したのは俺がここで要人警護をしていたという記憶だ。俺の他にも数人、訓練施設の人間が館内や庭園を歩き警備にあたっている。
これは教官から言い渡され行なわれている実地訓練だった。軍に入隊してからも同じような任務にあたるという訳ではないのだが、多種多様な経験を積んだ訓練生はどこでも活躍が見込めるからということらしい。
警護対象である男に会釈をし、庭園同様に館内を巡ろうとする。が、どういうわけかホスキンは後を付いて来た。
「あの、なにか失礼がありましたでしょうか」
「いいや?気にせず仕事を続けてくれ」
ホスキンは白髪交じりの自分の頭を撫でながら変わらず俺の後を付けている。人当たりの良さそうな人物ではあるが、何を考えているのかよく分からない。俺の表情はというと若干困惑気味だったが、遠ざけたいと思っても相手は自分よりも地位のある人間なことは確かなのでなにも言いようがないようだった。
「君はここに盗人が押し入ってくると思うか?」
「その可能性がゼロではないからここに訓練に向かわされたと認識しています」
ホスキンの声は随分余裕そうだ。俺はというと迷惑だと思っている雰囲気を隠し切れていないが、男がそれを咎める様子はなかった。
「噂だがね、この館内にある美術品を狙う盗人の一味がいるという話を耳にした。よくある話だ。そして大抵は何も起こらない」
「……噂だけなら自分も聞いたことがあります」
「知ってて言わなかったのか。いや、そうだな。不確実な噂話を本人に聞かせても意味がない。良い判断だ」
冷えた廊下に軍靴とホスキンの足音が響く。俺は男の話に一応相づちを打っていたが、あまりにも相手の意図が読めず全て曖昧な返事をしていた。
そうして漆喰の真っ白な壁が続く廊下を歩く二人を見ていると、庭園の方がなにか騒がしいことに気がついた。廊下を歩いていた俺とホスキンもそのことに気付いたのか窓から外を眺めている。
「ネズミが入ってきたか」
ホスキンは口元を手で隠しそう呟いた。それまで俺の後ろを歩いていたが、動きが変わり機敏に先を歩き出す。
「特に盗まれたくない貴重品がある。案内するから対処を君がしてくれ」
「捕らえますか」
「君の同僚が盗人の一部を捕らえるだろ。単独犯なのか仲間がいるのかはそいつに吐かせれば良い」
ホスキンは窓の向こうを見た。薄暗い廊下の中で僅かに灯りに照らし出されたのは、血走った目だった。先程抑えていた口元には、薄ら笑いが浮かんでいる。
「君はネズミを殺せ。それが役割だ」
俺はホスキンの言葉を聞くと腰の携えていたサーベルに手を触れ、ホスキンの後を追った。
庭園での騒ぎは長くは持たずすぐに静まりかえった。開け放った窓の向こう側からは同期達の淡々とした話し声が僅かに聞こえてくる。役割を果たしたんだろう。
その声がホスキンの耳にも届いたのか、人が変わったように狂った笑い声を上げた。人当たるの良さそうな温和な初老の男の姿は見当たらない。
俺はその様子をみても動じていなかった。何がおかしくてそんなに笑っているのか、それ自体は大して重要ではなく、与えられた役割をこなすことだけを考えているようだった。
廊下の向こう側に、蠢く人影が見える。先程のホスキンの狂笑が聞こえたのだろう。窓に身を乗り上げ脱走を図ろうとしていた。背中のカバンは膨らんでいないが、ホスキンは声を張り上げた。
「あいつだ、あいつを仕留めろ!貴重品を既に持ち出している!」
ホスキンの声が終わるのを待たずに、俺は前へ出ると腰からサーベルを抜いた。窓に足を掛けた人物までとは距離がある。
サーベルを構え腕をしならせた俺の動きを見て、汗が噴き出すような感覚がした。何故だかは分からないが、今まで記憶をただ眺めているだけだったのにその動きを止めたかった。
言葉を発しようと空気吸い込む間に、俺の手からサーベルは投げられてしまった。サーベルは盗人の首元に刺さり、その衝撃から盗人は外に出ることは叶わず廊下側に倒れ込む。
「確認してこい」
ホスキンの煌々とした目は盗人では無く俺を見ていた。俺は言われた通り倒れ込んだ盗人に近寄る。よく見ると盗人はまだ細かく息を吐き出していて、背負ったカバンを外に投げようとしていた。が、その前に俺は首元に刺さっていたサーベルを引き抜く。漆喰の白い壁に向かって弧を描くように血が飛び散り、盗人は床に伏した。
「良く見るといい……!これが愚かなことをしようとした馬鹿な人間の末路だ!」
罵倒が向けられたその人間は、背格好からして恐らく男だろう。血が吹き出す首元を手で抑えながら今だ呻きをあげるその声を聞いて、俺は胃が引き締まるような感覚と心臓が激しく脈打つのを感じていた。
「訓練施設にいるというある訓練生の噂を聞いたんだ」
ホスキンの声は先程打って変わって落ち着きを払っている。低く淡々と話す言葉を、何故だか俺は聞きたくはなかった。
無意識的に手が耳を塞ぐが、記憶の中の映像を思い出すように見ているだけだからか、それでもなおホスキンの声は聞こえてくる。記憶の中の俺は血で濡れていく床を見ながら、青ざめた顔をしていた。
「非常に成績優秀で将来が有望の訓練生の話だ。教官のことを慕い周りからも一目置かれている人物がいると。その人物はある日から訓練をより一層真面目に、言い換えれば盲目的に取り組むようになったらしいと。そのある日というのは、その訓練生の兄が施設から脱走した日らしいと」
唇を噛むと、口の中に鉄の味が広がる。僅かに考えていた予測が当たってしまった。兄が自分を置いて出ていってしまったという予測が。
「唯一の身内がいなくなって精神面に揺らぎが出ているんじゃないかと思っていたが、仕事はこなしてくれたようで何よりだ」
ホスキンは変わらず俺を見つめ続けている。それまで俺を見ていた目は好奇や期待などではなく疑念を表していたことを、冷ややかな声と視線でようやく気付いた。
「おい!しっかりしろって!何してやがんだ!」
「あ……ブロウ……?」
手元から聞こえたきた怒号で我に帰る。霧は散っていて、洋館もホスキンも、盗人ももう見えなくなっていた。
腕の中のブロウを確認しようと下を向くと、唇から数滴の血が落ちた。唇を噛みしめすぎて出来た傷から出た血は、それを避ける手段がないブロウにそのまま落ちていく。血の滴が口に当たると、ブロウは思いっきり顔を顰めた。
「お前、何思い出したんだよ……」
苦々しい表情で血が付着した舌を伸ばすブロウが、何の感覚を取り戻したのかは聞かなくても分かった。
しかし問いにはすぐに答えることが出来ず、俺は無言のまま縋るように生首のブロウをしばらくの間抱え続けていた。
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