3 祭り
「いやお前まさか、ここで俺のこと洗う気か」
「はい。さっき落とした時に余計汚くしちゃったんで、責任取らせて下さい」
「別に俺が汚かろうがお前が責任取りたかろうがどうでも良いけどよ、頼むから間違っても流さないでくれよ……」
ブロウを抱えてやってきた川は、意外にも澄んだ水が流れていた。河原があるような大きなものでは無く、森の中に少しだけ割り込むようにしてある幅もそれほどないものだった。
こんな森にあるのだからドブみたいな水だったらどうしようかと思ったが、その心配もなさそうだ。深さはくるぶしよりもやや上の所までといった所だろうか。
「大丈夫です、落とさないように気を付けますから。それにずっと持ってるから分かりますけど、生首状態とはいえなかなか重量があるんで流れていかないんじゃないですかね」
「それでも手離すなよ」
ザアザアと音を立て流れていく水の音に顔を顰めるブロウは、大分弱腰に見えた。手も足も胴体も無い状態だと、万が一口まで水に浸かってしまっても苦しむことことしか出来ないから怖いんだろう。
「ブロウのその状態だと溺死の概念ってあるんですかね」
「恐ろしいこと言うなって……」
軍靴の靴紐を解き、靴下を脱いで川に足を踏み入れてみる。冷たい。そもそも気温だってそれほど高くなく、日の差さない森に流れる川の水なんだから考えてみれば当たり前だった。
ブロウの結われている髪を解いてから岸辺に腰を下ろし、間違えても首を落とさないよう慎重に後頭部を川に浸す。髪の隙間から揺蕩うように苔の一部や砂などの細かい汚れが水に浮かんでいって、やがて押し流されていった。
水草みたいに水流の通りの動きをする髪に指を通していく。きしんだ髪の間に指を通していくと、まだ取り切れていなかった汚れが浮かんできた。それを数回繰り返していくが、流れていく冷たい水は汚れだけでなく手先の温度も容赦なく奪っていく。
当たり前だが、生首状態なので水に浸かってる体の比率は明らかにブロウの方が多い。それなのに手元にある生首の頬は健康的な色合いで赤みがかっていて、人肌の温もりを保ち続けている。
「どうですか、寒いとか気分悪いとかないですか?」
「ああ、良いんだか悪いんだが本当になんもねえな」
記憶は無いが五体満足の俺の指は冷えていって、頭だけのブロウは温かいままというのは大分不思議な気がした。そもそも首だけの状態で生きているのがおかしな事なので、常識とは何もかも違う状態で生きているんだろう。
指の感覚がなくなる前に、川からブロウを引き上げる。濡れて一纏まりになった髪の先から水がボタボタ垂れていた。濡れた黒髪の生首だ。なかなか絵面が強い。
「……どうしましょうかね。拭くもの無いですよね」
「考えてなかったのかよ……適当に自然乾燥で良いんじゃねえか?」
「いつ触覚が戻るか分からないじゃないですか。せめて水滴が垂れないぐらいにはしておかないと流石に寒いと思いますよ」
森の気温は少し肌寒いぐらいだ。俺が着ている制服の上着を脱いでそれで拭く方法もあるにはあるが、薄着でこの気温の中過ごすのは少し抵抗があった。
「仕方がない……少し歩いてきます」
「あ?お、おい、どこ行くんだよ」
「すぐ戻りますので」
軽く髪を絞って大体の水気を切ってから、できるだけ綺麗な場所にブロウを置く。鳥がきてブロウに悪戯するかも知れないので、早く戻ってきた方が良さそうだ。
来た道を少しだけ戻り道の脇にある茂みを覗く。俺達が今まで歩いていたのは人の手で作ったと思わしき土が踏み固められた道だが、そうでない場所は基本背の高い草に覆われていた。
茂みを少しかき分けると、人間のものと思わしき骨と、骨の人物が着ていたと思わしき衣服と装備品一式がそこに野ざらしで放置されていた。
人骨の腕の近くには先程の死体と同様、剥き出しになった剣が落ちていて、表面には経年劣化だけで出来たとは思えない赤い錆びがこびり付いている。
始めに見た死体意外にも、この森には人間が朽ち果てたものや装備品の一部がちょくちょく落ちていた。俺とブロウはその度に落ちているものについての特徴や推察を話していたが、途中からは死体を見つけても無言になっていた。精神衛生を保つためにはそうした方がいいとお互い思ったからだ。
森の不気味さが段々分かってきても、森から出るという話はブロウとの会話の中で一度も出なかった。記憶もブロウの感覚もあまりにも不完全だし、どれだけ歩いても背の高い木々が途切れることは無かったからだ。
どの死体も装備品はしっかりしていた。この人骨も例外では無い。人骨の傍に落ちていたカバンの中を漁ると、簡易食料やら包帯やらに混じってバンダナが入っている。収納されていたからか特段汚れてもいない。
「すみません、お借りしますね」
「お前それどこから持ってきた」
「さっきの茂みに所の」
「いやいい、やっぱり言うな。なんとなく察したから」
人骨の物です、と言い切る前にブロウに止められてしまった。もしかしたらこれで拭くのも嫌がるかとは思ったが、それ以上は何も言ってこなかったため拒否はされていないと受け取ることにした。
バランスを取りやすいようにあぐらをかいた足にブロウを乗せ、バンダナで濡れた髪を拭いていった。あまり保水性は無いだろうが、段々布に水が染みこんでいく様子を見るに全くやらないよりかは良いいはずだ。
ブロウは最初は若干嫌そうな顔をしていたが、ため息をついてから諦めてされるがままになっていた。川で洗った時もそうだが、前科に見合わずこちらがやりたいと言ったことを好きにやらせる寛容さがある。
「ブロウって泥棒した上に盗みに入った家の玄関を荒らしたんですよね?」
「……まあそうだけどよ、何だよ急に」
「いえ。ただ、そういうことした人の割にはなんというか、おおらかですよね。洗うのも拭かれるのも嫌な顔はするのに、結局は俺の好きなようにさせてくれたじゃないですか」
「あー、いい年こいて大分恥ずかしいこと言うけどよ、要するに丸くなったんだよ」
「丸く……胴体の話ですか?」
「精神面の話だよ」
気怠そうにそう言ってため息を吐いたブロウは、手でも付いてれば頭をぼりぼり掻いてそうな雰囲気だ。
「感覚も無い、動かせる体も無い中で流れる時間なんてほぼ止まってるようなもんだ。唯一出来ることと言えば考えることだけ。どうしてこうなったのか、何が悪かったのか、自分のなにがいけなかったのか。そのうち狂って、それでもなおクソ生意気なまんまでいられる程俺は頑丈じゃなかったんだよ」
「苦労されたんですね」
「自業自得だからしょうがねえよ。……まあ、あと別に理由があるとすれば、お前の雰囲気が俺の弟と似てた」
「弟……?兄弟がいたんですか」
兄弟、という言葉を口にした時、妙な胸騒ぎがした。次いで、頭の隅を爪で引っかかれるような不快感を覚える。
「ああ、年は大分離れてたが……おい?どうしたよ」
「何か、変な感じが」
いつの間にか、霧が漂い始めていた。さっき記憶の中の映像を取り戻した時と同じような霧だ。
「まさか……」
「なあ、大丈夫か……?」
「多分、大丈夫です」
今は近くに川がある。間違ってもさっきみたいにブロウを落として転がさないように抱えて、濃くなっていく霧の中を凝視した。
「お前はさ、軍人になりたいのか?」
霧の中から声が聞こえてくる。若い男の声ではあるが俺の声ではなく、勿論ブロウの声でも無かった。そういえば手元に抱えてたはずのブロウがいつの間にか見えなくなっている。一瞬酷く肝が冷えたが、この記憶の中の映像を見ている間はそういうものなのだろうと納得し動かないことにした。抱えていたのは間違いないんだから、むしろじっとしていた方が安全だろう。今は目の前で繰り広げられる出来事に集中しようと思った。
「急にどうしたのさ、こんな所まで連れ出して」
「いいから早く教えろ。お前は軍人になりたいのか、どうなんだ」
霧が見えなくなり見えてきたのは、人混みだった。往来する人々は皆浮かれたような顔をしており、手には食べ歩きできそうな食べ物を持っている。
どことなく既視感のある広場には食べ物や装飾品の出店が並んでいる。街灯と街灯の間には縄が張り巡らされていて、飾り付けされたランタンが沢山ぶら下がっていた。
恐らく、訓練施設がある街で行なわれていた祭りの最中の記憶だ。
頭上を見上げ街灯とランタンの光を楽しむ人々の間で、視線を下げ浮かない表情で会話をしている男二人がいる。片方は俺だ。以前見た記憶の頃よりは少し年齢を重ねている。
俺は時折辺りを見回しながら、もう一人の男と声を潜めながら話していた。さっき俺が『こんな所まで連れ出して』と言っていたので、訓練施設の寮をこっそり抜け出してきたんだろうか。
「軍人に……」
男の質問を反復するように俺が呟いた。
「俺達はほとんど流れに流されてあそこに入ったようなもんだ。それなのにお前は訓練も自己鍛錬も必要以上にやる。お前が支給されてる食事の一部を抜いてるの、同室の奴から聞いたよ。そこまでするなら軍人になりたいのかと思ってな」
「……兄さん、俺はさ」
俺が言い放った単語を聞いて、心臓が一段とうるさくなった。俺の言葉に耳を傾けている男の顔を見ていると、冷や汗が吹き出すと同時に記憶がなだれ込んでくる。
俺には兄がいたんだ。唯一の肉親で、俺を良く気に掛けてくれる優しい人だった。
「優秀な軍人になりたいわけじゃないんだよ。そりゃなれたら良いんだろうけどさ、そうじゃなくて、認められたいから頑張ってるんだ」
「……それにしたって、お前最近顔色悪いぞ。ただでさえ酷い訓練内容なんだから、もっと力を抜け」
俺がゆっくりと首を横に振った。
「いや、そういう訳にもいかないよ。手足のマメがほぼ毎日潰れても、尿に血が混じっても訓練をやめたいとは思わなかった。だってさ、教官に名前を呼ばれて前に立たされて、拍手を送られる瞬間って安心するんだよ。自分にもできることはあったんだって思えるから」
祭りに浮かれた人々のように、俺は微笑を浮かべていた。兄は正反対に苦々しい表情を浮かべ、堪えるように拳を握りしめている。
「褒められたくて頑張ってるなんて恥ずかしいと思ってたけどさ、兄さんになら言えるもんなんだね」
兄の様子に気付かず呑気にそう言葉を続けた俺を見て、何故だか分からないが腹を立てているらしい兄から拳でも飛んでくるんじゃないかと思った。しかし、兄は拳を一度よりキツく握りしめただけで、後は力を抜いて俺の肩を掴んだ。
「今だって酷い毎日だけど、あの施設に売られる前の毎日に比べればマシだよな。寝床があって毎日食べるものにも困らない。未来の選択もできないまま軍人になったとしても、泥棒して食ってく毎日より全然良い。俺もそう思ってた。でも違うんだ。いいか?軍には俺達のように訓練施設を出て軍人になる奴らと、俺達よりも遙かに短い訓練期間を得て軍人になる奴らがいる。後者は大体一般家庭の出身だ。にも関わらず、戦死率は圧倒的に訓練施設を出た奴らの方が高いんだ。どういうことか分かるか?」
「……さあ。何が言いたいの?」
「俺達は軍にとって使いやすい捨て駒候補なんだよ。死にやすい危険な場所には俺達みたいな訓練施設出身の兵を向かわせ、比較的安全な場所には一般家庭出身の兵を向かわせてる。身売りされた奴らを集めてるから、凶暴なモンスターの討伐や国境警備に向かわせて死んでも不満に思う親族もいない」
俺の肩を掴む兄の手に力が込められた。
「お前は、この話を聞いてもあの施設に居続けたいと思うのか?」
兄の真剣な視線が俺の目を覗き込んでいる。俺は少しの間だけ視線を合わせていたが、すぐに顔を逸らした。
確か、まっすぐ過ぎる視線が恐ろしかったんだ。
「兄さん、賢くなったんだね。俺さっき言ったことの半分ちょっとしか理解できてないよ」
苦笑しながら答えた俺の言葉を聞いて、兄はハッと目を見開くと、俺の肩を掴んでいた手を離した。
「ごめん、急に色々喋り過ぎた。でも、このままじゃ俺もお前もロクな事にならないってわかっただろ。そうなる前に」
「俺はこのままでいいよ」
兄の言葉を遮って、俺は極めて穏やかにそう返した。
「住む場所あることと毎日腹を満たせる安心。何より、誰かに褒めて貰える喜びこはこに来てから初めて知ったんだ。早死にしても悔いはない」
兄は酷く狼狽えたような顔をしていた。
俺はその顔を見て当時、兄と自分の考えが違ったことが少しだけ寂しいと感じていたのを思い出した。光景を眺めているだけの俺に、その感覚がじわりと湧き上がってくる。
「俺今日さ、出店から匂ってくる食べ物の匂いを嗅いでも少しも食べたいと思わなかった。それよりも、教官に怒られないように早く寮に戻りたいって思ってたんだ。だから、ごめん、兄さん」
祭りを楽しむ人々は相変わらず頭上を見上げていて、兄も相変わらず狼狽えた表情をしながらも、俺の方から視線は逸らさなかった。唯一、俺だけが俯いていた。自分の選択が、馬鹿なことになんとなく気付いていたからだった。
「俺は……このままで良いなんて思わない」
そう言った兄の声が聞こえてきたものの、どんな表情をしているか見ることは叶わないまま光景はそこで途切れた。
「……あ」
目の前の景色が戻っている。辺りは薄暗い森で、近くには川が流れていて、腕の中にはブロウがいる。
俺はブロウの存在を再度確かめてから、生首を抱える強さを強めた。人肌の温度がありありと感じられる。ブロウは俺が強く抱きかかえても気付いていなかった。ということは、触覚は戻っていないということだ。
「ブロウ、何か変わったことはありませんか」
「変わったこと?お前が急にぼけっとしだして、んで今急に話し出したことぐらいだな……いや、待てよ」
ブロウは数回鼻で息を吸い込むと、ゆっくりと空気を吐き出した。
「鼻が効くようになってるな。お前、何か思い出したのか?」
「思い出しはしたんですけど、ちょっと混乱してて」
思い出した記憶の数々は俺を混乱させてくるだけじゃなく、不安も呼び起こしてきた。自分が何者でどんな立場にいたのか、ますます分からなくなってくる。
「……もし気が向いたら、話してみるといい。それで気持ちが落ち着くこともある」
それに明確な答えを返すこともできず、ただ曖昧に礼だけ言った。ブロウはそれきり特に言及してくることはなかった。
兄という存在と、兄が言ったこと。今はそれらを考えて整理しようとすると頭が痛くなりそうだ。
今はただ、ブロウが戻った嗅覚で嗅いだ匂いはこれかと、濃く湿った空気の淀んだ森の匂いを嗅いでいる方が気が楽だった。
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