血飲み児

羽虫十兵衛

血飲み児

 僕が自分を傷つけたのは、高校三年生の時だ。


 昔から「お地蔵さん」と言われるほどおとなしい性格の僕は、反面かなり負けず嫌いな性分でもあった。勝負事となれば人が変わったように勝ちにこだわり、徒競走から定期試験の順位にいたるまで、とにかく努力を惜しまなかった。


 僕が人生で一番勝ちにこだわったもの、それは大学受験だ。今後の人生を左右する大事な局面で、生来の負けん気がたぎらないわけがなかったのである。だから、三年に進級してからは、厳しい修行の日々だった。遊びを禁じ、毎日のように自習室にこもりきり、昼も夜もなく机にかじりついて勉強した。クラスメイトから「モグラ」なんてありがたくないあだ名までつけられるほどだった。


 とはいえ、学習はなかなかに難航した。英単語は思うように覚えられず、過去問や問題集は不正解を連発し、模試の順位は思わしくない。僕は次第にイライラするようになり、ちょっとしたことで自分を責めがちになった。誰にでもあるつまずきで自分を罵り、「罰則」と称して手の甲をペンで突き刺した。そんなことをしているうちに心を病んで、やがて自分の手首を切るようにまでなってしまった。


 志望校に合格しても、その悪癖は治らなかった。もともと内向的で悩むことが多いくせに、誰かに何かを打ち明けることが苦手なたちだ。気持ちをため込んで消化できず、最後には自分を傷つけることに逃げてしまう。二十歳の男がリストカットなんて恥ずかしいという意識から、友達にさえそのことを明かせず、まったく何の解決も見ないまま時間だけが過ぎていった。


 そして今日、僕はまた下らないことで手首を切った。バイト先のコンビニで、怒られどおしだったのだ。つまらないミスで客から怒鳴られ、先輩である高校生からはダメ出しを食らい、店長からお前みたいな大人は恥ずかしいとまで言われた。僕はすっかり落ち込んで、自分という人間が嫌になった。


 家に帰り、気晴らしに慣れないお酒を飲んでいると、今日のことが思い出された。客の怒りにゆがんだ顔が、アルバイトの冷たい目線が、店長の感情のこもらない叱責が、そのすべてが「お前はダメだ」というメッセージに思えてならない。思考はどんどん飛躍していき、やがて来るところまできた。僕は机のカッターをひったくると、腕を横切るようにさっと走らせた。


 深く切りすぎた、と後悔したのは、ファスナーのように傷が開き、見た事もないほどの血が流れ落ちた後だった。酒の勢いもあって、思ったより力が入ってしまったのである。

 気分はまったく落ち着いて、動揺したり慌てふためくことはなかった。血を見ることに慣れすぎて、感覚が麻痺しているのだ。とはいえ、大きく裂けた傷口から黄色がかった皮下脂肪層がのぞき、切端から湧き水のように血があふれ、今までで一番ひどい傷だった。

 消毒してガーゼをあて、止血のためきつくテーピングした。鼓動に合わせて焼けるように痛むが、僕の心配は傷のことよりむしろ血の処理の方にあった。足元にはコップ一杯分の血だまりができており、早く片づけないと家族に見られては一大事だ。


 清掃のために収納棚から数枚の雑巾を取り出そうとしたとき、僕は飛び上がった。ふいに足元をつるりとなでられたような気がしたからだ。飼い猫のミアがいつの間にか部屋に入って身体をこすりつけたのかと思ったが、ドアは閉まっているし他に誰もいない。

 気のせいかと思ったところで、僕はまたも飛び上がった。突然、ドアをノックする音がしたからだ。


「だれ?」


 努めて平静を装いながら問いかける。勝手に扉を開けられないよう、そっとドアノブに手をかけた。


「あんた今日、何も食べてないでしょう。夕ご飯もってきたから」


 母だった。帰ってくるなり不機嫌に黙り込んで部屋に上がった息子に、夕飯を届けにきたのだ。しかし今は最高に間が悪い。


「ああ、床に置いといて。今、部屋かたづけてるから」


「床に置いたらミアが食べにくるでしょう。いいから早く開けて。腕がつかれるのよ」


 僕は迷った。オーバーサイズの黒い長袖を着ているから腕は隠せるが、後ろの血だまりは隠せない。このままドアを開ければ、何も知らない母は恐ろしい光景と対面することになる。


「ちょっ、ちょっと待って。あと一分」


 ドアにカギを付けなかったことを今ほど後悔したことはない。母が入ってくるまでにすべての形跡を消さねばならない。慌ててドアノブから手を離したその時、ガチャッと音がしてドアが開き、母が顔を見せた。湯気の立つ夕食をのせた盆を、片手で器用に支えている。


 もう終わりだ。数秒先の未来が見えるようだ。母が大きな悲鳴を上げ、盆を取り落とす。悲鳴を聞いた父が駆けつけて、恐怖に顔を引きつらせる。そして険しい顔でこっちに詰め寄って、これはなんだ、説明しろと怒鳴りつける。


 とっさに言い訳を考えたが、何を答えても無駄だろう。鼻血と言っても苦しいし、他に良い案も見つからない。下手をすれば動物や子供を連れ込んで殺したと勘違いされかねない。それならもういっそ、正直に話すしかない。僕は目をつむって覚悟を決めた。


 しかし、返ってきたのは悲鳴でも怒声でもない。拍子抜けするほどいつも通りの母の声だった。


「なんだ、片付いてるじゃない」


「えっ?」


「洗い物が終わらないから、早く食べちゃって」


 母は僕に盆を渡すと、さっさと部屋を出て行った。静かに閉められたドアを眺めながら、僕はその場に立ち尽くした。何が起こったのかわからない。すぐ後ろにある血だまりが見えなかったのだろうか。それはありえない。では、見て見ぬふりをしたのだろうか。それはもっとありえない。僕はそっと振り返り、そして驚愕した。


 血の跡が、ない。


 あったはずの血が、跡形もなく消えている。わずかな飛沫さえ最初からそこになかったかのように消え去って、元のきれいなフローリングに戻っているのである。


「・・・・・・」


 僕は目を疑った。いや、現実を疑った。僕は今、夢を見ているのではないか。「これは夢だ」と理解しながら見る夢の中にいるのではないか。しかし、そうでないことは明らかだ。ここは紛れもない現実の世界。まずそれだけは間違いはない。


 ひとまず盆を机に置き、床を調べた。赤い痕跡はないが、ベージュの床に湿った感覚がある。血だまりのあった場所だけ、確かにべたついている。普通に考えればふき取った後だということになるが、そのような事実はない。だとすれば、床に染みこんだか、蒸発したか。僕の乏しい科学的知見ではそんな妄想が限界だが、そのどちらも説得力に欠ける。


 僕はそっと立ち上がり、部屋の片隅に置かれた姿見の前に立った。とび色の瞳を見つめて、自分に問いかける。


 ―――僕は記憶をなくしているのか?


 以前、一般向けの解説書で読んだことがある。自分でも知らないうちに「もう一人の人格」が行動を起こしてしまう精神病があると。解離性同一性障害と呼ばれるそれは、自傷行為を頻発する人間にもしばしば見られるという。

 しかし僕自身、そのような状態を呈したことは今までにない。今回に限って都合よく発症したとしても、あの短時間できれいに血をふき取ることなど不可能だ。


 僕は鏡とにらみ合ったまま、動くことができなかった。素早く考えを巡らせているようで、結局は堂々巡りである。これは夢か、現実か。現実だとすれば納得のいく自然現象が思いつかない。夢だとすれば、この現実感の説明がつかない。

 

 その時、僕の思考は中断した。部屋の中で、ふいに赤ん坊の声を聞いた気がしたからだ。


「・・・・・・?」


 振り返っても、当然何もなかった。そもそも我が家に赤ん坊はいない。ミアの鳴き声を赤ちゃんの声と聞き間違えたのだろうか。そう思い、何気なく視線を戻したその時、鏡越しにそのと目が合った。 


 部屋の中に、赤ん坊がいる。ちょうど血だまりができていたところに、裸であぐらをかくようにして座っている。僕は目を疑った。その子は幻覚と言うにはあまりに生々しい、重量さえ感じる質感をもっていたからだ。


 血の気が引いたのは、その赤ん坊の全身が、赤黒く濡れているからだ。やわらかなお腹が、おぼつかない手が、ふっくらした頬が、そして小さな口が、返り血をあびたような黒血にまみれ、蛍光灯の光を不気味に反射しているのである。


 静寂のなか、僕と血まみれの赤子は見つめあった。子鹿のような瞳に邪なものは感じられず、あくまで無心だった。


 ふいに、赤ん坊が笑った。無邪気な声が、部屋に響いた。しかし僕は悲鳴を飲み込んだ。小さな口からのぞく喉が、真っ赤だったからだ。小さな舌も、薄桃うすもも色の歯茎も、まばらな乳歯も、血を飲んだかのように、粘い赤にまみれているからだ。


 鏡に映るのは、幼子の姿をした悪魔。人間ではない。それでも僕は、意を決して振り向いた。恐ろしいだけに、かえってその正体と向き合いたかった。


 ―――いない。


 満身を血に染めた忌まわしい赤ん坊は、どこにも見えない。


 しかし。


 赤ん坊の居た場所から、赤いスタンプのような跡が点々と続いて、窓の下で途切れている。恐るおそる近づいて確かめると、それは血で描かれた子ザルのように小さい人間の足跡だった。

 僕は立ち上がり窓を開け、外を見た。十一月の透き通った夜空に、まばらな星と小さな月が浮かんでいる。何の異常も見られない。窓を閉めて部屋に向き直ると、その足跡も消えていた。

 僕は急に力が抜けて、膝からくずおれた。焼けるような腕の痛みが、これが現実であることを突き付けてくるかのようだった。



 翌朝、僕はリビングに居る父親をつかまえて、のことをたずねた。日頃からボケ防止のためと言って複数社の新聞を精読している父は、今日もソファに座りながら熱心に紙面に目を落としていた。


「あのさ、変なこと聞くんだけど」


「なんだ?」


 父は新聞から目も上げずにこたえた。


「昔この辺で、親子が死んだ事件があったのって覚えてる?」


 そう言うと、父は初めて仏頂面をこちらに向けた。息子がいきなりこんな話題を持ってくれば、誰だって顔をしかめるだろう。折りたたんだ新聞をテーブルに放り投げると、腹でも下したような怖い顔で問いただした。


「なんでそんなことを聞く?」


「近所の先輩に子供ができてさ。近くに事故物件があるのが不吉だから、お祓いを頼もうっていう話になったんだ。それでちょっと気になって」


 あらかじめ用意してきた言い訳だ。父は怪しむような目つきで僕を見ていが、やがて遠い目をして、ぽつりとつぶやいた。


「・・・・このあたりで死んだ親子といえば、向こうの大橋おおはしさんのところだな」


 それから父の話したことは、僕が事故物件サイトで調べた内容と矛盾しなかった。


 昨夜、一睡もせずに考えた僕は、あの出来事を心霊現象だと決めた。もうそれでしか説明できないからだ。いわゆる「霊感」というものには全く無縁で、幽霊など会えるものなら会ってみたいとすら思っていたが、あんなことがあってはその考えも撤回せざるを得ないだろう。

 そして一度幽霊と決めてしまうと、かえって知りたい気持ちになった。あの子は誰で、なぜ死んでしまったのか。どうして僕の所へやって来たのか。

 僕はこの付近で赤ん坊が犠牲になった事故や事件がないか、インターネットで調べた。恐ろしげな事件はことのほか多かったが、条件が一致するものは一つしかなかった。


「・・・・お前が生まれる少し前だ。そこの大通り沿いにあるマンションで、母子が殺された。暴力が原因で離婚した元夫が逆恨みして家に侵入、母親がめった刺しにされたんだ。ただ、赤ん坊だった息子だけは偶然別の部屋で寝ていて、難を逃れた」


 父は淡々と語った。普段は無口だが、話し出すと饒舌じょうぜつになることを僕は知っている。適当に相づちを打ちながら、さらに話を聞きだした。


「赤ちゃんは助かったんだ?」


「その時はな。だが、男が逃げた後、遺体の発見が遅れた。犯行が深夜だったこともあるが、壁が厚くて子どもの泣き声が漏れなかったんだ。しばらく姿を見せないのを怪しんだ住人が遺体を発見した時には、親子ともども・・・・」


 不帰ふきの客となっていた。


「かわいそうだね。お母さんが殺されて、子どもは餓死がしするしかなかったんだ」


「そうだ。その子はまだ離乳食にも慣れていなかったから、母親を求めてひとりで部屋を脱したらしい。発見された時にはやせ細って、血まみれになりながら亡骸なきがらの乳房に吸いついていたという」


 父は苦虫を噛み潰したような顔をした。僕の脳裏に、血で汚れた赤ん坊の姿がよぎった。


「父さんはその親子のこと、知ってたの?」


「ああ、母親はよく子どもを連れてこのあたりを散歩していたからな。近所の人たちとも顔見知りだった。他人を怖がらない、よく笑う子だったよ」


 僕の頭に、昨夜の笑い声がこだました。


「だから、事件を聞いた時はみんなショックだった。まさかあの親子が殺されるなんて、思ってもみなかったからな。どうしてもっと早く気づけなかったのかと後悔ばかりしていたよ。まあ、俺と母さんは悲しんでばかりもいられなかったがな」


「どうして?」


「そのすぐ後に、お前が生まれたからだ」


「・・・・・・」


 その後、古いアルバムの中から当時の写真を見せてもらった。新婚旅行や昔飼っていた犬の記録の中に、赤ん坊を抱いた女性の写真があった。どこか幸薄さちうすそうな、申し訳なさそうな顔をした人だった。腕の中で、ふくよかな子どもをあやしている。


 ―――ああ、この子だ。


 色あせた写真の、健康そうに丸々太った赤ん坊は、ゆうべ部屋で見た子だと一目でわかった。母親の腕で安らかに眠るこの子が、飢えと孤独の中で息絶えてゆくなど、誰が想像できただろうか。


「この子、名前はなんていうの?」


あさひ。文字通り、朝日のように明るく元気に育ってほしいと願ってつけられた名だ」


 大橋旭 おおはし あさひ。なぜこの子が僕の所へやってきたのか、わかった気がした。



 あくる日、僕は大橋親子の埋葬されている霊園に来た。地元の中でも比較的大きなところで、僕の祖父もここに眠っている。


 大橋家のお墓は、霊園の中ほどにあった。かつては地元の人たちがこぞっていたんだというこの家族墓も、今はどこかわびしげにたたずんでいる。親族や管理人が丁寧に手入れをしているようで、年季の入った大理石の周りには、枯れ葉のひとつも落ちていない。

 僕は持ってきた数本の花と粉ミルクを墓前に供え、しゃがみこんで手を合わせた。旭が生きていれば、僕とそう変わらない年齢だ。明暗を分けたのは、ただ運でしかない。不幸にも命を落とした赤ん坊の横で、幸運にも平穏を授かった者が平然と自分を傷つけている。なんだか自分が恥ずかしく、申し訳ない気持ちだった。

 空が秋らしく黄色がかってくる頃、僕は霊園を後にした。道すがら、あわれな赤ん坊に思いをはせていた。


 ―――旭は、お腹が空いていた。お乳がほしくて、仕方がなかった。しかし、どんなに求めても亡骸は乳を出さない。あるのはただ、おびただしい血潮だけ。旭は死んだ母親の乳房を吸いながら、おそらく血を吸っていた。もちろん飢えは満たされず、未練から、死後この世をさまよう亡霊になってしまった。


 旭の霊は飢えを満たすものを求め続けた。しかしそれは母乳や離乳食ではなく、血だったのだ。乳のかわりに血をすすった赤ん坊は、血を求める幽霊になってしまった。だから僕の元へとやってきた。慢性的な自傷行為で血を流す僕が、彼の霊を呼び寄せたのだ。あの時の足元をなでられるような感覚は、旭の体が僕に触れたものに違いない。


 旭は僕の血を飲んで、ついに満たされた。やせ細って死んだはずなのに写真のままの姿で現れたのは、二十年来の空腹が終わったからだろう。


 ・・・・もちろん、これはすべて僕の想像でしかない。だけどこれ以上の答えはないように思う。母乳よりも血を求める赤ん坊なんて、まるで江戸時代の妖怪みたいでぞっとしない話だ。だけど、母乳とは血液が母親の乳房でろ過されたものだと聞いたことがある。だとすると、赤ん坊はみな血を飲む子。なにも驚くことはないじゃないか。



 僕は大通りから路地に入る。枯葉を踏み鳴らす音の中に、かすかな声がまじった。そよ風にもかき消されそうな、小さな声。しかし、僕にはそれが何かわかった。


 ―――赤ん坊が、笑っている。


 狭い道をふり向いた。誰もいない一角に、晩秋のやわらかな光がさしている。路傍に咲いた白い花が、風もないのにゆれていた。そばを通りがかった野良猫が、突然驚いたように逃げ出して、やがて陽はかげった。


 声はもう、聞こえなかった。


 僕は再び歩き出した。


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