第11話

第11話「Who Loved Me」


 ――世界の『大崩壊』から百年。


 人々の努力と幾許かの奇跡により、文明の再興は成った。


 しかし、重要度が低いと見做された文化の再現は遅れ、時に見下され、その連続性を絶たれていった。

 伝統芸能、スポーツ、そして美食――


 世紀末美食伝説。


 それは、暗雲を晴らす愛の切り札。






 世紀末美食伝説 ムラサキ、前回までは――


「――ムラサキ! この勝負、己は『炒飯』で行くッ!」


「……相分かった。全力で来い、ジロウ」


 因縁に決着をつけるため、ぶつかり合う二人の漢。その名はムラサキ。その名はジロウ。


 並び立つ者の居ない美食の頂点同士の対決。ゆえにもたらされたのは、理の外から顕現せしめた悪魔の如き存在であった!


「『覇王』――それが己の持つ、この2BDザ・ロスト登録名コードだ」


 恐るべきジロウの『覇王』が生み出す中華的炒飯ハーモニーに、審査員は骨抜きと化した。

 もはやこれ以上の物など出来ようはずもない。誰もがそう確信していた。


 ただ一人を除いて。


「――『覇王』。出す、と信じていた」


 類稀な観察眼を駆使してそれなりの炒飯を作り上げたムラサキは、ついに秘策を開放する。


「見せてやろう。これが俺の2BDザ・ロスト。先日発掘されたばかりの十番目。登録名コード『創生王』」


 偽帝『覇王』に対するカウンター。『覇王』の根源オリジナルたるその神々しき異物の名は、『創世王』。


「これが…………」


「ああ、これこそが――」


 審査員らの心に響く福音の鐘の音。


 中華の頂点に一矢報いる。

 紛れもない偉業を成し遂げたムラサキに、満場一致の勝利が送られるのであった。


 そして――


「これは一体何の騒ぎだ」


「あら、あそこに居るのは」


 今――


「の、のぼりゅ?!」


「シオッッ!!」


 五聖天が、一堂に会する――






「感動の再会、といったところか」


 上階から響く、鼻が詰まったような声。


 いや、その表現は適切ではない。実際に詰めているのだ。鼻栓を。


 美食五聖天、『酢』のヴィネガー澤こと、澤丈藏。


 虎を思わせる、黄に黒の稲妻ストライプが走る上着を、羽織るようにして肩に掛けた威圧的な風貌。

 歴史的美食争覇に沸いていた会場は突然の出来事に静まり返り、事の成り行きを見守っている。


「シオ! 何があったかは知らない。だがそれでもいい、戻って来るんだ!」


「のぼりゅ……」


 一方のムラサキはそうした状況に斟酌しない。

 この旅の本来の目的が目の前に現れたのだ、それどころでは無いのだろう。


 だがそれを、快く思わない者もいる。


「ムラサキ。少し黙り給え」


「お前こそ黙れ。これは、俺とシオとの問題だ」


 互いを射殺すような視線が交差する。

 想像力豊かな観客の目には、両者の背後に浮かび上がる恐るべきイマジナリー虎とイマジナリー醤油差しのオーラが見えた事だろう。


「まさに愛、ね。ちょっと妬けちゃうわ」


 全身花柄ピンクの男が茶々を入れた。美食五聖天、『砂糖』のコクトー・三上だ。


「シオ、戻ってきてくれ。お前が居なくては、俺は――」


「…………」


 ムラサキの必死の呼びかけに、しかし俯き応えぬシオ。


 彼女こそ、ムラサキこと邑咲昇由の妻であり、美食五聖天、『塩』の邑咲紫緒その人だ。


「シオンの方には、お前と話すことなど無いようだが」


「口を出すなと言ったはずだ。それに、今の彼女は邑咲紫緒。二度と間違えるな」


 険悪な空気が会場の端まで凍りつかせる。

 こうなっては司会や審査員も、もはや観客と同じく蚊帳の外。生唾を飲み込むことすら憚られるような緊張が、その場を支配していた。


「…………シオ、それならこちらにも考えがある。美食争覇だ。お前と俺と、五聖天同士の美食争覇で、すべての決着をつけよう」


「!」


 困惑と興奮とが混じり合ったどよめきが観客席から上がる。

 ムラサキは、たった今激闘を繰り広げた直後。

 常人であればクッキング・キャパシティの枯渇により、数日は回復を待たねばならないはずだ。

 正気の沙汰とは思えない!


 しかし料理人にとって、とりわけ五聖天にとって、美食争覇は挑まれたらこれを拒むなどあり得ない程の神聖な儀式である。

 必然的に、五聖天たるシオもこの挑戦を受けねばならない。


 まさに、命がけの策である。


 シオはしばし俯き、


「………………それが美食争覇であるのなら、受けなければなりません」


 そして再び上げた顔は、ひどく冷徹な、氷のような表情であった。


 それはムラサキに、出会った頃の彼女を思い起こさせた。




「こ、これは大変な事になって参りましたッ! こちらとしても叶うのならばすぐさま始めたい所ではあるのですが……なにぶん会場の準備もありますので、少々お時間を頂く必要がございます」


 モデにとっては千載一遇の好機である。

 一生に一度、目にすることができるかという、五聖天同士の『真の』美食争覇。

 その司会に抜擢されたばかりか、二度続けてともなれば、地球上にそのような経験をした者など存在しないはずだ。


 本当は今すぐにでも始めたい。

 そう叫び荒ぶる心に支配されそうになるが、一方で物理的にそれが難しいことを判断するだけの冷静さも忘れることは無かった。

 『常に客観的視点を持ち続けろ』。今は亡き、モデの師匠の言葉だった。


「そうですねぇ~。あ、じゃあくじ引きだけ先に済ませちゃいましょ~」


 シャーリーが、仕舞ってあった黄金選定箱パンドラボックスを取り出し、ムラサキへとこれを差し出した。


「…………」


 おもむろに箱に手を入れたムラサキは、ガサゴソと中をまさぐった後、決断的に一枚の紙を取り出した。


「あ、ああっとこれは珍しい! まさか、このお題が選ばれることになるとは――!」


 ムラサキの掴んだ紙には、『マナー対決』と書かれていた。






 ――マナー。


 行儀作法とも呼ばれるこの概念は、しばしば議論の的となる。

 特にテーブルマナーの場合、その内容は培われた食文化によって千差万別で、ある文化圏では尊ばれる所作が、他の文化圏ではご法度とされる事が往々にして発生する。


「じゃあ正解とかはどう決めるんですか?」


 選手控室へと一旦下がったムラサキ達一行は、作戦会議を開いていた。

 とは言えシローやいなりに助言など出来ようはずもなく、ただただムラサキの戦略を聞く会になっていたが。


「……美食争覇におけるマナー対決では、まず料理が供される所から始まる。即座にそのルーツを看破し、最適なマナーでもって食事する事が求められる。勝敗は、マナーの正確さ、速さ、所作の美しさなどから総合的に判断される」


 そんないなりの疑問に応えたのは、しれっと陣営に参加していたジロウだ。


「フレンチの場合は、フランスのマナーに従えばいい――って事か?」


「その認識で大体あってはいるが、事はそう単純ではない。例えば、中華料理が出てきたとしよう。この際に注意すべきは、料理の種類だ。都市部にルーツを持つ料理の場合は、一口分程度残す必要がある。平らげるという行為は『お前の用意した量では足りなかった』と捉えられるためだ。だが比較的田舎に分類される地方の料理が出た場合、残すことは逆に生産者への失礼に当たるゆえ完食せねばならない。更に焼き餃子など、ジャパナイズされたものの場合は、中国ではなく日本のマナーに従うべきだ」


「そ、その判断を一瞬で……」


「しかも、だ。今の説明はある程度簡略化している。実際には食べ進める最中や食べ終わった後など、気をつけるべき点がいくらでも存在する、極めて過酷な競技だ――もっとも、最大の困難はマナー以外の部分にあるのだがな……」


 どことなく優雅な響きすら持っていたマナー対決の恐るべき真実を知った年少組は、これから起こるであろう激戦の予感に焦りを感じていた。


あんちゃんの奥さん――シオさんだっけか? 兄ちゃんとどっちがマナーに詳しいんだ?」


「…………シオだろうな」


「そ、そうなんだ…………あっ! そうか! おっちゃんとの勝負で使ったアレは?! 神話なんとかって! 自信が無い時は、相手の動きをそっくりそのまま、真似すればいいじゃないか!」


 天啓のようにも思える閃きが舞い降りたシローが、期待と共にムラサキを見やる。だが――


「いやだめだ。神話再現ソルジャー・ドリームは、脳のリソースの大部分を割いて初めて実現可能な技。リアルタイムに、手を動かしながらなど、とてもでは無いが無理だ。そもそも、日に何度も使える物でもない」


「そ、そんな……」


 ただでさえ連戦の疲労がある状況に重なる不利。

 シローはただ、黙ることしかできなかった。


「――マナーと言えば、俺達の中では、澤の奴が抜きん出ていたか」


「フッ、懐かしいな。誰彼構わず勝負を吹っ掛け、『マナーの虎』と呼ばれて恐れられていた」


「ああ、そうだったな」


「あの頃からか。奴が虎柄を着始めたのは。当時は珍妙と思って見ていたが、今じゃ随分としっくり来るから不思議だ……懐かしい、ああ、懐かしいな」


 そんなシローの不安を他所に、五聖天の両名は昔話に花を咲かせる。それは強者の自信か、或いはある種のアンクシャス・マネジメントか。


「その、澤って人。一体どんな人なんですか?」


 いなりが遠慮がちに発した疑問は、漂い始めた穏やかな空気を一瞬にして変えてしまった。


 拙い事をした、と当のいなりは思った。

 一方で、ムラサキとジロウは感謝の念すら抱いていた。

 激闘の緊張の後、思わず弛緩した自分達を諫める切っ掛けとなったから。


 ゆえに両者は、少女の問いに応じる。


「――ヴィネガー澤。美食五聖天の『酢』担当。かの巨大コングロマリット、澤グループの会長だ」


「ティッシュで鼻栓してたけど……花粉症か何かなのか?」


 シローは、先程対峙した男の特徴を思い出す。

 黄を基調とした虎のような服装にサングラス。とても堅気のようには見えない風貌に添えられた、似つかわしくない二つの鼻栓。


「いや、そうではない。奴はサングラスで視覚を、鼻栓で嗅覚を自ら遮ることで、味覚を高めているのだ」


 それは美食への飽くなき探究心の具現。

 嗚呼、かくも美食道とは、日常生活をも犠牲にしなければならないのか!


オレ達の中でも、最も食に貪欲な男。自身の思い描く美食のためなら手段を選ばない。此度の騒動も、恐らくはそのためだろう」


「恐らくって……おっちゃんだって同じ立場なんだから、もっと詳しく知ってるはずだろ?」


「……悪いな。自分と弟子の出店で精一杯で、実を言えば旧交を温める暇も無かった」


「そんな……」


 そうだとすれば先の美食争覇は一体何だったのか。シローは訝しげに目を窄めた。


「えっと……じゃあ、あのピンクの人は?」


「――『砂糖』のコクトー・三上。見て分かる通り、料理のために性別を超越した存在だ」


「いや全然分かんねぇよ……」


「それよりも今はシオの奴だ。対策を練らねばなるまい。そもそもあのシオが、ゾッコンだったあいつがお前を裏切るなんて、相当の理由があるはずだ。違うか?」


 ムラサキはしばし瞑目する。


 脳裏に浮かぶのは、幸せだったあの頃の光景。

 その前途に不安など存在せず、例え何かが起きても二人なら必ず乗り越えられると信じて疑わなかった。


 それが、何故――


「…………分からん。俺も、その答えを探しに来たのだ。ただ――」


「ただ?」


「結婚する前に一度だけ、風の噂で耳にした事がある。かつてのシオは、シオンであった頃の彼女は――」


「「「…………」」」


「酸っぱいものが好きだった、らしい」






◇シオの控室


「まさか君が、オロシャの間諜だったとはね。ドンから聞かされた時は、流石の僕も驚いたよ」


「…………何の用?」


 会場の一室。与えられた簡素なスペースで待機していた彼女を訪れたのは、澤だった。


「権力には興味のない君の事だ。大方、その事実をムラサキに暴露するとでも脅されたんだろう?」


「あの人は、そんなこと承知の上。承知の上で、それでも私を肯定してくれた。だけど世間がどう思うか……私はどう思われてもいい。でも、あの人にまで累が及ぶのは耐えられない……」


「それでドンに直談判というわけか。考えるに、切り札は『禁断のマリア』のレシピ。違うかい?」


「貴方には関係ないでしょう」


 澤の眉が僅かに歪む。


「……つれないな。同じ五聖天だろう?」


「数合わせの癖に、顔と態度は大きい」


 澤は飛び出そうになった悪態をすんでの所で押し殺し、努めて冷静を装った。

 完全に飲み込めたわけではないと、痙攣する彼の右目の端が雄弁に語る。


「――――数合わせとは失礼だな。ジロウあたりと間違えているのでは?」


「……」


「まあそんな事よりも、だ。いっそこのまま、ドンの目指す未来を、僕らの手で創り上げるのはどうかな?」


「貴方も言った通り。興味がない」


「本気で言っているのか? 君もを見たはずだ! あの世界で通用するとすれば、五聖天と言えど僕と君くらいだ。一料理人として、思う所があるはずだ。そうだろう?!」


「……」


 澤の必死の語りかけに、しかしシオは何の反応も示さない。

 彼に背を向けたまま椅子の上で胡座をかくと、精神の集中を高めるカトラーサナを始める。

 来たる美食争覇に向け、瞑想しているのだ。

 あと少しで、宇宙の心が誰だったのか掴めそうだ。


「そんなにあの男が大切かッ! あんな運だけの男ッ! 同じ五聖天なのに! 一体僕と、何が違うって言うんだッ!!」


 とうとう撃発した澤に、シオは薄く目を開けた。


 煩い男だ。小型犬のようによく吠える。

 そういう手合には、少しきつめの躾が必要だ。


「同じ五聖天? 自惚れないで。貴方とはそもそも器が違う」


 そして姿勢アサナは崩さぬまま、肩越しに彼を睨めつけ鼻で嗤う。


「小男」


「~~ッッ!!!」


 澤はと言えば、額に青筋を立てて怒り心頭の様子。


 そのまま感情に任せて手を上げたりするだろうか。

 そんな度胸は無いだろう。

 まあそうなった所で、嫌と言うほど訓練させられた護身術システマの敵では無い。



『なんだこのデカ女は。異人か?』



 思えばこの男は、出会った当初から気に食わなかった。

 なまじ料理の腕だけはあるがため、無視もできない厄介な存在。

 一体自分の何が気に入らないのか、会う度にねちねちと嫌味を言われたものだ。



『根はそれほど悪い奴じゃないんだけどな。丈藏のアレは、そうだな……まあ一種の照れ隠しのようなものだろう』



 思わず三上に愚痴めいた事を吐露してしまった時、彼――当時はまだ男だった――が返した言葉を思い出す。

 その意味は、未だによくわからない。


「――――ふん、そういうつもりなら、勝手にするがいいさ。僕の覇道の邪魔だけはしないでくれ給えよ」


 どうにか怒りの感情を抑え込んだ澤は、そう言って身を翻した。

 扉から出ていくその瞬間まで、なおも未練がましくぶつくさと何事かを呟いていたが、シオの耳にそれらが届くことはなかった。


(――それよりも)


 今は、自分を追ってこんな所まで来てしまったムラサキへの対処、それが急務だ。


 美食争覇の掟は絶対。

 もし自分が敗北したのなら、今までの苦労が水泡に帰すだろう。


 毒物の混入、審査員の洗脳、出題情報の傍受あるいは略取――

 かつて体得した技を駆使すれば、勝負を著しく有利に運ぶことが可能だ。

 だがシオはそれをしない。あの誓いの日に、それらはすべて封印したのだ。シオン・ソルトの名と共に。



『フレブ・ソーリ。管理番号0064。今まで私が育ててきた中でも、随一の成績だ』


 安普請のガラス窓が、すべてを凍てつかせる猛吹雪に揺れる中、かつての上官の声が蘇る。


『大崩壊以降、次の大戦を見据え軍備の拡充に総力を注ぎ込んだ我が国は、今や美食後進国となって久しい。君も、身をもって知っての通りだろうが』


『…………』


 訓練と称した、拷問と変わらぬ仕打ちを己に強いた、憎むべき男。だが――


『兵站を疎かにしてはならぬと、此度の最高指導者から仰せつかっている。まずは隣国。ゆくゆくは、あらゆる国へと。密偵としての任務だ。苦い真実でも良い、持ち帰って来たまえ』


了解ダー!』


 今では、感謝すらしている。運命が、この地で自身を待っていてくれたから。




 シオの意識が現実へと戻る。


 今は――そう、来たるべきマナー対決に備え、作戦を練らんとしていたのだったか。


(…………)


 いいや、そもそも、その必要は無いだろう。

 超一流のスパイとして育成された彼女シオンは、世界各国のマナーを叩き込まれているのだから。


(でも――)


 そうした圧倒的不利な状況下にあって、なお不思議と勝利を掴み取るのがムラサキという男である。

 もしも弱腰を見せれば、たちまちそこを攻めてくるのが、ムラサキという男である。


 なればこそ自分シオは、全身全霊をもってこれを打倒せねばならない。


 何よりも、二人の未来のために。






◇美食争覇会場


 準備が整ったとの連絡を受け、ムラサキら一行はステージ袖へと集合していた。


 ステージ上には、ムラサキとシオのためであろうテーブルと椅子が横並びに置かれている。

 純白のテーブルクロスが敷かれ、花瓶には美しい花が一輪。


 下手な格好では入店自体を拒否され、間違えて入ろうものなら恥辱に塗れるか一週間のもやし生活を余儀なくされるような雰囲気が醸し出されている。


 恐らくそうした空気に飲まれたのだろう、満員となっている観客席は、いっそ不自然なほどの静寂に包まれていた。


「さて皆様、大変長らくお待たせいたしました! 美食争覇、前代未聞、まさかの第二部! その名も高き五聖天同士のマナー対決のお時間です!!」


 モデによる開始の宣言は、そのような空気を意図的に読まずに発せられた。

 これを機に生じたざわめきは次第に大きくなり、遂には大舞台に相応しい盛り上がりを見せる。

 ここ数日の経験が、彼の司会力を以前と比べ物にならない高みへと引き上げていた。

 一流との出会いが、一流を生むのだ。


「まずは審査員の方のご紹介でぇ~す」


「本日はあの有名な養成機関『マナーの穴』最高責任者、エレガントマナー京野にお越しいただきました!」


 先の中華対決では三人も居た審査員が、今回は一人である。

 不満を覚える者も居るだろうがこれには深い理由がある。

 マナー講師が複数人集まると、解釈や見解の違いから戦争が勃発するからだ。


「ご紹介ありがとうございます。茂手、それに江戸前様も。ご期待に添えるよう微力を尽くしますので、どうぞよろしくお願いいたします」


「あ、はい……えっと、審査員の京野様、でした」


 短いやり取りで何があったかは分からないが、揚々としたモデの意気が一瞬で消沈した。


「兄ちゃん、あの配置だとさ、隣の様子が見放題じゃないか?」


 舞台袖から会場を覗いていたシローが問うその内容は至極最も。

 用意された二組のテーブルと椅子はごく近い位置に隣り合って設置されており、盗み見ることが物理的には可能なのだ。


「確かにそうだがな、坊主。そりゃまさしく『マナー違反』ってもんだろう。即刻失格扱いだ」


「な、なるほど……」


 そう、自信が無いからとカンニングする行為は、自信の無さの現れとカンニングとで二重にマナー違反判定を受けるのだ。

 つまり、この対決に挑む者は隣で繰り広げられている所作をチラ見したいという欲求や、相手がどのような行動をしているのか確認したいという不安感と常に戦わなければならないのだ!

 こんな事ならば、まだ互いに姿が見えない方が有情というもの。


「京野さんは、あの『食事作法の五百則(全十巻)』を書かれた方なんですよねぇ~。私も二巻だけ持ってます~」


「……」


「お、シャーリーさんはマナーに興味があるようですね。何か披露できるものはありますか?」


「そですね~。お茶碗を持つ方の手でお茶碗を持つ事くらいですかね~」


「……確かに、第二巻の基本マナー編②にしたためた内容ですね」


 京野が鷹揚に頷いた。


「ええと、気を取り直しまして! 美食争覇第二部、『マナー対決』の開始を宣言させていただきます! まずは簡単にルールの説明を! 今回は美食五聖天同士の対決ということで、テーブルマナーにフォーカスした問題が出題されます。お二方には、それに同時に回答していただきます。回答方法は、人の規範となるべき五聖天に相応しい実践形式! その一挙手一投足を、審査員のエレガントマナー京野様にジャッジしていただきます!」


「国が違えばマナーも違う、というわけでぇ、用意した料理に沿ったマナーを披露しなければなりません~」


「例えばイタリア料理であるパスタが供された場合は、本場のマナーに従い、スプーンを使わず、かつ啜らずに食べねばなりません! ただしナポリタンの場合は――」


「啜っちゃってオッケーでぇ~す」


「と! こんな感じで進めて参りましょう! 早速、一皿目が供されます!」


 モデの言葉を受けて進み出た二人の給仕が、それぞれ担当のテーブルへ皿を置いた。

 息の合った動きでクロッシュを除けると、現れたのは赤い色をしたスープだ。


「え、もう始まっちゃった! 兄ちゃん急がないと!」


 慌てふためくシロー。

 なぜならムラサキは、試合が開始されたと言うのに未だ舞台袖に待機していたからだ。

 何たる出演者意識の低さか! このままでは不戦敗の憂き目も免れない!


「――いいや、これでいい」


 しかしムラサキは頑として動じず!



「?! 一体どういうことなんだってばよ!」


「シロちゃんちょっと落ち着いて。ほら、向こうもまだ動かないみたい」


 言われてステージを覗いてみれば、なるほどいなりの指摘通り。対戦相手のシオも姿を現してはいなかった。


「そうかムチュージ ナ ムチチャ! タンザニア料理か!」


「ムチュ、なんだって?」


 ジロウが我が意を得たりと膝を打ち、対するシローは唱えられた呪文を聞き取れない。


「赤みがかったスープでまず思い浮かぶのは、ボルシチかミネストローネかトムヤムクンだ。あの赤はトマトの赤だからミネストローネ、最初はそう思った。だが、遠目に分かりづらいが緑色の葉物が入っている。それだけなら確信には至らないが、この状況が最後のヒントとなった。通常ならば着席してから始まる所、あえての料理が先に出されるという不可思議な采配。つまり既に始まっているのだ。『マナー対決』が」


「そういうことか」


「そういうことだ」


 分かりあったかのように頷く五聖天。理解の追いつかないシロー。いなりはシローの呆けた顔を隠し撮りした。


 一方の会場には、困惑のざわめきが次第に広がりつつあった。

 無理もない。今から名勝負が見られると、そう期待していたというのに、肝心の二人が舞台にすら上がらないのだから。


 ただ時間だけが過ぎていった。

 三分。五分。二人はまだ現れない。


 流石に何かトラブルが発生したか。いや、司会も審査員も特に慌てた様子もなく、ただじっと待っている。


 十分、十五分。もはや最初にあった緊張感など消え失せ、下らないと帰る者まで出始めていた。


 そして――


「――おっとステージ上で動きがありました! 中央のテーブルに向かって来たのは、ムラサキさんとシオさん! 紛れもない美食五聖天のお二方であります! そして今! 同時に着席しました! 開始の合図から、ちょうど二十分!」


「実にエレガントなマナーです。タンザニアでは食事に招待された側は二十分遅れて行くのがマナー。お二人共素晴らしい。文句なしの満点でございます」


 エレガントマナー京野は気品あふれる笑みを浮かべ、両手に持った『⑩』の札を上げた。


 数秒の空白の後、水面下でハイレベルな闘いが既に繰り広げられていたという事実への理解が浸透し、会場は一転、熱狂に包まれた。


「なんてこった……こ、これが『マナー対決』……」


「ああ。だがまだ序の口、始まったばかりだ。坊主、よく見ておくがいい。『マナー対決』の真の恐ろしさ――じきにそれが詳らかになるはずだ」






 無事に一皿目を平らげたムラサキとシオ。そこに間髪入れず、次なる皿がやって来る。


「さあ、二皿目はパスタのようです! 果たしてどんなマナーを見せてくれるのか!」


 ムラサキは供される料理をよく観察する。

 先程と同じく赤いトマトソース仕立て。具材は殻ごと投じられた海老や浅蜊やムール貝、そして輪切りの烏賊と盛り沢山。

 イタリアンパセリの緑がこれまた食欲を誘う。


 間違いない、ペスカトーレだ。


 ムラサキは皿が置かれる寸前に、ナプキンを膝の上にセットした。


(ギリギリセーフ……のはずだ)


 ナプキンは料理が運ばれる前に膝の上に二つ折りで置く。

 メジャーなマナーであるが、料理のを看破してからでないと、それが不適となる可能性もある。

 極めてシビアなタイミングであったが、紙一重で間に合わせることができたのだ。


「――こちらをお使いください」


 給仕が、淀みのない動きで後掛けの調味料を置いていく。

 黒胡椒、パルミジャーノ・レッジャーノ、タバスコ――どれもよく目にするラインナップだ。


 しかし、食を熟知するムラサキは、そこに隠された意図にすぐさま気付いた。


(本場イタリアでは、海の具材のパスタに陸の恵みたるチーズを掛ける事は法律で禁じられている――よって、この場におけるNG行動はパルミジャーノ・レッジャーノを使うこと!)


 鋭い洞察と豊富な知識が合わさることで、ムラサキは巧妙な罠を危なげなく回避する。

 そして音を立てないよう細心の注意を払いながら、これを完食した。


(フォークは表向きに、ナイフは刃が自分に向くよう左向きに、位置は――イタリア式は六時の方向だったか……)


「――食後のお飲み物をお持ちしました」


「ああ、ありがとう」


 ムラサキが食べ終わったタイミングを見計らい、皿を片付けた給仕が代わりにデミタスカップを机に置いた。


 芳醇なコーヒーの香りが鼻を擽る。ムラサキは早速飲もうと手を伸ばし――


(!!! 危ないッ――!)


 すんでの所でこれを引っ込めた! 一体何があったと言うのか!


(フォームミルク! つまりカップの中身はカプチーノ! イタリアではカプチーノを午後に飲むことは法律で禁じられている――食後のゆったりとした雰囲気に飲まれ、完全に油断していた!)


 二重三重に張り巡らされた罠!

 そう、これはあくまで美食争覇。美味しい食事に舌鼓を打っている隙などないのだ!


「――次のお皿になります」


(これは……)


 またも間髪入れずに、次なる料理が運ばれてきた。


 数本のアスパラガスのみが並び、申し訳程度にくし切りのレモンが添えられた、極めて見た目にシンプルな一品だ。


(塩茹でしたアスパラガスに掛かっているのは――)


(――溶かしバター)


 ムラサキの隣、シオにも同じ皿が届いていた。


(食への興味など打ち捨てたとでも言わんばかりの簡素さ――間違いない、これはイギリス料理。なら――)


 シオは一切の逡巡無く、アスパラガスを食べた。


 そう、それこそが正解。

 イギリスでは、アスパラガスを手で食べない者には女王の名の下に制裁が加えられるのだ。


 視界の隅、周辺視野が捉えたムラサキも同様の動きをしている。


(流石はのぼりゅ……先のロヴォーシュカにも引っ掛からなかった。でも、勝負はまだ始まったばかり)


 こんな風に真剣勝負をするのは、一体いつ以来だろうか。


 シオの脳裏に過ぎるのは、ついこの間まで存在した、満ち足りた日常。そして、運命的な出会いの――



『ノボルだ。ムラサキ・ノボル』


『のぼ、りゅ?』



 浮かびかけた記憶を強いて締め出す。

 神聖な勝負の最中に、心を乱す事は許されない。

 今はまだ、その時ではない。今は、まだ。






 美食争覇は、両者一歩も引かない展開を見せた。


 数種類のフリットの盛り合わせでは、チューリップに見せかけたグルヌイユを見抜き、骨を手で掴んで食べた。


 エジプトの国民食、コシャリを同時に平らげては、同じタイミングで幾度もゲップを繰り返した。


 そして――


(次はカレーか……)


 ムラサキ達の下にやって来たのは、銀の器に盛られた、香ばしい匂いを放つ粘性のスープ。


(国土を模した巨大なナンは見当たらない。つまり、ジャパナイズされたインネパではなく、本家本元のカリーということ)


(つまり、配膳されたカトラリーは罠! スプーンやフォークは使わずに、手で食べなければならない!)


(ただし、戒律には注意しなければ……右手の親指、人差し指、中指の先しか使う事ができない)


 二人は右手を使い、カレーを食べ進める。

 多種のスパイスを巧みに調和させたジャハーンギーリーが実に美味い。

 どの料理にも言える事だが、こんな状況でなければ堅苦しいだけのマナーなど気にせず、もっとゆっくり味わって食べたいものだ。


 と、ムラサキはある事に気付く。


(……フィンガーボウルが、遠い!)


 手掴みで食する以上、当然ながら手は汚れる。

 汚れた手指を清めるために用意されるのが、清潔な水を湛えたフィンガーボウルだ。

 皿が供される毎に取り替えられていたそれが、今回は何故か妙に遠くに、ムラサキから見て左奥に置いてあるのだ。


 無論、遠いとは言え所詮は食事用のテーブルの上の事。

 手を伸ばせば届かないこともない。

 ――だが、無理をすれば腕で食器を引っ掛ける恐れがあるし、何よりそんな体勢が果たしてマナー的に認められるだろうか。


(こ、この場合は確か――)


 必要以上に顔を険しくしないよう気をつけながら、ムラサキは記憶を呼び起こす。


 そして、意を決したようにフィンガーボウルを掴むと、自身の下へと引き寄せた! 不浄とされる左手で! 果たしてそんな事をして良いのか?!


「ふむ。お二人共、此度もエレガントマナーです」


 良いのだ!


 寧ろ、食べ物で汚れた右手を使う方がマナー違反であり、左手はこうした場面やながらスマホを操作する際に活用すべきなのだ。

 今回の勝負では関係無いが、大皿から自身の分を取り分ける際も左手が用いられる。


 難所を潜り抜けた実感と共に、ムラサキは平静を装いながら脳内でイマジナリー冷や汗を拭った。

 汗の一滴すら滲ませるわけにはいかない。

 それがどのタイミングで何のマナー違反となるか、わからないからだ。




 舞台袖で勝敗の行方を見守る『ムラサキ派』の一行。

 これまでまったくの互角でエレガントマナーを獲得し続けていた両者であり、ならばその決着はどちらかの致命的ミスによるものであると、誰もがそう理解していた。


 ただ一人、マナー対決を知り尽くした男を除いて。


「……そろそろ限界が近いか」


「限界って……」


 フィンガーボウルで指を洗うムラサキを見つめるジロウが放った一言。

 それは、この美食争覇が始まる前に仄めかされ、喉に刺さった小骨のように常にシローを苛んでいた言葉と関係がある――彼はそう直感した。



『もっとも、最大の困難はマナー以外の部分にあるのだがな……』



「……」


「坊主、まだ気付かないのか。このマナー対決の真の恐ろしさに。並ぶ者なき者達が並び、拮抗するこの盤面だからこそ起き得る、どうしようもない限界に」


 シローは悩む。

 美食五聖天たる二人に限界など存在するのだろうか。

 素直に考えれば、長時間に及ぶ神経をすり減らすようなマナーへの気遣いは、人間の集中力を激しく削るはずだ。

 だが本当に、そんな単純な話なのだろうか。


「あの二人、今何皿目だと思う?」


「――あッ?!」


 そう、その限界とは胃袋の限界!

 マナーを正しく評価するため、二人は実際の食事シーンを再現している。

 ゆえに出された皿は平らげねばならないのだ!


「しかも、だ。あれでムラサキの奴は食が太くない。そしてシオは、奴の数倍健啖家だ」


「そんな……」


「じゃあこのまま続けたら、ムラサキさんも、あの時のシロちゃんみたいに……」


 いなりの視線が、手元のスマホ画面に落ちる。最近新たに追加された宝物が収められているのだ。


「あと二皿――それが潮目だろうな」






(――まずい)


 恐れていた事態が、現実になりつつある。


 次第に精細さを欠くようになった手元。気を抜くと前屈みになりそうな背筋。滲みそうになる脂汗。

 それらの原因は実に明白。


 食べ過ぎだ。


(もってあと三――いや二皿。と言うか、皿の枚数など考えるだけでも気が遠くなりそうだ……)


 対峙するシオのマナーちから(人が生まれながらに持つ、マナーを守ろうとする闘争本能。人それぞれに、マナー力の色がある)は極めて強大で、このまま尋常に勝負を続けても、勝てる可能性は万に一つも無いだろう。


(何か一手……状況を根本から覆すような、そんな一手を手繰り寄せなければ――ッ!)






 そうと悟られぬよう、巧みな手際でベルトを緩めたムラサキの前に、クロッシュに隠された次なる皿が置かれた。

 同時に、新しいナプキンも配られる。


(確かに、都度口を拭っていたから少々汚れが気になる所……長期戦となれば、代えが出されるのも当然か……)


 ムラサキはナプキンを取り替えるべく、手を伸ばしかけ――


(いや待てッ! こうした交換は客が要請するか、わざと落として気づいてもらうかするのが一般的! 罠の可能性がある……まずは料理が何か、確認するのが先決だ)


 ムラサキ、危機一髪!


 見立て通り、このナプキンを交換用ではない!

 試合の序盤であれば、こうした注意散漫は起こらなかったであろう。

 だが限界の近いムラサキは、無意識的に皿の中身を目にする事を先延ばしにしようとしたのだ。

 しかし、そこは流石の美食五聖天。満腹中枢から送られる信号を気力だけで無視し、見事この難局を回避した!


 給仕がクロッシュを開けるのを待つ。

 現れたのは、手の平サイズの物体。


 小鳥の姿焼き。それ以外に形容のしようがない代物であった。


(これはッ――ズアオホオジロッッ!)


 それは、美食の徒たるムラサキですら伝聞でのみ識り得る幻の食材。

 その事実に感動を覚えると共に、配られたナプキンの意味を理解する。


(ズアオホオジロのロースト。食する際、ナプキンを頭から被るのが正式なマナー。それは、芳醇な香気を余さず堪能するため。或いは、醜い食べ様を晒さぬため。また或いは、極めて残酷な調理法がゆえ、神に見咎められることを避けるためとも言われる――)


 ムラサキは固く目を閉じた。


(この作法を教えてくれたのは、他でもないシオだった――)




『……のぼりゅの料理からは、後悔の味がする。何をそんなに悔やんでいるの?』


『……俺は一度、美食の道を諦めた。共に歩むと約束した仲間を、裏切ったんだ。だからかな……また同じ事をするんじゃないかって、そんな恐怖が皿にも滲んだようだな』


『裏切り――』


『だがこんな状態では五聖天になんて、なれはしまい。覚悟が決まったよ。腹を括る覚悟が』


『のぼりゅ、わたしは――』


『五英傑時代に戻ることは、もう出来ない。だがこれからは。澤、三上、ジロウ――そしてシオ。お前と、遥かな高みを目指すためにも』


『わたし、実は……本当は――』




(――あの時、シオは自分が酸っぱいものが好きだったと、そう明かしてくれた。五聖天の『塩』を目指すというあのタイミングで。とても言い辛かったに違いないだろうに。俺は、そんなシオと、そんなシオだからこそ、共に歩む事を決めた。だから、どんな事情があろうとも、どんな壁が立ちはだかろうとも、ここで敗けるわけにはいかないッ!)


 ムラサキはカッと目を見開くと、新しいナプキンを広げ、それで頭部を隠した。


 おお、美食の神々よ。これから起こす卑しい行いをお目溢し下さい――!


 そして叶うのならば、勝利をこの手に――!



 ジュルルッ! バキッポキッ! ジュモッフ! んまっ ッチャッチャ シーシー



 とてもではないがレストランで聞こえてはならない音がくぐもりつつも漏れ聞こえる!

 もし市井でこのような醜態を晒したのならば、各地に潜伏するマナー警察の手による密告で、社会的死を迎えることは免れないだろう。

 だが二人共がナプキンで顔を隠している今、それがどちらから聞こえているのか判別することは難しい。

 この場合、証拠不十分で無罪となるのが司法の原則。


 さて、マナーに従った食べ方は、その遵守に脳のリソースを割く関係で、本能に突き動かされるような貪り食いよりも味覚的に不利である。

 そう、有り体に言えば、ガツガツ食べたほうが美味く感じるのだ。

 そんな、マナーのせいでろくに味わうことも出来ない、もっと気楽に楽しめたらどんなに良かったことか、と思っていた矢先に、この食事作法はまさにうってつけ!

 凡人であれば、合法的に思うさま野蛮な食べ方をできる状況を甘受することだろう。

 しかしそんな背徳に耽溺すれば、行き着く先は敗北という名の地獄!

 もし相手が先に食べ終えてしまえば、下卑た音の発生源は自ずと特定されてしまう。

 だが一方で、叶うならばこの伝説的美食を一秒でも長く堪能したい!

 せめぎ合う相反する心!

 つまりこれは、文字通りのチキンレースなのだ!


 だがそこは両名共に名高き美食五聖天。

 布越しに伝わる互いの動作を読み切り、まったく同時に汚らしい食べ方を終えると、何事もなかったかのような涼しい顔で覆いを取り去った。


 皿の上には小鳥の頭部のみが残され、恐らく皿も舐めたのだろう、他は綺麗さっぱり無くなっていた。


 嗚呼、何たる品の無い行いか!

 しかし神すら目撃できぬのならば、人の身でこれを糾弾できる道理なし。


「お二人共、エレガントマナーです」


「いやまじかよマナーってなんなんだよ」


 結果はまたも両者満点。どちらも全く譲らない。


「それでは次の料理に参りたいと思います!」


 一息つく暇も無く、新たな皿が運ばれる。




 シオは登場した料理を一瞥する。


(ロシア、いえドイツ――この特徴の無さ、そしてパンフリェプを皿に使っていると言う事は――エストニア料理)


 料理が瞳に映る――その僅かな時間だけで、シオはそれがどこに起源を持つ料理か看破した。


(エストニアではスープやラプシャは音を立てずに――ありふれたマナーマネーリね。ならここで試されているのは何? パンフリェプに対する敬意を前面に押し出す? いえ、そんな単純なわけは無い)


 シオは、整然と並ぶカトラリーへと視線を移す。


(小さいスプーンロージカフォークヴィールカ。後からデザートデセールトが出るのかしら……成る程、エストニアではデザートデセールトフォークヴィールカを使わない。恐らく供されるのはケーキトールトコーヒーコーフェスプーンロージカコーヒーコーフェ用と思い込ませ、いつもの調子でフォークヴィールカを使えばその時点で敗北というわけね。中々意地の悪い趣向。けれど――)


(私には通用しない!)


 いざ食べ進めようとするシオの視界の端で、何かが動いた。


 手の平ほどの大きさの、楕円形の黒い物体が、重力に引かれて地面へと落ちる。


 それと同じものは、シオの皿にも乗っていた。黒パンだ。


 ムラサキが、自分の黒パンを落としたのだ。


(――――エストニア独特のマナーと言えば、落とした黒パンは捨てる前に――)


 シオの聡明なる頭脳は、眼球から入力された情報を受け取ると、反射的に情報の探索を開始した。


 この思考の隙を突かれたのか。あるいは平和な日本での暮らしで鈍ったのか。


 シオは、次の瞬間に起きた事態にまったく反応できなかった。


 現役時代なら得意のシステマを叩き込んでいたであろう、その事態に。


「?!?!?!?!?!」



 ズキュウウウン!



 謎の効果音が鳴り響く!

 現実には発生していないはずのこのサウンドエフェクト。しかし、会場の誰もがそれを耳にしていた!


 発生源は明白!

 神聖なる勝負の場にもかかわらず、突如席を立ったムラサキが、あろうことか対戦相手であるシオの唇を奪ったのだ!


 破廉恥! 大胆不敵! 奇想天外四捨五入! たとえ夫婦だからと言って、コンプライアンス違反の謗りは免れない!


 そんな、シオの思考を祖国の大雪原が如き純白に染め上げたムラサキの蛮行は、始まりと同様唐突に終わりを告げた。


「――の、のぼ、のぼぼぼ???」


 衆人環視の中繰り広げられた恐るべき羞恥的行為に、シオは完全にショート。

 会場はエレガントマナー京野を含め全員が唖然。

 舞台袖ではシローが羽交い締めにされながら目隠しもされ、それをするいなりは「わー」とか「きゃー」とか一人で盛り上がっていた。


「シオ。俺がここまでのマナーを身に着けることが出来たのは、何故だと思う?」


「?????」


「それはお前が居てくれたからだ。全部お前のお陰じゃないか。俺は、お前が居なきゃ何も出来ない。それはお前も同じだ。そうだろう? 俺達が争っても、良いことなんか一つもありはしない。むしろ俺達二人が手を取り合えば無敵だ。あの日誓ったように」


「!」


 止め処なく紡がれるムラサキの依存性のある言葉が、シオの思考の空白を埋めていく。想起される、あの日の情景。



『今日から俺は、ムラサキ・ノボリュに――』


『そして私は、ムラサキ・シオに――』



 汚れた自分のすべてを受け入れ、共に過去を捨ててくれたあの誓いの日。


 そうだ。そうだったのだ。


 心配を、迷惑を掛けないようにと気遣うばかりに、独りでどうにかしようとするなんて。


「…………最初から間違ってた。だってのぼりゅは、私がスパイシュピオンカだと知っても、それでも側に居てくれた、底抜けのお人好し。どんな事があっても、二人で乗り越えるって、そう誓った貴方を信じないなんて」


「うむ…………うむ?」


「マナーマイスター。この勝負、棄権させていただきます」


「――――ええ、分かりました。身を引く姿もまた、一つのエレガント」


「何と言う幕引きでしょう! 美食争覇第二戦も、見事ムラサキさんの勝利ですッ!!!」


「う、うむ。…………えっ?」


 よく分からない感動に一体となり沸き立つ会場!

 彼らは今しがたの出来事を真に理解しているのだろうか。

 いや、そもそもが、美食対決の何が決め手になっていたのかも分かっていない大衆である。

 よく分からないのに理解した気になることにおいては、右に出る者しかいない。

 周囲の客がなんか感動しているから感動し、その感動を共有できた事実に感動しているのだ。


 ともあれ、過去に例を見ない、美食争覇二連戦。

 それを制覇したムラサキは、かくして目的である妻、シオの奪還を見事成し遂げた。


「――これは少々妬けてしまいますわね。二重の意味で」


 再び轟音と共に開放されたメインブレドウィナ。

 そこに立つのはピンクを身に纏った麗しき漢。


「次はワタクシの相手をしていただきます。美食五聖天としての、誇りを賭けてね」


 コクトー・三上。美食五聖天、砂糖を究める甘味の覇者だった。





第11話「Who Loved Me」・了





――次回


今度の美食争覇は

何故か大冒険

旧文明人が食した

光り輝く究極のお菓子は

伝説のエルドラドに

突然現れる謎の美食家

待って、おいら達をエルドラドに連れてって!


世紀末美食伝説ムラサキ『よみがえる! 伝説のお菓子』

ケーキにクッキー魔法のレシピ、教えてあ~げる!


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

世紀末美食伝説ムラサキ 白洲柿人 @kakash

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ