第10話
第10話「うなる聖遺物! 覇王 対 創世王」
――世界の『大崩壊』から百年。
人々の努力と幾許かの奇跡により、文明の再興は成った。
しかし、重要度が低いと見做された文化の再現は遅れ、時に見下され、その連続性を絶たれていった。
伝統芸能、スポーツ、そして美食――
世紀末美食伝説。
それは、勝利を掴み取る英雄の剣。
世紀末美食伝説 ムラサキ、前回までは――
「…………道に迷っている――そんな面ァしているな」
師と仰ぐムラサキの手酷い裏切りにあい、飛び出したシロー。そんな彼が出会ったのは、どこか自身と似た名前を持つ料理人、ジロウであった。
「お仕事記 第一章二十一節に、こんな名ゼリフがある――『店主は与え、店主は奪う』。その意味がわかるか?」
「えっ――――いや」
ジロウは料理の道の先人として、いくらかの含蓄に富んだ訓示を授ける。
「
そんな中、口にしたムラサキの教えを褒められた事で、蟠る感情が薄らぐシロー。
そして折よく再開を果たす師弟。
だが、ムラサキの視線はジロウに向けられていた。
そしてシローは知ることとなる。その漢の正体を。
「この男は、俺と同じ美食五聖天…………背脂を司る、中華料理の使い手」
「ジロウ・インスパイア」
◇市内
「美食五聖天……ジロウ・インスパイア……」
ムラサキによって明らかにされた事実を反芻するシローは、受けた衝撃から立ち直れずにいた。
その混乱を他所に、因縁の男達は言葉を交わす。
過去を懐かしむはずのそれは、しかし緊張を孕んだ重々しい空気を齎していた。
「久しいなムラサキ。結婚式以来か? 随分ご無沙汰だったが、まあお互い忙しい身の上。良い機会だ。旧交を温めるのも悪かない、だろう?」
「……ジロウ。本当に、来ていたのだな」
ムラサキの返答は、ジロウの問い掛けに応えるものでは無かった。
しかしそれに怒るでもなく、ジロウはシローを顎で指し、
「そこの坊主、やはりお前の弟子だったか。なかなかどうして見所のある。良い弟子をとったなムラサキ。精々、掬われんよう足には注意しておくことだな」
「シオも居るのか。ここに」
なおも会話を拒否するかのような態度を取るムラサキに、ジロウは短く嘆息した。
「相変わらず他人の話を聞かん奴だ…………ああ居るさ。ただし居所は最奥、澤パレスだ。お前以外が全員揃っているよ。いやお前が来たから、これで正真正銘全員揃ったのか」
「何故だジロウ! 何故お前達はこんな――」
激昂するムラサキを押し留めるように、ジロウは右手で待ったをかける。
「その答えは、料理の中に見つけるしか無い」
「!」
「美食争覇だ。己とお前、五聖天同士の」
ジロウは広げた掌を指差す形に変えた。
「明日の午前十時! メインスタジアムで待つ。勝てばお前は先に進める。敗ければお前は、すべてを失うことになるだろう」
身を翻したジロウが歩み去っていく。
その背中を見つめるムラサキ、そしてシロー。
「……」
ムラサキは何も告げず、ジロウとは逆の方向を歩み始めた。
「お、おいらは――」
シローは一瞬、どちらに付いていこうか迷い、結局ムラサキの背中を追った。
◇市内特設会場、メインスタジアム
翌日。
市内某所に設けられた特設会場、そのメインスタジアムに、ムラサキ、シロー、いなりの三人の姿があった。
急遽決まった美食争覇であったはずだが、美食五聖天が激突するということもあってか、会場は既に満員御礼。立ち見客も出始めていた。
「さあいよいよ始まる美食争覇! 司会は
「アシスタントの美食アイドル、シャーリー江戸前でぇ~す」
偶然近場に居たということで採用の決まったという見知った二名が、軽妙なトークで場を盛り上げる。
「さて! 美食争覇では、通常は受けた相手にお題の決定権があります。が、しかし! こと五聖天同士の美食争覇においては、その限りではありません!」
「えぇ~そうなんですかぁ?」
「そうなんですねえ! 五聖天はその分野の頂点に君臨する。すなわち、得意分野における五聖天の料理には、いかに五聖天と言えど太刀打ちできないのです! お題を決める者が必ず勝利し、仕掛けた側は必ず敗北する! これでは勝負になりません!」
「じゃあどうするんですかぁ?」
そこでモデは、金色に輝く謎の箱を取り出した。
「そのため用意されるのが、この
「くじ引きってことですねぇ」
試合の詳細が明らかになるにつれ、会場のざわめきもいや増していく。
興行においては、こうした前フリが期待感を煽るために重要な役割を果たすのだ。
それは映画館で映画を鑑賞する際、予告の時間が一番興奮するのと同様の現象である。
「……五聖天同士だと、そんな決まりがあったのか」
ムラサキ陣営のスペースで、事の趨勢を窺っていたシローがふと呟く。
「ああ……かつては、互いの
語られる美食世界の裏側に、シローは知らず唾を飲み込んだ。
「くじ引きの権利は、会場設営などに貢献したジロウ・インスパイアさんに! ……それではジロウさん、こちらへ」
モデの案内に従い、ステージ中央に配置された
その動作の最中、紙に書かれた文字を瞬時に判読したジロウは、その口元を笑みの形に歪めた。
「くっくっくっ……『運』は己に味方したようだ」
カメラがジロウの手元へとズームする。
巨大スクリーンに映し出されたのは、あろうことか『中華』の二文字!
「な、なんと! 此度の美食争覇、そのお題はジロウさんの最も得意とする『中華』! 『中華』とあいなりましたッ!!」
歓声に沸く会場は、今や抑えきれない熱気に浮かされている。
対照的に重い空気が漂うのは、ムラサキ陣営だ。
「ちゅ、中華だって?! そんな、一体どうすりゃいいんだよ?!」
「……対戦相手の飲み物に、下剤入れてきましょうか?」
慌てふためくシローと、現実的な解決策を提案するいなり。
だがムラサキは冷静だ。
「――まずは相手の出方を窺う。奴がくじを引いたということは、俺が後攻ということだ。つまり、料理勝負的優位はこちらにもある」
「料理勝負的優位……後手有利ってやつか……」
シローは、かつてムラサキから教わった不文律を思い返していた。
それは、料理勝負においてはインパクト、さっき食べたものの記憶が薄れる、そして展開上の都合といった複合的理由から、統計的に後手の勝率が高いという覆せぬ事実である。
(地の利は確かにある……でも、それだけで本当に勝てるのか? 逆の立場だとしたら、ジロウのおっさんが醤油勝負で兄ちゃんに勝つって事だろ?)
シローの心配事など意に介さぬが如く、当のムラサキは泰然自若。
腕を組み、射抜かんばかりの鋭い眼光を敵に向けている。
「――ムラサキ! この勝負、己は『炒飯』で行くッ!」
指を突きつけてのジロウの宣言!
シローからすれば死刑宣告にも等しいそれを受け、ムラサキはまったく動じる気配なし!
「……相分かった。全力で来い、ジロウ」
それどころか相手を挑発するかのような言動! まさか破れかぶれか!
「――言ったな。後悔するなよ?」
ジロウは頭の手ぬぐいを巻き直すと、用意された調理場を検分し始めた。
最高峰の食材と最高峰の調理器具が用意された会場は、まさに五聖天同士による美食争覇の舞台にふさわしい。
「それでは早速まいりましょう! 調理スタートです!」
高らかに宣言された合図を受け、先手、ジロウが食材の目利きを開始する。
米はすでに炊いたものが準備されているので、残る具材や調味料の吟味が必要となる。
「さてここで、審査員の紹介です! この晴れの舞台にお越しいただいたのは、いずれ劣らぬ美食評論家のお三方! まず向かって左のお席は美食研究所所長、東善晴さん。中央のお席に美食皇帝、道場源二郎さん。そして右のお席が美食専門学校長、辻ハットリさんです!」
紹介を受けた美食家達が、静かに礼をする。
多忙を極める著名人たる彼らだったが、美食五聖天同士の美食争覇と聞いては黙っていられない。
すべての予定をキャンセルし、この場に馳せ参じたのだ!
「まずは東さん、いかがでしょうかこの勝負」
「ええ。素人目に見ても玄人目に見ても、ジロウさんの圧倒的優位は揺るがないというのが率直な感想です。中華を極めしものに中華で挑むというのは、まさにシャカに鉄砲を撃つようなものと言えるでしょう」
「なるほど、これは激しい試合になりそうです!」
「そうであるがゆえ、やはり注目すべきは特別ルールにあると言えるでしょうね。用意された食材を用いての調理が基本ですが、互いに何か一つ、調味料を足すことができる――逆転の目があるとすれば、間違いなくここでしょう」
東の話を受け、辻が自身の見解を述べた。
「特別ルール――!」
そんな事ははじめて聞いたとばかりに、衝撃を受けるシロー。
(ムラサキの兄ちゃんは『ソイ・ソース』の、ジロウのおっちゃんは『背脂』の美食五聖天……なら二人がとっておきに使う調味料は――)
「醤油と背脂。これを十全に扱うことができるかが此度の鍵となろう」
源二郎の威厳ある声が会場に響く。
「題材は『炒飯』。相対するは、中華の極み。生半可な創意工夫では太刀打ちなど望むべくもないだろう。……だが『醤油』とは我々日本人の心。そう考えれば、逆に有利なのはムラサキ殿の方なのやもしれぬ」
源二郎の老練な視点が、一方的に有利と目されていた状況に一石を投じる。
言い知れぬ説得力ある説得に説得されたシローは、なんとなく言われた通りな気がしてきた。
「しかし先生、そうは言っても土台の炒飯の出来はやはり無視できない。調味料の件もそうですが、炒飯自体の調理工程にも注目だと思いますよ!」
「然り」
期待を煽る審査員達の問答など一顧だにせず、ジロウはいよいよ調理に入る。
材料は米、油、卵、叉焼、ネギ。
シンプルにして王道の、五目炒飯だ。
ジロウは炒飯の構成要素のうち、大部分を占める食材――すなわち、白米を大皿によそう。
会場には炊きたてを使えるよう、炊き上がり時間が調整された複数の炊飯器が用意されているのだ。
「切り物の準備も済んでいないのに、もう米を?」
シローのみならず、観衆の多くがそう思っただろう。
だが此れなるは美食界にこの人ありと謳われる美食五聖天がその一人。
調理工程にミスなどあろうはずもない。
「……」
ジロウは皿の上で湯気を立てる白米――試食分も含め、およそ五人分の――に、ラップをかけると、すぐさまそれを冷蔵庫へと放り込んだ。
「冷蔵?! 折角の炊きたてを?!」
息を呑むシロー。どよめく会場。
一体この漢は何をしようというのか!
「ジロウさん、私の目には、今白飯を冷蔵庫に入れたように見えたのですが……」
「ああ、入れた」
「一体何故そんなことを?」
「先ほどコンロを見させてもらったが、いつも使っているものと比べ、幾分か火力に不安がある。そうなると、炊きたての飯を用いることがリスク要因となる恐れが出たためだ」
ジロウはモデの質問に応えながら、淀み無い手つきでネギを切り刻んでいく。
「業務用の最高火力と客に見せられないほどの量の油――通常、そのどちらが欠けても、パラパラの黄金炒飯は成立しない。万難を排するため、ここはあえて冷や飯を用いた方法を使うことにしたのだ」
「なんと、そんな事情があったとは!」
「でも、冷めた飯が必要なら、冷凍庫に入れたほうが時短になるんじゃ?」
「それは違うぞ、坊主。確かに白飯の保存は冷蔵よりも冷凍の方が良い。それは冷蔵庫内の温度帯が、米のデンプンが劣化し始める温度に近いからだ。己の行動と矛盾しているように聞こえるか? だが今回の目的は、あくまで冷や飯を作ること。冷凍保存する必要は無く、ある程度まで温度が下がりさえすれば良い。庫内の温度が、仮にデンプンの劣化が始まる四度だったとしよう。白飯は、庫内の空気と接する最表層から冷却されていくが、同時にまだ高温を保持した近傍の米粒や中心部が熱源となってこれを温める。冷蔵庫は白飯の温度を自身と同じ四度にしようと冷却し、白飯はそれに抵抗する。最表層はそのせめぎあいの最前線と言えるだろう。もっとも、ほぼ無尽蔵に冷却できる冷蔵庫に対し、白飯側は補給や増援は見込めないのだから、結果は目に見えているがな。ともあれ、ここで重要なのはデンプンの劣化温度に達する体積の多寡だ。過度に冷却すれば、劣化する部分がそれだけ多くなりかねない。だからこその冷蔵庫というわけだ。無論、放って置けば白米全体が劣化し、そうした工夫も水の泡。ゆえに、時間は正確に管理しなければならない。取り出すまで、あと五分三十二秒――」
滔々と流れるジロウの語りは、中華に身を捧げた漢が持つ芯の通った哲学だった。
内容の正否など、シローには分からない。
だが漢は、間違いなく自身を確信していた。
そうした人間の作り上げる料理は、確かな強さと凄味を持つのだ。
気圧されたシローは堪らずムラサキの方を窺う。
調理が開始されて以来一言も発しない、自身の師を。
「?!」
ムラサキに振り返ったシローが目撃したのは、ウィンクをする偉丈夫の姿だった!
むくつけき野郎にウィンクは正直キツい!
(いや……違う?)
僅かな違和感と共によくよく観察してみれば、ムラサキは閉じていた片方の目をゆっくりと開き、今度は開いていたもう片方の目を閉じるという動きを繰り返していたのだ。
これはこれで奇っ怪だ。
「兄ちゃん、それは一体……」
「なるほどそう来たか。いやそうせざるを得ないと言うべきか」
ジロウは、ボウルに割り入れた卵の中に紛れ込んだ殻を、素早く菜箸で取り除く。
流石は五聖天と言うべき、恐るべき正確さだ。
「美食絶技が一つ、
「そんなまさか!」
驚愕が、シローをはじめとした会場を巡る!
相手を模倣するなどと、平時であれば盗人の謗りは免れない。
だが今この時この状況ではむしろ逆!
ある分野の頂点の料理を、見ただけで再現できたとあれば称賛されこそすれ非難など起きようはずもない。
対して真似された方の沽券に関わるというもの!
そうであるならば、ムラサキの奇行にも説明がつく。
すなわち、瞬きの際に生じるコンマ二秒の欠落すら許さぬ覚悟で臨んでいるということなのだ。
「でも本当にそんな事が可能なんですか?」
いなりの抱く疑問は、おそらくこの場に集う大部分が共にするものだろう。
「無論、網羅的にすべてを記憶するなんてこたぁ、人間の脳では困難だ。だがそこに調理工程という標があれば話は別。料理の基本や作法を修得しているがゆえ、あらゆる動作の裏に存在する理念も含めて自身の物にできる。そう、あたかもプロ棋士が百手におよぶ感想戦を順序過たず行うが如く。宮殿ならぬ、記憶の調理場とでも言ったところか」
言うは易し、だが行うに難し。
それはまさに神々の領域。
人の身で到達できるとは思えない、まさしく天上におわす聖なる存在の御業。
「――だがそれは対策済みだ」
小さく吐いたジロウの言葉は、超人的聴力を備えたシノビにしか届かなかった。
「頃合いだ。冷や飯を出す」
具材の下拵えが終わるや否や、ジロウはそう言いながら冷蔵庫に入れた白米を取り出した。
料理人には欠かすことの出来ない、無駄のない芸術的タイムマネジメントだ。
「これを――」
そして程よく冷えた白米をザルのような器にに移したジロウは、
「こうだッ!」
あろうことかそれを流水で洗い始めた!
「なっ……何をしているんだぁーッ?!」
試合が始まって以来驚きの連続であったシロー達だったが、事ここに至りさらなる驚愕に晒されるとは夢にも思っていなかっただろう。
「米表面のぬめりを洗い流す。この工程を経ることで、炒飯はパラパラになるのだ」
「?!」
「炒飯はパラパラでなければならない――その点で言えば、アミロペクチン含有量の多いジャポニカ米は炒飯には適さない品種。坊主、これは酢飯の適不適にも共通する特徴だ」
話を振られたシローは、たまに食卓に上った炒飯が、程よくほぐれていたことを思い出す。
「べ、別にいいじゃんかしっとりしてたって。おいらは好きだぜ、しっとり系炒飯」
対抗意識からだろうか、ジロウの発言になんとなく同意したく無かったシローは、そのように返した。
「やはりな――いつもそうだ! しっとりした炒飯が好きな奴はパラパラの炒飯に文句は言わないが、パラパラの炒飯が好きな奴はしっとりした炒飯に文句を言う。ゆえにこれらの事実から導き出される結論は一つ、炒飯はパラパラが正義なのだッ!」
米を水洗いしたジロウは、ザルのような容器のまま、それを別の器具にセットした。
更に、その上に取っ手のついた蓋のようなものを乗せる。
「水洗いした米は、水気をよく切るッ」
ジロウが取っ手を勢いよく回す。するとどうだろうか。
いかなる
全自動洗濯機の脱水工程のように、遠心力によって水が弾き飛ばされる!
「おっとこれは、見たこともない調理器具です! 私だけですか? いえ、審査員の方々の表情から察するに、やはりこれは珍しいもののようです!」
「これはドンから提供された渡来の品、その名もハイパーインペリアル! 洗った食材の水切りとクッキングマッスルのトレーニングを同時に行うことができる画期的なマシンッ!」
回転を止めたジロウは、
「確かに凄い……けどザルの目が荒いから、結構米粒が飛び出してるじゃん」
シローの指摘は正しく、ボウルの方には水と共に弾き飛ばされたと思しき結構な量の米粒が残されていた。当然水に浸かっており、これではパラパラ炒飯への使用に適さないだろう。
「その通りだ――だがこの米粒こそが、もしかしたら己達なのかも知れないな」
「??」
ジロウは物憂げに呟くと、洗われた無事な米をコンロ近くまで運んだ。
フライパンにごま油を注ぎ、着火。
いよいよ、調理工程のメインイベントだ。
(中華鍋じゃないんだ……)
まずは軽く解いた卵液を熱したフライパンに注ぐ。
音を立てながら膨らむ卵。
そこへ、先ほどの冷や飯を投入する。
「米は
こうしたテクニックの説明は、教育のために行っているのでは無い。
食べる前の期待感を煽ることが、情報という名のスパイスとなるのだ。
ジロウはその後も各食材について、投入するタイミングや順番などこと細かな解説を欠かさない。
『風味を最大限活かすように』だとか、『こうしないと台無しになる』などと聞けば人はそれを信じてしまうもの。
謂わばこれは思考の誘導、洗脳の類だ。
おすすめと書かれた利益率の良いメニューを選ばせる類の手管の、それは応用とでも言うべき技術である。
そうして具材すべてが投入され、調理は佳境に入る。
後は盛り付けるのみ――いや、忘れている。
この勝負最大の関心事を。
「――全力で来いと言ったなぁ、ムラサキ。お望み通り往かせてもらおう。全力でなッッ!!」
ジロウが声高にそう宣言し、懐から何かを取り出した。
その瞬間。
あれだけ喧しかった会場が、静寂に包まれた。
常理に反する存在を目にしたような、この世の禁忌に触れてしまったような。
そんな悪寒が、シローの背筋を凍らせた。
シローばかりではない。
この場に集う全員が、呼吸すら忘れ、ジロウの手にしたそれに魅入っていた。
誰も彼もが、喉を鳴らすことすらできず、ただただ凍りついていたのだ。
「『覇王』――それが己の持つ、この
それは、燃え上がるような真紅の物体だった。
形は円柱。
経年劣化か、塗装の剥げた箇所からは地の金属が露出している。
一際目を引くのは、そこに刻まれた『覇』の一文字。
ジロウの言う通り、それはまさしく覇王の証。
「登録番号006。これさえ使えば、汎ゆる中華の味を遥かな高みへと導いてくれる。例えそれが、素人の料理であっても、だ。だからこそ己はこれを、勝利へ至る完全なる道、way of perfectと呼んでいる――」
ジロウは『覇王』の蓋を開け、その中身を匙で掬い、炒飯へと投じた。
フライパンの中で、何かが起きた。
料理の素人である観客らは、それが何であるのかを、真に理解することはできないだろう。
いや、それは美食家達であっても、そして『覇王』の継承者であるジロウでさえも同様かもしれない。
ただ言えるのは、識ってはならない世界の秘密を覗いてしまったかのような、生まれてはならない何かが誕生してしまったかのような、そうした感覚が光の速さで伝播したということ。
呼吸を忘れる程の衝撃が、等しく場を支配した。
そうしてどれほどの時間忘我していたのか、シローが我に返った時、審査員への配膳はすでに完了していた。
当の審査員達も状況としては似たようなものだったらしく、皿の置かれた音が現実に引き戻される切掛となったようであった。
「完成だ。冷めないうちに、食してくれ」
五目炒飯。
その表面は黄金に輝き、立ち昇る薫香が鼻腔をくすぐる。
得体の知れぬ、しかしとてつもなく美味そうなそれを前に、審査員らははじめ躊躇を見せる。
だがそれも束の間の事。
美食家としての好奇心と、審査員としての責務と。そしてただただ欲を満たしたいという人間としての欲求とが怯む心を上書きし、彼らの手に蓮華を掴ませた。
「「「――――ッッッ!!!!!!」」」
一口。
その最初の、たった一口が彼らを瞠目させた。
「うンまいッッ!!」
「うますぎる……まさにそう、これは理想の具現……」
ある者は脇目も振らず蓮華を口に運び続け、ある者は衝撃にその手を震わせる。
「こ、これは予想以上の展開となりました。皆様、審査の程は――」
「話し掛けるなッ! 今食べているんだッ!」
何かに取り憑かれたような一心不乱。
審査員たる自身の立場すら忘れ食べ進める様は、食欲に取り憑かれた野獣の如く。
逆に言えば、あるのだ。
そうさせるだけの魔力が、この一皿に。
「……ダーツというゲームをご存知でしょうか? 得点の高い中心部は、狙うのに高い視力が必要なことからブルーベリー・アイと呼ばれていますが……この料理はまさに炒飯界のそれだ! 直球ど真ん中の味! 理想の具現とは言い得て妙!」
「然り、然り。世界一美味い炒飯を思い浮かべたとして、それがそっくりそのまま誕生した、そのような錯覚すら覚えるほどの……これがかの『ロスト』の力か――」
「いやぁこれは物凄い事になりそうです。さすがは美食五聖天! さて、これに対抗するは同じく五聖天のムラサキさんです!」
モデの司会に対し、審査員達は一斉に顔を顰め、小声で囁き始めた。
(そう言えばもう一品あるんだったな……)
(この皿の後で? 有り得んだろう)
(これ以上の物なんて考えられない)
(いいんじゃないか? やらなくて)
(もう結果は見えているし――)
詳細は聞き取れないものの、内容は容易に想像がつく。
と言うか表情が雄弁に語っているのだ。
その居心地の悪さは、シローは自分が言われた訳でもないのに吐き気を覚える程であった。
「……」
だが、漢ムラサキはそんな周囲を顧みる事も無く、ただ独り黙して調理場へと向かう。
そしてジロウの用いたものと、限りなく近い質量・形状の食材を選ぶと、炊きたての白米を大皿に盛りつけた。
「兄ちゃん……」
今この場に、ムラサキに期待している人間がどれほど居ようか。
立ち向かわねばならぬのは、圧倒的な強者。
真似事で太刀打ちできる程、甘い相手では無い。
しかしムラサキは進まねばならない。
その先に待つのが、逃れられぬ敗北だったとしても。
「……」
冷ました白米を洗う段になり、ムラサキの流れるような動作が止まる。
そう、水気を切るための例の最先端調理器具が無い。
正確に言えばジロウの用いたものがあるのだが、それはまだ未洗浄であった。
「物欲しそうな目で見ているが――こいつはドン直々に己に下賜されたもの。使わせてなどやらん」
何と言うルール無視の横暴か!
思わず抗議の声を上げようとしたシローだが、会場を包む雰囲気が自身の思いと必ずしも一致しないことに気付いた。
「確かにルール違反だけど……どうせ、なあ?」
分かってはいたことだが完全なるアウェー。
大勢は決し、もはやこのような些事で進行を止めることなど無く、それどころか調理の時間すら無駄だと考えるものも一人や二人では無いのだ。
「……」
ムラサキは徐ろにザルを取り出し、米を洗い始める。
そして、まるで大きなティーストレーナーを形作るかのように、別のザルを上から被せた。
ムラサキはそれを――
「ふんッ」
振った。
何度も、何度も。
飛び散る水飛沫、しかしそれは水切りが成功していることを意味する。
一見素っ頓狂に思えるこの行動も、結果を見れば実に合理的。
多少のトラブルなど、美食五聖天の課題解決能力をもってすれば小石程度の障害にすらならないのだ。
ムラサキは水気を切った米のうち、幾許かをより分けた。
「ムラサキさん、何してるんだろ?」
「そ、そうか! ジロウのおっちゃんが零した米があったろ? 調節してるんだ、量を!」
狂気的にも思える再現への執念。
それは、曲げる腕の角度のみならず、呼吸の深さにまで及ぶ。
完全なる模倣を成し遂げた先にしか、完全なる炒飯が存在しないから。
「だが、足りない」
そう、足りない。あと一手が、足りない。
「さっきの赤い缶……一体何なんだよ、あのロストとかいうのは?!」
「ザ・ロスト。あるいは、2BD――食の定義すら変えかねない、美食界最大の
「そ、そんな物が、あと八つも……」
ジロウの説明により、この絶望的な状況はより具体性を帯び、もはや覆る余地があるとは思えない。
シローの心を諦念が支配しようとしていた。
「――『覇王』。出す、と信じていた」
その声は、
「全力で来いと、俺が言った。お前は昔から、五聖天らしからぬ正々堂々とした奴だった。それを揶揄する奴も居たが、俺は美点だと思っていたよ……」
この会場でただ一人、諦めていない漢から。
「なにを――」
「『覇王』を使うと分かっているなら、話は簡単だ。それを上回れば良い、ただそれだけだ。至極単純に、ただ、それだけ」
「…………馬鹿な」
「炒飯の出来では、お前に敵うはずは無い。単純な勝負なら、敗けていたのは俺だった。中華の頂点が並大抵で無い事は、俺が良く知っている……だがたった一点でも、それを上回ることができたら? 門外漢が牙城を崩したというその事実は、大きな衝撃となる。相手が高みにあればあるほど。ましてやお前は頂点美食者。その効果は計り知れない」
「――ま、さか」
「見せてやろう。これが俺の
漢は、ムラサキは、懐から取り出す。
純白に煌めく円筒のボディに、燦然と輝く赤い『創』の文字。
この世ならざる物体の顕現に、空が砕け次元が軋む。
だがそれは決して不快な感覚ではない。
なぜならばそれは、この不完全な世界を破壊し、次の世へと導いてくれる光なのだから。
シローの頬を滂沱が濡らす。
誰もが泣いていた。
魂に刻まれた真実への到達。
それが今、成されるのだと確信して。
ムラサキは『創世王』の中身を少量、炒飯に投じる。
「完成だ」
審査員の前に供されるは、黄金に輝くあまり輪郭すら定かではない炒飯だ。
無論それはあくまで錯覚で、実際に光を放っているわけではない。
だが会場の全員の目には、確かに光って見えている。
ならば、それこそが真実なのだ。
「いた、だきます――」
審査員が震える手で蓮華を掴む。
一口分を掬い、それを、口に――
「これが…………」
「ああ、これこそが――」
涙が溢れる。止め処なく、涙が。
「何故だろうか……歴史を感じる……ドラマを感じる……武をもって世を平定するのが『覇王』ならば、その世を創る者が『創世王』」
「『覇王』しか知らなければ、それが正答だとそう信じていただろう。だが、この味はどうか……! たった一つの真実がこの世にあるとするならば、まさにこのバランスこそがそれだと確信できる。『創世王』に比べれば、『覇王』は紛い物という印象が拭えない。偽帝を討ち倒す、真実の王者」
「確かに炒飯自体の出来は、ジロウさんのものに及ぶべくもない。だが、この差を無視してなにが美食家か」
「然り、然り」
「ならば我ら三人、心は決まった」
「此度の美食争覇の覇者は、ムラサキ殿とするッッ!!!」
大歓声が会場を揺らす。
時を超え、時代を超えた因縁の対決が、今この時この時代において決着したのだった。
それはまさに神話の世界で紡がれる、英雄譚のような戰いであった。
敗れたジロウは、精根尽き果てたように、舞台に大の字に倒れた。
見つめる先に広がるのは青空だ。上空に吹く風により、いくつもの雲が流されていく。
「――――なあ、ムラサキ。俺達は一体どこに行くのだろうな。今こうしている間にも、才能豊かな
「…………」
「そうなった時、お前ならどうする? 街の端で、小さいが温もりを感じる店を出し、数人の常連と毎晩過ごすのか? ――俺は御免だ。『最近は向こうの店の人気がすごいけど、俺ァやっぱり大将のラーメンが一番だと思うよ』なんて、味音痴共に持て囃されるのなんてな」
「それが理由か。お前が、ドン・ソルレオーネなどに与した」
「嗤うか? いや、嗤ってくれよ、惨めな己を。魂まで売り渡し、それで得たのがこの結果だ。結局お前には、一度も勝てなかった……」
「……俺の聞きたいことは分かるな? 答えてもらうぞ」
「相変わらず、
「何ッ」
その時だった。
「これは一体何の騒ぎだ」
会場に響く声。その鼻が詰まったような男の声を耳にし、ムラサキの視線が鋭さを増した。
会場を支える大きな柱、中でも
柱の中には、ガラス張りの空間が広がっていた。そしてそこには、複数の人影が。
「美食争覇か? まったく、誰の許可を得て」
黄を基調とした服装の、長身の男。
高い位置に居るせいだろうか、サングラス越しに見える目はすべてを見下すかのような印象を抱かせる。
何より目立つのは量の鼻孔から生える鼻栓だ。ティッシュペーパーで作られたと思しきそれが、先の声色の理由だった。
「ジロウさん。あら、あそこに居るのは――」
黄色の横に並び立つのは、桃色の花柄ルックを纏う、化粧の濃い男。そして――
「の、のぼりゅ?!」
「シオッッ!!」
二人の陰から現れた、純白の衣に身を包む、白銀の髪の女性。
それは紛れもなく、ムラサキの追い求めていた探し人。
邑咲紫緒。
実に、一週間ぶりの再会であった。
第10話「うなる聖遺物! 覇王 対 創世王」・了
――次回
ども! ムラサキアンドシローの、いつも深爪気味な方、寿司郎です
いや~、ようやく一安心
ここまで来たか
てゆーか、これからどうなっちゃうんだ?
次回、世紀末美食伝説ムラサキ ふー、らぶど
ラブって……
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