第9話

第9話「シローとジロウのアチアチアドベンチャー」


 ――世界の『大崩壊』から百年。


 人々の努力と幾許かの奇跡により、文明の再興は成った。


 しかし、重要度が低いと見做された文化の再現は遅れ、時に見下され、その連続性を絶たれていった。

 伝統芸能、スポーツ、そして美食――


 世紀末美食伝説。


 それは、開演の鈴鳴らす宿命の嚆矢。






 世紀末美食伝説 ムラサキ、前回までは――


「本日これより、近くのイベントスペースにてテレビ番組『メインディッシュ・チューンオフ』の収録がございまして……そこで是非に! ムラサキ様にはその審査員を務めて頂けないかと思いましてっ!」


 澤パレス勢力圏に足を踏み入れた直後、不意にムラサキに声を掛ける者があった。その名はモデ。自身の携わるTVショウへの参加を熱望する彼は、ムラサキの名声を目当てに近づいたのだった。


「――良いだろう。参加しよう、その料理番組とやらに」


 来る五聖天との闘い。それは、ムラサキの不得手とするスイーツの雄『コクトー・三上』との対決を意味する。避けられぬ衝突を見据え、ウォーミングアップを兼ねて参加を表明するムラサキ。


「さあ、やって参りました! 『メインディッシュ・チューンオフ』のお時間です! 司会はわたくし茂手モデと――」


「アシスタントの美食アイドル、シャーリー江戸前でぇ~す」


 奇しくもシローの姉、シャーリーこと江戸前酢飯番シャリバンとの顔合わせも果たしたムラサキは、若き料理人達に界隈の厳しさを叩きつけるのであった。


 しかしその代償は大きかった。


 やむにやまれず見捨てる形となったシローが、大層ヘソを曲げ、一人敵地の雑踏へ飛び出してしまったのだ。






◇市内


「――――畜生、まだ口ン中が変な味しやがる」


 暮れなずむ街並。


 勢いに任せた疾走は、当然のように迎えた体力の限界を経て、今やこうしてトボトボ歩きへと姿を変えていた。


 蹴飛ばした小石が跳ね、道路の僅かな起伏に当たり、側溝へと吸い込まれる。

 あと何度か衝突の角度が違っていれば、小石は別の場所へ飛んだのだろうか。


 蹴る時の力。靴への当たり具合。

 そうした要素が複雑に作用し合い、そうして小石の運命が定まった。

 小石自身の選択とは関係なく、誰といつ、どのように出会ったかが。


 きっと、世の中とはそういう物なのだろう。


(なら、おいらは……)


 大き目の小石が、丁度利き足の爪先に落ちている。

 さっきの小石がシロー自身なら、こっちの小石は何であろうか。


「……」


 シローは、先程よりも強めに小石を蹴った。

 小石は軽快に道を跳ねる。

 その様は、側溝に落ちた小さめの小石と毛ほども変わらない。

 小石界での序列――そんなものがあればの話だが――など、シローから見れば取り立てて勘案すべき程でも無いものだ。

 それが上位者の持つ絶対性であり、下位の存在とは埋めることのできない隔絶が存在しているのだ。


 一際勢いよく跳ねた小石が脇に逸れ、道端の腰掛けに座っていた人物の靴に当たった。


「あっ、ごめんなさい――」


 慌てて謝罪するシロー。

 こういう場合、とにかくノータイムで謝る。

 それが、彼の少ない人生経験で培った処世術だった。

 怒りの感情が脳内で結実するまでが勝負だ。


「…………道に迷っている――そんな面ァしているな」


「えっ――」


 しかし返ってきたのは、そんな意想外の言葉だった。


「ここじゃあ見ない顔だな……迷子か?」


 それは、随分とガタイの良い漢であった。

 頭には黒い手ぬぐいのような物を巻き、その下から覗く眼光は鋭い。

 肩に羽織った上着がたなびき、よく日焼けした筋骨隆々たる上半身が見え隠れする。

 腹部を覆う白いサラシ、そしてそこに刺さるのは、むき出しの包丁。


 間違いない、料理人だ。


「迷子じゃなけりゃぁ、家出か? 喧嘩でもしたか」


「おいら、おいらは――」


 言い淀むシローの返答は、意図せぬ場所から齎された。

 気の抜けたような腹の音が鳴り響いたのだ。


「うん? ハッハッハッ! こいつぁいい。坊主、腹が減ってんのか。良けりゃあ何か食っていくか?」


 漢はそう言って立ち上がる。


「ぼ、坊主じゃねぇ! おいらシローってんだ!」


「ほう奇遇だな。オレはジロウ。ま、ここで会ったのも何かの縁だ。ついてきな」


 ジロウと名乗る漢の広い背中を見つめるシローは、


(……この人、どことなくだけど、ムラサキのあんちゃんと似ている)


 顔や体型、出で立ちなどで言えば似ている所など一つも無い両者。

 にもかかわらず似ていると感じた理由を言葉にするならば、纏っている空気のにおい、といった所だろうか。


(ジロウ……ジロウ、か――)


 前を征くジロウを追いかけながら、シローは漢の名を反芻する。


(被るから、改名してくれないかな……)






◇『らあめん鳥風』


 豚骨を煮出した独特な臭いが立ち込める店内。

 ジロウと共に潜った暖簾の先は、ラーメン屋だった。


「らっしゃ――あっ、ジロウさん! 食いに来てくれたんですか!」


「おう。ちょいと邪魔ぁするぜ」


 店内の客入りは上々。シローとジロウはカウンター席に並んで着席した。

 所々空席もあるが、時間帯を考えれば大層な繁盛店だ。


 周りを見渡すと、どの客も満足そうに麺を啜っている。


「品書きはそこだ。好きなもん頼みな」


 ジロウの指し示したのは、メニューの記載された木製の板だ。

 カウンター席には一定間隔で、メニュー、割り箸、卓上調味料、、ティッシュ箱、そして水のピッチャーが置かれていた。


「大将、しょうゆ一つ」


「た、大将だなんて、やめてくださいよ! ジロウさんにそんな、畏れ多いですよ」


「何言ってやがる。あのシゴキに耐え抜いて、これだけ立派な店ぇ構えているんだ。ここじゃあ紛れもなく、お前さんが大将だ」


「ジロウさんッ……へへ、何だか誇らしいです。わかりやした! しょうゆ一丁!」


 ジロウの注文が通った。

 会話の内容から、どうやらこの店長はかつてジロウに師事していたようだ。

 そして今では立派に独り立ちし、互いに互いを認め合う良い関係を構築している。


「おいらもしょう――」


 同じものを頼もうとしたシローの脳裏に、一つの顔が浮かんだ。

 思い出したくもない、自身の師の顔が。


「――やっぱ、みそを一つ。茹で加減は、アルデンテで」






「へい、しょうゆ一丁! 味噌一丁! お待ち!」


 店主直々の配膳により、シローとジロウの下に丼ぶりがやって来た。

 ある事情から胃の中身が空になっていたシローにとって、黄金に輝くスープは何より価値あるもののように思えた。

 立ち昇る香気に、腹に住み着く虫が抗議の音を上げる。


「う、うまそうすぐる……いただきますッ!」


「――いただきます」


 まずはスープからだ。

 レンゲで掬った熱々のそれは表面に少量の油が浮いており、店の照明を反射して煌めく。

 どうやら輝いて見えたのは錯覚では無かったようだ。

 レンゲに口を付け、一啜り。

 途端に口内を駆け巡る薫香と、直後に訪れるコクのある味わい。

 何種類もの野菜と肉が溶け合った濃厚な出汁と、滋味深い味噌とが出会ったことによって生み出される奥深いスープは、一口でシローをこのラーメンの虜にした。


 堪らず箸で麺を掴む。

 豪快に啜る、啜る、啜る。

 程よい太さの麺はブロンズダイス製。

 ザラザラとした表面にスープがよく絡み、新たに足された小麦の香りが調和する。

 こんもりと盛られたもやしの山を崩せば、中から出てきたのは焦がし葱。

 独特な風味とじんわり広がる甘みが加わり、完成されたと思っていた一杯に余力が残っていたことに驚かされる。


 ――と、ここで、焼豚によって堰き止められていたダムが決壊し、溶けたバターが下流へと流れ込んだ。

 新たなコクが足されたスープは、すべてを包み込むようなまろやかさでありながら、暴力的なまでの旨味を併せ持った恐るべき二面性の化身だ。


「んっ、んぐ――――ぷはぁ~~~、ごちそうさまでした!」


 気付けばシローは完飲完食を果たしていた。

 最初にスープを口にしてから、一瞬たりとも手を止めることなく。

 ここまで集中して食事したのは、いつ以来だったろうか。


「惚れ惚れするような食いっぷりだったな。どうだ、旨かっただろう?」


「ああ! こんなにうまいラーメン、はじめて食べた! 日本一うまいラーメンだって言われても、驚かないぜ!」


「ハハ、ありがとうな坊や。でもその言葉は、ジロウさんの一杯を食べるまでとっておきな」


 明日の仕込みだろうか、鍋の様子を見ながら、店長がそう言った。


「ってことは、おっちゃん――ジロウさんも、ラーメンを?」


 弟子たる店長がラーメン屋を営んでいるのだから、その師であるジロウもそうであるのは自明に思えた。


「……ああ。今は理由ワケあって、店を開いちゃいないがな」


「なんだ坊や知らないのか? ジロウさんと言えば、あの有名な――」


「よせやい文兼。それよりも坊主、悩みはスッキリしたか? 大抵の悩み事ってもんは、旨いモン食って腹ぁ一杯になりゃあ自然と消え去るもんだ」


 ジロウの言葉に、爽快な気分が一転。

 悶々としたものを抱えていたことを思い出してしまった。


「……」


「――なんだ、中々に根が深いようだな……よけりゃあ話くらい、聞いてやろうか? 会ったばかりでなんだが、寧ろその方が話せることもあらぁな」


 ジロウの、シローへの接し方は、特段親身になるでもなく、かと言って突き放すでもない。

 それはシローにとって新鮮で、居心地の良い距離感だった。


「…………おいら今、ある人と旅っていうか、武者修行っていうか……おいらの家、寿司屋なんだけどさ、店を継ぐなら一度は世界を見てこいって、父ちゃんに言われて……」


 ポツポツと、シローは言葉を紡いでいく。

 時系列の混線した拙い説明であったが、ジロウはそれを指摘することも無く、ただ静かに耳を傾けた。


「でも兄ちゃんが非道いんだ。おいらの事、ぞんざいに扱ってさ……禄に料理も教えてくれないのに」


「そうか」


 連なるシローの不満を聞き届けたジロウは、コップの水で喉を潤すと、宙に向かって瞑目した。


「…………己の心の指針書コンパス、お仕事記 第一章二十一節に、こんな名ゼリフがある――『店主は与え、店主は奪う』。その意味がわかるか?」


「えっ――――いや」


「この店の店主は、そこの大将だ。アイツは己の二番弟子。己とは別の道を選んだようで、その実もっとも己の味を色濃く受け継いでいる。良い所も、悪い所もな。この店の外で会ったなら、奴は己に逆らえないだろう。だが店内なら話は別だ。ここは奴の支配する領域。食事を与えるも奪うも、奴の心一つというわけだ」


 そこでジロウはシローへと向き直り、理解が覚束ない彼を見て口元を緩めた。


「要は、目上の者には逆らえないっていうこった」


「なんだよそれ!」


「ハハハ。まあそう言うな。己の店じゃあ、まず始めに嫌と言うほどそれを叩き込むんだ」


 得意気にも見える表情でそう言い放つジロウ。

 シローは視線で、店主に疑問を投げかけた。


「……まあ、あの頃は自分も青かったって言うか……でも、それにしたってあんまりだと思ってるんで、ウチでは反面教師にさせてもらってますよ」


 店主が苦笑混じりに応えた。


「どう動かそうと、それはお前の自由だ。ここはお前の城だからな。ああ、まさに『店主は褒め称えられるべし』ということだ」


 そう言ってジロウは腕を組んだ。


「ふ、ふざけるな……何が反面教師だ! 僕にこんな、こんな仕打ちしておいて!」


 穏やかな会話に、突如として震える声が割り込んだ。

 それはカウンター内の調理場で皿洗いをしていた男のものだった。


「どうした、突然?」


「うるさいッ! 聖人ぶりやがって! いつもいつも僕のことを下に見て! 雑用ばかり押し付けやがって!」


「……見た所、実際お前さんは下だろう。雑用は下っ端の仕事と、昔から相場が決まっていらぁ」


「落ち着け! 君は確か、まだバイト三日目だろ? まずは店の環境やスタッフに慣れてもらうことから――」


「うるさいうるさいッ! 自分がひどい扱いを受けたからって、同じ事を今度は僕にしているんだ! 負の連鎖はッ! ここで断ち切るッ!」


 わめき続けるバイトが、割烹着の懐から何かを取り出した。

 無機質な直方体に取り付けられた、赤い円形のボタン。


「!! いかん、闇バイトテロリストだッ!!」


「何だって?!」


 ――闇バイトテロリスト!


 その誕生は、大崩壊後の高度技術成長期にまで遡る。


 遺失技術ロストテクノロジーが再現途上にあったこの時代において、規格の覇権を握ることは紺碧の大海を支配することと同義であった。

 デファクト・スタンダードの称号を手に入れるべく、他よりも一歩でも抜きん出る事が必要とされたのだ。


 研究者間、そして彼らの擁する企業間の争いは激化の一途を辿る。

 そしてついには流動的な第三勢力を一時的に雇い、敵対組織を内側から潰そうと目論む者が現れたのだ。


 それこそが、バイオテロリストの淵源。


 学歴社会から零れ落ちた無軌道な若者が、自身と企業の社会的地位を、自爆するが如く諸共破壊する脅威は、当時の社会問題となった。


 現代においては本来の意味で用いられることは少なくなり、転じてテロ行為をはたらくアルバイトを指す。

 ただしその性質は変わるものではなく、今なお恐れられているのだ。


「このスイッチが見えるか?! これを押せば、僕がセットしておいた隠しカメラの映像がネットに流出するようになっている!」


 バイト男がスイッチを持った腕を高く掲げた。

 動揺のためか、声も体も小刻みに震えている。

 これでは何かの拍子に押してしまいかねない!


「カメラ?! そんなもの、いつ設置したんだ」


「初日さ! 僕はクレバーなんだ。何かあった時のために、予め備えておいたのさ!」


「それはふつーに犯罪やん……」


「別に録られて困る事なんかしていないぞ!」


「甘いな! 確かに録画させてもらった。僕が、わさびのチューブを尻に入れる場面をね!」


「何ッ??!!」


 何たる狡猾な手口か!

 過度に衝撃的な映像は、それを見た者から冷静な判断能力を失わせる。

 結果、店の落ち度などは考慮されず、男共々一緒くたに炎上することになるのだ!


「チューブわさびなんて、家じゃあ使ってないぞ?!」


「僕の私物さ! いつも使っているね!」


「文兼ぇ! 闇バイトテロ保険には、当然入っとるだろうな?」


 ジロウの問いに店主は、


「すいやせん、未加入です……」


「馬鹿野郎ッ……! 他人を信用するなと、あれほど言って聞かせたのを忘れたかッ!」


 闇バイトテロ保険とは、闇バイトテロリストの標的とされた店舗を補償する金融商品である。

 特に自爆バイトテロの場合、犯人に対する損害賠償は望むべくもない事も多く、弁護AI費用までカバーするこうした保険は、開業した料理人達にとって非常にありがたい存在なのだ。


「へっ、へへ……後悔と絶望に濡れたその表情! 良いザマだなぁ?!」


「なぜこんな事を! 自分には、部下に辛い修行時代を味わわせやしまいと、最大限努力してきた自負がある! 自分の受けたシゴキの、二十分の一程度に抑えてやって来ているのに!」


「そんなこと知るか! 今は、僕の受けた仕打ちの話をしている! 他人がどうしたとか、知ったこっちゃない!」


 バイト男は見せつけるようにスイッチを前方に突き出した。


「いいか! これを押されたくなかったら、今すぐその場で土下座しろッッ! 僕に赦しを乞いながらな!」


「えっ、そんな事でいいのか?」


「「え?」」


 シローとバイト男の疑問符が重なった。


「どうもすみませんでしたッッ!」


 それは、非の打ち所がない五体投地であった。


 下げられた頭部が中心になるよう、折り目正しく両の手が添えられている。

 十指は指先までぴんと伸び、肘の角度は黄金比。

 なだらかな丘陵のごとき傾斜した背は、出来得る限り自身を矮小に見せるよう折りたたまれている。

 まるで絶壁から落下した猛虎が痛みに耐えるかのような平身低頭。


 そして何より動きの機敏さだ。

 着地に至るまでに要した時間は瞬きほどであり、彼の姿を直視していた者でさえ、瞬間移動したと錯覚するほどの電光石火。


 間違いない。彼は、土下座を極めし者だ。


「……」


 シローは無言でバイト男の方を見やった。

 この完璧な土下座を前にした彼の対応は、果たして。


「ふ、ふざけるな! そんなんで許すわけないだろ!」


「ええっ、こんなに見事なのに?!」


 店主は大層意外そうに狼狽える。


「土下座しろと言ったのはお前さんだったはずだが?」


「いやいやいや、こんなあっさりされたら何の意味もないだろ?! 屈辱に耐えながら、それでもこれに縋るしか無いって状況下で繰り出される土下座にこそ意味があるんだよッ!! 何で分からないかなぁ?!」


 バイト男の言い分を聞いたジロウは、床に手をついたまま固まっている店主に顔を向けた。


「ほぅれ見ろ。いつも言っていただろう? 土下座とは真心だ。もっと勿体ぶらにゃあ、その価値を最大限発揮することは叶わない。お前の頭は軽すぎるんだよ」


「うっ……毎日のように土下座させられていた修行時代が仇になるとは……」


「表向き謝罪の意思は示す、一方で内心では舌を出す。だが決して相手にそれと悟らせちゃあならねぇ。いいか? この塩梅だ。この匙加減なんだ。すべてが料理に通じている。……何でも卒なくこなしたお前だが、最後までコレだけは身につかなかったな」


 ジロウは一つ大きな溜息をつくと、バイト男を見据えて口を開いた。


「若ぇの、話は分かった。聞いての通り、己はそこの凡愚ボンクラと知らない仲じゃぁない。なに、所謂師弟関係って奴だ。つまりお前さんは、己の弟子でもあるってわけだ」


「いやそうはならんでしょ」


「そこで一つ提案だ。互いに一端の料理人らしく、ここは一丁、料理勝負でカタをつけようじゃぁないか」


 ごく自然なジロウの提案に、バイト男は――


「はあ? おっさん、イカれてんのか?」


 まるで意味がわからないという感情を顔に貼り付け、激しく首を傾げた。


「勝負だと? この、僕に圧倒的に有利な状況で? しかも内容が料理だあ?? 心底理解不能だ。料理で勝負して、一体何になるって言うんだ?」


「何……だと……」


 バイト男の天地を揺るがすような暴言に、ジロウの脳が揺さぶられる!

 生まれてこの方、料理一筋に生きてきた彼にとって、それはまったく常識の異なる宇宙人の襲来が如き衝撃であった!


「お前さん、料理の道を志してこの街に来たんじゃぁないのか?」


「違う! 僕らはもとから住んでたんだ! それを後からやって来たのは、お前たちの方じゃないか! こっちは散々迷惑しているんだ!」


「……」


 今でこそヴィネガー澤の城下町となっているこの街だが、それもごく最近の話である。

 先住民にとって見れば、ジロウや店主ら料理人達は文化的侵略者と捉えられても仕方がない存在だ。

 おそらく、バイト男にもバイト男なりの、激発に至る所以があったのだろう。


「今度こそ、事情は理解した……だがな、こちとら料理人だ。一度決めたからには、料理勝負、絶対にやり通す。例え相手が居なかろうがな……」


「???」


 そう言うとジロウは頭の手ぬぐいを締め直し、バイト男の脇を抜けてカウンター内に入っていった。


「文兼、厨房借りるぜ」


「おい何を勝手に――」


 制止しようとするバイト男を、ジロウはその眼光だけで押し留めた。


「刻みつけておけ。これが料理人の生き様だ」


 バイト男の上げかけた腕が、所在無さげに下ろされる。

 その頃には既に、ジロウの前にはまな板や包丁の類が準備されていた。


「料理対決! お題は! ラーメン!」


 一人で勝手に開幕を宣言したジロウが、一人で勝手に調理に取り掛かる。


 まず用意したのはネギ。

 小気味よいリズムで刻まれたネギは、そのすべてが正確に2 mm幅に切り揃えられている。

 卓越した包丁捌きに、シローはおろか、さしものバイト男も釘付けとなる。


「おっとコイツを忘れちゃいけねぇ」


 そう呟きながら流れるような手際で懐から取り出したのは、銀色の容器。

 ジロウはそこに匙を突き入れ――


「――せいッッ!!」


「???!!!」


 バイト男目掛け、匙で中身を振りまいた! 突然の事態に激しく動揺する一同!


「こ、このッ?! もう限界だ! 押すね! 今だッ!」


 バイト男はそう叫びながら手にしたスイッチを押し込――


「?! 滑るッ??!!」


 ――むことができない!

 彼の手は先程ジロウが放った白くべたつくなにかに塗られ、それが滑って押すことができなかったのだ。


「今だ!」


「合点ッ!」


 一瞬の隙を見逃さず、店主がバイト男にタックルを仕掛ける。

 低姿勢から下半身を狙って繰り出されたそれは威力抜群で、押し倒されたバイト男は床に頭を打ちつけて昏倒した。


「…………凄い音したけど、そのにいちゃん大丈夫なのか?」


「ああ、仕留め損ねた。残念ながらね」


 シローの疑問に対する店主の回答は、あっさりとしたものだった。


「ジロウさん、お手間をお掛けしやした」


「ああ。デッドマンスイッチなら、指ごと一瞬で熱溶着させにゃならん所だった……運が良かったな」


「はい……気をつけないとですね」


 ジロウは厨房から出ると、テーブル席の椅子を引き、座り込んだ。


「大変な場面に出くわしちまったな、坊主。だがこれで分かっただろう。店を持つって事、その重みが」


 そして、今だ混乱から覚めやらぬシローに向かい、そう語り掛けた。


「料理に携わりゃぁ、こういったトラブルはそれこそ日常茶飯事だ。秘伝のレシピを盗み出さんとするスパイ。写真だけ取って冷めた料理に手を付けないインフルエンサー気取り。悪質なクレーマー。店の理念を理解しない愚者。道端で吐く自惚れ屋――」


 ジロウは頭に巻いた手ぬぐいを解く。

 汗に濡れた豊かな頭髪が眉にかかる。

 貫禄ある雰囲気からそれなりの年齢と思われたジロウだったが、こうして見るとまだ若々しさが残っている。


「それでも続けるのは、何でだと思う?」


「えっ」


 突然の問い。


 シローの脳内を巡るのは、つけ場に立つ両親の姿。

 その後ろ姿から覗く、満ち足りた表情。

 そして、今まで出会った数多の料理人達。


 彼らに共通するもの。それは――


「それは…………好きだから?」


「そうだ。その通りだ。己達は料理をするのが好きで、それを振る舞うのが好きで、美味いと喜んでもらえるのが好きなんだ。だからこそやっているんだ。だからこそ頑張れるんだ――それさえ分かってりゃぁ、何があっても大丈夫だ」


 ジロウの口元がニヤリと弧を描いた。


「さて、と――」


 ジロウは額に当てた手ぬぐいで前髪を押し上げると、頭の後ろで縛る。徐ろに立ち上がった彼は、


「坊主、二軒目だ。ついて来な」


 そう、背中越しに告げた。






◇『献茶』


 ジロウに連れられたシローが訪れたのは、流行りのスイーツ店だった。


「ジロウのおっちゃん、ここは?」


「……この界隈でも屈指の人気店だ。まあ、とりあえず入るぞ」


 時刻は既に、大抵の人間が夕食を終えている時間帯。

 にもかかわらず、この店にはまだ多くの客で賑わっている。

 いや、スイーツの特性上、夕食後だからこその盛況なのかもしれない。


 華やかな店構えと扱う商品から想像するよりも、客層は意外と幅広い。

 大半は若い女性であるが、家族連れや壮年の客もちらほらと居る。

 共通するのは、皆幸せそうに食事を楽しんでいるということだ。


「おっちゃん、まさかここは――」


「ああ。タピオカ入りミルクティーの店だ」


「こ、これが噂のっ……!」


 タピオカ入りミルクティー!


 食べ物の流行り廃りは周期性を持つが、そうした歴史の転換期に現れるのが、このタピオカ入りミルクティーである。

 一瞬流行したかと思えばすぐさま消え去るスイーツは枚挙に暇がないが、タピオカだけは不思議と長期間支持される。

 そして下火になった後は、十年、二十年の雌伏を経て、再度爆発的に広まるのだ。


「なんだ、食った事無いのか?」


「……うん」


 シローは正直な所興味はあったのだが、女子供の食べるものというレッテルを勝手に貼って避けていたのだ。

 いなりにも何度か誘われてはいたものの、同じ理由で素気無く断っていた。


「そうか。普通ので良いな? ――トール、アイス、タピオカ入りミルクティー、ファーストフラッシュ、エクストラミルク、ライトアイス二つ」


「はい! トールアイスタピオカ入りミルクティーファーストフラッシュエクストラミルクライトアイス、お二つでよろしかったでしょうか!」


「たぶん」


「それでは一歩ずれてお待ち下さい!」




 数分後、シローはジロウとテーブル席で向かい合い、手にしたタピオカ入りミルクティーを啜っていた。


「……どうだ? 感想を聞かせてみろ」


「チュルル~…………うん。うまいよ」


「……」


「キホンは甘いミルクティーなんだけど、たまに吸い込まれるタピオカが良いアクセントになってる。飲み物に食感のバリエーションが加わる事で飽きさせないし、いつ来るか分からないっていうアトラクション要素がそれを後押ししてる感じ。何より、巨大なタピオカを太いストローで飲むってのが、非日常感を演出していて良いね。ただ……」


「ただ?」


「味がなぁ……うまいはうまいんだけど、想像の範疇を超えないと言うか。タピオカの感触に慣れたら、後はまあ、所詮はよくあるミルクティーだし。そのミルクティーも甘すぎる気がするんだよなぁ……タピオカ自体には味がほとんどないから、薄まることを計算に入れてるんだろうけど」


 そこでシローは、再度ストローに口を付けた。


「チュルル~……口に入ったミルクティーが多すぎたら、タピオカを吸ってバランスをとる……そう上手く行けばいいけど、実際は自分の好きなようにはコントロールできない。これが皿に乗せられた料理なら、例えば肉一切れにつけるソースの量なんかはお好みで調整できるだろ? コレにはソレが無い。大雑把な食べ物だと思うよ、おいらはね」


 偉そうに垂れるシローの講釈を静かに聞いていたジロウは、手に持っていた容器をテーブルに置くと、どこから取り出したのか雑誌の一ページを開いてシローの眼の前に広げた。


「なるほど、だいたい分かった。ちなみにこの店だが、有名パティシエが手掛けた話題の店で、様々なメディアに連日取り上げられているし、権威あるグルメ書でも高く評価されているようだぞ」


「ちょ、ちょっと待ってくれ――ズゾゾゾッッ……うーん、なんだかそう聞くとすげえうまく感じてきた! やっぱ茶葉かな? 良い茶葉を使ってる。うんうん」


 コウモリもかくやと言う変わり身の速さで、シローはタピオカ入りミルクティーを褒めはじめた。

 ただ、そんな自分を黙したまま見つめるジロウを前にして、その語気は段々と弱まっていった。


「…………なんだよ。どうせおいらは権威の前じゃあ自分の感覚に自身も持てない半人前だよ。さあ笑いたきゃ笑うがいいさ」


 シローは捨鉢な態度で、腕を組みながら顔を横へとそらす。


「笑いやせんよ。何も間違っちゃいない。寧ろ正しい振る舞いだとさえ言える」


 シローは一瞬、呆気にとられた。

 意外なことに、ジロウは権威に靡くシローの有り様を肯定したのだ。


「『情報を食う』なんていう呼び方もあるくらい、人間にとって食事における情報は大きなウェイトを占めているものだ」


「そうかな……だってさ、何か言われたからって、それで実際に味が変わってるわけじゃないだろ? それなのに、誰かの言葉に影響されるなんて……なんかさ、確固たる自分を持っていないみたいで、おいら恥ずかしいよ」


 項垂れるシローに、ジロウは一つ頷く。


「実際に、味が変わるわけじゃあない。それは確かにそうだ。だが、情報によって味は確かに変わる」


「?!」


 そして、続き飛び出した紛れもなく矛盾した発言に、シローは困惑の色を隠せない。


「どういうことだってばよ」


「そうだな…………ここにおにぎりが三つあるとしよう」


 何も置いていないテーブルを、ジロウが指し示す。

 途端にそこには、存在しないはずのイマジナリーおにぎりが三個出現した。


「ありえないことだが、すべて同じ成分、同じ味だ。一つ目のおにぎりは、和食の匠が丹精込めて握った一品だ」


 左端のイマジナリーおにぎりから、イマジナリー匠が現れた。

 匠が江戸びつからよそうのは、土鍋で炊かれた新米だ。

 湯気を立てるほかほかのご飯が、匠の見事な手際で握られていく。

 柔らかな三角形に整形されたおにぎりには、パリパリの海苔が巻かれた。

 光の透けぬ、上質な海苔。

 しかも、一度炙って香りが増している。


「ごくり……」


 土鍋で炊いた米特有の甘い香りが漂ってくる錯覚を覚え、シローは喉を鳴らした。


「次いで、二つ目はさっきコンビニで買ってきたおにぎりだ」


 真ん中のイマジナリーおにぎりから、やる気のなさそうなイマジナリーコンビニ店員が現れた。

 店員はハンディスキャナーでおにぎりを読み取ると、よくわからない呪文を唱え始めた。


『こぉまあでよぉっしっすかぁ?』


「……」


 いや違う。

 シローは頭を振って空想を霧散させる。

 最初に登場したのが和の匠ならば、今思い浮かべるべきはおにぎり工場でなければならないはずだ。

 実際に目にしたことは無いので想像するしかないが、多分こんな感じだろうとイメージを膨らませる。


 内側から食い破られるように飛び散った店員の代わりに、真ん中のイマジナリーおにぎりから、複数の巨大な機械とそれらを繋ぐベルトコンベアが現れた。

 精米、洗浄、浸漬、そして炊飯工程を経た白米が、大仰な機械によって正三角形に固められる。


 ベルトコンベアによって運ばれるおにぎり達が、覆いの施された区間を通過する。

 ここを通るおにぎりの様子は、職員の詰める別の部屋によって監視されている。

 検品だ。


『これは……ツナマヨじゃない! インシデント確認! 緊急! 緊急!』


 職員の一人が立ち上がって叫ぶと、工場内の全ラインがストップした!


『何?!』


『確かか? サーモグラフィーに異常は見られない』


『いやこの影……間違いない、梅干しだ!』


 こうして検品のプロ達により、混入事件は未然に防がれた。

 ツナマヨを食べようと思って酸っぱい思いをするカスタマーは、生まれずに済んだのだ。


 些細なアクシデントはあったものの、マスプロダクションによる規格統制されたおにぎりは、安心安全かつ一定の味が担保されている。

 このおにぎりも、きっと、それなりにうまいはずだ。


「最後に三つ目。これは二つ目のおにぎりと同じコンビニで買ってきたものだ」


「それなら味も同じじゃねぇの?」


「だが先程トイレの床に落とした」


「はあっ?!」


「安心しろ。包装フィルムは巻いた状態だし、ビニール袋にも入っていた」


「いやでも……いや、うーん……」


 シローは、浮かびそうになる何らかの不潔なイメージを掻き消すよう努めた。


「さあ、この情報を知る前後で、おにぎりの味は変わるとは思わんか?」


 不敵な笑みを浮かべるジロウ。シローは未だ納得のいっていない表情だ。


「確かに、主観的には味は変わったように感じるだろうけどさ……やっぱりおにぎりそのものの味が変わるわけじゃないだろ? ならそれは、錯覚のようなものなんじゃないか?」


「錯覚、結構じゃないか。自分で作った料理は、苦労を知っているから甘めに評価する。外で食べると非日常感によって美味しく感じる。愛する者に作ってもらったなら、幸せホルモンと強迫観念によって美味しいと思い込む。人間とはそういうもので、我々はそこから脱却できない。だが結局、うまいかどうかを判断するのはそんな人間なのだから、自身が感じた感覚こそが真実であるはずだ」


 ジロウは喉を潤すために、タピオカ入りミルクティーを一口飲んだ。


「高級レストランでは値段という名のスパイスがより料理を美味しく感じさせる。他にも、静かな環境で食べるより、たとえテレビの音でも他人の声がしていた方が美味しく感じるという説もある。実際に、孤食が鬱のリスクを高める可能性もあるらしいな」


 ジロウの考え方を前にして、シローは考えあぐねているようで、なんとも難しい顔をしている。


「うーん……おいらの中の賢い部分は理解している気がするけど、まだイマイチ納得はできない気もするんだよなあ」


「それは坊主が、人間の味覚を過大評価しているからだ」


「過大評価?」


「ああ。日常に生活していると実感が沸かないだろうが、ヒトの五感なんて当てにならないものだ。かき氷のシロップが、すべて同じ味というのは知っていたか?」


「き、聞いたことがある……まさか本当なのか?!」


「本当だとも。正確には、『色』と『香り』だけが異なる。人間はそれに騙され、まったく違う『味』だと勘違いするのだ。味覚などと名前がついているが、その八割が嗅覚、つまり鼻で知覚していることがそもそもの原因なのだがな」


「鼻……確かに、苦手な食べ物は鼻をつまめば食べられたりする……」


「視覚情報も重要だ。美しくドレッセされた料理には気持ちを高める作用があるが、それ以外にも形状が作用する事が知られている……チョコレート菓子を丸から四角に、形だけ変えたところ、甘くなくなったとクレームが殺到した事があったのだ」


「そんな! 言われてみれば、確かに丸い方が甘い気がするけど……そういうのって個人差があるんじゃないのか?」


「確かにそれはあるだろう。だが、ブーバ・キキ効果のような、視覚と言語における普遍的傾向が、食の世界にもあるのかもしれない。それほどに視覚情報は重要で、例えばリアルタイムの映像合成によって、そうめんをラーメンと、マグロをサーモンだと錯覚させることすら可能だ」


 シローは聞かされる様々な新事実に驚愕する一方、想像もつかぬそれらを信じきれずにいた。


「うーん……なんだか、そんな気もしてきたんだけど、どうにもまだ腑に落ちないって言うか……」


「さっきも言ったが、坊主は人間を過大評価しすぎだ。他の動物と比べれば、ヒトの味覚はそれほど鋭敏でないことに気付くことができるはずだ。よく食う動物で言えば、豚はヒトの約二倍、牛は約三倍の数の味蕾を持っている」


「微妙に嫌な選出基準だな」


「極端な例を出せば、特定の魚では、触覚のほとんどを味覚に頼る種も存在する。それから考えれば、人類がいかに狭い領域で食を語っているか、お前にも分かるだろう」


「そう言われると、確かに……」


 コウモリの可聴域など、ヒトを超える感覚器官を持つ生物は数多い。

 と言うよりも、この広大な世界を知覚する、その術がそれぞれ異なるということなのだろう。


 そのように考えれば、自身の感覚なんぞは、事象の一側面を何らかのフィルターを通してしか観測できていないわけで、ジロウの主張にも頷けるものがあると言うものだ。


「おっちゃん、おいら理解できたような気がするよ。真の味よりも、情報が大事だってことが」


「うむ……時に坊主。店を繁盛させるために必要な三要素、と呼ばれるものがある。何か分かるか?」


 ジロウの問いを耳にした瞬間、シローの脳裏に懐かしい記憶が蘇った。


『……シロー。レッスン1だ。店を繁盛させるために必要な三要素とは何だ?』


 師から賜った唯一の教え。その真理は――


「えっと確か……コネ、レビューの星、そして運」


「……ほう。この世の本質を、よく理解している」


「へっ、へへ……」


 珍しく褒められたシローの口から、自然と笑みがこぼれた。

 先人たる大人に認められたこと、身につけた知識が役立ったことが嬉しかった。

 自分を通して師が褒められたような気がし、そしてその事に喜ぶ自分がいることに、シローは気付いた。


 一方のジロウが一瞬、値踏みするような視線を向けたことに、シローは気付かなかった。


「……やっぱり味よりも、いかにサクラを雇ったり、有名な評論家に金を渡す事の方が大事なんだ……でもさ、それで騙されない人もいるんじゃないか?」


「居るには居るさ。だがな、そんなものはごく少数だ。この世の人間は馬鹿ばかりだからな」


 ジロウは美味しそうに食事する客達を睥睨する。


「それが証拠に、だ。これを見ろ。この時間、ほぼ全員が夕食後のはずだ。だがなぁ、飯の後にこんなものを飲みに来ている奴らは、揃いも揃って愚か者だ」


 ジロウがそう語気を強めながら差し出したのは、二人が注文したタピオカ入りミルクティーの成分などが記されたメニュー表だ。

 彼の太い指先には、俄には信じがたい数字が記載されていた。


「??!! こ、これはッ……カロリーが?!」


「ああ。気軽に飲めるものとは思えない、凄まじい値だ」


「このタピオカ一粒一粒に、そんな破壊力があったなんて……」


「そうとも言えるし、そうでもないとも言える。茹でたタピオカの生理的熱量は100 gあたり61 kcal。白米の半分以下だ」


「意外とヘルシー」


「――だが、食物繊維やタンパク質を殆ど含まず、体内ではほぼ全量がブドウ糖として吸収される恐るべき食材なのだ。それに加えて、ミルクティーが事態に拍車をかけている。先ほど坊主が指摘したように、タピオカで薄まる味を補填すべく、糖分マシマシのミルクティーはまさにカロリーお化け。冷たいと甘みを感じにくいがため、アイスであれば更に多くの砂糖が入っている」


 次第に熱を帯びるジロウの発言に、周囲の客達がざわつき始める。


「そうして今度は言うに事欠いて! カロリーがラーメン一杯に匹敵するなどと宣いおるッ! 引き合いに出されたラーメンの健康への影響が再認され、一時的ではあるが食べ控えにまで発展する始末! トバッチリもいいところだッ!」


 ジロウの言い分はおおよそ私怨だ、とシローは思ったが口に出すことはしなかった。

 それよりも早く、騒ぎを聞きつけた店員によって退店させられたからだ。


 散々文句を言いつつも、二人は残ったタピオカ入りミルクティーをちゃっかりテイクアウトした。


「……つい熱くなっちまったな。だがな坊主。お前も一端の料理人なら、自分の感覚を信じることを忘れちゃならねえ。それと同時に、他人の感覚を操る術を磨くことだ。この厳しい世界で生き抜くには、綺麗事だけじゃいずれ限界が来る。それを忘れるな」


「……そんな大事なこと、なんでおいらに? おいらはいずれ、おっちゃんをおびやかす男になるかもしれないぜ?」


 少し冗談めかすシローを見下ろし、ジロウは不敵に笑った。


「寿司とラーメンじゃあ競合しないって打算もある。それに、坊主が有名になりゃあ、それは己のお陰だ。雑誌のインタビューで感謝の一つも述べてくれりゃあ、こっちにも注目が集まるって寸法よ」


「なんだよそれ……」


 二人は飲みきったカップを、近くのゴミ箱に放り投げた。


「――坊主。お前もいずれ、自分の店を持つだろう。その時のために、これだけは覚えておけ。いいか? 他人なんてものはな、誰一人信用ならない。人手を増やそうとバイトを雇うだろう。技術を継承しようと弟子をとるだろう。そうして恩を受けた連中は、それを仇で返す。常にそう思っておくことだ」


 風が吹く。


「だがな、それでも信じられる存在ができた時、その時は――」


 緩んだ手ぬぐいからこぼれたジロウの前髪が揺れる。

 その瞳は、どこか懐かしむような、そして悲しむような色を湛えていた。


「――信じてみるのも、悪かないかもな」


 シローに向き直った彼の面差しからは、直前まで浮かべていた、何かを憂うような感情は消えている。

 そしてその双眸は、シローの背後へと向けられていた。


「久しいな、ムラサキ」


「ジロウ……」


 そこに居たのは、喧嘩別れしたシローの師ムラサキだった。


「あ、あんちゃん、何で…………え、ていうか、おっちゃんと知り合いなのか?」


 混乱するシローの脳が、高速で回転を始める。

 今日、ジロウと会ってからの出来事が一瞬の間にリプレイされ、それが一つの結論を導き出す。


「まさか――」


「ああ。この男は、俺と同じ美食五聖天…………背脂を司る、中華料理の使い手」


 男が嗤う。


 腕を組み、頭部に巻いた手ぬぐいから眼を覗かせて。


「ジロウ・インスパイア」





第9話「シローとジロウのアチアチアドベンチャー」・了





――次回


五聖天も残り五人

いよいよ俺達は一人目の料理人、背脂座パクリコーンのジロウの待つ魔窟に突入した

何? シオが澤の忠実な下僕だと?

馬鹿な! シオはムラサキの遺志を継いで、俺達が守り抜く

頼むぞシロー

世紀末美食伝説『うなる聖遺物! 覇王 対 創世王』

君は、PASMOを無くした事があるか?


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