第8話

第8話「裏切りの脱出」



 世界の『大崩壊』から百年。


 人々の努力と幾許かの奇跡により、文明の再興は成った。


 しかし、重要度が低いと見做された文化の再現は遅れ、時に見下され、その連続性を絶たれていった。

 伝統芸能、スポーツ、そして美食――


 世紀末美食伝説。


 それは、無辜の民導く大いなる標。






 世紀末美食伝説 ムラサキ、前回までは――


「失礼。入園には、マイナンバーカードのご提示をお願いしております」


 激闘を征したムラサキら一行は、澤パレスを中心とした城下町への侵入を咎められた!


「そして此処なるは『遊戯の門』! 日本古来より伝わる、伝統的遊戯にてその実力を示すことかなえば、この鋼鉄の門もその重き口を開くことでしょう!」


 さすがは澤の擁する門衛、笹宮トシ。

 その実力は確かであり、一筋縄ではいかない!

 劣勢を強いられるムラサキは、勝者に100ポイントが与えられる最後の遊戯にすべてを賭けた!


「そしてこれが最後のゲーム! 由緒正しい古典遊戯! それが『タベレルモンスター』!!」


「『タベレルモンスター』だって?!」


 笹宮の最も得意とするこの遊戯。圧倒的不利な立場であるムラサキは、意表を突く戦術と得意のハッタリを駆使し、見事勝利を収めたのだった。


 そして現在――






◇市内


 ムラサキは、澤パレスのある敵の勢力圏内に足を踏み入れた。この先に待ち受けるのは、美食五聖天との熾烈な戦い。


 だが脅威はそれだけでは無い。なぜならば、この街のすべてが敵と言っても過言ではないのだから。


「あの、もし――」


 そのように警戒するムラサキらに、徐ろに声を掛ける者があった。


「もしや貴方様は、ムラサキ様ではありませんか? この辺りにお出でになると聞き、探していたのです」


 黒いスーツに身を包んだ、人の良さそうな男だ。

 突然の出来事に身構える一同。

 シローが男を指差し、


あんちゃん、コイツはたぶん敵だぜ!」


「……」


「て、敵? 何か勘違いをなさっておいでのようですが……申し遅れました、私こういう者です」


 意外にも大層慌てた様子で、男は懐から小さな紙片を取り出した。

 名刺だ。三人はそれを覗き込んだ。


「えっとなになに……『フリー司会者 茂手モデ令太レイタ』――」


「ええ。私、フリーでイベントごとの司会をさせて頂いております、モデと申します。本日これより、近くのイベントスペースにてテレビ番組『メインディッシュ・チューンオフ』の収録がございまして……そこで是非に! ムラサキ様にはその審査員を務めて頂けないかと思いましてっ! これは私にとってもまたとない機会であり! 何卒、何卒っ――!」


 腰の低い態度で始まったモデの自己紹介は、後半になるにつれ激しい主張を伴うものになっていく。


「審査員~? 兄ちゃんはそんな事しているほど暇じゃないんだ! さあ帰った帰った!」


「そ、そこを何とか! 参加者は今はまだ無名ですが、いずれ大輪の花を咲かせる、かもしれない将来有望な料理人ばかり! 得意分野も多岐にわたり、中でも優勝候補と目されている方はスイーツ界のホープとして、五聖天のコクトー・三上様にも一目置かれておりまして――」


「何ッ?」


 捲し立てるモデの言葉に、ムラサキが反応した。

 彼の脳裏に、キテの残した言葉が蘇る。



『ですがお気をつけを。あの場所には今、シオ様を含めた残り全員が揃っているはずです。そう、が、ね』



 遠からず相見え、そうしたならば対立する事になるであろう同志。

 いずれ劣らぬ強敵の中でも、異彩を放つその一人。

 彼の者の関係者が、参加するという。


(スイーツか……最近手掛ける機会が無かった……勘を取り戻すには、丁度良いかもしれん……)


 そのジャンルの頂点美食者たる五聖天同士の美食争覇において、題材が何になるかは公平を期すため完全にランダムである。

 ゆえに、彼ら彼女らとの戦いにおいてその得意分野が選出されるかどうかは分からない……が、しかし! ムラサキには不思議と予感めいたものがあった。

 自らが苦境に立たされる、その予感が。


 それゆえムラサキは選択する。

 些か馴染みの薄いスイーツという領域に、心と身体を慣らすために。


「――良いだろう。参加しよう、その料理番組とやらに」






◇市内、特設会場


 ――『メインディッシュ・チューンオフ』。


 それは、全県各地から名乗りを上げた若き料理人達が、審査員から認められた証である「合格」の札をもぎ取るため、全身全霊をもってその腕を振るう料理番組だ。

 今、俄に注目を集めつつあるという向きもある――らしい。

 ここはその撮影のために用意された会場である。


 裏手からは『話が違う』だの『あまりにも失礼』だのと言った声が響いている。

 前もってオファーされていた自称食通ら――手間絵里、蛭田ヨシュア、春津天那の三名らしい――が、本職の五聖天が出演するということでお役御免となったのだ。


「あ、あれシャーリーお姉さんじゃない?」


「げぇっ?! まじかよ……」


 いなりの指差す方には、いつぞやのテレビにも出ていた金髪の女性の姿が。

 司会者側のブースに居ることから、スタッフの一員のようだ。


「おや、まさかお知り合いでしたか?」


「ええ。こっちのシロちゃんの姉で、私の従姉妹になります」


「おお、それはそれは! ――シャーリーさん! 弟さん達がお見えですよ!」


 呼びかけられた女性は一瞬目を見開いた後、満面の笑みを浮かべてシローらの方へと走り寄って来た。


「シローちゃん! どうしたのぉ? お姉ちゃんのお仕事してる姿見たくなっちゃった? あ! いなりちゃん久しぶり~! つまりこれはデート? デートなのね!」


「シャーリーさんお久しぶりです!」


「デートじゃねぇよ修行だよ」


 素直に喜びを表現するいなりと、居心地悪そうにするシロー。


「いつも言ってるけどさ! 姉ちゃんいい年して……本当にいい年なんだから、そういう格好はまじでやめた方がいいと思う」


「やだシローちゃんったら色気付いちゃってぇ! お言葉ですけど、最近はこういうちょっとキツいのが局所的に人気なの、知らないのぉ?」


 シローの指摘する通り、シャーリーの装いは夏とは言え全体的に肌面積が広いものだった。

 確かに実の姉がこのような格好をしていたら思う所はあるだろうが、彼らの言葉通り年齢的に厳しいようには見えない。

 恐らくそれは、幼いシローから見れば、ということなのだろう。

 あるいは並々ならぬ努力の賜物か。


「ニッチな市場は飽きが来たら早いぜ? 大抵の場合、参入時点で既に胴元は撤退してるし」


「いやぁ仲の良い姉弟で羨ましいですな。私は一人っ子なもので……そうそう、審査員の方々はどうなりましたか?」


「いつもの業者さんに頼んでおいたので、大丈夫です! ……それで、そちらが?」


「ええ。美食五聖天のムラサキ様! 番組の出演をご快諾頂けました」


 モデに紹介されたムラサキは、シャーリーに軽く会釈をした。


「まさか本職の方が来てくださるなんてぇ……やりましたね、モデさん!」


「ええ、ええ。これが話題になり上の目に止まれば、局付きの司会となるのも夢ではありません……! 苦節三十五年、ようやく私にもチャンスが舞い降りました!」


 感極まり涙ぐむ二名を残し、ムラサキは審査員席へと歩を進めた。


 会場には七つもの調理スペースが設けられている。

 それぞれのスペースには、異なるユニフォーム姿の選手が真剣な表情で調理器具の具合などを確認している。

 そうした姿に初々しさと同時に懐かしさを覚えたムラサキの口元が、自然と緩んだ。


 事前に連絡が行き届いていたのか、審査員席には三つの席が設けられていた。備え付けの名札によると、


『江戸前寿司郎(友情出演)』

『邑咲昇由(美食五聖天)』

『宇賀神いなり(友情出演)』


 ムラサキの席は中央のようだ。


「兄ちゃんの名前、何て読むんだ?」


「名前と言えばシロー。お前の姉、シャーリーと言ったか。随分ハイカラな響きだが、親父さんのセンスか?」


 その質問に対して返した質問に、シローの顔面は一瞬にして蒼白になり、立ち竦む足は震えはじめた。


「…………あ、兄ちゃん、それは禁句なんだ。ぜ、絶対、絶対にシャーリーねえの本名の話は、本人の前で言ったらダメだ」


「えっ。あ、はい……」


 予想外の反応に困惑するムラサキ。

 事情を知ると思しきいなりは、気まずそうに顔をそらしている。


「……ウチの両親が結婚した当時、空前の寿司ブームが起きたとかで、そりゃあ大繁盛したそうなんだ……でさ、人手がいくらあっても足りないってさ、そんな理由で子供を作るって話になって……」


「話すのか」


 シローが震えながら語り始める。知っておくべきでない情報は知らない方が安全だと経験上理解していたムラサキだったが、好奇心から耳を塞ぐ事はできなかった。


「子供に何ができるのかって話なんだけどさ、酢飯を冷ましたりするのならできるんじゃないかって……うちわで扇いだり、意外と大変なんだよな、あれ……それでさ、わかりやすいから良いって、よりによってその子供の名前をさ……酢飯の番をするからシャリバ――」


「シ、シロちゃんそこまで!」


 取り憑かれたように語りだしたシローを、すんでの所でいなりが諌めた。


 聞きたかったような、聞かない方が良いような、宙ぶらりんな感覚だけがムラサキに残された。

 経験上、世の中には知らない方が良い事があると痛感していたムラサキは、ひとまずこれを無視することにした。


 結果としてそれが、皆の命を救うことになったのだが――その事実を彼らが知る事は無いだろう。






「さあさやって参りました! 『メインディッシュ・チューンオフ』のお時間です! 司会はわたくし茂手モデと――」


「アシスタントの美食アイドル、シャーリー江戸前でぇ~す」


「えっ、いつから美食アイドルに?」


「さっきからで~す。実は私の実家がお寿司屋さんなんですよぅ」


「今日はそのご実家から、弟さんが応援に駆けつけています! しかも彼が師事している、ある大物ゲストが! なんとなんと今回! この企画の審査員を引き受けてくださりました!」


「ご紹介しまぁす、美食五聖天のムラサキさんです!」


「――――(どうも)」


 軽妙なトークから流れるようなゲスト紹介。

 ムラサキはちょっと気の利いた事でも言うつもりでいたが、場の空気に呑まれ、ただ片手を掲げるだけの反応しかできなかった。


「流石は名高い美食五聖天! 威厳と風格に溢れております。参加選手が萎縮しなければ良いのですが!」


「ではその選手さん達の紹介に移りましょうかぁ」


「そうですね。早速入場して頂きましょう!」


 BGMと共に袖の方から調理服に身を包んだ七名が進み出た。

 事前に指示されていた通り、観客席から惜しみのない拍手が巻き起こる。


「それでは、自己紹介をお願いします!」


七十ナナトハジメです……! 本日は、全力で臨む所存です!」


有機ユウキ法子ノリコです。悔いのないよう、精一杯頑張ります!」


由仁ユニ家的ヤマトと言います。……頑張ります」


「クックックッ……山崎ヤマザキ春乃ハルノ


小止オヤミ安子ヤスコと申します。やる気だけは負けません!」


柳葉魚シシャモフォルテです!」


交流コウリュウ直流チョクリュウです。――この中では若輩者ですが、持てる力を出し切りたいと思います」


「以上の七名が、本日の料理対決に挑みます! それでは皆さん、準備の方お願いします!」


 簡素な紹介もほどほどに、新進気鋭の料理人達は各々のブースへと散っていった。


「さてここでルールの説明です! 七名にはそれぞれ、ご自身の得意料理スペシャリテをこの場で調理していただきます! ここで注意点が!」


「はぁい。皆さんにはレシピの方を事前に提出していただいておりますが、本日はこのレシピ通りの工程で調理しなければ高得点は得られません」


「料理人にとって、クオリティの維持は大切! 日によって味が変わるなんて許されませんからね! 撮影の緊張もある中、いかにいつも通りの実力を発揮できるか。それが本番組で最も主眼を置く所となります」


「レフェリーさんの厳しい監視のもと、頑張ってくださぁい」


 シャーリーの言う通り、各料理人に一人ずつ、黒尽くめにサングラスの強面が付いているようだ。

 恐らく、手に持った端末にそのレシピとやらの詳細が表示されているのだろう。


「へー、えらく厳しいルールなんだな」


「食材によって大きさとかが違うから、レシピはあくまで目安でしかないと思うけどなぁ」


 幼い二人の審査員が漏らした言葉にムラサキは、


「その通りだが、であるならばそれを見越して戦略を立てることが肝要だ」


 腕を組みながら、含みのある言い方をする。


「? どういうことだ兄ちゃん」


「個体差などのケースバイケースで、分量にアドリブを加えたい――料理界には、それを可能とする魔法の言葉が多々存在する。この勝負、それらを巧みに操る事が勝敗の分かれ目となるだろう」


 ムラサキの口角が上がる。

 正直、下らないテレビの見世物と思っていた彼だが、なるほど中々侮れないと気持ちを新たにする。


「それでは調理!」


「スタートォ~」


 七名の熾烈な争いが、今始まった!






「さて、お話の方を伺って参りましょう! まずは七十ナナトさんにお話を伺おうと思います――ナナトさん、今日はどういった料理を作る予定でしょうか?」


「――――はい。自分は、得意の『王道 肉野菜炒め』を作ります」


 一心不乱に作業を進めていた七十の前にマイクが差し出された。

 集中力を削がれる妨害行為だ。

 作業の最中にこうして受け答えを強いられるのは邪魔という他無いが、料理人達はこうした責め苦にも耐える必要があるのだ。


「ほう、これはまた地味ですね! しかしそれゆえ料理人の腕がダイレクトに反映される料理と言っていいでしょう!」


「……」


 ナナテはモデの言葉を無視し、食材の準備に取り掛かる。まず用意したのは――


「ピーマンか。肉野菜炒めの定番の食材だな!」


「ああ。ピーマンは油と相性が良いからな」


 艶のある緑が映える大ぶりのピーマンだ。

 縦半分に切った後、ヘタと種を取り外し、長手方向に細長く切り揃えていく。


「おおっとここで、レフェリーから減点の報告が上がりました。事前提出のレシピには『ピーマンは5 mm幅に細切りし』とされている所、どうやら5.5 mm幅で切り揃えてしまったようです。これは痛い!」


「ぐっ……!」


 モデからの指摘に動揺するナナト!

 だがそうした心の揺らぎで包丁を疎かにしてはならない。

 調理場にハプニングは付き物と割り切る精神力が試されているのだ。


「0.5 mmって……ちょっと厳しすぎるんじゃないか?」


「確かに厳しいが、このルールならば事前にいくらでも対応可能だ。奴はそれを怠ったのだ」


 シローの疑問にムラサキが応えた。


「それって、さっきの――」


「ああ。一口にピーマンと言えど、その大きさは様々。下手に何mmなどとサイズ指定してしまえば、その数で割り切れない周長を持つ個体に対し、手が出せなくなってしまう」


「確かに……じゃあ、あの人はどうしたら良かったんだ?」


「簡単な事。曖昧な表現でお茶を濁すのだ」


「曖昧な表現!」


 料理のレシピに隠された真理の一端に触れたシローに、稲妻のような衝撃が走る!


「それは一体――」


「この先自ずと分かるだろう。もっとも、まともな料理人が居れば、の話だが」


 シローとムラサキの会話は、調理を進める選手らを含め全員に伝わっている。

 特に料理人達は、対岸の火事と嗤っている余裕はない。

 ライバルの犯したミスを、自分達もまたしていないとも限らないのだ。


 挽回のため奮起するナナトが、次の工程へと移る。


「あ、別の食材を切り始めたぜ! 人参みたいだ」


「ああ。人参は油と相性が良いからな」


 ナナトはノギスの一端からコンベックスを引き伸ばすと、真剣な表情で人参の寸法を計測し始めた。

 そしてノートに何やら書き連ねた後、確信を得たかのような面持ちで懐からある調理器具を取り出す。

 ピーラーだ。


「成る程。ピーラーで剥く皮の厚さを調整する事で、レシピの再現を図るようだな。挽回しようという気概が窺える、良いアドリブだ」


「なるほどなー」


 合点のいった様子のシローが、椅子を後ろに傾けて揺らす。


「いっこ聞いても良いですか? 人参って皮を剥かなくても良いって聞いたことあるんですけど……」


 行儀の悪いシローに注意した後、いなりが遠慮がちに手を挙げて質問する。


「ふむ。泥付きでも無ければ、出荷前の洗浄の段階で人参本来の『皮』は取れている。特に食感に拘らなければ、栄養価の面でも皮剥きの必要は無い」


「そうだったのか!」


「だが俺は必ず剥く事にしている。どこの誰が触ったかも分からん物を、水で洗っただけで口に入れるのはご免だからな」


「「……」」


 そのようなやり取りを余所に、人参のカットが完了した。

 今度はどうやらレシピの通りに切り揃えられたようだ。

 会心の出来に力強く頷く野菜炒め男ナナトが、次に取り出したる食材は――


「おっとここで登場したのはキャベツです! いやぁ、意外性の欠片も無いチョイスですが、野菜炒めにそんなものは求めていない、という意気を感じさせます」


「定番ですね」


「ああ。キャベツは油と相性が良いからな」


「油と相性悪い野菜って存在すんの?」


 ナナトはキャベツの芯を巧みにくり抜くと、まず内側の葉と外側の葉を分け始めた。


「なるほど! 白くて固い所は火が通りやすいように薄く切ったりするためだな」


「その通りだ。野菜炒めとは至極単純なようでいて、これで存外奥の深い料理。漫然と作れば水っぽくなってしまうが、素材一つ一つと向き合い最適な火入れをすることで、その完成度を比較にならないほど高めることができるのだ」


「そ、そうだったのか!」




「さあ、他の選手の状況はどうなっているのでしょうか! むむ、こちらはヤマトさんの厨房ですが……何やら固形物を削っているようです――ヤマトさん、これは一体?」


 司会を務めるモデが、ナナトの隣のブースへと足を運ぶ。そこでは、自己紹介で家的ヤマトと名乗った選手がせっせと何かを削っている最中であった。


「フフフ、見つかってしまいましたか……私はこの日のために、実家に残されていた古文書を読み解いたのです――」


「な、なんと!」


 『大崩壊』以前の生活の様子を記した古代遺物アーティファクトの数は少なく、解読可能なものに限れば殆ど皆無と言っても良い。

 それらは、たった一つで世界の在りようを変える程の力を持つとされる、途轍もなく貴重な品だ。

 内容如何によっては、再び大きな戦争が起きる危険性すら孕んでいる――!


「現代語訳に時間を取られた事と、万が一にも情報が事前に漏れる事の無いよう、試作は間に合いませんでしたが――私は勝ちを確信しています」


 不敵に笑うヤマトは、かんなを逆転させたような木製の箱を左手で押さえ、右手に持った小さい物体を丁寧に削っていく。


「そ、それは一体――?」


「固形のソーダです。鰹の代わりにこれの削り節を用いて、味噌汁を作ります!」


 何たる旧文明の生活の知恵!

 まさかあのシュワシュワが味噌汁に完全調和するとは、現代人の常識では俄には信じがたい事実である!


「こ、これは凄い……出来上がりが非常に楽しみな一品となりそうです!」


 人類史に残る情報のもたらした衝撃から覚めた観客達から、止めようのないどよめきが漏れ出る。

 それは審査員席も例外では無い!


「あ、兄ちゃん――」


「ああ、由々しき事態だ……まさかこんな場所でお目にかかれるとはな」


 ムラサキとシローの師弟は、同じ動作で額に浮かんだ汗を拭った。

 いなりは一人、ヤマトの削る手元を忍者アイで視ていた。


(あれってラムネじゃ……?)




 必要な分を削り終えたヤマトは、削りたてのソーダ節をお茶のパックへと詰める作業を進める。

 その様子をつぶさに観察する者が居た。


(……)


 真後ろのブースを充てがわれた柳葉魚フォルテだ。

 彼は開始の宣言以降も、用もないのに食器を出したり入れたりし、台拭きで同じところを何度も拭いたりといった、およそ勝負の場には相応しくない行動を繰り返していた。


 一見単なる不審者だが、その眼差しは常に前方の料理人、ヤマトの一挙手一投足に注がれていた。


(――ここだッ!)


 そうして見出した絶好の好機に、フォルテは蛇口のレバーを思い切りよくひねり――


「ぅわぁっ??!!」


 勢いよく噴出した水が、ソーダ節の尽くを濡らした!


「おぉ、大丈夫ですか? 蛇口を握りしめている事をうっかり忘れて、水を出してしまいました。決してわざとではありませんが、そちらに被害はありませんでしたか?」


 欺瞞!

 あからさまにそれと分かる意図的な妨害にもかかわらず、いけしゃあしゃあと宣う男のなんとふてぶてしい事か!


「兄ちゃん! 今の絶対にわざとじゃないか! 許されるのか、こんな事が! 神聖な料理勝負の場で!」


「当然許されない。だがそれも、『わざと』であることが証明されればの話だ」


「?!」


 身を乗り出して憤るシローに対し、ムラサキは腕組みのまま極めて冷静な反応だ。


「故意の証明は難しく、少なくともこの場で決着する話ではあるまい。すべてが終わってから明らかとなっても後の祭り……それゆえ、料理勝負の場においてはこうした妨害行為が稀によく見られるのだ。嘆かわしいことではあるが、な」


「ひどい……」


「そんなこと――」


 抗議の声を上げかけたシローは、ムラサキを見て二の句を引っ込めざるを得なかった。

 俯いて目元を隠す彼の表情は窺い知る事ができない。

 しかし、それでも隠しきれない怒りと後悔、そして悲しみがそこにはあったのだ。


「恐らく奴は、参加選手の誰かと共謀グルなのだろう。事によれば他にも居る可能性すらある。シローよ、見逃す事の無いよう、心するのだ。『敵の行動を事前に予習したので百勝余裕でした』――どのような妨害方法が存在するのか、知識として持っておく事がいずれ自身の助けになるやもしれぬ」


「! わかったよ、兄ちゃん」


 師弟がこの世の不条理に真っ向から立ち向かう事を決意する中、調理場では――


「ヤマトさん、大丈夫ですか? 棄権、なさいますか?」


「………………」


 手の中で泡となって消えゆくソーダ節を前に、ヤマトは茫然自失していた。決め手となる食材を駄目にされた。これではレシピ通りの分量など望むべくもない。


「いやぁ災難でしたね。ただまあ、わざとでは無いので謝罪はしません。ひとたび謝ってしまえば、それが建前だったとしても、あたかもこちらが悪いかのように受け取られかねませんからね。そうした口実を作らぬこれは自衛のためです、ご理解ください」


 フォルテの煽りも耳に入っていない様子だ。

 これが華やかな表側の世界に隠された、美食の裏の顔だと言うのか!


「フォルテさん口が過ぎますよ。ペナルティとして、その場で五分間、正座していただきます」


 見かねたモデが司会者権限で罰則を与えるが、元より妨害のためだけに潜り込んだフォルテには何ら影響は無い。

 己の役割を全うした彼は固い地面に正座すると――


「……」


 視線を横へと送った。


「あ、兄ちゃん! アイツ今、誰かと目配せをした! あの方向は……」


有機ユウキ法子ノリコって人、だね」


 既に背を向けていた司会は知る由も無いが、フォルテとノリコは互いに意味ありげなアイコンタクトを取っていた。

 審査員席で観察していたシローといなりはその様子を目撃していたのだ。


「さて、気を取り直して次の方へと向かいましょう……視聴者の皆様の中にも、ご存じの方が居られるかもしれません! スイーツの若手ホープ、有機ユウキ法子ノリコさんです!」


 司会のモデが向かったのは、まさにそのノリコの所であった。




「本日はどのような料理を?」


「そうですね……スイーツの極みと、そう呼ばれているガトーが存在します」


「そ、そんなものがあるんですねぇ」


 計量カップをテーブルに置き、ノリコは自身を誇示するようにハンドジェスチャーを交えながら語り始めた。


「その名も『ムラングシャンティ』――極めてシンプルで、そして限りなく高貴な技術の結晶の名前です」


 ――ムラングシャンティ。


 ムラングとはメレンゲ、シャンティとはホイップクリームを指す仏の世界の言葉である。

 その名の通り、メレンゲと生クリームを用いた――いや、メレンゲと生クリームのみによって構成される、一つの芸術作品だ。


 メレンゲ、そして生クリーム。


 スイーツにおける基本的かつ重要な、二つの構成要素。

 それらの出来栄えがダイレクトに反映されるムラングシャンティは、一切の誤魔化しが効かないパティシエの技術の粋。

 言うなれば、作る者の歩んできた人生の履歴書に他ならない。


「なるほど! 私、寡聞にして存じ上げませんでしたが、これは期待が高まります!」


「ですねぇ~」


 ノリコの言葉はもっともらしく、司会の面々は彼女の肩書も合わせてすっかり信じ切っているようだ。

 だが、裏の顔を知ってしまった今、シローはそれに納得がいかない。


「アイツ、ちゃんとした実力も自信もある癖に! なんであんな卑怯な真似を!」


「自信……自信、か」


 猛るシローに対し、ムラサキは瞑目しながら呟く。


「自信なんてものは、日の出と共に湧き出で、夜には消え去る幻のようなものだ……」


「ど、どういう意味だ?」


「絶対の自信があるなどと言える人間は、超人か、でなければよほどの愚か者だという事だ。努力を重ね、研鑽を積み、類稀なるワザを身につけて――それでもなお、頂きに至った実感など得られない。だからこそ、だ。実力のある者ほど、そうした誘惑に耐えられない。だが実力で劣ると自覚しているのなら、そこに伸び代があると信じ、自分を磨く選択肢がある。だからこそ、なのだシロー。その必要が無かったとしても、人は容易に誘惑に敗ける。それは万事を尽くしたがゆえに。それでも拭えぬ、恐怖ゆえに」


 遠い目をしながら語るムラサキの言葉に、シローはしばし絶句した。


「そんな…………あ、兄ちゃんでも……美食五聖天でも、そう思う事があったり……するのか?」


「…………所詮は人間。五聖天と言えど、例外は無い」


「……」


「だがなシロー。それを跳ね除けるのもまた、五聖天たる所以だ。俺は五聖天になってこの方、一度たりとて卑怯な真似をしたことなどない」


「あ、兄ちゃんッ――!」


 まさしく自信に満ち溢れたムラサキの表情が、シローの疑念を払拭した。

 これが五聖天。これが、頂点に君臨する者の持つ輝きなのだ!


「おいら、おいら感動したよッ!」


「うむ」


「あ、いよいよ何か撹拌するみたいだよ」


 師弟のやり取りに口を挟んだのは、ノリコの一挙手一投足に気を配っていたいなりだ。

 少し気恥ずかしくなった二人は居住まいを正した。


「……実際の所、やはり優勝候補はあのノリコというパティシエだろう」


「ムラサキさんから見ても、実力が抜けているんですか?」


「それもある。だが最大の理由はルールにある。この試合のルール……スイーツに極めて有利なのだ」


「そ、そうなのか?!」


「『事前に提出したレシピの通りに作る』――この縛りが思わぬ足枷になることは、先程の料理人の苦戦からも明らかだ。だが、それを物ともしないジャンルが存在する。それこそが、スイーツ」


 ムラサキはシローの理解が浸透するのを待って一度区切り、


「スイーツとは計量にはじまりタイマーに終わる、極めて再現性の高い料理。分量と時間を守らなければ瞬時に瓦解する一方、遵守すれば必然的に成功する、ある種の科学実験のような繊細さを持っているのだ」


「な、なるほど!」


「確かに、『こんなに砂糖入れるの?!』って怖くなって減らしたら、全然味がしなくなっちゃった事があったっけ……」


 ムラサキの言葉に揃って納得の表情を浮かべるシローといなり。一方、司会のモデは自身の端末にムラングシャンティのレシピを表示させ、


「さてさて! こちらのボウルに入っているのは卵白――つまり、今から始めるのはメレンゲ作りでしょうか?」


「はい。ここからは、力仕事ですね」


 そう言いながらノリコは泡立て器を持ち、慣れた手つきで卵白をかき混ぜ始めた。金属同士がこすれる軽快な音がリズミカルに響く。


「……そう言えば兄ちゃん、メレンゲで思い出したんだけどさ。よく『角が立つ』って表現を聞くけど、実際の所どんな塩梅の事を言うんだ?」


「なんだそんな事も知らないのか」


 ムラサキはやれやれといった風に鼻から息を吐き出した。


「『角が立つ言い方』と言うだろう? つまり、周囲から引かれるくらい必死に混ぜろという事だ」


「そうだったのか! 勉強になるなぁ」


 この発言に、会場の全員が衝撃を受ける!

 そもそも『角』をかどではなくつのだと勘違いし、掬い上げると突起が形成されるような固さになるまで混ぜる事だと思い込んでいた者は多い!

 ここに来て美食の頂点たる五聖天の口から齎された、天地のひっくり返る程の真実が与える影響は計り知れないのだ!


 取り分け――


「ぐっ……ぐぅぅぅ」


 レシピにそう書き込んでいた者にとっては!


 顔を歪ませて呻くノリコ。彼女に残された道は多くない。


 一つ、自身の思い描いた通りに作業する。ただしレシピとの不一致を追求され、評価の低下は免れない。


 一つ、真に正しき混ぜ方に則る。ただしその出来栄えに保証は無く、それどころか大失敗に終わる未来が容易に想像できる。


 どちらを選択しても、待つのは地獄。ならばどうするか。


「……うわああぁぁぁぁっ!!」


 雄叫びと共に一心不乱に混ぜ始めた!

 同じ地獄なら先達に従う事が正着!

 こと料理の世界において、上位者の言葉は絶対の力を持つ。

 師が白だと言えば、烏さえも白鳥となるのだ!


 破れかぶれのノリコの様子に誰もが目を奪われた、その刹那。


(――ここだッ!)


 ノリコの真後ろのブースで用もないのに食器を出したり入れたりし、台拭きで同じところを何度も拭いたりといったおよそ勝負の場には相応しくない行動を繰り返していた交流直流が、目にも止まらぬ動きで駆け出した。

 しかし、それに気付く者は居なかった。




「いやぁ鬼気迫るとはまさにこの事ですね。出来上がりが楽しみです。さて、続いては――」


「あのー……」


 次なる料理人の下へと歩を進めるモデの背中に声を掛けたのは、肉野菜炒めの下拵えを進めていたナナトだ。


「おや、どうされました?」


「いや、切り物も終わったんで、そろそろ火入れ始めたいんですけど……」


 すかさずセット脇からスタッフが飛び出してくる。


「駄目駄目ッ! こっちで順番決めてるんだから、勝手な事しちゃあッ!」


「えっ、でもこれじゃあいつまで経っても調理に入れない――」


「これだから素人は困るんだよ! テレビにはねぇっ、段取りってもんがあるの! 失格になりたくなかったら、自分の番まで作業は中断! いいねッ?!」


「……はい」


 スタッフに言い含められたナナトは、渋々と自身のブースに戻った。




「それでは気を取り直して、ハルノさんの様子を窺ってみましょうか!」


「――われが汝らにきょうせしは、いと清き聖剣の甘美なる調べ」


「はい?」


 山崎ヤマザキ春乃ハルノは意味不明な呪文を口にしながら、紫色の液体の入った鍋をお玉で撹拌している。

 時折底から気泡が浮かぶそれは、魔女の用いる鍋そのものだ。


「何となくパンで来る気がしていたが、どうやらそうでは無いようだ」


「奇遇だな兄ちゃん。おいらも何となくそんな気がしてたからビックリだぜ」


 ムラサキらの指摘通り、ハルノの調理場には小麦粉の類やイーストと言った一般的にパン作りに用いる食材は無い。

 代わりに置かれているのは穀物のような粒が入った謎の袋だ。。


「――月神の転身たる獣がこのみし新緑。その実りを千々に砕かん」


 ハルノは常人の理解が及ばぬ文言を呟くと、先の穀物を袋に入れ、それを麺棒で粉砕し始めた。


「――遥かなる銀河にすべてのはじまりを産み落とさば、そこに生まれしはまさしく混沌ケイオス


 牛乳に卵を割り入れてよく混ぜ、砕いた穀物の粉を入れて更によく混ぜる。

 大仰な台詞の割に、調理する光景はいたって普通である。


「――聖剣を鍛えしは地獄の業火!」


「ふむ。どうやら生地を焼いていくようですね……レシピによれば火加減は中火とのこと」


「全然業火じゃない火力だな……そういやぁ兄ちゃん、中火ってどのくらいの火加減の事なんだ?」


「なんだそんな事も知らないのか」


 ムラサキはやれやれといった風に鼻から息を吐き出した。


「コンロのつまみをちょうど真ん中になるようにした火加減が、中火に決まっているだろう」


 この発言に、会場の全員が衝撃を受ける!


 火加減は設置場所のガスの出力に左右されるがゆえ、目視での判断が必須、そう思い込んでいた者は非常に多い!

 だがそれゆえ、ここに来て美食の頂点たる五聖天の口から齎された、天地のひっくり返る程の真実が与える影響は計り知れないのだ!


「そうだったのか! おいらてっきり、鍋底とかを見て調節しなくちゃならないのかと思っていたぜ」


「何を馬鹿な。一々屈んで火の様子を覗き込むなど、とても大変だ。そうしなくても良いように、文明の利器というものがあるのだ」


 ハルノは、自身のコンロのつまみをチラリと確認する。それは奇跡的に、丁度真ん中あたりを示していた。

 思わず『イエスッ!』とガッツポーズをした彼女は、慌てて先程までの雰囲気を取り繕った。


 加熱したフライパンに広げ入れられた生地から、香ばしい匂いが漂ってくる。


「そう考えると、火加減てのも案外わかりやすくて簡単なんだな」


「――それは違うぞ、シロー」


 ムラサキが眼光鋭くそう言い放つ。


「火加減の世界は奥深いのだ。それは有史以来、人類を悩ませるある問題に所以する――それが『弱火の強火』問題だ」


「「『弱火の強火』問題??」」


 若年組二人の声が揃った。


「ああ。二人とも、『弱火の強火』とは、どのような火加減だと思う?」


「えっ、そりゃあ……弱火の中でも強めな……下の上みたいな感じ?」


「でも、弱めの強火って考え方もできそう……」


 シローといなり、自信の無さげな両者の発言にムラサキは頷く。


「その通りだ。シローの言葉を借りれば、上の下と言った所か。『弱火の強火』問題とは、同じ言葉にもかかわらず、この全く異なる二通りの解釈が可能であるという言語的欠陥のことを指す。かつてはこの解釈を巡り、喧嘩が起きたこともあると言う……」


「そ、そんな!」


「ただし、中火が絡んだ際は問題が単純化する。例えば『中火の弱火』と『弱火の中火』はどちらも同じく中の下、つまりは弱めの中火を意味する」


「あ、頭がこんがらがってきた!」


「なぜならもう一つの可能性、すなわち中くらいの弱火とは弱火の事なので、態々言い換える必要が無いからだ」


「なるほど……」


「『弱火の弱火』や『強火の強火』の火加減を誤解する事は無いだろう。畢竟、気をつけるべきは『弱火の強火』と『強火の弱火』の二種に限られる! 努々忘れぬ事だ」


「なんだかわかったような気がするぜ、兄ちゃん!」


「うむ。……それはそうと、生地に用いた穀物、あれはオーツ麦だな」


「クレープを作ってるみたいですね」


 審査員席のムラサキといなりが、審査員の如き解説を入れる。


「オーツ麦って、オートミールとか言うオートな見た目の食い物の事か?」


「食事時にオートオート言うな」


 不可抗力な事象を窘められ、シローが少々むくれた。いなりが光の速さでそれを隠し撮りした。




 焼き上がった生地に問題が無いことを確認したハルノが、静かに息を吐く。

 予定していた火加減とは若干異なったものの、詳細な時間までは記載していなかった事が功を奏したのだ。


 香ばしい生地を木皿に広げる。次に取り掛かったのは、謎の液体の入った鍋だ。


「ところで、この紫色の液体は何なんでしょうか?」


「――これなるは神の桎梏しっこく。そに投じるは太陽神の石弾」


 そう言うと小瓶から謎の液体を数滴、件の鍋へと垂らす。


「今入れたのはお酒ですね~。ラム酒を足したみたいです」


「妙な液体ですが、見た目は悪いですが香りは良いですねぇ。葡萄でしょうか? それを煮たもののようですね」


「――聖剣のかいなに抱かれし怒りの魔剣、その数三十」


 ハルノはキッチンスケールを用いて紫色の液体を正確に計量した後、皿の上の生地に慎重にそれをかける。その後、生地の端を持ち上げて綺麗に折り畳んでいくと、手のひらサイズの扇型の完成だ。


「――我が魂の一品、ご賞味あれ」


「一番手はハルノさんの料理となりました! 早速、審査タイムです!」


「はぁい、こちら審査員席で~す。いつもの通り、実食ののち判定という流れになってま~す」


 ムラサキら審査員の机に、三等分にされたクレープがカトラリーと共に配される。


 色々と工夫を凝らしてはいたものの、具材の量や種類は通常のクレープよりも少ないと言わざるを得ない。

 そうした状況は食すまでもなく明らか。ならばこそ、何らかの仕掛けが施されているに違いない。


「う~~ん、美味いことは美味いんだけど、なーんか物足りないなあ」


 先んじて食べ終わったシローが、口元を汚しながらそのような感想を述べた。


「……」


 ムラサキもそれに続いて、クレープを一口頬張る。


「…………物足りん」


「それなー」


 期待していた仕掛けなどは無く、見た目通りの味わいだ。これにはムラサキも閉口せざるを得ない。

 非難の視線が自然とハルノに注がれる。その隙にいなりが音も無く席を立ち、シローが口の周りに付けたブドウジャムを拭き取り、そのナプキンを小瓶に収めた。


「もっとこう、生クリームとかバナナとか、入れるわけにはいかなかったのか?」


「――我が紡ぐ言霊に相応しき素材が無き故、致し方なし……されど獲得に際し奉じる財の多寡にこそ刮目して頂きたく……」


「えっと……あ、アピールポイントに『安いわりに美味しい』とありますね」


 シャーリーの的確な通訳により、ハルノの訴えが審査員らに伝わった。


「安いのかー。ならある程度しょうがないって感じだなー」


「値段は大事だよね」


「…………」


 理解を示すシローといなりとは対照的に、ムラサキは黙したままだ。


「それでは! 審査をしていただきましょうか! 審査員の方々は、お手元にある札、『合格』と『不合格』のどちらかを表にして上げていただきたく思います!」


「……あの、座っておいてなんですけど、審査って私達もするんですか? ムラサキさんと同じ待遇っていうのは、さすがに恐れ多いって言うか……」


 遠慮がちに小さく挙手して尋ねるいなりに、モデが応える。


「あ、ムラサキさんはお一人で百ポイントなので、気にしなくて大丈夫ですよ」


「えぇ……おいら達の意味ねぇじゃん」


「それでは札を上げてください!」


「なあ、おいら達居る意味あんの?」


「上げてください!」


 シローのぼやきは耳に入っているのかいないのか、モデの強引な進行により、遂に一人目の審査が始まった!


「『合格』、『合格』――」


 シローといなりがそれぞれ『合格』と書かれた赤い札を机上に上げる。そこで少し溜めがあった後に、ムラサキが上げたのは――


「――『不合格』!」


 青い『不合格』の札だ!


「『合格』二、『不合格』百で、ハルノさんの品は不合格となります!」


 容赦なき神判が下されたハルノは愕然とした表情のまま固まっている。

 シローといなりも驚きを隠せない様子で、「まじかよ」の呟きが漏れ出た。


「それでは『不合格』の札を上げたムラサキさんにお話を伺ってみましょう! ムラサキさん、今回はなぜ『不合格』に?」


「なぜも何もない。単純に物足りなかった。それだけだ」


「で、でもさぁ兄ちゃん。材料費を抑えて、低価格で提供するっていうのがこの料理の特徴だろ? 多少具材が少ないからって、なにも不合格にすること無いじゃないか」


「……シロー。お前は大いなる勘違いをしているようだ」


 ムラサキは鼻から息を吐いた後、シローを見下ろしながら続ける。


「この値段ならこの程度でも良いかと言う奴は、裏を返せば金を積まれさえすれば尻尾を振りながらゴミを食うと言っているのと同義だ」


 何たる暴言!


「それは言い過ぎじゃあ……」


「額にもよるだろ」


 そこに、焦るハルノが自己弁護をはじめた。


「こっ、今回の品は、旧神話に対する叙情的解釈の再現という崇高なテーマに沿う食材のみを用いたもので、それゆえ合致する食材が少ないことは考慮に入れていただければとッ」


「片腹痛し」


 しかしムラサキ、すげなくこれを一蹴!


「単なる自己満足を、こだわりという耳触りの良い言葉で誤魔化そうとしていないか? 己が事情で不出来になった責任を、己以外に誰がとると言うのか」


 ムラサキは抗議の声など歯牙にもかけない。ハルノが愕然とした表情で肩を落とす。


「――――だが」


 たっぷりと間を取り、ムラサキが再び口を開く。その口元が、わずかに笑みを浮かべている。


「問題なのは具材の簡素さのみで、他は申し分無い出来だ。是非この経験を糧にしてもらいたい。リベンジを待っている」


 そう、それは愛ゆえの不合格。期待を込めた星三つなのだ!


「は、はいッ!」


 こうして、一人目の挑戦者ハルノは堂々退場した。




「白熱してまいりました! さてお次は……ノリコさんの状況はどうなっているのでしょうか? アクシデントからいかにリカバー出来るかも料理人の資質! 注目です」


 そう、モデが口にしたその時だった。


「うっ……うわああぁぁぁぁっ??!!」


 会場に響き渡るノリコの悲鳴! 一体何が起きたというのか!


「ど、どうしましたノリコさん?!」


「クリームが……ひ、冷やしてたはずのクリームがっ!」


 立ち尽くすノリコの眼前には、選手毎に割り振られた冷蔵庫。その扉はガン開きだ。

 何者かが彼女の目を盗み、開けっ放しにしたのだ!


「これは……一体誰が、何時から?!」


 ムラングシャンティの構成要素の一、ホイップクリーム。

 きめ細やかなそれを作るには低温の維持が不可欠である。

 そのため冷やしておいた生クリームだが、これではその準備も水の泡!


 その様を横目にほくそ笑む者達あり。

 それはソーダ節を駄目にされたヤマトと、その協力者である交流直流だ。

 そう、先の混乱の最中に暗躍した交流直流が、目にも留まらぬ早業でノリコの冷蔵庫の扉を開け放っていたのだ!

 何たる極悪非道かつ陰湿な嫌がらせか!

 とは言え妨害行為はお互い様、因果応報とも言える顛末だ。


「うぅむ。時間も圧してますし、ノリコさんは再起不能ということで退場してもらいましょう。あと、調理する気配も無いフォルテさん、ヤマトさん、交流直流さんも」


 もはや予定していた物を作れないと悟り諦めていたヤマトと、始めから妨害目的で潜り込んでいた者達が揃って退場していく。

 残りの料理人はあっという間に二名となった。


「ではナナトさんの様子を見てみましょう。いかがですか? 順調に進んでいますか?」


「いや進んでねぇよ」


 明らかに不満げな様子を隠しもしないナナト。

 だがモデはまったく取り合わず、流れるように司会を続ける。


「肉野菜炒めを作るとの事でしたが、食材の準備は済んでいるようですね! ではでは調理の方、進めて下さい」


「…………まずは豚バラを炒めていきます」


 一時の感情に身を任せるのは愚策と思い直したナナトは、モデの態度に思うところはあったものの努めてこれを無視することにした。


 大事の前の小事。

 今は眼の前の料理に向き合うべき時だ。


「他のお野菜はまだ入れないんですかぁ~?」


「……食材には、それぞれ最適な火入れ具合が存在しています。面倒がらず、一つ一つの食材と向き合い、丁寧に作り上げていけば、そんじょそこらの肉野菜炒めとは一線を画す料理が出来上がりますよ」


「なるほどぉ!」


 ナナトは中華鍋に豚肉を投じ、コンロに着火した。

 程なく油の弾ける音や、焼けた肉の香りが漂ってくる。


「ここでは完全に火を入れず、一旦脇に避けておきます。こうして順々に、食材毎の最適な火入れになるよう調節するのが、真の肉野菜炒めです!」


 ナナトは鍋底に溜まった油を紙で吸い取り、今度はキャベツを炒め始める。


「油を引かずに炒めましたが、さっきの通りバラ肉からはかなりの量の油が出るから問題ありません。この油には肉の臭みも含まれているので、一度拭っておきます。ただし拭い過ぎも良くない――肉の旨みも含んでいるからです。この加減は数を熟して覚えるしかありません」


 調理を始めたナナトはやる気に満ち溢れた表情であり、先程までの不機嫌が嘘のようだ。

 切り揃えられた野菜が順に鍋に投入されていく。

 ナナトはそれに、都度塩を振っている。


「――よし、粗方準備は整った! 合わせる前に、味のベースとなる焦がし醤油を作ります」


「ふむ。レシピによると、分量は『小さじ一』とありますね」


「兄ちゃん兄ちゃん、小さじ一ってどれくらいの量なんだ?」


「なんだそんな事も知らないのか」


 ムラサキはやれやれといった風に鼻から息を吐き出した。


「計量スプーンは大抵の場合三本セットだろう? ならば何ら疑いの余地なく、一番小さいのが小さじだ」


「じゃあ真ん中のは?」


「無論、中さじだ」


 このやり取りにナナトが衝撃を受ける!

 なぜならば彼は、今の今まで『中さじ』こそが『小さじ』だと勘違いして生きてきており、当然レシピもその勘違いを元にしたためたからである!


「…………」


 今まさにムラサキの言う『中さじ』で醤油を入れようとしていたナナトの動きが止まる。 彼に残された道は多くない。


 一つ、自身の思い描いた通りに作業する。

 ただしレシピとの不一致を追求され、評価の低下は免れない。


 一つ、真に正しき量に則る。

 ただしその出来栄えに保証は無く、それどころか大失敗に終わる未来が容易に想像できる。


 どちらを選択しても、待つのは地獄。ならばどうするか。


「…………!!」


 ナナトは器用に『中さじ』から『小さじ』へ醤油を移動させ、真の『小さじ一』を達成せしめた!

 『小さじ』は『中さじ』の丁度半分の容量。

 つまり完成品は、当初想定していたから塩気が半減してしまう。


(だが俺にはまだ、挽回の余地が残されているッ――!)


 ナナトは焦がし醤油の沸く鍋に、次々と具材を投入。


「ここで一旦――――すなわち、だ」


「あ、味を整えるッ?! 塩胡椒しょうしょうッ?!」


 それらの言葉の持つ料理熟練者的ニュアンスに慌てふためくシロー。

 普段料理をしない者にとって、いっそ衒学的な高等専門用語の連続使用はあまりに刺激が強すぎたのだ!


「塩胡椒しょうしょうの『しょうしょう』って一体?!」


「なんだそんな事も知らないのか」


 ムラサキはやれやれといった風に鼻から息を吐き出した。


「山頂でやっほーと叫べば、木霊がやっほーと返してくれる。然るに後ろのしょうしょうは、『椒』の木霊だ」


「「?!」」


「つ、つまり?」


「木霊のような、儚げな力加減で塩胡椒を入れると言うことだ」


「そうだったのか!」


(あ……あっぶねぇぇぇ!)


 ナナトは心の中で拳を強く握った。


(また何か余計な事を言われたら、事前準備がパァになる所だったッ――! だがこの解釈なら塩加減は自分で決めることが可能! まだ大丈夫だ!)


 数々のアクシデントを乗り越えたナナトが、巧みな手捌きで塩胡椒を少々多めに振り、入念に味見をする。

 渾身の肉野菜炒めの完成だ。


「さあ二皿目の試食に移らせていただきましょう!」


 眼の前に置かれた料理に箸をつけようとしたその時、カメラマンの後ろに膝立ちする男がフリップを掲げる様が目に入った。


『ムラサキさんの味見は最後に!!』


 男は先程、ナナトの調理を中断させていた人物であり、どうやらこの番組のディレクターのようだ。

 番組側としては試食の順番を前もって決めており、その通りに事を運びたい様子。


「まずは特別審査員のスシロー君が一口……冒頭でもお伝えしましたが、彼はシャーリーさんの弟君です……数回咀嚼して……表情はまずまずの様子」


 審査員が試食する様子を司会が実況する。それがいつものスタイルのようだ。


(なるほど。これでは、一斉に食べ始めてもらっては困るわけだな)


 納得の表情をするムラサキは、シローに続いていなりが野菜炒めを口にしたのを見届けた後、少しタイミングをずらして自身も箸をつけた。


 いかなる番組も、どのような内容を伝えるかという大枠は予め決まっている。

 企画会議で承認されたそれから勝手に変更を加えることは、後々問題になりかねない。

 問題では無いことからすら問題を作るこの業界において、ライバルに付け入る隙を見せる行動は出世コースからのぶらり途中下車を意味する。

 だからこそ、イレギュラーは極力排しておきたいのだ。


 特に今回は、ディレクターである彼が用を足している隙に司会の一存で審査員を変更されるという不測の事態。

 これ以上の予定外は、流石に看過できないのだ。それゆえ――


『札を上げる順番は、ムラサキさんが最後!!』


 審査の段となった現在は、そのように書かれたフリップを掲げている。

 ムラサキの持つポイントは百。

 もしこれがシローらの札より先に詳らかになれば、他の札を確認する意味が無くなるのは必定。

 果たして結果はどうなるのか、というドキドキ感を演出するため、ムラサキの札は最後に上げねばならないのだ。


「それでは札を上げていただきましょう――」


 シローといなりが同時に赤い『合格』の札を上げる。


「『合格』、『合格』――」


 そこで一拍の溜めを作った後、


「『合格』ぅぅっ! 『合格』百二、『不合格』零で、満場一致合格となります!」


 赤い『合格』の札を上げたのだった。

 テレビの賢しい演出に付き合う義理など無かったが、タダメシの分くらいは働いてやろうという度量の大きさを見せつけた形だ。


「ぃやっったぁぁぁあっ!!!」


 ナナトが快哉を叫ぶ。


「では『合格』を上げた審査員長のムラサキさんにお話を伺いましょう!」


「員長だったのかよ」


「『合格』の決め手は一体?」


「――単純な事だ。正々堂々と己の力を出し切った者が、正当な評価を得る。それが世の正しいあり方だと、俺は思う」


「あ、ありがとうございますっ!」


 惜しみない拍手がナナトに注がれる。

 このように晴れやかな気持ちになれるのなら、多少のトラブルには目を瞑ろう。ナナトはそんな思いを胸に退場した。


(それにしても――美食五聖天、か……地元じゃ聞いたこと無かったけど、やっぱり凄い人なのかな……)




「――さて、残る最後は小止オヤミさんですね…………こちらでは何をお作りに?」


「はいっ! 私は! 近年問題となっているフードロスの解決をテーマにした料理を作ります!」


「ほぅフードロス問題! この番組でも度々視聴者様からのお便りに書かれている内容ですね!」


「エスデージナビリティ(※Sugoku大事でぇじ能力アビリティの意)ですね~」


「はいっ! 特に昨今は、行事食――イベントで大量に生産された食品が売れ残る事例が、多数報告されています……今日は、そうした食品のリメイクで勝負したいと!」


「フードロス問題か……たまにニュースとかでやってる奴か」


「料理の世界に身を置く者なら、肝に銘じておくべき問題だ。最近では、ハロウィンで売れ残ったかぼちゃの期限を偽装して販売する、『パンプキン詐欺』も横行していると聞く――」


「なんて卑劣なんだ! ……でもさぁ兄ちゃん、作る量を減らせば余ることは絶対無いんだから、やっぱり製造者が自制すべきなんじゃないか?」


「正論だな。だが行事食は儲かるのだ。業績のためにこれを当てにする企業も多い。イベント事だから何となく買わなきゃならないと世間に流される消費者も、需要を読めず売れ残る程作る製造者も、等しく愚かである事が原因と言える」


「でも、もうちょっと供給を絞るとか……やりようは無いんでしょうか?」


「作り過ぎない事が廃棄を減らす事に通ずる――確かにそれも道理だ。だが人は、当然得られるものとばかり思っていた物が得られなかった時、激しい裏切りを感じるもの。そうして一度見限られてしまえば、二度とチャンスを得られない。機会損失、企業はそれを恐れる」


「結局、お金って事なんですね……」


「その通りだ。だがそれは、社会の基盤が貨幣である以上避けられない事だ。業績の悪化は株価の下落を招き、それは企業価値の喪失を意味する。企業には自社の社員を養う責任があるから、そうならないように努力しなければならないのだ」


「でも廃棄ばっかりなら儲けも減って……それじゃあ本末転倒じゃないか?!」


「その心配は無用だ。例えば、恵方巻はいつもの太巻きを三倍の値段で売っているだけなので、半分廃棄でもなお儲かる」


「えぇ……なら消費者が安易に飛びつかないようにするしか……」


「そうは言うがシローよ。どれも『大崩壊』以前から存在する、歴史ある行事だ。文化を大切にしなければ、先には衰退が待つのみ。現代を生きる我々には、継承する義務がある」


「兄ちゃん……」


「それに周りと同調しなければ、晴れて明日から変人扱いだ。バレンタインで失った信用を取り戻すにはおおよそ一年を要する――これは実体験から得た教訓だ」


「兄ちゃん……」




 そうした議論が繰り広げられる一方、オヤミは自身の作業を進めていた。

 彼女が冷蔵庫から取り出したのは白い箱。中に入っていたのは――


「これは……いちごケーキですか?」


 純白の中に真っ赤ないちごが映える、それはまさしく苺のホールケーキだ。


「はいっ! こちら、昨日作っておいたケーキです! 売れ残りのクリスマスケーキを想定し、これを新品同様のケーキに作り直しリメイクします!」


 高いリサイクル精神が形になったような提案をするオヤミがナイフを入れ、八分の一ほどの扇形にケーキを切り出す。


「まずはこれを、フープロで粉々にします!」


「「「え」」」


 オヤミはその言葉通り、先程切り分けたケーキをフードプロセッサーの中に入れると、スイッチを押した。

 たちまち粉砕されるケーキ! 潰れたいちごが透明な容器の内側にべっとりとこびりつく!


「余ったホイップクリームを足して、もう一度回します!」


 オヤミは八分の七となったホールケーキの側面のクリームをナイフで少量刮げ落とすと、混沌と化したフードプロセッサー内に放り込み、再びこれを混ぜた。

 見た目はもはや直視に耐えない様相だ。


「兄ちゃん、おいら、あれ食べたくない……」


「……」


「今の季節、色んな臭いが気になりますよね? それは暑いからなんです! 臭いは温度が高いほどよく拡散するんです……ので! これは冷凍しておきます!」


 ドロドロとした、さっきまでケーキだったものを容器に詰め替えたオヤミが、それを冷凍庫へと仕舞った。


「そ、そんな……そんなの、臭いを誤魔化してるだけじゃないか……許されるって言うのかよ?!」


「色や臭いを誤魔化して売る……フードロス対策の常套手段だ。スーパーの見切り品の肉が売れ残った場合、焼き肉のタレ等で隠し、翌日新品のように売るのだ」


「えぇッ?!」


「それすら売れ残った場合は、調理して惣菜や弁当として売るのだ」


「そんな裏事情、知りたくなかった……」


 この作品はフィクションです。実際の店舗の状況とは異なる場合がございます。


「ではその間に、生クリームをリクリームしましょう!」


「…………リクリーム?」


「はい! 生クリームは時間が経つと、水分が重力に引かれて分離してしまいます! なので、再度泡立てて復活させようと思います!」


 先程と同じ要領で、オヤミがホールに残った生クリームを刮げ落とし、ボウルへと集める。

 そしてホイッパーを素早く動かすと、クリームがかつての輝きを取り戻していく。


「お店だとこれを見越して緩めに仕込むんですが……」


「えっと、泡立ての加減ですが……レシピには『作り立てになるべく近づける』とありますね。これは本人の言いようで如何様にも解釈可能ですから、残念ながら減点できません」


 ルールの本質を見抜いた見事なレシピ作成能力!

 減点の嵩む他の料理人達に、ここで大きく差をつけるか。


 そうしてリクリーム工程が完了した後、冷やしていた元ケーキを取り出したオヤミは、それの形を整えた後に周囲にクリームを塗りたくった。


 純白に生まれ変わったケーキ。だが、まだこれで完成ではない。


「忘れちゃいけない最後の仕上げ……っと!」


 オヤミは銀色の球体が詰まった瓶からそれを何粒か取り出すと、ケーキの上に置いた。伝統的な胃腸薬だ。


「完成です! 大崩壊以前に一世を風靡したというファンタジー小説にあやかり、『1226ザ・ファーストビクティム』と名付けました。どうぞご賞味あれ!」


「ご賞味あれじゃないよ……どうせおいらの票には意味無いんだし、棄権させてもらおうかな……なあ兄ちゃん、どう思――――」


 食べる前から腹部をさするシローがムラサキの方を向く。

 が、そこにあるはずの彼の姿は忽然と消えていた。


「えっ?! 兄ちゃん??!! やばいぞいなり、兄ちゃんが消えた! ……おい聞いてるのか?! このままじゃおいら達だけがあれを食べることに――」


 そう声をかけられたいなりはしかし、微動だにしない。

 不審に思ったシローは席を立ち、肩を揺する。


「やばすぎて気絶してるのか? 起きろいなり――って」


 いなりの身体は木製のおもちゃのような音を立てて不自然に揺れた。


「人形??!!」


 そう、それは忍びの伝統的なエスケープ法、『変わり身の術』だ!

 自身に似せた等身大の人形を身代わりに、いなりまでもが姿を消していたのだ。


「えっ……嘘だろ」


「さあ試食と参りま――あれ? 皆さんどちらに?」


 ムラサキといなりの不在に、モデがようやく気付いた。


「えっと、その…………あ! お、おいらちょっと探してくるよ!」


 シローはこの場を去りたい一心で、そそくさと席を離れようとした。

 無論、このような死地へと戻るつもりなど毛頭ない。エスケープ一目散だ。


 そこにすかさず、セット脇からスタッフが飛び出してきた。


「駄目駄目ッ! もう時間無いんだから! 未成年は二十時以降仕事しちゃ駄目なの! わかる? 法律! もう君一人でいいからさァッ! やり通してもらわないとこっちも困るんだよッッ!」


「えぇ……」


 有無を言わさぬ業界人的勢いに圧された一般人シローは、再び審査員席に戻された。

 そこに鎮座するのは、見てくれだけはそれなりに整った純白のケーキ。


「さあ! 本日最後の試食となります!」


「うぅ……うっ……」


「どうぞどうぞ! さぁさぁさぁ!」


「ああ……あっ……あっ………………うぇ」


 消え入りそうな声に、何かを堪えるものが混じる。

 画面一杯に映し出される虹色の何か。

 そして映像はお蔵入りとなった。





第8話「裏切りの脱出」・了





――次回


城下町の第一階層に上がったおいら達は、そこでジロウというおじさんに出会った

このおじさん、僕にはミシュランの星は取れっこないって言うんだ

そんな事はない、絶対に取ってやる!

そこへまたまたヴィネガー・澤のバイトテロリストが現れた

も~、しつこい奴

次回、世紀末美食伝説ムラサキ『ふしぎアイテム 替え玉みっけ!』

はっきし言って、おいしかったらしいぜ!


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