夫婦の船

白川津 中々

◾️

新婚一年目の小松夫妻は結ばれるまで長い時間が掛かったためか、控え目に咲く花のような瑞々しさはなく、煮卵と薄く大判なチャーシューが入った豚骨ラーメンを彷彿とさせる大味な生活なのだった。



「あんたいつまで寝とるん。早く起きて準備せんと」


「んー」


旦那である小松太輔は嫁のツツジに生返事を返す。こういった時、太輔は大抵話を聞いていない。


「前の晩もよぉく飲んだみたいで。羨ましいわ」


「仲間内の酒じゃ。うるさく言うな」


「ま、いいです。それより早よ準備してくれん?」


「何の準備じゃ」


「何って、今日、一瞬に船に乗る約束したん、忘れとるん?」


船とは、二人の住む街にある運河を周回する屋形船の事である。ツツジが「乗った事がない」と言った際、太輔が「乗せちゃる」と言って約束したのがこの今日なのであった。


「あー……」


太輔はバツが悪そうに頭を掻いた。

これは何かある。

ツツジは恐らくそう直感し、眉間に皺を寄せた。


「なに、なにかあるの?」


「なにかっちゅーか、まぁその、すまん」


「なにが?」


「船は乗れん」


「え、なんでぇ?」


太輔の言葉に、ツツジの声は裏返った。


「そんな声を出すな」


「船乗れんて、なんでぇ?」


「金がない」


「どうしてぇ?」


「昨日、酒に使ったんじゃ」


「……はぁ?」



「はぁ?」の一言に、困惑、呆れ、怒り、そして呆れの感情が順にグラデーションされていた。

ツツジは、早くこの日が来いと焦がれていた。色のないカンバスに一日に一度一筆赤い線が引かれていき、日毎に花の絵ができあがっていくのを見るように、じっとカレンダーを見てはその日を待っていたのだ。それがこれである。

想像してほしい。普段素っ気ない旦那が自らのために約束を結んでくれた時の胸の高鳴りを。考えてほしい。その約束が「金がない」「酒に使った」と言われ反故にされた時の失望を。


「なんで……なんでそんな使ったの」


「男の酒じゃ。金も使う」


「ふざけてんの」


「おい、なんやその口の聞き方は、誰に言うとんじゃ」


「あんたに向かって言うとるんよ。だってふざけてるでしょ。あんたから言い出した約束やない。それを金がない、酒に使ったって……ふざけとるでしょ」


「だから、悪い言うとるやろ」


「なんでそんなに使ったのよ」


「それも言うたじゃろ」


「納得できん。ちゃんと言ってよ」


「……」


「ねぇ、言って」


「……」


太輔はツツジの剣幕に迫られ、昨晩の事を話した。彼が言うには、酒の席に集まったのは皆男性で太輔以外は独身。一人世帯のある太輔は大いに煽てられたという。


「羨ましかぁ!」


「幸せじゃろ!」


そんな言葉に乗せられた太輔は、「なら今日は全部俺が持っちゃる。果報者の施しじゃ」と酒代を全額負担したというわけである。飲み食い盛り、力仕事の男七人が飲み食いした代金は計り知れない。遊興に使える金など瞬間に吹き飛ぶ。


「……」


ツツジはずっと目を閉じ黙していた。沈黙に堪りかね、太輔が「おい」と言っても反応はない。だが、ただ口を閉じているというわけではない。時とともに、徐々に熱が上昇していくのが感じられる。そして何度目かの「おい」に、とうとうそれは爆破したのだった。


「誰と飲んどったん」


「なんじゃ、急に」


「誰と飲んどったって聞いとる」


「……寛ちゃん達だよ」


「なら、造船所の方々やね。分かった」


そう言うと、ツツジはゆっくりと玄関へ向って歩き出す。


「おい、どこ行くんじゃ」


「取り立ててくるんよ。そんで今日、あんたは私と船に乗る」


「おい、みっともない真似はしてくれるな。漢が一度出した金を……」


「ほいじゃ、一度した約束は破ってええんか、おぉ?」


「そうは言うとらんじゃろ。船はまた……」


「またっていつやの。あんたが私のために時間作ってくれた事なんか一回もなかった。そんな男の言葉信じられん。今日。今日行く。それは変わらん」


「ちょ、待たんかい」


言い合い、揉め合い。せっかくめかし込んだツツジの服が崩れていく。このままでは外出どころではなくなるというそんな時、玄関扉を叩く音が聞こえた。


「こんにちわ。太輔さんおるかい」


「誰じゃ」


「わしじゃ」


扉が開き現れたのは癖毛の大男だった。だらしのない身なりであるが端正な顔立のため着崩した服が不思議と様になっている男前である。


「寛ちゃん……」


彼の名は小山寛太郎。太輔の同僚である。


「おっと、これはお邪魔でしたかね」


「……何の用じゃ」


「いや、取り込み中のようやから要件だけお伝えいたしますけどもね。昨日、随分飲んだじゃろ。それで、みんな"あれはさすがにのぉ"っちゅう話になってなぁ。そんで、ほれ」


茶封筒を差し出す寛太郎に、太輔は眉をひそめた。


「なんじゃ、これは」


「金じゃあ。太輔さんの分を抜いた、昨日の酒代」


「舐めとるんかおんし。漢が一度出した金を……」


「あんた」


封筒を突き返そうとした太輔であったが、ツツジの低く重い言葉に、伸ばしかけた腕がぴたりと止まった。


「ほいじゃ、ご遊覧楽しんで」


「……寛ちゃん」


「なんじゃね」


「いつもの時計どうした」


いつもの時計とは、寛太郎が普段身に付けている腕時計である。舶来品の高級なもので、彼はちょっとした外出の際も逞しい左の腕に巻いていたのだった。


「つけ忘れて来たんじゃ」


「……そうかぁ」


それだけ交わすと、寛太郎は「ほいじゃ」と帰っていった。太輔は、一人の男の心意気に心の中で泣いているようだった。


「……おい」


一間置き、太輔はツツジに向かって呼びかけた。


「なんやの」


「船、乗りにいこか」


「……そうやね」


ツツジは乱れた服を着直し、太輔は一張羅を引っ張り出して、二人で部屋を出た。時間は昼前。太陽が登り切る前の、ほのかに暖かい時間。緑と花の香りが立ちこめる道中、多少のぎこちなさはあったが、二人の空気は淡く、普段よりも色めいていた。


とはいえ、ツツジは怒りを忘れているわけではない。



「……今度同じ事したら、許さんからね」


「……分かっとる」



夫婦の穏やかな生活は、妻の我慢によって成り立っている。

夫婦の船の行先は、女の舵と男の櫂で進んでいく……

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