神龍軒の気まぐれな注文

月見 夕

令嬢からの試験

 閑散とした店に黒電話のベルが鳴ったのは、十八時二十分のことだった。

 いつものように兄貴が怠そうに受話器を取り、二三語交わして電話を切る。

 兄貴はそのまま番台から腰を上げることなく、厨房の俺にひらひらと手を振った。

「龍之介、今日はオムライスだってよ」

「はぁ!?」

 聞き返すのと同時に、客席に置いてるちっせえテレビの野球中継がわっと歓声を上げる。どうやら打たれたらしい。クソ、タイミングが悪い。

「ベッドの上のご令嬢からの勅命だ。今日の気分はオムライスなんだと」

「作れるか! うちは中華屋だぞ!?」

 俺の抗議を無視し、兄貴は厨房へやってきた。油やら何やらでベタついた年季ものの冷蔵庫の扉を開けるや、中身をまさぐっている。

「あーあるよ、あるある。ケチャップはないけどトマトあるからこれで何とかしろ」

 兄貴は食べ頃の生トマトを投げて寄越し、にやりと笑う。またか。今日もまた俺はあの客の無茶振りを叶えてやらねばならないのか。

「作らねえからって他人事で言いやがって……」

「頑張れ三代目」

 できたら言えよ、とだけ言い残し、兄貴は番台へ戻って行く。追い討ちをかけるように味方の先発ピッチャーに交代が告げられ、俺は溜息を吐いた。



 中華屋・神龍軒は六十年続く老舗の人気町中華だ。だった。去年二代目オヤジが倒れるまでは。

 知らせを聞いた時は唖然とした。確かに俺は跡を継ぐために料理学校に進学したものの、まともな修行なんてやってない。秘伝のレシピはオヤジの頭の中にしかないのに、一文字も息子に伝えることなく逝っちまった。

 遺されたのは料理学校の卒業を間近に控えた俺と、バンドマンをやってた二つ上の兄貴だけだった。お袋はとっくの昔に出てったっきりだ。

 突然死したオヤジのせいで、俺たち兄弟は看板を背負うか路頭に迷うかどうかの岐路に立たされたのだ。

 想像してみてほしい。二十歳そこそこの料理が何となくできる奴と、顔だけは良くて歌える看板息子。地獄だろ。

 厨房は俺が取り仕切り、接客会計電話番配達掃除を兄貴が担うことになったのだが、当然うまくはいかなかった。

 いまや常連客にすら見捨てられ閑古鳥が鳴いている。「おやっさんへの恩返しに通い続けるから」とか言ってた連中は軒並み顔を見せなくなった。あまりの情のなさに涙も出ない。全員死んだのか? もはやそうであれ。


 そんな中、ここ一ヶ月ほどは同じ客から毎日配達の注文が入るようになった。

 電話は公衆電話からで、送り先はいつも同じだった。ここから車で十分ほどの総合病院だ。

 俺は電話に出ないし配達も行かないから知らないが、一番眺めのいい広い個室に住まうお姫様みたいな娘らしい。

 兄貴曰く相手が名前を名乗ったことはないそうだ。どこでどううちを知ったのかは知らないが、その子は病院食に飽きたとかで医者の目を盗んでは注文を言いつけてくる。

「まったく、あのお嬢様はうちが中華屋だっていつになったら分かってくれるんだ……」

「さてね。ほら、もうすぐ面会時間が終わるだろ。急いで持ってってやるからさっさと作ってくれよ」

「へーい……」

 兄貴の言う通り、時計を見れば十八時二十五分。面会は十九時までだから、遅くとも四十五分辺りに出られれば間に合う。

 つまり――あと二十分で、オムライスを作れと。ケチャップなしバターなし他にも色々なしの特大ハンデ付きで。

「……『言い訳はなし、味で語れ』ってか」

 肩にかけていた手拭いを頭に固く巻き、まな板の前に立った。

 それは生前、父がよく言っていた言葉だった。寡黙な父が唯一唱えるようにそう呟いていたのが懐かしい。料理人として操を立ててやっていく覚悟、とでも言うのだろうか。

 同じ厨房に立つ今なら分かる。人間だから作りたくない気分の時だってある。先代と比較されて落ち込む時もある。無茶な注文を受けて戸惑うことも。

 けれど、中華鍋は嘘を吐かない。油の染みた黒い半球は鏡のように目の前に立つ料理人を映す。ひとたび手を抜けば、できあがるひと皿はぼやけた味となってしまう。

 曲がりなりにも厨房の主を名乗るのなら、それだけは嫌だった。

「良いだろう、全身全霊でオムライス作ってやるよ」

 気合いを入れ直し、まな板の上のトマトと向き合う。

 中華包丁を手に取った俺は、もう迷わなかった。


 焼豚を冷蔵庫から招集し、サイコロ状に刻んで熱した鍋に投下する。じゅわ、と良い音を立てるそれに油を纏わせながら、追加招集した空芯菜とレタス、カニカマをまな板に並べた。空芯菜とカニカマは手早く刻み、同じ鍋の中へ。

 何度か中華鍋を振ると、赤茶緑の三色が鮮やかに舞った。そこへ隣の寸胴からラーメンのスープを少しすくい、そばにあったマー油と併せて目分量で投下する。鶏ガラベースの華やかな香りが弾けて鼻腔を刺激した。

 相手は入院中のお姫様だ。毎日の味気ない食事に退屈しているのだろうから、味だけじゃなく目で鼻で楽しませてやりたい。まだ見ぬ客の姿を想像しながら、気持ち小盛に盛った白ご飯を鍋に突っ込んだ。

 米がダマになる前に素早く具材と混ぜ合わせ、まな板に残るレタスを千切って投げ入れ、また鍋を振る。高火力のガス火に晒されて、米の一粒一粒が黄金色に輝いた。

 全体がパラパラになったところで塩胡椒で味を整え、鍋を振りながらお玉で受け止めて真っ白な皿にちゃっと盛った。

 色鮮やかな三色レタスチャーハンが完成した。が、注文はオムライスだ。肝となる卵とケチャップをどうするか。

 ご飯に巻き込むか、シンプルにご飯に乗っけるか。半熟スフレか、ある程度固焼きか。

 病人だしな、火はしっかり通していた方が良いかな――

 数秒の間に様々な思考が頭を飛び交う中、黒電話が再び鳴った。

「はーい神龍軒――ああはい、いま作ってますよ」

 受話器を抱えた兄貴に、嫌な予感がする。何だろう、注文内容の変更だろうか。

「はい……はい? 何、え、試験?」

 二、三度首を傾げながら通話を終えた兄貴は、受話器を置いてもやはり首を傾げていた。

「何つってた?」

「おう、何か「これは試験だ」とか何とか言ってたぞ」

「試験? 何だそれ」

 俺も眉を顰める。試験、と聞くと穏やかでない。何かを試そうとしているのだろうか。

 兄貴はたった今掛かってきた内容をそのまま口にする。

「今までにない華やかな感じで……卵はドレスドオムライスっぽくしてくれってさ」

「うちは中華屋だっつってんだろ!!」

 思わず冷蔵庫に正拳突きした。

 何がドレスドオムライスだ。うちは老舗中華屋だと何度言えば分かるんだ。天津飯でも食ってろ小娘が。そんなもん小洒落たカフェにでも行ってこい。

 しかしひとしきり叫んだところで、オムライスができ上がる訳ではない。注文はオムライス。オムライス。オムライス。


 弛みかけた心を奮い立たせる。課されたお題はこなすと決めたんだ。最後まで全うせねば。

 冷蔵庫から卵三つを取り出し、油を引き直した中華鍋へ。卵に火が通りきってしまう前に、水溶き片栗粉を混ぜ合わせる。互いが境界なく合わさったところで、さあ大詰めだ。

 鍋をゆらゆらと揺すると、黒い鍋の底に浮いた真ん丸のお月様が合わせて揺れた。縁が少し形をとっただけのトロトロの卵シートを箸で摘んだまま、鍋を持つ手をゆっくりと一周させる。

 するとどうだろう。平面でしかなかった卵が美しくドレープを纏い、中華鍋の真ん中に可愛らしい角を立てて鎮座したではないか。

 火が通り過ぎて固くなる前に取り上げ、チャーハンの上にふわりと乗せる。黄色いドレスはふるふると揺れた。

 仕上げにざくざくとサイコロカットにしたトマトを宝石のように散りばめて、完成。

「フレッシュトマトのドレスドオムライス……中華風か」

 いつの間にか厨房に入ってきていた兄貴が、何とかでき上がったひと皿を見て呟いた。見た目はこれ以上なく映えるオムライスだろう。カフェか何かで出てきそうだ。中身はほぼチャーハンだったとしても。

 兄貴は感心するように唸る。

「お前すげえな、間に合った」

「配達を終えてから言えよ、もう十八時四十八分だ」

十八時四十八分だ。飛ばすから見てろよ」

 そういうが早いか兄貴はオムライスを丁寧にラップがけし、おかもちに恭しく迎えたと思うと素早く店先に停めていた原付に飛び乗った。

 そして本当に目にも止まらぬスピードで爆進し、病院への坂道を登って行く。背中はすぐに見えなくなった。

 ひとり残された厨房で一息吐き、頭の手拭いを取る。

 静かな店内で客席のテレビがわっと歓声を上げた。二番手のピッチャーが打たれたところだった。良いところねえな、今日……。



 三十分もしないうちに、兄貴は帰ってきた。

「早かったな」

「おう、間に合ったよ。さすがに遅かったから皿は次回回収ってことで置いてきたけどな」

 兄貴は空っぽのおかもちを見せて笑う。すげえな、ギリギリ面会時間に間に合ったらしい。

 帰ってこなかった皿を想う。その次回もきっとすぐ来るんだろうな。次はどんな無茶ぶりを言いつけられるんだか……。

「ああ、そうそう」

 もらった代金をレジに入れながら、兄貴は思い出したように尻ポケットをまさぐった。

 ややあって差し出されたのは、折り畳まれた紙片だった。手紙、だろうか。

「お前に、ってよ」

「ええ……」

 何だろう、悪い予感しかしない。

 次の注文か、はたまた味へのクレームか。恐る恐る紙を開くと、

『合格』

 の二文字と目が合った。

 思わずきょとんとしてしまった俺に、兄貴は笑う。

「……お嬢、めちゃくちゃ喜んでたと思うぞ。良かったな」

 作っている最中に掛かってきた電話で言っていた「試験」とやらの結果のことだろう、と遅れて思い至る。

 それにしても合格、か……。評価するにももっと他に言葉があろうに。尊大な二文字に鼻持ちならない気持ちも込み上げる。

 まあいい。ひと皿に満足してもらえたのならそれで。

「さて腹減ったな。俺にもなんか作ってくれよ」

「何にするかな……野菜の残りカスで節約チャーハン作るか」

「またか……俺も小洒落たオムライス食いたい」

「うちは中華屋だっつってんだろ」

 冷蔵庫の中に何があったかな、と思案して客席のテレビを見上げると、ホームランを打たれた球場の空に綺麗な一番星が瞬いていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

神龍軒の気まぐれな注文 月見 夕 @tsukimi0518

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画