いつでもどこでも
増田朋美
いつでもどこでも
寒くなってきて、そろそろこたつが必要になるかなと思われる日であった。杉ちゃんとジョチさんは、お歳暮にするための菓子を買いに行くために、百貨店に行った。その帰りに、二人が店の前で小薗さんの迎えを待つために店から出ると、一人の女性が店の近くのバス停でバスを待っていた。彼女はジョチさんたちが店から出てくるとすぐに、
「あの、すみませんが、曽比奈へ行くバスはどれでしょうか?」
と声をかけてきた。
「ごめんなさい。バスの時刻表の見方が、よくわからなかったんです。」
「はいはい。曽比奈へ行きたいんですか?」
ジョチさんがそう言うと、
「そこじゃなくて、曽比奈行の途中にある、中野というところで降りたいんです。」
と、彼女は言った。
「はあわかりました。えーと今の時刻は2時15分です。そうなると、次のバスは、16時42分ですから、少なくとも2時間以上は待たなければなりません。中野へ行きたいのですか?」
ジョチさんはバス停に掲示されている時刻表を眺めながら言った。
「仕方ありませんね。二時間待つとしても私はそれしか移動手段が無いので、どこかカフェなどで時間を潰すことにします。」
と彼女は言うのであるが、
「いいえ、この近くではありませんから、もしよろしければ送って差し上げますよ。僕らの行き先は富士山エコトピアですから、曽比奈も近くです。」
ジョチさんはそう言って、スマートフォンを出して、小薗さんに電話をかけ始めた。
「大丈夫大丈夫。僕らは何も悪いやつじゃないし、その年でバスに乗ってお出かけするんじゃ、よほど訳アリと見える。だから僕らも手伝ってあげる。どうせ、僕も歩けないし、ジョチさんもちゃんと歩けるわけじゃないから。」
杉ちゃんは彼女の肩を叩いて、にこやかに言った。
「今小薗さんに連絡いたしました。中野バス停まで送ってくださるそうです。」
ジョチさんがそういったため、彼女を送ることは決定した。数分後に、小薗さんが、グレーのワゴン車に乗ってやってきた。ジョチさんはすぐ彼女を後部座席に乗せた。
「本当にありがとうございます。二時間待たなければならないと思っていましたが、助かりました。」
と、彼女は頭を下げる。
「大丈夫ですよ。雨でも降ったら困りますから、送って差し上げます。」
ジョチさんが言うと、
「ありがとうございます。着物を着ている人と車に乗るなんて、私びっくりです。」
女性はにこやかに言った。
「お前さんの名前はなんていうの?」
後部座席に車椅子ごと乗せてもらった杉ちゃんが言った。
「ああそうですね。名前を言わなければなりませんね。茂原と申します。茂原新子です。」
と女性は名前を名乗った。
「茂原新子さんですね。なにか、車を運転できない事情があるのですか?今は当たり前のように皆さん車に乗っていらっしゃるから、珍しいですね。と言っても、僕も杉ちゃんも、運転できないので、それで小薗さんにお願いしているんですよ。」
ジョチさんが言うと、
「ええ、あたし、癲癇を持っていまして、それで運転免許が取れなかったんです。」
と、新子さんは答えた。
「そうですか。確かに癲癇が原因で、大事故を起こした例もありますからね。それは賢明な判断だと思います。少なくとも、僕は、そう思いますよ。」
ジョチさんが言うと、
「そうですね。みんな車に乗れないと言うと、馬鹿にする人が多いですけど、もう仕方ないんですよね。車に乗って、いろんなところに行くことはできませんが、こうしてバスに乗って行くことはできるかと。」
新子さんは、にこやかに言った。
「じゃあ、癲癇の治療は受けていらっしゃるんですか?なにか薬を飲んでいらっしゃるとか?」
ジョチさんが言うと、
「ええ。つきに一度病院に行って、薬をもらっています。お陰で就労することはできなくなりましたが、こうして、出かけられるだけでも幸せなのかなと思わないと。」
新子さんはにこやかに言った。
「そうですか。でも就労することが全てではありません。働けなくても、仕方ないと諦めなければならない人はいっぱいいますから、気にしないで大丈夫です。」
ジョチさんがそう言うと、
「そうそう。それに癲癇だって、ちゃんと薬飲んでれば、問題を起こすことは無いだろう。僕が飼ってるフェレットの輝彦も癲癇を持ってるけど、餌に薬を混ぜて毎日あげてるよ。発作がおきたら、水穂さんが、抱っこして慰めてるよ。」
と、杉ちゃんはカラカラと笑った。ジョチさんは、今ごろ水穂さん、くしゃみをする代わりに偉く咳き込んでいるでしょうねといった。
「ありがとうございます。そんなこと言っていただけるなんて、夢のようです。」
新子さんがそう言うと、
「でも、家に閉じこもってご家族しか話し相手が無いと言うのは、ちょっと困りものです。なにか他人と話をするきっかけがあるといいですね。それなら、なにか習い事をしてみたらどうでしょう?何でもいいんですよ。ピアノでもよし、合唱団に入るのもよし。あるいは、生け花とか茶道と言った女性らしい習い事をしてみるのも良いです。伝統の世界は若い担い手を切実に望んでいると思いますから、歓迎してくださるのではないですか?」
ジョチさんはそう提案した。
「今更私が始めても。それに私は、癲癇があるから、習い事は無理なのではないかと思っていましたが。」
と、新子さんは言うが、
「でも外に出なければ、きっかけは掴めない。人に合わないで家に閉じこもってしまったら、もったいない。生徒を切実に欲しがっている社中はいっぱいあると思うよ。だから、癲癇に理解がある社中を見つけて、そこへ入れてもらえ。」
と、杉ちゃんが言ったので、新子さんはそうですねと言った。
「考えてみます。」
そう彼女が言うと同時に、
「はい、中野のバス停につきました。」
と小薗さんが、その前で車を止めた。確かに中野と書かれているバス停があった。
「ありがとうございます。本当に助かりました。」
と彼女はとてもうれしそうな顔をして車を降りていった。
それから数日後のことであった。杉ちゃんたちが、製鉄所で水穂さんの世話をしたりしながら、いつもと変わらず生活していると、
「こんにちは。」
と、着物を着た女性が製鉄所を尋ねてきた。
「あのすみません。こないだ、こちらの方の車に乗せていただきました、茂原新子です。」
「茂原新子さん。どちらの方ですか?」
応答した水穂さんがそう言うと、
「おうおう、茂原さんね。中野に住んているとか言う。」
と、杉ちゃんが応じた。
「ええそうです。その茂原です。」
新子さんはにこやかに言った。
「そうなんだ、上がれ上がれ。ちょうど三時のおやつの時間だし、みんなで追分羊かんがあるからそれ食べよう。」
杉ちゃんに言われて、新子さんは、お邪魔しますと言って製鉄所に入った。
「こちらまでは、どうやって来たんですか?」
水穂さんが聞くと、
「ええ。吉原中央駅で富士山エコトピア行のバスを見つけたんです。それに乗れば来られるかなと思って。」
と新子さんはにこやかに答えた。
「そうですか。ありがとうございます。それで、なぜ着物をお召になっているのですか?」
水穂さんがまた聞くと、
「はい。実は、あのとき、車の中でお二人がなにか習い事をするようにおっしゃったでしょう。だから私は、着物の着付けを習うことにしました。あ、でも安心してください。無理矢理着物を買わされるようなことはありませんから。いま着ている着物はネット通販で買ったんです。」
と、新子さんは言った。
「そうかあ。お前さんは明るくなったねえ。やっぱり外の空気吸うと、楽しいものだろう。そうやって、世界が明るくなるように、していくのが人間の勤めなんだよ。」
杉ちゃんに言われて、新子さんはそうですねと言った。彼女の前に、美味しそうな追分羊かんのお皿が置かれた。
「どうぞ食べてください。静岡の名物である追分羊かんです。」
水穂さんに言われて、新子さんは追分羊かんを食べた。甘さの少ない、名物と言える羊羹だった。
「ありがとうございます。とても美味しいです。」
「でも着付け教室に通い出したのはすごいねえ。なにか理由でもあったのか?」
「ええ。生け花とか茶道はちょっと敷居が高かったので、それなら、気軽に習える着付け教室に行ってみようかと。」
「へえ、どこの教室かな?」
杉ちゃんという人は、すぐに何でも聞いてしまう癖があった。余計なことまで聞いてしまうのである。
「ええ。越村着物着付け教室というところです。着物は手持ちのものでいいし、教えてくれる先生も優しいし、何でも、販売会やそういうものは無いし。」
新子さんはすぐに答えた。
「聞いたこと無いなあ。僕和裁屋だから着付け教室のことはよく聞くんだけど、越村着物着付け教室は聞いたこと無い。」
「僕も聞いたことありませんね。」
杉ちゃんがそう言うと、水穂さんが言った。
「まだ発足したばかりの着付け教室なのかな?ちなみに月謝は?」
杉ちゃんがそう言うと、
「ええ一回3000円で大丈夫なんです。」
と、新子さんは答えた。
「へえ、そういうところは必ずなにかからくりがあって、なんか特殊な部品、コーリンベルトとか、そういうものを無理矢理買わされるということが多いのだが、それに引っかかって泣き寝入りをしないように、十分気をつけるんだな。ほんと、着付け教室の苦情って多いから。気を付けて勉強してくださいよ。」
確かに着付け教室の現状は杉ちゃんの言うとおりであった。水穂さんが彼をなだめるように、
「せっかく楽しみを作ってくれたんだもの。余計なこと言わないことにしよう、杉ちゃん。」
と言ってくれたので、それ以上追求されることはなかったのだが。でも、着物というものはとても楽しいものであるけれど、それを守ろうとする人の間には、非常に難しいものがあると言うことも忘れてはならない。
それからまた何日かたって、杉ちゃんたちが、製鉄所のテレビを付けるとちょうどニュースをやっていて、くたびれた顔のニュースキャスターが原稿を読み上げていた。
「今日午前9時頃、富士市中島にあります、越村着物着付け教室の学園長をしている越村弥生さんが、自宅内で遺体となって発見されました。レッスン会場に現れなかったことから、生徒さんが自宅へ迎えに行ったところ、越村さんは遺体となって発見されたということです。死因は毒物による中毒死で、警察では、越村さんの人間関係などを中心に捜査を進めています。」
驚いた杉ちゃんは、心配になって、茂原新子さんのスマートフォンに電話をかけた。その前に来訪したとき、電話番号を聞いておいたので、電話をかけることができたのである。
「お前さんの着付け教室が、大変になっているみたいだけど。」
「そうなんです。あたしもびっくりしました。何で、弥生先生が亡くなられたのか、検討がつきません。」
新子さんも戸惑っているようである。
「なにか脳梗塞や、脳腫瘍でもあったんか?」
杉ちゃんが聞くと、
「いえそれはありません。だって、昨日まで元気にレッスンをやってたんですよ。」
と新子さんは答えた。
「なんかニュースで、毒物でなくなったと言ってたけど、なにか恨まれるようなことがあったか?」
杉ちゃんはすぐ聞いた。
「いえ、少なくともあたしにしてみれば、着物を着ることができるようになったわけですから、とてもいい先生だったと思います。それなのに何で。」
「よしわかった。泣いちゃいかん。とにかく、一緒にお悔やみに行こう。」
杉ちゃんはそう言って、すぐに水穂さんにお願いしてタクシーを一台手配してもらった。そして吉原中央駅で新子さんと会い、そのまま越村弥生先生の家に向かった。
「へえ。着付け教室をやっているやつの家にしては随分小さいな。」
確かにその通りなのだ。着付け教室しては小さすぎる家だった。
「ええ、家では場所がないからって、公民館とか借りてやってました。」
新子さんはそう杉ちゃんに言う。
「よし。入らせてもらおう。」
杉ちゃんはそう言って、玄関のドアを叩いた。
「すみません、僕、和裁屋やってる影山杉三といいます。失礼ですが、越村弥生さんが亡くなられたということで、お悔やみに来ました。」
杉ちゃんはでかい声でそう言うと、家政婦さんだろうか、エプロン姿の女性がそれに応じた。今は応じられないと最初に言われたが、杉ちゃんが歩けないのにわざわざきたんだというと、部屋の中へ通してくれた。
「もういっぱい弔問客が来て足の踏み場が無いくらいだろうな?」
杉ちゃんがそう言うと、
「いえ、それほどでも無いんです。」
と家政婦さんは言った。そして、杉ちゃんと、新子さんを居間へ案内した。今の中央に祭壇が飾られていて、そこに結構美しい顔つきの中年女性が微笑んでいる写真があった。まだ、その写真から判断すると、50には行っていない顔ぶりだった。
「どうもすみませんね。和裁屋の影山といいます。彼女は、弥生先生のお弟子さんで、茂原新子さん。今日は、弥生先生にお線香を差し上げたくて。」
杉ちゃんがそう言うと、一人の痩せた男性が、お願いしますといった。家政婦さんが、弥生先生の婚約者の三谷さんと説明する。杉ちゃんたちは、しっかりお線香を奉納して、けいを鳴らした。
「ありがとうございました。」
と、三谷さんが言った。
「いえ、大丈夫です。本当に突然の訃報で驚いてしまいました。あたしのことを、ここまで着物が着られるようにしてくださった先生でしたのに。」
新子さんがそう言うと、
「そうだったんですね。始めは、弥生の趣味の延長線だろうと思っていたんですが、本当に着物が好きで学びたい方がいらっしゃったとは。僕も気が付きませんでした。弥生は、最後まで喜んでいたと思います。こちらこそ、ありがとうございました。」
と三谷さんという男性が、新子さんに言った。
「じゃあ、姉がしていたことを、支持している人が本当にいたってこと?」
三谷さんの隣に座っていた女性が、そんなことを言った。ということは、弥生先生の妹さんだろう。
「ええ。あたしは、公民館で弥生先生に着付けを教えてもらって、着物が着られるようになったんです。」
新子さんは正直に答えると、
「そうなの!姉のしている着付けなんて、あんな古いやり方で着物が着られるわけがないって、あたしはずっと思ってたのに!」
と、妹さんは言った。
「それどういうことだ?」
杉ちゃんがすぐに口を挟む。杉ちゃんという人は、すぐに話しを進めてしまう悪い癖があった。
「なにか理由があるんだろ?つっかえてること話しちまえよ。なにか理由があって、弥生先生に反発していたんだろう?」
「理由なんてそんな簡単なものじゃないわ!」
妹さんはそう強く言った。三谷さんが、宮子さんそんな感情的にならないほうがといったが、宮子さんの方は止まらなかったらしい。続けてまくし立ててしまった。
「あの女は、昔ながらの古い着付け方法でやるのよ。今どき、紐2本で着続けられるなんて、通用しないでしょ。それよりも、苦しくないとか、長時間歩いても大丈夫とか、そういうことで着付け教室は成り立つはずなのにあの女ときたら、古臭いやり方で生徒さんを募って、腹が立つったら無いわ!」
「そうですが、私はその2本の紐で、着付けをすることができるようになったことで、着物が着られるようになったんです。だから、私、先生に感謝してる。なのにそれを古臭いと言うのですか!」
宮子さんに負けないくらい新子さんも、強く言った。
「ちょっと、ここで女同士の喧嘩をしたらまずいのでは?」
三谷さんが二人の間に入って止めようとしたが、
「止めるな止めるな。今日は、こういうときだからこそ、新子さんに言わせろ言わせろ。」
と杉ちゃんが言ったので、新子さんは話を続けた。
「あたしは、着付けを習うまでは、癲癇の持病があって、働くことだってできないし、外に出ることもほとんどできませんでした。車に乗って好きなところへ行くこともできなかった。人に言わせれば、すぐに親に苦労をさせないで早く家を出ろとか、そういう心無い一言しか言われないで、とてもつらい日々だった。でも、弥生先生の着付けのレッスンのお陰で、そういうウジウジしている自分とはまた違う自分を見つけることができたんです。着物を着ているときは、そんなふうにつらい思いをしている自分はいません。古臭い着付けとか、効率が悪いとか、そう言ってますけど、私は、その着付けのお陰で、明るくなることができたんです!それをもぎ取ってしまうと言うのですか?」
誰も言う言葉はなかった。宮子さんは、私の負けだと言う顔をしているし、婚約者の三谷さんだって、弥生さんがここまで社会貢献したとは思えない顔をしている。
「そうですか。弥生も、少しは人の役に立つことができたということですかね。」
三谷さんが、そっと口を開いた。
「でも姉のしていることは、古臭いことで。」
宮子さんはそう言っているが、
「いや、今回はお前さんの負け。人一人動かすことほど、難しいことはないよ。」
と、杉ちゃんに言われて、宮子さんは悔しそうに
「そうね!」
とだけ言った。
「あたし、そういうことなら、自首するわ。姉のことを、着付け教室やるのに邪魔だから消してしまえと思った私が馬鹿だった。」
「そうだね。お前さんが間違ってた。」
杉ちゃんに言われて宮子さんは、
「でも癲癇を持っていて、一般社会では働けなかった姉が、どうしてこういうふうに弟子を持てたのかしら?」
と思わず言ってしまう。
「だから、それはきっとなにか繋がるものがあったんじゃない?だってこいつも、おんなじように癲癇を持っているもん。」
何でもペラペラと喋ってしまう杉ちゃんも、こういうときは役にたつのかもしれなかった。
「そうですか。きっと、弥生と、あなたに、通じるものがあったんですね。それがあるってことを、僕らは気がついてあげられなかったんだ。そうすれば、もっと、弥生も、あなたも生きていかれるのかもしれなかった。」
三谷さんが申し訳無さそうに言った。しばらく、小さな家は水を打ったように静かだった。弥生さんが写真の中で微笑んでいるだけだった。
いつでもどこでも 増田朋美 @masubuchi4996
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