拝啓、満。

@YAMAYAMA7538315

全5章

 「死にたい。」

 自身の生き様を真っ向から否定するこの言葉が口癖になったのはいつからだろうか。気がつけば、呼吸をするように「死にたい」と口走っていた。

 恐らくこの世で人間だけだろう。自死を選択できる生き物、そして自殺願望を抱くことのできる生き物は。

 しかし、その権利は決して祝福された者ではない。世間では「生きろ」や「死ぬな」などと安っぽい言葉で自殺が否定されている。

 そんな奴らは無責任この上ない。そんな言葉を苦しむ者にかけるよりも、実際に助けるくらいはしてほしいものだ。

 そんな叶うはずの願望を心に抱きながら、俺は目の前に広げていた大量の錠剤を口にした。


 「荒井さん。荒井満さん。聞こえますか?」

 意識が朦朧とする。視界にぼんやり靄がかかりと、男性が呼びかける声がかすかに聞こえる。

 「患者は二十代前半男性。自宅で睡眠薬を大量に服用して意識を失っていたところを患者の母親が発見しただいま搬送中です。受け入れ可能ですか?」

 段々と頭がはっきりしてきた。どうやら救急車の中だろうか。確かオーバードーズで死のうとして…。

 「ありがとうございます。あ、荒井さん意識戻りました。これから近くの××病院まで搬送します。よろしいですか?」

 小さく頷く。

 「了解です。出発して!」

 救急車のサイレンが頭に響く。動き出したみたいだ。

 「満…。」

 顔を僅かに左に向けると、瞳に涙を浮かべながら祈る母の姿があった。

 薬の過剰摂取で死にかけた息子を前にして、彼女は何に祈っているのだろうか。そんな母が哀れだと感じてしまった。

 しばらくすると救急隊員が言及していた病院に到着し、治療が始まった。治療というか、行われたことは胃の洗浄だけだったが。

 治療も終わり、次に目が覚めたのはベッドの上だった。そばには母と、医者の顔があった。

 「荒井さん、あなた自分が何をしたか分かっていますか?」

 僕は黙って目を閉じる。母が泣いていたのが聴覚だけで感じられた。

 「睡眠薬の過剰摂取(オーバードーズ)。今回はお母さんの通報が早かったことが功を奏して、大事には至りませんでしたが、こんなことは二度としないでください。」

 …。

 「一応大事をとってしばらく入院しましょう。お母さんもそれで構いませんね。」

 とんとん拍子で入院の手続きが済み、俺だけが病室へと案内された。

 母は諸々の書類に手をつけなければならなかったので、病室に入る前に別れた。

 「少し疲れたな。」

 自分のせいとはいえ、方々に振り回され疲労を感じていたので、少し眠ることにした。


 「新入り?」

 同じ病室の富士翔太と初めて言葉を交わしたのは、それからしばらくしてからのことだった。

 新しく入院した患者に対して新入りと聞くだなんて、こいつの倫理観はどうなっているのだろう、それが彼に対する第一印象だった。

 「新入りって、僕のことか?」

 「他にいないだろ。噂は聞いているよ。自殺未遂して死にかけたやつが来るって。」

 噂に聞いている?

 患者の入院理由が他の患者に知れ渡っているとは。この病院のプライバシーの管理はどうなっているのだろう。隣のこいつの件も含め、ここで入院すること少し嫌になってきた。

 「で、どうだった? 死にかけてみて。」

 「なんなんだお前。初対面の相手にそんなこと普通聞かないだろう。百歩譲って聞くにしても、自殺に至った理由とかそういうことじゃないのか?」

 「病室で初めて会って話すことなんて限られているだろう。それに…。」

 翔太は一息置いて続けた。

 「僕はあんたのことをよく知らないから、自殺の理由を聞いてもあんたのことを肯定したり、慰めたりできない。」

 その通りだった。知り合って間もない赤の他人に自殺の理由を聞かれても「辛かったね」や「落ち着けば死ぬ気なんてなくなるよ」と同情されるのがオチだろう。

 「…最悪だったよ。すぐに死ねる訳じゃないし、胃の中がグルグルして、気持ち悪い感じかした。」

 「そう、やっぱ薬じゃ死ねないか。」

 と、翔太はまるで自殺に精通しているかのように呟いた。

 「なんだよ、お前も自殺未遂で入院?」

 「そんな訳ないだろ。僕はちょっと重めの病気で入院中だよ。あんたと一緒にすんな。」

 翔太の相変わらずの失礼な口調に少し苛立ちを覚えつつも、自身の不適切な発言を謝罪した。

 「いや、気にしなくていい。ずっと入院していてな。友人はもちろん、家族とも関わることがなかったんだ。それでちょっとばかり高揚しちまった。」

 「家族とも?」

 「忙しいんだって。結構大きい企業の役員をやっているから、重病を患っている僕の見舞いに来る暇すらないらしい。」

 そうだったのか。

 大きい病を抱えている上に、誰にも心配されない翔太を哀れに感じた。

 それと同時に…。

 それと同時に、心配してくれた家族がいたというのに、自殺という選択を選ぼうとした自分自身のことを、翔太以上に哀れだと、可哀想だと思ってしまった。

「そんな悲しい顔をするなよ。慣れてるしな。それに、今日からしばらくはあんたがいるだろ。そうだ。仲良くなった記念にいいこと教えてやる。」

 どうやら翔太はもう僕と仲良くなったつもりらしい。

 「ここの病院のナース、全員とびっきり美人だぞ。」

 彼は得意げに笑みを浮かべながら、耳元で囁いた。

 どうやらジョークはあまり面白くないらしい。


 「何書いてるんだ?」

 黙々と筆を進める翔太をしばらく眺めた後に、僕は問いかけた。

 「僕の生きてきた証、かな。病気がいつ治るのかもわからないし、こういう自伝、というか日記みたいなものを残そうと思ってね。」

 そう言うと翔太はまた机上に向かい、文字を書き始めた。

 「悲観的だな。」

 「悲観じゃない。むしろ未来への希望だよ。将来これを読んだ人が、希望を持ってきていけるかもしれないし。」

 「希望ね。」

 僕は死にかけたあの晩のことを思い返す。

 「あんたもここにきて何日か経つが、どうだ。心変わりした?」

 翔太は手を止めることなく僕に聞いた。

 心変わりか。

 僕はあれから自身の価値、そして生きる意味について考えていた。

 …。

 元々僕は、周りの人間とあまり馴染める方ではなかった。

 これと言った趣味や特徴もなく、何をするにもうまくいくことがなかった。そして、失敗する度に誰かに怒られる。そんな人生だった。

 お前は駄目人間だ。なぜこんなこともできないんだ。少しも集中できないんだな。

 駄目駄目駄目駄目駄目。

 そうやって否定され続けて、今まで生きてきた。

 そんな空虚な人生が、僕に自殺という愚かな選択をとらせた。そうして、僕は僕の母さんをひどく悲しませた。それについては後悔している。だが。

 だが僕は、そこまでの愚行と後悔を経験してもなお、未だに自身の人生に価値を見出せず、生きる意味がわからなかった。

 「なあ翔太、人間が生きる意味ってなんだ?」

 と僕は翔太に問うた。それで特に何かが変わることを期待はしていなかったが、僕はまるで淡い希望に縋るように聞いてしまった。聞かずにはいられなかった。

 その時の僕は、この質問を翔太にぶつけることが大変失礼であることに気が付かなかった。翔太はいま、間違いなく僕よりも辛い立場にあるはずである。治るかわからない病を抱え、それを心配する人も少ない。

 そんな翔太に生きる意味を聞くことが、彼を傷つけるかもしれないという気遣いが今の僕にはできなかった。

 しかし翔太は、憂慮と焦燥を描いた僕の表情を機に留めることもなく答えた。

 「なんだ、そんなことで悩んでいたのか。」

 僕の悩みをあっさりそんなことと言った。そして翔太は衝撃的な発言を続けた。

 「人間一人ひとりに生きる意味はないよ。」

 思わず耳を疑った。生きる意味がない?

 どういう意味なのか、短い時間の中で幾度となく思考を巡らせたが、僕には理解できなかった。

 実際に生きる意味がなかったら、僕が悩んでいた時間は何だったのだろう。僕が自殺を悔いていた時間は何だったのだろう。

 不安げな表情を浮かべる僕に、翔太は僕を宥めながら、まるで言い訳をするように少し焦りながら言った。

 「ああ、いや、生きる意味はないと言ったが、生きる意味が存在しない訳じゃないよ。」

 俺はますます訳がわからなかった。

 「これは僕の持論だけどな、人間個々人は生きる意味を持たない。だが人間が他者と関わることで初めて生きる意味ができるんだよ。あんたは今日まで誰と関わってきた?」

 翔太の少し哲学的な話に耳を傾けつつ、俺は今までの人生を振り返る。

 今まで面倒を見てくれた母親、学生時代の友人、入院してから絶えず治療を続けてくれた医師や看護師…。

 決して多くはないが、今日に至るまで俺は様々な人と関わってきた頃を思い出し、翔太の方を見た。

 「ちゃんといたみたいだな。」

 翔太は安堵の表情を浮かべた。

 「それがあんたの生きる意味だよ。もしあんたが独りだったら、生きる意味はなかったかもしれない。だが、あんたは孤独じゃない。独りじゃないんだよ。誰かと関わって生きているんだ。その関わりこそがあんたの生きる意味になるんだよ。」

 正直いきなり飲み込めるような理論ではなかったが、普段冗談ばかり言う翔太がやけに真剣に語るものなのでその圧に押されてしまった。

 それに入院した結果こうやって翔太に出会い、生きる意味という難題の答えの一つを提示してもらった。それには意味があると思う。

 退院したら翔太が言うようにマインドを変えてみてもいいと思った。

 今まで関わってきた人たち、そして俺に生きる意味を教えてくれた翔太のために生きてみるのも悪くないだろう。

 俺は彼がくれた答えのおかげで、少しは前を向けそうな気がした。生きていけると思った。

 退院しても翔太のお見舞いに来よう。彼には色々世話になったし、迷惑もかけた。感謝しなければ。

 今度好きな食べ物でも聞こうか。

 翔太のおかげで、胸の中が希望に溢れていく気がした。

 そして、翔太が病院の屋上から飛び降りたのは、その晩のことだった。


『拝啓、満。

 君がこの手紙を読んでいる頃、僕はこの病院にはいないでしょう。などというありがちな始まり方をするのは大変つまらないと思うので、さっさと本題に入りたいと思う。

 僕は重たい病気を患っている。それは先天的なもので、僕にはあまりよく分からないのだが、それはそれは重たく、治る確率もほぼないということらしい。

 生まれた時から学校に行くこともできず、毎日決められた時間に副作用の重い薬を飲むだけ。そんな日々の中で唯一の楽しみが、同じ病室に来る患者達とはなすことだった。彼らと話している時間だけは、自身が重病を抱えながら薬の副作用に苦しむ者であることを忘れられた。

 だが、そんな時間もすぐに終わってしまった。

 どれだけたくさんの患者が入院してきても、僕ほどの重病を患っているものはそういない。

 たくさんの人が入院してきても、いずれは退院して僕の元から去っていく。そうして、僕はやはり、他の人たちとは違うのだと嫌でも自覚させられた。

 そんな時、あんたがやってきた。

 自殺未遂で入院。

 そんなやつはあんたが初めてだった。

 興味が湧いたんだ。僕はこんなに苦しんでいるのに、僕よりも幸福な人生を歩んでいるであろう人間が自死を選んでいる。

 ある種、嫉妬のような感情をあんたに会う前に抱いていたのかもしれない。とにかく僕はあんたに一言、言ってやろうと思ったんだ。

 だがあんたは、文字通り死んだような顔をしていた。

 そんなあんたを哀れだと、可哀想だと思った。だから僕はあんたが前を向けるように少しでも役立てるよう、色々手助けしたんだ。

 ここまで読んで、なんで僕があんたと同じように自殺を選んだか、おそらくわからないだろう。

 僕も色々限界だった。

 いつ治るかも分からない病気に苦しい薬の副作用。

 正直少し前から自分のことはもう諦めていたんだ。

 そうやって自分の未来を迷っていた時、あんたの役に立てた。最期に人の役に立てたことが嬉しかった。

 僕の分まで生きてくれ、なんて言ったらあんたは怒るだろうか。

 でも生きてほしい。僕の分まで生きて生きて生きて生きて生き抜いて、僕の言ったことが正しかったって証明してくれ。

 最後に、ここまであんたに迷惑をかけたことを謝罪する。

 あばよ、ともだち。

 翔太』


 自分の心が怒りに満ちていくのがわかった。

 翔太はなんて自分勝手なやつなのだろう。

 僕は一瞬、翔太の遺書とも言えるであろう手紙をビリビリに破いてやろうと思ったが、彼の最後の思いに傷をつけることは翔太の存在自体を否定してしまうのではないかと思い、すんでのところでやめた。

 …。

 そう、翔太は自分勝手なやつだ。だが責任感のあったやつだと言えた。

 自分の命をかけて俺に生きろと言った。

 それは今までに言われてきた無責任で軽薄なセリフではなく、文字通り自身の命の重さがかかった生きろだった。

 実際、翔太の手紙を涙ぐみながら握りしめる俺の心の中には死にたいという気持ちはなかった。

 俺は屋上へと駆けて行った。

 「翔太!」

 声高に叫ぶ。

 「お前に言われた通り、生きてやる。でもそれはお前の考えが正しいってことを証明するためじゃない。見返すためだ。どれだけ苦しくても、生きているやつが偉いんだって、幸せになれるんだって事を証明するためだ。お前が命をかけたように、俺も一生をかけて証明してやる。だからそこで瞬きせずに見とけよ!」

 俺はそこにいるかも分からない翔太に叫び続けた。

 先ほどから握り続け、ぐちゃぐちゃになった翔太の手紙を僕は慎重にポケットにしまった。

 俺はもう死にたいだなんて甘えたことは言わない。

 そう翔太に誓い、僕は階段を下っていった。


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