第3話
「……その、しつこいと思ったかもだけど急に呼び出してごめん、来てくれてありがと」
昼時の賑わいを見せる店内で、緊張した彼女の声は消えいるようだった。半個室になった席で、飲み物だけ頼んで向かい合っている。持ちかけられる話題は分かっていたけれど、自ら話し始めるのは苦しかった。
「この前、あたし、告ったじゃんか。そのとき、枯久くんアンタが好きになってるのは俺じゃないって言ったじゃん。言われたときは悲しくて分かんなかったけど、その、俺じゃないってどういうこと?」
地雷、ということは分かっているんだろう。そうっと伺うようなゆっくりした声で彼女が訊ねてくる。
「その、言いたくない話だったらいいよ。私は、まだ一応フられてないのかなって確認しに来ただけみたいなもんだし」
「……うん」
答えるか、傷を抉らないよう流すか。幸道も決めかねていた。ただでさえ、人格に影響するような大きな傷だ。中々癒えなくとも、今までそんなものないふりをして何も考えずにいるのが一番楽だった。整理して乗り越えようとするのも、彼とは違う選択肢を取ろうとするのも、その感情や記憶と正面切って向かい合って良い結果になったことなんて一度もなかった。
けれど、幸道はもう傷つくことに疲れた。
「……じゃあ、前、好きな人が結婚してるって言ったじゃん」
「うん」
彼女が神妙な顔でこくんと頷く。
「その人がもうめっちゃかっこよくてさぁ」
数年分の鬱積か、話し始めれば止まらなくて、幼少期のことから順番に、
「兄貴より俺のこと構ってくれて、すげぇ優しくて」
のろけ、
「芥さんってケンカすげぇするんだけど、芥さんだけ討論みたいに言ってることに筋が通っててかっこよくてさー」
のろけて、
「顔も昔から良いし」
のろけた。
「で、憧れた俺は芥さんの考え方とか、癖とか、異性の好みその他諸々まで真似した。もう自分と同じになるまで真似して、今ではそのせいで昼飯考えるのでも傷抉られるんだけどね」
「ま、毎日じゃん」
「そう、でも何も考えずに芥さんのまんまでいると日紀さん……あ、奥さんのことね。のこと思いだしたりとか、昔の自分のまんまでいられるから、普段はそうしてる」
日紀さんも綺麗な人でさあ、とそこまでは楽しく話せた。
「子どもっぽい言動多くて単純なんだけど、本当はすげぇ頭良くて、ていうか医者だし、すげぇ強くてかっこいい女の人なんだよ。二人とも頭良いし、めちゃくちゃ良い夫婦でしょ?」
彼女が幸道のテンションとは裏腹に、心配げに眉を下げる。
「うん……二人とも良い人そう」
「だろ? おかげで寝取る余地ゼロそうで死ぬほど悲しいんだけどさ。大好きな二人だよ。俺と芥さんが兄弟だったらよかったのになぁ」
心臓が重くて、幸道はゆっくりと深呼吸した。
「にいちゃん、つってねえちゃん、って呼べるのが一番幸せなんだけど、まあ今だって弟分扱いだし呼んでもニヤニヤされるだけなんだろうけど。つか途中でもう本題終わってたな」
はは、と一人で笑う。自分は芥のコピーだから君が好きになっているのは俺の好きな人だ、という説明だけでよかったのに、思わず楽しくなって日紀の話まで始めてしまった。
「ううん、好きなだけ話しても良いよ?」
「いや、いいや。後は失恋が忘れられなくて辛いっていう話しかないから」
聞いてくれてありがとう、と彼女に礼を言う。
「ここまで来ると自分ではどうにもできないんだよね。好きだなって思うと幸せだし、俺は芥さんと別の道を歩みたいって気持ちも、ないんだからさ」
「……、…………枯久くん」
私はね、と心底迷った表情を浮かべながら有難がゆっくり瞳を持ち上げ、幸道と目を合わせる。
「その芥さんと、枯久くんがどれぐらい似てるのかは知らないし、あたしが思った以上に枯久くんの中で芥さんは大きいのかもしれないけど、私にとってその人と枯久くんは違う人だよ? その人の真似をして私を助けてくれて、私を正義だって言ってくれたんだとしても、私は芥さんに助けられたとは思わないし、アンタが好きになってるのは俺じゃないって言われても、ああそうなんだとは思えない。これって当たり前の話だよね? だってあたし、芥さんのこと知らないもん」
幸道は反論したかったが、正しいのは有難だ、納得がいかないながらも渋々頷いた。けれど、こちらは仕草まで同じなのだ。自分の歩き方にすら傷つくのだ。それなのに正論で押し込められるのは癪に触る。
表情からそれが分かったのか、有難は必死に訴えるような顔をした。
「……変な例えかもしれないけど、モノマネの人と同じだよ。耳で聞くだけだったら本物がどれか分かんないときもあるけど、目で見たら全く別の人でしょ。ファンの人は、そのモノマネの人の声が当てられたりもするじゃん。それとおんなじだと思う」
「……で、なんだよ。俺と芥さんが別の人間ってことぐらい俺にも分かってるよ。その上で、」
「ちが、」慌てたように有難が言う。「違うっていうか、私は、『俺じゃない』って言われたのに反論したかったの。別の人間なんだから、本来は全然違う人のはずでしょ? もちろん、枯久くんが辛いのは分かってるし、それは手伝うよ。その上であたしは、枯久くんが、あう……あたしを好きになるように仕向けたい」
幸道が忖度のない言葉で話すのにつられてだろうか、有難が真っ赤になりつつ、ど正直に秘密裏なはずの企みをバラす。うおぅ、とそれにはただの男子に戻りつつ。
「だから、色んなためにデート行かない? 今までは今までのままで良いんだよ。今から色んなところに行って、新しいことを枯久くんの好きなように取り入れていけば良いんだよ。そうしても変わらない部分は、元から枯久くんらしい部分ってことなんだから」
あと一石二鳥だし、と彼女がぼそぼそ俯きがちに付け加える。なるほど確かに、と幸道は甘めの判定で思った。多分これからもずっと、芥の真似は幸道から抜け切らないだろう。けれどそれが彼女の言う通り、元々自分らしい部分と芥の感性が重なったものならば。
それほど嬉しいことはない。
幸道のことを笑って見上げて、有難の表情が一瞬翳る。
「あたしも、ね、自分らしいところを好きになってもらえるように精一杯自分らしくしなきゃ。告白の答えはまたそのときね」
ああ、終わりを考えたのか、と勘づく。それは俺も考えたくないな、とか思って、今すぐは多分疑われるなあ、とも思って、幸道は照れ隠しに斜めに首を傾げて頷いた。
*
そろそろ、彼らが来る時間だ。
「ゆきくん」
緊張に気分が悪くなってきているのがバレたか、隣から有難が腕に触れてくる。初秋の軽装越しに伝わってくる温かさに気分を落ち着かせながら、大丈夫、と答えた。どうしても無意識に俯きがちになる視界の端で、彼女がそうっと触れた腕をさすりながら笑った。
「芥さんはどんなゆきくんでもちゃんと認めてくれるよ」
結婚するから、という口実で去年日本に呼び出したとき、幸道は伝えて終わらせようとしていた好意を結局伝えられずにいた。本題が別にあったのに芥は気づいているのだろう。無理に聞いたりだとか、幸道に隠して有難に連絡をするようなことはなかったけれど、今回妻の妊娠という海外から呼び出すには少し弱い口実に付き合ってくれたのは多分そのせいだ。
やりたいことはやる、が真似っこではない芥本人の信条だった。別の人間である幸道が同じ信条を掲げたところで彼から離れてしまうので、今まで口では言いながらあまり真似はしなかったところだ。
今回だけは結果を恐れずに、伝えたいことを伝えようと思っていた。
同じことを意識した上で、去年は言えなかったのだけれど。
「そうだよな、芥さんに理解がないわけがないし」
男のくせにとか女のくせにとかに小学生の頃からブチギレていたやつなんか彼以外知らないレベルなのだ。それは確信してよかった。けれど、いざそいつらに好意を寄せられたら芥はどう返すのだろうか。テンプレートみたいな言葉で当たり障りなく返すんだろうか。ごめん、と扱いが難しそうに返すんだろうか。
第三の彼らしい言葉を求めてしまうけれど、そうやって返せる人は何人いるんだろうか。
「……恋人じゃなくても、ゆきくんは芥さんにとって大切な人だよ?」
傲慢さのある怒りがちらりと心の隅で揺れる。そのあとに、大きすぎるその言葉に対する恐怖。
「そうだといいな」
*
「おお、久しぶり」
年も三十を超えて、おっさんという形容詞が似合うようになってきた芥が開く扉に目線を上げ、二人を見てひらりと片手を上げる。どこか飲食店での待ち合わせの方が本当はいいんだろうけれど、多分泣くだろうと思って去年と同じく二人の家に招いていた。お久しぶりです、と有難が幸道の後ろで二人にお辞儀をする。
「うん。日紀さんも」
うんおひさー、と彼女が小首を傾げながら笑って、相変わらずお綺麗で、と幸道は思わず挨拶に口説くような言葉を続けそうになった。朝から一生懸命に片付けた部屋の中に招き入れ、リビングに案内する。
一人夕食作りにキッチンに行った有難に、日紀が手伝おうかと声をかけた。
「……、」
「んふふ、ほんと有難ちゃんって顔に出るねぇ」
「う……ごめんなさい、ゆきくんの好きな人って思ったら何もさせたくなくて」
「ふ、相変わらず俺らへのライバル視すごいね」
幸道とリビングテーブルについた芥が彼女らを見上げ面白そうに言葉を挟む。幸道が今もかっこいいかわいい好きだとか定期的に言ってしまうから悪いのだが、感情を取り繕えない有難は芥と日紀に会うたびにヘイトが眉に集まってしまうのだ。
「ごめんなさい……ありがたいですけどお構いなく」
若干冷たい言い方の有難に嫌な顔一つせず、じゃあゆっくりしてるね、と日紀は芥の隣に座った。
「生まれるのは」
芥がふらりと幸道に顔を向ける。
「初夏だって。まだ性別は分かんない」
「名前は考えてるのか?」
思わず目を逸らしながら答えて、幸道はぐういっと無理矢理彼と目を合わせた。
「ごめん、その前に話があるんだけど」
さあっ、と空気が変わるのが分かった。有難が動きを強張らせたのを始めに、全員が集中して話を聞く姿勢になる。みんな人の気配やその場の雰囲気に聡い人ばかりだから、なんだか話さずとも会話できるようだった。
「あ? ふん」
声音は一切変えないまま、芥が話を促すように笑って返事をする。
「あー……」
ぐ、く、と緊張する喉を動かし、口を開いた。無意識のうちに俯く。
「……い、言ったら今までと同じになれないかもしれないけどいい?」
「ん?」
「気持ち悪い話かもしれないし、縁切りたくなるかもしれないし」
最後の最後までビビって、幸道は逃げ腰な言葉を連ねた。芥が嫌うことだ。思わず顔色を伺うように彼を見ると、向こうもこちらの顔を覗き込もうと首を傾げた。
「ウザい言い方してんじゃねぇよ」
柔らかく笑ったまま彼が言う。
「今までと同じにはなれないかもしれないけど、縁は切らねぇから言ってみろ」
「好きだっ……から」
ぼろっ、と大粒の涙が途端に頰を転がった。ちゃんと伝えられた安堵か、今まで我慢し続けていたものの昇華か。とりあえず、やっぱり大好きだ。
「おう、よく言えたぁ」
芥が軽く腰を上げ、子どもにするように頭を撫でようと幸道に手を伸ばす。幸道の口調から、多分予想がついていたんだろう。思ったより薄い反応だったけれど温かい肯定にぼろっぼろ泣きながら、やめろぉ、と幸道は伸びてくる彼の手から逃げた。
「触んなボケ、あれだぞ、頭撫でたら手握ってって言って抱きしめてって言ってキスしてって言って最終的に今夜だけ抱いてくれってなるんだぞ」
「それはダメだな」
彼が笑いながら手を引き、やめんなよぉ、と幸道は受け入れられたのをいいことにめちゃくちゃを言った。
「はは、浮気はダメだぞ幸道」
「じゃあ抱かせてくれ」
「俺がいれてなきゃセーフじゃないんだよ。お前にも有難さんがいるだろ」
「ちょっとお二人さん……ご飯前なんですけど?」
有難がことんとダイニングテーブルに皿を置きながら二人に声をかけ、眉をひそめる。ごめん、と芥と謝りつつ、幸道はごしごしと目元を拭って彼女を手伝いに行った。
「そういえばさ、名前はもう決まってるんだよ」
途中、振り返って言う。
「陽が満ちるで、陽満って言うんだ」
雪路のひなた 日ノ竹京 @kirei-kirei
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