第2話

 今から過去のことを振り返ると、よく変な病気にならずに済んだな、と本当にホッとする。何の武勇伝にもならない話だが、爽やかで甘酸っぱいはずの青春時代は幸道の場合、粘液の味と嫌な匂いに満ちていた。

 急に今までの思い出の色が変わって、恋となれば喪失感も寂しさも一入で、そこに年齢に比例した性欲が重なったせいだとおも__…………

 いや、違う、決してエロい話じゃないからそんな嫌な顔しないでくれ。

 自分の行動原理に残された彼のかけらが悲しくて、幸道は男女問わず代用品を探して手を出した。始めは自分の好みの人間ばかりと付き合っていたが、芥や日紀と通ずるところがある彼らすら辛くなって、やがては本当に手を出せる人間なら見境なく袖を引いた。

 忘れようと思っても、自分と芥の分離はもうできなかった。幼い頃から真似し続けた仕草や価値観はもうすっかり自分に染み付いていて、それ以外の選択肢を選ぶことが上手くできなかった。

 それが終わったのは、大学でのとある出会いからだ。

 篠戸有難しのとあなんという名前の彼女は年が同じで、友人の友人だった。別用で質問があり会わせてもらったのが、彼女が弁護士志望だという話から始まった謎の正義についてのディスカッションになって、それ以来会えば話しかけられる程度の付き合いになった。弁護士である母親に憧れて、という志望動機に思わず親近感を持ったのもある。

 そうして、間が悪く彼女といたところを馬の合わないやつと鉢合わせたのが始めだ。


「うわ、また女連れてる」


 不運にも通りがかるでもなくド正面からかち合った彼女は、元々愛人関係にあった女の一人だった。幸道がバイセクシャルで男とも肉体関係を持つ、と知った途端(こちらは特に隠してもいなかったが)なぜか騙されたと喚きながら離れて行き、以来人のセクシャリティ言いふらしマシーンとして陰で笑われている。


「カノジョかわいそー、ねぇこいつって男の尻穴も掘るんだよ」


 それと稀有な美貌の持ち主でありながら、えらく口が汚い。


「え……?」

「おんなじやつで女の子抱くんだよ? 超キモいし、女の子に失礼と思わない?」

「お前の口も大概だけどな」


 有難が愛想笑いをぎこちなく浮かべながら固まったのは予想通りだった。清潔そうだもんなぁ。ダメージがこれだけで済むうちに、さっさと退散しよう、と彼女の腕を掴む。


「ま……まって」


 と、彼女に手を払われて。


「あの、それが枯久くんのセクシャリティなんでしょ? 好きな人とそういうことをするのって普通のことだと思うし、枯久くんにとって好きになる性別があなたより一つ多いってだけでしょ? それをあなたの価値観だけで否定するのは枯久くんに失礼だし、私はもう教えてもらってたけど、私に勝手に言ったみたいに言いふらしてるんだったら、その中にきっとあなたのせいで傷ついた人がいると思う」


 意外にも有難は彼女に対して反論を始めた。大人しくて諍いは避けるタイプだと思っていたから、幸道は思わず彼女を見下ろした。必死な表情をして言葉を連ねる有難は、目を潤ませながら彼女を見つめていて。

 あの子が泣いた分だけ世界が変わっていくんだぞ、と言った芥の声を久しぶりに思い出す。


「はあ? いると思うでテキトーなこと言わないでよ、ウチの友達ノンケばっかだし。そもそも、あたしら付き合ってなかったし!」

「お、大きな声出さないでよ、これ大事な話なんだよ」


 それは、あたしは、知らないけど、と困ったように彼女に返す声に幸道は思わず横を向いて笑いを堪えた。元々バイなのをオープンにしていたし、噂が広まるのもそんなもんだろうと思っていたのがあまり言い争いを重大なものと思えなくしているのか、若干他人事みたいに聞いていた。


「その、あの、……色んな人と付き合わずにしたの? 枯久くんのしたことはフォローできないけど、少数派の人って確かに少ないけど、絶対にいるんだよ。あなたの大声一つだけで、たくさんの人が萎縮しちゃうんだよ」


 ぱつん、と有難がセリフを切った。言いたいことを言ったあとの終わらせ方が思いつかなかったのか、あ……じゃあね、と言って無理矢理会話を終わらせる。


「行こう枯久くん」


 彼女が歩き出し、幸道は言われた通りに隣に追いついた。まだ不完全燃焼、という感じで、後ろからうっざ! という声が飛んでくる。あれだけ啖呵を切って相手を諭していた彼女がびくんと普通に驚いていたのが少し可笑しかった。


「……枯久くん、大丈夫だった?」

「ん、うん?」

「え、その……言いふらされてるってところ掘り返しちゃって。傷抉っちゃったかなって」

「いや? 別に大丈夫。べつに、噂広まって傷つくなら始めから隠すよ」


 眉を八の字にして、彼女がそっか、と悲しそうに返す。気になったけれど、そのときは分からなかった。それよりも、幸道は彼女の目が潤んでいたことの方が気になっていた。


「篠戸さんこそじゃないの? あいつと喧嘩してる時目潤んでたけど」

「う、あはは、ほんとは直したいんだけどね」


 有難が自嘲するように苦笑いを浮かべる。まだ余韻が残っているのか、とふとふとパーカーの袖口で目元を叩いた。


「やっぱり、違う、とか失礼でしょ、とか言うとだいたい強い言葉が返ってくるじゃん。頑張って注意したいんだけど、ビビって涙出てくるんだよね」


 思わず言葉を返せず、「?」と彼女が幸道を振り返る。


「……いや、大変だね」


 微妙な言葉を返してしまい、少し悔しかった。

 その翌日のことだ。

 そのとき始めは、廊下のど真ん中で職員に晒し上げるような怒り方をされているなと通りかかりながら思っただけだった。職員に対し場所を選べよとは思ったけれど、本人のミスで怒られているなら自業自得だし、無視してそのまま通り過ぎた。


「まあ、あなたに言っても仕方ないんですけどね?」


 くる、と彼女らを振り返り、幸道は慌てて彼女らの状況を観察する。彼女自身のミスじゃなくて怒られているのか、それならちょっと、話が違う。職員が手元の薄っぺらいファイルを荒っぽく揺らした。


「すいません、この人ってなんで怒られてます?」


 一番情報が要らず、手っ取り早い方法で小走りに彼女らに話しかける。彼女が驚いた顔で幸道を振り返り、職員が苛立たしげにこちらを睨んで、少し我に返ったか寄せていた眉を緩めた。


「この子が出した書類が足りてなくて、今日が提出期限なのに伸ばしてくれとか言うから」

「それなんのやつっすか?」


 有難の腕を掴み、自分の後ろに引く。


「ああ、……えっと、それ書いたのこの人じゃないんですよ、俺知ってるし渡して注意しましょうか?」


 ちらっ、と職員が罰が悪そうに顔を顰めながら彼女を見た。


「そうなの、よろしく」


 はい、と幸道にファイルを渡しさっさとどこかへ向かう。幸道がなんとかやり遂げられたのに一息ついていると、彼女が後ろで幸道の手を振り払った。

 驚いて彼女を振り返ると、悲哀と怒りが入り混じったような表情で有難が幸道を見上げた。


「……別に、あのまま無視してくれて大丈夫だったのに。あるでしょ、あれくらい」

「ああ、一回無視したのはごめん。でも篠戸さんのせいじゃなくて怒られてるのは違うと思ったから」


 彼女の表情の理由が分からず、幸道は困り顔になりながら答えた。無視したせいか、と謝っても、有難の表情は戻らない。


「あー……、結構キツいこと言われてたよね。大丈夫?」

「別に。大丈夫」


 全く大丈夫そうじゃなくて、幸道は足早に歩き出した彼女を迷いながらそろそろと追いかけた。隣に並んだら怒られそうで、少し後ろを歩く。


「……正義のヒーローって誰かが傷ついてからじゃないとできないの?」

「え?」

「枯久くんはあたしが後輩の代わりにキツい言葉を言われて傷ついてたから助けた。あたしはあの女の人が枯久くんに酷いことを言ってるって思ったからあの人に反論した。ほとんどおんなじことなのに、あたしはただのめんどくさい正論マンで、枯久くんは人を助けた人になってる。おんなじことして、なんであたしは失敗になっちゃうんだろ?」


 こつ、と彼女が足を止める。


「……枯久くんには分かる?」


 震えた声でそう言ったと思うと、有難が突然壁際にいき、寄りかかって座り込んだ。ぐす、と肝が冷えるような声がくぐもって聞こえた。


「ど、え……分かんねぇよ、そんなの。別に、俺は間違ってるって思ったから間に入っただけで」

「あたしだってそうだもん……っ!」


 面倒な、と一瞬思う。思ったように見返りが返ってこないのが正義で、突き通そうとすると面倒くさがられるのが正義で、それでも通していくのが正義だ。幸道も、芥だって、面倒な人扱いはされてきた。それでもやめて得がないのが正義だ。

 そう彼とともに学んだ。


「……アンタのは主観すぎると思う」


 顔を上げた有難に睨まれる。


「……だから泣かないでいいよ、篠戸さんもちゃんと正義になってる。俺はアンタがさっきので傷ついてたって知らなくて、でも俺にとって間違ってるから俺の正義で動いた。篠戸さんは俺が特に傷ついてないって知らなくて、でも篠戸さんにとって間違ってるからあいつに反論した。条件は一緒だし、……篠戸さんは何回も自分の正義を通そうとしてきたんでしょ? それなら絶対に救われてる人がいるよ」


 ころん、と彼女が顔をしかめ、頬に涙を転がす。幸道はほっと息をついた。


「……分かんないよそんなの、だってほとんどありがとうって言われたことないもん。……有難なのに」

「いやあ、当事者からは意外に何も返ってこないもんよ。側で聞いてたやつとかが後でありがとうとか言ってくれたりすんだよ」


 芥から聞いて、自分で実感して驚いた経験則だった。意外とケンカしている間に部外者が入ると、冷静になってケンカしていたことから逃げるものだ。最も冷静に言葉を聞いているのは、それを観察している人だった。


「そうなんだ……」


 ごしごし、ともうメイクのことは構わないのか、有難が目元を手で拭いながら立ち上がる。


「この前あいつとアンタが言い争ったとき、俺の友達いたからさ、そいつは周りに隠してるから、そいつはアンタが理解者を増やそうとしてくれたってきっと助けられたと思うよ」


 ありがたかった、と礼を彼女に伝える。へへ、と慣れていないのか、彼女がへにゃっと笑った。


「ありがとう」

「ふ、お互い言ったら終わらなくなるだろ」

「あは、ごめんあんまり言われないから嬉しくて」


 はー、と言って、有難ががどこからかポケットティッシュを取り出し鼻辺りを覆う。


「……アンタ傷つきやすいのに、よく続けられたね」


 あんまりに記憶を抉ってくるものだから、もう縁を切りたい思いだったけれど、そこだけは正直に彼女を評価したかった。え、なんで、という顔を彼女がする。


「え、なんで……」

「いつも顔に出てる。今は、びっくり」


 パントマイムみたいにおどけて、わお、というポーズを取ってみると、彼女は可笑しそうにくすくすと笑った。

 その数週間後の年初めに、幸道は四年ぶりに芥に再会した。彼らにほとんど変化はなく、離れていたはずの背丈がずいぶん近づいている自分の変化にばかり驚いた。それでも彼の背を越えられず、幸道が芥を見上げる動作はそのままなのになんとなくときめく。

 それから、新しい言葉が必要だな、と心底思う。

 日紀に対し久しぶりに会えて嬉しい、という至って普通の感情を感じたのには本当に安心した。彼女の蝶が舞うような仕草にドギマギしていたのが懐かしく思える。けれど自覚したから強まったのか、あのときは漠然としていた羨ましさと妬む感じが時々じらじらと胸の奥を焦がして、少し苦しい。

 どちらかと言えば好きな人なのに、どうしても幸道から芥を掠め取ったというラベルが剥がせないのが辛かった。


「好きな人が奥さんとにこにこしてんの辛いわぁ」


 あれから有難とは会えば話す関係になって、幸道は廊下の壁に二人で寄りかかりながらぼそっと中々人に言えない愚痴を彼女にこぼした。バイセクシャルなのはここでは隠していないから、“彼”は兄と同い年の幼馴染みで、とその説明だけ足す。


「うわあ……、うわあ」


 少しニュアンスの違うなんとも言えない表情を二回浮かべて、有難が相槌を二回打つ。さすがに意味は読み取れず、幸道は反応しなかった。


「彼女じゃなくて、結婚してるんだ。それは辛いね」

「だろぉ」

「…………え、じゃあ……」


 有難が変な声を漏らし、幸道は彼女を見下ろした。逃げ出す準備みたいに壁に寄りかかるのをやめ、彼女がおどおどと人のいない廊下に目を泳がせ腹の高さで自分の手をいじる。


「その……前話したときから好きです。私と付き合ってください、……」


 ふわ、の頬に朱が刷けるのと同時に、幸道は一気に心拍が高まるのを感じた。前に書いた通り、幸道の交際経験はわざわざ恋人になる必要のない関係ばかりのものだ。だから付き合ってくださいと告白するなんていうプラトニックなイベントに遭遇したことがなく、シンプルにめちゃくちゃ高揚していた。

 その頭で返事を考えて、不意に、怒りが湧いた。


「アンタが好きになってるのは俺じゃない」


 うなるような低い声で答え、思わず彼女を睨みつける。前って、助けに入ったことか。正義の話のことか。経験則の話か。それは、何もかも、

 何もかも、芥の真似だ。

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