雪路のひなた
日ノ竹京
第1話
まず、もちろん読みはあくただ。漢字の意味はゴミだ。子どもにつけるにはあんまりな名前だが、一応あやかった作家のように有名な人間になるようという意味がある。それならば名前になるのは龍之介だろう、と思うだろうけれど、姓に龍の字が入っているから名に芥だという安直な理由から来た名前らしいのでどうかスルーしてやって欲しい。それに、芥之介もこれはこれで語呂が悪いし。
それで、彼は幸道の兄の同級生だった。昔から今もお調子者で尊敬のできない兄にしてはできた幼馴染みで、幸道が物心つく頃には一緒に遊んでもらっていたように思う。周りより一回り背が高く大人びていて、子どもの頃の芥はなんだか世界中の言葉を話せそうな子どもらしさのない少年だった。幼い幸道が兄たちについて行けず顰蹙を買ったときはおんぶして連れて行ってくれたり、相変わらず木登りはできないからしたくないとかなんとか言って顰蹙を買ったときは彼一人だけが一緒に遊んでくれたりとその場のバランサーで、そういう大人で優しいところにとても憧れて、真似ていた。
ただ芥はそれなりに頑固な人で、変なポリシーがある人だった。彼と誰かがケンカしているところは当時から何百回も見ていたが、真似をするうちに幸道自身も友人と噛み合わないことが増え、クラスでは微妙な立ち位置になった。それでも正義そのもののように格好良いその考え方を真似るのは楽しくて、単純に嬉しかったのだ。少しでも誰かに尊敬されるような人間に自分もなれたようで。誰かが仲間外れになりそうならば自分一人だけででも笑顔にさせに行って、教室で暑そうなやつがいたら自分が暑いふりをして扇風機をつけさせて、弱いものイジメはわざと摘発して自分を標的にさせ、毎日ケンカをしたりした。
やがて幸道も中学生になる頃には、舎弟、と彼が認めるほど何気ない選択すらそっくりになっていた。周りに合わせず自分の善悪に則って動く彼が嫌われ者だったように、その頃幸道もヤンキーの道を辿っていたが、大学で急に人気者になったと家に遊びにきた彼が困惑しながら言ったのにはものすごくドヤ顔をした。やっぱり自分の見立ては正しく、芥の思考は尊敬に値するもので、今まで周りが幼すぎただけなのだ。
「ほら言った! アンタはすごいんだって!」
「え〜? 生意気言ったら人気者になれるってどんな世界だよ……。俺先輩に思いっきりそれは間違ってるって言っただけなんだけど」
「先輩後輩とか形だけのものどうだっていいよ、生意気じゃなくてちゃんとした指摘だしな」
「こーら、上下関係だってちゃんと意味はあるんだぞ」
「えっ、前言ったのと違う!」
「俺は柔軟なの、全ての考えのメリットだけ取り入れる。つかそんなのよく覚えてんな」
「なっ……る、ほど」
ちょこん、とフローリングに正座して矛を収める。
あと正座になって聞く話題と言えば、幸道がなんかそういう話題に興味を持つような年頃になってから(さいっあくなできごとをきっかけとして!)からかうように吹っかけられるようになり、あるいは、正義みたいだろ? と彼は好みの女を喩えた。話題に対して偏見や差別をしたまま話す同級生たちに一つずつ口を出しては言い負かされて泣き出してしまうような子。先輩だったり上司だったり、優位の立場から弱いものをいたぶる人間に立ち向かっては傷つけられて泣く子。どう考えてもちょっと違うだろっていう、しくしく泣いては可哀想を連呼する寄付破産女もその中に入った。サディスト、とあまりに泣く人ばかりだったのでこちらがカウンセリングを勧めようとすると、違う、とナチュラルに中指を立てられる。
あの子が泣いた分だけ世界が変わっていくんだぞ、とまたまたかっこいいことを言うから、まだはっきりとはなかった異性の趣味はその瞬間に上書きされた。
そんな彼が本気で惚れた女性なので、彼女はきっと自分が感じている以上にいい女なのだろうと思う、と、ここでやっと一つ説明が終わる。
*
劇的な一目惚れをした彼女は、出会う頃にはもう芥の恋人だった。というか、まだ結婚していないだけですでにフィアンセだったし、偶然遊びに行こうとインターホンを押した幸道がついでのように紹介されたときは結婚の挨拶だった。
とても素敵な人だ。子どものように感情的で、人の立場になって考えられ、惜しげなく他人に手を差し伸べられる、それでいて単純で騙されやすい短所を伴っていられる、強い女性だった。それにさらさらと透き通るような自然で率直な表情がとても魅力的で、幸道は祝福しながらもどうして自分がまだ中坊なのかと微妙に悔しかったものだ。焔日紀です、と名乗った後に芥さんの子どもの頃ってどんなの? と恋人がいない間にこちらに顔を寄せて面白そうに耳打ちしてくるのも、なあんって素敵な人なんだと(芥はそうされてあまり動揺していなかったので、多分素で)ドギマギしていた。それに昔からああでかっこよかったと返して力説したり、舎弟の前でだけ彼女自慢がすごい彼にいいなぁいいなぁと冗談めかして羨ましがったりして、新しい家族が増えたようなそのときは人生で一番楽しかったかもしれない。
「日紀の仕事は海外でだから」
まあ、こっちに来ようとしたら来れなくもないけど、今みたいにつるんだりはもうできないからな、とその頃にはブラコン扱いされていた幸道に釘を刺して、芥は海外に行くと言った。この翌日すぐに家を出発してしまうらしい。
「えー、マジ? 邪魔しに行ってやろうと思ってたのに」
まだ会ったばかりで、仲良くなりたかったのに、と日紀のことをちらちらと見ながら返すと、芥はニヤッと笑った後に表情を苦笑させた。
「元々卒業からすぐに行こうとしてたのを俺も付いてくって無理言って俺の卒業まで待ってもらったんだ、残念だけど延長は無理」
ふわ、と二人が同じタイミングでお互いを見、はにかむように眉を下げる。
うわ、いいなぁ。
何度目かの羨ましさと視線の方向には始め、違和感は持たなかった。どちらも説明のつくものだったからだ。日紀が長いまつ毛をゆっくり揺らしたのに、きれいだなぁ、と見惚れる。
「じゃあな、明日母さんらとか見送ってくれるらしいけどお前は来んの? あ、てか学校か」
「え、そんな時間なの? じゃあここで別れたらもう来年とかになるの?」
「あーん、数年は忙しいと思うし帰ってこれないと思う。まあハガキとかは送るよ」
「そうなんだ……」
思わず不満げな表情をした幸道の額を笑いながら小突いて、行けるようになったらこまめに帰るようにはするよと彼が言う。
別れてからはそれなりにショックで、幸道は家に入るとまっすぐに自室に行き、ベッドに寝転んだ。海外に行く、と言った芥の声が何度も頭の中で反芻されて、ずうんと無気力が身体の上にのしかかる。
きっと自分がどれだけ必死に引き止めたところで、日紀が手招きすればすぐに軽くいなされるのだろう。
教室の窓から見かけた飛行機を目で追いながらそんなことを思い、その事実に酷く傷つけられたのに自分でも驚いた。
日紀が嫌いだ。
嫌いではないのに、とても嫌いだ。
万年鼻炎の友人からティッシュを分けてもらい、ぶびーっと鼻をかむ。花粉症なら自分で持ってこいよ、と訝しげに言う彼に今日だけと返し、ストックを五枚ほどもらった。
取られたも何も幸道のものではないし、芥さんはただの兄貴で、そうだ、昨日は普通に祝福できていたのに。
嫌いなんかではない。日紀のことは素敵な性格を尊敬しているし好きだ。
あぁ、うー。
堪えられそうになくなってきて、幸道は誤魔化しに席を立ってそのまま授業をサボった。
同じように、いや、それ以上に。芥のことも尊敬しているし、好きだ。
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