苗字バタフライエフェクト

無味 乾燥

第1話

 不思議な出来事は、常に唐突に起こるものである。



 田中海斗はいつも通り堕落した一日を過ごしていた。

 飯を買いに行くために少し外に出たが、それ以外の時間を家の中でぐーたらする事に費やしていた。

 今日は真夏日で、熱中症に注意が必要だとテレビが教えてくれた。そんな日はエアコンの効いた部屋で安全に過ごさないとダメだ。海斗は自分にそう言い訳をして、ベッドの上でスマホを触ったり漫画を読んだり、ジュースを飲んでお菓子を食べて、怠惰の限りを尽くした。


 そんな生産性の無い行動にも終わりは訪れる。気づけば日が暮れていた。


 海斗は明日提出する必要のあるレポートを思い出した。正確には、今日一日ずっと頭の片隅に居座っていた問題だったが、何となくやる気にならなかったのだ。


 あきらかに怠惰な気質が原因だったが、言い訳があればすがりたくなるのが人間である。今日一日何もしなかったのも、暑いのが悪くて、日が暮れて涼しくなったから行動するのだ。期限が近づいたから行動したわけではない。


 海斗は重い腰をあげてベッドから立ち上がった。ちゃぶ台の上にPCが鎮座しているのが見える。海斗はベッドの縁からズルズルと滑り落ちて、ちゃぶ台脇の座いすに落ち着いた。

 PCを立ち上げて、画面をしばらく見つめた後で、どんなレポートだったか思い出した。


「『夫婦別姓についてどう思うか』……ってどっちでもいいよー」


 聞く人が聞けば激怒しそうな発言だったが、ここは田中海斗の部屋の中だ。海斗の意見が何物にも優先される空間である。

 海斗は自分の意見を頭の中でこねくり回した。どちらでも良いとは思っていても、どちらかに意見を帰着させる必要がある。そうしてひねり出した成果物はとても無難で、ある意味何処に出しても恥ずかしくない内容だった。


 要約するとこうだ。

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 日本では、夫婦は同性を名乗るのが慣習となっていたが、多様性が叫ばれるこの時代において、『慣習だから』の一点張りで物事を進めていくことは現実的ではない。ここはいっそのこと、希望する夫婦においては別姓を使用することを許可してはどうか、と。 

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 当たり障りのない非常に無難な内容である。「どっちでもいいよー」と言っていた人物が作り上げた事を考えれば上等とも言える。自制心と、社会の目と、授業で悪目立ちしたくないという思いが、海斗のレポートに詰まっていた。


 海斗は今しがた書き上げたレポートをフォーラムから提出しようとしていた。

 ブックマークに追加していたフォーラムのURLをクリックする前に、マウスのポインターが動画サイトのURLをクリックしていた。提出する前の息抜きは当然の権利だといわんばかりの、迷いのないポインターさばきだった。


 いつもの様に、おすすめ欄から気になる動画を探していると、ひときわ目を引くタイトルの動画が見つかった。その動画には独特な配色でこう書かれていた。


「『おい田中海斗!これを見ろ!』って……俺の名前じゃん!!!」


 海斗のオススメ欄に表示されているその動画の再生回数は0回だった。

 誰も再生していない動画が海斗の目に付くのは奇妙だった。サイトのアルゴリズムがどのように規定されているのかは海斗には分からなかったが、自身の名前をフルネームで記載している動画がたまたまおススメ欄に上がってくるというのは、不思議な話である。

 完全に自分のことを指名している動画に背筋が凍るが、彼は一つの可能性を考えた。


 身内が作った動画ではないか。


 というのも、海斗は友人の作った動画をよく見せられていた。お世辞にも出来が良いとは言えず、全編が身内ノリだけで構成されているような動画ばかりだった。目の前に表示されているこの動画もその手のものだろうと彼は思った。自身の事を「オイ」呼ばわりしてくる動画を作るのは友人が作ったからに違いない。そう思い込むことにして海斗はその動画を開いた。


 ページが更新され、動画が再生される。

 そこにはくたびれた顔をした青年が映っていた。これといった特徴はない。自分よりも年上だろうという事と、軍服のような厳めしい服を着ているのが目についた。軍服には、地位の高さを意識させるように大量の勲章がくっついていた。年齢を考慮すると、かなり優秀な人間なのではないかと海斗は思った。

 彼の焦点はこちらに向いておらず、少しうつむきがちに考え事をしているようだった。彼の背後には機械が収められたアルミラックがズラッと並べられていた。彼がいる部屋の中は薄暗いが、棚の中の機械が放つ淡い青の光と、ウィーンというパソコンが起動している時のような音が聞こえていた。


 友人たちが作った動画にしては出来が良すぎる事に海斗は違和感を覚えた。

 彼らがロケーションや服装に気を配った動画を作る姿が想像出来なかった.


 少しすると、軍服の青年がはっとこちらを見た。

 こちらを見るなり、眉の両端を吊り上げ、画面に食い掛るように身を乗り出した。


「おい、田中海斗だな!聞こえてるか!?」


 画面の中の人間が自分に話しかけて来る事に海斗は少し驚くものの、すぐに平静を取り戻した。こういう趣向の動画も作れるのかと海斗は友人たちを少し見直した。

 誰の発想だろうかと思いをはせていると、画面の中の人物に大きな声でもう一度呼ばれた。


「ぼけっとするな!時間がないんだ。俺の話を聞いてくれ!」


 自分の姿を友人たちに見透かされたのが少し気に食わず、海斗はふてくされたように呟く。


「……ぼけっとしてるかは分からないじゃないか」

「お前の顔を見れば分かる!」


 今度こそ海斗は仰天した。まるで画面の中の人間と会話をしているかのようだ。


「やっぱりぼけっとしているではないか。まぁ先ずは自己紹介といこうか。私は田中直樹だ。ほんの少しの間の関係だと思うが覚えておいてくれ」


 夢を見ているのだと思った。普通に考えて、動画の中の人間と会話できるわけない。だが、こちらの様子を見ているかのように話しかけてくる相手を無視することもできず、海斗は自己紹介を返した。


「田中……海斗です。…………団子」


 馬鹿みたいな話だが、海斗はこの「団子」という言葉に最後の希望を託した。この動画の中の「田中直樹」という人物が凄腕のメンタリストだったとしても、団子を連想して動画を作れる訳がない。ここで「団子」を拾った会話が無ければ、やはりこの動画は高度なジョークだったと言える。

 しかし、そんな海斗の考えは木っ端みじんに粉砕されることとなった。


「はぁ……団子?もしかして錯乱してんのか?」


 海斗はこの動画を一旦本物だと思うことにした。

 何をもって本物とするかは本人にも分からないが、ひとまずこの動画は本物だ。

 友人たちが作った悪ふざけの類なんかじゃなくて、何か凄い存在が関わって作られている。これは動画ではなくて、ビデオ通話のようなもので、リアルタイムで会話をする事ができる代物なのだ。


 海斗が頭を抱えていると、気を遣ったのか直樹の方から話しかけてきた


「時間が無いとは言ったが、多少の質問には答えよう。なんていうか……混乱しているようだし」


 海斗は質問するために現状を整理してみた。が、分からない事が多すぎるため整理の必要がない事に気付いた. 

 とりあえず海斗は、なぜ会話が成り立つのか質問した。


「俺も詳しく説明できる訳では無いが、学者の連中は『帰着論』の効果と言っていたな」

「帰着論?」

「最終的な着地点が決まっていること、らしい」


 海斗は話がどこに向かっているのか分からなかった。 何らかの方法で、海斗の音声や動画データを直樹側が受信しているから会話が成り立っていると思っていたからだ。つまり、海斗の様子を盗み見ながら、直樹がライブ配信をしていると考えていたのだ。サイトのGUIは、これが生放送ではなく動画だという事を示していたが、海斗はそれが不具合のせいだと思い込んでいた。

 海斗の混乱をよそに田中直樹は説明を続ける。


 現在、田中海斗が喋っている内容や様子はノートパソコンのマイクとカメラを通じてデータとして保存されているらしい。海斗自身がマイクやカメラをONにしたわけではないが、それらが待機状態だったとしても、パソコン側でデータを一時的に保存してしまっているようだ。

 会議用のアプリが似たような挙動をして問題になっていた事を海斗は思い出した。実際、自分の身に起きている事だと思うと、プライバシーを侵害されているような気分になった。

 保存された音声・画像データは、オンライン上に転送されることはなく、海斗自身のパソコンの中に一時的に保存される。最終的には他のファイルやデータに埋もれて、古くなった音声・画像データは自動的に削除されていくはずだった。


「田中海斗、お前のノートパソコンは明日クラッキングされる。残念ながらお前のした行動に関係なく、パソコンの中のデータを全て盗まれる。変なページを踏んでなくても、怪しいファイルを保存してなくても、データは盗まれる。全てのデータが犯人のサーバーに吸い上げられる。さっきのレポートも、クレジットカードの番号も銀行口座も個人情報全てがだ」


 海斗は、同じ名字の直樹が喋る内容に頭を抱えたくなった。なぜ見ず知らずの男に自分の未来を、しかも悲劇的な内容を聞かされないといけないのだ。「お前」呼ばわりしてくるのも腹が立つ所だった。

 海斗は久しぶりに口を開いた。


「パソコンを使わなければ良いじゃないか」


 そうだ、パソコンを使わなければ直樹の語る『未来』はやってこない。……未来?

 海斗の疑問は直樹の回答にかき消される。


「お前が今書いたレポートは提出だけでなく、クラスでの発表に使うもののはずだ。そのために電源を入れる必要がある。そのタイミングでデータは盗まれる」

「Wi-fiに繋がらないようにすれば良い」

「その場合、パソコン上にあるレポートのファイルは必ず破損する。ファイルを復旧させるために、フォーラム上にあるファイルをダウンロードしなければならない」


 ……その場合?


「友人のパソコンを使えば良い」

「お前のアホな友人はパソコンを持ってこない」

「他の人のパソコンを使えば良い」

「嫌そうな顔をされてひよったお前は、隠し持っていた自分のPCを使い始める」


 他人の好意にずけずけと乗っかれる気質を海斗は持ち合わせていなかった。


「……家にパソコンを置いていけば良い」

「お前の部屋に母親が上がり込んできて、パソコンの電源を勝手に入れる。っていうかレポート発表はどうするんだよその場合は」

「…………」


 海斗の屁理屈に対して適当を言っている可能性もあったが、嫌に説得力のある反論に海斗は何も言えなくなった。不機嫌そうに田中直樹をじーっと見つめると、彼は苦笑するように言った。


「だからこれが『帰着論』なんだ。海斗の個人情報が駄々洩れになるのは『決まっている事』なんだ」


 冗談じゃない。そんな事決められてたまるか。

 さっきから頭の中にちらついていた疑問を問いかける。


「お前の論理には矛盾があるぞ!!起こってもいない事を起こった事として扱っている。その根拠は何なんだ!!」


 海斗が叫ぶように言うと、直樹はキョトンとした顔で言った。


「根拠って……実際に起こったことだからな。説明が難しいが…………」


 うーんと考え込む直樹。海斗は納得できる答えが返ってくるまで徹底的に待つつもりだった。


「そういえば、俺が今から大体500年後の世界から話しかけてるって説明してなかったっけ?」


 直樹のとぼけたような答えに、海斗はため息をつくことしか出来なかった。


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 直樹は海斗の質問に回答していく。


 疑問1.なぜ海斗の個人情報は盗まれるのか

 →理由は分からないが、盗まれた記録が未来に残っているから盗まれることは確定している。


 疑問2.なぜ動画の中の男(田中直樹)と会話が成立するのか

 →盗まれたデータの中に、現在の海斗の録音・録画データが含まれている。500年後の未来で直樹たちが動画を復元した結果、ある特定の条件下にて、500年前の動画データと会話が成り立つことが分かった。未来人(田中直樹)から見ると、会話を成り立たせてくる田中海斗が奇妙な存在に映るようだ。

 このように、時間を超えて会話できるデータが未来に存在しているという事は、そういうデータが過去の時点で作成された事を意味する。つまり、田中海斗が未来人と会話をした現実があった事を意味する。

 未来主導で物事が決まっているように聞こえるが、これこそが「帰着論」の考え方だという。


 疑問3.なぜ500年後に作成した動画データを海斗がいる過去に転送することが出来るのか

 →転送しているわけではなく、最初からこの動画データは「現代」に存在しているという。


「いやいやいや、それはおかしいでしょ。製作者がいないとこの動画が存在しない訳じゃん。あんたらが作ったんでしょ?」

「その件については”分からない”というしかない」


 直樹の表情から嘘を言っていない事は分かったが、現状を整理すればするほど意味の分からない事が湧き出てくるため、海斗は少しうんざりし始めていた。

 未来人という立場だけで、偉そうに話しかけてくる直樹の鼻を明かしたいと思い始めた。


「もう一つ質問だ、未来から過去に干渉することの影響はどうなるんだ?俺とお前の会話が成立するっていう事実が未来に存在しているのは良しとしても、未来の情報を過去に受け渡しているわけだから、とんでもない過去改変・歴史の改竄だ。今こうして会話しているうちにも世界線が変化して、俺とお前が会話をしない世界線に変化する可能性もあるんじゃないのか?」


 直樹は、海斗の言い分をじっくりと咀嚼しているようだった。突発的にこの事態へ直面している海斗とは違い、直樹には何か目的があり、何かしらの準備をしてから動画への対話を開始しているはずだ。その直樹が今更こんな事を理解するのに時間をかけているのが直樹には理解できなかった。

 普通だったら過去への影響を考えてから行動するもんじゃないか?


 海斗の困惑が怒りに変わりきる前に直樹は喋りだした。


「今の疑問に対する答えになってるか分からないが……、『過程は変わっても、俺のいる時間に辿り着くことは決定している』っていうのが全てだな。詳細については、帰着論を思いついた学者たちに聞けば分かるんだろうが今回は諦めてくれ」


 説明になっていないような気がするが、何となく説得力があったので、海斗はそういうものだと思う事にした。


「過去に手を加えることによって、未来が変化するというのは事実だ。ただ帰着する力の方が遥かに強いからほとんどの事が些事になってしまうんだ」


 直樹は画面の向こう側(約500年後の世界)でマグカップを取り出した。500年後の世界でもマグカップはマグカップとして存在している事に海斗が感心していると、直樹は容器の中の何かをすすった。


「マグカップが珍しいか?もちろんこの時代においては骨董品みたいなもんだが、エネルギーを使用しない容器としては合理的で機能性に優れている。後は、過去の人間であるお前に未来技術を見せないようにするという意味合いもある」


 直樹の言葉を確認するように、海斗は画面の中をもう一度見回した。言われてみれば、直樹の服装や腰掛けている椅子、照明や壁の具合などは海斗の時代に沿っているというか、見慣れた物のように見える。画面に映る情報からは、直樹の世界が500年後の未来だとは思えなかった。

 ただ、海斗の背面の大きなガラス越しに見える光景が、500年後の未来という圧倒的な説得力を持っていた。

 

 「あんたの後ろに有る物は見せてもいいのか?」


 直樹はちらりと後ろを見やってから、口を開いた。


「俺の後ろにあるのはただの量子コンピューターだ。既に過去の段階で構想・試作が済んでいるモノについては見せても良い事になっている。俺が未来から会話している事が伝わりやすいっていう事情もあるがな」


 彼が照明のスイッチを入れると、背後にあるものがクッキリと見えるようになった。


 これは量子コンピュータを置くためのラックだろうか。画面越しでの目算だが、普通の建物3階分ほどの高さがあり、それが縦横にどこまでも続いている。建物とは違い、骨組みだけで構成されているそのラックの中に、直樹が量子コンピューターと呼んでいる大きな球形の物体がいくつも収められていた。量子コンピュータにはおびただしい数のケーブルが接続されており、ケーブルは床までだらりと垂れていた。ケーブルによって、床面は覆い隠されているため、人間が歩ける空間は無かった。


 海斗の時代においては研究段階のものが、500年後の世界では当たり前のように量産されて使われているようだった。


 直樹は海斗の様子を少し確認してから照明を消した。


「この量子コンピュータによる計算の結果、『500年前のこの時間帯の海斗』、つまりお前さんに少し頑張ってもらえば、未来が大きく変更されることが分かった。帰着させる力を上回る”少しの頑張りをお願いすること”が俺の仕事って訳だな」


 話が本題に戻りかけたところで海斗は質問を挟む


「お願いを聞く前に一つ確認しても良いか?」

「俺に分かることであれば何でも」

「未来が変わったら直樹のいる世界はどうなるんだ?」


 直樹は少し気まずそうに頬をぽりぽりと書きながら答えた。


「何も変わらん。未来が変わることが確定した段階で世界線は分岐する。俺らの世界はそのまま。過去も未来も現在も変わることなく進んでいく。しかし海斗の世界の未来は変わる。どう変わるかは分からないが、少なくとも今の俺らがいる世界は避けられるって訳さ」

「自分のいる世界が何も変わらないのに過去に介入する意味はあるのか?」

「意味はある。俺らの世界線に進むことで文明の進歩は大きく滞る。人類のためを思うなら、停滞しない世界線を用意してやる必要がある」


 直樹の世界でどんな問題が起きているかは分からないが、過去の人間に頼っているという事は、それだけ海斗の置かれている状況の改善が難しいのだろう。そんな極限の状態でも、僅かな可能性を見出して別の世界線を作り出そうとしているのだ。


 出来るだけの事はしてやろう、海斗はそう思い始めていた。


「それで,俺は何をすれば良いんだ?」


 直樹は佇まいを正すと,唾をしっかりと飲み込んでから言った。


「さっき完成させたレポートの内容を書き換えてくれ」

「……はぁ?」

「だからレポートの内容を変更して欲しいんだ」

「それが何に繋がるんです?」

「すまん,もう一回説明させてくれ」



 直樹は画面の向こうで,どこからかA4の紙を取り出した。500年後の世界でもペーパーレスは実現していないらしい。


「えー説明します」


 直樹は紙と睨めっこしながら喋り始めた。彼が取り出した物は原稿だった。しかし、途中で紙をスワイプするような仕草があったので彼が持っているのは普通の紙では無い事が分かった。


 彼の説明はこうだ。 

 

 海斗がこれから提出するレポートは,明日の授業中にクラスの前で内容を発表する事になっている。これは先ほど直樹にも聞かされていた内容だ。


 どうやら彼のクラスには、将来政治家になる人物がいるようで,何故か海斗の発表に沿った政策を打ち出してしまうらしい。その政策を実現するのと同時に,その政策を守るための制度も同時に定めてしまう。結果として,海斗の考えた制度に問題があったとしても改訂する事が出来ず、ズルズルと月日が経つことで徐々に世界情勢が悪くなってしまうらしい。


「だから海斗には未来を良くする内容のレポートを書いてもらう」

「いやいやいや,俺に考えられる内容なんてたかが知れてるし,さっき書き上げたレポートで未来がどう悪くなるのか想像できないんだが」

「では俺のいる世界がどうなってしまったか教えてやろう」



 ---田中直樹の世界(今から約500年後)---


 海斗の出したレポートによって,夫婦別姓制度が定められた。


 当初は絶賛の声が大きかった。自分のアイデンティティを保ち,自分の家名を引き続き使える事に不都合な事は無いと思われた。もちろん同姓にする選択肢も用意されていたし、結婚済みで苗字を変更していた家庭でも別姓を取り入れることが出来るという自由の聞く制度になっていた。


 しかしすぐに問題が発生した。


 ある新婚夫婦の間で激論が交わされた。

 自分達は今までの苗字を引き続き使用していけば良いが,子供はどちらの苗字を使うのか。という問題があった。

 その問題は、連日TVのワイドショーで取り上げられた。夫の苗字を使えばいい,収入が多い方の苗字を名乗れば良い,全国における総数の少ない方の苗字を使えば良い,などなど。


 結局,子供が20歳になって成人になる時に子供自身で選べばよい,それまではどちらの苗字を名乗っても良いという事に落ち着いた。しかしこれがまずかった。


 最初に悲鳴を上げたのは教育現場である。


 子供の気まぐれで毎日苗字が変わるため,教師陣は二通りの呼び方を覚える必要があった。名簿の作成も,どちらの苗字を使うかで順番が変わってしまうため,名簿順を決めることが難しかった。


 管理のしやすさを理由に,学校で使用する苗字を一つに定めてくれと依頼する学校もあったが,これは世論に一蹴された。せっかく夫婦別姓にして平等な世界が成立してきているのに,教育現場が差別を助長するとは何事か,と。


 困難は多く,四苦八苦しながらも教育現場の先生たちはどうにか,二つの苗字を持つ子供達を社会に送り出した


 今までは、子供達の将来を大きく決定する場所は教育機関であるとの見方が大多数だったが、この時代からその考え方は大きく変容することになった。

 もちろん、教育が彼らに与える影響は計り知れないが、結局のところ,「苗字を決定する」という過程が大きな影響力を持っていた。


 この時代を象徴する言葉がある。

 『家庭内政治』

 これは。夫婦が自分の苗字を子供に継がせる為に子供の機嫌取りをする事を揶揄した言葉である。とにかく,この『家庭内政治』が酷かった。


 子供を甘やかすのは勿論,子供の我儘を聞き入れ続ける事は当たり前だった。親の教育に感謝するという概念はこの時代の子供達には縁の無い考え方だった。


 そうして子供天下とも言える生活を終えた後に待っているのは,苗字継承のための家庭内政治の決着である。勝者がいれば敗者がいる訳で,家庭内で少数派の苗字になる事は敗者に孤独感を与えた

 子供が複数人いても,上の兄弟に倣って苗字を決めるという事が多く,敗者は家庭内で孤立した存在になりやすかった。


 それがもたらしたのは,深刻な離婚率と未婚率の増加である。

 孤立して愛着の無い家庭の中で過ごすよりも最初から一人で生きていく方が気楽だという考え方が増えていったのだ。それでも結婚を望む者達は,同じ苗字同士で結婚する事が増えていき,珍しい苗字は消滅し,苗字の統一が進んでいった。

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「今の日本では,苗字は29種類しかないんだ……」


 田中直樹は沈鬱な表情で手に持っていた紙のような物を置いた。

 海斗は直樹の話をどこまで深刻に受け止めるべきなのか分からなかった。


「苗字が減って何の支障があるんだ?」


 直樹が喋り始めようとした時,直樹の部屋が大きく揺れた。背後に置いてあった量子コンピュータ郡の棚がグラグラと大きく揺れ,直樹のいる部屋の照明も不規則に明滅した。


 揺れはすぐに収まったが,それと同時にけたたましい警報音が鳴った。海斗が困惑していると直樹が焦った調子で説明を再開した。


「今の日本は戦国時代に逆戻りしている。「佐藤」の一派が苗字の全国統一を目指して,他の苗字を駆逐してるんだ。「佐藤」だけじゃなく「加藤」や「鈴木」,少数派だったはずなのに何故か生き残った「五十嵐」達も過激派になってしまっている。全国各地で紛争状態なんだ」

「……その全ての元凶が俺のレポート,ってこと……か?」

「そうだ,だからそのレポートの内容を書き換えてくれ。海斗にしか平和な日本を生み出すことは出来ない」


 画面の中では更なる揺れが始まっているようだった。直樹の話と照らし合わせると過激派が田中直樹のいる拠点を襲撃しているのだろう。警報は鳴りやむ気配が無く,直樹は画面の外から戦闘用の服を取り出しているようだった。


「分かった!具体的にどう書けば良いか分からないけど,夫婦別姓を推す内容は書かないって約束する!」


 直樹は海斗の方を見て微笑むと,見ていた動画が暗転した。きっと攻撃の影響で通信が遮断されたのだろう。

 パソコンの画面は相変わらず動画サイトのUIを表示していたが、動画が再生されていないため、直樹と喋った痕跡はそこには無かった。


 海斗はすぐに先ほど書き上げたレポートの修正作業に入る。まだ提出していなかったため日本の運命を変化させる事が出来る


 海斗はどうにかしてレポートを修正し直した。先ほどと同じく無難な内容ではあるが,それでも日本の未来を左右するものだと思うと,自分のレポートの負う責任の大きさに背筋が凍った。

 書き上げたレポートの内容はこうだ。


 今までの日本は夫婦で苗字を統一する事で上手く世の中を回していた。どうしても自分の苗字を使用したい場合は事実婚など,様々な手段がある。世の中は変化していくものだが,苗字という観点で見れば,旧態依然を続けていく事も一つの考え方だ,と。


 書き上げながら海斗は,先ほどの出来事が本当に起きた事か疑い始めていた.


 未来の人間と喋ることより,とても手の込んだいたずらに引っ掛かる可能性の方が高いのではないか

 突然の出来事に思考がフリーズしながらも,書き上げたレポートの出来を確認して,夫婦別姓の未来を避けられそうか考えていた.


 しばらく真剣に文章を吟味していたが、結果が見えるのはもっと先の事なので、この段階で吟味する事に対する意義を感じる事が出来ず,再度息抜きに動画巡りを再開した.


 海斗は,暗転した動画から動画サイトのトップに飛んだ.ページが更新されるのと同時に,見覚えのあるタイトルの動画を発見した.

「田中海斗に告ぐ,ってまさか……」

 海斗は恐る恐るその動画を開いた.


 やはり先の動画と同じように、この動画を初めて再生する人間は自分のようだった.動画の中には女性が映っていた.これまた先ほどと同じようなアングルだ。女性の髪は肩まで伸びていて,美人だが冷たい印象を受ける顔立ちをしていた.暇そうに爪を触っているようだったが,海斗の方を見てはっとした顔をした.


 面倒事が続きそうだと海斗は思わずため息をついた。そんな海斗を見て画面の中の女性が口を開いた


「あんた田中海斗よね,私の顔を見るなりため息をつくなんて随分なご挨拶ね」


 なんで未来の人間は高圧的な態度を取る人が多いのかと,海斗はもう一度ため息をついた。



 彼女は田中美紀と名乗った。なぜ田中ばかり自分に連絡を取ってくるのかと不思議に思ったが、どうせ難解な話をされて理解できないだろうと思い,疑問は胸の内に閉まっておいた.


「それにしても不思議な感覚だわ.『会話が成り立つ』事が保証されているってだけで,ここまで自然に話をする事が出来るなんて」


 海斗は既にこのやり取りを終えていた為,今回は本題に進むのが早かった.

 彼女の頼みは田中直樹と同じ内容だった。


「あんたのレポートを書き換えて欲しいの」


 ---田中美紀の世界(約1000年後)---


 直樹の出したレポートによって,日本は旧態依然の夫婦同姓の世界線を進んでいく.一部からは相当な批判があったようだが,今まで通りの世界が続いていくため,日本は平和だったようだ.

 しかし、ある程度年月を経た時にある学者が気付いた.

「苗字の統一が始まっている?」

 よくよく考えれば当然の成り行きだった.田中直樹のいる世界でも発生していた現象なのだ。つまりこういう事だ。


 大量の「佐藤」がいなくなる事は無いだろう.子を持つ前に死ぬ個体がいても,子をなす個体が必ずいるためだ(確率論的に).

 では,特定の家庭にしか存在しない激レア苗字の場合はどうであろうか.


 子供が一人しか生まれなかったとすると,激レア苗字の継承者はただ一人である.その子供が結婚する前に死んだり,結婚のタイミングで相手方の苗字を名乗るようになればどうなるか.

 その苗字の歴史はそこで終わってしまう.個体数の多い集団は生き残りやすいが,少数民族は絶滅しやすいという事だ.

 極端に言ってしまえば,大きな問題が無い限り,一番個体数の多い集団である「佐藤」が一番生き残りやすいのだ.


 自然の摂理がしっかり人間社会にも影響力を持っていることに学者たちは興奮していたが,一般人の感覚で考えると,それは非常につまらない出来事だった.

 名前だけでなく,苗字も合わせてその人の個性であるという考え方が当たり前だったため,将来的に苗字による個性が消滅する事は受け入れ難かった。


 学者の発表から700年ほど経つと,上位10種類の苗字が大多数を占め,それ以外の苗字は消滅するか一子相伝の絶滅危惧種的な苗字になっていた.

 苗字を残そうという考えが一般的になり,激レア苗字が生き残りやすい世界になっていたため,細々と続いていく苗字は意外と多かった.


 それでも,同じ苗字の集団が圧倒的多数を占めていたため,個性を出すためにミドルネームの文化が発達したり,好き勝手に苗字を呼称したり(これは若年層に多かった)カオスな世界になったようだ。

 とはいえ、前の世界とは違い、家族としてのまとまりはあるし,自身が大きな集団に囲われているという意識が強いのか,かなり平和な世界だそうだ.

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「えっと...何か問題が?」

「あるに決まってるでしょ!こんなつまらない世界にしたのが,あなたのせいだって言うんだから」

 田中美紀は自身の名前に対する不満を喋り続けていた.


「苗字が『田中』なのは良いのよ,みんな同じようなもんだから.でも名前が『美紀』って何!?500年前のネーミングセンスよ.それならせめて苗字だけでもオシャレに生まれたかったわ」


 その文句を俺に言われても、と直樹は思ったが口には出さなかった。というか、直樹の世界線を避けた結果がこれなのか⁉

 直樹は態度こそ悪かったが、人類に対する想いには真摯な物を感じさせた。一方、田中美紀の方はどうであろうか。必死に分岐させた世界線を、個人的な恨みつらみで台無しにしようとしている。

 適当にいなして切り上げようと海斗は考えた。少なくとも直樹がいた500年後の未来よりはまともな未来に感じたからだ。


「それで俺は何てレポートを書けば良いんだ?つい先ほど,夫婦別姓だけはやめてくれって言われたばかりで……」

「知らないわ.でも新しい原稿書くまで通話は切らないでね」


 そういう技があったか。

 海斗は頭を捻りに捻った。彼女の監視下で新しい苗字システムを考えなければならないのだ。先ほど書き上げたレポートを提出すればよいだろうが、田中美紀を納得させ、通話を切り上げるためには、でっち上げだとしても新しいシステムを考える必要がある。

 脳みそが雑巾だとしたら,ねじ切れるぐらいに捻り上げた結果,彼はなんとか代案を作り出した.

 大変な作業をさせた彼女の事を海斗は恨めしそうに睨んだ.


「あら,出来たのね.そしたら確認させ...」


 そういって彼女が画面を覗き込んだのと同時に通話が終了した.もちろん彼女も海斗も終了ボタンを押したわけでは無かった.

 何となく、海斗には通話が切れた原因が分かる気がした。


「俺が違うレポートを書き上げたから未来が変わったのか.彼女がいた世界と別のレポートを仕上げた結果、別の世界線に乗ったから通話が切れた,と」


 海斗は現在の状況に適応し始めていた.

 腐っても大学生になれる程度には頭脳を研鑽してきた効果であろうか.それとも先ほどの無茶ぶりをクリアする為に脳を酷使したからだろうか.

 海斗は自身の書いたレポートの内容を確認し直した.今回はこんな内容だ.



 日本は未来を見据えて新しい苗字システムを採用するべきだ.

 今までのように,先祖代々受け継いできたものをそのままの形で残していくのではなく,現代風にアレンジするべきである.新しい苗字システムでは,夫婦の苗字を同時に活用できるようにする.

 言うなれば,夫婦活姓(直樹命名)である.この制度では結婚した男女はそれぞれ別々の苗字を名乗る事が出来る.夫婦別姓と異なる部分は子の苗字の命名方法である.子供の苗字は夫婦それぞれの苗字の頭文字を一つずつ取って完成となる.

 例えば,『田中』と『佐藤』で結婚したとすると,子供の苗字は『田佐』になる.

 『田中』と『田中』の場合は『田田』という具合である。どちらの苗字を1文字目、2文字目に持ってくるかは夫婦間で協議するが出来るとする。


 直樹は自分の考え出したものにそこそこ満足していた。元の苗字を残したい場合は,上手に結婚すれば良いのだ。『伊藤』を残したかったら、『藤』が先頭にくる苗字と結婚すれば良い.『藤田』とか。

 それに加えて、今までの問題点を上手く調和した内容だと思った.


 同姓では結婚で苗字を変更した時に色々と不便だという意見に対しては,結婚した当事者は変更する必要がなく,別姓では子供の苗字の命名権を巡って分断が生じるという問題に対しても,子供の名前は二人の苗字の組み合わせで作られるため納得感がある.田中美紀の苗字がつまらないという点についても,新しい苗字が次々と生まれてくるため解決する事が出来ているはずである.


 当初海斗は、田中直樹のために作成したレポートを提出しようと考えていた。つまり、夫婦同姓を取り入れて、田中美紀の世界線に進むレポートだ。

 しかし、自身ででっち上げたレポートの出来が思っていたより良かったため、今回の夫婦活姓のレポートを出そうと思った。

 そうと決まれば、早く行動するに限る。また未来人から文句を言われたら面倒くさいからだ.それに今回は自分で編み出した内容だったため,誰かにケチを付けられたく無かった。


 田中海斗はレポートをしっかり保存すると,すぐさま提出フォームにファイルを移動させて,提出ボタンをクリックした.

 ボタンを押すと『提出』という表記が,更新を示す、円が回転するようなマークに変わるはずだった.

 しかし,直樹が提出ボタンを押すとすぐさま新しいタブが展開された.


「あれ,広告でもクリックしたか?」


 海斗の背筋を冷や汗が伝った。未来人の存在を感じさせるページ移動だったからだ。果たして海斗の予感は的中した.見慣れた動画サイトのいつもの再生ページに飛んでいた。URLを踏まされたようだ。


 ページの更新が終わると,今度は、そこそこ年のいった禿げ頭に立派な髭を蓄えた偉丈夫が腕組みしている様が再生された.


「問題点が改善されとらんのに得意げな顔で提出しようとするな!」


 彼は『田中大和』と名乗った.直樹の作った苗字システムの中でも『田中』姓は生き続けているようだった.田中と中田で結婚すれば再現可能なのが存続に一躍買ったのかなと海斗はぼんやりと考えた。


「それで何が問題だったんです?」


 海斗が心底分からないという風に聞くと田中大和は深くため息をついた.自分の作り上げた物に対してため息をつかれるとこんなに嫌な気持ちになるのかと直樹は学んだ.


「子供までは良くても,孫はどうなる?」


 大和の簡潔な説明で海斗は全てを理解した.苗字の頭文字を取るわけだから,二文字目になった苗字の痕跡は早々に消えてしまうのだ.孫が生まれた瞬間に自分の痕跡が消えてしまうのであれば、夫婦別姓が辿る未来と一緒だ。


「後は三文字以上の苗字が一瞬で淘汰されるのも不味い。そこにアイデンティティを見出している者もいるからな」


 田中大和の言う通りである。海斗自身が二文字姓という多数派に立っているため,少数派の都合を見落としていた.自身の不出来に少しばつの悪さを感じながらも海斗は不貞腐れてみる。


「でも,自分の苗字の痕跡が消えるなんて夫婦同姓の頃から変わってないでしょう。それに子供までならどちらも自分の苗字を使ってもらう事が出来るんですから」

「選択の余地があるのがいけない、同姓の時代ならばそういうもんだと割り切りやすかっただろうに……」


 年の功か,大和は海斗の不貞腐れた態度を見事にやり過ごした


「そしたら……」

「お察しの通り更に新しい苗字システムを作ってもらわんとな.俺はここで通信を切断するが必ずやり遂げろよ」


 そういうと田中大和は通話を切った.今までの会話相手とは違う思い切りの良さに少し心地良さまで感じてしまった.

 とは言っても,苗字システムを考え出すのはとても難しい.会心の出来だと思った夫婦活姓も見事に撃沈した直後では尚更だ。


 意外にも、頭を休ませるためにぼーっとしていると,突然アイデアが湧いてきた。


 今までの問題点をクリアできているか分からなかったが,思い付いたままに書きなぐる。雑ながらも書ききると,書ききった瞬間にPCの画面が切り替わった。

 驚く気力も無く,ただただ画面の様子を見守ると,画面の更新が終わった瞬間に怒鳴られた.


「お前が日本でのカースト制度を生み出した馬鹿野郎か!!」


 未来人との邂逅は海斗の心をささくれさせる所から始まるらしい.

 画面の中の男は酷くみすぼらしい格好をしていた。今までの未来人と比較すると目の中に強い殺気が込められているようだった。画面の切り替わりも今までの中で一番強引だったし。

 海斗は先ほど書き上げたレポートの内容を思い出した.


 苗字というのは,家庭を分かりやすく区別するために発明されたシステムのはずだ.それがいつからか,自身の苗字を残していくという点に焦点が当たってしまっている。同じ苗字の人間がたくさんいるのも良くない。変質してしまった苗字を本来の形に戻すために,機能性にのみ焦点を当ててみる。


 これからは,『文字』で家族を区別するのではなく,『数字』にて家族を区別する。

 ではその数字をどう定めるか.これは苗字の総画数で決定する事とする.


 例えば「田中」は5画+3画=8画であるから,『田中 大和』は『8 大和』となる. 法律が決まった時点で苗字は数字に変換される。法律制定直後の一代目には新しい法律による恩恵は非常に少ない。それどころか、『文字』としては違う苗字だったのに、『総画数』として区別されることで、同じ『苗字』になってしまう。


 ただし、このシステムの真価は結婚後に発揮される。

 このシステム下では、結婚後にそれぞれの苗字の画数を掛け合わせる。この「掛算」が大事な要素だ。

 他の演算方式,引算,割算は論外として足算を選択した場合,将来的に自身の苗字の歴史,繋がりを探すことは数学的に考えて非常に難しい.しかし掛算の場合はどうであろうか.掛算の場合は,使用した数字がそのままの形で保存されていくため,素因数分解する事によって自身の苗字のルーツを探る事が出来るのだ.


 「久松」という苗字があるとする.これの総画数は11で,11は素数であるから,掛算が続いていっても11という数字は未来永劫保存される。つまり、この家系が1000代々続いたとしても,「久松」という苗字の痕跡を見つけることが出来るのだ。足算の場合は,他の数字に埋もれていってしまうためルーツを探る事は難しくなる。


 もちろん,家系が続いていくと苗字の代わりとなる『数字』は巨大になり,機能性が低下してしまう。そのため,苗字として使用できる数字の桁数を制限する.苗字として使用する数字は冒頭の6文字分とする.なので,戸籍上の苗字が1234567890の花子さんの場合は,123456花子と名乗る必要がある.ただし結婚の際に苗字の掛算を行う際には1234567890という数字を使用する事とする.


 これが苗字に代わる家系判別システムだ.


 田中と佐藤が結婚すると,8×24でお互いの苗字は192になる.

 もっと先の代まで話が続けば,田中とか佐藤といった,苗字という古臭いシステムでしか使用しない文字列は忘れ去られ,図鑑の中でのみ見られる表記になる事だろう...


 確かこんな感じだったはずだ.

 海斗の目の前の画面の中では,未来人(名前は分からない)が顔を真っ赤にして怒鳴り続けていた.


「これを考えたやつはサイコパスの馬鹿野郎だ!○○○で△△△の×××のくそ野郎だ!」


 以下,彼の汚い言葉を省略した発言を記録する.


 曰く,苗字を遡れるという事は,その家系で何があったかを探れるということらしい.良くも悪くも苗字であるから,6桁分だけでなく,残りの部分の苗字を誰でも見られるシステムが出来たらしい.それに加えて,高度に発達した素因数分解アルゴリズムも作られたようだ(既存の暗号システムが破壊されたのは言うまでもない)

 その結果,現在の苗字になるまでにどんな苗字を吸収してきたのか誰でも簡単に分かるようになった.これによって,過去に犯罪を犯した血筋かどうかを特定出来るようになってしまった.


 当人が悪い事をした訳では無いのは誰もが理解していたが,来歴の綺麗な人物と結婚したがるのは避けられない事である.

 大きな影響を受けたのがリクルート活動である.少しでも綺麗な身分の人間を探そう,採用しようと躍起になった企業が多かったため,来歴の汚い人間達に与えられる職業は海斗の世界でいう3Kの職業に限られた.


 そこからは早かった.富める者と貧する者の差は開き続けた.勉強さえできれば一発逆転という事も,就職のタイミングで世界から爪弾きにされるため叶わぬ夢となった。


 苗字の因数分解を行うことで,年収が推定できるとニュースで話題になったタイミングで世界はこの苗字システムの悪さに気づいたが,そこからやり直す事は叶わなかった。世界のルールを作る人間は上流階級によって構成されているため,苗字システムを改変する決議案は提出されなかった。富める人間から見た時,苗字システムは冨が維持される制度と言い換える事が出来た。


 貧民層から生まれる優秀な人間を拾い上げる仕組みが形骸化していたため,技術の発展は今までの未来と比べると遅かったようだが,多数の人間を少数の人間で鎮圧出来る技術だけは物凄い早さで開発されたため,クーデターも起こらなかった.

 そのままズルズルと格差が開き続けた世界の下流に生きる老人が今,海斗の目の前で鼻息荒く文句をまくしたてていた.


「同志の努力と,革命派の議員の力添えの甲斐あってお前と通信する事が出来たのだ」


 老人は感極まって泣き出している.海斗には慰めようもなかった。別の苗字システムを考えると老人に伝え続けるしかなかった。

 老人が落ち着いた頃に,とても大きな音が画面の中から響き渡った.


「いかん.鎮圧システムが動き始めたか...」


 先ほどまで泣き崩れていた老人の面影はなく,そこには百戦錬磨の武人の顔があった.どうやら,体制側の鎮圧ロボットがこの通信を途絶させに来たようである。

 この段階で鎮圧を実行したとしても、海斗側の世界線が変わるだけで,老人の世界は変化しないはずだ。

 そのため,鎮圧しに来る必要は無いように思えるが,それはあくまで海斗の視点に立った時の考え方である.

 未来側の世界が変わらない保証は無い。海斗には観測できないだけで、実際に良い世界へ変化する可能性はある。


 老人はこちらを見やると,どこか納得したような顔で通信を切った.


 海斗は頭を抱えた.


 もう別のアイデアは出てこない.夜も深まっており,海斗の体力は尽き始め、圧倒的な眠気が襲ってきていた.


 海斗はやっつけでレポートを書きなぐる。とても馬鹿馬鹿しく,今までの問題点をクリアしているとも思えないものだった.それでも何とか書き上げてレポートを提出しようとする.


 今まで何気なく見てきた『提出』ボタンが途端に怖いものに見えてきた.

 このボタンを押すと未来が確定してしまう。それがどれほど酷い未来だとしても後戻りする事は出来ないのだ。提出しなければ、また未来人が現れて酷い未来を止めてくれるかもしれない。

 海斗は提出せずに動画サイトをめぐり続ける.しかしどこを見ても未来人からのメッセージは見当たらない.提出ボタンの周りのwebページをクリックし続ける。別のサイトに飛ぶなんてこともなかった。


「提出するぞ!今から提出するぞ!」


 PCのマイクが自分の声を拾っている事を確認しながら大きな声で喋り続けるが,それでも未来人からメッセージは飛んでこない。

 海斗は自分がおかしくなってしまったと考えた。妄想と現実を区別できなくなった結果,未来人と喋る事ができると思い込み,それによって頭がおかしくなったのだと.


 海斗は提出ボタンを押下した.


 更新が終わる瞬間を固唾を飲んで見守る.冷や汗が背中をなぞり,マウスを握る手は汗ばみ,強張っていた.動悸もするし,目がチカチカした.一瞬がひたすらに続くが,全ての出来事には終わりがある.ほんの少しの時間で過度な緊張を受けた海斗は一瞬意識が途切れた。慌てて画面を確認すると、提出はすでに終わっていた。


 未来は確定した。


 部屋に一人。眠気覚ましに飲んだコーヒーはマグカップにこびりつき始めており,PC画面の中の時刻は,日の出が近いことを海斗に知らせていた.

 何の変哲もない自室に,何の変哲もない画面.先ほどまでの出来事は全て夢で,今目を覚ましたのではないかとさえ思った。

 慎重にノートPCの画面から離れる.そのまま背中から床の上に倒れこむと,天井が見える.


「ストレス溜まってたのかな...」


 部屋の電気を手元のリモコンで消す.電気が消えて部屋の中が暗くなるが,まだ部屋は薄明るい。

 PCの電源を切り忘れている事に気づいた。しかし,今から起き上がって電源を切るのも億劫で,そのまま寝入ってしまおうと考えた.授業に遅刻しないよう最後の力を振り絞ってアラームを設定する。


 今一度天井を見上げると,PC画面の光が天井を照らしていた……煌々と。


 ……眩しすぎないか?と少し疑問に思った瞬間,今までの出来事が夢物語で無かった事を思い知らされた.天井を照らす光は,明確に輪郭を帯び始めて,今までの未来人との通信を思い出させる画に移り変わっていた.


 今回違う点は,画面の中の人間が一人では無い事だ.2,3人どころではない.大勢の人が画面に映っていた.集合写真で集まっているような雰囲気だ。

 海斗の顔はPCカメラに拾われていないはずだが,それでも未来人たちは海斗の存在に気づいたらしい.


「田中海斗さんですね.未来人を代表してあなたに感謝を伝えます」


 画面の中のとびきり綺麗な女性が海斗に語り掛けた.

 海斗は擦れ声で返答する.


「もしかして,良い未来にたどり着けたのですか」


 女性は満面の笑みで頷く.

 海斗は、映像の中の世界が想像も出来ないくらい技術の進んだ世界だと一目で気付いた.彼らの背景には惑星?が映っていた.海斗が普段見る月とは比べる必要もないほど大きなサイズだ。その巨大な星には大気があるようで、曇が流れているのが分かる。彼女はあの惑星の軌道上にいるのだろうか?

 惑星の様子を観察し終わるまで彼女は待ってくれているようだった。海斗はそれに気付くことも無く、画面の中を隅々まで見た。


 その星はただの星では無かった。土星のような輪っかがくっついていた。その輪からは、星を突きさすように大量の細い棒が地表まで繋がっていた。

 海斗は宇宙を研究している訳では無いが、それでも細い棒が異常な物だという事はすぐに分かった。


「……これは、軌道エレベーター??」


 よく見ると、輪の部分も構造物のようだ。細い場所や太い場所、規則的に明滅している部分。輪を囲うように輪が形成されている場所もある。

 輪の外側、惑星から遠ざかる方向にも細長い棒が突き刺さっている場所があり、棒の先の方には、球形だったり、円柱型の構造が見える。彼女がいるのも同じような場所なのかもしれない。

 景色を見ていると、重要な事に気付いた。

 画面に写っている星の地表に見覚えがあったからだ。


「これ、地球か……」


 ひとまず、海斗の想像を数段階も超えたような場所で会話をしているようだ。


「海斗さんのおかげで,この世界はとても平和です.今回通信をしたのは,こちらの世界で節目を迎える事が出来たからです」

「節目?」

「はい!地球人全員が家族になる事が出来たのです.」


 言っている事が何一つ理解できなかった.

 彼女は海斗の反応を予期していたようで、落ち着いた様子で喋り始める。


「少しだけ説明させて下さい」


 女性の世界は西暦で言うと20341年らしい.今は別の元号を使用しているし,居住地も太陽系ではないようで,別の星系で暮らしているらしい.地球の重力が強いせいで手間がかかるとか何とか言っていた。それでもここまで発展しているわけだから驚きだ。

 今回は海斗に連絡を取るという事で,海斗が馴染みやすいように、わざわざ地球近辺まで集まってきてくれているようだ。


 彼女の苗字は,地球上の全ての苗字が混ぜ合わさった苗字だという。


 自分で書いたレポートだから海斗は知っていたが,だからこそ,それで平和な世界を築き上げる事が出来た事に驚いていた.海斗が書いたレポートでは,結婚したら互いの苗字を合体させていく事を提案していた.


 夫婦合姓とでも言おうか.


 例えば伊藤と田中が結婚したら,苗字は「伊藤田中」だ.「伊藤田中」と「佐藤鈴木」が結婚したら「伊藤田中佐藤鈴木」が苗字になるというとんちきな内容だった.性別の順番は名乗りたいように並び替えても良いが,苗字の構成が同じなら順番が違っても同じ苗字とした.なので,「伊藤鈴木田中佐藤」と「田中鈴木佐藤伊藤」が結婚しても.「伊藤鈴木田中佐藤田中鈴木佐藤伊藤」とはならず,「田中鈴木佐藤伊藤」になる。もちろん苗字の並び変えは自由だ。


 最悪の未来を迎えたシステムと類似した内容のはずだが、結果は正反対だったようだ。

 前回は,上流階級が苗字をミックスする事を拒んだため,苗字の統合は進まなかったが,今回は苗字の統合が積極的に行われたようである.


「新しい苗字を取り入れるために、競うように結婚したらしいですよ」


 そんな訳で国際結婚も驚くほど増えたらしい。日本限定で始まった苗字システムだったが,一度海外に輸出され始めると,感染するように全世界で苗字システムが変わっていったようだ。

 そんな訳で,新システムが始まってから2万年弱で,世界中の苗字が合体した苗字が誕生したのだ.それが「節目」だと女性は語った.


「よくカースト制度が生まれませんでしたね.含まれている苗字の総数が多い人が偉いみたいな」

「考えてみて下さい.総数を増やすためには結婚を繰り返していく必要があって,それこそ積極的に交わりの少ない人達と関わっていく必要があるのですよ。知らない人を誰よりも求めている人達がトップランナーになるわけですから,差別なんて生まれないですよ」


 それもそうかと海斗は納得した.しかし、前までの世界とここまで大きく変わるものなのか。


「幸せそうな世界みたいで良かったです.そしたらもう寝ちゃってもいいですよね?」


 海斗の申し出に女性は少し慌てたようだった.


「申し訳ございません。少し予定していた時間を超えていたようです.ですが、今少しお付き合い下さい」


 女性は深々と頭を下げると,懐から何かを取り出した.


「これはプレゼントです.あなたの世界では最先端技術ではなく、魔法のようなものかもしれませんが,それでも感謝の気持ちを伝えたくて用意しました」


 それは指輪だった.何の変哲もない指輪のように見える.女性はそれをカメラに向かって放り投げた.


「それではゆっくりとお休みください.改めまして,未来人を代表して感謝申し上げます。」


 女性が微笑んでいるうちに指輪はゆっくりとカメラに近づいていた.不自然なぐらいゆっくりとした動きで近づいているが,これも未来の技術なのだろう.その指輪がどうなるか注視していると,指輪が天井に出現した.


 未来から現代に物が送られてきたのだ.海斗が仰天していると,女性がいたずらっぽく微笑んだ.指輪がゆっくりと海斗の方に向かってくるのと同時に画面が消えた.

 指輪はゆっくりと海斗の胸元に落ちてきた.それを優しく受け止めるが,やはり何の変哲もない指輪に見える.とりあえず海斗はそれを指にはめた.


 最後の最後に目が冴えてしまった.どうやって寝付けば良いのだろうと思っているうちに海斗は眠り込んでしまった.

 それが指輪の能力だった.指輪は海斗の体調を必ず万全な状態に保つ.今回は強制的に眠らせたが,それは未来人なりの心遣いであった.朝になれば,指輪の効果で目覚まし時計の時間通りに起きられるし,そのタイミングで指輪に込められた効力が海斗の脳内に説明文として浮かぶ仕組みになっていた.


 海斗は心地良さそうに眠る.今までの人生で感じた事も無いくらいに極上の眠りだ。もちろん指輪がもたらした効果である。


 指輪は効力を発揮するために微弱な電流を発していた。この時代の技術では気付くことも難しいぐらい本当に弱い電流である。弱いため,私生活には影響がないし電子機器に影響を及ぼす事も無い,はずだった。


 海斗は寝返りをうつ。しかしそこはいつもの寝床ではなく、ローテーブルの下。寝返りを打つことはできなかった。それでも寝返りをしようとする海斗のせいで、机の上のpcはガタガタと揺れていた。


 海斗は無意識に手をローテーブルの上に伸ばす。伸ばした先にはPCがあった。

 海斗がテーブルを揺らした事で、パソコンは折り畳まれた状態になっていた。

 つまり、海斗はPCの外装の上に手を置いた。

 それは本当に神がかり的な確率だった。


 指輪をつけた方の手がパソコンを触る時、指輪の表層が僅かにパソコンを透過したのだ。全国の理系大学生が量子力学の授業で一度は耳にするトンネル効果が今まさにここで起こったのだ。

 これは指輪の力などではなく、本当にただの偶然だった。


 そのあり得ない確率で起きた現象は最悪の結果をもたらした。

 指輪の表層が微かにパソコンの中に侵入した際、物質同士の干渉による影響こそ無かったものの,電流による影響が引き起こされた。


 直接PCの回路内に流された微弱な電流は,スリープ状態のパソコンの挙動を狂わせた.本来ならば,バグの挙動がシステムに大きな影響を与えることは無いが,これまた奇跡的な確率で海斗のパソコンはスリープ状態から内部でクラッシュが生じている状態へと遷移した.

 そのままパソコンの電源は切れてしまった。


 海斗が未来人たちと話すことが出来ていたのは,海斗のパソコンの内部情報がハッキングの影響によって電子の海に流されたことに起因するものだった.

 本来ならば,海斗のPCは起動状態で置かれた状態だった。それによって、PCの内部情報が保存された状態でハッキングされるはずだった。これはどの世界線においても共通の出来事だった。帰着論によって確定していたはずの未来だった。

 しかし、奇跡的な確率が2回連続して起こったことで、未来を変化させる力が発生した。


 今現在海斗のパソコンは未来人の贈った指輪によって電源が切れてしまっていた。するとどうなるか,海斗のパソコンがハッキングされなかった世界線に移動する.海斗が先ほど受け取った指輪は,ハッキングされた世界線の平和な未来から贈られたものだから,未来と繋がらなくなった場合,指輪が贈られる事は無い。

 海斗は眠っているため気づいていないが,いつの間にか海斗の指からは指輪が消えていた。


 海斗は深い眠りに落ちたままである.


 指輪の効力によって授業に間に合うように起床できるはずだったが,海斗の目を覚ますための指輪は消えていた.つまり海斗は熟睡したまま朝を迎える.日が高くなっても海斗は起床しない.寝るのが遅かったし,指輪の効力によって、とても深い眠りについていたからだ.海斗が目を覚ましたのは,太陽が一番高く上がったタイミングだった.


 海斗は時間を確認すると,肩を落とした.

 夜なべして書いたレポートを発表する授業が終了していたからだ.

 単位はどうなるだろうかと不安になり、顔を両手で覆った時に指輪を付けていない事に気付いた.


「あれ,指輪を貰ってから寝たような……」


 海斗は机の周りを探すが,指輪を見つける事は出来なかった.

 ひとまず教授に謝罪のメールを送ろうとパソコンを立ち上げる.


「あれ,昨日パソコン消してから寝たんだっけ?」


 違和感に首をかしげながらメールを書き上げて,謝罪のメールを送った.


「そういえば,俺のパソコンってハッキングされるんじゃなかったっけ?」


 海斗は昨晩起きた出来事を振り返るが,未来人が言っていたことの痕跡は何もないし,唯一の物的証拠である指輪も跡形もなく消えていた。


「もしかして,全部夢だったのか?」


 海斗の世界の未来がどんな結末を迎えるかは誰にも分からない.

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