後編

ぼくは車道のまんなかにいる。

からだがすくんで、動けない。

瞳が散大している。

こちらへものすごい勢いで向かってくる何かを見据えている。

何かは勢いを殺すことなく迫ってくる。

覚悟ともあきらめともつかない感情がわきかける。

しかしそれに反して、何かに抗う力がぼくのなかに生まれる。

何かが目の前に迫ったそのとき、それはぼくのからだから迸りでて……


そんな夢をみてぼくは目を覚ます。


青のお姉さんがぼくをみて「おはよー」と声をかけてくれる。

「おはよう、ございます」と返すぼくの頭をお姉さんはわしゃわしゃなでて、「んーカタいよぅナオくーん もっと力抜いてこ」と言ってぎゅっとぼくを抱く。

ここにきてからじゅうぶん癒されている気でいたけど、お姉さんからしたら足りないらしい。

ぼくはぎゅーってされながらお姉さんの体温に身をまかせている。

そうして、(あったかいな、しあわせだな、これを失ったらおしまいだな)って感じている。


そんな生活がしばらくつづいたある日、〈隠れ家〉の雰囲気が慌ただしくなる。

みんな口々に「様子が変だ」というようなことをささやきあって、せわしなく動き回っている。なにが起こってるのかだれかに訊きたかったけど、ちょっと声をかけられる雰囲気じゃなくて、ぼくはじゃまにならないようにそっとすることだけを考える。


「特保のやつらかもしれん」と言って、狼のお兄さんは車に乗り込み出掛けていく。

保健所に設置された特務機関による〈獣人〉掃討作戦がいつ始まるかは、常日頃から警戒されていた。

「きみはわたしが守るからね」と青のお姉さんはぼくの頭に手をのせてから言い、〈隠れ家〉の奥へ行ってしまった。


ぼくは〈隠れ家〉にいてもじゃまになりそうだからと思い、おさんぽにでも行こうかと襖を開けて廊下に出る。


細い廊下にボルゾイがいる。

「ボルゾイさん」と声をかけようとして、様子が変なことに気がつく。

ボルゾイは中途半端に獣化してて、口から舌を垂らし、茶色の瞳はどこを見てるのかわからない感じで見開かれている。

ぼくはボルゾイの首のうしろあたりに黒い影があるのを見る。

(なんだあれ?)

影はもやもやとかたちを変えながらボルゾイの首にまとわりついている。ぼくにはその影がカラスのようにも見えたが、もしそれが鳥であればカラスよりも邪悪な鳥だと思われた。


ボルゾイのからだをゆさぶって「だいじょうぶ?」と声をかけるが返事はなく、だらしなく開いた口からよだれを垂らしながら、ウ、ウ、と唸り声をあげるだけだった。

首のうしろをみると、黒い影は消えていた。

ボルゾイは悪い夢でも見ているかのようにずっとうなされていて、ときおりなにか恐ろしいものを払いのけるかのように、四肢を振り回す。

ぼくはだれかの助けが必要だと思い、ボルゾイのそばを離れて〈隠れ家〉に戻る。


〈隠れ家〉に戻ると、ヒガシくんが台の上に寝かされていて、そのまわりを白衣をまとったひとたちがすきまなく囲んでいる。

ヒガシくんもボルゾイとおなじように虚ろな目で無影灯を眺めていて、意識がはっきりしてないようだった。


白衣姿のひとたちがヒガシくんに執刀し始めても、ヒガシくんは抵抗しない。

体のあちこちにメスが入れられ、切り刻まれていく。

両腕両足が胴体から切断される。

顔面にメスが入れられ、深い思索をたたえていた哲学者のような風貌は、かわいい女の子のように整形されていく。

それはメンソレータムの容器に描かれたナースの子そっくりで、ヒガシくんの首からは「ぬってあげるね」と手書きされた札がかけられる。

ヒガシくんを照らしていた無影灯が消える。その瞬間、さっきの黒い影がすばやく動き、〈隠れ家〉の奥へ向かうのが見える。


そっちはお姉さんがいる方だと思い、ぼくは慌てて後を追う。


たぶんすごい顔をしていたんだろう、息を切らして駆け込んできたぼくをみて、お姉さんはちょっと驚いた顔をして、「ん? どうかした?」とやさしくほほえむ。


「ボルゾイとヒガシくんが……」と言いかけて、お姉さんの首筋にあの黒い影がまとわりつこうとしているのをみる。


ぼくはお姉さんに駆け寄って、からだをぶつける。

お姉さんはいきなり突きとばされて「うわ」と声をあげ、地面にうちつけた腰をさすりながら「ちょっと、なに……」と困惑している。

お姉さんの首を確認すると、黒い影はなかった。

「ねぇ、だれかが、ぼくたちを壊そうとしてる」

じぶんでもよくわからないまま、ぼくはお姉さんに危険を知らせる。

黒い影のこと、ボルゾイとヒガシくんがどんな目にあったかということ、カラスよりも邪悪な気配だったということを、脈絡がおかしくなりながら伝える。


お姉さんは、ちょっとまだよくわからないんだけどと前置きして、「きみの話がほんとうなら、意識にはたらきかけてくる系のやつかもね」という。「わたしにはその影?見えなかったし、気配も感じなかったんだよね」と首をひねる。


「わたしたちに危害を加えるような気配なら、気づかないわけないのに」と考えこむお姉さんの首のうしろに黒い影が現れる。

ぼくは「お姉さん!」と叫ぶ。

でも、お姉さんに黒い影は見えない。

「だいじょうぶ きみはわたしが守るから」ってやさしくほほえみかけた口が歪み、意図しない獣化がはじまる。

目はぐりんと上を向き、白目をむいている。

「あ、あ……」と声をもらしながら、腕をぼくのほうへ差し出そうとしてくるが、うまく動かすことができていない。


お姉さんは、仲間の名前を次々に口にしながら、「やめろ、わたしは敵じゃない、正気を取り戻せ」と大きな声をあげつづける。

仲間どうしで殺し合う幻覚でも見せられているようだった。

お姉さんはついに諦めたように戦う姿勢をとる。

ぼくはお姉さんの豹変がただただ怖くて、なにもできずにそれをみている。

でも、たとえそれが幻覚であったとしても、仲間に手をあげ、傷つけた罪悪感は消えないんじゃないかって思うと、なんとかしてお姉さんを元に戻さなきゃいけないと思った。


「お姉さん!」

お姉さんの腕をとろうと近寄るぼくに、お姉さんは途切れそうな意識のあいまからいっしゅんぼくをみて、「こっち、くんな」とだけ言う。そしてまた顔を歪め、見えないなにかに必死に抗っている。


お姉さんの首のうしろにはまだ黒い影が浮かんでいて、ぼくのほうをみてにやりと笑った気がした。

(なんで見えないんだよ)

心底いまいましい。だけどぼくにはなにもできやしない。絶望がおりてくる。


ぼくはいつかみた夢を思い出している。

ぼくのなかに生まれた、得体の知れない力。

あの車は、事故なんかじゃない。

車道のまんなかに飛び出してしまったぼくは、車が迫ってくる勢いにぴって固まって動けなくなった。

車がぼくを轢くいっしゅんまえ、ぼくのなかからあの力が発されたんだ。

だから、あの車に乗っていた人間たちを殺したのは、ぼくだ。


ぼくにはいのちを粉々に砕く力がある。そう考えると、ふいにぼくのなかに残虐な感情が湧きあがる。

だから、そのときのぼくは(お姉さんを助けたい)ではなくて、(あの黒い影を粉々に砕いてやりたい)という闇に染められていた。


ぼくは黒い影を睨みつける。

からだのなかに力がみなぎっているのを感じる。

黒い影がじわりと動いて、お姉さんの首に巻きつこうとする。

「やめろ!」 ぼくは叫ぶ。

力が黒い影めがけて飛ぶ。

力が黒い影を撃つ。

黒い影はない顔を苦しげに歪める。

黒い影が消えるのと同時にお姉さんが崩れ落ちる。

お姉さんは首すじを押さえている。

駆け寄ったぼくをみてなにか言いたそうに口を動かすけど声にならない。

お姉さんの首はその半分が吹き飛んでいたからだ。

ぼくは、我にかえる。

じぶんのしたことに気づき、悲鳴をからだじゅうからしぼりだす。


お姉さんの腕が弱々しくぼくに触れる。

(だいじょうぶ きみはわたしが守るから)

お姉さんの声が耳によみがえる。


(いやだ、こんなの、いやだ)


目の前で起こってることも、言われてることも、何もかもわからない。

視界が狭まり光がなくなる。

まわりの音が遠ざかる。

触れている感覚が失われる……


ぼくの内側がまた漆黒に染まりはじめる。

どす黒い力が蓄積されていき、行き場を求めてうねっているのがわかる。


ぼくはそれをぼく自身に向けて放とうと決める。

お姉さんの腕をつかむ。

あたたかみが失われていくのがわかる。

ぎゅっと握る。

(いっしょに消えたらずっといっしょにいられるかな)

目を閉じる。

力を解き放つ……



(だめ、です……)



だれかの声がする。

放ったはずの力はどこかに消えている。

しがみついていたお姉さんの腕があたたかいのは、ぼくの体温が移ったからだろうか。


「ナオ……」

お姉さんがぼくを呼ぶ。

(え?)

お姉さんの顔をみる。

お姉さんがぼくをみている。

「よくがんばったな」

まだかすれる声でそう言って、ぼくのあたまにそっと手を置く。

じぶんでもよくわからないまま、ぼくはお姉さんにしがみついて声をあげて泣いている。

「ばか、泣くな……」

お姉さんは苦笑まじりに言って、弱々しくあたまをなでてくれる。


いろんなことがおちついて、〈隠れ家〉に平穏が戻り、ぼくにもわかることがいくつかあった。


〈獣人〉は、獣化しているときに受けた外傷はだいたい治るっていうこと。

保健所の特務機関が〈獣人〉掃討作戦に乗り出した形跡は(まだ)ないということ。

黒い影を見たひとは、ぼく以外にはだれもいないってこと。

ぼくは、獣化しないまま獣の力を使うことができるってこと。ただし、ぼく自身でうまくコントロールすることはできてないってこと。


「おまえのおかげ、と言うべきなんだろうな」

狼のお兄さんは〈隠れ家〉に戻ってから事態を知った。お姉さんが回復するまで、片時もお姉さんのそばを離れなかった。

「感謝してね」と、お姉さんはぼくに目配せしながら言う。

ボルゾイは正気をとりもどし、ヒガシくんの切断された四肢ももとどおりくっついた。ただ、メンソレータムのナースの子みたいにされた顔はまだ戻らないようで、哲学者然とした発言と顔がまったく合ってないので、ヒガシくんがしゃべるたびみんなは笑いをこらえるのに必死だった。


でも、一方でわからないままのこともいくつかある。


黒い影の正体は何だったのかってこと。

ぼくは何の〈獣人〉なのかってこと。

そして、あのとき頭のなかに聞こえた声はだれの声だったのかってこと。


はじめて〈隠れ家〉に連れてこられたとき、ぼくはどこかに帰らなくちゃいけないような気がしたけど、それがどこだったか思い出せなかった。

もしかすると、あの声の主は、ぼくが帰らなくちゃいけないって思ったその場所にいるだれかなのかもしれない、とぼくは思う。

だって、あの声はやさしくて、ぼくにあたたかな体温をわけてくれていたような気がしたから。


また〈隠れ家〉での生活がはじまる。

いつかその記憶も薄れてしまうんだろうな。


「ナオー ごはんだよー」

お姉さんが呼んでる。

うん、ぼくは行かなくちゃ。

ここで、みんなと家族になるために。

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獣とヒトのあいだ 玻名城ふらん @marnie_wasthere

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