さよなら、バス。

いととふゆ

さよなら、バス。

 赤信号。

 ひなたを保育園に送ったあと、職場へ向かう車の中、あつはイライラしながらハンドルを握り、青に変わるのを待っている。


 夫と別れて一年。

 シングルマザーの温子は毎日が息苦しい。


 もうっ、遅れちゃうじゃない……。


 前には幼稚園のバスが止まっている。

 すると、バスの後ろの窓から後部座席の園児がこちらを向いて、ニコニコと手を振ってきた。


 温子は思わずフッと息を漏らし、手を振り返した。かわいいな。


 ……あの子、見たことがあるような。


 懐かしくて温かい感覚が体全体を包む。

 温子の目から涙がこぼれた。


 あの子は……私だ。


 ***


 温子は幼稚園の頃から人と関わるのが苦手だった。何もしてないのに、人に避けられている気がしていた。


 おしゃべりする友達がいない温子は、登園バスに乗るとき、いつも後部座席の端っこに座り、後ろを振り返って車に乗っている人に手を振っていた。

 そんな寂しさを紛らわす遊びに夢中になっていたのだ。


 だけど振り返してくれる人がいれば、見てないフリをする人もいる。


 ある日、温子はバスと車が止まっているときに手を振り返してくれることに気づいた。


 それからというもの、バスに乗ると赤信号を心待ちにしていたのだ。



 卒園して小学生になり、中学生になり……、年を重ねるにつれて表面上だけの人付き合いはできるようになった。


 だけど、本当の友達なんていない。


 大学生になれば高校の友達との関係は途絶え、社会人になれば大学の友達との関係が途絶えた。


 職場で出会った夫とはおめでた婚でだった。

 しかし、その職場を退職し、ひなたを産んで二年後、夫が後輩の女性社員と不倫していることがわかり、今に至る。


 ろくでもない夫だったが、社交的な性格はひなたに遺伝したようで、ひなたは保育園で上手くやれているようだ。それだけは感謝している。


 自分は……誰とも分かり合えない。


 そんな思考に温子はずっと苦しめられている。

 

 だけど、それでひどく落ち込むようなときは何かの雑誌で読んだ言葉を思い出して、なんとか心を落ち着かせるのだ。

 

 自分を守ってあげられるのは自分だけ。

 自分を大切にしてあげて。


 ***


 次の日の休日、温子はひなたを乗せてスーパーへ車を走らせると公営バスが温子の車の前に現れた。


 赤信号で止まると、昨日と同じく幼い自分が振り返り、手を振っている。


 温子も笑顔で手を振る。


 大丈夫だよ。友達なんていなくてもいい。私が、守ってあげるから。


「ママー? だれにバイバイしてるの?」


 ベビーミラーに映るひなたは不思議そうな顔をしている。


「バスからひなと同い年ぐらいの女の子が手を振ってるじゃない」

「えー? だれもいないよ」

「おかしいなぁ、ママには見えるんだけど」

「へんなのぉ」


 ひなたが不満そうな声を出したが、温子はまったく気にしなかった。



 しばらく、バスの後ろを走っていると、「スーパーまだぁ?」とひなたの退屈そうな声が聞こえた。


 ……しまった。無意識にバスについていき、曲がるのを忘れていた。


「ごめん。ママ、道間違えちゃった。すぐ戻るからね」


 次の信号を右に曲がる。


「さよーならぁ」


 真っ直ぐ進むバスにひなたは手を振った。


 ***

 

 それからというもの、温子は幼い頃の自分に会えるのが楽しみになっていた。


 ある日、温子がいつものように赤信号のときにバスに乗っている幼い自分と手を振りあっているとひなたが尋ねてきた。


「ねぇ、なんで女の子はママに手を振ってるの?」

「それは……、寂しいからじゃないかなぁ。あの子は、誰かに自分のことを見ていてほしいと願っているんだよ」

「そうなの? ひなには……見えない。きっとひなにも見てほしいと思ってるよね?」

「え? そう、だね。きっと」

「ごめんね、見てあげられなくて」と言って、ひなたはじっと幼い頃の温子の方向へ視線を向ける。


「ひながその子のすがたが見えて、となりにすわってたら、たくさんおはなしするのに」


 え……?


「こうえんでブランコのったり、砂のおしろ作って、たのしかったねって」

「ひなた……」

「ねぇ、ママ。あの子に会っておはなしするときは、ひなが友だちになりたいんだよ、って言ってね」


 ひなたの言葉に涙がこぼれた。


 私、何やってるんだろう。

 私は……ひなたの母親なのだ。


 幼い頃から共働きで何かと怒っていた両親との楽しかった思い出がないから、ひなたといるときは笑顔でいよう、たくさん話そうって決めていたのに。


 ひなたは毎日楽しく過ごせているのだろうか。保育園のみんなと仲良しだと言っていたが、それは本当なのだろうか?


 私はひなたを見ずに、幼い頃の自分を見ていた。そんな場合じゃないのに。


 温子は手のひらで涙を拭いた。


「ありがとう、ひなた。あの子、絶対喜ぶよ。だけど、ママもあの子が急に見えなくなっちゃった」

「えぇー!?」

「大丈夫、あの子の願いは叶ったから」


 青信号になり、動き出したバスのあとに続く。

 あの子の姿はもう見えない。

 

 温子は少しだけひなたと幼い頃の自分がバスでおしゃべりする姿を想像した。


「ひなが食べたがってたドーナツ買って帰ろうか」

「いいの!? ママだいすきぃー!」


 バスは次の信号を右折した。

 温子は真っ直ぐに車を走らせる。



 さよなら、バス。


 さよなら、幼き日の私。


(了)

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