君が甘く溶ける前に

柳河南

君が甘く溶ける前に

 青葉澪あおばみおは、自身の目を疑った。あまりにも突飛な眼前の光景を、現実のものとは到底思えなかったからだ。

 続いて目を擦りながら、ここに至るまでの経緯を回想する。しかし今朝から綿々と続いている意識の連続性と整合性は、視界に映る「それ」が夢でも幻覚でもないことをはっきりと告げていた。


茜音あかね、どうしたの?それ……。クリスマスにはまだ早いけど……。」


 部屋の中心に据えられたローテーブルの上には、幼馴染の芹沢せりざわ茜音の姿。テーブルに座るのは行儀が悪い気がするが、ここは芹沢家で、茜音の部屋なのだから、澪が咎めることでもないと思い口をつぐむ。それに、今はマナーの良し悪しを問題にしている場合ではない。


 テーブルに鎮座する茜音の身体は、ケーキと化していた。ケーキの身体には腕も脚もなければ、肩も胸もお腹も背中もない。直径の異なる円柱が2つ重なった形状のそれは、てっぺんに茜音の頭部が乗っかっていることを除けば、ウェディングケーキと見紛うほど立派なものだった。


「み、澪ぉ……。助けてぇ……。」


 茜音は澪の姿を認めるや否や、ぽろぽろと大粒の涙をこぼし始める。いや、澪が来る前から既に泣いていたのだろう。目元は真っ赤に腫れているし、口元は鼻水でぐじゅぐじゅに濡れている。涙と鼻汁が混じった液体がぽたぽたと垂れて生クリームの表面にまだらを描いているものの、両腕を失っている茜音にはそれを阻止する術がないらしい。

 しかもよく見ると、粘液の垂れた部分以外もところどころ形が崩れかけているようだ。原因は、考えるまでもない。澪はセーラー服の胸元をぱたぱたと煽りながら、枕元に置いてあるリモコンを手に取った。


「と、とりあえずクーラーつけてもいい……?」


 夏休みが明けてとうに2学期が始まったにも関わらず、9月の気候は残暑というにはあまりにも厳しすぎた。どうやらこの日本から秋という季節は完全に消滅してしまったらしい。

 もちろん澪は幼馴染の危機を前に、自分だけ快適に涼もうとしたわけではない。こんなに暑い部屋にケーキを置いていたらすぐ溶けて駄目になってしまうと危惧しての行動だったが、その理由を口にするのははばかられた。


「茜音。なんでこうなっちゃったのか、心当たりはある?変なもの食べたとか……。」


 思いがけず「食べる」という言葉を発してしまった澪は肝を冷やしたが、茜音は依然としてしゃくりあげたまま、途切れ途切れに答える。


「わからない。朝から具合が悪くて、学校も休んで、寝て起きたら、こうなってて……。」


 解決の糸口が全く見えず、澪は頭を抱える。それでも、茜音のピンチに駆けつけることができたのは不幸中の幸いと言う他ない。

 今朝のホームルームで茜音の欠席を知った澪は、午後の授業が終わるや否や週1回の文芸部の活動を放り出してお見舞いに来たのだった。もちろんこんな異常事態は予想だにしていなかったが、澪が来ていなければ茜音は人知れず溶けてなくなってしまっていただろう。


 それにしても、ある日突然身体がケーキになってしまうことなど本当にあり得るのだろうか。澪は手にしたスマートフォンで

 「体 ケーキ 原因」

 「ケーキになる 病気」

 「ケーキになった体 治し方」

などと検索してみるものの、ヒットするのはダイエットや健康に関するサイトばかりで、有効な打開策にはかすりもしない。


 ため息をつきながら顔を落とす澪。脳裏には、先週文芸部の活動で読んだばかりの小説が浮かんでいた。


 ある朝目が覚めると、巨大な毒虫に変身していた男。虫になった男は職を失い、次第に家族からも疎まれるようになっていく。そして最後は……、

 澪は激しく首を横に振る。駄目だ。茜音はたった1人の幼馴染なのだから、なんとしてでも助けないと。


 ケーキの茜音の側には、磁器の皿と銀製のフォーク、加えて小ぶりのノコギリを思わせるとしたケーキナイフが添えられている。もはやこれは魔女か悪魔の仕業に違いないと、澪は苦々しく顔をしかめた。


「でも、良かった。澪が来てくれて。ひとりぼっちで、ずっと怖かったから。」


 澪が顔を上げると、茜音が潤んだ瞳のまま口元に笑みを浮かべている。


「私ね、澪に嫌われちゃったかと思ってた。」


 茜音の言葉に、澪はばつが悪くなり目を逸らす。

 澪は別に、茜音のことを嫌いではなかった。むしろその反対で、単なる幼馴染以上に思っていた。

 中学生までは文字通り毎日遊んでいたし、一緒にいる時間は家族よりも長かった。周囲から口々に双子のようだと言われていた2人が、進学先に同じ高校を選ぶのに迷う余地は全くなかった。


 ところが、高校に入ってから茜音は変わった。輝かしい高校デビューを果たした茜音は、次第に澪の知る彼女からは乖離かいりしていった。見た目も、趣味も、そして関わる友達も。

 もちろん、茜音が澪を突き放したなどという事実は一切ない。茜音は、それまで通り澪に接していた。加えてクラスの中心にほど近い地位を築きながらも、澪が周囲に溶け込めるよう常に気を配っていた。それでも澪は、心中穏やかではなかった。


 クラスの1軍と、日陰の文芸部員。澪はみるみる垢抜けていく茜音に対して劣等感を抱き、人前では茜音を避けるようになっていた。変わったのは、澪の方だった。

 特に喧嘩をしたわけではなくとも、2人の関係は日を追うごとにぎくしゃくとしていく。その結果、たまに一緒になる帰りの通学路以外で会話することはほとんどなくなっていた。


 しかし、澪は茜音を嫌いにはなれなかった。むしろ離れれば離れるほど、彼女に対する思いは日に日に肥大していくのだった。


 茜音を、独占したいと思うほどに。


「私のせいだ……。」


 澪の口から思わずこぼれた自責の言葉。

 自らの罪を悟った澪は、慚愧ざんきのあまり激しく取り乱し始める。取り返しがつかないことを自覚しながら、何度も頭を下げた。


「ごめん、茜音……っ、ごめんなさい……」


 顔面蒼白の澪は、震えながら何度も謝る。対する茜音は優しい表情で頭を左右に振り、まっすぐな瞳で澪を見つめ返した。


「澪のせいじゃないよ。」


 澪をなだめるようにしながら、穏やかな口調で続ける。


「私ね、本当は無理してたんだ。虚勢を張って、周りの明るい子たちに合わせるために、空元気で振舞って。」


 茜音の身体は、先ほどよりも融解が進んでいるように見える。17℃に設定した空調では、その進行を完全に食い止めることはできなかったようだ。


「だからこれは、私への罰なんだよ。自分を偽って、飾って生きてきた私への。」


「そんなの……、」


 高校生になってからの茜音の変化は、思春期の少女なら誰しも抱いている色めきへの羨望によるものだったのだろう。それを自戒する必要などないことくらい、澪は分かっていた。

 だが澪が今さら後悔しても、打つ手は何ひとつない。表面に飾られたチョコレートや砂糖菓子が、2人をあざ笑うかのように毒々しく彩りを放っていた。


「ねえ澪。私を食べて。」


 茜音の言葉に、澪は頭の中が真っ白になる。


「なに言ってるの。絶対助けるから、そんなこと言わないで!!」


 思わず声を張り上げる澪。しかし茜音は動じる様子もなく、憂いを帯びた表情を浮かべている。


「自分の体だから分かるの。私はもう長くない。多分日が沈む前には、溶けて無くなっちゃう。だから……、どうせ死ぬなら、澪に食べられて死にたい。」


「死……っ、」


 それまで抑えていた涙が、堰を切ったように溢れ出す。茜音が放ったその言葉は、たった一文字で表すにはあまりにも強力な意味を持っていた。


「嫌……。茜音がいなくなっちゃうなんて嫌!!絶対助かるから!!お母さんにも言って、病院でも見てもらって、それから……。」


 息を荒くして必死にまくしたてる澪。しかし脳裏には再び、先週読んだあの小説のことが浮かんでいた。


 毒虫と化してしまった男は、その醜悪さから家族にすらも忌避されるようになる。誰からも顧みられずカビ臭い部屋の中で細々と思案に暮れる彼は、父親に投げ放たれたリンゴが原因で遂に命を落としてしまう。

 男を失った家族は悲しむどころか、まるで「お荷物」から解放されたかのごとく、それまでよりも前向きに生きていくのであった。


 もちろんグロテスクな毒虫と、人の形を残している茜音とでは事情が違うだろう。澪は茜音の両親の優しさを知っていたし、娘の一大事とあらば彼らがその身を投げ打ってでも奔走するであろうことは容易に想像できた。それでも澪の頭からは、周囲から邪険に扱われる男の姿が離れなかった。


「……私が、茜音の願いを叶えてあげなきゃ。」


 それは歪んだ使命感だったのかもしれないし、茜音への独占欲が未だ消えていない証左だったのかもしれない。気付くと澪は、添えられたケーキナイフを手にしていた。


 茜音の身体を切ると、中にはフルーツがぎっしり詰まっていた。桃にメロン、オレンジ、ブルーベリー、いちご……色とりどりの果物たちは、全て澪が大好きなものだった。


「……痛くない?」


 茜はふるふると首を横に振る。


「感覚がないの。だから、痛くないよ。」


 形が崩れたケーキを、純白の皿に丁寧に盛り付ける。柄尻えじりに細やかな装飾が施されたシルバーのフォークを手に取り、慎重に口に運んだ。


「おいしい?」


「うん……、うん……。」


 泣きじゃくって言葉も発せない澪は、絞り出すようにして何度も首を縦に振った。


 それから、澪は夢中でケーキを頬張った。とめどなく流れ出る涙とドロドロに溶けた生クリームがセーラー服を汚したが、そんな些細なことは気にも留めなかった。


「ねえ澪。」


 澪の咀嚼と同時に存在そのものが徐々に欠けていく茜音。しかしその目に浮かぶ涙は、もはや恐怖と絶望のものではなかった。


「私ね、澪と一緒に歩く帰り道が、人生で一番楽しかったよ。」


 むせ返るほど甘ったるい香りが充満する部屋の中、2人の少女が奏でる喘ぎはいつしかたった1つへと変わる。

 しかし、残された1人の嗚咽と慟哭どうこくは、いつまでも消えることはなかった。

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