5.

「―――――」


 名前を呼ばれた気がした。


 ふと気がついて、開けた目から見えた景色は白い天井。保健室の見慣れた天井とは違って、知らない天井だ。


「どこ?」


 ゆっくりと意識が冴えてくる。鼻に届く微かな消毒液の匂い。視界の隅にある透明なパックからは、ぽとりぽとりと雫が落ちている。半透明の管を辿って顔を傾ければ、それは私の腕へと続いていた。


「……病院?」


 身体を起こすと、だるさと眩暈が襲って来た。揺れた世界が気持ち悪くて、また仰向けに倒れた。


 窓の外は夕暮れ色になってきて、白かった天井も壁も布団も、ゆっくりとオレンジ色に染めていくところだった。


 ここには誰も居ない。個室で一人、目を覚ました私。これって現実? もしかして天国?


 手の平を顔の前に持ってきて、ぐー、ぱーと動かす。身体の感覚はある。そのまま頬をつねってみる。むにっとした肉の感触と、遅れてじわりとやってくる鈍い痛み。


「多分、生きてる」


コンコン。


 小さくノックの音がした。ドアの方に顔を向けて見るが、開く気配はない。


 ここが本当に病院で、例えば看護師さんだとしたらすぐ入って来るはず。じゃあ、外に居るのは誰だろう。


コンコン。


 もう一度、小さくノックされた。返事をするか迷っていると、スライドドアが音もなく開き始めた。


 じっと見ていると、そのドアの向こうから現れたのは色白のほっそりとした指、黒くて綺麗な長い髪、くりっとした小動物みたいなつぶらな瞳。


「うたこ!」


 私が反応するより早く、かすみは私の名前を呼んだ。


「かすみ?」


 ベッド脇に駆けて来るかすみは薄い水色の病院着姿だった。私の知っているかすみよりも髪の毛が長い気がした。


「よかったぁ」


 そのまま寝ている私に抱きつくかすみ。実体がある。ちゃんと触れる。温かい。心臓の音と、さらさらと流れる細い髪の毛の手触り。


「え? どういうこと」


 混乱する私をよそに、かすみは嬉しそうな顔で私を何度も見て、何度も抱きついた。


「ちょっと、苦しいって」


「幸運の指輪は、本当に嬉しいことを運んできてくれるんだね」


 そう言って満面の笑みで、ポロポロと涙を流すかすみ。


「天国、じゃないのね」


「生きてる。生きてるよ」


 にこにこと笑いながら泣いているかすみの声は弾んでいた。


「私ね、春休みに交通事故に遭って、ずっと意識がなかったんだって」


「それで、その間ユーレイになってたっての?」


「多分そう」


 そんなことってあるんだろうか。そんなオカルトがこの世に存在するんだろうか。


「指輪、なくなっちゃったんだ。きっとうたこの指輪もなくなっちゃってると思う」


 指輪。いつも持ち歩いていたものなのにすっかり忘れていた。


「今起きたばっかりだから」


「その指輪がね、私達を会わせてくれたんだよ。だって幸運の指輪だもん。きっと、そうだよ」


 意味もなく手を握ってぶんぶんと振り回すかすみ。


 その嬉しそうな様子を見ていると、そんな嘘みたいなことが本当にあってもいい気がしてきた。


 こんなに嬉しい気持ちで満たされているなら、嘘みたいなことも奇跡って呼んでいい気がする。


「かすみ」


 私もいつの間にか泣いていた。


 涙が出て来るけど、嬉しくて嬉しくて仕方なかった。きっとかすみも同じ気持ちで。


「退院したら、一緒に学校に行こうね」


「うん」


「図書室で本読んだり、学校の中探検したりもしよう」


「うん」


「それで一緒に帰ろう」


「うん」


 そんな子供みたいな当たり前の約束を交わしながら、起こるはずのなかった幸せなこの出来事に、ただただ私達は喜んでいた。


 かすみが居れば、大丈夫。そんな根拠のない子供っぽい理由が、今の私にはたまらなく嬉しくて、指輪がなくなっていてもずっと大丈夫だって確信があった。


 明日が待ち遠しい。明後日も楽しみでならない。


 そんな単純なことで、私達はいつまでも笑い合っていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

I want... あるむ @kakutounorenkinjutushiR

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ