4.
「おはよー」
「昨日の配信見た?」
「今日は放送当番かーめんどうくさいな」
「おはよう」
「おはようございます」
「ねえねえ、今日さぁ―――」
じっとりと全身嫌な汗をかいていた。なんでもない表情を作ることに全神経を集中させて、目の前の光景については深く考えないことにしていた。
「昨日の宿題めんどうくさくなかった?」
次々と正門に吸い込まれていく中学一年生、二年生、三年生。
「今日の時間割、嫌いなんだよねー」
こんなことをするくらいなら、やっぱり教室に行って一言聞けばよかったかもと思い始めていた。でもそっちの方が教室中の視線を集めそうな気がする。誰が誰を呼んでいるのか、好奇心に満ちた目でじろじろと見られるのは嫌だった。
「昨日の練習で筋肉痛になっちゃったよ」
そんなことを考えながら、とめどなく流れていく人の群れの中を、ただ黙々と探していく。興味のない顔をしながら、意識を集中させて取りこぼさないように探していく。
「今日の部活、誰が鍵当番だっけ?」
こんなに人が多いのに、私に注目する人はいなかった。たくさんの中学生たちが通っていくけれど、目の端でちらりと見ただけでそれ以上に干渉されることはなかった。
「ねえ今日学校終わったら、うち来ない?」
なんだかユーレイになったみたいだ。誰からも見えない。誰からも相手にされない。私も同じ場所に居るのに、世界で一番のひとりぼっち。
「急がないと遅刻しちゃう!」
「走れ走れー!」
キーンコーンカーンコーン。
朝のチャイムが大音量で鳴り響いた。もう目の前にはさっきまでの制服の洪水はなかった。
「そっか……」
溜め息と共に声が漏れた。オカルトは嫌いなのに。そんなの存在する訳ないのに。
それを知りたかったのだけど、やっぱり知りたくなかった。私のくだらない妄想だと、そう突きつけて欲しかった。わずかな希望は打ち砕かれて、慣れないことをした疲れと一緒になって私を襲ってくる。
よく分からない感情に支配されて不快感にえずきながら、よたよたと保健室に入った。
「おはよう」
「……」
先生の言葉を無視して、私はベッドに倒れ込んだ。
やる気なんて出すもんじゃない。好奇心なんて持つもんじゃない。希望なんて持つもんじゃない。
熱が出た時のあれに似た高揚感と恐怖感の中、眠りに落ちていった。
―――――
夢を見ていた。
中学生になって最初の日。教室ではたくさんの人がいて、ざわざわと話している。中学校には学校の七不思議があって、情報の早い女子がそれを得意気に話している。
「―――と、トイレの花子さんと、図書室のユーレイ」
「どこにでもありそう」
「誰かが作ったんだよきっと」
「先輩に騙されてるんじゃない?」
先輩という真新しい単語、制服という窮屈さ、小学生とは違うという自覚、根拠のない自信、新しいことが始まる期待と緊張、眠気を誘う穏やかな天気。
―――――
夢を見ていた。
お母さんが死んだ日。泣いている幼い私。
顔を覆う私の手に、ぶかぶかのおもちゃの指輪。黒い服の集団に不釣り合いな、真っ赤なおもちゃの指輪。
冷たい雨。肌を包む寒さ。泣いて熱い頭と顔。涙。雨。涙。雨。涙。涙。涙。
―――――
夢を見ていた。
お母さんが優しく私を抱きしめる。幼い私の柔らかな髪を梳いて、ふたつに結ってくれる。消毒液のツンとした臭いのする真っ白なベッドで、陽だまりのように明るく笑うお母さん。
「これはね、特別な指輪なのよ。この指輪を持っていると、とっても幸せなことがやってくるのよ」
「おかあさんのびょうきもなおる?」
「それはお母さんががんばらなきゃね」
「うたこが、このゆびわたいせつにするから、おかあさんもげんきになるよ」
「そうね」
幼い私には幸せの瞬間に見えている。今の私からすればこれは呪いだ。自分とお母さんにかけた、無邪気な呪い。残酷で幸せで、胸が締め付けられる。
―――――
「―――さん、平松さん」
「……っ」
ハッと目を覚ますと保健の先生が心配そうにのぞき込んでいた。
「うなされてたけど、大丈夫?」
「……大丈夫です」
身体を起こして、額の汗を拭う。嫌な夢の連続で、気持ちがどんよりと落ち込んだ。逃げたくて眠ったのに、何の解決にもなっていない。寝ても起きても疲れるなんて、私はなんてめんどうくさいのだろう。
「紅茶淹れてあげるから、こっちに起きてきたら?」
先生はそう言って、ソファへ促した。
何も考えたくない私は、その言葉の通りにのそのそとベッドを這い出しソファへ座り込んだ。ベッドと同じくらいの、快適さからはちょっと遠い硬いソファ。いかにも学校の備品ですって顔をしている。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
小さな白いマグカップから立ち上る湯気が温かい。指先からじんわりと伝わる熱さが、私の悪夢という氷塊を一生懸命溶かそうとしてくれる。その健気さと、外国の華やかな香りが、ここは現実だと実感を持たせてくれた。
「朝、友達を待ってたの?」
自分のマグカップを持った先生が、斜向かいのソファに座って話しかけてきた。
「教室に行くより、勇気あるよ。正門なんてたくさん生徒が通るでしょ」
「別に。知らない人ばっかりですし」
「同じクラスの子たちも通ったでしょう?」
「よくわかんないです」
「そっか」
勝手に納得したふうの先生はゆっくりと紅茶を飲んでいた。
保健室にある時計の音や、電気ポットの音。校庭で体育の授業をしている声も聞こえてくる。ちょっと行けば授業を受けているたくさんの誰かが、教室を埋め尽くしている。職員室には、他の先生達だって居る。すぐそこに誰かが居る。
でもどれも私からはとても遠い。
「今度、がんばって教室に行ってみる? 担任の先生と相談してさ」
「大丈夫です」
反射的に口から声が出た。何が大丈夫かわからない大丈夫という単語は、私を守るためのファイアウォール。
「少しずつ行けるように、先生も応援するし、手伝うからね」
「大丈夫ですってば」
食い気味で答えて先生を睨みつけた。どうして大人は自分の都合のいいように、思い通りにしようとするのだろう。みんな同じでないといけないと、強く言ってくるのだろう。どうして、わかろうとしてくれないのだろう。
「大丈夫ですから」
こんなところに居たくない。居られる場所だったのに、それもなくなった。こんなところにもう、居たくない。
「どこ行くの? まだ授業中ですよ」
「トイレです」
授業中だろうが休み時間だろうが、そんなのは私に関係ない。授業を受けてない私にとってその時間に一体なんの意味があるというのだろう。だったら保健室で寝ているのはいいの? 勉強していないのに? 意味がわからない。何もわからない。
静まり返った廊下をひたひたと歩いていく。時間が止まったみたいに動かない空気を突っ切るのは私一人きり。もしも世界が動かなくなってしまったら、こんなふうな冷たさと解放感があるんだろうか。
「ここの公式は……」
時々、近くの教室から先生のよく通る声が聞こえてくる。世界が存在していることを知る唯一の手段に思えた。
薄い壁一枚隔てただけなのに、向こう側とこっち側では違う次元のようだ。
私はこっち側で、図書室へ向かって世界を動かしていた。
朝、確信を得たけれど、本当に本当か確かめなくてはいけない。この期に及んで、まだ希望的観測を抱いている自分に嫌気が差してくる。いや、その方がリアリストに近いのかもしれない。
ガラガラとわざと音を立てて図書室の引き戸を開いた。
この音が他の先生に聞かれるかも……と一瞬考えたけど、どうせ授業中なのだから、職員室の外にはほとんど居ないはず。
恐怖を踏みしめるようにドタドタと足音を鳴らし、いつもの定位置に腰を下ろす。埃と汗と紙とインクの匂いのするいつも通りの景色。違うのは、いつも差し込んでくる光より強くて白い光だということ。
「ねえ」
特に視線を外したつもりもないのに、いつの間にか目の前にはかすみが居た。
「授業はどうしたの?」
「それはあんたも同じでしょ」
「……何かあったの?」
私を心配そうに見つめるかすみはいつものかすみそのものだ。私の知っているかすみ。おしゃべりが好きで、動物が好きで、家族思いで、可愛くて、表情豊かで、子供っぽくて、でも時々お姉さんみたいで、優しくて、いつも楽しそうな私の自慢の友達。
「ねえ、あんた……、ユーレイ、なんでしょ」
私はポケットの中で、おもちゃの指輪を強く握りしめた。
「何、言ってるの」
「今日、登校する生徒の中に、あんたは居なかった」
「今日は、あの、ほら、ちょっと遅刻しちゃって」
「だいたいおかしいでしょ。授業中のこの時間帯。待ち合わせをしたわけでもないのに、どうしてあんたはここに居るの?」
「それは」
「友達とか言っておきながら、あんたは私と一緒に帰ったことなんて一度もないじゃない。家に来ていいよって言うくせに、いつも帰る頃になると『カバンを教室に忘れた』とか『先生に呼ばれてる』とか見え透いた嘘ついて濁してさ」
「うたこ」
「友達になりたいってなんなの。本当に友達になりたいなら、あんたのように、私もユーレイにしてよ」
かすみは、困った顔をして私を見つめていた。その透き通るような白い肌や、つやつやとした黒髪が、今ではVRのようにこの世に存在しない別の存在に見える。
「図書室のユーレイなんて、学校の七不思議なんて、そんな子供騙しの噂、信じたくなかったのに」
「うたこ……」
うなだれているかすみを見ているとイライラが募った。なんであんたがそんな顔するわけ?
「ほら、祟り殺すでも呪い殺すでも、早くやってよ」
「そんなこと、できないよ」
ユーレイのくせに、今まで騙していたくせに、なんでそんないい子みたいな答え方するの。騙されたのも、裏切られたのも、私なのに。
「なんなの」
勢い任せに掴もうとしたら、するりと通り抜けて派手に転んだ。
冷たくも熱くもない。冷たいのは図書室の床。痛いのはしたたかに打った私の両膝。かすみを通り抜けたっていうのに、なにも変わらない。かすみが見えているのに、そこにはなにもなかった。ただ悲しそうな顔のかすみが、無様に転んだ私をじっと見ていた。
「ごめん」
転んだ拍子にポケットから落ちた、私の指輪。みすぼらしいプラスチックのごみ。
「ごめんね」
友達だと思ってたのに。大事な友達だと思ってたのは私だけで。あんたはそんなふうに思ってなかったから、こんなことになってんのに。
こんなごみさえ持ってなかったら、きっと出会うこともなかった。平坦な毎日が続いて、ただ静かに過ごせてたはずなのに。
そもそも学校なんかに来なければ。保健室登校なんてしないで学校に来なければよかった。学校に行くのがほんの少しだけ楽しみになるなんてこと、味合わないで済んだ。
裏切られた期待と、持って行き場のない自分の感情に振り回されながら、ごみを握ってかすみを殴りつけた。
「痛っ」
「え?」
「え?」
どうせ当たらないと思っていた。さっきみたいにすり抜けるだけのはずだった。
おもちゃの指輪を握りしめた右手は、殴りつけたかすみの肩に当たった。
「なんで」
驚いている私たちの前で、私の指輪とかすみの指輪が赤い光を放った。その光はどんどん強くなっていく。と同時に、かすみの姿が透けてきた。
「……これが成仏、ってことなのかなぁ?」
呑気に言うかすみにまたむかついた。
驚きと、悲しみと、悔しさや、怒りや、大嫌い。大切な友達で、居なくならないでほしくて、どこにも行かないでほしくて。どれも本当でどれも違うような。何が本当で何が嘘なのだろう。
「ねえ、うたこ。友達になってくれてありがとう」
存在が薄れゆくかすみが、私に向かって言った。
「ずっと寂しかったけど、うたこが居てくれたから毎日楽しかった」
涙声になっていくかすみにつられそうになる。
「勝手すぎる」
「ごめんね」
「友達になろうって言ったのも、毎日話しかけてきたのも、いつも隣に居たのも、全部かすみの勝手じゃん」
「えへへ、許して」
そう言って泣きながら笑おうとするかすみは、私の知っている友達だった。学校の七不思議だろうと、図書室のユーレイだろうと、かすみはかすみで、私のよく知る友達だった。
なのに私の目の前で、消えていこうとする。どこかへ行ってしまおうとする。私をこの嫌な現実へ置いていこうとする。
「かすみ」
私が呼びかけるとかすみはほとんど薄くなった両手で、ほとんど薄くなった目をこすった。
「もうなにも見えないや。ユーレイの私と友達になれたんだから、人間の友達なんてすぐ作れるからね。うたこ、がん」
言葉の途中で、かすみの姿は消えてなくなった。
指輪を握った手でかすみの居たあたりを触ってみる。何もない。ただの空気だった。指輪ももう光っていない。ただのみすぼらしい私の指輪。プラスチックのおもちゃの指輪。
「かすみ……」
こぼれた声が図書室の中で響いた。自分の言葉に、どくんと心臓が跳ねた。
「なんで」
指輪を握った手で、めちゃくちゃに空を殴った。
「なんでなんでなんで」
バランスを崩して転んだ。身体が痛い。でも涙が出るのは、転んで痛いからじゃない。
「意味わかんない」
床をめちゃくちゃに拳で叩く。ゴッゴッと鈍い音と、私の鼻をすする音と、呼吸音と。
叫びたかった。どうして居なくなったの。どうして友達になったの。どうして教えてくれなかったの。どうして消えたの。どうして楽しかったの。どうして嬉しかったの。どうしてこんなことになったの。どうして、どうして、どうして。
「ぅう……」
子供みたいに泣けたらいいのに。小さな嗚咽が口から漏れるだけで、言葉も感情も私の外に出て行かない。出て行くのは、止まらない涙と鼻水とよだれ。
「ぅぁ……」
駄々っ子のように、床に寝そべって泣いた。
時々拳で床を叩いた。
ぐちゃぐちゃのどろどろになって、自分の身体と床が溶け合う頃、私の記憶はぷつんと途切れた。
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