第7話

 夜、春風はゆっくりと温泉に浸かる。


 湯殿の篝火や、館内の灯火は龍臣の役目。気がつくとどこも滞りなく明るく照らし出されている。人外の能力というのは計り知れないものがある。

 乳白色の湯を手に取り、するするすべり落ちていく様を見てから、春風は肩や腕に触れる。

 一ヶ月で、肌はどこもかしこも劇的なまでにつるつるとなめらかになり、髪までつやつやになった。水仕事をしていても手荒れすらしない。


(ここにきたときに体についていた痣や、古い傷跡も……。あのとき「肌はなるべく見ないようにした」と水明さんは言っていたけど、きっと気づかれている……。いまは嘘みたいに消えた)


 ――僕は、春風さんを僕の家族に迎えたいという意味で言っています。いつまでもここで僕と暮らすんです。必ず大切にします。


 春風の料理をいたく気に入っている水明だけに、人里に帰ってほしくないという圧を最近強く感じる。


(心配しなくても、私にはここ以外どこにも行く場所はないというのに。人並みに結婚したり家庭をもつことはもう無いでしょう。だけど、水明さんがそばにいてくれるなら……)


 そこで、胸が刺すように痛んだ。

 人外とはいえ、見た目は若い男性の水明だ。いつか伴侶を迎えるのかもしれない。それでも春風をこのお屋敷には置いて「大切」にしてくれるかもしれないが、仲睦まじい二人を見ながら働き続ける自信が春風にはない。


 そもそも水明はいったい何者なのだろう。

 春風は、湯を手ですくいあげる。手首を伝い落ちる湯に、愛しむようにそっと唇を寄せた。


(何者かはわからないけれど、今が一番幸せです。私も、水明さんのおそばにずっといたい)


 * * *


 明くる日のこと。

 悪夢はなんの前触れもなく訪れた。


「おお、春風。大変なことになった。早くうちに戻ってきておくれ」


 掃除の合間に外へと出ようとした春風は、玄関前で伯父と顔を合わせることになった。予期していなかった出来事に、春風は呼吸も心臓も止めてしまいそうなほど驚いて目を見開いていたが、伯父は何も気にせずに切り出した。


「今こそ恩を返すときだ、春風。実は留奈が、嫁ぎ先の安積アヅミ屋で、御子息の目の届かぬところで番頭と乳繰り合ったなどと……。この上は、どうしても所帯をもたせてほしいというのだが、結婚間近のこの時期に息子の顔に泥を塗られたと大旦那様はひどくお怒りだ。それならそうで、我が家には春風という娘がもうひとり。幸いお前は見目が良いし、女学校にも通わせていた。はじめから縁組はこちらとのことであったと、周囲に押し通してしまえばいいということになった。大旦那様もお前を見かけたことがあると乗り気で、まずはその娘を早う連れ帰れと」


 いきなり腕を掴まれて、春風は「痛ッ」と小さく悲鳴を上げる。それから、負けるものかと気合で床を足で踏みしめ、断固として言った。


「伯父様、育てていただいた御恩には感謝いたしますが、私はすでに家を出た身です。戻りません」


「聞き分けの悪い奴め。女中だなんだというが、どうせ宇田川の当主のお情けでも受けているのだろう。男を知った体で街に戻ってきてもお前のような女にはまともな縁談など無い。これはお前の為でもあるのだ。ご子息を色で虜にして言いくるめ、よく安積屋の大旦那様にお仕えし、精一杯身を粉にして働きなさい。留奈への怒りをといてもらえるように」


 あまりにも身勝手な言い分。春風はなんとか腕を逃れて玄関ホールへと身を滑らす。


(水明さんっ!)


 心の中で叫んだ瞬間。

 春風と伯父の間の空間に、吊り下がっていたシャンデリアが勢いよく落ちてきて、床すれすれでぴたりと止まった。


「薄汚い人間の匂いがする」


 地の底から響き渡るような低音が、玄関ホールの階段を下りてきた水明の口から発せられた。

 いつもの眼鏡をしていない水明は、研ぎ澄まされた美貌もあらわに、春風の背後の男を睨みつけていた。


「よくも春風さんに触れたな。その腕切り落して魑魅魍魎共に食わせてやろう。味をしめた奴らがお前の体すべてを食い散らかすため街まで追いかけていくだろう。ついでに同じ血を持つ者も余さず食らってしまえば良い」


 怒気をはらんだ声に、伯父がすくみ上がるのを感じつつ、春風は水明を見上げて言った。


「それでは、私まで食べられてしまいます! 血の繋がりが、ありまして」

「大丈夫だよ、春風さん。あなたは僕の家族になってしまえば良いんです。人間とのつながりを断って」


(人外のお誘いだーー!!)


 ひぃっと悲鳴をもらして、伯父がその場にへたりこむ。

 長羽織を翻して階段を下りてきた水明は、春風を背にかばい、硬質に澄んだ声で告げた。


「幼い春風さんに軒先を貸し、この年齢まで生かしてくれたことに関しては礼を言おう。しかし、その年月で春風さんに負わせた心身の傷はあまりにも多い。今この場で貴様を引き裂いて血の海に沈めたいところだが、もはや貴様の命程度では償いきれはせぬ。この先、貴様に連なる者たちの身には『龍の逆鱗』に触れた呪いが刻まれる。警告を無視し、非道の罪を犯したときには、すぐさま私の手の者が目印めがけて向かい、その身を引き裂くだろう。ただの脅しだと思うなよ。……行け」


 水明の最後の命令により、呪縛を解かれたように立ち上がった伯父はばたばたとドアを出ていく。

 それを見送ってから、水明は春風を振り返った。


「春風さん、辛いのによく言い返していましたね。怖い思いをさせてごめんなさい。あの男に、この屋敷までの侵入を許したのは僕の落ち度だ。二度とここには来られないようにするから」


 にこっと笑みを深めて言われて、ふっと緊張の切れた春風はその場にしゃがみこみそうになる。

 大股に距離を詰めてきた水明が、その春風を腕の中に抱き寄せた。


「水明さん……、助けてくれて、ありがとうございます」

「うん。春風さんはすでに、僕にとってかけがえのない存在です。大切にします。僕とここでずっと一緒に暮らしてください。これは求婚の意味です。受けていただけますか」


 水明の腕の中で、春風は「はい」と答えた。ありがとう、嬉しいです。そう言って、水明は春風の額に唇を押し付けた。


 * * *


 湯気が空まで立ち上る星月夜。

 湯殿にほど近い岩場で、月を見上げる猫と青年。


「始末しなくて良かったのか、あの人間」

「招かれざる人間は来られないように、この家の周りに結界をめぐらせました。それに、あの男とその家族には僕の呪いがあります。春風さんを傷つけたことを、僕は決して許しません」


 のんびりと猪口を傾けて、酒を飲みながら話し込む。

 やがて、青年は背後を振り返り、声を張り上げた。


「春風さん、お湯加減いかがですか?」

「はい、とても心地よいです!」

「それは良かった。僕も一緒に入って良い?」

「え……ええっ。だ、だめです。あの、もうあがります」

「いいよ、冗談。驚かせてごめんね。ゆっくり入っていて」


 言い終えて、青年、水明はふふっと笑みをこぼした。

 猫から少年の姿になった龍臣が、ちらりと嫌そうな顔を向ける。


「お館さま、気持ち悪い」

「このまま春風さんが毎日温泉に入り続けてくれれば、晴れて春風さんも人外ですね。楽しみだな」

「早めに打ち明けなよ、不老の湯だって。龍神さま」

「求婚は受けてくれましたので、追々」


 あははは、と水明は軽やかな笑い声を上げた。



 とある山奥の秘湯、その名も龍神の湯。

 効能は不老とまことしやかに伝えられているが、その地に住むものの招きなくしてひとはたどりつくことができないと、後の世の伝承には記されている。


 そこには、涼しいまなざしの龍の化身と麗しい乙女の夫婦が、仲睦まじく暮らしているという。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

【コミカライズ】龍神秘湯物語~美味しいごはんと猫と温泉があれば~ 有沢真尋 @mahiroA

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ