第6話

「春風さん」


 その優しい声に、丁寧に名前を呼ばれることに、一月過ぎてようやく慣れた。

 水明は旦那様と呼ばれるのは好まず、名前で良いと言う。「澄さんは『坊っちゃん』と言っていました」と春風が言うと「いつまでも子供扱いをして、あのひとは。春風さんはいけませんよ」と軽く睨みつけられた。


「水明さん、今日は凍り豆腐ときのこのあんかけ、さつまいものゆず煮と、緑豆の炊き込みご飯、それに根菜の味噌汁です。山菜のお浸しも」

「ああ、美味しそう。頂きましょう」

「手についたインクや墨は洗い落としてください」


 水明は、おとなしく流しに立って水の張ったたらいに手を沈めて洗い始める。

 部屋にこもりきりと言われていた水明だが、春風が来た当初「館内に慣れるまでは遠慮なく声をかけてください」と、書物仕事をほどほどに切り上げてよく春風に気を配ってくれていた。

 そのうちに、仕事量を以前のように戻しても「この規則正しい食生活に慣れてしまいました」と、食事時には必ず台所に姿を見せるようになった。

 今では、朝も晩も、二人で向かい合って和やかに会話をしながら食事をするのが習慣になっている。


 お屋敷には、長テーブルの置かれた、立派な食堂もある。いつでも使えるように掃除をして清潔に保っているが、水明はそこまで食事を運ぶのをよしとしない。台所の隅のテーブルで、春風と近い距離で食事をとりたいと言う。

 綺麗に洗った、骨ばって長い指。両手をあわせて「いただきます」と言ってから箸を手に取る。同じように自分の作った料理に向かい、春風も箸を手にした。

 水明の手が茶碗を持って一口ご飯を食べるのを、箸が輪切りにしたさつまいもをはさみあげて口に運ぶのを、さりげなく窺う。


「今日もとても美味しいです」


 にこりと品良く微笑まれて、春風はほっと胸を撫で下ろした。


「ありがとうございます。毎日のことでも、とても緊張します。私は家族から気の利かない人間だとずっと言われてきたので、そのがさつさが料理にも出ていないか心配で」

「それ本当に、春風さんのこと? 僕からすると、お料理の味付けも本人も、とても繊細に感じます」

「まさか。いつも、言わなくても良いことを言うとか、人の気持ちがわからないと言われてきました。実際に、そうなんです。私、何をしてもひととずれているんですよ。だから、料理の味付けだって、本当はずれているんじゃないかって」


 育った家ではいつも罵倒されていた。思い出して涙が浮かびそうになり、あわてて目を瞬く。

 水明はそれを見逃す気はないらしく、眼鏡の奥から純黒の瞳で春風をじっと見てきた。


「春風さん。そういうときは、無理に笑わなくて良いです。あなたを傷つけた人間のことなんて、もう思い出さないで欲しい。僕は、春風さんともっと早く会えていたらと、自分に怒りを覚えています。その過去は変えられないけど、この先の未来は守れる。春風さんには僕がついています」

「ええと、はい。このお屋敷で働けて、私も幸せです。できるだけ長くお勤めしたいと……」

「あなたの謙虚さを思えば、そういう返事になるか。僕は、春風さんを僕の家族に迎えたいという意味で言っています。いつまでもここで僕と暮らすんです。必ず大切にします」


 真剣すぎる水明のまなざし。春風の次の言葉を待っている。


(家族に……、いつまでも? 水明さんと、私が?)


 そこに、カラリと引き戸の開く音がして、やけに大きな真っ白の猫が入ってきた。


「龍臣くん、おかえりなさい」


 春風が声をかけると、猫は瞬く間に、猫耳少年の姿に変化した。


「ごはんごはん! おなかすいた! わーっ、美味しそうっ」


 言ったそばから、自分で食器を手にしていそいそとよそいはじめる。春風が立とうとすると「いいって」と毛を逆立てるので、手は出さない。

 ちらっと見ると幸せそうにお玉をもって味噌汁を椀に注いでいた。

 猫とひとを行き来する龍臣は、猫又というらしい。人間ではない。


 他にも誰かがお屋敷にはいるようだが、春風はまだ顔を合わせていない。龍臣のように「人外枠」なので、必要があるときまでは認識出来ないだけだと、水明は言う。


 結局この日は、水明との会話はそこで有耶無耶になってしまった。

 

 * * *


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