第5話

 夕方までに屋敷一階を歩き回り、台所を端から端まで調べ、かまどで米を炊いた。味噌汁も作り、澄の作り置きしてくれていた小魚の甘露煮と一緒に食べた。その間、他の使用人と顔を合わせることはなかった。

 澄の書き置きによれば、食器を台所のテーブルに用意しておけば、旦那様も他の使用人も自分でよそって食べるということ。それは深夜のこともあるし、早朝のこともある。「待つだけ無駄」とはっきり記されていた。

 それでも、夜ともなれば誰かしら食事に来るだろうと春風は念の為しばらく待ったが、一向にその気配はない。


(いったいこのお屋敷の使用人はどこに隠れてしまっているの? 早めに顔を合わせたいのに)


 春風は一度部屋に戻ってから、温泉に向かった。

 洋風建築一転、温泉へと至る館の奥は豪勢な和風の作りで、庭には篝火が焚かれている。

 他には誰もいない脱衣所に着くと、春風は手早く身に着けていたお仕着せを脱ぎ、温泉に向かって――


 その場に置いてあった酒を飲み、意識を失ったのであった。


 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆


 目が覚める前、枕元で話し声がしていた。


「お館さま、人間の女の子ですよ。女の子! お館さまが人間じゃないなんて知られたら、裸足で逃げられますからね!?」


(聞いちゃった)


 春風は呼吸を乱さないように細心の注意を払った。瞼がぴくっと反応してしまったが、痙攣したということにして見逃してほしい。


「裸足で逃げ出してもどこへも行けないよ」

「お館さま、そういう話じゃない。死ぬから。この館から不用意に人間が外に出たら、魑魅魍魎に食われて死ぬから。この子、美味しそうだし」


(熊とか狼じゃなくて? このへん、魑魅魍魎が出るんだ……? 魑魅魍魎って何?)


 春風は「うう……」とうめき声を上げてしまった。

 息を止めて誤魔化そうとしたときには、すでに話し声は止んでいた。


「起きましたか、春風さん」


 静寂を割ったのは、若い男性の声。観念して、春風は瞼を開ける。

 目を刺さない程度にやわらかな明かりが灯されており、飴色の木材の天井がうっすら見える。天蓋。割り当てられた私室の寝台かもしれない。

 顔を横に向けると、背の高い人物が立っていた。


 顎の線まで伸ばされた、さらさらの黒髪。細面の顔にはごつい黒縁の角張った眼鏡。すっと通った鼻筋と薄い唇。シャツに、深緑色の長羽織をゆったり羽織って、腕を軽く組んでいる。


「宇田川の……旦那様……?」


 思った以上に体が重く、口もうまく動かない。起き上がることもできないまま春風が問いかけると、書生風の青年は小さく頷いた。

 

水明スイメイです。春風さんは温泉で倒れていました。起きなくて結構です。眠れるようでしたらこのまま朝まで」


 低く、胸の奥に深く染み込む美声。目を瞑った状態で聞いた声と同じなのに、印象が違って聞こえる。この落ち着き払った態度のせいだろうか。

 無骨な眼鏡の向こうに、純黒の瞳。

 潤んだ瞳でぼんやりと見返してから、春風は唇を震わせてなんとか言葉を紡いだ。


「人間じゃ、ないんですか?」

「人間ですよ」


 即答。春風はゆっくりと瞑目し、唇を噛み締めた。

 

(……さっきの会話、明らかに人間のする会話じゃなかったけど、私が気づいているって知ったら、旦那様は困ってしまう。知らないふり、知らないふり)


 もう一度目を開いて、口元に笑みを浮かべた。


「すっごく人間ですね」

「……ん?」

「私が今まで出会ったことがある中でも、一、二を争う人間だと思います。旦那様は、人間の中の人間です。間違いないです」


 まわらない口を懸命に動かし、微笑んでみせる。

 水明は目をしばたたいて、春風の顔を見つめてきた。やがて、ひそやかな声で「嘘だ」と呟いた。


「君はいま、僕に嘘をついた。もしかして、さっきの会話、聞いていたね」

「なんのことでしょう!? 人間を見て人間って言っただけですっ!」

「それこそ嘘だ。ふつう、人間を見て人間かどうかは話題にしないよね?」

「しますします。あのひと人間だなぁ~とか、いや~人間だわ~って」

「君、今まで生きてきた中で本当にそんな会話したことある? 何を見て、誰とどんな状況で?」


 くっ、と春風は歯を食いしばって、手を持ち上げると、目元にぱたんと置いた。


「言いません。すみません」


 ちらっと手指の間から目を向けると、いつの間にか水明の横には、真っ白な髪の子どもが立っていた。群青の紬に、綿の入った半纏。顔立ちは人形のように精巧に整っており、猫のような目をしている。

 そして、どう見ても白髪の間に猫のような耳まで。


(猫耳……?)


「お館さま、いきなりバレてらぁ」

龍臣タツオミが大きな声で、人間じゃない、なんて言うから」


 ぼそぼそと言い合う二人を見て、春風は寝台に腕をつき、身を起こそうとする。手首に力が入らず、くた、と崩れ落ちかけたところで、水明が素早く腕を差し伸べて背を支えてくれた。

 ふわりと、抱き寄せられた胸元から焚き染めた香が仄かに薫る。ぬくもりに包み込まれて、春風は間近な位置にある水明の顔を見上げた。


「人間じゃないなら、何なんですか。温泉の神様ですか?」

「どうして?」

「温泉みたいに、温かいので」


 くすっと、水明は笑って春風の顔を覗き込んだ。


「春風さんが作ってくださった味噌汁、とても美味しかったです。具が沢山で。龍臣をはじめ、みんなで取り合いになりました」

「お口に合って良かったです。明日からお料理いっぱい作りますね」

「それは楽しみ」


 そこで水明は、眼鏡の奥の瞳に躊躇いを浮かべて告げた。


「人外枠ということで、許して頂けたら僥倖です」

「何をですか?」

「着物を着せるとき、なるべく肌は見ないようにしました」


 目が合った。困ったように微笑まれた。春風はそーっと視線を自分の胸元に滑らせ、見たこともない赤地に百合柄の浴衣を身に着けているのを確認した。


(温泉で、裸で倒れて……)


 カーっと頬や頭にまで血が上ってくる。

 龍臣がぼそりと言った。


「顔から火吹いてんで。人間もなかなかやるなぁ」


 * * *


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